シュピーゲル 〜不眠の傭兵と猛毒の令嬢、17歳の暗殺事件〜 作:氏家まさら
カチ……カチ……カチ……。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
エルザの部屋。
柱時計が、規則正しく時を刻んでいる。
(カチ……カチ……カチ……)
朦朧とする意識。
焦点の定まらないカレンの瞳が、開け放たれた馬車の中を捉えた。
(カチ……)
エルザがいる。
真っ直ぐに、こちらを見ている。
「…………」
カレンの虚ろな瞳に、その姿が焼き付く。
(カチ……)
エルザの左手が上がった。
その掌には――欠けた白の
『わかるわよね?……カレン』
あの夜。
豪奢なソファに腰掛け、不敵に笑っていたエルザの声。
(カチン――!)
分針が跳ねた。
「――――」
カレンの瞳に、光が戻る。
白。
黒。
世界が、巨大なチェス盤へ塗り潰されていく。
(カツ、カツ、カツ、カツ、カツン―――)
盤上へ、駒が並ぶ。
(カチ……)
カレンの右手が動いた。
「…………」
これまで剣を握っていた、左手ではない。
右手。
(カチ……)
同時に、濃い焦茶の髪が毛先から白く染まり始める。
カレンが右手を伸ばす。
そして――鋭く払った。
(カチン……)
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「…さあ、対局開始よ」
エルザが笑った。
「………!?」
ヨハンの目が見開かれる。
ガッキーン―――!!
「…くっ!」
倒れたままのカレンが、右手で剣を振り抜いていた。
白い閃光。
剛剣が弾かれる。
ズザザ……!
ヨハンの身体が雪原を滑った。
「…!」
その視線の先。
カレンが立ち上がる。
輝く純白の髪。
その右手には、真っ直ぐに握られた剣。
「………ッ!」
「…………」
ヨハンとカレンの視線が交わる。
「…ちぃ!」
ビュッ――――――!
ヨハンが踏み込んだ。
その刃が、カレンへ迫る。
(カチン――!)
――分針が跳ねた。
♙ ♙ ♙ ♙ ♙ ♙ ♙ ♙
雪原が消える。
巨大な白黒の盤面。
その中心で、カレンの右手が動く。
(ス……)
剣を右へ。
流れるまま、背後へ。
(カツ………)
駒が置かれる。
背後で――左手へ。
そのまま薙ぐ。
白から灰へ――
二つの軌跡が交差する。
「
(カーン……!)
黒の
♟ ♟ ♟ ♟ ♟ ♟ ♟ ♟
シャキーン―――――!!
「…ぐぅ!!」
ヨハンの剣が、カレンの右手によって弾き上げられる。
返す刃は左手。
バシュッ―――!
「っ……!」
右脇腹が裂けた。
鮮血が、雪へ散る。
(……何だこれは?―――読めん!!)
ヨハンの顔が歪む。
「調子にのるな……!」
ザッ―――!
姿が消えた。
「…………」
右側。
死角。
黒い刃が迫る。
キーン――!!
「……ッ!」
左手の剣が――右手へ。
火花を散らし、ヨハンの剛剣を弾く。
更に右手の剣が――左手へ。
バシュッ―――!
ヨハンの右腕から血が舞った。
「……ぬっ!」
ガツン―――!
続けざまに、カレンの左足が
「……ぬぅ!」
ヨハンの体勢が崩れた。
(カチン――!)
――分針が跳ねる。
♗ ♗ ♗ ♗ ♗ ♗ ♗ ♗
巨大な盤面。
カレンの右手が、迷いなく動く。
(ス……)
右。
左。
右。
左。
剣が、目まぐるしく手から手へ渡る。
白と灰。
幾重もの残光が、盤上を走った。
(カツ……)
駒が置かれる。
左手から――右手へ。
カレンは剣を
「
(スパン……!)
黒の
♝ ♝ ♝ ♝ ♝ ♝ ♝ ♝
バシュッ―――!
「ぐぅっ……!」
白い一閃が、ヨハンの防御を抉り抜く。
ズザザザ……!
ヨハンが雪原を滑る。
右肩から噴き出した鮮血が、その軌跡を赤く染めていった。
ヨハンが体勢を立て直す。
ぶあっ――!
雪と砂を、カレンの顔面へ跳ね上げた。
「…………」
カレンが右へ身を翻す。
ドッ―――!
その先へ、ヨハンの突きが走った。
(カチン――!)
――分針が跳ねる。
♘ ♘ ♘ ♘ ♘ ♘ ♘ ♘
巨大な白黒の盤面。
白い髪が、風もないのに揺れている。
(ス……)
駒を摘み上げる音。
黒の
カレンが地を蹴った。
その身体が、黒の
空中。
左手が、剣を放した。
回転する柄を――右手が掴む。
(カツ……)
駒が置かれた。
灰から白へ。
一条の軌跡が、黒の
「
(カシン……!)
黒の
♞ ♞ ♞ ♞ ♞ ♞ ♞ ♞
スババッ―――!
「………ぐぅ!」
ヨハンの突きが空を切る。
その頭上を越えたカレンが、跳躍と同時に空中で剣を薙いだ。
左肩から、鮮血が散る。
ザッ……。
カレンが着地した。
「…………」
「…………」
背中合わせ。
雪原に、静寂が落ちる。
(カチ……カチ……)
聞こえるのは、二人の息づかい。
そして――柱時計の音。
ギ……。
互いの剣を握る手に、力がこもる。
ザッ――――――!
二人が同時に振り返った。
ガキィィン――――――!!
ガキン――!
ジャキィン……!
ガキン――!
ガキキキィ――!
右。
左。
右。
また左。
白と灰の剣閃が、ヨハンへ襲いかかる。
「……ぐっ!」
ヨハンが受ける。
弾く。
退く。
それでも、カレンは止まらない。
(カチン――!)
分針が跳ねた。
♖ ♖ ♖ ♖ ♖ ♖ ♖ ♖
白黒の盤面。
カレンが、左手の剣を右手へ渡す。
(ス……)
白い光が、右腕を走る。
刃が――返った。
峰打ち。
眼前には、巨大な黒の
「
(バシン!!)
振り下ろされた一撃が、黒の
♜ ♜ ♜ ♜ ♜ ♜ ♜ ♜
ドゴッ―――!!
「ぐほぉ……!」
刃ではない。
返された剣の峰が、ヨハンの腹部へ深く食い込んでいた。
「……ッ、ぐ……!」
ヨハンがよろめく。
数歩、後退する。
「…………」
カレンは追わない。
右手の剣を下げ、ただヨハンを見ている。
「…………?」
ヨハンの眉が、僅かに動いた。
……読めない。
さっきの一撃。
刃を返す必要などなかった。
そのまま振り抜けばよかった。
なのに――。
「…………」
カレンの瞳に、殺意がない。
(……何を、するつもりだ……?)
(カチ……)
柱時計が、次の一手を刻んだ。
~ 【最終決戦.3】へと続く ~