シュピーゲル 〜不眠の傭兵と猛毒の令嬢、17歳の暗殺事件〜 作:氏家まさら
「…………」
カレンの瞳に、殺意がない。
(……何を、するつもりだ……?)
(カチ……)
柱時計が、次の一手を刻んだ。
「…面白い。なら――とことん付き合ってやろう!」
ヨハンが短く息を吸う。
次の瞬間――その顔から感情が消えた。
ズドン……!!
背後から立ち昇る黒い光彩へ、鮮血のような赤が混ざる。
ブワァ……!
吹き荒れる殺気が、カレンの白い髪を激しく乱した。
「…………」
カレンは動かない。
馬車の中。
エルザが、静かに戦場を見つめている。
「……最終局面ね」
そして――。
「行きなさい――」
ヒュッ――。
先に動いたのは、ヨハンだった。
剣を下げたまま。
散歩でもするような足取りで、カレンへ近づいてくる。
トン……!
「……ッ!」
予備動作のない突き。
ブシュ……!
カレンの右腹が、さらに抉られた。
「ぐっ……!」
シュン…!
続けざまに、首。
カレンが頭を振る。
刃が白い髪を切り裂き、雪原へ散らした。
シュパパパン―――!
「……ッ!」
次。
次。
また次。
致命傷だけを逸らしながら、カレンの身体へ浅い傷が増えていく。
カク……。
膝が揺れた。
「…………」
ヨハンが踏み込む。
その刃が上がる。
ザ……。
カレンも、一歩。
ザ……。
さらに一歩。
「……?」
首を刎ねられる間合いへ、自ら入った。
ス……。
「……なっ!?」
カレンの右手。
その人差し指が――ヨハンの唇へ、そっと触れた。
「…………」
一瞬。
ヨハンの動きが止まる。
パッ……。
カレンの左手から、剣が離れた。
銀色の刃が宙を舞う。
「……!」
ヨハンの瞳が、それを追った。
カレンの右手が、剣を掴む。
同時に――。
ズドン……!!
「……っがぁ!」
カレンの左拳が、ヨハンの左腹へ深く突き刺さった。
上体が折れる。
カレンが頭を振りかぶる。
ガッチン――!
「ぐっ……!」
白銀の頭が、その顔面へ叩き込まれた。
頭突き。
(カチン!)
分針が跳ねる。
♘ ♗ ♘ ♗ ♗ ♘ ♗ ♘
巨大な白黒の盤面。
カレンの前には、黒の
(ス……)
右手が上がる。
握られているのは、刃ではない。
剣の
「
(ガッ――!)
右。
(ガッ――!)
左。
(ガァン――!)
そして――右。
黒の
♞ ♝ ♞ ♝ ♝ ♞ ♝ ♞
ガッ――!
「……ブッ」
ヨハンの顔が跳ねる。
ガッ――!
「ぐ……!」
さらに一撃。
ガァン――!!
「がっ……!」
最後の一撃が、その顔面を打ち抜いた。
たまらず、後ろに飛び退くヨハン。
「はあ……はあ……」
ヨハンが血痰を吐き捨てる。
だが、その
「…………」
低く腰を落とす。
カレンが歩み寄る。
ザ……。
ザ……。
あと半歩。
ヨハンの剣が届く、その境界。
カレンが止まった。
「…………」
グッ……!
ヨハンが柄を握り込む。
その瞬間――。
カレンが、ふと空を見上げた。
「……?」
ヨハンの片眉が吊り上がった。
ス……。
カレンが懐から何かを取り出す。
そして――放り投げた。
ふわ……。
「………ぁ」
白い
傷だらけの小さな駒が、寒空に弧を描く。
ヨハンの目が――それを追った。
(カチン――!)
分針が跳ねる。
♖ ♖ ♖ ♔ ♔ ♖ ♖ ♖
白黒の盤上。
白の
その背後。
カレンがいる。
向かい合うのは、亀裂の走った黒の
「
(ガ……!)
右手。
白い一閃が、黒の
♜ ♜ ♜ ♚ ♚ ♜ ♜ ♜
ズドッ――!!
「うぐ……!?」
カレンの剣が、ヨハンの右腹を貫いていた。
「…………ッ!」
血が、雪へ落ちる。
ヨハンの視線が、ゆっくりとカレンへ戻った。
ヨハンが後ろへ跳ぶ。
傷口を押さえることもなく、
「ぬううぅ……!」
黒と赤の光彩が、激しく渦を巻く。
対するカレンは、純白の髪を雪風になびかせたまま動かない。
「……死ね」
ヒュバ―――――
ヨハンの姿が消えた。
カキキーン―――――!!
「……なっ」
右から――左へ。
カレンの剣が一瞬で持ち替えられる。
灰色の閃光が、ヨハンの一撃をその出端から弾き潰した。
「…………ッ!」
(カチン!)
分針が跳ねる。
♙ ♙ ♙ ♕ ♕ ♙ ♙ ♙
白黒の盤面。
カレンの左手から、剣が離れる。
右手が、その柄を掴んだ。
(ス……)
白い刃が、大上段へ上がる。
黒の
その喉元へ、一つの
「
(ヒュン――!)
黒の
♟ ♟ ♟ ♛ ♛ ♟ ♟ ♟
ザシュッ――――!
「……っ!」
ヨハンの左手。
人差し指から小指まで――四本の指が宙を舞った。
その中に、銀色の指輪がある。
「…………」
指輪は切断された薬指ごと、雪へ落ちた。
バサッ……。
「…………!」
ヨハンの目が、その場所を追う。
膝が雪へ落ちた。
それでも、右手の
ガキィィン―――!!
カレンが右手で受ける。
即座に剣を左手へ。
ヒュンッ!
低い位置から振り上げられた刃が、ヨハンの首元を掠めた。
プツン。
「……!」
ロケットの鎖が切れる。
金色の小さな塊が、吹雪の中へ舞い上がった。
そのまま落ちてくる。
カレンの前へ。
シュパ――!
右手が、それを掴んだ。
「……っ!」
「ぁああッ!!」
ヨハンが突っ込んでくる。
カレンは避けない。
右手で握ったロケットを――その眼前へ突き出した。
「……っ!?」
ヨハンの身体が止まった。
「…………」
視線が、ロケットへ吸い寄せられる。
ヨハンの掠れた声が漏れた。
「…こいつは…まさしく――――」
その背後。
馬車の中から、エルザの声がした。
「……
カチッ……。
ロケットの留め金が外れる。
(カチン!!)
蓋が開いた。
♙ ♙ ♕ ♯ ♯ ♕ ♙ ♙
白黒の盤面。
カレンは右手を突き出している。
その先で、黒の
足元から、白の
そして。
背後の柱時計。
その針が――十三時を指している。
(ボーン……)
一つ。
(ボーン……)
二つ。
(ボーン……)
三つ。
鐘が鳴る。
あり得ない時刻を、あり得ない数だけ。
(ボーン……ボーン……ボーン……)
白黒の盤面が、ゆっくりと白へ溶けていく。
(ボーン……ボーン……ボーン……ボーン……)
十一。
十二。
(ボーン……)
十三。
最後の鐘が鳴り響いた。
♚ ♚ ♚ ♚ ♚ ♚ ♚ ♚
白。
眩しいほどの白。
やがて、その中に一つの部屋が浮かび上がる。
柔らかな陽射し。
温かな空気。
ベッド。
(ふふ……うふふ……)
少女の笑い声。
「…………」
毛布に包まれた少女が、こちらを見ていた。
逆光で、その顔はよく見えない。
それでも――。
笑っている。
『だいすきだよ―――』
「…………」
その声だけが、静かな部屋に残った。
♔ ♔ ♔ ♔ ♔ ♔ ♔ ♔
――ぽた。
――ぽたぽた。
白い雪へ、赤が落ちる。
「…………」
カレンの左手。
その剣が、ヨハンの胴を深く貫いていた。
「…っ……レ…ン…」
ヨハンの唇が、僅かに動いた。
ブシュ……!
カレンが剣を引き抜く。
右足で、ヨハンの身体を突き放した。
ドサッ……。
仰向けになった身体が、雪へ沈む。
「…………」
カレンは右手に握ったロケットを見る。
一瞬。
そのまま――放り捨てた。
ザ……ザ……。
おもむろに倒れたヨハンへ近づく。
右手を、その懐へ入れる。
ゴソゴソ……。
「…………」
指先が、何かを掴んだ。
ブチッ!
引き抜かれたのは――血に濡れた金袋。
カレンは、それを握りしめた。
「かえしてもらうぜ―――」
踵を返す。
そして、雪を踏む。
もう、後ろは見なかった。
~ 【エピローグ】へと続く ~