シュピーゲル 〜不眠の傭兵と猛毒の令嬢、17歳の暗殺事件〜 作:氏家まさら
屋敷の入口を出た二人は、正面の門に向かって歩き出した。
左側にカレン、右側にエルザが並ぶ。
カレンは右手でエルザの左手を引き、前を歩いた。
門は開け放たれた状態だった。
その傍らで、カレンは
二人は門を抜け、雪が深く降り積もる高原へと足を踏み入れた。
並び順は変わらず、左にカレン、右にエルザ。今度は互いに手をつなぐことなく、並んで歩く。真っさらな雪原の上には、二人の足跡が刻まれていった。
ザ…ザ…。
屋敷から大きく離れた地点で、エルザが足を止め、遠くの一角を指差した。
カレンも静かに頷いた。
ザ…ザ…。
ザ…ザ…。
二人は再び歩き出した。今度はエルザが先頭に立ち、カレンがその後ろから付いていく。緩やかな坂を登り、二人は丘の頂へと辿り着いた。
ザ…。
丘の上には、白銀の雪に埋もれながらも鮮やかに色づく——アネモネの花畑が広がっていた。二人の視線の先には、どこまでも続く広大な雪原が広がっている。
その中心には、かつて二人が囚われていた巨大な屋敷が、今は小さな模型のようにぽつんと佇んでいた。
「……外から見ると、小さいのね。あそこ」
「あんなちっぽけなガラクタに、私はずっと怯えていたんだわ…」
エルザが独り言ちた。
傍らでは、カレンが足元のアネモネに視線を送っている。
「アネモネ……?チッ、この季節に咲く花じゃねぇんだがな。世界が狂ってると、土の下までトチ狂うらしい」
エルザは無造作な動きで一輪のアネモネを摘み取った。左手にその花を携え、彼女は静かにカレンの背中へと歩み寄る。
カレンは周囲の地形へ視線を巡らせていた。
「……それにしても、こんな場所があるなんてな。刺客が潜むにはうってつけの場所だ」
警戒を解かないカレン。カレンの肩を、エルザの右手がそっと触れた。カレンの身体が微かに強張る。
「あげるわ」
振り返ったカレンの目に、柔らかく微笑むエルザの顔が映った。
その左手には、一輪のアネモネが差し出されている。
「……気が済んだら、帰るぞ」
カレンは右手で花を受け取った。その声は僅かに掠れていた。
その後もエルザは、気に入った花を見つけるたびに何輪か摘み取っていった。
空が茜色に染まり始めた頃。
エルザは摘み集めたアネモネを胸元に抱え、来た道を下っていった。
◆ ◆ ◆
ザ…ザ…。
ザ…ザ…。
夕闇が白銀の高原を包み込もうとしていた。屋敷の門の前では、行きにカレンによって
しかし、エルザはその刺すような視線に気づくことすらなかった。
ガチャン…。
カチ…カチ…カチ…。
二人が屋敷の敷居を跨ぐ。
教会の鐘は聞こえなくなり、代わって屋敷の奥から柱時計の音が響く。
カチ…カチ…カチ…。
カチ…カチ…。
カチ…カチ…。
カチン。
◆ ◆ ◆
廊下の角を曲がると、自分たちの部屋が見えた。
カレンの足が、ピタッと止まる。
彼女の視線の先――本来閉まっているはずの扉が、不気味な黒い隙間を作って開いていた。
瞬間、世界から音が失われる。
カチ…カチ…。
エルザの手から、つい先ほどまで大切に抱えられていたアネモネの束が、音もなく滑り落ちる。
カチ…カチ…。
カチン。
開かれた扉の先、応接間には凄惨な惨状が広がっていた。
送信用の伝書鳩の籠がこじ開けられ、中に入っていた二羽の鳩は斬殺されていた。周囲には飛び散った鮮血と、引きちぎられた羽が散乱している。
カチ…。
そして、エルザが愛用していたあのチェス盤は真っ二つに叩き割られ、ガラクタのように床に放置されていた。
カチ…。
寝室の扉は乱暴に開け放たれており、その開いた
カチ…。
二人は寝室へと足を進めた。
カチ…。
かつて整然としていたベッドは切り刻まれ、中から溢れ出した羽毛が雪のように室内を舞っている。その中央には、エルザが護身のために持っていたナイフが生々しく突き立てられていた。
カチ…。
化粧台の鏡は粉々に割られていた。
床には砕けた破片が散乱している。
カチ…。
そして壁に掛けられた貴婦人の肖像画は、額が斜めに傾き、その美しい顔の左部分は無惨にもナイフで裂かれていた。
カチ…。
部屋の奥、かつては豪華なタンスが壁を塞いでいた場所——その巨大な家具が、何者かの手によって横へと押し退けられていた。タンスの裏に隠されていた、床へと続く、暗く湿った「隠し階段」が、仄暗い闇を晒している。
カチ…。
エルザはまるで糸の切れた
カチ…。
カレンは、右手に力を込めた。彼女は、エルザから貰ったばかりの一輪の花を、掌の中で粉々に握りつぶす。
カレンは歯を食いしばり、肩を小刻みに震わせた。
カチ…。
入口の背後、濃い暗闇の中に、赤髪の女の目が光った。
(……あはっ。ゴミを捨てたら、部屋が片付いて良かったですね。お嬢様?)
アンが嘲笑を孕んだ声で囁いた。
カチン…。
柱時計の針が、非情にも16時00分を指す。
バシ!
カレンが右手で自らの顔半分を覆うように強く叩いた。その衝撃で、握りつぶされたアネモネの花びらが虚空に舞い散る。
ボーン……。
柱時計の鐘が響き始める。カレンの顔には、アネモネの「汁」や「花びらの破片」が、生々しく付着していた。
ボーン……。
顔を覆っていた右手の中指と薬指の間に、僅かな隙間ができる。
ボーン……。
指の隙間がさらに広がり、カレンの目がカッと見開かれた。
鐘の余韻が長く、重く響き渡り、視界がゆっくりと暗転していく。
ボー…
それまで部屋を支配していた柱時計の秒針音も鐘の音も、全ては無に呑まれた。張り詰めた静寂の中、カレンの低い声だけが流れ落ちていく。
「……ゆるさん……」