シュピーゲル 〜不眠の傭兵と猛毒の令嬢、17歳の暗殺事件〜   作:氏家まさら

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【第43話】運命の対局.2 ~ 跳躍の兆し ~

 やがて、部屋を満たしていた笑い声が夜の静寂へ溶けていった。暖炉で薪が爆ぜる。

 

 カチカチカチ…。

 

 柱時計の音だけが、やけに鋭く響いていた。

 

「はあー」

 

 エルザは優雅に足を組み替え、右手に白の女王(クイーン)を握った。先ほどまでの笑みは消えている。

 

「さあ……続きよ」

 

 拒絶を許さない声音だった。

 

「……こりゃあ、もう遊びじゃねえな」

 

 カレンは視線を落とした。

 

「下町流はやめだ。ここからは傭兵流でいくぜ……!」

 

 勢いよく顔を上げ、鋭くエルザを睨み返す。

 

「…ふふ」

 

 エルザは顎を僅かに上げ、不敵に笑った。

 

 

 ――4局目――

 

 カチ、カチ、カチ……。

 

 カツ……カツ……。

 

 エルザは迷いなく中央の歩兵(ポーン)を進めた。

 

(もう面倒臭え屁理屈は終わりだ)

 

 カレンは左手の駒へ指を添える。

 

(頼りになるのは——嗅覚、触覚、手に持った駒の感触——わずかな空気の揺らぎの変化に全神経を集中させる)

 

 カチカチ…カチ…。

 

(こいつの王(キング)を最短で仕留めるために……!)

 

 バチン!

 

 黒の歩兵(ポーン)が中央へ進む。

 

 カツ……。

 

 エルザは序盤から女王(クイーン)を右翼へ躍り出させた。

 

 バチン!

 

 カレンは騎士(ナイト)を展開する。

 

 ニヤ……。

 

 続いてエルザが僧侶(ビショップ)を左翼へ滑らせる。

 

 バチン!

 

 カレンはさらに騎士(ナイト)を敵陣へ突っ込ませた。

 

「…ふふふ」

 

 カツ……。

 

 

「詰み(チェックメイト)」

 

 

「……!」

 

 白の女王(クイーン)が、黒の王(キング)を射抜いていた。

 

「……ちい!」

 

 歯を食いしばるカレンを、エルザが愉しげに見つめる。

 

「……フフ。必死に嗅ぎまわって——かわいい」

 

「……っ!」

 

 明らかに動揺し、絶句するカレン。その耳元で、時計の秒針が残酷に時を刻み続ける。

 

 カチカチカチカチ——。

 

「もう一局よ」

 

 エルザは冷たく告げた。

 

 

 

 ――5局目――

 

 

 カチカチカチカチ——。

 

 カツ…カツ…。

 

 二人は互いに中央の歩兵(ポーン)を進める。

 

 カツ…カツ…。

 

(クソ…!次の一手が読めない…!)

 

 カレンは盤面へ視線を叩きつけた。

 

 この部屋で初めて出会った夜――。狂乱のまま突き出されたエルザのナイフを、カレンは「年季の違い」でことごとく往なした。

 今は、その逆だった。

 

 バチン…!

 

 カレンが力任せに駒を打つ。

 

 バチン…!

 

 カツ……。

 

 エルザは軽く受け流す。

 

「熱くなってちゃ、勝てないわよ?」

 

 カツ…。

 

 白の僧侶(ビショップ)が急所へ滑る。

 

 バチン……!

 

「ほら頑張れー。もうひと踏ん張りよ」

 

 カツ…。

 

 女王(クイーン)が盤上の中央へ躍り出る。

 

「……ああ、今のはいい線言ってた。偉いわ――けど」

 

 カレンが騎士(ナイト)を突撃させた瞬間、エルザの口元が吊り上がった。

 

 カツ……。

 

 

「詰み(チェックメイト)」

 

 

 白の女王(クイーン)が、逃げ場を失った黒の王(キング)を正面から射抜いた。

 

 カチカチカチカチ——。

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 カツ……。

 

「詰み(チェックメイト)」

 

 白の女王(クイーン)が黒の王を射抜く。

 

 

 カツ……。

 

「詰み(チェックメイト)」

 

 またひとつ、黒の陣形が崩れた。

 

 

 カツ……。

 

「詰み(チェックメイト)」

 

 カレンが必死に組み上げた防衛線を、エルザは淡々と踏み越えていく。

 

 

 カツ……。

 

「詰み(チェックメイト)」

 

 6局、7局、8局、そして9局目――。結末だけは変わらなかった。

 

「はあ……、はあ……っ!」

 

 盤上へ身を乗り出したカレンの額から汗が落ちる。戦場で培った勘も、傭兵として積み上げた「予測(ロジック)」も、ここでは通じない。

 

 カチカチカチカチ――。

 

 

 ――10局目――

 

 

「はあ……はあ……」

 

 カレンの呼吸は荒く、額から流れた汗がチェス盤へ落ちていた。

 

「どうしたの?おばさん。…辛そうね。一休みしましょうか?」

 

 エルザが獲物を弄ぶように笑う。

 

「ダメよ」

 

 一転して、冷たく切り捨てた。

 

「……野郎」

 

 カレンは毒づき、それでも左手を駒へ伸ばした。

 

 カチカチカチカチ…。

 

 

 ――10局目開始――

 

 カツ……カツ……。

 

 二人は中央の歩兵(ポーン)を進める。

 

 カツ……バチン!

 

 騎士(ナイト)と僧侶(ビショップ)が次々と戦線へ出る。

 

 カツ……。

 

 バチン!

 

 カツ…。

 

 カレンが歩兵(ポーン)を取れば、エルザも即座に取り返す。

 

 それでも、これまでとは違った。

 

 カレンは食らいついている。

 

 バチン!

 

「王手(チェック)……!」

 

 僧侶(ビショップ)が鋭く滑り、白の王(キング)を射抜いた。

 

「ふふふ……」

 

 カツ…。

 

 エルザは騎士(ナイト)を展開し、すぐさま矛先を塞ぐ。

 

 バチン……!

 

 カレンはさらに歩兵(ポーン)を打ち取った。

 

 カツ…。

 

 エルザは王を右翼の城壁(ルーク)の陰へ退避させる。

 

入城(キャスリング)。

 

「クソ……!」

 

 バチン……!

 

 カレンは執念で、エルザの左翼を守る城壁(ルーク)を僧侶(ビショップ)で打ち取った。一瞬だけ、黒の盤面に光が差す。

 

 カチカチカチカチ――!

 

「……ああ、そうそう予め言っとくわ」

 

 エルザが右手で白の女王(クイーン)を目の高さまで持ち上げた。

 

 

「私は女王(これ)で上がるから――」

 

 

 邪悪な笑みを浮かべ、そのまま盤上へ据える。

 

「……っ」

 

 カレンの背筋を、本能的な悪寒が走った。

 

 カツ……カツ……。

 

 そこから一転して、エルザの猛攻が始まる。

 

 騎士(ナイト)。

 

 僧侶(ビショップ)。

 

 そして中央を支配する女王(クイーン)。

 

「……く!」

 

 バチン……!

 

 カレンは必死に食らいつく。

 

 カツ…。

 

「王手(チェック)」

 

 白の女王(クイーン)が、黒の王(キング)の眼前へ躍り出た。

 

「……!」

 

 パチン……。

 

カレンは王(キング)を後退させる。

 

 パチン……。

 

 さらに騎士(ナイト)を跳ねさせ、エルザの僧侶(ビショップ)を道連れにした。

 

「王手(チェック)」

 

 カツ…。

 

 逃がさない。白の女王(クイーン)が再び王の喉元へ滑り込む。

 

 パチン……。

 

 カレンはなお抗う。

 

 カツ…。

 

 

「詰み(チェックメイト)」

 

 

 エルザは温度のない声で告げ、黒の王(キング)の鼻先へ白の女王(クイーン)を置いた。

 

「…………う」

 

 カレンが力なく項垂れる。盤上には、女王(クイーン)の前に追い詰められた黒の王(キング)が残った。

 

「……楽しい」

 

 エルザは天井を仰いだ。その口元には、満ち足りた笑みが浮かんでいた。

 

 

 

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