シュピーゲル 〜不眠の傭兵と猛毒の令嬢、17歳の暗殺事件〜 作:氏家まさら
ギー、と不快な音を立てて、重厚な扉が内側へと押し開かれた。
女は立ち位置を変えぬまま、左手で放り投げるように扉を押し出す。慣性で人ひとり通れるほどの隙間ができる。
ザッ……。
女が部屋の中へと一歩、足を踏み入れた瞬間だった。
ヒュンッ――!
暗がりの奥で火花のような銀光が走り、鋭い風切り音が鼓膜を突いた。
――ストン!
女の顔面、そのすぐ右側の壁に、一本のナイフが深々と突き立った。女は無表情のまま、避ける動作すら見せずにその場に佇んでいる。
開かれた扉から差し込む僅かな光が、部屋の全容を露わにした。
そこは、あらゆるガラクタが散乱し、足の踏み場もないほどに荒れ果てた空間だった。にもかかわらず、中央に座る少女の周囲だけは、奇妙なほどに物が整理されている。切り刻まれ、ボロボロになったカーテンの隙間から漏れる朝日が、少女の姿を白く浮き上がらせていた。
少女——エルザは、テーブルの傍らでナイフを投げ終えた姿勢のまま、石のように固まっている。肩を激しく上下させ、瞳孔の開いた血走った瞳が、侵入者を真っ向から射抜いていた。彼女の手元、机の上には、もう一振りのナイフが突き立てられている。
「お初にお目にかかります。エルザお嬢様」
グッ、と女の左手が、壁に刺さったナイフの柄を力強く掴み取った。感情を排した声が、静まり返った室内に響く。
ガッ!
エルザが、机に突き刺さっていた二本目のナイフを右手でひったくった。どこか不自然な動作であり、その姿勢はどこか歪で、危うい。
ビュンッ――!
追加の投擲。女は壁から引き抜いたばかりのナイフを無造作に振り上げた。
「私、今日からこちらで奉仕いたします」
――カキン!
飛来するナイフを最小限の動きで弾き飛ばすと同時に、女は淡々と自己紹介を続けた。
ヒュンッ――!
弾かれたナイフがボロボロのカーテンを横なぎに切り裂いた。
バサッ…!
切り裂かれたカーテンが床へと落ちる。
カッ―――――――!
遮るものがなくなった窓から、陽光が鋭く室内に溢れ出す。
「……ッ!?」
まぶしさにエルザが思わず目を覆い、怯えたように体を強張らせた。朝日に反射する長い銀髪と黒いドレスを身にまとった少女の姿が露わになる。
―――少女は女性にしては背が高かった。見事な銀髪と銀の瞳、そして酷く不健康な顔色が目を引いた。造形自体は美しいが、目の下には濃い隈がべったりと張り付いている。
身に纏う漆黒のドレスも異様だった。コルセットで胴を締め上げ、腰に金属のチェーンを飾った豪奢な作りだが、重厚なスカートの裾はあちこちが引き裂かれ、無惨に床を引きずっている―――。
女は日の下に晒された少女の姿を冷徹に捉えると、淡々と言葉を紡いだ。
「名前は『
ザ…ザ…。
女は止まることなく、エルザの方へと歩を進める。
「…ッ!」
一歩一歩、距離を詰めてくる女の姿にエルザは戦慄の表情を浮かべる。
ザ…。
女が少女の前に立ちはだかった。
長身の少女よりも更に上背のある女が、冷徹な黒の瞳を眼下で怯える銀の瞳へと落とした。
「……っ!?」
未知の強者を見上げるエルザの顔に、隠しようのない動揺が走った。
キッ!
一瞬の怯えは、即座に鋭い殺意へと塗り替えられた。エルザは右太ももをたくし上げ、隠し持っていた三本目のナイフを抜き放つ。
「……クッ!」
ヒュッ――!
エルザが下からの鋭い突き上げを放つ。
カッキーン!
女はそれを難なく左手のナイフで弾き返した。弾かれたナイフが至近距離で火花を散らす。
「ご用命は何なりと。掃除、洗濯、炊事……そして、有害な害虫の駆除まで…」
女の口調は業務報告のように平坦なままだった。
カキン!カキン!ジャキン!
エルザが執拗にナイフを突き出し、女がそれを正確に弾き続ける。逃げ場のない鉄の応酬が、荒れ果てた室内で交錯する。
「我が
「……くっ!……ぬぅっ!」
エルザの吐息に疲労と混乱が混ざり始める。しかし、彼女の右手は止まらない。
「……しかし、本日は執事モーゼスから部屋の掃除を済ませるよう厳命されておりますので、早急に清掃を開始してもよろしいでしょうか?」
スッ。
女の左手が、エルザの震える右手を優しく、しかし有無を言わさぬ力で包み込んだ。
ヒューン……。
合気の動作。女が左足でエルザの右足を軽く払うと、少女の体は重力から解放されたかのように宙を舞った。
ストン。
女は右手を掴んだまま、すぐ隣にあった椅子へとエルザを導き、静かに着地させた。エルザの右手から力が抜け、ナイフが床に落ちて空虚な音を立てる。
カチン……。
「……なんなのよ……アンタ……」
椅子に座らされたまま、エルザは肩で息をつき、絞り出すように呟いた。彼女の視線は、自身の右手を繋いでいる女の左手に吸い寄せられている。畏怖と、動揺、そして僅かな温もりに肩が小さく震えた。
「……汚くて
「年季の違いでございます」
女は冷淡に応じ、その『醜い手』を隠そうともせずに晒した。
「……」
エルザは再び女の顔を見た。不眠による深い隈、左顔面の大きな傷跡。そのすべてを網膜に焼き付けるように。
「……アナタ……名前は?」
問いかけたエルザ自身、何故そんなことを聞いたのか判らないといった様子だった。
二人の間に、一拍の長い沈黙が流れる。
「名乗るほどの家名も持たぬ、
女はエルザを真っ直ぐに見据え、初めてその名を口にした。
「『私』はカレンと申します」
「……カレン」
エルザはその響きを噛み締めるように
「『私』はエルザよ。……エルザと呼びなさい」
少女は照れくさそうに視線を逸らすと、予防線を張るように言葉を重ねた。
「……あと言葉も気を遣わなくていいわ。わかったわね?」
「承知しました。『クソガキ』とお呼びすればよろしいですね?」
カレンは鉄壁の営業スマイルを浮かべた。
「……殺すわよ。……アンタ……!!」
エルザの鋭い罵倒が、シュピーゲル家の朝を鮮やかに切り裂いた。