シュピーゲル 〜不眠の傭兵と猛毒の令嬢、17歳の暗殺事件〜 作:氏家まさら
執務室は玄関や廊下をも凌ぐ豪華なゴシック様式であった。応接間の上座には、ひとりの貴婦人が座り、傍らには若い
貴婦人は、年の頃が三十代後半から四十代前半くらいの成熟した美貌――流れるような
吊り上がった鋭い瞳と、揺らぎ一つない凛とした
貴婦人の傍らに控えるのは、二十代前半くらいの
糊のきいた黒のシックなメイド服に、純白のカチューシャとエプロン。一見すると完璧に躾けられた奉公人だが、その所作の端々には、どことなく
モーゼスが恭しく、しかしどこか見せつけるような動作で上座を示す。
「それではご紹介致しましょう。こちらにいらっしゃいますのは、シュピーゲル家の長子――エレノア様でございます。今回のアナタの正式なご依頼人です」
「……ふふ」
エレノアは扇で口元を隠し、値踏みするような瞳だけで女を見据えた。
「……それではエレノア様に一礼を」
モーゼスが跪くよう、手で床を指し示した。
「……ああ。申し訳ねえ。戦場での古傷が
女はとぼけた調子で言い放つと、左手でポリポリと自身の頭を掻いた。
「……ッ!!」
モーゼスの拳が怒りでプルプルと震え、今にも掴みかからんとする殺気が室内に満ちた。
「……ああもう。いいのよ」
エレノアが扇を軽く振り、モーゼスを制した。さっさと本題に入りなさい、とでも言いたげな仕草だ。
「それに……これくらい図太くないと『
実の妹をゴミでも呼ぶかのように吐き捨てるエレノアの言葉に、女の左顔面の傷跡が僅かに引きつった。
「……は」
毒気を抜かれたモーゼスが深々と一礼する。
「……えふん」
執事はわざとらしく咳払いをして、懐から数枚の紙を取り出した。
「それでは改めて、請負人の簡単な紹介を……」
モーゼスは
「名前は……まあいいでしょう。今は『
先ほどの意趣返しか。『
「……経歴は……ふむ」
さらに紙をめくり直す。
「以前は……他人の家屋に無断で侵入して、物品を
元盗賊から傭兵へと流れた、女の薄汚れた歩みを、モーゼスは淡々と、一言一言に棘を込めて読み上げた。
「……まさに非の打ち所の無いご経歴ですな」
執事は呆れたように、両手の紙を左右に広げて見せた。
「…フッ」
女は鼻で笑った。執事が披露した芸術点の高い
「……あら、今日の紅茶は香りが良いのね。品種は?」
女とモーゼスが言葉の
「カモミールでございます」
「……あなたにお願いしたいことは
エレノアは含みのある笑みを浮かべ、ゆったりと椅子に背を預けた。
「屋敷内も基本的には自由に行き来してもらって結構よ。ただし使用人の
畳み掛けるように言葉を紡ぐ。それはどこか言い慣れた
「……ああ、あと大事なことを言い忘れていたわ」
エレノアは白々しい語り口で、本題へと切り込んだ。
「もし『
極めて平穏な口調で語るエレノア。だがその内容は、実の妹の死を前提とした邪悪な契約だった。
「……ほかに何か質問は?」
エレノアは紅茶に口を付け、女と視線を合わせようともしない。最初から質問など受け付けていないと言わんばかりの態度だ。
「……」
女は鼻で笑うと、やれやれと肩をすくめてみせた。質問などない。彼女はこの「地獄」の
エレノアの口角が吊り上がる。契約成立の合図だった。
「前金は後でモーゼスから受け取って。……モーゼス」
「……は」
名を呼ばれた執事が、恭しく一礼する。モーゼスは女に向き直ると、どことなく懃懃無礼な態度で扉を指し示した。
「それでは今日は初日ですし、私がお嬢様のお部屋まで案内しましょう」
モーゼスが執務室の扉を開ける。部屋を出ようとした瞬間、彼は何かを思い出したように赤髪の
「……おおそうだ、忘れるところでした。……アン」
「はい」
アンと呼ばれた
「……これはアン。長年エレノア様に仕えている
説明を終えると、モーゼスは足早に廊下の方に身体を向ける。
「よろしくお願いいたします」
アンが極めて爽やかに一礼する。女はその胡散臭い笑顔に冷めた視線を向けると、挨拶も返さず彼女の前を横切った。
「……『ビッチ』」
背後から、先ほどの爽やかさが一転、底冷えするような毒が放たれた。アンの口元だけが、嘲笑うように歪んでいる。
「えふん…!」
モーゼスがわざとらしく咳払いをした。
「……ふふ」
エレノアは扇の陰で喉を鳴らした。それはまるで、
「……せめて『ピチピチ』って言いな。赤髪」
女は歩みを止めず、吐き捨てるように返した。そのまま、一切の未練なく豪華な執務室を後にする。
「……はぁ」
モーゼスが深い溜め息をつき、女を先導するように消えていく。
「……今度の
室内には、エレノアの愉しげな笑い声だけが残った。アンは一礼した姿勢のまま、石像のように凍り付いている。垂れた前髪に隠されたその表情を、窺い知ることはできなかった。
~ 次回『独房のドアノブ』へと続く ~