シュピーゲル 〜不眠の傭兵と猛毒の令嬢、17歳の暗殺事件〜 作:氏家まさら
エルザの自室の窓から夕陽が差している。
部屋には、チェス盤に向かうエルザの姿が見えた。今日は髪をラフなお団子型にまとめた
「……ああ、今日はこのくらいにするわ」
エルザはソファに深く腰掛けたまま、うーんと両腕を伸ばした。
「ふあぁ……」
そのまま立ち上がると、左手で口を覆いながら盛大な欠伸を漏らす。
ドン!
「きゃあ……!」
エルザが何かに躓き、前のめりに転倒した。
「……ん?」
カレンが首を回し、視線だけでエルザの様子を伺った。エルザが躓いたのはカレンの
「……った~」
カレンがため息をつき、エルザの方へと歩を進めた。
「ちょっと!誰よこんなところに荷物を置いたの?危ないでしょ!」
エルザは床に胡坐をかいた姿勢で、右手で拳骨を振り上げながら抗議した。カレンは傍で立膝をつき、無言でエルザの身体を観察する。
「……怪我はねえようだな」
カレンはエルザから視線を外し、淡々と荷物を鞄に戻し始めた。
「……」
エルザも散らばった荷物を拾い始めた。
「……ったく。やるわよ」
エルザの手が、ある物の上で止まった。
「……?」
彼女はそれを手に持ち、顔の高さまで上げた。
「これは?」
カレンの表情が僅かに変わった。彼女はエルザの手からそれを優しく取り上げる。
「巻きタバコさ」
「巻きタバコ?パイプとかと違うの?」
「それはお貴族様が吸う、お上品なモクな。私たち傭兵の間じゃもっぱらコレさ」
カレンは巻きタバコの小箱を目の高さまで持ち上げた。
「どうせ非合法な粗悪品でしょ?」
エルザがジト目を向けると、カレンは開き直ったように肯定した。
「よくわかったな。そうだよ。だがな、これは元々は私のモンじゃねえ」
カレンは視線を少し遠くへやり、淡々と言葉を紡いだ。
「昔いた
「ダチ?ああ、友達のことね。なんだ、アンタみたいなボロ雑巾にも友達なんているんだ」
エルザは言葉の変換に一瞬の間を挟み、すかさず嫌味を投げた。カレンはそれを受け流して話を続けた。
「良いヤツだったぜ。酷い面食いで、客を選ぶ面倒な
「梅毒であっさり逝っちまったがな」
カレンは何でもないことのように付け加えた。
「……」
エルザの表情が止まった。
「ちなみに、好きな体位は馬乗りだったらしい」
「え!?待って。そこを詳しく……じゃなくて、今そっちの話題は要らないわよ!」
「……ッ」
カレンは、エルザを引かせるつもりで言った下世話な話に、逆に食いついてこられたことに自分の方が引いてしまった。
カチ…カチ…。
「ここのところご無沙汰だったが……」
カレンは右手でタバコを掴み、口元へ運んだ。
「……たまには一服するか」
タバコを口に咥えたまま、彼女は再び右手で懐をまさぐった。カレンが右手でマッチ箱を取り出す。箱をスライドさせ、左手でマッチ棒を一本摘まみ出した。
パシュッ。
カレンは左手のマッチ棒を、自らの左顔面に刻まれた深い切り傷に勢いよく擦りつけた。摩擦が火花を生み、マッチの先端に火が灯る。
エルザは驚愕に目を見開いた。信じられないものを見るような表情を浮かべながらも、その視線はカレンの傷跡に釘付けになっていた。
ジュ。
カレンは右手でタバコを支え、左手の火をタバコの先端に押し当てた。
二度、スパスパと短く吸い込む。タバコに火が点いた。カレンは左手のマッチ棒を上下に振って火を消すと、そのまま窓の外へ放り捨てた。
「……ふぅ」
右手でタバコを口から離す。カレンの口から、紫の煙がゆらゆらと漂い始めた。
「相変わらずひでぇ味だ」
カレンは目を細めた。
「……アンタ、イカれてるわ」
エルザはカレンの傷跡を見つめたままだった。
「惚れんなよ?火傷じゃすまねぇぜ」
「はあ?アンタが私に惚れてんでしょ?正直に言いなさいよ」
「正直に言うと、お前は好みじゃねぇ」
カレンはプカプカと煙を吐き出しながら、素気なく答えた。
「はあ!?じゃあどんなタイプが好みよ?」
エルザがカレンに詰め寄った。
「金払いの良いヤツ」
カレンは再び煙を吐いた。
「……!」
エルザの身体がプルプルと震え出した。
「なら払ってやるわよ!それ私にもよこしなさい!」
「あ?やめとけ。火遊びは危険だぜ?」
カレンは口に咥えたタバコを、エルザを煽るように上下に動かした。
「子供扱いしないで。もしかして踏み込まれるのが怖いの?おばさん?」
エルザは真っ直ぐにカレンの瞳を射抜いた。
「たまには
カレンは濁った紫煙を吐き出した。彼女はタバコを口から外し、右手で持った。
「ほれ」
カレンは勢いよく右手のタバコを、エルザの口元へと差し出した。今にも唇が触れそうな距離だ。
「何よ。これを吸えっての?新しいのを出しなさいよ」
「もうこれしかねぇ」
「嘘よ。さっき見えたもの。そんなにコレを私に吸わせたいの?」
カレンの眉毛が僅かに動いた。
「見間違いだよ。どうした?怖いのかお嬢様」
「……!」
パク。
エルザは目をギュッと閉じ、突き出されたタバコに勢いよく食らいついた。彼女は両手でカレンの右手を掴み、タバコを固定する。
スゥーー……。
エルザが激しく煙を吸引し始めた。カレンの眉が、先ほどよりも大きく跳ね上がった。
「……おい、もうそのへんに…」
しかし、エルザは止まらず、更に深く吸い込んだ。
「ゲフン!ガフン!あ、無理。ゲヒ!グひ!あっ、水!ギャフ!カレン!ヒュー!ぐほ!」
エルザの目、鼻、口、そして耳から大量の煙が放出された。彼女は顔を歪め、激しくのたうち回る。
「……言わんこっちゃねえ」
カレンはエルザからタバコを奪い取り、自分の口に咥え直した。
「ゲフ!ガフ!ごほごほ!」
「お前にゃまだ早えよ。ま、軽い火傷で済んで良かったな」
カレンは再び紫煙を吐き出し、元のペースを取り戻した。
「ごほん!ごほん!ああ、ガフ!マジ、ガフ!無理、ぐほ!カレン!ガフン!」
「……うるせぇな」
エルザの壮絶な咳き込みと顔芸に、カレンは眉根を寄せた。
「ゲフン!本当に、ガフン!なんなの、ごほ!ひどい、ごほごほ!あじ。ごほごほごほ!」
「タバコが不味くなるぜ」
カレンの口から妖艶な紫煙が舞い、エルザの下品な咳が部屋にこだまし続けた。