『蒼』は荒野を駆ける 作:ぶっぱなす
砂と鉄錆の匂いが風に溶けて鼻の奥を灼いた。
時速百キロで流れる荒野はとうに色を失い、ただ黄土色の帯となって背後へ千切れていく。
俺は左手でハンドルを握り直し、右のグリップを一息に開けた。
腹の下で三基のエンジンが咆哮を上げる。
大破壊前の技術で組まれた心臓は、この死んだ世界の空気を吸って奔放に躊躇なく回った。
やがて見えてくる正面。
枯れ果てた岩山の裾に、山と見紛う肉の塊が蹲っている。
いや、蹲っているのではない。
あれは今まさに立ち上がろうとしているのだ。
灰色の脂肪が波打ち、砂を押しのけて背が伸びる。
背骨に沿って並んだ肉の瘤がひとつずつ裂けて、内側から黒光りする砲口を覗かせた。
「ベヒムースだ、間違いないな」
左のサイドカーからフェイの声が飛んできた。
風防越しでも通る低く落ち着いた声だ。
その手には既に愛用のライフルが握られ戦闘準備が整ったことを告げている。
「賞金は二万Gだったな……おいシオン。仕留めるのはいいが的が随分と育ってるようだぞ」
「そりゃあ、三ヶ月前の手配書のままなら、な」
少し投げやりに返しながら、俺は口の端を歪めた。
この破滅の荒野のバイオモンスターは食う分だけ膨れる。
手配書の絵姿など、あくまで参考程度の代物でしかないのだ。
そうしているうちに右のサイドカーで金髪が跳ねた。
ミシカが座席の縁に片膝を立てて身を乗り出している。
その手の中で、弦を張った黒い弓が軋んだ音を立てた。
「育ってるならその分お肉が多いってことでしょ! 賞金の上乗せ交渉すればいいじゃん!」
「交渉相手はハンターズオフィスだぞ、ミシカ」
「じゃあ倒してから考える!」
実に彼女らしい結論だった。
兄のフェイが呆れたように鼻から息を吐くのが、風の中でも伝わってくる。
その瞬間、ベヒムースの背が完全に伸び上がった。
八つの砲口が一斉にこちらを向く。
『——警告。前方の生体反応より加圧を検知しました』
耳元で少女の声が鳴った。
澄んでいて、少しだけ高い。
前世で聞き覚えのある声だと初めて思った時から、俺はこの声に妙な親しみを覚えている。
『射線は八。着弾予測まで一.二秒です。シオンさん、回避を推奨いたします』
「推奨じゃなくて命令でいいぞ、蒼」
『いいえ。ハンドルを握っているのはシオンさんですので』
律儀な奴だ。
俺は笑いながら体重を右へ落とし込んだ。
デュランダルが傾く。
三輪ではなく、あくまで一台のバイクとして荒野を噛む。
両脇にサイドカーを抱えたこの重量物が、自転車みたいに素直に寝てくれるのだから何度乗っても愉快だった。
轟音。
八つの粘液弾が空気を裂いて追ってくる。
一発目は右へ流して置き去りにした。
二発目と三発目は、着弾で跳ね上がった砂煙をそのまま盾に使う。
「ちょっと近い! 近いってば、シオン!」
「近くないと当たらないだろ、ミシカ」
四発目が左の岩肌を溶かした。
硫酸めいた煙が這い上がってくる。
俺はブレーキを弾くように叩き、リアを滑らせて車体を横向きに投げ出した。
五発目と六発目が、たった今まで俺たちがいた空間を薙いでいく。
サイドカーの車輪が浮き、ミシカの短い悲鳴と歓声が混ざった音が上がった。
その浮いた一瞬でフェイが撃った。
乾いた銃声がひとつ。
ベヒムースの右目の粘膜が弾け、巨体が僅かに仰け反る。
「やるじゃないか、シオン」
着地の衝撃を膝で吸いながら、フェイが薬莢を捨てて言った。
賞賛に嘘のない男だ。
だからこそ、その言葉はいつも少しだけ重い。
「今のは俺の腕じゃないさ、フェイさんの射撃だ」
「馬鹿言え。止まってる的を撃つのなんざ誰にでもできる。あの弾幕の中で俺に照準の時間をくれたのはお前の運転だろうが」
七発目と八発目が同時に来た。
俺は一度アクセルを抜き、車体を沈めてから真下を潜るように加速する。
粘液が頭上を通過して、熱い雫が肩に落ちた。
「でも躱すだけじゃ倒せないよ!」
ミシカが叫んだ。
その言葉と同時に、弓が唸る。
放たれたのは矢ではなく、矢の形をしたダイナマイトだった。
鏃の代わりに雷管を括りつけた無茶苦茶な代物が、白い煙の尾を引いてベヒムースの喉へ吸い込まれていく。
轟音と共にダイナマイトが炸裂する。
肉の壁が内側から膨らみ、灰色の体液が滝のように零れた。
それでも巨体は倒れない。
「ほらー! 効いてるけど足りないじゃない! シオン、なんとかしてってば!」
「もちろん分かっているさ、ミシカ!」
俺はハンドルを切り返した。
砂を巻き上げてベヒムースの正面へ向き直る。
逃げるためではなく、真正面から食い破るためだ。
「行くぞ、『蒼』!!」
『——はい。シオンさん』
計器盤の青い光が一段濃くなった。
デュランダルの中枢に眠るAIが、初めて牙を剥く時の色だ。
『主砲、起動いたします。砲身冷却、良好。装填、完了』
ハンドルの奥から機構の噛み合う音が響いた。
車体の前面が割れ、収まっていた砲身がせり出してくる。
バイクに載せるには明らかに無茶な口径のそれが、鈍い光を放って前を向いた。
『相対速度、補正いたします。路面の起伏、三点先まで読み上げます。……小、中、大。大の頂点で車体が最も安定いたします』
「頂点で撃つ。合わせろ」
『かしこまりました。わたくしが照準をお預かりします。シオンさんは、ただ真っ直ぐに』
真っ直ぐに走ればいい。
それだけを言うために、この機械は毎回わざわざ言葉を選ぶ。
小さな起伏を越えた。
そして、中くらいの窪みを越えた。
ベヒムースが最後の砲門を開く。
零距離の弾幕が来る。
その手前で、大きな岩の隆起が来た。
デュランダルが跳ねる。
前輪が浮き、車体が宙で水平になる。
世界から音が消えた一瞬に、青い光が視界の端で収束した。
『照準、固定。——どうぞ』
俺は引き金を絞った。
轟音は聞こえなかった。
代わりに腹の底を殴られるような衝撃が来て、視界が真っ白に灼けた。
弾芯はベヒムースの開きかけた喉笛を貫き、背骨を辿って背中から抜けていった。
山のような巨体が一瞬だけ静止する。
それから、糸の切れた人形みたいに前のめりに崩れ落ちた。
着地。
サスペンションが悲鳴を上げ、俺は三十メートルほど砂を引きずってようやく止まった。
砂煙が晴れる。
2万Gの肉の山は二度と動かなかった。
『……戦闘終了を確認いたしました。お疲れ様です、シオンさん』
「そっちこそ。ナイスアシストだ、蒼」
『いいえ。わたくしは撃つべき時をお伝えしただけですので』
「そういうのを謙遜って言うんだぞ」
『では、そのように記録しておきます』
エンジンの余韻が収まっていく。
両脇のサイドカーからは、しばらく何の音もしなかった。
やがてフェイが、ゆっくりと拍手をひとつ打った。
「シオン……お前、いつか本気で人間をやめるんじゃないか」
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めてる。心底な」
そして反対側では。
「あー! シオンが最後のおいしいとこ持ってった! あたしのダイナマイト矢が喉に穴開けたから通ったんだからね! 半分あたしの手柄だから!」
ミシカが弓を振り回しながら喚いていた。
その頬に返り血めいた体液が跳ねているのに、本人はまるで気にしていない。
俺はヘルメットを外して、汗の張りついた前髪をかき上げた。
「はいはい。分かってるよ、ヤマネコさん」
「ヤマネコって呼ぶなー!」
荒野に、間の抜けた怒鳴り声が響いた。
日が落ちるまでにベヒムースの解体を終えた。
賞金首の証明になるのは頭部の一部か、あるいは体内に埋まった識別核だ。
ベヒムースのような大型バイオは後者に当たる。
喉の奥から掘り出した拳大の結晶を布に包み、俺は防水袋の底へ押し込んだ。
キャンプは風下の岩陰に張った。
デュランダルを壁代わりに寝かせ、その陰で焚き火を熾す。
乾いた枯れ木は燃え方が素直で、火の粉ばかりが元気よく空へ昇っていった。
「ほら、焼けたよ」
ミシカがナイフの先に刺した肉塊をこちらへ突き出してくる。
ベヒムースの尾の付け根から切り取った、比較的まともな部位だ。
表面がいい具合に焦げて、脂の弾ける音がしていた。
「毒はないんだったな」
「蒼が『検出されませんでした』って言ったもん。ね、蒼?」
『はい。既知の神経毒および重金属の反応はございませんでした。ただし個体差がございますので、初口は少量から召し上がることを推奨いたします』
「ほらー、大丈夫だって」
「あのな、後半を聞けよ」
俺は苦笑しながら受け取った。
噛むと硬いが、味は悪くない。
獣とも魚ともつかない濃い脂が舌に絡んで、荒野を一日走った身体にはこれが一番染みる。
フェイは肉には手をつけず、ライフルを分解していた。
布を通し、油を差し、また組み上げる。
この男は食う前に必ず銃の面倒を見る。
「明日エルニニョまで走れば、換金は昼前だな」
フェイが手元を見たまま言った。
炎の照り返しで、目元の古い傷跡が濃く浮かび上がる。
「2万Gを三等分。……いや、修理費を先に抜くか。あのサイドカーの足回り、右側の調整が必要だろ?」
「よく分かるな」
「着地の音が左右で違っていた。お前の運転が下手になったのかと思ったが、そんなのあるわけないからな。そういうことなら納得だ」
「これで生きているんだ、下手になった説を検討するのはやめてくれよ」
ミシカが噴き出した。
口の中の肉を危うく火に落としかけて、慌てて片手で受け止めている。
「ねえシオン、思ったんだけどさ」
「どうしたんだ、ミシカ?」
「なんであんたって、そんなに運転が上手いの」
火が爆ぜた。
唐突な質問だった。
だがミシカに他意がないのは、その顔を見れば分かる。
純粋に不思議で仕方がないという顔だ。
「あたし、あんたが運転するデュランダルに乗った日を憶えてるよ。あの時からおかしかったもん。誰にも教わってない筈なのに、いきなり怖いぐらい上手に乗れちゃってた」
「才能だよ」
「うーん、そういうのじゃなくてっさ」
「じゃあ、天からの授かりものってことにしておくよ」
俺は肩をすくめて、それ以上の説明を放棄した。
実際、それ以上の説明を俺は持っていない。
前世の俺はペーパードライバーの、ごく普通の日本人だった。
それがこの身体に入った途端、車輪のついたものなら何であろうと手足のように扱えるようになっていた。
理屈は分からない。
だから俺はこれをよく言う『転生特典』と呼んで納得することにしている。
神様とやらがいるなら随分と偏った贈り物をよこしたものだ。
「授かりもの、ねぇ」
フェイが組み上げたライフルの遊底を鳴らした。
乾いた金属音が、夜の岩陰に短く反響する。
「マリアも似たようなことを言っていたぞ。お前を見た時、あれは『拾い物にしては上等すぎる』とな」
「いや、拾われた憶えはないんだけどさ」
「言葉の綾だ。……あいつは滅多に人を褒めん。憶えておけ」
マリアの名前が出た瞬間、胸の奥がわずかに軋んだ。
俺はそれを顔に出さないよう、肉を口に運んで誤魔化した。
焚き火の音が、やけに大きく聞こえる。
「レナは元気か」
「ああ。この前アズサに寄った時は、マリアに借りた散弾銃で空き缶を撃ち抜いてた。十発中八発だとさ」
「上等だ。あの歳でそれなら化ける」
「化けなくていいんだよ、あいつは」
つい、本音が漏れた。
フェイは何も言わなかった。
ただ、燃える枝を一本くべ直しただけだった。
「この兄バカ」
ミシカが横から短く刺してくる。
「否定はしないさ」
「あたしはさ、レナがハンターになるって言うなら応援するけどね。だってカッコいいじゃん、自分で決めたんでしょ」
「……ああ。自分で決めたんだ、あいつは」
だからこそ厄介なのだ、と俺は思った。
自分で決めた人間は止まらない。
この世界で、俺が誰よりもよく知っていることだった。
翌日の昼前にはエルニニョへ着いた。
大きな町並みの中央に、ハンターズオフィスの色褪せた看板が掛かっている。
髑髏に照準器を重ねた意匠は、この荒野のどこへ行っても同じ形をしていた。
中はいつも通り煙草の匂いで澱んでいた。
壁一面に貼られた手配書と、その前で腕を組んで唸っている男たち。
奥のカウンターで、痩せた受付が指を舐めながら書類をめくっている。
俺は防水袋から結晶を出してカウンターへ置いた。
「ベヒムース。東の岩山の裾だ」
受付の指が止まった。
それから、いかにも面倒くさそうに結晶を持ち上げて灯りに透かす。
「……本物だな。おいおい、三ヶ月前から誰も手をつけなかったやつだぞ。何人で行ったんだ」
「三人だ」
「戦車は」
「持ってない」
受付が顔を上げた。
その視線が俺の背後にいるフェイとミシカを通り過ぎて、開いた扉の外へ向かう。
道端に停めたデュランダルが、砂まみれの車体を陽に晒していた。
「……あのバイクで、か」
「ああ、あのバイクで、だ」
しばらく沈黙があった。
やがて受付は溜め息とも呻きともつかない音を出して、金庫の鍵を回した。
「二万G。証明料と手数料で二千引く。文句は本部に言え」
「言わないよ」
「賢いな。……おい兄ちゃん、名前は」
「シオン」
「隼のフェイの連れか」
「連れじゃない」
フェイが後ろから口を挟んだ。
「相棒だ」
受付の眉が上がった。
ミシカが得意げに鼻を鳴らして、俺の脇腹を肘で小突いてくる。
俺は札束を受け取りながら、何とも言えない気分でそれを聞いていた。
——嬉しくないわけがない。
隼のフェイに相棒と呼ばれて、喜ばない人間がこの荒野にいるものか。
ただ。
その言葉を素直に飲み込めるほど、俺の腹の中は綺麗にできていなかった。
オフィスを出ると、正午の陽が容赦なく降ってきた。
ミシカは早速屋台の方へ駆けていき、フェイは弾薬屋の看板を見上げている。
俺は日陰にデュランダルを移して、その車体に背を預けた。
賞金一万八千G。
三等分して六千か、悪くない一日だ。
けれども、そんな悪くない一日を、俺はもう何十回も繰り返している。
機械を狩り、モンスターを狩り、賞金を受け取り、また走る。
この世界のハンターは皆そうやって生きているし、俺もその一人になった。
「竜退治はもう飽きた」
そんな古い文句が、ふと口をついて出た。
前世で読んだ広告の惹句だ。
剣と魔法に飽きた奴らが、戦車を担いで荒野へ出ていく話。
その荒野に、俺は今、実際に立っている。
『シオンさん。何かおっしゃいましたか』
「独り言だ。……そうだな、正直に言うか」
『はい』
「機械退治ももう飽きた」
デュランダルの計器盤が、青い光をひとつ瞬かせた。
『飽きた、と申しますと』
「そのままの意味だよ」
俺は空を見上げた。
ノアの大破壊から数えて何十年になるのか、正確な年数を知る者はもういない。
それでも空は青くて、間の抜けるほど広い。
嘘だ、と自分で思った。
飽きたわけじゃない。
怖いだけだ。
俺の頭の中には、これから起こることの目次が入っている。
いつ、どこで、誰が死ぬのか。
順番まで含めて、俺は最初から知らされている。
隼のフェイは死ぬ。
不死身と呼ばれた女ソルジャーも死ぬ。
赤いモヒカンの男が笑いながら引き金を引いて、この荒野の一番いい部分を持っていく。
それが俺の知っている『物語』だ。
両親は救えた。
あれは全部、マリアの腕と俺の悪あがきが噛み合っただけの奇跡だった。
二人は今もアズサで、朝になれば店を開けて夜には灯りを消して眠っている。
一度書き換えられたのだから、二度目もできるはずだ。
そう思ってここまで来た。
だが、こうして荒野を走って賞金首を撃って、焚き火を囲んで馬鹿な話をしていると。
時々どうしようもなく分からなくなる。
俺は未来を変えようとしているのか。
それとも、変わらない未来から目を逸らすために走り続けているだけなのか。
「……蒼」
『はい』
「俺がもし、とんでもなく身勝手なことをしようとしたら。止めてくれるか」
しばらく間があった。
機械にしては、長すぎる間だった。
『いいえ』
「……即答だな」
『申し訳ありません。わたくしはシオンさんの手足ですので、止め方を存じません……ですが、隣で一緒に間違えることはできます』
「それは慰めになってないぞ」
『そうでしょうか。わたくしは、かなり良いことを申し上げたつもりです』
俺は思わず笑った。
屋台の方からミシカが串を三本抱えて戻ってくるのが見えた。
弾薬屋からはフェイが出てきて、箱を小脇に抱えたままこちらへ手を上げている。
なんてことのない、荒野の昼下がりだ。
これを守りたいと思ってしまった時点で、たぶん俺の負けは決まっていた。
——だから、始まりの話をしよう。
俺がまだ何も知らない赤ん坊で。
妹がまだ生まれてもいなくて。
この世界の理不尽さを、身をもって知る前の話だ。
俺、シオンがこの荒れ果てた大地に落ちてきた日のことから。