シュピーゲル 〜不眠の傭兵と猛毒の令嬢、17歳の暗殺事件〜 作:氏家まさら
再び長い廊下を歩くモーゼスと女。女はモーゼスの三歩後ろを歩きながら、実務的な問いを投げた。
「……で。まず私は何をすればいいんだ?」
「ふむ。まずはお嬢さまとご挨拶を―――。言っておきますが、くれぐれも
前を歩くモーゼスが、一度も振り返らずに告げる。その声は明らかに確信犯的な含みを持たせている。
「あとは……お嬢さまのお部屋の掃除をお願いします。……何しろ
「……
女は鼻先で短く息を吐いた。モーゼスの言う言葉が何を意味するか、これまでの振る舞いから容易に察しがついたからだ。
「……ああ。あそこです」
モーゼスが足を止め、手を示した。
廊下の突き当たりに、その扉はあった。
それは重厚な木製ではあるが、表面は無数の
女の視線が、一点に固定される。
本来あるべきはずの鍵穴とドアノブが、丸ごとくり抜かれている。そこを雑な鉛の固形物で埋め、中心に一本の粗末な木の『棒』が突き刺さっていた。それが、ドアノブの代わりのようだった。
「……」
女は無言のまま、その『棒』を凝視した。
「……ああ。それですか。少し前に鍵が壊れてしまいまして」
視線に気づいたモーゼスが、事もなげに言った。
「何しろ特注品ですから、部品の発注に時間がかかっているのです。……まあ、このままでも開きますのでご安心を」
「……防犯意識が高くて安心したよ。これならきっちりお嬢様を守れそうだ」
女は左顔面の傷を僅かに引きつらせた。呆れを通り越した疲労が、僅かに身体を
コンコン。
モーゼスが形式的に扉を叩いた。
「エルザ様、エルザ様。新しい
返事も待たず、モーゼスは即座にノブ代わりの『木の棒』を掴み軽く奥に押した。鍵の付いていない扉が慣性で僅かに開く。
「……さあ、仕事です」
モーゼスは女に向き直ると、恭しく一礼した。そして、獲物を檻に放り込む猟師のような素早さで、そそくさと現場を去っていく。
去り際に、女の右耳が「ではワタクシは、これで」という嫌味な老人の声を拾ったような気もした。不眠症から来る幻聴かもしれない。
「……ふぅ」
女は深く、長く、溜息をついた。どこから突っ込めばいいのか、脳の処理が追いつかない。
「……さて」
彼女は半開きになった扉に、左手の掌を当てた。迷いを断ち切るように、その手を軽く前へと押し出す。
ギギ、と不快な軋み音を立てて、運命の蓋が開いた。