シュピーゲル 〜不眠の傭兵と猛毒の令嬢、17歳の暗殺事件〜 作:氏家まさら
——15局目——
カチカチカチカチ……。
壁時計の秒針に、エルザの鼻歌が重なる。
「フンフーン♪……どうしたの? カレン。本当に辛そうね」
「……くっ」
カレンが短く呻く。
呼吸は荒く、焦点も定まらない。
エルザはその様子を眺めながら、左手でテーブルの水瓶を取った。
「……ふふ。そんなに疲れたならこれでも飲む?」
「……あ」
カレンの右手が、ぴくりと動いた。
水へ伸びかけ――止まる。
膝の上へ戻された右手は、小刻みに震えていた。
「もちろんだめよ♡……ま、私は飲むけど」
ゴク、ゴク…。
エルザは見せつけるように、瓶から直接水を
「……あ……う」
罠だ。
分かっている。
それでも、カレンの視線は水から離れなかった。
「……ぱあっ――。ああ、生き返った~」
カチ…カチ…。
空になった瓶が、壁時計のリズムに合わせてテーブルを叩く。
トン、トン……。
パチン。
その合間に、エルザが駒を滑らせた。
「……なめやがって……!」
濁っていたカレンの瞳に、僅かな怒りが戻った。
——15局目開始——
バチン……。
エルザが中央へ
カレンも同じく
バチン!
まだ、その一手には傭兵としての意地が残っている。
カツン……。
バチン!
エルザは右翼の
カレンは
カツン……。
白の
バチン!
カレンも
カチカチ、カチカチ……。
さらにエルザは、左翼の
カレンも
カツン……。
そして。
白の
「またかよ!」
バチン!
カレンは即座に
カツ…。
白の
黒の
「……っ!」
カレンの顔が強張る。
「……ねえ?カレン」
「…え?」
顔を上げたカレンの眼前へ、エルザが無造作に右手を差し出した。
「……あ」
思わず、カレンが頭を反らす。
パチンッ!
指
カレンの思考が、一瞬だけ真っ白になった。
「…あ!」
慌てて盤上へ視線を戻す。
だが、もう遅い。
黒の
カレンは迷いながら、その一手を選んだ。
カツン……。
「
「……っ」
跳ねた白の
カレンは盤面を見つめた。
取らされた
追い出された
そして――自分で選んだ、最後の一手。
「…………」
力なく、項垂れた。
——16局目——
カチカチカチカチ――!
カレンは両肘を机につき、ぐったりと頭を垂れていた。
荒い呼吸だけが漏れている。
そんなカレンを眺めながら、エルザが右手を伸ばした。
細い指先が、カレンの顎をクイッと持ち上げる。
二人の視線が重なった。
「…こ…の」
「…ふふ」
エルザは顎から手を放すと、そのままカレンの額を指先で押した。
ツン。
カレンの身体が、ガクンと椅子へ戻される。
カチ…カチ…カチ…。
柱時計の音が、遠ざかっていく。
(コイツは——今まで見たどんなヤツよりも……)
カレンは肩で息をしながら、目の前の少女を見据えた。
カチ…カチ…。
(もう——
カチ…。
(
カチン…!
カチカチカチカチ――!
カレンが顔を上げる。
濁っていた瞳に、鋭い光が戻った。
「…ふふ」
エルザが笑う。
そして何事もなかったように、駒へ手を伸ばした。
——16局目開始——
バッチン!
カツ…。
エルザが中央の
カレンは変則的な陣形で応じた。
バチン!
カツ…。
白の
カレンも
カツ……。
白の
バチン!
カツ……。
中央で
エルザはさらに
カチ、カチ、カチ――。
続いて
カレンは
その前へ、白の
カツ…。
そして二十手目。
カレンが自軍の
エルザの口元が歪む。
「……
カツン…。
「……っ!?……てめえ」
まただ。
白の
取れる。
だが、取れば――。
バチン!
「……っ」
バチン!
カレンは白の
カツン……。
白の
同時に、その背後から
「
「……あ、……ぁ……っ!」
カレンは
カツン……。
また追われる。
パチン……。
一段。
パチン……。
さらに一段。
逃げるたびに、黒の
カチ……カチ……。
そしてとうとう、黒の王は敵陣の最深部まで辿り着く。
「……さあ、跪きなさい」
エルザは恍惚とした笑みを浮かべたまま、自陣に残っていた白の
カツン…。
たった一歩。
白の
その背後から、
「
「……っ」
白の王が、自ら道を譲った。
その影に控えていた
盤外には、先ほどカレンが奪った白の
敵陣深くには、ただ一人取り残された黒の
「なんてヤツだ……。でも、まだ……」
カレンは荒い息を吐きながら、盤面を睨み続けた。
カチ、カチ、カチ……。
その瞳から、まだ光は消えていなかった。