シュピーゲル 〜不眠の傭兵と猛毒の令嬢、17歳の暗殺事件〜 作:氏家まさら
穏やかな陽光が差し込む昼下がり。
髪を三つ編みにし、ソファに座ったエルザが、机の上に広げられたチェス盤と教本を凝視していた。カレンは部屋の隅から、その様子を眺めていた。
「……ッ!」
エルザがチェス盤を挟むように、握った両手の拳を置いている。握った両拳が、小刻みに震えていた。
「……あぁっ!」
バン!
振り上げた両拳が、そのまま盤の両脇へ叩きつけられた。衝撃で、盤上に並んでいた駒が、床へと転がり落ちた。
「……もぅ!」
ドスッ。
彼女は教本を鷲掴みにすると、そのまま乱暴に床へ投げ捨てた。
バッ…!
エルザはソファから立ち上がった。やや前かがみになり、足は蟹股に開き、肘を曲げて左右に腕を広げている。
カレンは一連の振る舞いを眺めていた。
「……
「
エルザがカレンの方を向き、激しい口調で怒鳴った。
「
「そうよ!!」
彼女は畳みかけるように叫び、顔を背けた。
「……ああ……!もう!……今話しかけないで……!!ムシャクシャする!!」
エルザが、自分がいつも座っているソファに向けて、左足を力任せに振り抜いた。その脚がソファの側面に当たる直前、カレンの右足が鋭く割って入った。
ドッ!
鈍い音と共に、二人の脚が衝突した。同時に、柱時計の分針がカチリと音を立て、一分を進めた。
「……あ」
彼女は自分を遮ったカレンの顔を見上げた。
続けてカレンが口を開いた。
「……おい。暴力令嬢。アンタのその鋭い蹴りじゃ、腹の
カレンは容赦なく言葉を重ねる。
「むしろアンタが
「……」
エルザは一瞬、固まった。
「……うっ!」
だが直後、強烈な痛みが腹部にぶり返し、彼女はその場にうずくまった。エルザの震える左手が、カレンの胸に置きかれた。カレンは無言のまま、右手をその手に添えた。
「……よっと」
カレンがエルザの身体を軽々と抱きかかえ、お姫様抱っこの姿勢を取った。
「そらよ……と」
カレンはエルザをソファに仰向けで寝かせた。それから手際よく体勢を変えさせ、カレンの方へ頭を向ける形で、胎児のポーズをとらせた。
「うぅぅうぅぅ……ぬぁぁあぁ……」
カチ…カチ…。
部屋には、エルザの呪詛のような低い呻き声と、柱時計の秒針の音だけが重苦しくこだましていた。
「……あっちの薬だけ届かないのよ……
エルザはソファの上で身体を縮こまらせ、銀色の髪を振り乱して呻いた。彼女の左手は、痛みの中心である腹部を強く押さえている。
「そりゃそうだ。アンタをのたうち回らせるのはヤツらの日常業務さ。むしろ問題なく歯車が回ってるってことよ」
カレンは近くの丸椅子に座り、冷めた眼差しでその様子を見下ろしていた。
「お腹が抉られるみたたたぁーーい……!」
エルザの叫びが絶望のビブラートを伴って室内に響く。
「……しかしな。根っこは
カレンは淡々と言葉を継いだ。
「今アンタの腹が
「アンタに不摂生を語られるなんて、それこそ極上の
エルザは荒い呼吸のまま言い返した。
「『
「へっ!私のは『職業病』なんだよ。お前のは『職務怠慢』……一緒にすんな」
カレンは鼻で笑った。
部屋には引き続き、エルザの呪詛のようなうめき声と、柱時計の規則正しい秒針の音だけがこだまする。
「……ねぇ。アンタ、何か薬持ってないの?」
エルザが朦朧とした意識の中で、縋るようにカレンを仰ぎ見た。
「アンタなら持ってるでしょ?……どうせ非合法なヤツとか」
エルザがカレンを仰ぎ見た。
「……まあ、ないこともない」
カレンはごそごそと懐をまさぐった。
「コイツは『
カレンが左手で薬瓶を掲げた。
「古参の傭兵だけが知ってる劇薬だ。痛みは瞬時に消えるが、引き換えに胃をボロボロに焼く。……一週間、血痰混じりの飯を食う覚悟があるなら飲むか?」
「そんなの地獄で地獄を上書きするだけじゃない!バカじゃないったたたー……!」
エルザは即座に拒絶し、再びソファに顔を埋めた。室内に、再び無慈悲な秒針の音とうめき声が戻る。
「あぅぅいぅぅ……ぐぁぁあぁ……ぁあぁ…」
カチ…カチ…。
「……そういえば、アンタ傭兵だったわよね?戦場ではどうしてたの?……色々と——困るでしょ?」
エルザは荒い呼吸のまま、意識を逸らすように問いかけた。
「……そうだな。仕方ない、特別に教えてやろう。あくまで『私』流だがな」
カレンは無造作に右手の人差し指を立て、静かに語り始めた。
~次回『アレの二日目 ~ 背中の温もり ~』へと続く ~