シュピーゲル 〜不眠の傭兵と猛毒の令嬢、17歳の暗殺事件〜 作:氏家まさら
【第30話】再始動の赤 ~ 先鋭芸術の開花 ~
自室に戻ったエルザ。右手に解熱剤、左手に鎮痛剤を握っていた。顔の高さまで掲げられた二つの瓶が、窓からの光を反射している。
「うう……」
ソファの上では、カレンが苦しげに呻き声を漏らしていた。エルザは左手でカレンの枕元に二つの薬瓶を置いた。アンから強奪したばかりの鍵束も、その横へ乱暴に添える。
「……エ……ルザ?」
カレンが囁いた。焦点の合わない視線が、虚空を彷徨っている。
「ほら……カレン。薬よ。飲める?」
エルザは左手を使い、カレンの口元へ薬を運んだ。カレンはぎこちない動きで薬を口に含んだ。続けて、エルザが水瓶を唇に当てる。
「ぐほぐほっ」
カレンが僅かにむせた。エルザは左手で布を握り、カレンの口元を静かに拭った。
カチ…カチ…。
「……ふぅ」
カレンの表情が、ほんの少し緩んだ。
「……ふぅ」
エルザも、小さく安堵の溜息を漏らした。ソファに横たわるカレンは、全身がひどい汗に濡れ、熱っぽい呼吸を繰り返している。
「……それにしても、すごい汗」
「……カレン。……脱がすわよ」
カチ…カチ…。
エルザはカレンのシャツのボタンに指をかけた。一つ、また一つと、丁寧にボタンを外していく。シャツの合わせ目が左右に分かれ、カレンの肌が露わになった。
「……!!」
エルザの呼吸が止まった。
そこに刻まれていたのは、単なる戦場の古傷では片付けられない、
エルザは息を飲み、そのままカレンの傷だらけの身体を静かに拭い始めた。
「……うっ!」
ソファに横たわるカレンが、突如として激しく苦しみ始めた。
エルザの表情に、驚きの色が走る。
「……ジャッ……ク……何で……私……を……うぅ……!」
カレンは、今にも身体が反り返らんばかりにのたうち回った。
エルザは何も言わず、清拭を続けた。エルザの額には、じわりと汗が滲んでいた。
やがて、カレンの呼吸がほんの少しだけ浅くなる。
「……ぅ……リック……」
カレンが、此処にはいない者の名を呼んだ。
エルザは止まることなく、ただ静かに清拭を続けた。
「ぁ……バルト……」
カレンの呼吸が再び、徐々に荒れ始める。
「アンネ……嫌だ……!」
カチ…カチ…。
カレンが悲痛な叫びを上げ、再び身体を大きく反らせて苦悶した。
「……ミハ……エ……うぅ……!駄目だ……!…行くな……っ!」
カレンの身体が一層激しく痙攣する。
エルザの眉毛が僅かに動いた。
カチ…カチ…。
カレンの寝顔から、わずかに毒気が抜けていた。呼吸も幾分落ち着いている。
「……はあ」
エルザは深く息を吐いた。彼女は濡れタオルを握ったままの左腕を上げ、自分の額に溜まった汗を拭った。
「……よし。あとは……」
エルザは左手を顎先に添えた。
「そうだ。こういう時は『
彼女は左手の拳で右掌をポンと叩いた。
「……確か以前カレンがくすねた
浴室の入口が映し出される。
以前行われた沐浴の際とは異なり、湿った熱気だけが重苦しく沈殿していた。エルザが扉を開け、迷いのない足取りで浴室の中へと入っていく。扉は開け放たれたままだ。奥からエルザの独りごちる声が聞こえてくる。
「……これがボイラーね。まずは鍋に『
ジュワ……!
乾いた
「次に水加える」
バシュー!!
凄まじい轟音と共に、水蒸気が一気に噴き出した。
「あとは炊くだけね!」
ゴー……!ゴー……!
ボイラーが唸りを上げ、高貴な令嬢による
◆ ◆ ◆
窓から差し込む夕焼けが、室内を赤く染めていた。ソファの上では、カレンが穏やかな表情で眠っている。
トン……。
エルザがカレンの傍らに膝立ちで座り、机の上に何かの器を置いた。
「……うぅ……エルザ……か?」
カレンが重いまぶたを僅かに持ち上げた。
「だいぶ良くなったみたいね。一時はどうなることかと思ったわよ!大変だったんだからぁ……!」
「……」
カレンはぼんやりとした視線をエルザに向けた。
「……あ?」
それから、何かを察したように左側の机へ目をやった。
「……ああそうだ。弱ったアンタのために、私が『
エルザは至って無邪気に、そして誇らしげに告げた。
「……うぉ……!」
カレンの目が、驚愕と戦慄で見開かれた。
それは、石のようなお焦げと、パサパサの米、そしてぐじゅぐじゅの米が同居する、まるで多民族国家のような
「結構自信あるんだぁ……!はやくアンタに動けるようになってもらわないと私も困るし、これ食べて早く元気になりなさい」
エルザは無垢な笑みを浮かべ、カレンの口元へ器を近づけた。
「……や……め……!」
左手で器を傾け、その
「……むぐ!……うぐ!……ふぐぐ!!」
ずぞ……ずそぞ……。
カレンは異様な音を立ててリゾットを飲み込まされた。
「……また……毒かよ……」
カレンは白目を剥き、そのまま気絶した。その口元からは、一筋のリゾットが力なく垂れている。
「そんなに美味しかったのかしら。また寝ちゃって。……ふふ。かわいい」
エルザは慈愛の女神のような表情で、カレンの口元を布で優しく拭った。
「……?」
ふと、エルザが違和感に気づいた。彼女は自分の左手を、手鏡を覗き込むような仕草で目の前に掲げた。
「……血?……いつ付いたのかしら……」
エルザは茫然と呟いた。彼女の左手の指先——人差し指から薬指にかけて——には、僅かな鮮血が付着していた。血のついた左手を見つめるエルザ。夕陽が落ちゆく部屋に、壁時計の鐘が重く響き渡る。
ボーン…ボーン…ボーン…ボーン…ボーン…。
17時の到来を告げる5つの鐘の音が、静寂を塗り潰していった。