シュピーゲル 〜不眠の傭兵と猛毒の令嬢、17歳の暗殺事件〜 作:氏家まさら
エルザの護送日当日。
窓から穏やかな陽光が差し込んでいた。
かつては
荷造りを一通り終えたエルザは、いつものようにソファに腰を下ろし、傍らに立つカレンを見上げた。
「さて、荷造りは一通り終わったわね」
エルザは澄ました顔で続けた。
「ねえ。最後に髪を結い直してもらえる?髪型はまかせるから——」
カレンはソファの近くにある椅子を顎でしゃくった。
「しょうがねえな。ならそこに座りな」
エルザは優雅な所作で椅子へと移り、カレンはその背後に回る。カレンは慣れた手つきででエルザの銀髪を解くと、櫛を右手に取って丁寧に梳かし始めた。エルザは鏡越しにカレンを見る。
カチ…カチ…。
「今日で最後ね。……ねえ。これが終わったら今度は私に雇われない?報酬は弾むわよ」
カレンは目を細め、銀髪へ櫛を通した。
「へっ!ごめんだね。これ以上アンタのお転婆に付き合ってたら、私の身体が持たないよ」
「……冗談よ。私もアンタみたいな『
エルザは口元だけで笑った。
カレンは鼻で笑いながら、結い上げの仕上げに入った。
カチ…カチ…。
カレンは、10年近く右腕に巻き続けていた——
「よし!できたぞ」
カレンが手を離すと、エルザは椅子に座ったまま、首だけを後ろに振り向かせた。
「……どう?似合う?」
エルザがいたずらっぽく微笑む。
カレンは満足げな
「……ああ、悪くねぇよ。何しろ
エルザが微笑みながら、告げる。
「ねえ。まだ少し時間はあるし、食事でもしない?なるべく普段通りのモノがいいわ」
エルザは左手の人差し指を立てた。
「向こうではもう食べられないだろうし、馬車に押し込まれる前に入れておきたいのよ」
エルザの軽口に、カレンは深いため息をついた。
「これだから食う専門はいけねえ。ちょっと待ってな——」
カレンはイソイソと
◆ ◆ ◆
ソファの前の机には、カレンが用意した「いつもの」庶民的な料理が並べられていた。サンドウィッチにソテーしたウインナー、スクランブルエッグに新鮮なサラダだ。
「これよ!これ。……いただきます」
エルザが弾んだ声で手を合わせると、カレンも短く応じた。
「どうぞ」
二人はいつものように、他愛のない話をしながら食べ進めていく。
時折、エルザが何かに憤慨して身振りを交え、カレンがそれを鼻で笑うといった、この数ヶ月間で繰り返された光景がそこにはあった。
やがて皿の上のものはすべて消え、二人は同時に一息ついた。
「ごちそうさまー」
「ふうー」
カレンは手慣れた動作で食器を下げる。するとエルザは、いたずらっぽく目を細めて切り出した。
「……ねえ。今日は更に、とっておきがあるのよ」
「?」
「これよ――」
エルザが取り出したのは、年代物の高価そうなワイン瓶だった。
「モーゼスから
「…仕事の前には飲まない主義だが、いいだろう。付き合ってやるよ、クソガキ」
カレンもニヤリと笑った。エルザが手際よく栓を抜き、二人のグラスに茶褐色の液体を注いでいく。
カチ…カチ…。
「……じゃあ。乾杯——」
注がれたグラスを持ち、エルザがそれを右手で高く掲げる。カレンも無言で同じように左手でグラスを上げ、二人はクイっと一口含んだ。芳醇な香りを口内に転がし、喉へ流し込む。
「……なんか臭みがない?このワイン——」
エルザは顔をしかめた。一方、カレンは満足げな溜息を漏らす。
「へへ。これだからお子様は——年季の違いを分かってないねぇ」
カレンは満足げにもう一口ワインを煽る。
「……ふう。こいつは上物だな……まるで天にものぼる……よう……な……き……ぶん……」
突如として、カレンの目が虚ろになり、その大きな身体がゆらゆらと揺れだした。カレンの手からグラスが滑り落ちかける。
パシッ…!
エルザは咄嗟に左手でそれを空中で受け止め、机の上へと静かに置いた。背もたれのない椅子に座っていたカレンの身体が後ろへ傾いていく。
「へへ……クソ……ガ……キ……が……」
僅かな囁きを残し、床に倒れかけたカレン。
ガシッ…!
それをエルザは左手を背中へと回し、力強く受け止めた。
エルザは、カレンの脇の下から自分の両手をクロスさせて
カチ…カチ…。
エルザはカレンの上半身をソファに乗せ、続いて重たい下半身を持ち上げて横たわらせた。だらりと下がったカレンの腕をお腹の前へと持っていき、両腕を腹の前で交差させる。
カチ…カチ…。
エルザは左手の甲で、カレンの額にかかった前髪を払った。そして、彼女の左顔面に刻まれたあの深い傷跡を、左手の指先で静かになぞる。
カチ…。
エルザは静かに立ち上がると、左手で懐から小さな薬瓶を取り出した。
中身の残った眠り薬だった。
取り出した薬瓶を、サイドテーブルに置かれたチェス盤の傍らにそっと置く。更にエルザは入れ替えるように左手でチェス盤に置かれた欠けた白の
カチ…。
エルザは手荷物鞄を強く握った。
静まり返った部屋。
エルザは室内へゆっくり視線を巡らせた。
カチ…。
沐浴の後に座らされたあの椅子。
カチ…。
今は空になった伝書鳩の籠。
カチ…。
数々の騒動の舞台となった浴室の入り口。
カチ…。
そして、扉の隙間から覗く「聖域」――アンに切り裂かれ、カレンが縫い繕った寝具。
カチ…。
最後に視線が止まったのは、二人で命を吹き込んだあの柱時計だった。
カチン…。
エルザは入口へ向かった。
カチ…。
不意に、エルザの肩が僅かに揺れた。
足が止まる。
それでも振り返らず、髪を留める赤いバンダナへ左手を触れた。
「——行ってきます」
ガチャ…。
重厚な音を立てて扉が開く。
カチン…。
外側から鍵を閉める乾いた音が響いた。
カチ…カチ…。
あとに残されたのは、ただ重苦しいほどの静寂だけだった。
カチ…カチ…カチ…。
ソファの上では、眠り薬に沈んだカレンが微動だにせず横たわっていた。静寂を刻むのは、かつて二人で命を吹き込んだ柱時計の規則正しい秒針の音だけだ。
カチ…カチ…カチ…。
時刻は14時59分。
秒針が最後の一周を回り、15時へ重なる。
カチン…。
ボーン――。
一発目の鐘が空気を震わせる。
ボーン――。
二発目の鐘が鳴り響くと同時、カレンの右手がピクリと、しかし明確に反応を示した。
ボーン――。
三発目の鐘の音に重なるように、カレンは無造作に、それでいて鋼のような力強さでその身を跳ね起きさせた。
「……ふぅ」
首を左右に倒すと、凝り固まった関節がコキコキと小気味よい音を立てる。
「……やっぱ
カレンは、チェス盤の傍らに置かれた中身の残った薬瓶を左手で手に取った。エルザが置いていった
カレンは小さく鼻を鳴らし、瓶を懐へ放り込んだ。
続いて、チェス盤に置かれた傷の入った白の
ピン!
カレンが親指で弾いた白の
パシッ――!
落ちてきた駒を右手で掴み、そのまま懐へ忍ばせた。
「さあ――」
カレンは腰に帯びた剣の柄を、自らの左手で静かに握り込んだ。
シャキン——!
彼女の
鋭い剣鳴が、静まり返った部屋に響いた。
「主を助けに行くとするか——」
カレンは剣を手に、部屋を後にした。