シュピーゲル 〜不眠の傭兵と猛毒の令嬢、17歳の暗殺事件〜   作:氏家まさら

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【第41話】慰め

 応接間の暖炉では薪が赤々と爆ぜ、その音だけが室内で虚しくこだましていた。壁に灯された蝋燭の火が揺れ、部屋をぼんやりと照らし出す。

 

 エルザはソファに横向きに寝そべったまま、微動だにしなかった。その目は虚空の一点を見つめている。

 

 トントン…。

 

 ガチャッ…。

 

 エルザの耳に扉のノック音と鍵が開く音が響いた。その微かな衝撃に、彼女がわずかに反応する。

 

 トストストス……。

 

 静かな足音が机越しに近づいてきた。カレンの左手が、一皿の料理をテーブルの上に置いた。

 

「少しは食べな。お嬢さん」

 

 エルザは重い頭を少しだけ浮かし、目の前に置かれたものへ視線を送る。そこには、温かそうな湯気を立ち上げるスープが置かれていた。

 

「…それどうやって作ったの?」

 

 寝そべったまま、エルザが力なく尋ねた。

 

「なに、ちょいとコックに『賄賂』を渡して厨房を借りたのさ」

 

「守銭奴(ドケチ)なアンタが……?」

 

「何も『賄賂』は光物だけじゃないぞ。勉強になったろ?」

 

 エルザはボスンとソファに頭を落とした。

 薪が爆ぜる音と柱時計の秒針が静かに室内を交差する。

 

 カチ…カチ…。

 

「……ねえ。あいつに何(・)か(・)し(・)た(・)の(・)?」

 

 エルザはカレンの方を向かぬまま、寝そべった姿勢のまま問いかけた。

 

「別に。少し愚(・)痴(・)に付き合ってもらっただけだ」

 

 カレンは左手を上げ、澄ました顔で答えた。

 

「……嘘」

 

 エルザの目が細くなる。

 

 パチ…パチ…。

 

「ああ、ところでアレだが修復できるぞ。少し縫い目は残ってしまうがな」

 

 カレンが右手で奥の寝室――蹂躙された聖域を指し示した。

 

「……」

 

 エルザは無表情を貫く。

 

「ついでに、あの通路も塞いでおいた。完璧ではないが、外側からは簡単には開かんだろう」

 

 カレンは穏やかな口調で続けた。

 

「……もうどうでもいい」

 

 エルザの声は、心底疲れ切っていた。

 

「おっと!そうだ忘れていた——」

 

 カレンがわざとらしく、ごそごそと荷物をまさぐった。机の上に、三本のナイフが並べられる。どれも丹念に磨き上げられ、刃先は鋭く美しく研ぎ澄まされていた。

 

「これは綺麗に磨いて研いでおいた。どうだ?新品同然だろう」

 

「……」

 

 エルザの瞳が、僅かに揺れた。

 

 カチ…カチ…。

 

「あとは……これも直しておいた。すこし改良を加えたが——まだ使えるぞ?」

 

 カレンが取り出したのは、真っ二つに叩き割られていたはずのチェス盤だった。引き裂かれた断面は丁寧に研磨されている。その上から無骨な金具で補強され、二つに折りたためるよう改良されていた。

 

 エルザが再び顔を上げた。

 

 さらに彼女が手にした袋には、かつての聖域で無残に散らばっていたチェス駒(ピース)たちが詰められていた。どの駒も所々が傷つき、どれもどこかしらが欠けている。だが、その表面は一つ一つ丁寧に磨き上げられていた。

 

「……はぁ」

 

 エルザはゆっくり身体を起こし、ソファに座り直した。カレンは手際よくチェス盤を机の脇に避ける。

 

 エルザは、カレンが作ったばかりの温かいスープの皿を手に取った。白い湯気が立ち上り、彼女の顔を包む。

 

 ズズ……。

 

 一口、その熱を喉に流し込む。

 

(…あぁ)

 

 エルザが小さく息を吐いた。

 カレンは丸椅子に腰掛ける。

 

 パチ…パチ…。

 

 揺れる蝋燭の光が、二人の影を壁に長く落としていた。薪の爆ぜる音だけが室内に響く。

 

「……ねえ」

 

 エルザが静かに口を開いた。

 

「……うん?」

 

 カレンは丸椅子に座り、左手で頬杖をつきながら生返事を返す。

 

「なんで、こんな仕事受けたの?」

 

 スープ皿を両手で持ったまま、カレンをちらりと見た。

 

「金だよ」

 

 カレンは顔をエルザの方へ向けたまま、視線だけをふいと右にずらして淡々と答えた。

 

「……金……か。……バカみたい」

 

 エルザが少しうつむきながら呟く。

 

「だから——今こうしてバカを見てる」

 

 カレンはわずかに肩をすくめた。

 

 エルザはスープ皿をゆっくり机に置いた。

 

「……あのさ、その顔の傷、どうして付いたの?」

 

 エルザの視線が、カレンの顔にある深い傷跡を真っ直ぐに見据えた。

 

「なんてことはない。お前と同じくらいの年(とき)に、私がちょっとヘマをしただけだ」

 

 カレンは頬杖をついた左手の指先で、顔の傷跡に触れた。

 

「……」

 

「ヘマ……か……。私はヘマもできなかった」

 

 エルザはソファの上で、守るように自分の膝を抱え込んだ。

 

「私ね——婚約相手がいるの。ずっと前から…」

 

「そりゃ、何より」

 

 カレンは平然とした態度で返す。

 

「顔も知らないヤツ。だからずっと白紙にしたかった…」

 

「……でもそれも無理。私、最近は以前よりも扱いやすくなったと思われているから……」

 

 エルザの口元が僅かに歪んだ。

 

「……全部、アンタのせいよ」

 

 エルザはカレンを睨んだ。声が僅かに震えている。

 

 カレンは無言で机の端に置かれたチェス盤を掴むと、少しだけ浮かせて見せた。

 

「……じゃあ、結婚祝いと落とし前を兼ねて、一局やるかい?」

 

「……は?」

 

「大局を見るのは必要だぞ?結婚生活は駆け引きだからな」

 

 エルザは半眼でカレンを見た。

 

「……アンタ独り身でしょ?」

 

「……まあな。だが経験値はあるぞ?」

 

 カレンの視線が逸れた。

 

 パチ…パチ…。

 

「……はぁぁ…」

 

 エルザは深く、長くため息をつく。

 

「わかった。付き合うわよ」

 

 エルザはチェス盤を机の中央に置き直し、手際よく駒を配置し始めた。

 

「言っておくが、私は手強いぞ?何せ下町の賭博場で散々もまれたからな」

 

 自らの駒を並べながら、カレンが不敵に笑う。

 

「年季が違うんでしょ?わかったわかった」

 

 エルザは右手で駒を配置しながら、左手を「しっしっ」と払うように動かした。彼女はさらに予備の女王(スペア・クイーン)をはじめとする予備の駒たちを、盤外へ整然と並べていく。

 

 夜の静寂の中、毒婦とボロ雑巾の「対局」が始まった。

 

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