シュピーゲル 〜不眠の傭兵と猛毒の令嬢、17歳の暗殺事件〜 作:氏家まさら
夕闇が深い夜へと溶けていく時刻、静まり返ったシュピーゲル家の廊下に、一人の女の伸びやかな声が響いた。
「あー、スカッとした」
アンは大きく伸びをした。
「……それにしても、あいつらの顔ときたら……」
思い出し笑いを堪えきれず、アンは吹き出した。
「ぶっ!」
「ふふふ……あはは……!あ~おもしろ」
アンは目から涙を流し、腹を抱えて笑い転げた。
「はあ~…」
やがて、ようやく笑いが収まる。
アンは一息つくと、いつもの笑顔を貼り付けたまま、持ち場へと戻ろうとした。
「さあ、夜の仕事もガンバロー」
背後には深い闇が広がっている。アンが足を踏み出そうとしたその時、背後の闇から、二本の腕が行く手を阻むように伸びた。左手には、鋭いナイフが握られている。
「……!?」
冷たい金属の感触が、そっと彼女の首筋に押し当てられた。
「・・・ヒッ!」
アンの左肩の上から、うつむいたカレンの頭部が現れた。
彼女がゆっくりと頭を上げる。
「よお……。赤髪のアンちゃん。随分ご機嫌そうじゃねえか」
「……は、ヒィッ!」
アンは戦慄し、言葉にならない悲鳴を漏らした。
「なら……。ご機嫌ついでに、少しだけ私の愚痴に付き合ってくれや」
カレンが低い声で語りかけた。
「思えば呑みの足しにこんな仕事を受けたのが、そもそものヘマだ」
カレンはアンの首筋に沿ってナイフの刃をゆっくりと滑らせる。
「古い伝手からの紹介で来てみりゃ……。湧いてくんのは、毒みてえな飯、夜な夜なうるせえ犬の遠吠え——部屋には鍵すら付いてねえ」
一拍置き、カレンはさらに言葉を重ねた。
「おまけに建物は掃除もロクに行き届いてねえときたもんだ。そんなざまなんで、同居人はネズミかゴキブリしかいねえ。しかもそんなゴミだめを世間じゃ『
「……ぃ…あ」
「唯一『言葉』がしゃべれるのはガキ一人だけ……。ただそのガキもとんでもねえ癇癪持ちだ。だもんで、こちとら眠る暇もあったもんじゃねぇ……」
「……ヒ……フ……フ」
アンの身体が激しく痙攣した。
「でも、最近じゃガキの癇癪も収まりがついてきてたんだ……」
「だが……それをどこぞのゴキブリがクソとゲロを吐き散らかして、おまけにクソの付いた足で
カレンは右手を懐へ入れ、一本の「赤い髪の毛」を取り出した。彼女はそれをアンの眼前でピラピラと見せつける。
「後始末が大変だぜ……」
カレンは無造作に、アンの髪の毛を指先で弾いて床へ捨てる。
「……本当に、イライラで手元が狂いそうだぜ。……なぁ、赤髪のアンさんよ……」
カレンはナイフの腹で、アンの首筋をペタペタと叩いた。
「ガチガチ……ガチ……!」
もはやアンに言葉を返す力はない。歯をガチガチと鳴らす音だけが、虚しく返った。
「……そういえば——かくれんぼが得意なアンさんよ、知ってるかい?」
ふと、カレンは乾ききった笑みを浮かべた。
「……え?」
「この屋敷には亡きご婦人が作った秘密の部屋があるそうだ」
カレンは虚空を見つめながら淡々と語り出す。
「躾のなってねえメイドを折檻するためのな……」
「……ウソ……やめ……っ」
アンは涙を流しながら、弱々しく首を振った。
「興味あるだろ?」
カレンがアンを見た。
◆ ◆ ◆
ズル……ズル……
静まり返った屋敷の廊下。
十字路の先には、冷たい石造りの階段が続いている。
人影はない。
ズル……ズル……
(……や……め……)
一段、また一段と、重い音が階段を下っていく。
視界が揺れる。
引きずられる女の声。
その弱々しい悲鳴が、湿った空気の中に溶けては消えていった。
ズル……ズル……
(……た…す…け……)
ズル……ズル……
やがて、重々しい金属の扉が現れた。
ガッチャン…!!
扉が開き、その先に光すら届かない暗黒が広がる。
「その手」に掴んでいた頭部が、暗がりの奥へ放り投げられた。
バタァン!!
扉が閉ざされた。
ガチン。
頑丈な錠の音が鳴り響き、あとは静寂だけが残された。