シュピーゲル 〜不眠の傭兵と猛毒の令嬢、17歳の暗殺事件〜   作:氏家まさら

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【第40話】報復

 夕闇が深い夜へと溶けていく時刻、静まり返ったシュピーゲル家の廊下に、一人の女の伸びやかな声が響いた。

 

「あー、スカッとした」

 

 アンは大きく伸びをした。

 

「……それにしても、あいつらの顔ときたら……」

 

 思い出し笑いを堪えきれず、アンは吹き出した。

 

「ぶっ!」

 

「ふふふ……あはは……!あ~おもしろ」

 

 アンは目から涙を流し、腹を抱えて笑い転げた。

 

「はあ~…」

 

 やがて、ようやく笑いが収まる。

 

 アンは一息つくと、いつもの笑顔を貼り付けたまま、持ち場へと戻ろうとした。

 

「さあ、夜の仕事もガンバロー」

 

 背後には深い闇が広がっている。アンが足を踏み出そうとしたその時、背後の闇から、二本の腕が行く手を阻むように伸びた。左手には、鋭いナイフが握られている。

 

「……!?」

 

 冷たい金属の感触が、そっと彼女の首筋に押し当てられた。

 

「・・・ヒッ!」

 

 アンの左肩の上から、うつむいたカレンの頭部が現れた。

 彼女がゆっくりと頭を上げる。

 

「よお……。赤髪のアンちゃん。随分ご機嫌そうじゃねえか」

 

「……は、ヒィッ!」

 

 アンは戦慄し、言葉にならない悲鳴を漏らした。

 

「なら……。ご機嫌ついでに、少しだけ私の愚痴に付き合ってくれや」

 

 カレンが低い声で語りかけた。

 

「思えば呑みの足しにこんな仕事を受けたのが、そもそものヘマだ」

 

 カレンはアンの首筋に沿ってナイフの刃をゆっくりと滑らせる。

 

「古い伝手からの紹介で来てみりゃ……。湧いてくんのは、毒みてえな飯、夜な夜なうるせえ犬の遠吠え——部屋には鍵すら付いてねえ」

 

 一拍置き、カレンはさらに言葉を重ねた。

 

「おまけに建物は掃除もロクに行き届いてねえときたもんだ。そんなざまなんで、同居人はネズミかゴキブリしかいねえ。しかもそんなゴミだめを世間じゃ『聖職者家系(めいもんきぞく)』とか呼ぶらしい……。とんだお笑い話だろ?」

 

「……ぃ…あ」

 

「唯一『言葉』がしゃべれるのはガキ一人だけ……。ただそのガキもとんでもねえ癇癪持ちだ。だもんで、こちとら眠る暇もあったもんじゃねぇ……」

 

「……ヒ……フ……フ」

 

 アンの身体が激しく痙攣した。

 

「でも、最近じゃガキの癇癪も収まりがついてきてたんだ……」

 

「だが……それをどこぞのゴキブリがクソとゲロを吐き散らかして、おまけにクソの付いた足で舞踏(スキップ)までしていきやがった……」

 

 カレンは右手を懐へ入れ、一本の「赤い髪の毛」を取り出した。彼女はそれをアンの眼前でピラピラと見せつける。

 

「後始末が大変だぜ……」

 

 カレンは無造作に、アンの髪の毛を指先で弾いて床へ捨てる。

 

「……本当に、イライラで手元が狂いそうだぜ。……なぁ、赤髪のアンさんよ……」

 

 カレンはナイフの腹で、アンの首筋をペタペタと叩いた。

 

「ガチガチ……ガチ……!」

 

 もはやアンに言葉を返す力はない。歯をガチガチと鳴らす音だけが、虚しく返った。

 

「……そういえば——かくれんぼが得意なアンさんよ、知ってるかい?」

 

 ふと、カレンは乾ききった笑みを浮かべた。

 

「……え?」

 

「この屋敷には亡きご婦人が作った秘密の部屋があるそうだ」

 

 カレンは虚空を見つめながら淡々と語り出す。

 

「躾のなってねえメイドを折檻するためのな……」

 

「……ウソ……やめ……っ」

 

 アンは涙を流しながら、弱々しく首を振った。

 

「興味あるだろ?」

 

 カレンがアンを見た。

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

 ズル……ズル……

 

 静まり返った屋敷の廊下。

 

 十字路の先には、冷たい石造りの階段が続いている。

 

 人影はない。

 

 ズル……ズル……

 

(……や……め……)

 

 一段、また一段と、重い音が階段を下っていく。

 

 視界が揺れる。

 

 引きずられる女の声。

 

 その弱々しい悲鳴が、湿った空気の中に溶けては消えていった。

 

 ズル……ズル……

 

(……た…す…け……)

 

 ズル……ズル……

 

 

 やがて、重々しい金属の扉が現れた。

 

 ガッチャン…!!

 

 扉が開き、その先に光すら届かない暗黒が広がる。

 

 「その手」に掴んでいた頭部が、暗がりの奥へ放り投げられた。

 

 バタァン!!

 

 扉が閉ざされた。

 

 ガチン。

 

 頑丈な錠の音が鳴り響き、あとは静寂だけが残された。

 

 

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