『蒼』は荒野を駆ける 作:ぶっぱなす
荒野の秋は匂いで分かる。
川筋の水が引いて泥が乾くと、市場の干し肉の匂いが街の端まで届くようになる。
デルタ・リオは涸れかけた川が二股に分かれる場所にあるから、その匂いも二つの方向から重なって流れてきた。
俺は寝床の中でそれを二度嗅いでから起き上がった。
後になってから思いだすのだが、この年の秋のことを俺は日ごとに憶えている。
前の年の秋も、その前の秋も、もう塊でしか思い出せないのにだ。
十三になった。
背はまた伸びて、担架の後ろを一人で持てるようになった。
半年ほど前から声が変わり始めて、そのことについては毎日文句を言っている。
低くなりかけの声というのは、低くも高くもない。
一日のうちに勝手に行き来して、肝心なところで裏返ってしまう。
昨日は開いた腹の前で助手の人に指示を出そうとして、最後の一音だけが子供の声に戻った。
土間の方へ行くと母が竈の前にいた。
「シオン、起きたのかい」
「おはよう、母さん」
「今日は粥だよ。粉が湿気てたからね」
「南から来たやつだろうね。船に積んだのは大体そうなってしまう」
「あんた、そんなことまで分かるようになったのかい?」
母は笑って匙の背で鍋の縁を叩いた。
父はもう出たあとらしく、寝床の脇に畳んだ上着だけが残っている。
そして今朝も、胸のあたりの高さで何かが待ち構えていた。
「お兄ちゃん、おはよう」
「ああ、おはよう、レナ」
「今日はどこにいくの、お外にはいくの?」
「外にはいかない、診療所だけだよ」
「え、ほんとう? くつは」
「ほら」
俺は片方の靴を持ち上げてみせた。
底の薄いほうだ。
六つになった妹は靴の裏を三秒ほど確認してから、ようやく俺の袖から手を離した。
この妹は俺が門を出る日と出ない日を靴で見分けているが、去年あたりからは靴だけでは信用しなくなった。
今は靴を見て、それから俺の目も見ている。
「じゃあ、かくれんぼは?」
「今日はやらない」
「えー、やろうよー」
「明日はやる。明日は父さんも家にいる日だからね」
「ぜったい?」
「絶対だ」
レナはそれで満足したらしく、土間の隅の椅子によじ登って粥を待ち始めた。
かくれんぼ、と呼んでいるが、実際のところそれは遊びではない。
去年の春に俺が始めた避難訓練だ。
俺が土間で手を二度叩いたら、レナは母を呼んで、父を呼んで、三人で市場の裏へ回る。
そこから涸れ川の暗渠まで行って、俺が迎えに行くまで出てこない。
道順は三通り決めてある。
市場が通れない時、北の道が通れない時、家から出られない時。
妹はそれを、どの道が一番早いかを競う遊びだと思っている。
六つの子供に避難の道順を仕込む親はいない。
だから俺はそれを遊びの形にした。
自分で自分に言い訳をしていたのだと、今なら分かる。
母は最初のうち呆れていた。
「そんなに家が心配なら、あんたが家にいなさいよ」と言われて、俺は何も返せなかった。
父は何も言わなかった。
言わないままではあったが、その週のうちに暗渠の入口の腐った板を全部取り替えていた。
そんな父の工房は家の裏にある。
戸を開けると、鉋屑と膠と油の匂いが一緒に出てくる。
父は作業台の前で、鉄の帯を万力に噛ませて叩いていた。
「父さん」
「おう」
「今日は俺、診療所だけだから」
「そうか」
それだけの返事で、手は止まらない。
この人はいつもそうだ。
用があるなら向こうから言え、という顔で黙って手を動かしている。
俺は戸口に立ったまま、その手をしばらく見ていた。
分厚くて、日に焼けていて、爪の間に油の黒が入っている。
親指の付け根の皮が硬く盛り上がっていて、そこだけ色が違う。
道具を握る場所というのは、人によって違う位置に印が残る。
「どうした?」
「いえ。何でもないよ」
「シオン、お前は気味の悪い見方をするな」
「すいません、職業病です」
父は鼻から息を出した。
笑ったのだと思う。
この人の笑い方は分かりにくい。
「シオン、弦の台な。あれの高さを一寸上げた」
「ああ、ミシカのですか」
「戻ってきたら文句を言うだろうが、背が伸びてるからな」
俺は少し驚いたが、それから頷いた。
この人は本当に、必要のないことしか言わない。
診療所は街の端にある。
朝の列は今でも毎日できている。
ただしその半分はロールが先に片付けてしまうし、残りの半分の順番も彼女が決める。
「チビ、四番は北から来てるよ」
「北のどこですか?」
「四日かかったって言ってる」
俺は紙束から顔を上げた。
四日というのは、ノボトケとほぼ同じ距離だ。
腹の傷でも骨でもない患者が、四日かけてこの街まで来る理由は一つしかない。
「……俺の名前を聞いて来たんですか」
「そうだろうね」
「誰からでしょう?」
「そこまでは知らないよ。あたしは受付じゃないんだ」
ロールは煙草を耳に挟んだまま肩をすくめた。
この人は診療所の中では絶対に吸わない。
一日に三本、外の壁のところでだけ吸う。
耳に一本挟まっているのは、まだ仕事が終わっていないという意味だ。
「嬉しくはないのかい?」
「嬉しいですよ。ただ――」
「ただ?」
「四日歩ける人が四日歩いてくる街に、四日歩けない人が何人いるかって話です」
ロールは何も言わずに、俺の頭を紙束で軽く叩いた。
診察のあとで分かったが、四番の男の膝は俺でなくても治せるものだった。
近くの医者に断られたのだという。
断った理由は「デルタ・リオには若きゴッドハンドがいる」だった。
これには少し腹が立った。
腹が立ったが、俺はそれを顔に出さないだけの分別を、この二年でようやく手に入れていた。
「若きって言われました」
「帳面に書いてあるからね」
「おかしいな、幼きだったはずなんですけどね」
「そりゃあ、あんたの背が伸びたからだろ」
「勝手に更新しないでほしいんですが」
「そこまで言うなら、止まってりゃよかったんだよ」
俺は黙って手を洗いに行った。
ここで、みっともないことを一つ書いておく。
書かないと、この後の話がどうしても通らない。
実のところ俺はこの人に惚れていた。
十三の身体で、三十を越えた女にだ。
中身が何歳だろうと、見た目が見た目である以上笑い話にしかならないのは分かっている。
両親は俺を息子として見る。
街は俺を奇跡として見る。
妹は兄として見て、フェイさんは組める相手として見る。
ロールだけが、俺をチビと呼んだ。
奇跡扱いも子供扱いもしなかった。
投薬の匙加減では自分の方が上だと言い切って、俺が間違えれば襟を掴んだ。
この街で俺と同じ仕事をしている人間は、この人しかいない。
それだけの話だ。
それだけの話だったが、六年かかって今俺の中ではこういう形になった。
もちろん言うつもりは一度もなかった。
言えば終わるからだ。
俺が持っているただ一つの、歪んでいない関係が、その日から別のものになる。
だから俺は六年かけて一言も言わなかった。
代わりに、この人の煙草の本数を数えていた。
三本より多い日は、その日のうちに誰かが死んでいる。
フェイさんとミシカが街を出たのは、一月ほど前だ。
去年の春、ミシカの腕が治ってからのこの一年半で、二人の暮らし方は変わった。
兄妹はデルタ・リオの宿に部屋を一つ取っている。
出るのは荒野で、帰るのはこの街だ。
マドの宿の二階で九年待った娘は、今は待つ側をやめている。
「あんた、あたしの矢の重さ計ったでしょ?」
「計りました。三本だけ重いですね」
「なんで?」
「作った日が違うからでしょう。同じに作ったつもりでも、膠の乾き方が変わります」
「……シオン、あんたはほんとに気持ち悪いね」
「褒め言葉として受け取っておきますよ」
そういうやりとりを、この一年半で数えきれないほどやった。
出ていく前の日、ミシカは診療所の戸口に立ってこう言った。
「三月かかるって」
「長いですね」
「東の外れまで行くんだって。トレーダーが十二台も出すの」
「気をつけてくださいね」
「シオン、あんたが言うんじゃないよ」
その言い方が完全に正しかったので、俺は反論しなかった。
この依頼を持ってきたのは俺だ。
去年の秋にこの街で診た商人の縁で、東への長い護衛の口が空いた。
金がよくて、期間が長くて、二人で受けられる仕事だった。
フェイさんは荷を担ぎ直しながら、いつもの癖で一度だけ視線を横へ逸らした。
「三月だ」
「はい」
「あいつが東で何かやらかしたら、帰りに寄って謝らせる」
「何もやらかさない前提で送り出してください」
「……無理を言うんじゃない」
それだけだった。
二人は翌朝になったら北の門から出ていって、砂の色に紛れてすぐ見えなくなった。
ミシカは一度も振り返らなかったし、フェイさんは二度振り返った。
どちらもこの兄妹らしいなと思った。
それから三月のうちの、一月が過ぎていた。
その一団が市場に入ってきたのは、それから四日後のことだった。
荷車が四台。
牽いているのは四輪で、二台は幌つきのもの、二台は板を組んだだけの荷台だ。
人は十一人いた。
俺は往診の帰りにその横を通った。
通っただけだ。
それだけで、足が勝手に止まった。
前輪の減り方が全く合っていなかった。
海沿いの道を来た車は、塩と細かい砂で表面から一様に薄くなる。
岩場を来た車は、そういう減り方をしない。
角が欠ける。
四台のうち三台の前輪は、はっきりと欠けていた。
「兄さん。何か用かい」
幌の陰から男が一人出てきた。
四十くらいで、背は低くて、笑い方が上手い。
上手すぎる、と俺は思った。
「いえ。この辺では珍しい車だったので」
「珍しいものではないよ。ただの古いやつさ」
「どちらから来られたんですか?」
「北西から海沿いをぐるっとね。これから北のノボトケまで抜ける」
「そうですか。長旅ですね」
「儲かる旅だといいんだがな」
男はそう言って笑った。
俺も笑った。
歩き出してから、俺は自分の指がまだ動いていることに気づいた。
そう、数えていたのだ。
荷台のロープの擦れ跡、それが今積んである荷より二段ぶん高い位置にあった。
もっと高く荷を積んでいた車なのだろう。
どこかで荷を下ろしている。
そして四台とも、後ろが沈んでいた。
軽い荷しか載っていないのに、ノボトケまで抜けるというのに沈んでいた。
つまり大量の荷を、デルタリオの直前で下ろしているという事だ
午後に、その一団の一人が診療所へ来た。
若い男だった。
二十歳そこそこで、肩の付け根が痛むと言う。
診てみると、大したものではなかった。
「ただの使いすぎですね。二日休めば治りますよ」
「二日は休めねえよ」
「じゃあ三日痛みますね。でもそれだけです、それ以降は残りませんよ」
「あんた、若いのに本当に医者なんだな」
「よく言われます」
俺は肩を診るために、男の上着を脱がせていた。
そこで見た。
左の脇腹に、古い傷が一本走っていた。
塞がってから何年か経っている。
問題は傷ではなく、縫い目だった。
間隔が広い。
一針が深い。
糸を切る位置が全部同じ側に揃っている。
とにかく速く塞ぐことだけを考えた縫い方だ。
綺麗に治すことは最初から諦めている。
そして——同じ縫い方を、俺はその日の朝、市場でもう一つ見ていた。
荷を下ろしていた別の男の腕にあった、肘から手首までの古い傷。
糸を切る位置が、同じ側に揃っていた。
「あの、すみません。この傷、どこで縫ってもらいましたか?」
「……昔のことだよ」
「同じ人に縫ってもらった仲間が、他にもいたりしますか」
男の顔から表情が消えた。
消えたのは一瞬で、すぐに戻った。
戻ったが、遅かった。
「妙なこと聞くんだな」
「職業病です。すみませんね」
「まあ、いいさ。気にすんな」
男は上着を着て、いくばくか金を置いて出ていった。
俺は戸を閉めてから、しばらく壁に手をついて考えていた。
行商というのは、基本的に傷を負わない仕事だ。
負ったとしても、基本的に傷を負うのは護衛のハンターの役目だ。
大きく縫った古傷を三人も持っている集団は、間違っても行商なんかではない。
そういう集団には、専属の医者がついている。
何度も同じように縫う機会がある集団だということだ。
そんな集団、俺の知識には一つしか存在しなかった。
即ち、バイアス・グラップラー。
オルガの作業場は市場の一番奥にある。
俺が戸を開けると、この人は俺の顔を一度見て、それから工具を置いた。
「その顔は仕事だね」
「北の四台、一緒に見てくれませんか」
「あの行商と言ってるやつらかい」
「ええ、行商だと言ってます」
オルガは何も聞かずに立ち上がった。
布で手を拭いて、上着だけ引っ掛けて、市場の方へ歩き出した。
この人はこういう時、絶対に理由を先に聞かない。
俺たちは荷車の列から五十歩ほど離れた樽の陰に立った。
「前輪が欠けてます」
「欠けてるね。あれは、砂浜の海沿いでつくものじゃない」
オルガは腕を組んだまま、しばらく黙っていた。
「シオン、後ろの沈みは見たかい」
「見ました。荷が軽いのに沈んでます」
「床が二重だった。あの高さは板一枚じゃ出ない」
「……何が入ってると思いますか」
「あたしなら燃料だね。あの重さで、あの沈み方なら」
燃料を床下に隠して運ぶ商人はいない。
隠す必要がないからだ。
「あと、もう一つあります」
「まだあるのかい」
「三人とも、同じ手で縫われた古傷を持ってます」
オルガは初めてこちらを向いた。
この人が驚いた顔をするのを、俺は今まで二度しか見たことがない。
一度目は発電機で、二度目がこれだ。
「あんたの目は本当に気持ち悪いね」
「本当に、本当によく言われます」
「悪いけど褒めてないよ」
「ええ、知ってます」
彼女は樽の縁を指で二度叩いた。
何か考えている時の癖だ。
「多分、四台じゃないね」
「え?」
「四台で燃料を床下に積む意味がない。四台ぶんの燃料なら樽で載せりゃいい。隠すってことは」
「……もっと台数がある」
「どこかで待ってるのが本体だよ。こいつらは先に来た口だ」
俺は自分の指先が冷たくなっていくのを感じていた。
これは俺の目が捕まえたものではない。
機械の話は、この人の方がずっと先まで見える。
「オルガさん、寄り合いに来てもらえますか」
「あたしが言えばいいのかい」
「俺が言うと、たぶん半分になります」
「半分?」
「先生の言うことだから、で半分になるんですよ」
オルガは鼻で笑って、それから真顔に戻った。
「ああ、そういうことなら行くよ」
診療所に戻ったのは日が落ちてからだった。
ロールは奥の板の間で、明日の分の薬を量っていた。
匙を持つ手は止めずに、顔だけ上げた。
「チビ、遅かったね」
「はい、オルガと市場にいました」
「あの行商のことかい」
「……なんで分かるんですか」
「あんた、朝からずっと同じ顔してるからだよ」
俺は椅子に座って、見たものを全部話した。
前輪、ロープの跡、床下、縫い目。
オルガの言った台数のことも話した。
ロールは最後まで手を止めなかった。
話が終わってから、匙を置いた。
「あんた、それで、どうしたいんだい」
「寄り合いにかけます」
「かけて、どうする」
「三日ぶんの水と食い物を、暗渠の方へ移してもらいます。それから北門の見張りを倍に。あと、街の金でハンターを雇えるだけ雇いたい」
「金はどうするんだよ」
「足りない分は俺が出します」
ロールは煙草を耳から抜いて、しばらく指で回していた。
それから、また耳へ戻した。
「……あんたさ、間違ってたらどうする」
「俺が恥をかきますね。でも、それだけです。それだけで済みます」
「そうだね。それだけだ」
彼女は立ち上がって、薬箱の蓋を閉めた。
「行きな。あたしは明日の朝、産婆のとこに寄っとくよ」
「何を話すんですか」
「子供の数だよ。あの婆さん、この街の子供を全部数えられるんだ」
俺はその時、この人に礼を言わなかった。
言わなくても通じると思っていたからだ。
今でもそう思っている。
思っているが、そのことを言っておけばよかったとも思う。
寄り合いは翌日の昼に開かれた。
場所は市場の裏の集会小屋で、集まったのは十四人だ。
自警団の頭のゴード、産婆の婆さん、市場の顔役が三人、あとは倉と水を持っている連中。
オルガは戸口の柱に背中を預けて立っていた。
俺は最初に紙を配った。
「見たものを書いてあります。順に読みます」
読み上げるのに、思ったより時間がかかった。
前輪の欠け方。
ロープの擦れ跡の高さ。
荷の重さと車の沈み方。
同じ手で縫われた三人の古傷。
読み終わったところで、市場の顔役の一人が手を挙げた。
「先生。それは、あの連中が悪党だという話ですか」
「行商ではない、という話です」
「行商じゃないなら、何なんです」
「分かりません。分からないから、備えたいと言っています」
小屋がざわついた。
ゴードは頭を掻いていた。
この男は三年前から、俺の顔を見るたびに頭を掻く。
「先生。俺は先生の目を疑っちゃいないんだ」
「はい」
「ただな。行商を疑って追い返した街ってのは、次の年から誰も来なくなる」
「分かっています」
「うちは川筋の通り道で食ってる街だ。人が来なくなったら、それはそれで死ぬんだよ」
これは正しい。
正しいので、俺は反論しなかった。
代わりにオルガが柱から背中を離した。
「追い返せとまでは言ってないよ」
小屋が静かになった。
この人が寄り合いで喋るのを、俺はこの時初めて見た。
「床下に燃料を積んでる車が四台ある。それだけは事実だ」
「オルガさん。燃料を積んで何が悪いんですかい」
「隠す必要がないからだよ。樽で載せりゃいい」
「じゃあ、なんで隠すんです」
「あんた、それをあたしに聞くのかい」
顔役は黙った。
「四台ぶんの燃料を四台で隠して運ぶ意味はない。どこかに本体がいる」
「本体だって?」
「ああ、あれは先に来た口だよ。私たちを数えに来てる」
婆さんが舌打ちをした。
俺の顔を見て舌打ちをするのは癖だが、この時のは俺に向けたものではなかった。
「うちの街に、六つ以下の子供が二十二人いる」
婆さんはそれだけ言った。
「動かすなら、あたしが並べる。四つ以下は抱えないと歩けない。誰が誰を抱えるかを決めておかないと、その場で決めることになるよ」
その一言で、小屋の空気が変わった。
結局、その日に決まったのは四つだ。
北の門の見張りを倍にすること。
水と乾物の三割を、暗渠の側の倉へ移すこと。
子供と老人の割り当てを婆さんが決めて、紙にして各戸へ配ること。
支所を通してハンターを四人雇い、半月だけ街に置くこと。
雇う金の半分は俺が出した。
出すと言ったら、ゴードが一瞬だけ嫌な顔をした。
「先生、そこまでは。それは本来街が出すべき金だ」
「街が出すと決めるまでに何日かかりますか」
「……三日だな」
「じゃあ俺が出します。あとで請求しますから」
嘘だった。
請求する気は最初からなかった。
もちろん、通らなかったものもある。
門を閉めること。
行商に街を出るよう言うこと。
支所から他部所へ報せを出すこと。
最後のは俺が引き下がった。
早馬でも六日かかると聞かされたからだ。
六日かけて届く報せは、報せではない。
小屋を出る時、市場の顔役の一人が俺の肩を叩いてこう言った。
「先生は心配しすぎですよ」
そしてその三歩あとで、別の一人がこう言った。
「まあ、何かあっても先生がいるからな、大丈夫さ」
その二つを同じ日に言える街だった。
今になっても、俺はこの日聞いた二つの言葉を、どちらも憎めない。
ドグの家は北門の近くにある。
俺が話を持っていくと、この男は太い首を一度だけ捻った。
「半月、街からは出るなってことか?」
「はい、そうです。金は出しますから」
「金の話はしてねえよ」
「え、じゃあ何の話ですか」
「どうしてお前が、そこまでやるかって話だ」
俺は答えられなかった。
そんな俺を見て、ドグは椅子の背に体重を預け天井を見た。
それから、散弾銃の台尻を掌で二度叩いた。
「北門でいいな」
「はい、お願いします」
「なら北門だ。お前はどうする?」
「診療所です」
「そうか」
彼はそれ以上何も聞かなかった。
この人はいつもそうだ。
七つの子供が銃を教えてくれと言った時も、理由を一度聞いただけで、あとは何も聞かなかった。
行商は三日いて、四日目の朝に北へ出ていった。
言った通りの方角だった。
言った通りの時刻だった。
何一つ、彼らは嘘をつかなかった。
その日から五日、何も起こらなかった。
六日目に、見張りを元に戻すべきだという話が出た。
七日目に、俺は市場で二度、笑われた。
悪意のある笑い方ではない。
心配性の若先生、という笑い方だ。
俺は笑い返した。
笑い返しながら、自分が少し安心していることに気づいて、それが一番こたえた。
ここで、俺の頭の中の話をしておく。
俺は六年前から、日付のない予定表を持っていた。
グラップラーが来る。
両親が死ぬ。
それだけだ。
順番は知っている。
だが、順番というのは日付ではない。
俺が持っているのは物語であって、歴史ではなかった。
物語は語られなかった時間を基本的に持っていない。
両親が死ぬのは妹が荒野へ出るより前の出来事で、それが妹の何歳の時なのかは、俺は最後まで確かめられなかった。
最初の二年は、毎晩そのことを考えた。
三年目から、考えない日ができた。
五年目には、月に何度かしか考えなくなった。
去年の春の三十日を、俺はよく思い出す。
金髪が土間で騒いで、母が皿を増やして、妹が髪を編んでもらっていた三十日だ。
あの三十日には、本当に何一つ悪いことが起こらなかった。
それ以来、俺の中に一つの考えが住み着いていた。
変えられたのかもしれない。
口に出したことは一度もない。
出したら本当になりそうで怖かったからだ。
だが恐れは常に住み着いていた。
だから七日目の夜、俺は診療所で紙を書いた。
いつもの指示書ではない。
街にいる全員分を書いた。
医者として目を離せない十九人ではなく、この街で寝起きしている数百人全員分だ。
名前、家の場所、その人間について俺が知っていること。
血が止まりにくい者。
薬が効きすぎる者。
抱えないと歩けない年齢の子供と、その家からの距離。
書き終えたのは夜明け前だった。
束にすると、俺の掌より厚くなった。
俺はそれを診療所の薬箱の下に押し込んだ。
それから寝床に戻って、一刻ほど眠った。
目が覚めたのは、音のせいだった。
北の門の板を、誰かが続けざまに叩いていた。
あれは合図の叩き方だ。
一つずつ間を空けるのが常。
続けざまに叩くのは、間を空けている余裕がない時だけだと決まっている。
それを聞いて、俺は即座に起き上がった。
戸口で一拍止まって待つ癖は、二年かけて身につけたものだ。
その朝も、俺はそうした。
そうしてから、土間へ出た。
母が竈の前で振り返った。
父は工房から出てきていた。
レナは寝床から半分だけ出して、俺の顔を見ていた。
三人が揃っているのを確かめてから、俺は手を二度叩いた。
乾いた音が二つ、天井に当たって落ちた。
レナが寝床から降りた。
その顔から遊びの色が消えるのを、俺は見た。
妹は、たぶん最初から知っていたのだと思う。
「お兄ちゃん」
「いつもの道だ。市場の裏から」
「うん」
「父さんと母さんを連れていけ。俺が迎えに行くまで、絶対に出るな」
「うん、わかった」
妹は一度も、なんで、とは聞かなかった。
外はまだ薄暗かった。
門を叩く音が二つの川筋に当たって割れて、二つの方向から重なって返ってきた。
十三の、秋だった。
幼年期の最後、グラップラーによるデルタリオ襲撃編の始まりです。
この終わりとともに第一章終了予定となります。