『蒼』は荒野を駆ける 作:ぶっぱなす
荷台にいたのは、人が合計二十六人。
歩けるのが二十二人で、歩けないのが四人だ。
そのうちの一人が俺の母だった。
数え終えてから、俺は次に数えるべきものを考えた。
街には診るべき人が二十二人いる。
昨日の朝、俺が母さんとレナのために街に置いてきた人数だ。
考えても仕方がないので、俺は荷台の動かし方を二人に教えた。
一人は長屋のパン屋の息子で、もう一人は支所の受付の弟だ。
どちらも十九か二十で、グラップラーの要求した年の内側にいる。
教えるのに四半刻もかからなかった。
燃料の栓の位置と、後ろへ下げる時の入れ方と、停める時に石を噛ませる場所。
「先生は、一緒に乗らないんですか?」
倅の方がそう聞いた。
「ええ、俺は先に行きます」
「先生……」
「街に二十二人いるんです。昨日の昼から、誰も診られていません」
自分の声なのに他人の声のように聞いていた、声も裏返らなかった。
昨日、俺は自分の手で秤に載せた。
載せてみたら、思ったより軽かった。
今日は、軽いことに驚かなかった。
それが二度目だからだ。
歩けない四人は、母のほかにも三人いる。
一人は腿の骨をやられている。
一人は肋が三本折れていて、もう一人は膝から下がなかった。
最後の一人は、昨日より前にそうなった人だ。
俺は三人の処置についてパン屋の息子に言った。
順番と何が起きたらどうするか。
俺が紙に書いてきたことだ。
でも紙がない、炭もなかった。
だから口で言って、同じことをもう一度復唱させた。
「一つ目は?」
「腿の人の布。二刻ごとに、指が冷たくないか触る」
「うん、では二つ目は?」
「肋の人を寝かせない。座らせたままにする」
「三つ目は」
「熱が出たら荷台を停める」
「最後、四つ目は」
倅は少しの間だまった。
「……四つ目は、迷ったら停める」
「そうです、お願いします」
六年で初めて、俺は紙を渡さずに人を置いていった。
置いていけたのは、たぶん、書いてきたことが人の憶えられる長さだったからだ。
マリアは右の荷台の轅のところに立っていた。
長物を肩に担ぎ直したところだった。
肩の裂けた布は、片手で結び直してある。
「先に行くのか」
「はい」
「置いていく方が多いぞ、いいのか」
「ええ、でも数えました」
俺はそう答えた。
「二十六人、内に母と妹がいます。でもこっちには荷台が二台と、あなたもいます」
「今、あたしを勘定に入れたな」
「はい、入れました。入れざるを得ないので」
マリアは何も言わなかった。
言わない代わりに、負い革を親指で一度押した。
それで決まったのだと分かった。
この人は決めた時に、そこを押すと知った。
レナは右の荷台の上にいた。
母の手を、まだ両手で握っていた。
いいと言ったのは、日が縁を越える前だ。
それでもこの子は握っていた。
「レナ」
「……お兄ちゃん」
「先に行く。母さんを頼む」
「うん」
「なんで、とは聞かないんだな」
「聞かない。聞くべき時じゃないから」
レナは俺の方を見なかった。
母の顔を見たまま、そう言った。
昨日の朝から、この子は一度も理由を聞いていない。
聞かないでいいと教えたのは、誰でもない俺だ。
母は眠っていた。
呼吸は浅い。
浅いが、間隔は揃っていた。
腹の布は、二十六人が服を裂いて出した布だ。
その上に掌を二つ分置いて、熱を見た。
熱はまだ出ていない、出るとしたら今夜のはずだ。
単車は岩の裏に置いたままだった。
エンジンは一度で回ったので、俺は西へ出た。
逆に辿るだけの道で、轍を読む必要はもうない。
自分でつけた跡の上を走ればいい。
昨日、俺はこの同じ砂を東へ走った時は景色を見なかった。
見ると、進んでいないと思ってしまうからだ。
今日は見た。
見ても、やはり進んでいる気はしなかった。
轍が六台分に割れている場所を、俺は速度を落として通った。
落とすつもりはないけれども、右手が勝手に戻っていた。
四台の轍は北東へ伸びたままだが一日たって、風で縁が丸くなっていた。
地に落ちた油の染みはもう染みですらない。
俺は停まらずに、そこを過ぎた。
過ぎる時に樽を下ろした丸い跡が三つ、目の端を通った。
走りながら、俺は街でやることの順番を決めていた。
順番の一番上に、俺は自分の家族を置かなかった、置かずとも大丈夫だからだ。
そしてその順番の中に、ロールさんはいなかった。
あの人は俺と共に診る側だったからだ。
六年間ずっとそうだった――でも、それは未来永劫続くものではない。
そんな簡単なことを俺は気づけなかった。
デルタリオの街が見えたのは、日が一番高いところから少し傾いた頃だ。
煙は上がっていなかった、三度目だった。
昨日の朝に北を見た時も、昨日の日暮れに西を見た時も、俺は同じものを見ている。
違うのは、今度は何もかもが終わった後だということだけだ。
遠くから見る限り、街は何も変わっていない。
瓦礫と廃車を積んだ防壁が、川筋の二股のところに座っている。
屋根が全部そこにあり、一枚も落ちていない。
火を出さない連中だったからだ。
でも北門の板は倒れたままだった。
昨日の朝、俺はその上を速度を落とさずに越えていった。
今日は速度を落とした。
板の手前で単車を停めて、そこから先は歩いて入った。
門の内側に人が三人立っていた。
一人が俺を見て、それから走った。
走りながら何かを叫んでいたが、言葉にはなっていなかった。
土嚢は、まだ積んであった。
昨日の朝、その裏に戦う人が三人いた。
一番前にドグがいて、散弾銃を腰に抱えていた。
左の肩から下が、血で黒くなっていた。
今日は土嚢だけがある。
袋の一つが破れて、砂が半分こぼれていた。
その先にドグの家がある。
家の裏に、幌をかけた大きな影があった。
街を出るときと同じ場所で、同じ形で、そこにあった。
市場の一番奥に、オルガの作業場がある。
戸が開いていた。
中の工具は、全部そこにあった。
一つも持っていかれていない。
腕の立つ機械屋を連れていく、と連中は言った。
道具は要らないということだ。
道具は、連れて行った先でもあるからだ。
作業場の隅に樽が一つ置いてある。
縁のところだけ、色が変わっていた。
指で叩かれ続けた場所だ。
六年ぶんの色だった。
俺は戸を閉めなかった。
市場の奥へ抜ける道は、途中で一度細くなる。
そこを通らずに済む道もあった。
遠回りになるが、通れないわけではない。
俺は細い方を通った。
壁と壁の間が、人ひとりと半分ぶんしかない。
昨日、俺はここを壁に背中をつけて抜けた。
抜ける時に肘が当たって、それでもあの人は動かなかった。
当然だが、今日はもう誰もいなかった。
壁に穴が空いていた。
高さが揃っている。
腰の少し上だ。
数えなくても、七つの銃痕があるのが見えた。
俺はこの道の向こう側で音を数えた。
五つ目までは同じ間隔で、六つ目が少し遅れて、七つ目はなかった。
あの時俺は泣いたが、今日は泣かなかった。
通りには人が出ていなかった。
昨日の朝、この通りは半分が北へ走り、半分が南へ走って、真ん中で渦を作っていた。
今日はもう誰も走っていない。
市場の手前に、筵が並べてあった。
数えるつもりはなかったけれども、足が止まった時にはもう数えていた。
十九。
そのうち二枚が短いものだった。
数日前の朝、この街には六つ以下の子供が二十二人いた。
数えたのは産婆の婆さんで、俺はその数を寄り合いの席で聞いている。
この街には二百四十人いた、数えたのは俺だ。
二百四十枚の紙を書いたからだ。
でも、そのうちの十九枚はもう要らないものになった。
俺は歩き出した。
歩き出すまでに、少し時間がかかった。
途中で、女が一人、戸口から出てきた。
去年の冬に指を三本繋いだ女の、母親だ。
俺の顔を見て、口を開いて、それから何も言わなかった。
言わない代わりに、頭を下げた。
深く下げて、そのまま上げなかった。
「……娘さん、日暮れには帰ってきます」
女は頭を上げなかった。
上げないまま、ありがとうございますと言った。
二度言った。
十歩ほど行ってから振り返ると、女はまだ頭を下げていた。
診療所の表の日陰には、まだ人が寝ていた。
俺が六人並べた場所だが、今日は三人になっていた。
減った三人がどこへ行ったのかを、俺はその時考えなかった。
考えないようにした、と言った方が正しい。
戸口にミオが立っていた。
いつから立っていたのかは分からない。
昨日、涸れ川の斜面の上にいた時と同じだ。
この娘はいつも先にそこにいる。
「シオン先生、お帰りなさい」
俺は頷いてから、聞くことの順番を頭の中に並べた。
六年やってきた通りに、重い方から聞く。
「父さんは」
「大丈夫、生きています。奥の二番目にいます」
「熱は?」
「昨日の夜に上がって、明け方に下がりました」
ミオは走らない。
昔から、慌てるということをしない。
だからこの娘の報告は、いつも順番が正しい。
俺は診療所の中へ入った。
寝台に三人、土間に六人、板の上に四人、表の日陰に三人。
昨日、俺は二十二人と数えて出た。
今日は十六人だった。
土間の奥に一人いた。
起きていて、俺を見て、口だけを動かした。
でも声は出ていなかった。
寝台の脇に、紙が一枚ずつ置いてあった。
置いたのはミオだ。
昨日俺が書いた束から抜いて、その人の枕元に置いてある。
長屋の女が三人、土間で布を替えていた。
俺の顔を見ても、手を止めなかった。
止めずに紙を見て、それから手を動かした。
六年前、俺は自分がいない時間のために紙を書き始めた。
書いた時に考えていたのは、門の外にいる半日のことだ。
今、俺は街の中にいる。
中にいても、俺が書いた紙の方が先に働いていた。
親父は奥の寝台にいた。
「父さん」
ゆっくりと親父が目を開けた。
俺の顔を見て、それから口を開いた。
この人が最初に言うことは、六年間ずっと決まっていた。
必要のないことを言わない人だからだ。
「セイナは?」
「大丈夫、生きてます」
親父は目を閉じた。
閉じてから、もう一度開けた。
「レナは」
「無事です。二人とも荷台で来ます。日暮れには着きます」
「そうか」
それだけだった。
俺は布をめくって、胸を見た。
右の第五肋の下で、穴は塞がっている。
縫い目が七つあって、間隔が揃っていた。
ミオの縫い方だ。
糸の選び方まで、俺が教えた通りになっていた。
音を聞くと、右が弱い。
ミオの言った通りで、それ以上でもそれ以下でもなかった。
俺は親父の右の掌にまかれた布を解いた。
解きながら、指の動きを見た。
見なくても分かるものを、それでも俺は端から見た。
親指の付け根の割れて開いたところは、塞がっていた。
塞がってはいたが、塞がり方が悪い。
中で引き攣れている。
俺は親指を持って、動かした。
「痛みますか?」
「いや、痛まん」
「自分で動かしてみてください」
親父は動かしたが、親指が指の幅ぶんだけ動いた。
それだけだった。
六年間、俺は毎日この手を見てきた。
爪の間にまで油が入っていて、洗っても落ちない手だ。
段差に板を打った手で、暗渠の腐った板を全部取り替えた手で、弦を張り替える台を作って、その台の高さを一寸上げた手だった。
俺は親父の掌を寝台の上に戻した。
「先生……」
ミオが後ろに立っていた。
紙を一枚持っていた。
昨日、俺が川底で渡した束の中の一枚だ。
三十枚目より少し下にあった、親父の紙。
俺は受け取った。
炭で書き足した字が、そのまま残っていた。
胸のこと、布の張り替えの間隔、熱が出た時のこと。
そして最後の一行だけ、他より大きい。
『手は後だ。胸を先にやれ』
「この通りにやりました、間違っていましたか?」
「いや、間違ってなんかいない」
俺は紙を畳んで、ミオに返した。
正しかった。
昨日のあの時間で、あの手持ちで、俺が書ける一行はそれだけだ。
今日もう一度書けと言われても、俺は同じことを書く。
親父の右手はもう戻らない。
弾が掌を突き破って抜けた時点で、そこまでは決まっていた。
「ミオ、ロールさんは」
ミオは表情を伏せ沈痛な面持ちで俺を見た。
この娘は昔から、慌てるということをしない。
六年間、俺はそれを何度も見てきたはずだった。
だからこそ、この時ミオが崩れたことが、俺には答えになった。
「……奥です」
俺は立ち上がった。
「診てるのか?」
「診ていません、診るなと言われました」
ミオはまだ紙の束を胸に抱えていた、二百四十枚の束だ。
昨日、斜面の上で俺に渡して、また持って帰った束だった。
「今朝のことです」
ミオはそう言った。
「昨日の夜は誰も来ませんでした。でも今朝は六人来ました。歩ける若い人を探して」
「どこから連れて行った?」
「表の日陰から三人、連れていきました。でもロールさんが、戸口に立って……」
ミオはそう言った。
「立って、動かなかったんです。連中が三人まで数えて、四人目を寝台から起こそうとした時に」
「……それで」
「撃たれました。お腹を、左の、下の方を」
俺は聞き終える前に歩き出していた。
「先生!」
ミオが後ろから叫んで言った。
「診るなと言われたんです、あたしにじゃありません。先生に、です」
診療所の奥は、六年間ずっと物置だった。
薬の棚と、洗った布を干す紐と、脚の短い壊れた寝台が一つある。
短いのを直すつもりで、俺は二年前から板を一枚そこに立てかけたままにしていた。
その寝台に、あの人が、ロールさんがいた。
二年前、ロールさんは俺に、戸口で一度止まれと言った。
患者が入ってきた瞬間に手を洗いに行く癖を、それで直せと言った。
六年でこの人が俺にくれたもののうち、たぶん一番役に立ったのがそれだ。
止まるのは、まだ何も見えていないからだ。
見えていないうちに手が動くから、一度止まる。
俺は止まらなかった。
止まる必要がなかった。
見えてしまったからだ。
脚の短い寝台に、布が二枚重ねて敷いてあった。
下の一枚が赤い。
上の一枚はまだ白い。
替えたのは、そう昔ではない。
ロールさんは、継ぎ接ぎのエプロンをまだ着けていた。
袖は肘までまくり上げたままだ。
六年間、この人がそれを下ろしているところを俺は見たことがない。
耳に、煙草が一本挟まっていた。
俺はロールさんを診た。
顔が白い、きれいなくらいに白かった。
唇からも色が抜けている。
爪を押して、戻る速さを見た。
戻らなかった。
臍のまわりが張っていた。
手を取ると冷たかった。
脈は速くて細い。
五つ数えるあいだで終わった。
考えることが何もなかったからだ。
俺の手は動かなかった。
六年間、俺の手は判断より先に動いてきた。
それを直すのに二年かかった。
震えてはいない、昨日母を見た時と同じだ、同じように動かない。
俺にとってロールさんはそう言う対象だったということだ。
「チビ」
その声は小さかった。
小さかったが、掠れてはいなかった。
「ロールさん」
「その手をどけな」
俺は膝をついた。
「ダメです、開けます」
「どけなと言ってるんだ」
「開けて出血の根を締めれば」
「ダメだ、何刻経ってると思ってるんだい」
俺は懐に手を入れた、持って行った糸と針は昨日で使い切っている。
けれども診療所には全部ある。
棚の場所も、道具の並びも、並べたのは俺だ。
立ち上がろうとした時に、手首を掴まれた。
今日は、強さが同じではなかった。
俺は座り直した、振り払えないからではない。
容易に振り払えるからだ。
答えは、戸口を入る前から出ていた。
出ていたから、俺は戸口で止まらずに済んだのだ。
「あんた、あたしを診たろ」
「……はい」
「なら言ってごらん」
ロールさんはそこで一度息を継いだ。
「あと何分だ」
俺は考える前に答えていた。
六年やっていると、こういう問いには身体の方が先に返事をする。
昨晩、俺は同じ問いを他人から受けて、同じように答えた。
あの時は、答えたことで手が動いた、動かせて救うことができた。
でも今日は、答えたことで何も変わらなかった。
「……一刻です。もって一刻」
「そうかい」
ロールさんは天井を見ていた。
「上出来だ」
それから、この人は仕事の話をした。
「表の日陰の三人は?」
「布だけです」
「土間の奥のは」
「持ちます」
「じゃあ……大したことないね」
俺は返事をしなかった。
「寝台の右から二番目のは、明日の朝に一度熱が出る」
「はい」
「出たら下げるんじゃないよ。出させてから見な」
俺は言われたことを頭の中に並べていた。
並べる癖をつけたのはこの人だ。
六年前、俺が薬の名前を憶える順番を間違えた日に、順番から先に憶えろと言った。
「棚の三段目の、右から二つ目の壺」
「粉のですか」
「あれは紙には書いてない。あたしの頭にしかない」
ロールさんは、そこで少し目を閉じた。
「量は、大人で匙の四分の一だ。子供は八分の一。それより下は使うんじゃないよ」
「……四分の一と、八分の一」
「二度言わせるんじゃないよ」
俺は憶えた。
憶えたことを、あとで紙に書いた。
書いた紙が、今もある。
「あの子に、糸の選び方は教えたのかい?」
「ええ、教えました」
「匙の方は」
「あなたが教えるはずでした」
「そうだったね」
ロールさんは、それ以上その話をしなかった。
俺は動かなかった。
俺とこの人の間は、二尺だった。
昨日、その距離のことを言われた。
百二十歩先の子供の脇を抜いた手が、二尺先で止まるのかと言われた。
今日は誰にも言われなかった。
言われなかったので、俺の手は二尺のところに置いたままだった。
「ロールさん……」
「なんだい」
「昨日から一本も吸ってませんね」
耳の煙草のことだ。
六年間、俺はこの人の煙草を数えてきた。
一日に三本で、外の壁のところでだけ吸う。
三本より多い日は、その日のうちに誰かが死んでいる。
耳に挟まっているのは、まだ仕事中だという意味だ。
「ああ、まだ仕事中だ」
俺は頷いた。
頷いたのを見たかどうかは分からない。
それから、しばらく何もなかった。
外で誰かが桶を置く音がした。
ミオが土間で布を絞る音がした。
表の日陰で、三人のうちの一人が咳をした。
診療所の音、六年間俺が毎日聞いてきた音だった。
やがて、この人の右手が動いた。
肘までしか上がらなかった。
上げようとした先は、耳のところだ。
俺は手を伸ばしかけて、止めた。
止めたのは、その一本を取ることが何を意味するかを、俺が六年数えて知っていたからだ。
やがて、その手が落ちた。
「……シオン」
その三文字を、俺は六年間一度も聞いたことがなかった。
何年か前、俺は患者を名前で呼んだことがある。
三日で死んだ男だった。
名前を憶えていて、呼んでいて、最後の日に俺の手が一度だけ遅れた。
一度だけだ。
一度だけだが、遅れた。
その夜、俺はこの人に聞いた。
「ロールさんは、俺のことを名前で呼びませんよね」
「呼ばないね」
「なんでですか」
ロールさんは外の壁のところで、二本目を吸っていた。
「名で呼ぶと情が移っちまう」
「……はい、そうですね」
「情が移った相手は、数字になってくれない。数字にならないものは順番に並べられない」
それから、こう付け足した。
「あたしは看護婦だ。あんたは医者だ。二人ともそれで飯を食ってる」
俺はその話を、六年間ずっと仕事の話として聞いてきた。
事実、仕事の話だった。
おかげで俺は、六年間で二百四十人を紙の上に並べられるようになった。
耳の煙草に手が届かなかったあとで、この人は俺の名前を呼んだ。
つまり、この人はもう仕事をしていなかった。
それだけのことだ、それだけのことなんだ。
俺はそう思うことにした。
思うようにして、それ以上は考えなかった。
考えられなかった。
「はい」
俺はそう返事をして、他には何も言わなかった。
絶対に言わないと、あなたに惚れているとは絶対に言わないと決めていたからだ。
決めたのは俺だ、でも決めた通りにした。
俺は呼吸を数えた、数えるのが俺の仕事だ。
数える以外に、できることはもうなかった。
間隔が開いていった。
四つ数えるあいだが、六つになった。
六つが、十になった。
十二を数えたところで、次がなかった。
再び呼吸をすることはなかった
俺は泣かなかった。
轍を追うとき、俺は市場の隘路で泣いた。
でも今日はそこを通っても泣かなかったし、ここでも泣かなかった。
戸口にミオが立っていた。
いつから立っていたのかは分からない。
この娘はいつも先にそこにいる。
「ミオ、終わったよ。逝ってしまった」
「はい」
ミオは中へ入ってきた。
湯を張った盥と、布を二枚持っていた。
ミオはロールさんの袖を、ゆっくりと肘から下ろした。
六年間、この人がそれを下ろしているところを俺は見たことがない。
下ろしたのは、ミオが初めてだった。
それからミオは俺に背を向けた。
背を向けたまま、しばらく動かなかった。
肩も動かなかった、声も出さなかった。
それでも泣いているのが分かった。
俺は何も言わなかった。
言うべきことを、俺は一つも持っていなかった。
俺はこの人の耳から、煙草を取った。
六年で初めて触った。
それから外へ出た、建物の南側の壁だ。
一日に三本、この人がそこでだけ吸っていた場所だった。
壁の下に、灰の落ちた跡が細く残っている。
六年ぶんの煙草の跡だ。
俺は火を点けた。
俺は吸い方を知らない。
知らないから、壁の窪みに立てて置いた。
煙が上がった。
二日ぶりに、この街で煙が上がった。