シュピーゲル 〜不眠の傭兵と猛毒の令嬢、17歳の暗殺事件〜 作:氏家まさら
やがて、部屋を満たしていた笑い声が夜の静寂へ溶けていった。暖炉で薪が爆ぜる。
カチカチカチ…。
柱時計の音だけが、やけに鋭く響いていた。
「はあー」
エルザは優雅に足を組み替え、右手に白の
「さあ……続きよ」
拒絶を許さない声音だった。
「……こりゃあ、もう遊びじゃねえな」
カレンは視線を落とした。
「下町流はやめだ。ここからは傭兵流でいくぜ……!」
勢いよく顔を上げ、鋭くエルザを睨み返す。
「…ふふ」
エルザは顎を僅かに上げ、不敵に笑った。
――4局目――
カチ、カチ、カチ……。
カツ……カツ……。
エルザは迷いなく中央の
(もう面倒臭え屁理屈は終わりだ)
カレンは左手の駒へ指を添える。
(頼りになるのは——嗅覚、触覚、手に持った駒の感触——わずかな空気の揺らぎの変化に全神経を集中させる)
カチカチ…カチ…。
(こいつの
バチン!
黒の
カツ……。
エルザは序盤から
バチン!
カレンは
ニヤ……。
続いてエルザが
バチン!
カレンはさらに
「…ふふふ」
カツ……。
「
「……!」
白の
「……ちい!」
歯を食いしばるカレンを、エルザが愉しげに見つめる。
「……フフ。必死に嗅ぎまわって——かわいい」
「……っ!」
明らかに動揺し、絶句するカレン。その耳元で、時計の秒針が残酷に時を刻み続ける。
カチカチカチカチ——。
「もう一局よ」
エルザは冷たく告げた。
――5局目――
カチカチカチカチ——。
カツ…カツ…。
二人は互いに中央の
カツ…カツ…。
(クソ…!次の一手が読めない…!)
カレンは盤面へ視線を叩きつけた。
この部屋で初めて出会った夜――。狂乱のまま突き出されたエルザのナイフを、カレンは「年季の違い」でことごとく往なした。
今は、その逆だった。
バチン…!
カレンが力任せに駒を打つ。
バチン…!
カツ……。
エルザは軽く受け流す。
「熱くなってちゃ、勝てないわよ?」
カツ…。
白の
バチン……!
「ほら頑張れー。もうひと踏ん張りよ」
カツ…。
「……ああ、今のはいい線言ってた。偉いわ――けど」
カレンが
カツ……。
「
白の
カチカチカチカチ——。
――――――――――――――――――――
カツ……。
「
白の
カツ……。
「
またひとつ、黒の陣形が崩れた。
カツ……。
「
カレンが必死に組み上げた防衛線を、エルザは淡々と踏み越えていく。
カツ……。
「詰み(チェックメイト)」
6局、7局、8局、そして9局目――。結末だけは変わらなかった。
「はあ……、はあ……っ!」
盤上へ身を乗り出したカレンの額から汗が落ちる。戦場で培った勘も、傭兵として積み上げた「
カチカチカチカチ――。
――10局目――
「はあ……はあ……」
カレンの呼吸は荒く、額から流れた汗がチェス盤へ落ちていた。
「どうしたの?おばさん。…辛そうね。一休みしましょうか?」
エルザが獲物を弄ぶように笑う。
「ダメよ」
一転して、冷たく切り捨てた。
「……野郎」
カレンは毒づき、それでも左手を駒へ伸ばした。
カチカチカチカチ…。
――10局目開始――
カツ……カツ……。
二人は中央の
カツ……バチン!
カツ……。
バチン!
カツ…。
カレンが
それでも、これまでとは違った。
カレンは食らいついている。
バチン!
「
「ふふふ……」
カツ…。
エルザは
バチン……!
カレンはさらに
カツ…。
エルザは王を右翼の
「クソ……!」
バチン……!
カレンは執念で、エルザの左翼を守る
カチカチカチカチ――!
「……ああ、そうそう予め言っとくわ」
エルザが右手で白の
「私は
邪悪な笑みを浮かべ、そのまま盤上へ据える。
「……っ」
カレンの背筋を、本能的な悪寒が走った。
カツ……カツ……。
そこから一転して、エルザの猛攻が始まる。
そして中央を支配する
「……く!」
バチン……!
カレンは必死に食らいつく。
カツ…。
「
白の
「……!」
パチン……。
カレンは
パチン……。
さらに
「
カツ…。
逃がさない。白の
パチン……。
カレンはなお抗う。
カツ…。
「
エルザは温度のない声で告げ、黒の
「…………う」
カレンが力なく項垂れる。盤上には、
「……楽しい」
エルザは天井を仰いだ。その口元には、満ち足りた笑みが浮かんでいた。