シュピーゲル 〜不眠の傭兵と猛毒の令嬢、17歳の暗殺事件〜   作:氏家まさら

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【第32話】人生に必要な刺激(スパイス)

 昼下がりのエルザの自室。エルザの『教典』と『外典』についての熱い談義が終わった直後、カレンはソファ前のテーブルに、調達してきたステーキを並べていた。エルザはソファに座り、配膳するカレンをじっと眺めていた。

 

 テーブルの上には、ミディアムに焼かれたステーキ、カットされたバゲット、青野菜のサラダ、そして淹れたての琥珀茶(カウフィ)が並べられた。

 

「……よし!食うぞ」

 

「……それにしても、本当に用意したのね」

 

 エルザは意外そうな声を漏らした。

 カレンは背もたれのない丸椅子に、エルザはソファに、それぞれ向かい合わせに座った。

 

 エルザは右手にナイフ、左手にフォークを握ると、ステーキを一切れ分、静かにカットした。彼女がフォークで肉を口に運ぶ裏で、カレンもまた食事を始めている。

 

 パク、モグモグ……。

 

「……ッ!」

 

 あまりの美味さに、エルザはナイフとフォークを握ったままガクンと頭を落とし、小刻みに痙攣した。エルザが二切れ目に突入しようとしたその時、カレンがその動きをやんわりと制した。

 

「……待ちな」

 

「……一体何よ?」

 

 エルザが半眼を向けた。

 カレンは得意げに、自分の雑嚢(サッチェル)をごそごそとまさぐった。

 

「ステーキに欠かせないもんがあるぜ。……これだ」

 

 カレンが左手の掌を差し出した。そこには、黒くて凹凸のある小さな粒がいくつか載っている。右手には、使い込まれた木製の携帯ミルを握っていた。

 

「……何よそれ?どうせまた新しい毒物でしょ?」

 

 エルザが、ジト目でその黒い粒を睨みつけた。

 

「お前本当に何も知らねえんだな。これは——黒胡椒(スパイス)さ」

 

黒胡椒(スパイス)?……へ~。名前は知ってたけど、見るのは初めてね」

 

 エルザはカレンの掌に載った黒くて凹凸のある小さな粒を、珍しそうに覗き込んだ。

 

「……で?これをどうするの?」

 

「……こうすんのさ」

 

 カレンは手にした黒胡椒(スパイス)を木製の胡椒挽き(スパイスミル)の中に入れた。彼女が小皿の上でミルの上部をリズミカルに回転させると、白い皿の上に粗めに挽かれた黒い粒が積もっていく。

 

「これを指ですくってひとなめしてみな?」

 

 カレンは小皿を左手で持ち、エルザに差し出した。

 

「……はいはい」

 

 彼女は無造作に左手の人差し指を伸ばし、小皿の胡椒をたっぷりとすくい取った。

 

 パクッ。

 

 ひとなめどころか、人差し指を丸ごと口の中に放り込む。

 

「……ゴフッ!?」

 

「……何よ!?コレ!……ゴフゴフッ!…やっぱり毒物じゃない。アンタいい加減にしなさいよ!!」

 

 エルザが激しく咳き込みながら叫ぶ。

 

「はははは!!」

 

 その様子を見て、カレンは珍しく声を上げて爆笑した。

 

「アンタねぇ…!」

 

「慌てんな。ここからが本番さ」

 

 カレンは左手の人差し指をチッチッと左右に振った。

 

「……はあ?」

 

 エルザが涙目で睨みつける中、カレンは小皿に残った黒胡椒(スパイス)を、エルザのステーキの上に無造作にパッパッと撒き散らした。

 

「あ!?何すんのよ!!」

 

 彼女は右手のステーキナイフを持ち上げ、切っ先をカレンへと向けた。

 

「……まあ待て、そのままステーキを食べてみな?」

 

「……はあ?もし私をはめたら、アンタをステーキにするからね」

 

 物騒な脅しを吐き捨てながらも、エルザは忌々しそうにナイフを肉へと沈めた。

 

 エルザは黒胡椒の散った肉を一口分切り出した。フォークを握る左手が、小刻みに震える。

 そのまま、ゆっくりと肉を口元へ運んだ。

 

 パクッ!

 

 エルザはステーキを一口丸ごと口に放り込んだ。エルザは目をギュッと閉じたまま咀嚼する。

 

「……っ!!」

 

 エルザの目がカッと見開かれた。

 

 バクバク、バクバク……!

 

 三切れ目、四切れ目と、猛烈なスピードで肉を貪り始める。カレンは、その光景を眺めながら、笑みを浮かべていた。

 

「……っ!」

 

 エルザはナイフとフォークを握りしめたまま、再び身体を小刻みに震わせた。目尻には、うっすらと涙が浮かんでいる。

 

「わかったろ? 人生を楽しむ秘訣は少量の刺激(スパイス)さ。多すぎても、少なすぎても駄目だぜ」

 

 エルザは返事もせず、ひたすら肉を頬張っていた。

 

 カチャ…カチャ…。

 

 やがて、皿の上にはあんなに分厚かったステーキの欠片も残らなくなった。

 

「……ふー」

 

 二人同時に息を吐いた。

 

「どうだ?今日も勉強になったろ?」

 

 カレンが小鼻を膨らませて得意気な表情で問いかける。

 

「……そういえば、人類って刺激(スパイス)を巡って殺し合ったのよね?」

 

 エルザは明後日の方向を眺めたまま言った。

 

「この前、人類史の本で読んで『勉強』になったわ。人間ってバカよね。本当……『勉強』しないわ」

 

 講釈を続けるエルザ。

 

「……かわいくねー」

 

 カレンの笑みが消えた。

 

「あ、でもさっきのステーキは絶品だったわ。また作ってね」

 

 エルザは最後に調子の良さそうな笑みを浮かべて付け加えた。

 

 

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