シュピーゲル 〜不眠の傭兵と猛毒の令嬢、17歳の暗殺事件〜   作:氏家まさら

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第四章:鏡像
【第30話】再始動の赤 ~ 先鋭芸術の開花 ~


 自室に戻ったエルザ。右手に解熱剤、左手に鎮痛剤を握っていた。顔の高さまで掲げられた二つの瓶が、窓からの光を反射している。

 

「うう……」

 

 ソファの上では、カレンが苦しげに呻き声を漏らしていた。エルザは左手でカレンの枕元に二つの薬瓶を置いた。アンから強奪したばかりの鍵束も、その横へ乱暴に添える。

 

「……エ……ルザ?」

 

 カレンが囁いた。焦点の合わない視線が、虚空を彷徨っている。

 

「ほら……カレン。薬よ。飲める?」

 

 エルザは左手を使い、カレンの口元へ薬を運んだ。カレンはぎこちない動きで薬を口に含んだ。続けて、エルザが水瓶を唇に当てる。

 

「ぐほぐほっ」

 

 カレンが僅かにむせた。エルザは左手で布を握り、カレンの口元を静かに拭った。

 

 カチ…カチ…。

 

「……ふぅ」

 

 カレンの表情が、ほんの少し緩んだ。

 

「……ふぅ」

 

 エルザも、小さく安堵の溜息を漏らした。ソファに横たわるカレンは、全身がひどい汗に濡れ、熱っぽい呼吸を繰り返している。

 

「……それにしても、すごい汗」

 

「……カレン。……脱がすわよ」

 

 カチ…カチ…。

 

 エルザはカレンのシャツのボタンに指をかけた。一つ、また一つと、丁寧にボタンを外していく。シャツの合わせ目が左右に分かれ、カレンの肌が露わになった。

 

「……!!」

 

 エルザの呼吸が止まった。

 そこに刻まれていたのは、単なる戦場の古傷では片付けられない、()()の積み重ねだった。

 

 エルザは息を飲み、そのままカレンの傷だらけの身体を静かに拭い始めた。

 

「……うっ!」

 

 ソファに横たわるカレンが、突如として激しく苦しみ始めた。

 エルザの表情に、驚きの色が走る。

 

「……ジャッ……ク……何で……私……を……うぅ……!」

 

 カレンは、今にも身体が反り返らんばかりにのたうち回った。

 

 エルザは何も言わず、清拭を続けた。エルザの額には、じわりと汗が滲んでいた。

 

 やがて、カレンの呼吸がほんの少しだけ浅くなる。

 

「……ぅ……リック……」

 

 カレンが、此処にはいない者の名を呼んだ。

 エルザは止まることなく、ただ静かに清拭を続けた。

 

「ぁ……バルト……」

 

 カレンの呼吸が再び、徐々に荒れ始める。

 

「アンネ……嫌だ……!」

 

 カチ…カチ…。

 

 カレンが悲痛な叫びを上げ、再び身体を大きく反らせて苦悶した。

 

「……ミハ……エ……うぅ……!駄目だ……!…行くな……っ!」

 

 カレンの身体が一層激しく痙攣する。

 エルザの眉毛が僅かに動いた。

 

 カチ…カチ…。

 

 カレンの寝顔から、わずかに毒気が抜けていた。呼吸も幾分落ち着いている。

 

「……はあ」

 

 エルザは深く息を吐いた。彼女は濡れタオルを握ったままの左腕を上げ、自分の額に溜まった汗を拭った。

 

「……よし。あとは……」

 

 エルザは左手を顎先に添えた。

 

「そうだ。こういう時は『お粥(リゾット)』よ」

 

 彼女は左手の拳で右掌をポンと叩いた。

 

「……確か以前カレンがくすねたお米(ライス)があったわよね?それと浴室のボイラーを使えば……。何だ、行けるじゃない!私、天才ね」

 

 浴室の入口が映し出される。

 以前行われた沐浴の際とは異なり、湿った熱気だけが重苦しく沈殿していた。エルザが扉を開け、迷いのない足取りで浴室の中へと入っていく。扉は開け放たれたままだ。奥からエルザの独りごちる声が聞こえてくる。

 

「……これがボイラーね。まずは鍋に『お米(ライス)』を入れて」

 

 ジュワ……!

 

 乾いたお米(ライス)が熱せられた金属に触れ、激しく跳ねた。

 

「次に水加える」

 

 バシュー!!

 

 凄まじい轟音と共に、水蒸気が一気に噴き出した。

 

「あとは炊くだけね!」

 

 ゴー……!ゴー……!

 

 ボイラーが唸りを上げ、高貴な令嬢による()()な調理が幕を開けた。

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

 窓から差し込む夕焼けが、室内を赤く染めていた。ソファの上では、カレンが穏やかな表情で眠っている。

 

 トン……。

 

 エルザがカレンの傍らに膝立ちで座り、机の上に何かの器を置いた。

 

「……うぅ……エルザ……か?」

 

 カレンが重いまぶたを僅かに持ち上げた。

 

「だいぶ良くなったみたいね。一時はどうなることかと思ったわよ!大変だったんだからぁ……!」

 

「……」

 

 カレンはぼんやりとした視線をエルザに向けた。

 

「……あ?」

 

 それから、何かを察したように左側の机へ目をやった。

 

「……ああそうだ。弱ったアンタのために、私が『お粥(リゾット)』を作ったのよ!……うれしいでしょ?」

 

 エルザは至って無邪気に、そして誇らしげに告げた。

 

「……うぉ……!」

 

 カレンの目が、驚愕と戦慄で見開かれた。

 

 それは、石のようなお焦げと、パサパサの米、そしてぐじゅぐじゅの米が同居する、まるで多民族国家のような()()()だった。

 

「結構自信あるんだぁ……!はやくアンタに動けるようになってもらわないと私も困るし、これ食べて早く元気になりなさい」

 

 エルザは無垢な笑みを浮かべ、カレンの口元へ器を近づけた。

 

「……や……め……!」

 

 左手で器を傾け、そのお粥(リゾット)をカレンの口内へと流し込んだ。

 

「……むぐ!……うぐ!……ふぐぐ!!」

 

 ずぞ……ずそぞ……。

 

 カレンは異様な音を立ててリゾットを飲み込まされた。

 

「……また……毒かよ……」

 

 カレンは白目を剥き、そのまま気絶した。その口元からは、一筋のリゾットが力なく垂れている。

 

「そんなに美味しかったのかしら。また寝ちゃって。……ふふ。かわいい」

 

 エルザは慈愛の女神のような表情で、カレンの口元を布で優しく拭った。

 

「……?」

 

 ふと、エルザが違和感に気づいた。彼女は自分の左手を、手鏡を覗き込むような仕草で目の前に掲げた。

 

「……血?……いつ付いたのかしら……」

 

 エルザは茫然と呟いた。彼女の左手の指先——人差し指から薬指にかけて——には、僅かな鮮血が付着していた。血のついた左手を見つめるエルザ。夕陽が落ちゆく部屋に、壁時計の鐘が重く響き渡る。

 

 ボーン…ボーン…ボーン…ボーン…ボーン…。

 

 17時の到来を告げる5つの鐘の音が、静寂を塗り潰していった。

 

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