シュピーゲル 〜不眠の傭兵と猛毒の令嬢、17歳の暗殺事件〜 作:氏家まさら
エレノア専用に設けられた執務室。
かつて誰かが使用していた名残か、あるいは設計思想の違いか、豪華な調度品に囲まれていながらも、どこか妙な違和感が部屋全体に漂っている。内装は重厚だが、置かれているものは比較的シンプルに整理されていた。
エレノアは、その中心にある堅牢な作業机に優雅な所作で座っていた。机の端では、彼女の愛猫である黒猫が行儀よく座り、静かに二人を見守っている。
この部屋にはエレノアの椅子以外、ソファも椅子もない。エルザは机を挟み、立ったまま姉と向き合っていた。
「面と向かって話すのは久しぶりね。エルザ」
エレノアは机の上で右肘を立て、優雅に開いた指先を顎先にわずかに触れさせた。
「元気だった?」
エレノアの視線が、エルザの服装から髪へゆっくりと這う。
「それなりにね」
エルザも姉から視線を逸らさなかった。
「…なら、良かった」
エレノアは視線を少し下げた。
「……そういえば、最近アンの姿を見かけなくなったの」
「あなた——心当たりは?」
エレノアがゆっくりと視線を上げ、エルザを見据える。
傍らで黒猫が「ニャー」と短く鳴いた。
「さあ?思い当たる節が多すぎるわ」
「ふふ」
エレノアが両手を組み、顎を乗せた。
その表情から、一切の温度が消失し、真顔へと変わる。
「……なんだか雰囲気が変わったわね。少し垢ぬけたかしら?」
エレノアの目が細められる。
「……まるで壊れた汚い人形が、一生懸命着飾っているみたい」
「はやく本題に入らない?」
エルザがエレノアを見据える。
「まあいいわ。簡潔にいくわね?時間は有限だもの」
エレノアは静かに頷くと、その先の言葉を継いだ。
◆ ◆ ◆
エレノアの執務室の扉が開き、廊下へと姿を現したエルザの顔には、揺るぎない決意の光が宿っていた。
カレンがエルザを見る。
エルザも一瞬、視線を返した。
その傍らで、執事のモーゼスが扉の脇に立ち、懃懃無礼な一礼をしてその場を解散させた。
ト…ト…。
二人は並んで歩き、通ってきた道を戻り始めた。茜色に染まり始めた廊下に、二人の足音だけが響いていく。エルザもカレンも、あえて言葉を交わすことはなかった。
自室の扉の前に辿り着くと、エルザは鍵を取り出し、慣れた手付きでそれを開けた。部屋の奥では、柱時計が秒を刻んでいる。
カチ…カチ…。
エルザはいつものソファへ腰を下ろした。
カレンは座ることもなく、目の前の主に視線を注ぎ、静かに見下ろしている。
エルザはソファに座っていた位置を左へと少しずらすと、自分が座っていた場所を左手でトントンと叩き、隣へ来るよう促した。その求めに応じるように、カレンはソファの右側へとドカっと腰を下ろした。
「……あの
身体は正面を向けたまま、視線だけをカレンの方へと向けて、エルザが切り出した。カレンは黙って続きを待った。
「護送の日にちは、今日から7日後——少し急だけれど」
「……なら準備で騒がしくなりそうだな」
カレンの表情が引き締まる。
「本題はここから——」
エルザの口元が引き締まる。
カチ…カチ…。
「…私が探ったところ、あの
エルザは淡々と告げた。
「だからあなたにお願いするわ」
エルザの唇が、静かに動いた。
エルザは、カレンの「右手」に、自らの「左手」をそっと添えた。触れられたカレンの右手が、微かな震えを見せる。
「『私』を護りなさい——カレン」
カチ…カチ…。
「……へッ」
カレンが不敵に笑った。
カレンは、添えられたエルザの左手を、自らの右手で優しく握り返した。彼女の右手の震えは、すでに止まっている。
「それが『私』の仕事だよ——エルザお嬢様」
カチン…。
その瞬間、柱時計が十七時を刻み、静まり返った屋敷に重厚な鐘の音が響き渡った。
ボーン……ボーン……ボーン……ボーン……ボーン。