シュピーゲル 〜不眠の傭兵と猛毒の令嬢、17歳の暗殺事件〜   作:氏家まさら

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【第45話】運命の対局.4 ~ 王の背徳 ~

 ——15局目——

 

 

 カチカチカチカチ……。

 

 壁時計の秒針に、エルザの鼻歌が重なる。

 

「フンフーン♪……どうしたの? カレン。本当に辛そうね」

 

「……くっ」

 

 カレンが短く呻く。

 

 呼吸は荒く、焦点も定まらない。

 

 エルザはその様子を眺めながら、左手でテーブルの水瓶を取った。

 

「……ふふ。そんなに疲れたならこれでも飲む?」

 

「……あ」

 

 カレンの右手が、ぴくりと動いた。

 

 水へ伸びかけ――止まる。

 

 膝の上へ戻された右手は、小刻みに震えていた。

 

「もちろんだめよ♡……ま、私は飲むけど」

 

 ゴク、ゴク…。

 

 エルザは見せつけるように、瓶から直接水を喇叭(ラッパ)飲みする。

 

「……あ……う」

 

 罠だ。

 

 分かっている。

 

 それでも、カレンの視線は水から離れなかった。

 

「……ぱあっ――。ああ、生き返った~」

 

 カチ…カチ…。

 

 空になった瓶が、壁時計のリズムに合わせてテーブルを叩く。

 

 トン、トン……。

 

 パチン。

 

 その合間に、エルザが駒を滑らせた。

 

「……なめやがって……!」

 

 濁っていたカレンの瞳に、僅かな怒りが戻った。

 

 

 ——15局目開始——

 

 バチン……。

 

 エルザが中央へ歩兵(ポーン)を突き出す。

 

 カレンも同じく歩兵(ポーン)を進めた。

 

 バチン!

 

 まだ、その一手には傭兵としての意地が残っている。

 

 カツン……。

 

 バチン!

 

 エルザは右翼の騎士(ナイト)を中央へ跳ねさせる。

 

 カレンは歩兵(ポーン)を動かし、慎重に守りを固めた。

 

 カツン……。

 

 白の僧侶(ビショップ)が戦線へ出る。

 

 バチン!

 

 カレンも僧侶(ビショップ)を展開し、白の騎士(ナイト)を牽制する。

 

 カチカチ、カチカチ……。

 

 さらにエルザは、左翼の騎士(ナイト)を中央へ。

 

 カレンも歩兵(ポーン)を動かす。

 

 カツン……。

 

 そして。

 

 白の女王(クイーン)が、無防備な位置へ差し出された。

 

「またかよ!」

 

 バチン!

 

 カレンは即座に女王(クイーン)を奪い取った。

 

 カツ…。

 

 白の僧侶(ビショップ)が滑る。

 

 黒の王(キング)が、安全な城壁から引きずり出された。

 

「……っ!」

 

 カレンの顔が強張る。

 

「……ねえ?カレン」

 

「…え?」

 

 顔を上げたカレンの眼前へ、エルザが無造作に右手を差し出した。

 

「……あ」

 

 思わず、カレンが頭を反らす。

 

 

 パチンッ!

 

 

 指爆竹(パッチン)。

 

 カレンの思考が、一瞬だけ真っ白になった。

 

「…あ!」

 

 慌てて盤上へ視線を戻す。

 

 だが、もう遅い。

 

 黒の王(キング)に残された道は、後退だけ。

 

 カレンは迷いながら、その一手を選んだ。

 

 カツン……。

 

 

「権威の蹂躙(チェックメイト)――」

 

「……っ」

 

 跳ねた白の騎士(ナイト)が、逃げ込んだ王(キング)の喉元を捉えていた。その退路を、僧侶(ビショップ)と白の駒たちが塞いでいる。

 

 カレンは盤面を見つめた。

 

 取らされた女王(クイーン)。

 

 追い出された王(キング)。

 

 そして――自分で選んだ、最後の一手。

 

「…………」

 

 力なく、項垂れた。

 

 

 ——16局目——

 

 カチカチカチカチ――!

 

 カレンは両肘を机につき、ぐったりと頭を垂れていた。

 荒い呼吸だけが漏れている。

 

 そんなカレンを眺めながら、エルザが右手を伸ばした。

 細い指先が、カレンの顎をクイッと持ち上げる。

 

 二人の視線が重なった。

 

「…こ…の」

 

「…ふふ」

 

 エルザは顎から手を放すと、そのままカレンの額を指先で押した。

 

 ツン。

 

 カレンの身体が、ガクンと椅子へ戻される。

 

 カチ…カチ…カチ…。

 

 柱時計の音が、遠ざかっていく。

 

(コイツは——今まで見たどんなヤツよりも……)

 

 カレンは肩で息をしながら、目の前の少女を見据えた。

 

 カチ…カチ…。

 

(もう——殺(や)るしかない——)

 

 カチ…。

 

(殺(や)られる前に——!)

 

 カチン…!

 

 カチカチカチカチ――!

 

 カレンが顔を上げる。

 濁っていた瞳に、鋭い光が戻った。

 

「…ふふ」

 

 エルザが笑う。

 そして何事もなかったように、駒へ手を伸ばした。

 

 

 ——16局目開始——

 

 バッチン!

 

 カツ…。

 

 エルザが中央の歩兵(ポーン)を進める。

 

 カレンは変則的な陣形で応じた。

 

 バチン!

 

 カツ…。

 

 白の騎士(ナイト)が戦線へ出る。

 

 カレンも歩兵(ポーン)を進め、守りを固める。

 

 カツ……。

 

 白の僧侶(ビショップ)が、黒の騎士(ナイト)を討ち取った。

 

 バチン!

 

 カツ……。

 

 中央で歩兵(ポーン)がぶつかり合う。

 

 エルザはさらに騎士(ナイト)を急所へ跳ねさせる。

 

 カチ、カチ、カチ――。

 

 続いて僧侶(ビショップ)を、黒陣へ射線の通る位置へ。

 

 カレンは城兵(ルーク)を逃がし、入城(キャスリング)で王(キング)を守る。

 

 その前へ、白の女王(クイーン)が躍り出た。

 

 カツ…。

 

 そして二十手目。

 

 カレンが自軍の女王(クイーン)を動かした。

 

 エルザの口元が歪む。

 

「……王手(チェック)」

 

 カツン…。

 

「……っ!?……てめえ」

 

 まただ。

 

 白の女王(クイーン)が、黒の王(キング)の眼前へ差し出されている。

 

 取れる。

 

 だが、取れば――。

 

 バチン!

 

「……っ」

 

 バチン!

 

 カレンは白の女王(クイーン)を盤外へ弾き、その位置へ王(キング)を進めた。

 

 カツン……。

 

 白の騎士(ナイト)が跳ねる。

 

 同時に、その背後から城兵(ルーク)の射線が開いた。

 

 

「王手(チェック)……二重王手(ダブル・チェック)」

 

 

「……あ、……ぁ……っ!」

 

 カレンは王(キング)を前へ逃がす。

 

 カツン……。

 

 また追われる。

 

 パチン……。

 

 一段。

 

 パチン……。

 

 さらに一段。

 

 騎士(ナイト)が跳ね、歩兵(ポーン)が進み、僧侶(ビショップ)が退路を削る。

 

 逃げるたびに、黒の王(キング)は白陣の奥へと追い込まれていった。

 

 カチ……カチ……。

 

 そしてとうとう、黒の王は敵陣の最深部まで辿り着く。

 

「……さあ、跪きなさい」

 

 エルザは恍惚とした笑みを浮かべたまま、自陣に残っていた白の王(キング)へ右手を伸ばした。

 

 カツン…。

 

 たった一歩。

 

 白の王(キング)が横へ退く。

 

 その背後から、城兵(ルーク)の射線が開いた。

 

 

「王の背徳(ディスカバード・チェック)――詰み(チェックメイト)」

 

 

「……っ」

 

 白の王が、自ら道を譲った。

 

 その影に控えていた城兵(ルーク)が、黒の王(キング)を真正面から捉えている。

 

 盤外には、先ほどカレンが奪った白の女王(クイーン)。

 

 敵陣深くには、ただ一人取り残された黒の王(キング)。

 

「なんてヤツだ……。でも、まだ……」

 

 カレンは荒い息を吐きながら、盤面を睨み続けた。

 

 カチ、カチ、カチ……。

 

 その瞳から、まだ光は消えていなかった。

 

 

 

 

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