『蒼』は荒野を駆ける   作:ぶっぱなす

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第十話 先生は街の宝ですから

外へ出て北を見ると、煙は上がっていなかった。

 

それが最初に分かったことだ。

荒野の賊が街に入る時は、まず火を出す。

逃げる方向を作るためだ。

一か所に火を出して、そこ以外へ人を追い込んで、まとめて狩る。

 

そういうものだ。

 

つまり火がないということは、追い込む必要がないということだ。

追い込む必要がないということは、逃がす気がないということでもある。

市場の通りには、もう人が出ていた。

半分は北へ走り、半分は南へ走っていて、その二つがぶつかって渦を作っている。

誰一人として、何が起きているか分かっていない時の街の動き方だ。

 

北門の方から大きな音がした。

 

銃声ではない。

もっと重くて、遅い音だ。

何かが門に体重を預けている音だった。

 

駆け込んだ時には診療所は、もう開いていた。

ロールが土間の板を全部外して、寝台を四つ並べ終えていた。

まだ誰も運ばれてきていないのにだ。

 

「早いですね、ロールさん」

「あんたが夜中まで紙を書いてたんだ。と言うことは何かあるんだろ」

「……はい」

「なら、あるってことで動くだけだ」

 

彼女は袖を肘までまくり上げた。

その後ろで、ミオが湯を沸かしていた。

ミオは今年で十五になる。

六年前に俺が顔の火傷を消した娘で、それからずっとこの診療所にいる。

最初は薪を運ぶだけだったのが、今は縫合の糸を選ばせても間違えない。

 

「シオン先生」

「ミオ。板は――」

「もう全部外しました。布は奥から出しておきます」

「ああ、頼む」

 

この娘は昔から、慌てるということをしない。

火の中から引きずり出された時も泣かなかったと聞いている。

 

最初の一人が運ばれてきたのは、それから数えて十を数えるうちだった。

 

若い男、北門の見張りに立っていた自警団の一人だ。

右の腿を撃たれている。

俺は傷をしばらくの間見て、それから止まった。

 

「先生?」

「……ミオ。次の人を見てくれ。同じところをやられてるかどうか」

 

二人目が来た。

左の脛だった。

 

三人目が来た。

右の腿。

 

「……全員、膝から下か、腿です」

「ああ、わかってる」

「身体の上を撃たれた人が、一人もいません」

 

俺はその時、自分の手が冷たくなっているのに気づいた。

 

荒野の賊は当たればいいと思って撃つ。

だから腹も胸も頭も来る。

足だけを狙って撃つ人間は、当てる場所を選べるということだ。

そして、当てる場所を選べる人間が足を選ぶ理由は一つしかない。

 

殺したくないからだ。

動けなくして、あとで拾って、攫うためだ。

 

「ロールさん……」

「ああ、言いな」

 

俺は寝台の脇に膝をついたまま、下を向いて言った。

 

「あれは人を獲りに来てます、グラップラーの人間狩りだ」

 

 

 

そうしているうちに北の門の前で、それは読み上げられた。

 

俺は診療所の戸口から聞いた。

声は思ったより近くて、思ったより落ち着いていた。

拡声の道具を使っているらしく、金属を通した音になっていた。

 

三つ、と男は言った。

 

一つ。この街には腕の立つ機械屋がいるという。そいつは連れていく。

二つ。十六から二十五までの者を四十人出せ。歩ける者に限る。

そして、三つ目。

 

そこで一度、相手の声に間があった。

 

「この街に、医者がいるな」

 

俺は自分の指が動かなくなるのが分かった。

 

「若きゴッドハンド。そう呼ばれている。名は聞いていない」

「その男も出せ。そこまで出せば、他は焼かない」

 

自分の名前を、知らない声で読み上げられるというのは、妙なものだった。

 

支所の受付が書式のために書いた、二つ名の欄だ。

あの日、俺は帳面を取り上げようとして、ロールに襟を掴まれた。

 

異名は自分でつけるものではない。

人につけられて、それを剥がせなかった奴が背負うんだ。

 

六年前にこの人がそう言った時、俺は、上手いことを言うと思っただけだった。

 

「……ちくしょう」

 

 

 

俺は薬箱を掴んで、戸を出た。

原作や未来とか、そんなものはもうどうでもよかった。

でも診療所から十歩も行かないうちに、正面からゴードが来た。

自警団の頭は肩から血を流していて、それが右腕を伝って指先から落ちていた。

 

「先生。中へ入っていてください」

「どいてくれませんか」

「入ってろと言っている!」

「数の話ですよ」

 

俺は薬箱を持ち替えた。

声が裏返らないように、一度息を吸ってから言った。

 

「俺は一人だけ。対して、この街が二百四十人です。わざわざ計算するまでもない」

 

ゴードは俺の顔を見た。

それから、血のついていない方の手で俺の襟を掴んだ。

 

「シオン先生」

「離してください」

「あんた、そいつを本気で言ってんのか?」

「本気です」

 

彼は俺を後ろへ突き飛ばして、俺は尻から地面に落ちた。

薬箱が転がり蓋が開いて、中身が半分こぼれた。

 

「先生は街のもん、いえ街の宝なんですよ」

 

ゴードはそう言った。

 

三年前にそう言われた時と同じ言い方だった。

あの時は寄り合いの席で、俺を門から出さないための理由として使われた言葉だ。

俺はそれを、囲い込みだと思っていた。

俺を街に囲い込むための方便だと思っていた。

 

でも、そうじゃなかった。

 

「先生を門から出さねえってのは、そういうことなんだ」

「……それは」

「三年前も今日も同じだ、同じなんだよ、先生」

 

俺は立ち上がろうとした。

でも立ち上がる前に、上から影が落ちてきた。

 

今度は産婆の婆さんだった。

 

この人は背中が曲がっていて、俺より頭ひとつ小さい。

その小さいのが、俺の胸を杖で押さえつけた。

 

「馬鹿を言うんじゃないよ、シオン」

「婆さん」

「あんたを渡したら、この街に次はどの医者が来るんだい」

 

杖の先が肋の間に食い込んだ。

本気で押していた。

 

「先生を差し出す街だって話が回ってごらん。もう誰も来やしないよ。荒野の医者が何人いると思ってるんだ」

「……それでも、今日は死人が減ります」

「今日はね」

 

婆さんはそれだけ言って、杖をどけた。

 

「あたしはね、今日の話をしてるんじゃないんだよ」

 

それから背を向けて、こちらを見ずに付け足した。

 

「……それにあんた、まだ十三だろ。こういうのは大人に任せておきな」

 

俺はこぼれた薬を拾い集めた。

でも指が震えていて、二度落とした。

 

その間に、市場の方から人が集まってきていた。

誰も俺に何も言わなかった。

言わないまま、俺と門の間に立った。

 

三人。

五人。

十人。

 

去年、腹を開けた男がいた。

一昨年、赤ん坊を取り上げた家の亭主がいた。

六年前に額を俺の額にぶつけた娘の、父親がいた。

 

誰も武器を持っていなかった。

持っていないまま、そこに立っていた。

 

俺はその背中を見ていた。

 

数えるのが俺の仕事だ。

六年間、俺は数えてきた。

誰がどうなったら何をするかを、順番と量まで紙に書いてきた。

 

その数え方でいくなら、俺は今ここで門を出るのが正しい。

正しいはずなのに、この人たちは俺の手から秤を取り上げて、自分たちの側へ置いた。

 

礼を言うのは違った。

やめてくれと言うのも違った。

あの時に俺の中にあったものに、俺は今でも名前をつけられない。

 

分かっているのは一つだけだ。

 

俺はこの日この朝、この街に返せないものを背負った。

だから、俺は強くならなければならない。

 

 

 

襲撃者、いやグラップラーへの返事が門から出たのは、それから間もなくだ。

 

ゴードが自分で行った。

何を言ったのかまでは、俺のところまで届かなかった。

届いたのは、返ってきた音の方だ。

 

門の板が、内側へ倒れた。

 

街が拒絶を力で踏みにじる音だった。

それから寝台が埋まるのに、そう時間はかからなかった。

 

四つ目が埋まって、次の男は土間に寝かせた。

その次は板の上だ。

ミオが奥から古い布を出してきて、床に敷いた。

 

「先生。表の日陰も使いますか」

「使う。頭をこっちに向けて並べてくれ」

「はい」

 

ミオは走らない。

この娘は走らない。

走らないのに、俺が次に要るものが必ず手元に置いてある。

 

やがて、運び込まれる男の撃たれた場所が変わっていた。

 

それまでの十人は全部、膝から下か腿だった。

十一人目は腹だった。

十二人目は胸で、運び込まれた時にはもう息がなかった。

 

俺は最初、撃ち手が替わったのかと思った。

違った。

足を撃つのをやめただけだ。

 

拾う気のなくなった相手を、あの連中はもう選ばない。

街が三つとも断ったからだ。

 

断ったのは街だ。

俺ではない。

俺は突き飛ばされて、尻から地面に落ちただけだった。

 

腹を開けた。

弾が腸を二か所抜けて、腰の骨の手前で止まっていた。

洗った。

縫った。

次へ回した。

 

次は肩だった。

その次は脾臓を弾かれていて、開けた時には腹の中が血で満ちていた。

なすすべなく死んだ。

 

俺は手を洗った。

隣でロールが同じ盥に手を突っ込んでいた。

どちらも何も言わなかった。

 

数えるのが俺の仕事だ。

 

寝台に四人。

土間に七人。

板の上に五人。

表の日陰に六人。

死んだのが三人。

 

俺は順番を決めた。

 

腹が二人。

胸が一人。

腿の太い血の管が一人。

残りは待てる。

 

待てる人間を待たせるのが、俺の仕事の半分だ。

もう半分は、待たせた人間のうち誰が先に待てなくなるかを、目の端で見ていることだ。

ロールは腿の血の管を先に押さえていた。

 

「チビ。腹をやりな、次はそっちの若いのだ待てるかい?」

「待てます。十五分までなら」

「十分でやりなよ」

 

ミオが盆を持って横に立った。

俺が言う前に、要るものが載っていた。

 

「先生。薬箱の下の紙、出しておきました」

「……いつ」

「先生が最初の人を開けている時に」

 

俺は一度だけ手を止めた。

 

あの束は二百四十人分ある。

夜中に書いて、明け方に薬箱の下へ押し込んだものだ。

誰にも言っていない。

 

「なんで分かった」

「先生が仕舞う時、蓋を三度確かめたので」

 

ロールはその日、一度も外へ出なかった。

 

あの人は一日に三本しか吸わない。

外の壁のところでだけ吸う。

耳に一本挟まっているのは、まだ仕事中だという意味だ。

 

三本より多い日は、その日のうちに誰かが死んでいる。

六年間、俺はそれを数えてきた。

 

今日、あの人はまだ一本も吸っていない。

理由は言うまでもない、外へ出る暇がないからだ。

 

 

 

次に女が一人、自分の足で入ってきた。

 

市場の裏の長屋の女だ。

両手を前に出して、掌を上に向けていた。

 

「先生。これ、抜いてください」

「座ってください」

 

掌に木が刺さっていた。

細くて、白い。

新しい木だ。

 

俺は一本抜いて、指の先で転がした。

 

この街で新しい木を使った場所は、この秋に一か所しかない。

親父が涸れ川の暗渠の入口の板を全部取り替えた。

腐っていたからだ。

何も言わずにやって、俺も何も聞かなかった。

 

「どこで刺しました」

「涸れ川です。暗渠の中の」

「出口は」

「塞がってるんですよ。向こう側から」

 

指が止まった。

 

「中にいた人は」

「みんな川底の方へ押し戻されました。開けたところです」

 

寄り合いで水と乾物の三割をあちら側の倉へ移すと決めたのは、五日前だ。

言い出したのは俺だった。

だからあそこには物がある。

物があるから、人はあそこへ行く。

 

俺は木を抜き終えて、布を巻いた。

手は動いていた。

頭の方が止まっていた。

 

夜明けに、俺は土間で手を二度叩いた。

レナの顔からは遊びの色が消え、「なんで」とは聞かずに、両親を連れて出ていった。

去年の春以降に仕込んでいた避難経路だ。

三通りのどれを選んでも、最後は暗渠へ出るようになっている。

 

そう、そこは避難場所として俺が決めた場所だった。

そこが、もうグラップラーの手に落ちていた。

 

 

 

診療所に二十二人いる。

家族は市場の反対側にいる。

 

同じ時刻に二か所へは立てない。

六年前から知っていることだ。

知っていて、俺は今日までその二つを同時に持ったことが一度もなかった。

 

俺は紙のことを考えた。

 

二百四十人分の紙を書いた夜、俺が考えていたのは自分がいない時間のことだ。

書いておけば、俺がいない時間も街は回るはずだと、そう思って書いた。

 

けれども書いた紙のどこにも、俺がどちらへ行くかは書いていなかった。

 

門の前で、この街は俺の手から秤を取り上げた。

取り上げられたから、俺は何も載せずに済んだ。

楽になったのだと、今なら分かる。

 

「チビ」

 

ロールが俺の手首を掴んだ。

 

「その手をどけな」

「まだ二人残ってますよ」

「手が震えだしている」

 

彼女は俺の指から針を抜き取った。

 

「暗渠だろ? 行きな」

「でも二十二人います」

「二十二人はあたしとこの子で持つ」

「持てません」

 

ロールは俺を見た。

目尻の細い線が三本、笑った時と同じ形に寄った。

笑ってはいなかった。

 

「腹を開けたのが三人います。二人は今夜が山です。薬の順番が」

「あんたが書いた紙があるだろう。読めるように書いてあるんだろ?」

「……はい」

「なら足りる」

 

俺は動けなかった。

 

ロールは俺の背中に手を回して、戸口の方へ押した。

押しながら、耳に挟んだ煙草に一度だけ触れた。

火はついていなかった。

 

「戸口で一度止まれって言ったのは、あたしだ」

「……はい」

「今日は止まるんじゃないよ」

 

それから彼女は、五年前と同じ言葉を言った。

言葉は一つも変えていなかった。

向きだけが逆だった。

 

「今日のあんたは医者じゃない。あの人の息子だ。行きな」

 

俺は戸口を抜けた。

もう止まらなかった。

 

 

 

市場の奥へ抜ける道は、途中で一度細くなる。

 

壁と壁の間が、人ひとりと半分ぶんしかない。

そこにボーグが立っていた。

 

背中しか見えなかった。

痩せた背中だ。

左足が半歩引いてあった。

腰が落ちていた。

銃床が頬についていた。

 

俺はその形を知っている。

六年前に、この人から最初に教わった形だ。

 

「ボーグさん」

 

呼んだ声が裏返った。

この半年、肝心なところでいつもこれをやる。

 

「来るな。壁に背中をつけろ」

「ボーグさんは」

「ここは一人で塞げる。二人並ぶと肘が当たる」

 

彼は振り向かなかった。

 

「先生。あんたに一つ教えたな。銃ってのは的に当てる道具じゃない」

「……相手より先に、決められた形になる道具です」

「そうだ。俺はもう形になってる。行け」

 

俺は壁に背中をつけて、その後ろを抜けた。

抜ける時に、肘が当たったがボーグは動かなかった。

 

一度だけ振り返った。

 

確かに形は完璧だった、六年前に教わった通りの形だった。

けれども、その形の向こうにグラップラーが七人いた。

 

俺は走った。

 

背中で音が続いた。

数えるつもりはなかった。

それでも俺は数えていた、自分の咎なのだと。

 

五つ目までは、同じ間隔だった。

六つ目が少し遅れた。

そして七つ目の音は、なかった。

 

俺は泣いた。

 

 

 

オルガの作業場は市場の一番奥にある。

 

そこまで来て、俺は足を止めた。

止めたのは、目の前に荷台が並んでいたからだ。

 

四台あった。

四台とも後ろの板が下ろしてある。

一台だけ、前輪の角が欠けていた。

 

五日前に俺が土の上で見たのと、同じ欠け方だ。

 

あの一団は嘘を一つもつかずに北へ出ていった。

出ていって、戻ってきた。

 

オルガは作業場の前に立っていた。

 

手は上げていない。

抵抗もしていない。

男が二人その腕を取って荷台の方へ歩かせていたが、歩かせているというより案内しているように見えた。

彼女は自分の足で歩いていた。

 

俺は口を開けた。

 

声を出す前に、オルガがこちらを見た。

見て、首を横に振った。

一度だけだ。

 

それから自分の腿を、指で二度叩いた。

 

オルガの考える時の癖だ。

樽の縁でやるのと同じ手つきだった。

考えて、決めたということだ。

 

機械屋は殺されない。

向こうは一つ目にそれを言った。

腕の立つ機械屋を連れていく、と。

 

つまりあの人はこの街で一番最初に安全になった人間だった。

そして一番先に、この街からいなくなる人間だった。

 

俺は動かなかった。

 

動けば、あの人は殺される側に回る。

それくらいは俺にも分かった。

分かることと、動かないでいることは、別のことだった。

 

荷台が動き出した。

 

オルガは荷台の縁に腰を下ろして、前を向いていた。

一度もこちらを見なかった。

乗り物に乗った時にあの人が後ろを向くのを、俺は今までの六年間で一度も見たことがない。

 

 

 

道は北門の内側で一度詰まる。

 

門の板が倒れたのはそこだ。

倒れた板の上に土嚢が積んであって、その裏に人が三人いた。

ドグはその一番前にいた。

 

散弾銃を腰に抱えていた。

左の肩から下が、血で黒くなっていた。

 

「ドグさん」

「おう」

「肩を見せてください」

「見なくていい」

 

俺は薬箱を下ろした。

下ろしかけた手の甲を、ドグが台尻で押さえた。

 

「見たら、あんた縫うだろ。縫ってる間に十人入ってくる」

「二分で済みます」

「二分だ。二分で何人死ぬかなんて、もうあんたの方がよく知ってるだろうが」

 

掌で台尻を二度叩く音がした、ドグが心根を決めた時の癖だ。

六年間で、俺はこの音を三度しか聞いていない。

 

「先生。北の門はもう抜けられてる」

「家の方は」

「知らん。だが涸れ川の方へ人が回ってるのは見えた」

 

俺は薬箱を担ぎ直した。

担ぎ直して、それでも動けなかった。

 

「六年前に、俺があんたに何て言ったか憶えてるか」

 

俺は憶えていた。

 

七つの夏に、この人は俺に銃を持たせた。

持たせて、理由を一つだけ言った。

それだけ言って、あとは何も聞かなかった。

 

「守るもんがある奴が武器を欲しがるのは当たり前だ。あの時はあんたの話をしたんだ、今日は俺の話だ」

 

俺は走った。

 

「シオン、お前が今の俺が守るもんさ」

 

ドグの家は北門のすぐ内側にある。

その裏に、幌をかけた大きな影があった。

 

去年の秋、この人は俺に、そろそろクルマの話をしないかと言った。

俺は先約があるんですよと答えた。

それきり、あの人は二度とその話をしていなかったことを思い出した。

 

俺はその幌の横を走り抜けた。

 

 

 

家の戸は開いたままだった。

 

中に誰もいなかった。

土間の隅の板が一枚、外して壁に立てかけてあった。

 

三つ目の道だ。

 

家から出られない時に使えと教えた道を、あの子は選んでいた。

市場でも北の道でもない。

一番遠くて、一番人に見つかりにくい道だ。

 

教えた通りだった。

 

竈の火は水で消してあった。

消してから出たということだ。

あの音を聞いてから、火の始末をして出た人間が、この家には一人しかいない。

 

俺はその濡れた灰の前に二つ数えるあいだ立っていて、それから出た。

 

 

 

家の裏から涸れ川の縁まで、百歩分ある。

その百歩を俺は数えなかった、もう数えていられなかった。

 

縁に立って下を見ると、涸れ川の底は開けていた。

昔は水が流れていた場所だから、遮るものが何もない。

 

暗渠の口は向こう岸の斜面にある。

板が新しい、そう親父が取り替えた板だ。

開いていたの、誰も出てきていなかった。

 

底に荷台が二台あった。

 

その前に、街の人間が膝をつかされて並んでいた。

数えて三十人、男たちは十人ほどいた。

慌てている者が一人もいない。

そのうちの一人が、列の端から順に顎を持ち上げて顔を見ていた。

 

男たちの年を見ているのだと分かった。

 

十六から二十五までを四十人。

二つ目の要求は、まだ生きている。

街が門の前で断ったのは、渡す相手の話であって、数の話ではなかった。

 

列の後ろの方には母が、母の腕の中にレナがいた。

そして荷台の前に、親父が一人で立っていた。

 

俺は縁から一歩下がって、斜面の岩の裏へ回った。

 

グラップラーは十人。

対して俺が持っているのは薬箱だ。

 

戸を出る時に俺が掴んだのは箱の方だった。

銃は診療所の壁に立てかけたままだ。

悔やまなかった、悔やんでも仕方がない。

 

下では、男が二人で母の腕を取っていた。

 

母は抵抗しなかった。

レナを抱えたまま、言われた方へ歩いた。

荷台の後ろの板に、足をかけさせられた。

 

その時、列から親父が一人出た。

親父は荷台の前まで歩いた。

早くもなく、遅くもなく歩いた。

俺はこの人が走るのを、生涯で一度しか見たことがない。

 

男が銃口を上げた。

親父は止まらなかった。

 

そして、声を張り上げた。

この人の大声を聞いたのは、俺にとって二度目だ。

一度目は五年前、母を背負って診療所へ駆け込んできた時だった。

 

「その子は降ろせ! 年が違うだろう!!」

 

言葉はそれだけで、親父は銃身を掴んだ。

 

音がした。

グラップラーの弾は掌を抜けて、親父の右の胸の下へ入った。

親父は膝から崩れ落ちた。

 

母が一度だけ声を出した。

 

それからレナの顔を自分の肩へ押しつけて、見せないようにした。

あの人は今朝、竈の火を消してから家を出た人だ。

 

二人は荷台に上げられた。

その時、レナが顔を上げた。

 

上げて、斜面のこちらを見た。

目が合ったかどうかは分からない。

 

分からないが、あの子は声を出さなかった。

 

かくれんぼでは、見つかったら負けだ。

そう教えたのは俺だ。

 

荷台が二台とも動き出した。

北へ出て、そこから東へ折れた。

 

男たちは、俺の方を一度も見なかった。

 

連中は俺の顔を知らない。

門の前で、名は聞いていないと言っていた。

だから俺は、そこに立っていられた。

 

俺は岩の裏から出なかった。

 

出れば十人が上を見る。

上を見れば、下にいる三十人が動く。

動けば、次に膝から下を撃たれるのは荷台の外にいる人間だ。

 

二年かけて憶えたのはそれだ。

動かなくても死なない場面と、動かなければ死ぬ場面を、指ではなく頭で分けること。

 

今日、俺は初めてそれができた。

できたことが、これほど何の役にも立たないとは思っていなかった。

 

荷台の速度は遅かった。

 

車輪の幅が広い、川底は石が多い。

あの速さなら、単車を使えば追いつけないことはない。

 

そういう計算を、俺の頭は勝手に始めていた。

親父がまだ川底に倒れているうちからだ。

 

斜面を下りきった時、川底にはもう誰もいなかった。

そして親父は仰向けに倒れていた。

 

「父さん」

 

俺は膝をついて、頭の側へ回った。

親父の顔が視野に入らない位置だ。

 

顔を見ることがなければ、これはただの胸でしかない。

胸を診ることなら、俺は六年間ずっとやってきた。

 

右の第五肋の下に穴があった。

穴は小さいが息を吸うたびに、そこが鳴った。

外から空気を吸い込む傷だ。

放っておけば肺が潰れる。

 

背中を探ると弾は抜けていなかった、つまり弾は中にある。

右の掌は貫かれていた。

 

親指の付け根は割れていて、そこから先が開いていた。

六年間、俺は毎日この手を見てきた。

爪の間に油が入っていて、洗っても落ちない手だ。

 

俺はその手に布を巻いた。

それ以上のことをする時間は、俺にはなかった。

 

手は震えなかった。

 

五年前、母の腹の前で俺の手は止まった。

あの時、俺には母の顔しか見えなかった。

 

今日は見なかった。

見なければ、これはただの胸だ。

 

そうやって切り抜けたことを、俺は誇らなかった。

 

でも俺は斜面の上へ向かって叫んだ。

 

途中で声が裏返って、最後の音が子供のものに戻った。

構わず、もう一度叫んだ。

斜面の上にミオがいた。

 

いつから立っていたのか分からない。

脇に紙の束を抱えていた、二百四十枚の束だ。

 

「ロールさんが!」

「ミオ」

「先生はもう帰ってこないから、紙を持っていけって」

 

俺は束を受け取った。

受け取って、上から順に繰った。

 

親父の紙は、三十枚目より少し下にあった。

 

昨日の夜、俺はこの紙を書いた。

書いた時は、これを使うことはないと思って書いた。

 

俺は炭の欠片で、余白に書き足した。

 

胸のこと。

布の張り替えの間隔。

熱が出た時のこと。

弾を出すのは俺が帰ってからでいいこと。

 

最後の一行だけ、他より大きく書いた。

 

『手は後だ。胸を先にやれ』

 

ミオは紙を受け取って、最後まで読んだ。

読んでから顔を上げた。

 

「担架を持ってきます」

「一人で担げるか」

「二人、上に来ています」

 

この娘は昔から、慌てるということをしない。

 

「ミオ、胸を。手じゃない」

「はい」

「手は、俺が帰ってからでいい」

 

ミオは頷いた。

それだけで、この娘は何も聞かなかった。

 

俺は薬箱を開けた。

 

糸と針を一組。

鉗子を二本。

布の残りを半分。

 

それだけを懐へ入れて、蓋を閉めた。

閉めた箱を、ミオの脇へ押しやった。

 

六年間、俺はこの箱ごと持って歩いた。

中身を分けたのは初めてだ。

 

立ち上がる時に、一度だけ街の方を見た。

 

煙は、まだ上がっていなかった。

結局最後まで、あいつらは火を出さなかった。

 

 

 

単車は家の横の小屋にあった。

 

風防の硝子には、去年の秋に入れた継ぎ目が残っている。

名前はつけていない。

つけたら乗り換えられなくなりますよと、俺はオルガに言った、その単車だ。

エンジンは一度で回った。

 

ハンターとして登録する時、俺は街と三つの約束をした。

 

一つ。一人では門を出ない。

二つ。必ず誰かと組むか、街が金を出して護衛をつける。

三つ。出る前に、指示書を診療所へ置いていく。

 

三つは囲い込みだが、紐の長さを決めたのは俺だ。

そう思うことで、俺は二年半、自分を納得させてきた。

それすらも俺の思い込みでしかなかった。

 

荒野で一番先に死ぬのは弱い奴じゃない。一人の奴だ。

二人の人間が、俺に同じ言葉を言った。

その二人は直接会ったことはない。

それでも、一言一句同じだった。

 

それでも、俺は母と妹のためにその禁を破る、全部破る。

 

俺は速度を上げた。

 

北門の板は倒れたままだった。

土嚢の裏には、まだ人がいた。

でも、そこにはドグはもういなかった。

 

俺は倒れた板の上を、速度を落とさずに越えた。

越える時に、下を見なかった。

 

三年前、この街は俺を門から出さないと決めた。

今朝、この街はその通りにしてグラップラーに引き潰された。

 

俺はその門から、一人で出る。

まだ日は高い、昼にもなっていなかった。




感想を頂いて、グラップラーを追い払い誰も傷つかない展開も考えましたが、当初の予定通り進ませます。
原作のメタルマックス2開始時点でのデルタリオは定期的なグラップラーの人間狩りを許容している、いわば支配下の街ですので
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