シュピーゲル 〜不眠の傭兵と猛毒の令嬢、17歳の暗殺事件〜 作:氏家まさら
【第50話】三日前の静寂
エルザが「決意」を固めてから、四日目の昼。護送の日まで、残り三日となった。
カレンとエルザは自室の奥の部屋――
カレンは、かつてアンによってズタズタに切り裂かれた毛布やシーツを、丁寧に縫い繕っていた。
エルザはその様子を、入口の壁に背中を倒しながら腕を組み、静かに見つめていた。
ふと、壁に掛けられた貴婦人の肖像画と目が合う。斜めに傾いた額縁の中で、かつて美しかった女性の顔の左半分には『あの時』の傷が消えずに残っている。
(……)
エルザはそっと目を細めた。
カチ…カチ…カチ…。
◆ ◆ ◆
エルザの自室に戻った二人。
部屋の隅には、当日に着用する護送用ドレスが用意されていた。
高貴な身分を示す深紺のベルベット生地は、汚れが目立ちにくい機能的な色彩を帯びている。だが、その内側にはカレンの手によって「武装」が施されていた。
馬車への乗り降りを妨げないよう、不必要な
カチ…カチ…カチ…。
◆ ◆ ◆
ボーン…ボーン…ボーン…!
二人の間に、いつもの
向かい合って無作法に頬張った。
食後、エルザはチェス盤を机に置くと、丁寧に駒を並べていく。準備を終えた彼女は、カレンに向けて「一局付き合いなさい」という、有無を言わせぬ視線を送った。
カレンはそれに対し、「残念。他の仕事がある」という拒絶の素振りを見せると、そそくさとその場を避難した。
カチ…カチ…カチ…。
◆ ◆ ◆
カレンが自室の扉を僅かに開き、廊下に立つ
エルザは机で
◆ ◆ ◆
荷造りも終盤―――。
既にほとんど片付いた室内で、エルザが小振りだが少し重そうな
ガツッ!!
エルザの左足の小指を直撃した。
一瞬の静寂の後―――エルザが痛みで顔を真っ青にし、
カレンはそれを見て、呆れたようなジト目で清拭用の塗り薬を差し出す。
泣きそうな顔で薬をひったくるエルザの姿に、思わずカレンの頬が緩んだ。
「……あはははは!」
膝を叩いて笑うカレン――。屈辱に震えながらも、どこか釣られて毒気が抜けていくエルザ。
ボーン…ボーン…ボーン…ボーン…!
◆ ◆ ◆
一面の雪に覆われ、シュピーゲル家の屋敷を一望できるアネモネの群生地――その丘に、鈍い足音が響いた。
ザ……ザ……ザ……
降り積もる雪を踏みしめ、
立ち込める空気は異様で、不吉な殺気を纏っていた。
「……あれがシュピーゲル家の屋敷ですか」
ヤコブは、依頼主の居城であり、同時に自分たちの標的が囚われているその「檻」を、冷徹な
「そのようだな」
ヨハンは、何の感情も宿っていない声で短く応じる。
「はぁ~あ…。趣味悪ぅ~。デカいだけの箱じゃねえか」
ゴブが吐き捨てるように言った。
「…」
ヤコブは無言のまま、軽蔑の入り混じった視線を彼へと投げた。
お前に悪趣味さを指摘されたら、名門貴族も形無しだな――その冷めた
「…護送日までは日があるようだな」
ヨハンは目を細め、呟いた。
「……それまで付近で潜伏するぞ」
静かな、しかし有無を言わせぬ命令が下される。
「…はぁ。また野宿ですかい」
吹き抜ける寒風に身を縮め、ゴブが心底呆れたように肩を落とした。
「無駄口を叩くな。黙って動け」
ヤコブがピシャリと釘を刺す。
「ぺっ…!」
ゴブは煽るように雪の上へ唾を吐いた。ヤコブの眉が、一瞬ピクッと跳ねる。
ザ……。
ヨハンは二人のじゃれ合いを無視し、足元に咲く一輪のアネモネの前で静かに立膝をついた。
彼は右手でおもむろにその花を摘み取ると、目の高さまで持ち上げる。
「…アネモネか」
グシャッ!
無慈悲な力が籠められ、可憐な花が掌の中で握りつぶされた。
パッ……
ヨハンは握りつぶした残骸を、興味を失ったように宙へ払う。
引きちぎられた白い花弁は、風に煽られて虚空を舞い、やがて眼下に広がる銀世界の白へと静かに溶け込んでいった。