『蒼』は荒野を駆ける   作:ぶっぱなす

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第一話 目覚めは荒野に吹く風と共に

最初に戻ってきたのは嗅覚だった。

鉄錆と砂の匂いが鼻の奥にへばりついて、そのざらついた感触だけが俺にまだ息があることを教えていた。

 

次に音が来て、金属の板が風に鳴っている。

一定の拍ではなく思い出したように不規則に軋む音だ。

 

瞼を持ち上げるまでには、随分と時間がかかった。

視界に落ちてきたのは、錆の浮いたトタンの天井だった。

継ぎ目から漏れた細い光の中で、埃の粒がゆっくりと回っている。

 

ここはどこだ。

 

そう思った瞬間に頭の芯が鈍く痛んだ。

 

おかしい。

 

俺は確かに自分の部屋にいたはずだ。

仕事から帰って弁当を食って、点けっぱなしのテレビの前で眠り込んだ。

そこまでは間違いなく憶えている。

安アパートの天井は薄汚れた白で、こんな錆びた鉄板ではなかった。

 

身体を起こそうとした。

腕に力を入れたつもりが、指先が毛布を掻いただけで終わった。

 

熱がある。

それも生半可な熱ではない。

関節のひとつひとつが内側から焼けていて、息を吸うたびに喉の奥が引き攣れた。

 

それでも俺は自分の手を顔の前まで持ち上げた。

そして、そこで完全に思考が止まった。

 

小さい。

 

俺の手ではなかった。

指が短くて節が丸い。

爪は薄い桜色で、手の甲には血管の筋ひとつ浮いていない。

 

「……は?」

 

漏れた声も俺の声ではなかった。

高くて細くて、掠れきっている。

子供の声だ。

 

心臓が跳ねた。

毛布を跳ね除けようとして、その毛布さえ重くて持ち上がらないことに気づく。

 

俺は縮んでいた。

そうとしか言いようがなかった。

 

「シオン!」

 

戸口の方で何かが割れる音がした。

陶器が床に落ちて砕けた音だ。

 

そのまま何かが駆け寄ってくる気配がして、次の瞬間には俺の頭が柔らかいものに押しつけられていた。

砂と石鹸と汗の匂いがした。

 

「シオン、シオン……ああ、目を開けた。目を開けたよ、あなた!」

 

女の声だった。

若くはないが年老いてもいない、掠れの混じった温かい声だ。

その腕が俺の背中に回されて、壊れ物を扱うみたいに力を加減しながら抱きしめてくる。

 

俺は動けなかった。

熱のせいではなく、状況がひとつも飲み込めなかったからだ。

 

奥の方から重い足音が近づいてきた。

鉄板を敷いた床が軋んで、俺の視界の端に大きな影が入る。

 

「セイナ、揺らすな。まだ熱が引いてない」

「だってだって、三日よ。三日も目を開けなかったのよ、この子は」

「分かってる。分かってるから、まず水だ」

 

男の声は低くて、話し方がやたらとゆっくりしていた。

その手が俺の額に触れる。

 

ごつごつして分厚い、日に灼けた手だった。

指の腹に固い胼胝があって、爪の間には落としきれない油の黒が残っている。

 

「熱いな。まだ高い」

 

男がそう言って、俺の顔を覗き込んだ。

無精髭の伸びた頬と、目尻に刻まれた深い皺。

その目が真っ赤に充血していた。

 

たぶん、この人も寝ていない。

どうしてか、俺はそれを一目で理解してしまった。

 

「シオン。俺が分かるか」

 

何も答えられなかった。

分かるはずがない。

俺はこの男を知らないし、俺を抱きしめているこの女も知らない。

 

けれど喉が渇いていた。

砂を詰め込まれたみたいに渇いていて、それ以外のことを考えるのが難しかった。

 

「お水」

 

かろうじてそれだけ言った。

女が弾かれたように立ち上がって、すぐに欠けた縁の椀を持って戻ってきた。

 

男が俺の背中を支えて起こしてくれる。

椀の水は生ぬるくて、微かに薬品の匂いがした。

 

それでも一口飲んだ瞬間、頭の中の霧が少しだけ晴れた。

二口目でむせて、三口目でようやく喉が言うことを聞き始めた。

 

「ゆっくりでいい。まだいくらでもある」

「うそ。あなた、今朝の分まで沸かしてないでしょう」

「今日は俺が汲みに行く。もう一度眠らせてやれ」

 

二人の会話を聞きながら、俺は自分の膝を見下ろしていた。

 

短い。

毛布の下から突き出た脚が、あまりにも短い。

どう見ても五、六歳の子供の身体だった。

 

夢か。

そう考えるのが一番簡単だったし、実際に俺は何度かそう結論づけようとした。

 

だが熱は本物だった。

喉の痛みも椀の欠けた縁の感触も抱きしめられた時の腕の力加減も、全部が生々しすぎた。

夢というのは細部から先に壊れていくものだ。

この世界の細部は、壊れるどころか俺の五感を容赦なく殴りつけてくる。

 

「風を入れるか。今日は砂が来てない」

 

男がそう言って立ち上がった。

戸口の板戸に手をかけて、軋む蝶番ごと横へ引く。

 

そこで初めて、俺は外を見た。

 

そこは——荒野だった。

 

視界の限りまで、乾ききった黄土色が続いていた。

草がない。

木もない。

低い岩と剥き出しの地面と、あとは砂が波紋みたいな模様を作っているだけだ。

 

その平原のあちこちに、鉄の残骸が転がっていた。

横倒しになったバスらしきもの。

半分が砂に埋もれた鉄塔が、折れた背骨みたいな角度で空へ突き出している。

 

どれも錆びていた。

一年や二年ではない錆び方だった。

何十年も雨と砂に削られて、輪郭そのものが溶け始めている。

 

風が吹き込んできた。

熱くて乾いていて、鉄の味がした。

 

俺はその景色から目が離せなかった。

喉の渇きも熱も、一瞬だけ意識の外へ吹き飛んでいた。

 

文明が、終わっている。

 

理屈ではなく、目がそう理解した。

あれは廃墟ではない。

廃墟というのは誰かが片付けるのを諦めた場所のことだ。

あそこには片付ける誰かがもう残っていない。

 

「……ここ、どこ?」

 

俺の口から零れた声は、自分でも情けなくなるくらい細かった。

 

女が——たぶん、俺の母親ということになるのだろう——俺の髪を撫でながら小さく笑った。

その笑い方には無理をしている音が混じっていた。

 

「家よ。ちゃんとおうちにいるからね」

「セイナ。この子は多分、そういう意味で聞いてない」

 

男が戸口に立ったまま振り返った。

逆光になって表情は見えないが、声の温度で分かる。

 

「熱で何日も飛んでたんだ。日付も場所も分からなくて当たり前さ……シオン、お前は倒れたんだ。市場からの帰り道で、いきなり前のめりに倒れた」

 

そこから先の話は、俺の頭を上滑りしていった。

 

倒れた俺を男が背負って帰ったこと。

そこから三日、熱が下がらなかったこと。

うわ言ばかりで水も受け付けなかったこと。

 

聞きながら、俺は必死に自分の記憶を探っていた。

市場の帰り道など知らない。

この家の間取りも目の前の二人の顔も、何ひとつ心当たりがない。

 

なのに。

 

この鉄板の床の軋む音を、俺の身体は「知っている」気がした。

戸口の高さも毛布の匂いも、椀の欠けた位置さえも。

頭ではなく背骨のあたりが勝手に馴染んでいる。

 

気持ちが悪かった。

自分の身体に他人が先に住んでいた跡を見つけたような、そんな居心地の悪さだった。

 

 

 

夜になった。

 

暗くなると外の風が強くなって、トタンの鳴る間隔が短くなった。

灯りは天井から吊るした小さなランタンひとつきりで、その光もやたらと黄色くて心細い。

 

俺は毛布の中で目を閉じたふりをしていた。

実際には眠れなかった。

熱は少し下がっていたが、代わりに頭が冴えて仕方がなかった。

 

土間の方から二人の声が聞こえてきた。

声を潜めているつもりらしいが、この狭さでは筒抜けだった。

 

「……ネツサガールが一本でもあれば、こんなに長引かせずに済んだのに」

「言うな、セイナ」

「言うわよ。三日よ。三日もこの子を放っておいたのよ、わたしたちは」

「放っておいてない。ずっと側にいただろう」

「側にいただけじゃない」

 

椅子の脚が床を擦る音がした。

それから長い沈黙があった。

 

俺は毛布の中で、たった今聞こえた単語を反芻していた。

 

ネツサガール。

 

聞き間違いではない。

薬か何かの名前として、あまりにも間の抜けた響きの言葉だ。

熱が下がる、だからネツサガール。

そんなふざけた命名をする世界を、俺は知っている気がした。

 

「回復カプセルなら熱も傷も一度で済むって、行商の人が」

 

母の声が続いた。

 

「あんなもの、この街の誰が買える。あれは戦車を持ってるハンターの道具だ」

「分かってる。分かってるけど、考えちゃうのよ」

「……ああ」

 

回復カプセル。

 

そこで、俺の中で何かがはまった。

歯車が噛み合う音がしたと言ってもいい。

 

ネツサガールと回復カプセル。

この二つの単語が同じ食卓の上に並ぶ世界は、ひとつしかない。

 

戦車。

ハンター。

賞金首。

崩壊した文明と、錆びた鉄の墓場みたいな荒野。

 

——メタルマックス。

 

前世で擦り切れるほど遊んだゲームの名前が、頭の中に落ちてきた。

 

竜退治に飽きた奴らが戦車を担いで荒野へ出ていく話。

その広告の惹句まで、俺は憶えていた。

 

冗談だろうと思った。

だが冗談にしては窓の外の荒野が完璧すぎたし、俺の手はあまりにも小さすぎた。

 

土間の灯りが消えた。

 

しばらくして、母が毛布をかけ直しに来る気配があった。

俺は寝たふりを続けようとして、結局続けられなかった。

 

薄目を開けた俺と、母の目が合ってしまったからだ。

 

「……起きてたの」

 

俺は小さく頷いた。

母はランタンを床に置いて、俺の枕元に座り直した。

その手が俺の前髪を分けて、額に触れる。

 

「うん。だいぶ下がったね」

「……あの」

「なあに」

 

聞かなければいけないことが山ほどあった。

今が何年でここはどこの街なのか。

あんたたちは誰で、俺は誰なのか。

 

そのうちのどれから聞けばいいのか分からなくて、俺は一番みっともない聞き方をした。

 

「俺の名前、なんだっけ」

 

母の手が止まった。

ほんの一瞬だけ、その顔から表情が抜け落ちるのが見えた。

 

「あなた!」

 

母が振り返って叫んだ。

奥から父が飛び起きてくる音がして、板張りが激しく軋んだ。

 

「どうした」

「この子、名前が」

「落ち着け、セイナ……シオン。よく聞け」

 

父が枕元に片膝をついた。

その大きな手が、俺の頬をゆっくりと挟むように包む。

熱くて乾いていて、砂の匂いがする手だった。

 

「お前の名前はシオンだ。父さんはティアド。母さんはセイナ。ここはお前が生まれた家で、俺たちはお前の親だ」

 

一語ずつ、噛んで含めるような言い方だった。

 

「憶えなくていい。忘れてもいい。何度でも言ってやる」

「……何度でも」

「ああ。お前が飽きるまでな」

 

俺は返事ができなかった。

喉の奥がおかしな具合に詰まっていて、声を出したら妙なものが一緒に出てきそうだった。

熱のせいだと自分に言い訳をした。

 

シオン。

 

俺の名前は、どうやらシオンというらしい。

 

前の名前がどんなだったか、その時の俺はまだ思い出せた。

けれどそれは、もう俺の名前ではなくなっていた。

 

 

 

そうして一年が過ぎた。

 

驚くべきことに、人間は荒野に慣れる。

朝起きて砂を吐く。

井戸まで水を汲みに行く。

風の向きで今日の外出を決める。

そういう生活が一年も続けば、それはもう非日常ではなく単なる生活になった。

 

俺たちが住んでいる街の名はデルタ・リオといった。

涸れかけた川筋がふたつに分かれる、その股の部分に居座った街だ。

おかげで水にだけは困らない。

 

街と呼ぶには小さすぎるが、集落と呼ぶには市場がある。

そのくらいの規模の場所だった。

瓦礫と廃車を積み上げた防壁がぐるりと外周を囲っていて、その内側だけが荒野から切り取られた人間の領分になっている。

 

父ティアドと母セイナは、その市場の隅で小さな店をやっていた。

拾ってきた戦前の雑貨を磨いて売る店だ。

ネジ一本でも缶詰の空き缶一個でも、この世界では値がつく。

 

儲かってはいなかった。

少なくとも、息子の解熱剤を買い渋る程度には儲かっていなかった。

 

だから俺は働くことにした。

正確に言えば、俺が目を覚ました時にはもう働いていたことになっていた。

 

「チビ。そこの三番、抜糸だ」

「五日目ですよ。まだ早い」

「早くない。あたしが早くないって言ってんだから早くない」

「じゃあ賭けますか。開いたら一週間ぶんの薬瓶洗い、あなたが」

「……六日目にしとくか」

 

診療所の主の名はロールといった。

歳は二十代の後半で、背が高くて肩幅が広い。

本人は自分のことを女ナースと名乗っている。

 

ナースというのはこの世界では立派な職業のひとつだ。

人間の治療を専門にして素早さに優れ、バイオ系の怪物に強い補正を持つ。

そういう連中がハンターの隊列に混ざって荒野へ出ていく世界なのだ。

 

もっともロールは荒野へは出ない。

居座っているのはデルタ・リオの端の、屋根が半分トタンで半分が幌の建物だ。

運ばれてくる怪我人を片端から縫うのが仕事になっている。

 

彼女は白衣など着ていなかった。

継ぎ接ぎだらけのエプロンの下は薄手のシャツで、その袖はいつも肘までまくり上げられている。

 

「腕はいいんだよ、あんた」

 

ロールが煙草に火をつけないまま口の端で転がしながら言った。

診療所の中では吸わない。

そういう線引きだけは異様に律儀な女だった。

 

「腕がいいのは癪に障る。六つのガキが持っていい腕じゃない」

「七つです。先月で」

「一個増えたところで同じだよ」

 

俺は返事をせずに三番の寝台へ向かった。

 

寝ているのは荷運びの男で、二の腕をバイオ系の何かに抉られて運び込まれてきた。

筋膜まで達していた傷だが、五日でここまで塞がっていれば上等だ。

 

鉗子を取って糸を摘まむ。

持ち上げる。

根元を切る。

抜く。

指が勝手に順番を憶えていた。

 

そう。

勝手に、だ。

 

これが俺にとって一番気味の悪い部分だった。

 

前世の俺はただの会社員だった。

医学の知識などない。

血を見れば普通に目を逸らす種類の人間だった。

 

なのにこの身体は切開の深さも縫合の間隔も止血帯を巻く位置も、全部知っていた。

考えるより先に手が動く。

手が動いてから「ああ、そうか」と頭が追いつく。

 

どうやら俺より前にこの身体を使っていたシオンは、とんでもない子供だったらしい。

高度な科学と医学の知識を持ち、それを親の稼ぎの足しにするために使っていた。

そして俺は、その技能を丸ごと引き継いだ。

 

理屈は分からない。

気味は悪い。

 

だが目の前で人が死にかけている時に、その気味の悪さを理由に手を止める趣味は俺にはなかった。

使えるものは使う。

それだけの話だと自分に言い聞かせて、俺はこの一年を過ごしてきた。

 

「シオン」

 

ロールが薬棚の前から呼んだ。

 

「この鎮痛剤、体重三十キロの成人にどれだけ振る」

「……三十キロで成人はいません」

「いるんだよ。荒野じゃ珍しくもない。答えろ」

「分かりません」

「だろうな」

 

彼女は棚から匙を取って、俺の目の前で粉を掬ってみせた。

量ではなく、掬い方だった。

匙の縁で山を崩す角度が決まっている。

 

「あんたの手は器用だ。だが薬の匙加減と痛がってる奴の手を握ってやる時間の長さは、器用さじゃ決まらない」

「……はい」

「そこはあたしの方が上だ。当分抜かせてやらないよ」

 

俺は素直に頷いた。

 

実際その通りだった。

切ることと縫うことと治すことにかけて、俺はもうロールを追い越している。

だが薬を投与することと看ることにかけて、俺は彼女の足元にも及ばない。

 

技能というのは指先だけで測れるものではないのだと、俺はこの一年で嫌というほど教わっていた。

 

そんな俺に異名がついたのは、その春先のことだった。

 

運び込まれてきたのは十かそこらの女の子だった。

名前はミオといった。

半年前に家の火に巻かれて、左の頬から顎にかけて引き攣れた火傷の痕を残していた。

 

痛みはもうない。

機能の障害もない。

医学的には「治っている」傷だった。

 

母親は俺の前で何度も頭を下げた。

金はないと最初に言われた。

それでも一目見てほしいと言われた。

 

「無理だよ」

 

ロールが横から先に言った。

冷たい言い方ではなく、あくまで事実として言う言い方だった。

 

「瘢痕ってのはそういうもんだ。皮膚が諦めて作った蓋なんだよ。剥がしたって同じものが生えるだけだ」

「……ロールさん」

「なんだい」

「同じものが生えるなら、生え方を変えればいい」

 

ロールが煙草を落とした。

 

俺はミオの顎を持ち上げて、光の角度を変えながら瘢痕の縁を追った。

硬く盛り上がった部分と、薄く白く沈んだ部分。

その境目の走り方が、指の腹に地図みたいに浮かび上がってくる。

 

やり方は分かっていた。

どこをどう切ってどの方向に張力を逃がし、どういう順番で縫い直せばいいのか。

俺の頭ではなく、俺の指がそれを知っていた。

 

「三回に分けます。全部で四十日ください」

「あんた、正気か」

「金は要りません。その代わり、麻酔だけは先生の匙でお願いします」

 

ロールは長いこと俺を睨んでいた。

それから盛大に舌打ちをして、消毒用の湯を沸かしに立った。

 

四十日後、ミオの顎から傷は消えた。

薄くも白くも残らなかった。

知らない人間が見れば、そこに火傷があったことすら分からない仕上がりになった。

 

母親は診療所の土間に膝をついて泣いた。

ミオは泣かなかった。

代わりに俺の頭を両手で挟んで、思いきり自分の額にぶつけてきた。

 

「痛い」

「痛くしたの」

「なんでだよ」

「お礼だから」

 

意味が分からなかったが、悪い気はしなかった。

 

そんな噂というのは荒野を風より速く走る。

翌月には、隣の集落から患者が歩いてくるようになった。

その次の月には、ハンターが戦車を降りてまでこんな小さな診療所の戸を叩くようになった。

そして誰が言い出したのかも分からないうちに、俺には名前がついていた。

 

幼きゴッドハンド。

 

初めてそう呼ばれた時、俺は思わず口の中の水を吹き出した。

もったいない話である。

 

「やめてくれ。恥ずかしいにも程がある」

「諦めな」

 

ロールが心底楽しそうに言った。

今度はちゃんと煙草に火をつけて、診療所の外に椅子を出して座っている。

 

「異名ってのは自分でつけるもんじゃない。人につけられて、それを剥がせなかった奴が背負うんだ。隼だの不死身だの、みんなそうやって背負ってる」

「俺はハンターじゃない」

「今はね」

 

彼女は煙を細く吐いて、荒野の方を顎で示した。

 

「あんた、その手でいつまでも人を縫ってると思うかい。あたしは思わないよ」

 

その時は聞き流した。

後から思えば、彼女は最初から全部見抜いていたのだと思う。

 

そうやって稼いだ金は全部家に入れた。

多い月で八百G、少ない月で三百G。

子供の稼ぎとしては破格で、一家の稼ぎとしてはまだ心許ない額だ。

 

最初、父は受け取ろうとしなかった。

 

「これはお前が働いた金だ」

「家の金にしてくれ」

「シオン」

「ネツサガールが買えるだけあればいい。それでいいんだ、父さん」

 

父はしばらく黙って、それから俺の頭に大きな手を乗せた。

一年前とまったく同じ、砂と油の匂いのする手だった。

 

「……済まん」

「謝るなよ」

「ああ。じゃあ、ありがとうな」

 

母は俺が金を出すたびに泣きそうな顔をして、そのたびに晩飯の皿を一品増やした。

それが一番割に合わない使い道だと言ってやりたかったが、言わずにおいた。

 

俺はこの家が好きだった。

気味の悪い技能も他人の記憶が染みついた身体も、この二人の前ではそれほど問題ではなくなった。

 

 

 

異変に気づいたのは初夏の朝だった。

 

母が竈の前でしゃがみ込んでいた。

息が浅い。

顔色が悪く、それでいて末梢は温かい。

 

「母さん」

「大丈夫。ちょっと立ちくらみしただけ」

「立ちくらみは一週間続かない」

 

俺は母の手首を取った。

脈を診て瞼の裏を見て、それから最近の食事の話を聞いた。

 

匂いに敏感になっていること。

朝が特にひどいこと。

だるさが夕方に抜けること。

 

診断は三十秒で出た。

出てしまってから、俺はその答えを疑った。

一度手を離して、もう一度脈を取り直した。

 

答えは変わらなかった。

 

「……母さん。ロールさんのところへ行こう」

「そんな大袈裟な」

「大袈裟でいい。お願いだから」

 

ロールの診断は俺と同じだった。

違ったのは、彼女がそれを告げる時の顔だった。

 

「おめでとう、セイナさん。二人目だよ」

 

母が固まった。

それから両手で口を押さえて、そのまま診察台の上でぼろぼろと泣き出した。

 

俺は診療所の隅に突っ立ったまま、その光景を見ていた。

祝うべき場面だと分かっていた。

分かっていて、指先の感覚がすっと引いていくのを止められなかった。

 

夕方になると、父が仕事を放り出して駆け込んできた。

息を切らして扉の枠を掴んで、それから母の顔を見て何も言えなくなった。

 

「あなた」

「……本当か」

「本当よ」

「本当か!」

 

二度言った。

そしてこの一年、俺が一度も見たことのない笑い方をした。

 

その夜、俺は毛布の中で目を閉じたふりをしていた。

一年前とまるで同じだ。

土間の方から灯りが漏れて、声を潜めたつもりの二人の話が筒抜けになっている。

 

「男の子だったらどうする」

「ティアドの父さんの名前でいいじゃない」

「あれは駄目だ。呼びにくい」

「あなた、お義父さんに悪いわよ」

 

父が低く笑った。

椅子が軋んで、湯を注ぐ音がした。

 

「女の子だったらな。考えてるのがある」

「なあに」

「レナ」

 

心臓が、一度だけ大きく跳ねた。

 

「レナ」

 

母が繰り返した。

その響きを舌の上で転がすみたいに、もう一度言った。

 

「……いいわね。すごくいい」

「だろう」

「レナ。うん。この子がレナよ」

 

俺は毛布の中で自分の呼吸を殺していた。

 

 

 

レナ。

 

その名前を、俺は知っている。

 

荒野を走り戦車を駆り、賞金首を狩る女の名前だ。

最後にはこの世界の一番深いところにいる怪物と刺し違えにいく。

前世の俺が、テレビの前で何十時間も操っていた主人公の名前だ。

 

そして。

その物語の冒頭よりも前に、彼女の両親は死ぬ。

 

バイアス・グラップラーの連中が街に入ってくる。

ろくな理由もなく彼女の目の前で家族を潰していく。

そこから始まるのだ。

メタルマックス2とは、あの物語は、そういう風にできている。

 

つまり、

土間で笑っているあの二人には、あらかじめ死ぬ順番が決まっているのだ。

 

「ちくしょう」

 

俺は毛布を握りしめた。

大人だった自分と比べて握力が足りなくて、そのことが猛烈に腹立たしかった。

 

一年前、俺はこの世界がメタルマックスだと気づいた。

気づいただけだった。

知識は宝の地図みたいなもので、持っているだけなら何の役にも立たない。

だが今、その地図に忌むべき日付が書き込まれた。

 

レナが生まれる。

そこから逆算して、あの日までの猶予が決まる。

 

「冗談じゃない」

 

声に出したつもりはなかった。

それでも喉の奥から少年の声が漏れた。

土間の灯りが揺れて、母の足音が近づいてきた。

 

「シオン。起きてるの」

「……うん」

「聞こえちゃった?」

 

俺は起き上がった。

母の顔がランタンの光で下から照らされて、目の縁がまだ少し赤い。

 

「妹だってさ」

「まだ分からないだろ」

「お母さんには分かるの」

 

根拠のない断言だった。

でも一年後にそれが当たることを、俺だけが知っていた。

 

「シオン。妹ができたら、どうする」

 

俺はしばらく答えられなかった。

 

言いたいことは山ほどあった。

その子がどんな人間になるのか。

どんな荒野を走るのか。

そしてこの家に、いつ悪意が押し寄せるのか。

 

そのどれも言えるわけがなかった。

だから俺は、七歳の子供が言いそうな中で一番本当のことを選んだ。

 

「守るよ」

 

母が目を丸くした。

それから声を上げて笑って、俺の頭をぐしゃぐしゃに撫でた。

 

「気が早いわよ。まだお腹の中なのに」

「早くないよ」

 

早くないんだ、母さん。

もう時計は動き出している。

 

 

 

その夜、俺は一睡もできなかった。

 

トタンが風に鳴っていた。

一年前に俺を叩き起こしたのと同じ、不規則で気の抜けた軋み方だった。

あの時の俺は、ただ怯えていた。

知らない世界で知らない身体に放り込まれて、震えることしかできなかった。

 

今は違う。

 

俺には手がある。

気味が悪いくらいよく動く、他人から譲り受けた手だ。

人の傷を跡形もなく消せる手だ。

 

ならば。

 

それが物語に刻みつけられた傷跡だろうと、消せない道理はないだろう。

俺は暗い天井を睨みながら、生まれて初めてこの世界と喧嘩をする決心をした。

 

七歳の春だった。

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