シュピーゲル 〜不眠の傭兵と猛毒の令嬢、17歳の暗殺事件〜 作:氏家まさら
応接間の暖炉では薪が赤々と爆ぜ、その音だけが室内で虚しくこだましていた。壁に灯された蝋燭の火が揺れ、部屋をぼんやりと照らし出す。
エルザはソファに横向きに寝そべったまま、微動だにしなかった。その目は虚空の一点を見つめている。
トントン…。
ガチャッ…。
エルザの耳に扉のノック音と鍵が開く音が響いた。その微かな衝撃に、彼女がわずかに反応する。
トストストス……。
静かな足音が机越しに近づいてきた。カレンの左手が、一皿の料理をテーブルの上に置いた。
「少しは食べな。お嬢さん」
エルザは重い頭を少しだけ浮かし、目の前に置かれたものへ視線を送る。そこには、温かそうな湯気を立ち上げるスープが置かれていた。
「…それどうやって作ったの?」
寝そべったまま、エルザが力なく尋ねた。
「なに、ちょいとコックに『賄賂』を渡して厨房を借りたのさ」
「
「何も『賄賂』は光物だけじゃないぞ。勉強になったろ?」
エルザはボスンとソファに頭を落とした。
薪が爆ぜる音と柱時計の秒針が静かに室内を交差する。
カチ…カチ…。
「……ねえ。あいつに
エルザはカレンの方を向かぬまま、寝そべった姿勢のまま問いかけた。
「別に。少し
カレンは左手を上げ、澄ました顔で答えた。
「……嘘」
エルザの目が細くなる。
パチ…パチ…。
「ああ、ところでアレだが修復できるぞ。少し縫い目は残ってしまうがな」
カレンが右手で奥の寝室――蹂躙された聖域を指し示した。
「……」
エルザは無表情を貫く。
「ついでに、あの通路も塞いでおいた。完璧ではないが、外側からは簡単には開かんだろう」
カレンは穏やかな口調で続けた。
「……もうどうでもいい」
エルザの声は、心底疲れ切っていた。
「おっと!そうだ忘れていた——」
カレンがわざとらしく、ごそごそと荷物をまさぐった。机の上に、三本のナイフが並べられる。どれも丹念に磨き上げられ、刃先は鋭く美しく研ぎ澄まされていた。
「これは綺麗に磨いて研いでおいた。どうだ?新品同然だろう」
「……」
エルザの瞳が、僅かに揺れた。
カチ…カチ…。
「あとは……これも直しておいた。すこし改良を加えたが——まだ使えるぞ?」
カレンが取り出したのは、真っ二つに叩き割られていたはずのチェス盤だった。引き裂かれた断面は丁寧に研磨されている。その上から無骨な金具で補強され、二つに折りたためるよう改良されていた。
エルザが再び顔を上げた。
さらに彼女が手にした袋には、かつての聖域で無残に散らばっていた
「……はぁ」
エルザはゆっくり身体を起こし、ソファに座り直した。カレンは手際よくチェス盤を机の脇に避ける。
エルザは、カレンが作ったばかりの温かいスープの皿を手に取った。白い湯気が立ち上り、彼女の顔を包む。
ズズ……。
一口、その熱を喉に流し込む。
(…あぁ)
エルザが小さく息を吐いた。
カレンは丸椅子に腰掛ける。
パチ…パチ…。
揺れる蝋燭の光が、二人の影を壁に長く落としていた。薪の爆ぜる音だけが室内に響く。
「……ねえ」
エルザが静かに口を開いた。
「……うん?」
カレンは丸椅子に座り、左手で頬杖をつきながら生返事を返す。
「なんで、こんな仕事受けたの?」
スープ皿を両手で持ったまま、カレンをちらりと見た。
「金だよ」
カレンは顔をエルザの方へ向けたまま、視線だけをふいと右にずらして淡々と答えた。
「……金……か。……バカみたい」
エルザが少しうつむきながら呟く。
「だから——今こうしてバカを見てる」
カレンはわずかに肩をすくめた。
エルザはスープ皿をゆっくり机に置いた。
「……あのさ、その顔の傷、どうして付いたの?」
エルザの視線が、カレンの顔にある深い傷跡を真っ直ぐに見据えた。
「なんてことはない。お前と同じくらいの
カレンは頬杖をついた左手の指先で、顔の傷跡に触れた。
「……」
「ヘマ……か……。私はヘマもできなかった」
エルザはソファの上で、守るように自分の膝を抱え込んだ。
「私ね——婚約相手がいるの。ずっと前から…」
「そりゃ、何より」
カレンは平然とした態度で返す。
「顔も知らないヤツ。だからずっと白紙にしたかった…」
「……でもそれも無理。私、最近は以前よりも扱いやすくなったと思われているから……」
エルザの口元が僅かに歪んだ。
「……全部、アンタのせいよ」
エルザはカレンを睨んだ。声が僅かに震えている。
カレンは無言で机の端に置かれたチェス盤を掴むと、少しだけ浮かせて見せた。
「……じゃあ、結婚祝いと落とし前を兼ねて、一局やるかい?」
「……は?」
「大局を見るのは必要だぞ?結婚生活は駆け引きだからな」
エルザは半眼でカレンを見た。
「……アンタ独り身でしょ?」
「……まあな。だが経験値はあるぞ?」
カレンの視線が逸れた。
パチ…パチ…。
「……はぁぁ…」
エルザは深く、長くため息をつく。
「わかった。付き合うわよ」
エルザはチェス盤を机の中央に置き直し、手際よく駒を配置し始めた。
「言っておくが、私は手強いぞ?何せ下町の賭博場で散々もまれたからな」
自らの駒を並べながら、カレンが不敵に笑う。
「年季が違うんでしょ?わかったわかった」
エルザは右手で駒を配置しながら、左手を「しっしっ」と払うように動かした。彼女はさらに
夜の静寂の中、毒婦とボロ雑巾の「対局」が始まった。