シュピーゲル 〜不眠の傭兵と猛毒の令嬢、17歳の暗殺事件〜   作:氏家まさら

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【第36話】チェスの閃き ~ 捨て駒の先 ~

 午後の柔らかな光が差し込むエルザの自室。

 

 エルザはソファに座り、机の上のチェス盤を睨みつけていた。カレンは傍らで本の束を抱え、整理作業を続けている。

 

「……城壁(ルーク)で攻めても、騎士(ナイト)で守られて終わり――。何よこの問題、嫌がらせなの?」

 

 盤上には、黒の(キング)歩兵(ポーン)騎士(ナイト)。対する白は、(キング)城壁(ルーク)歩兵(ポーン)だけが残されていた。

 

 エルザは盤面を睨んだまま、次の一手を決めかねている。

 

 一方、カレンは本を整理しながら、時折その盤面へ視線を送っていた。

 

「あっ…」

 

 抱えていた本の束がぐらりと傾く。

 

 カレンは咄嗟に左手を伸ばし、一番上の本を空中で受け止めた。だが、その拍子に左足が机の脚へ当たった。

 

 コツ…。

 

 わずかな衝撃で盤面が揺れ、白の歩兵(ポーン)が前方へ滑った。

 

 一つ先の(ます)で、パタリと倒れる。

 

「なにやってんのよ!」

 

 エルザがカレンを睨んだ。

 

「す、すまん……」

 

 カレンは珍しく素直に謝り、床へ落ちかけた本を抱え直した。

 

 エルザは不機嫌そうに盤面へ視線を戻す。

 

「……?」

 

 倒れた白の歩兵(ポーン)を見つめる。

 

 その駒は、先ほどまでいた場所より一つ前へ出ていた。

 

 エルザの指先が止まった。

 

「……捨てればいい」

 

 倒れた歩兵(ポーン)を起こし、その升へ置き直す。

 

 次に、黒の騎士(ナイト)へ指を伸ばした。

 

 白の歩兵(ポーン)を取る。

 

「ここで……」

 

 今度は白の城壁(ルーク)を摘まみ、盤上を真っ直ぐに滑らせた。

 

 黒の(キング)へ向けて、その進路が開く。

 

 だが、エルザの手は止まらない。

 

 再び黒の騎士(ナイト)を動かし、城壁(ルーク)(キング)の間へ割り込ませる。

 

「……まだ」

 

 白の城壁(ルーク)をもう一度動かす。

 

 黒の騎士(ナイト)を盤上から取り除く。

 

 残された黒の(キング)を見つめ、エルザは小さく息を呑んだ。

 

「……詰み(チェックメイト)

 

 カチ……カチ……。

 

 柱時計の秒針が鳴る。

 

 エルザは盤上から、最初に捨てた白の歩兵(ポーン)へ視線を戻した。

 

「……取らせれば、よかったのね」

 

 エルザは盤上から取り除いた黒の騎士(ナイト)と、最初に捨てた白の歩兵(ポーン)を見比べた。

 

 しばらく黙ったまま、指先で白の歩兵(ポーン)を転がす。

 

「……残すことばっかり考えてた」

 

「良かったなあ……。収穫があって」

 

 何が起きたのかよく分かっていないカレンが、力なく笑った。

 

「アンタがぶつかるからでしょ!」

 

 エルザの怒声が部屋に響いた。

 

「あ、ははは……」

 

 カレンは肩をすくめ、何事もなかったように本の整理へ戻った。

 

 カチ…カチ…。

 

 室内には、柱時計の秒針音と、チェスの駒を置く乾いた音だけが響いていた。

 

 午後の光が盤上を斜めに横切り、白と黒の駒影を長く伸ばしている。

 

 エルザは再び白の歩兵(ポーン)を一つ前へ進めた。

 

 

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