『蒼』は荒野を駆ける 作:ぶっぱなす
異名は自分でつけるものじゃない。人につけられて、それを剥がせなかった奴が背負うんだ。
六年前、今はもういない人はそう言った。
俺はその時、上手いことを言うと思っただけだった。
背負うのは俺だけなのだと思っていたが、少しだけ違っていた。
グラップラー襲撃の朝、門の前で読み上げられたのは俺の名前ではない。
連中は名前までは聞いていないと言った。
知らないまま、二百四十人の街の門まで来た。
知らないままでも来られたのは、異名があったからだ。
支所の帳面の、二つ名の欄がある。
書いたのは受付の男で、俺はその名を止めさせようと帳面を取り上げようとして襟を掴まれた。
街の人間は、俺を幼きゴッドハンドと呼んだ。
俺の年が増えるにつれて、帳面に書かれた異名は若きゴッドハンドと変わっていた。
それを俺は、六年間ずっと恥ずかしいと思っていただけだった。
恥ずかしいだけで済んでいたのは、街の中にいたからだ。
そんな事にも俺は気づけなかった。
そして、どうにもならないところまで来てしまうのに、六年かかった。
異名は剥がせない。
剥がしたいなら、剥せるだけの力量で黙らせるしかない。
昨日、俺は足りなかった、何もかもが足りなかった。
足りなかったから、ロールが死んだ。
だから、俺は強くならなければならない。
レナと母さんが乗った荷台が二台着いたのは、日が防壁の向こうへ落ちてからだ。
音を聞くだけで分かった。
昨日の朝、この音を聞いて追った。
今日も同じ音を聞いたが、俺は走らなかった。
門のところに人だかりが出ていた。
昼間戻ってきた時、通りには誰もいなかったが、今は出ていた。
筵の並びの前を通って、みんな北門の方へ歩いていった。
歩けるのが二十二人、母を含め歩けないのが四人、合わせて二十六人。
それにマリアも居る。
俺が戻る前に数えた時と数は合っていた。
合っていたが、荷台の周りで互いの名前を呼ぶ声は二十六より多かった。
呼ぶ側の方が多いのは、そういうものだ。
俺が指を三本繋いだ女の母親が、そこにいた。
昼間、俺に二度礼を言った人だ。
マリアは右の荷台の轅のところに立っていた。
長物を担ぎ直して、こちらへ歩いてきた。
歩調は昨日と同じだった。
「二十六人、誰も落ちることなくいる」
「……はい」
「数えてくれ」
俺が改めて数えると、間違いなく二十六人いた。
マリアはそれ以上何も言わなかった。
言わない代わりに、俺の顔を一度だけ見た。
やがて門のところからゴードがやってきた。
肩を布で吊っていた。
昨日の朝、出ようとする俺の襟を掴んで突き飛ばした方の腕だ。
「先生が連れ戻したのは……二十六人ですか?」
「はい、二十六人です」
ゴードはそれ以上何も聞かなかった。
聞かない代わりに、荷台の方をずっと見ていた。
見ながら、下ろした方の手の指を動かしていた。
母を診療所へ運び入れたのは、それからすぐだ。
棚の三段目の、右から二つ目の壺にある薬を計る。
大人で匙の四分の一。
昼過ぎに教わったばかりの量だった。
灯りを三つ点けると、湯は沸いていた。
ミオが助手として向かいに立った。
昨日とは違うものを、俺は数えた。
灯りがある、湯がある、布もいくらでもある。
糸は一組ではない、鉗子は二本ではない。
助手がいて、その助手は走らない。
そして、誰も俺に発破をかけなかった。
昨日、俺の手を動かしたのは他人の一語だ、それなくしては動かせなかった。
今日は発破がなくても、俺の手は動いてくれた。
気が付くと、レナが隅にいた。
昨日、俺はこの子に母の手を握らせた。
俺がいいと言うまで離すな、と言った。
今日、レナは俺の顔を見て、それから母の手の方を見た。
聞かずに聞いていた。
「今日は大丈夫だ」
「……いいの?」
「ああ。今日は道具が足りてるからな」
レナは頷いた。
頷いてから土間の隅に座って、そこから動かなかった。
昨日、俺は自分に手順を読み上げた。
助手がいなかったからだ。
今日はミオがいた。
いたので、俺は自分に読み上げなかった。
その代わりに、この娘に一つずつ言った。
順番と、量と、何が起きたらどうするか。
俺が紙に書いてきたのと同じ形でミオに伝えた。
母が目を覚ましたのは、夜中だった。
「シオン、父さんは?」
「隣にいます。大丈夫ですよ」
「レナは?」
「寝てます。マリアさんの荷台の上で寝てしまったので、運びました」
「そう……」
母はしばらく天井を見ていた。
「……ロールさんは?」
俺は答えられなかった。
答えなかったことが、答えになった。
母は少しの間、目を閉じた。
閉じてから、少ししてこう言った。
「シオンは何か食べたの? シオンは大丈夫なの?」
俺は答えなかった。
結局昨日から、まだ何も食べられていなかった。
翌朝、街は総出で墓穴を掘った。
北門の外の、防壁の影になるところだ。
去年はそこに掘ったし、一昨年も掘った。
違うのは葬る数だけだけだ、去年とは比べ物にならないほど多い。
合わせて二十。
昨日、市場の手前に並んでいたのは十九枚だった。
診療所で増えた一枚は、昨日の昼にはまだ生きていた人だ。
北門の土嚢の裏から俺の知った男が一人と、市場の隘路からも一人葬られた。
どちらも、俺が知っている形のまま運ばれていった。
片方は散弾銃を腰に抱えたまま硬くなっていて、外すのに三人がかりだった。
もう片方は、左足が半歩引いた形のまま、決めた形で曲がらなかった。
俺はロールさんの布を、自分でかけた。
継ぎ接ぎのエプロンは外させなかった。
外させると、あの人でなくなる気がしたからだ。
そういう理屈は、たぶん医者の理屈ではない。
穴を埋めるあいだに、街の人間が何人か前へ出た。
出て、縁のところに何かを置いていった。
一人ずつ、一本ずつだ。
十一本あった。
六年間、あの人の煙草を数えていたのは俺だけだと思っていた。
そう思っていたことが、たぶん一番間違っていた。
寄り合いは、その日の夕方にあった。
集会小屋でだ、五日前、俺はここで見張りを倍にする話をした。
その時は十四人いたが、今日は十一人だった。
三人は北門の外に埋められた。
ゴードが最初に喋った。
肩を吊ったまま、立たずに座って喋った。
「連中は、引き上げる時に置いていきました」
「何をですか?」
「言葉です」
ゴードは頭を掻かなかった。
この人が俺の顔を見て頭を掻かなかったのは、三年ぶりだった。
「月が細くなる頃にまた来る、準備しろ、と」
小屋の中は静かだった。
足りない分を、次に出すしかない。
誰も、そうしないとは言わなかった。
五日前、この小屋では門を閉める話が通らなかった。
今日は何も通らない、通す通さない以前にこの街ができる事がもう一つしかないからだ。
「俺は街を出ます」
俺はそう言った。
三度目だ。
一度目は門の前で、ゴードに突き飛ばされた。
二度目は同じ朝に、婆さんの杖で胸を押さえられた。
今日は誰も俺を押さえなかった。
押さえない代わりに、ゴードがこう言った。
「先生が出ていっても、十四人は要るんですよ」
俺は座らなかった。
「渡す話じゃありません」
「……は?」
「俺は渡されに行くんじゃない。この街からいなくなるんです」
ゴードが顔を上げた。
「三つ目の要求が消えます」
「シオン先生……」
「一つ目はもう終わってます。二つ目は、俺がいてもいなくても同じです」
言いながら、俺は自分の声を聞いていた。
裏返らなかった。
「三つ目だけが、俺のせいで生きてる」
小屋の誰も何も言わなかった。
言わないまま、産婆の婆さんが杖の先で土間を一度突いた。
「あたしはね、あの朝、あんたに何と言ったか憶えてるかい」
「憶えてます」
「言ってごらん」
「俺を差し出したら……この街に次はどの医者が来てくれるんだい、と」
「そうだ」
婆さんは俺を見なかった。
見ないまま、戸口の方へ顎を向けた。
戸口の外の土間で、ミオが盥を洗っていた。
「でも、来てたんだね……いや、あんたが仕込んだんだ」
婆さんはそう言った。
「六年間かけて、あんたが仕込んだ子なら信頼できる。だから、好きなように行きな」
ゴードが最後にこう言った。
「先生。俺はね、三年前にあんたを門から出すなと言った男です」
「……」
「あれを決めたのは俺だ。先生じゃないんだ」
婆さんも同じことを言った。
「あたしも同じことを言ったよ。今日の話じゃないと言ってね」
責められた方が楽だった、とは書かない。
楽になりたいと思うことそのものが、この街に対してもう返せない借りの上に乗っている。
昨日、俺は母の治療のため二十六人の服を受け取った。
今日は、この人たちの言わなかったことを受け取った。
どちらも俺には返し方が分からない。
分からないから、俺は強くならなければならない。
今より遥かに強くなって、このイカレた荒野の、イカレきった暴力の理屈に終止符を打つ。
それしか思いつく形がない。
マリアは六日のあいだ、一度も街の中では寝なかった。
門の外の、防壁の陰で寝ていた。
飯だけは受け取って、その場で食って椀を返した。
レナは毎朝そこへ行っていた。
行って、何もしないで帰ってきた。
何を話したのかと聞いたことはない。
たぶん、何も話していない。
紙を書くのに、四日かかった。
二百四十枚を書いた時は一晩で書き上げたが、今度は四日かかった。
書く内容が違うからだ。
六年前、俺は自分がいない半日のために紙を書き始めた。
門を出て、日が暮れる前に帰ってくる、そのあいだの為だけの紙だった。
今度書いているのは、俺が二度と戻らない時間のための紙だ。
枚数は二百十六枚になった。
書かなかった二十四枚のうち、二十枚は北門の外に埋めた人の分で、あとの四人はこの街にいない。
そのうちの一人が、樽の縁を指で二度叩く癖のある人だ。
その一枚だけ、俺は捨てなかった。
束の一番下に入れて、ミオに渡した。
ロールに教わった薬の紙も書いた。
棚の三段目の、右から二つ目の壺。
大人で匙の四分の一、子供は八分の一、それより下には使わない。
六年間、その量は紙のどこにも書いてなかった。
あの人の頭の中にしかなかったからだ。
俺はそれを紙にした。
紙にしたら、たった二行だった。
ミオはそれを最後まで読んでから顔を上げた。
六年前から、この娘はそうする。
「シオン先生、紙が足りなくなったらどうしますか」
俺は少し黙った。
黙ったのは、答えを考えたからではない。
答えがもう出ていることに、その時気づいたからだ。
「ミオが書くんだ」
「え……あたしがですか?」
「そうだ、ミオが書けばいい。それだけのことは仕込んだ」
ミオは頷いてから、髪の束を大事そうに胸に抱え直した。
抱え直した時に、この娘の指が一度だけ止まった。
止まったのを俺は見たが、何も言わなかった。
薬箱は返そうとしてきた。
昨日の朝、俺が中身を分けてミオの脇へ押しやった箱だ。
六年間、俺がずっと担いで歩いた箱でもある。
「それはもうミオのだ」
「違います、シオン先生の箱です」
「いや、今日からは違う」
確かめる必要がなかった。
中身の場所を知っている人間が、目の前に立っていたからだ。
支所に、紙を一枚預けた。
東から二人が帰ってきたら渡してくれと言った。
受付の男は何も聞かずに受け取った。
この街で今、俺に何も聞かない人間は多い。
結局、書いたのは行き先だけだ。
書かなかったことは憶えている、何一つも書かなかった。
あの二人が帰ってきた時に、この街に俺はいない。
いないところで、二人はこの四日の話を誰かから聞くことになるだろう。
その後どう判断するかは、俺はもう知らない。
ドグの家の幌を外したのは、五日目の朝だ。
ドグの家の裏で、北門のすぐ内側にある。
布は端を石で押さえてあった。
砂が上に積もっていて、俺は先に払った。
出てきたのは、砲のついた単車、いや敢えてクルマと呼ぶ。
デザインそのものは近未来的だが、装甲は薄い、砲は可動式だった。
塗りはところどころ剥げていて、右の前の板には継ぎが当ててある。
俺は運転席のシートを見た。
油の匂いがした、古い油ではない。
少なくとも半年より前ではないと思う。
座席に手を置いて、それから止まった。
座席の高さが変えてあった。
台座の下に鋼板が二枚噛ませてある。
二枚とも切り口が新しくない。
測って切ってあると分かった。
七つの夏、ドグは俺のために銃の床尾を切った。
子供が構えられる長さに、あの人が自分で切った。
同じ手による拵え物だ。
俺は座ってみた。
足がちょうどいい高さで届いた。
去年の秋、あの人は俺に、そろそろクルマの話をしないかと言った。
俺は軽い気持ちで、先約があるんですよと答えた。
それきり、あの人は二度とその話をしなかった。
しなかっただけだ。
あの人はやめたわけではなかったんだ。
また、涙がこぼれ落ちそうになる。
先約は、まだ果たしていない。
果たしていないのに、俺は断った方に乗る。
二年前、オルガは乗り物には名前をつけた方が長持ちすると言った。
俺はつけたら乗り換えられなくなりますよと答えた。
その時の理屈は、いずれレナに渡すつもりのものだから、というものだった。
それに名で呼ぶと情が移ってしまう。
情が移ったものは、置いていけなくなる。
「『デュランダル』……お前は、デュランダルだ」
そう分かっても、俺はこのクルマに名前を付けた。
折れたことのない、不壊の聖剣の名を。
俺の旅路に、もう壊れるものはあってほしくないと思いながら。
夕方になって、俺は家へ寄った。
戸は開いたままだった、六日間、誰も閉めていない。
土間の隅の板は、外して壁に立てかけたままになっていた。
俺はそれを元へ戻して、釘を打った。
竈の灰は、まだ濡れていた。
六日たっても乾かないのは、水をかけたからだ。
かけたのは、あの朝この家を最後に出た人だ。
俺はその灰を、さらわなかった。
母には、家の話を聞かれた。
「あの灰、どうなってる」
「濡れたままです」
「そう」
母はそれ以上聞かなかった。
聞かない代わりに、天井を見て少し笑った。
「じゃあ、燃えなかったのね」
「燃えませんでした」
この人が二日間ずっと気にしていたのは、それだ。
そういう人だから、あの朝この人は逃げるのが遅れた。
そう書くと、火を消したのが悪かったという話になる。
いいや、ならない。
そうはならない、と俺は決めた。
出たのは、七日目の朝だった。
母は起き上がれるようになっていた。
親父も座れるようになっていた。
どちらも荷台に乗せて、板を高くして風が当たらないようにした。
デュランダルで荷台をけん引する。
荷台に板を打ったのは俺だ。
六年前、親父は臨月の母のために段差へ板を打った。
釘を十二回打った、俺はその音を土間から聞いていた。
今度は俺が打ったが十二回では足りなくて、十六回打つ羽目になった。
改めて積んだものを数えた。
薬が一箱、道具が一組、布が二十枚。
水が四つ、乾物が三日ぶん。
紙は一枚もなかった。
六年間、門を出る時に俺が必ず持っていたものが、今日は一枚もない。
全部この街に置いていくからだ。
置いていくものを数える方が、持っていくものを数えるより時間がかかった。
門のところまで、移動すると人だかりが出ていた。
三年前、この街は俺を門から出さないと決めた。
そして今回、この街はその通りにして潰れた。
今日、同じ人たちが、俺と門の間から退いた。
腹を開けた男がいた。
赤ん坊を取り上げた家の亭主がいた。
指を三本繋いだ女がいて、その母親がいた。
一昨日、荷台から降りた二十六人も来ていた。
そのうちの何人かが、月が細くなる頃にはもう一度数えられる。
誰がその十四人になるかは、まだ決まっていない。
決まっていない人たちが、道の脇に立っていた。
俺はその顔を端から見た。
見ないで通ることも、たぶんできた。
でも見ることにした、俺にできる一番少ないことだったからだ。
誰も何も言わないまま、道の両側に寄った。
一昨日の朝、俺と門の間に立ったのと同じ人たちが、同じ顔で道を開けていた。
俺はその間を通った。
ゴードが門の柱のところにいた。
通る時に、この人はやっと頭を掻いた。
「シオン先生。いや……もう、先生じゃねえのか」
俺は答えなかった。
答えを持っていなかったからだ。
婆さんは門の少し外にいた。
背中が曲がっていて、俺より頭ひとつ小さい人だ。
その小さいのが、杖で俺の脛を一度叩いた。
本気ではなかった。
「今までありがとうな」
婆さんはそれだけ言って、背を向けた。
こちらを見ずに、最後にこう付け足した。
「あの子は肝が据わってるからね。心配は要らないよ」
ミオは門の外に立っていた。
いつから立っていたのかは分からない、先に来ていた。
走らないのに、いつも先にそこにいる。
「シオン先生……行ってらっしゃい」
俺はその言い方に、しばらく返事ができなかった。
行ってらっしゃいは、帰ってくる人間に言う言葉だ。
この娘がそれを知らないわけがないのに、知っていて言った。
「……ああ、行ってくるよ」
俺はそう言って、クルマを出した。
レナは荷台の後ろの板のところに座っていた。
門を出てから、一度も振り返らなかった。
アズサまでは二週間かかった。
急がなかったからだ。
腹を開けた人を乗せているから、石の多いところでは歩くより遅く走った。
マリアはデュランダルのサイドカーに座っていた。
中には一度も入らなかった。
街の中で寝なかったのと同じだ。
この人は屋根の下に入らない人なのだろうと、二日目に俺は考えるのをやめた。
理由を聞かなかったのは、聞いても答えないと分かっていたからだ。
夜は火を焚いた。
母は起きている時間が長くなっていた。
親父は座って、左手で乾物を割っていた。
レナは火の向こう側に座って、マリアの方を見ていた。
一日目もそうだった。
二日目もそうだった。
「あんたはこれからどうする」
二日目の夜に、マリアがそう聞いた。
長物の遊底を開けて、中を見ながらだ。
この人は見ながら喋る。
「両親が回復しきったらアズサに置くつもりです」
「それはわかっている。あたしが紹介するから。そっちじゃない、その後だ」
「デルタリオの北東へ行こうと思います」
「四台の後を追うのか?」
「はい、そのつもりです」
マリアは遊底を閉じた。
「もう誰も居ない、それに一人だと死ぬぞ」
「はい」
「そうか分かってるなら、それでいい」
それだけだった。
止めなかった、励ましもしなかった。
どうすればいいかも言わなかった。
昨日から、この人は俺に一度も説明をしていない。
説明をしない代わりに、必ず数を聞く。
何人だ、何発だ、あと何分だ。
俺はそういう人を、もう一人知っている。
その人は診療所の奥で死んだ。
一度だけ、言いかけたことがある。
三日目の朝だ。
マリアが水筒に水を移していて、俺はその横に立っていた。
東に、あなたと同じことを言う男がいますよ。
そう言おうとして、口を開けた。
開けて、閉じた。
言えば、俺はこの人の先を知っている人間になる。
知っている人間が何をすればいいのかを、俺は六年考えて、まだ何一つ出していない。
出していないうちは、言わない方がいい。
そう決めて、俺は水筒の蓋を渡した。
マリアは受け取って、閉めた。
何か言いかけたのに気づいたかどうかは、分からない。
瞬きをしない人なので、そういうことが分からない。
歳は聞いた。
単車のことも聞いた。
弾の数も、距離も、あと何分もつかも聞いた。
マリアが言った。
「あの時あんたが六人撃って、あたしが三人だ」
「……はい」
「一人逃げられた。そのことを忘れるな」
俺は頷いた、忘れるはずがない。
窪地の口から岩の向こうへ消えた男を、俺は毎晩数え直している。
「あの男は、あんたの顔を見てる」
「ええ、見られてますね」
「いつかは来るぞ、その時までには足りていろ、それだけだ」
それが、この人が俺にくれた唯一の助言だった。
足りていろ。
それだけだ。
レナが荷台から降りた、止める間もなかった。
降りて、走って、マリアの前まで行った。
マリアは膝をつかなかった。
抱き上げもしなかった。
窪地でそうだったのと同じで、上から見下ろしただけだ。
「わたし、レナっていうの」
レナはそう言った。
砂の上に立って、頭ひとつ分どころか三つ分は高い相手を、まっすぐ見上げていた。
マリアは少し黙った。
「そうか」
「おぼえて」
俺は口を挟まなかった、挟む場面ではなかったからだ。
六つの子供が、自分で決めて、自分の足で走って、自分の名前を置いていこうとしていた。
「……ああ」
マリアはそう言った。
言って、それだけだった。
それから、マリアは長物の負い革を親指で一度押した。
この人は決めた時に、そこを押す。
何を決めたのかは、聞かなかった。
聞かなくても、たぶん、いずれ分かる。
アズサに着いたのは、一週間後の夕方だ。
デルタ・リオと違った防衛要塞に近い街だった。
新幹線の残骸が上にある、そこがこの街の本来の街であり、守りだった。
俺が選んだ街だ、他の街は最終的に原作前にグラップラーに服属することになる、置いていけない。
合言葉をマリアから教わり、宿の裏の小さい小屋を借りた。
土間があって、竈があって、段差が一つある。
その段差に俺は板を打った、十六回かかった。
親父はそれを黙って見ていた。
何も言わなかった。
言わない代わりに、翌朝、その板の端を左手で押して、浮きがないかを確かめていた。
アズサの医者は東の通りにいた。
その人のところへ、紙を二枚持っていった。
母の紙と、親父の紙だ。
腹を二度開けたこと、弾は出したこと。
どこを何で縛ったか、熱が出るとしたら、それはいつか。
右の掌のこと。
半年のあいだに、何をどこまでやるべきか。
医者は最後まで読んでから顔を上げた。
「あんた、これを書いたのは誰だい?」
「はい、俺です」
「歳は」
「十三です」
「ああ……」
その人はそれ以上何も聞かなかった。
聞かない代わりに、紙を二つに折って、机の引き出しの一番上へ入れた。
一番上に入れたのを、俺は見た。
「なるほど、事情は分かった。アズサはあんたを歓迎するよ、今はなきゴッドハンド」
俺にはそれで十分だった。
そう、もうゴッドハンドと言う異名は剥がしていかなければならない。
ここからはただのハンター、シオンでいい。
そこまで終わって、五日目の朝にアズサを出ると俺は決めた。
前の晩に、親父が土間へ出てきた。
胸の縫い目はもう突っ張らない。
歩き方は少し右へ傾いている。
右手は膝の上に置いたままだった。
「行くのか、いつだ?」
「もう、だいじょうぶです、だから明日の朝に」
「そうか……俺は待つのが下手だ」
八年前にも、五年前にも、この人は同じことを言った。
言い方まで同じだった。
「はい」
「下手なのは俺の話だ。お前が行かない理由にはならんだろう」
俺は頷いた。
それから親父は、右の掌を一度だけ見た。
見て、こう言った。
「手はもういいんじゃないか?」
「……まだ早いです。半年やれば、握れるくらいまでには機能が戻ります」
「そうか。じゃあ半年やる」
それだけだった。
この人は本当に、必要のないことしか言わない。
親父は左手を出したので、俺は握った。
母は寝床から市場の方を見ていた。
窓のない家だが、戸を開けておくと市場の端が見える。
母はそれを一日中見ていた。
何年か先に、この人はあの市場の隅に店を出す。
大破壊より前の雑貨を並べて、値段のつけ方がいい加減で、気に入った相手には二つ目をおまけにする店だ。
その頃には、腹の傷はもう見えなくなっているだろう。
「シオン。あんた、朝は食べていきなさいよ」
「はい」
「返事だけは威勢がいいわね」
「はい……食べます」
母は笑った。
腹に響くと言うので、笑い方が短くなっていた。
朝、俺は土間で靴を履いた。
もう戻らない、だから底の厚い方だ。
遠くへ行く日に履く方の靴を、この家で初めて履いた。
レナが土間に立っていた。
靴を見た。
それから顔を上げて、俺の目を見た。
五つの時、この子は靴だけで見分けていた。
六つになってから、靴を見て、それから目を見るようになった。
レナが自分で決めた俺の見方だ。
誰にも教わっていない。
「握る?」
レナはそう言って、手を出した。
「いや」
「いいって言うまで、離さない……離さないんだから」
俺は何も言えなかった。
デルタリオで俺はこの子に同じことを言った。
言ったのは荷台の上で、母の手を握らせた時だ。
俺がいいと言うまでは、離すな。
そう言った。
その形を、レナは憶えていた。
俺は手を出すと、レナが両手で握った。
強く、心から強く握る。
母の手術の時よりも強い握り方だった。
しばらくの間、レナはそうしていた。
「……レナ、もういい」
「うん……」
言葉と共にレナは手を離した。
教えられた通りにやり切る子だ。
終わらせる時も、自分で終わらせる。
「いってらっしゃい、お兄ちゃん」
俺は戸口を出た。
デルタリオを出るとき、ミオも同じ言葉を言った。
けれどもミオの行ってらっしゃいと、レナの行ってらっしゃいは、違う言葉だ。
片方は、もう帰らないと知っていて言った。
だが、もう片方は帰ると思って言っている。
俺はどちらにも、同じ返事をした。
俺の頭の中には、目次がある。
俺はそれを日付のない予定表として抱えていた。
何が起きるかは知っているが、いつ起きるかは知らない、そういう紙だ。
この二週間で、その紙は使えないものだと知った。
両親は死ぬはずだったが、死ななかった。
でもドグも、ボーグも、ロールさんも、あの目次には一行も載っていない人が死んだ。
その死が載っていた二人は生きていたけれども、載っていない人が三人死んでいる。
三人とも大事な人だった、だから予定表はもう使えない。
それでは意味がないのだ。
めくった先は白紙で、これから先に何が起きるかはもうわからない。
分からないなら、見て、数えて、順番をつけて、決めるしかない。
大丈夫、六年間ずっとやってきたことだ。
クルマは両親が住む小屋の横に置いてある。
俺はデュランダルのシートにまたがり方角を決めた。
北東だ。
轍はとうに消えている。
半月たって、風が何度も回った。
辿れるものは何一つ残っていない。
それでも北東だ。
樽の縁を指で二度叩く癖のある人が、荷台の縁に腰を下ろして、前を向いたまま、そちらへ運ばれていった。
乗り物の上であの人が後ろを向くのを、俺は六年間で一度も見たことがない。
だから、あの人はまだ前を向いている。
追いつくのに何年かかるかは、分からない。
かかっても構わない。
六年積んで足りなかったのなら、次は六年では足りないというだけの話だ。
荒野で一番先に死ぬのは弱い奴じゃない。一人の奴だ。
二人の人間が、俺に一言一句同じことを言った。
その二人は、今もこの荒野のどこかにいる。
だから俺は、いずれ一人ではなくなる。
名で呼ぶと情が移っちまう。
六年間、あの人は俺を名前で呼ばなかった。
呼ばないまま、俺に順番の並べ方と、量の量り方と、戸口で一度止まることを教えた。
そして最後の一度だけ、呼んだ。
俺はその言葉を持っていく。
持っていって、次に誰かが俺の名前を読み上げた時に、足りている側に立つ。
それが、俺に思いつく唯一の返し方だった。
俺はデュランダルを北東へ向けた。
季節は秋を越え、冬になろうとしていた。
(第一章 了)