シュピーゲル 〜不眠の傭兵と猛毒の令嬢、17歳の暗殺事件〜 作:氏家まさら
初日の掃除が終わったエルザの自室。応接間にはまだガラクタが山をなしているが、どうにか生活できるだけの床は見えていた。
エルザは寝室へは向かわず、応接間のソファにドカっと音を立てて腰を下ろした。その表情には隠しようのない疲労が色濃く刻まれている。
「そこで寝るのか?」
カレンが左手で枕を差し出した。すでに彼女の意図を察しているような、静かな問いだった。
「そうよ!……悪い?」
バッ…!
エルザは乱暴に右手を伸ばし、カレンから枕をひったくった。
バフっ…
そのまま枕をソファの端に叩きつけるように設置すると、勢いよく横になる。カレンに背を向け、拒絶を示すように丸まった。
エルザはさらに、近くにあった毛布を乱暴に手繰り寄せ、自身の身体を覆い隠した。あからさまな拒絶の反応。だがその背中は、どこか孤独を恐怖する脆さを孕んでいた。
ギギィー……。
カレンは全く動じることなく、エルザが使っていた椅子をソファのすぐ近くまで引きずった。
「……あ」
床を擦る音に、エルザが敏感に反応した。彼女はカレンの方へ寝返りを打ち、身体を反転させる。
「それ、私の椅子なんだけど……。誰が使っていいって言ったの?」
「……悪い。使っちゃダメとも言われてないんでね」
ドカッ…!
カレンは嫌がらせのように、あえて音を立てて椅子に腰を下ろした。腕を組み、足を組む。その不敵な態度に、エルザの肩が怒りでプルプルと震え出した。
「どうしたお嬢様?今日は疲れたろ。そんなにイライラしてたら眠れないぜ?」
カレンがさらに薪を焚べる。
「……あんたね……!」
エルザは引きつった笑いを浮かべた。怒っているのか、あるいは笑い出したいのか――感情の境界線が曖昧になった、危うい表情だった。
ドン!!
突如、部屋の壁を外側から強く叩く衝撃音が響いた。一瞬にして、二人の顔から表情が消える。
「ちょっとぉ~。落とさないでよ~」「ごめ~ん。つい」
廊下から、わざとらしい
ドーン…!!
先ほどよりもさらに大きな音。部屋全体が小刻みに振動した。エルザの瞳から急速に光が消え、その顔は深い虚無に支配された。
「……随分騒がしい隣人が住んでるんだな」
カレンがごく普通のトーンで言った。
「……そうよ。とんだ
エルザは虚無の表情のまま応じた。外ではドン、ドンと壁を叩く音と、廊下をどすどすと乱暴に歩く足音が絶え間なく続いている。
ガリッ。
カレンは懐から一本のウインナーを取り出すと、面倒そうにそれをかじった。
「これじゃあ、幽霊も逃げ出すぜ」
投げやりなカレンの言葉の裏で、壁を叩く音はさらに激しさを増す。
ドカッ!ドン!
「……ぅ」
エルザの顔に小さく苦悶が刻まれた。彼女はおぼつかない、焦るような動作で懐をまさぐり、一本の『小瓶』を取り出した。その身体は微かに震えている。
カレンの目が、鋭くその薬瓶を捉えた。彼女は、それが自身が常用しているものと同じ類の代物であることを敏感に察知した。
グビッ……。
エルザは周囲の騒音をかき消すように、目を閉じて一気に中身を飲み干した。そして、空になった瓶を無造作に床へ投げ捨てる。
「……はあ……はあ」
カレンは左手で床に落ちた空の瓶を拾い上げて、『ソレ』を虚無の表情で見つめた。
「……飲みすぎは良くないぞ」
彼女はエルザに視線を戻して淡々と告げた。しかし、そこには至って真摯に主を案ずる響きが込められている。『ソレ』に溺れた先に何が起こるか、彼女は身を持って体感していた。
「うるさいわね……!ほっといてよ」
エルザはカレンと目を合わせず、仰向けになると右腕で両目を覆い隠した。
「……うるさくて眠れないのよ」
ごそごそ……
カレンは黙って自分の
「……?」
その様子が気になったのか、エルザが腕の隙間からチラリとカレンを盗み見た。
「ほれ」
カレンが取り出したのは、布を巻いた小さな二つの筒だった。
「……何よそれ?」
エルザは仰向けのまま、視線だけをその物体に向けた。
「ああ、これか?私の自作だがな。寝ている間、これを耳に入れるんだ。少しは紛れるぞ」
「……え!?何それ恐っ……!嫌よ。取れなくなったらどうすんの?」
エルザの顔に怯えが走る。
「奥まで入れすぎなければ大丈夫だよ。……まあ、怖いならやめとくか。お嬢様は怖がりだもんな」
カレンはそれを再び鞄にしまおうとした。
ドン!!
廊下から再び大きな音。
「……ッ!」
エルザは苛立ちのあまり顔をしかめると、観念したように腕を下げ、目を閉じた。
「わかった!やるわよ。……じゃあ、はめなさい!」
「……ったく、
カレンは椅子から立ち上がると、エルザの枕元へ歩み寄った。右手を伸ばし、エルザの左耳を捉える。
「入れるぞ~」
「……」
エルザはグッと目を閉じ、恐怖で身体を小さく震わせた。
「ほい」
ス、と耳栓が挿入される。
「……ぅ!」
エルザがビクッと身体を跳ねさせた。
「ほい、次~」
「え、ちょっと……」
エルザが目を閉じたまま抗議の声を上げる。カレンは左手で二つ目の耳栓を持つと、迷いなくエルザの右耳へ突き立てた。
「ほい」
ズドッ。
「ぎゃっ」
エルザは目を閉じたまま、大きく口を開けて悲鳴を上げた。
「どうだー?」
「……よくわかんないけど、変な感じ。あんたの声が遠くなって、自分の声が頭に響くわ……気持ち悪い」
エルザは目を閉じたまま、弱々しく毒づいた。
「……むしろ、あんたの鬱陶しい気配をより感じるじゃない。屈辱だわ」
「……なら成功だな」
カレンは再び椅子に座り、身を預けた。
ドンッ!!
壁を叩く音が室内に響く。
「……はあ……はあ」
音が遠のいたからか、あるいは薬の効力が回ってきたのか。エルザの呼吸は次第に深くなっていった。
「すー……すー……」
やがて、規則正しい寝息が静寂の中に溶け込んでいく。
ガリッ。
カレンは残ったウインナーを最後の一口までかじり終えると、暗がりの中で深く椅子に背を預けた。
◆ ◆ ◆
「……うっ!」
眠っていたはずのエルザが、急に呻き声を発した。
「……?」
カレンが落としていた視線をエルザの方に素早く向けた。
「……いや!?……やめて!!」
エルザの声が響く。眠りの中で身体を軽く反り返らせ、何かに怯えるように
カレンは無表情のまま素早く腰を上げると、ソファの枕元まで移動し、床に片膝をついた。
「おい。大丈夫かー」
彼女は右手を伸ばし、エルザの頭を優しく撫でた。
「……はあ……はあ……」
エルザの呼吸は荒い。彼女は救いを求めるように、震える左手を宙へと彷徨わせた。彼女が無意識に突き出したのは鋭利なナイフを振るわせた右手では無く、弱々しく儚げな左手であった。
カレンはその左手を真っ直ぐに見つめた。彼女はエルザの頭を撫でていた右手を、ゆっくりとその手の方へと近づける。
バッ……!
眠っているはずのエルザが、カレンの右手を素早く掴み取った。
「……はあ……はあ……」
エルザはそのまま、カレンの右手を自身の胸元へと強く引き寄せた。
「すー……すー……」
激しい呼吸が、次第に穏やかなものへと変わっていく。
エルザはカレンの右手を、自身の左手でしっかりと胸に押し当てた格好のまま、深い眠りに落ちていった。カレンは、やや不自然な姿勢のまま固定された。
トクン…トクン…
彼女の右手の甲に、エルザの生きた鼓動が伝わってくる。
「……はあ~」
カレンは諦めたように溜息をついた。
「……ったく。世話のかかるガキだぜ」
ソファの傍らで片膝をつくカレンと、その右手を胸に抱いて眠るエルザ。部屋には再び、静かな寝息だけがこだましていた。
「あ~……疲れた」
一日の疲れがドッと押し寄せたかのようにカレンが独り言ちた。それでも