『蒼』は荒野を駆ける 作:ぶっぱなす
結局その夜は一睡もできなかった。
トタンの隙間から差し込んできた光が土間に細い線を引いて、それが少しずつ太くなっていくのを俺はずっと見ていた。
決意というのは夜のうちだけは立派な顔をしているものだ。
朝日の下へ引きずり出してみると、その正体がただの子供の癇癪でしかないことも珍しくない。
俺は毛布の中で自分の手を目の高さまで持ち上げた。
七歳の手だ。
指が短くて節が丸くて、父の三分の一の握力もない。
この手で人の傷を消せることは、この一年で嫌というほど証明してみせた。
だが銃は撃てないし人も殴れない、逆に殴られれば一発で意識が飛ぶ程度の身体でしかない。
俺が喧嘩を売った相手は世界だった。
もっと正確に言うなら、世界にあらかじめ書き込まれている予定表の方だ。
その予定表には、いずれ武装した連中がこの家へ押し入ってくると書いてある。
奴らは理由らしい理由もなく人を潰していく。
潰される側の職業など向こうは気にも留めない。
医者だろうと雑貨屋だろうと等しく床に転がされる。
つまり俺に足りないものは治す腕ではなかった、殴り返す腕だ。
「……どこで習うんだよ、そんなもん」
呟いてから、俺は自分の間抜けさに気づいて跳ね起きた。
答えなら毎日目の前に転がっているではないか。
撃たれて刺されて噛みちぎられて、血の匂いをさせながら俺の診察台に寝ている。
荒野で腕の立つ連中はこの街の外にいるのではない。
向こうから勝手に歩いてくるのだ。
そう、その日の午前に運ばれてきたのは、右の肩甲骨の下に弾を抱えたハンターだった。
名をドグといった。
四十半ばで首が太く、脂汗を浮かべながらも自分の足で寝台まで歩いてきた男だ。
「抜けるか、坊主」
「抜けます。骨に当たって止まっているだけですから」
「なら早くしてくれ。麻酔はいらん」
「使います。動かれると面倒なので」
摘出と縫合が終わったのは昼を回った頃だった。
摘まみ出した鉛の欠片を膿盆へ落とすと、ドグは首だけ捻ってそれを覗き込んだ。
「本当に痕は残らんのか」
「三ヶ月で分からなくなります」
「化け物だな」
「よく言われます」
俺は器具を湯へ沈めてから、なるべく何でもないことのように切り出した。
「ドグさん。ひとつお願いがあるんですが」
「金なら払うぞ。ちゃんと持ってきてる」
「そっちじゃありません……銃を教えてほしいんです」
ドグの喉が鳴った。
笑われるものだと思っていたし、実際に彼は一度だけ短く笑った。
「坊主が撃つのか。何のために」
「自分の身を守るためです。それと家族の」
そこで男の顔から笑いが消えた。
茶化される覚悟をしていた俺は、その変化のあまりの速さに少しばかり面食らった。
「……ああ。そういうことか」
「変ですか」
「変なもんか。この荒野で一番まともな理由だぞ、それは」
ドグは動く方の腕だけで身体を起こして、まだ包帯の生乾きな肩を回してみせた。
「守るもんがある奴が武器を欲しがるのは当たり前だ。逆に何にもない奴が銃を持ちたがる方が薄気味悪い」
「じゃあ」
「教えてやる。ただし今日は無理だ。三日待て」
「五日です。糸が持ちません」
「……お前、そういうところが可愛くないな」
そういうわけで五日後の夕方に、俺は診療所の裏で空き缶を並べることになった。
噂というのは荒野を風より速く走る。
そのことをミオの一件で学んでいたはずなのに、俺はまた同じ速度に驚かされた。
半月もしないうちに、デルタ・リオへ立ち寄るハンターの間ではこういう話になっていたらしい。
ゴッドハンドのチビが銃を習いたがっている。
「そういう話じゃないんですよ。俺はただ――」
「いいから構えな。肘が下がってる」
ドグに続いて俺の教師役を買って出たのはボーグという男だった。
元は正規のソルジャーで、今は隊を失って賞金稼ぎに流れてきたという痩せた中年だ。
足の甲を潰されて運び込まれ、俺が骨を組み直してやった患者でもある。
「銃ってのは的に当てる道具じゃない。相手より先に決められた形になる道具だ」
「形、ですか」
「そうだ。当てるのは形が決まってからの話だぞ。慌てて当てにいく奴から順番に死ぬ」
彼らは総じて気前がよかった。
理由を話すと大抵の相手は二秒ほど黙り、それから当たり前のような顔で頷いた。
この世界の人間にとって「家族を守るために強くなりたい」という言い分は、説明の要らない類のものらしかった。
治療の合間の時間が、そのまま俺の修行の時間に変わっていった。
包帯を巻き終えた男が立ち上がりざまにナイフの握り方を教えていく。
点滴の落ちるのを待つ間に、寝台の上から距離の測り方を教わる。
薬が効くまでの三十分で、俺は錆びついた回転式拳銃を三十回分解した。
メカニックのオルガという女は、俺の指を見るなり眉を寄せた。
「あんた縫うのが上手いんだって? だったら締めるのも上手いはずだよ。同じだからね、あれは」
「同じですか」
「同じさ。力じゃなくて順番の話なんだ。どこから締めるかを間違えたら歪む。どこから縫うかを間違えたら引き攣れる。何が違うって言うんだい」
その理屈は驚くほど腹に落ちた。
オルガが横倒しにした発電機の前で工具を渡してきた時、俺の指は一度も迷わなかった。
三十分後、七年間止まっていたという発電機が咳をひとつして回り始めた。
「……あんた」
「回りましたね」
「回ったねじゃないよ。あたしが半年かけて諦めたやつだよ、これ」
オルガの顔がだんだん険しくなっていくのを、俺は油まみれの手で眺めていた。
その時はまだ、自分の身に何が起きているのかを分かっていなかった。
それを教えてくれたのは、やはりドグだった。
秋口の夕方だった。
俺が並べた空き缶を十本のうち七本まで倒したところで、彼は缶を並べ直す手を止めてこちらを振り返った。
「坊主。お前、去年まで銃を握ったこともなかったな」
「はい」
「ボーグの構えを盗んで、オルガの工具も握れて、ついでにその歳で人の腹を開けるわけだ」
「……それが何か」
「おかしいんだよ」
ドグは空き缶をひとつ手の中で潰した。
薄い鉄が拉げる音が、日の落ちかけた荒野に妙に大きく響いた。
「人間には向き不向きってもんがある。ハンターの子はハンターの目を持って生まれるし、メカニックの子は頭より先に指が機械を憶える。生まれた時に配られた札で一生打つんだ、俺たちは」
「配り直しはできないんですか」
「稀にな。潜在能力ってやつだ」
彼は喋りながら空き缶を並べ直していった。
その手つきが、いつもより少しだけ乱暴だった。
「二十年撃ち続けた男が、ある日いきなり傷の縫い方を憶えたりする。命の瀬戸際で扉が開くんだと言う奴もいる。だがな、開くのは一生に一度きりだ。二枚目の札を引ける奴なんざ荒野に一握りもいねえ」
つまり俺は、開かないはずの扉を片っ端から蹴破っている。
その事実を口に出さずに飲み込んだ。
飲み込んだところで、目の前の男の顔色がそれで戻るわけでもなかった。
「不気味か」
「まあな。だが」
ドグは八本目の缶を岩に載せて、最後にこちらを見た。
「不気味なガキが俺の肩から弾を抜いた。それだけの話だ。……ほら、続きだ。今度は残りの三本を落とせ」
俺は黙って構え直した。
その夜の十本目は、俺が初めて外さずに落とした缶だった。
「ナースだろ、あんたは」
診療所の外に椅子を出したロールが、煙を細く吐きながら言った。
日はとっくに落ちていて、母の腹はこの頃だいぶ目立ち始めていた。
父が仕事帰りに玄関の段差へ板を打ちつけているのを、俺は昼間に見かけたばかりだった。
「今のところは、そうですね」
「その言い方が気に入らない」
ロールは灰を落として、俺の泥だらけの膝を顎で示した。
「銃を習うのは分かるよ。この荒野じゃ珍しくもない。だがあんたは工具まで握れるようになったし、この前は隊商の護衛と組み手までしてたそうじゃないか」
「あれは投げられただけです」
「三回目には投げ返したって聞いたよ」
返す言葉がなかったので、俺は黙って足元の砂を蹴った。
「人間ってのはね、チビ」
彼女の声が、少しだけ低くなった。
「一つのことしかできないから他人と組むんだ。撃てない奴が撃てる奴を頼って、直せない奴が直せる奴に頭を下げる。そうやってこの荒野は回ってる」
「……はい」
「全部できる奴は、誰とも組めないよ」
その言葉は思っていたよりずっと深いところまで刺さった。
俺は俯いたまま、しばらく何も言えなかった。
「呆れましたか」
「呆れたね。心底」
ロールは煙草を靴の裏で消して、それから俺の頭を乱暴に叩いた。
「だから止めやしない。呆れるってのは、諦めるって意味だからね」
夏が終わり、風の匂いが変わった頃だった。
診療所の朝はいつも同じ音で始まる。
ロールが竈に火を入れる音と、俺が薬瓶を並べ直す音だ。
その日はそこへ、聞いたことのない音が混ざった。
地面が短い間隔で震えていて、それが少しずつ大きくなってくる。
「……馬車ですかね」
「馬なんざこの辺りにいるのかい」
戸口の幌が捲れて、光が塞がれた。
そこに立っていたのは男というより壁だった。
背丈は父より頭ひとつ高く、肩が入口の幅にぎりぎり収まっていない。
丸太のような腕には古い擦り傷が幾重にも重なっていて、両耳は餃子のように潰れて固まっていた。
レスラーだ。
拳ひとつで戦車の装甲を凹ませるという、この荒野で最も物理的に理不尽な連中の一人。
「……医者は、どっちだ」
意外なほど静かな声だった。
大声を出したら家が壊れるとでも思っているような、抑えた喋り方だった。
「あたしがナースのロールだ。そっちのチビが噂の方さ」
「そうか」
男の後ろから、もう一人が滑り込むように入ってきた。
背は並で、日に焼けた顔に細かい皺が寄っている。
腰の後ろに短い散弾銃を吊った、いかにも荒野慣れしたハンターだった。
「申し訳ありません、朝早くから。私はトニーと申します。こちらの大きいのがジャックです」
「うちは順番待ちがある」
「お代は余分にお支払いします……いえ、そうではありませんね。お願いします」
トニーという男が頭を下げた。
その動きに合わせて、ジャックの巨体がゆっくりと横へずれた。
その陰から、小さな影が出てきた。
女の子だった。
歳の頃は俺と同じくらいで、痩せた肩に大きすぎる上着を羽織っている。
髪は父親と同じ色で、頬に薄く赤みが差していた。
その唇が、青かった。
「……シェーナだ」
ジャックが娘の背中に手を添えた。
丸太のような腕が、そこだけ別の生き物のように優しく動いた。
「七つになる。頼む。診てやってくれ」
俺は自分の呼吸が浅くなるのを感じていた。
理由は分かっている。
その子の指先を見てしまったからだ。
爪の付け根が丸く盛り上がって、指の先端が太鼓の撥のように膨らんでいる。
唇と爪床の青みは、光を変えて見ても引かなかった。
「シェーナちゃん。座って」
「はい」
素直な子だった。
寝台の縁に腰かけて、両足をぶらぶらさせながらこちらを見上げてくる。
その目に怯えがなかったことが、俺には少しだけ堪えた。
何度も同じことをされてきた子供の目だ。
「ロールさん」
「……青の病だろ」
ロールの声は低かった。
彼女はもう煙草を口から外して、指の間で潰していた。
「荒野じゃ珍しくもないよ。生まれつき唇の青い子は十を越えない。走れば倒れて、そのうち走らなくても倒れるようになる」
「はい」
「あたしは診た数だけ看取ってる。……先に言っておくけどね、チビ。これは縫って済む話じゃない」
分かっていた。
分かっていたが、俺の指はもう勝手に動き始めていた。
聴診器の膜を胸骨の左縁に当てる。
第二肋間、第三肋間、第四肋間。
音の粗い雑音が収縮期の頭から尻まで途切れずに続いていて、その一番強く鳴る位置を探して指を滑らせる。
そこへ掌を置くと、皮膚の下で細かい震えが返ってきた。
「シェーナちゃん。息を吐いて、止めて」
「うん」
「……いい子だ。楽にして」
胸郭の形を見る。
背中に回って、肩甲骨の間の音を聞く。
腹を触って肝臓の縁を探り、それから彼女の膝を折らせて座らせた。
「歩いてて苦しくなった時、こうやってしゃがむ癖がない?」
「あるよ。しゃがむと楽になるの」
「誰かに教わった?」
「ううん。勝手にそうなるの」
背中で、ジャックが息を呑む音がした。
その癖が何を意味するのかを、俺の頭は説明できない。
だがこの身体の指が知っている。
血の流れる先が間違っている子供は、自分で自分の血の道を絞って生き延びる方法を発明する。
つまり、この子の心臓は生まれつき順番を間違えて組まれている。
「一度、外を歩かせます」
「歩かせるのか」
「歩けるところまでです。無理はさせません」
結局、日が傾くまでかかった。
俺は彼女に診療所の周りを歩かせ、階段を三段だけ上らせ、そのたびに唇の色と脈と息の上がり方を記録していった。
昼には粥を食わせて、食後にもう一度胸の音を聞いた。
半日というのは、この街の診察としては異常に長い。
待合の患者は全部ロールが片付けてくれた。
彼女は文句のひとつも言わずに、ただ時々こちらの手元を覗きに来ただけだった。
シェーナは飽きもせずに付き合ってくれた。
それどころか、休憩のたびに俺の方へ話しかけてきた。
「ねえ。あなた、いくつ?」
「七つ」
「わたしと同じだ」
「そうみたいだね」
「なのにお医者さんなの? 変なの」
俺は思わず笑った。
この半年、その台詞を大人から百回は言われてきたが、同じ歳の人間に言われたのは初めてだった。
「変だよ。自分でもそう思う」
「ふうん。……ねえ、わたしのこと治せる?」
「まだ分からない」
「そっか」
彼女はあっさりと引き下がって、それから声を潜めた。
「治せなくてもね、それは言っていいんだよ」
「……どういう意味」
「みんな言えないの。おとうさんの顔を見ると、みんな途中でごまかすの。それでおとうさん、また次の町まで歩くんだよ」
俺は返事をしなかった。
その代わりに、彼女の指の膨らんだ先端をもう一度そっと摘まんだ。
冷たかった。
七歳の指が、この季節にこんなに冷たいはずがない。
「ジャックさん。これまで何人の医者に診せましたか」
「……十一人だ」
「歩いて回ったんですか」
「ああ。あいつが車を出してくれた時もある」
ジャックが顎で相棒を示した。
トニーは壁に背を預けたまま、困ったように首を掻いた。
「言わないでください、そういうことは」
「言う。金も出してもらってる」
「お貸ししているだけです。利子をつけて返していただきますよ」
トニーは俺の方を見て、片方の口の端だけを上げた。
「勘違いなさらないでください、坊ちゃん。私は善人ではありません。ただこの大きいのを一人で歩き回らせると町が壊れますので……こいつは私の相棒です。それだけの話ですよ」
相棒。
その言葉が、なぜか胸の内側で妙な引っかかり方をした。
その時の俺は、それを単なる響きの良さのせいだと思った。
日が落ちてから、俺は診察台の脇で目を閉じた。
頭の中で、シェーナの胸の中身を組み立て直していく。
音の鳴る位置と時相。
震えの強さ。
指の膨らみ方と、しゃがむ癖。
血が肺へ行かずに素通りしている。
どこかで壁に穴が開いていて、そのすぐ先の出口が細い。
だから青い。
だから走れない。
だから彼女は自分の脚を折り畳んで、血の逃げ道を自分で塞いでいる。
——ここを塞いで、ここを広げる。
答えは、考えるまでもなく指先に浮かんでいた。
俺の頭は今もその術式の名前を知らない。
だがこの指は、切開の位置も剥離の順番も糸をかける深さも全部憶えている。
前の持ち主が誰から教わったのかは知らないが、あの子の胸は、この手で開けられる。
難しい。
控えめに言っても、この一年でやった中で一番難しい。
だが、できる。
目を開けると、いつの間にかロールがそこに立っていた。
腕を組んで、俺の顔をじっと見下ろしている。
「その顔はやめな」
「どんな顔ですか」
「できるって顔だよ」
俺は何も言わなかった。
ロールは長いため息をついて、髪をかき上げた。
「……本気かい」
「道具が足りません。それと血止めの薬も。明日の朝までに算段をつけたいので、今日は答えを出しません」
「あんた、あの父親の顔を見たかい。今日一日でもう三回、こっちを見ちゃ目を逸らしてたよ」
「だから今日は言わないんです」
俺は器具を湯へ沈めた。
湯気が立って、視界が一瞬だけ白くなる。
「今言えば、あの人は喜びます。それで俺が明日になって道具が足りないと言い出したら、二度目の絶望は今日の分より重くなる」
「……理屈だね」
「はい」
「小賢しいガキだよ、あんたは」
外へ出ると、風がすっかり冷たくなっていた。
宿の方から、大きな影と小さな影が並んで歩いていくのが見えた。
ジャックが娘の歩幅に合わせて、笑ってしまうほどゆっくりと足を運んでいる。
その隣でトニーが何か言って、シェーナが声を上げて笑った。
明日の朝、治せると言おう。
俺は家に向かって歩き出しながら、そう決めていた。
この時点までは、本当にそれだけの話だったのだ。
家に帰ると、鍋の匂いがしていた。
母が竈の前に立って、片手で腰を支えながら木杓子を回している。
その腹はもう誰の目にも分かるほど丸くなっていて、立ち仕事のたびに父が後ろでそわそわしていた。
「座ってろよ、セイナ」
「座ってたら煮えないでしょう」
「俺がやる」
「あなたのは煮えすぎるの」
俺は土間の隅で手を洗いながら、その言い合いを聞いていた。
一年前とほとんど同じ景色だ。
違うのは、この家に増えるはずの人間が一人分先に数えられていることだけだった。
「シオン。今日は遅かったな」
「うん。難しい患者が来た」
「治せそうか」
「……たぶんね」
父はそれ以上聞かなかった。
この人は俺の仕事の話を、必要以上に掘り返さない。
その夜の粥はいつもより具が多かった。
母は俺が金を持ち帰るたびに皿を一品増やす癖を、いまだにやめてくれない。
寝床に入ってからも、俺は頭の中でシェーナの胸を開き続けていた。
切開の位置。
肋骨の間の広げ方。
糸の号数と、あの細い血管に針を通す角度。
道具は足りない。
だがロールの棚を漁って、鍛冶屋に二つ三つ打たせれば形にはなる。
薬はドグかトニーに頭を下げれば手に入るだろう。
段取りが立っていくにつれて、頭の芯が冴えてきた。
そうやって冴えた頭が、余計なところまで勝手に働き始めたのが不味かった。
ジャック。
そしてその娘。
その二つが並んだ瞬間に、頭の裏側で何かがかちりと鳴った。
聞き覚えがある。
初めて聞いたはずの名前に、聞き覚えがある。
俺は毛布の中で目を開いた。
心臓が、診察台で聞いたどの雑音よりも大きく鳴っていた。
——海の上に、島がある。
正確には島ではない、島の形をした途方もなくでかい生き物だ。
背中に森が生えていて、洞窟があって、その奥に本体の心臓が眠っている。
グロウィン。
そこには人が住んでいる。
流れ着いた者たちが寄り集まって、化け物の背中の上に村を作って暮らしている。
その村にはリーダーがいた。
住民に心底慕われていて、誰よりも力が強く、誰よりも静かに喋る大男だ。
そして彼には過去がある。
娘の薬を手に入れるために、親友を売った男だった。
相棒を裏切って、金を掴んで、それでも間に合わなかった男だ。
娘は死に、裏切り者だけが残り、彼は帰る場所を失って海へ流れた。
そうやって化け物の背中の上で、他人の面倒を見ながら残りの人生を生きた。
——ジャック。
俺は跳ね起きた。
そのまま板戸を押して外へ出ていた。
夜の荒野は昼と別の生き物みたいに冷えていた。
俺は壁に背中を預けて、そのままずるずると砂の上に座り込んだ。
吐き気がした。
病気のせいではない。
自分の頭が今どういう計算を始めたのかを、自分で理解してしまったからだ。
シェーナを治す。
そうすればジャックは相棒を裏切らない。
裏切らなければ、あの男は逃げない。
逃げなければ、海へは流れない。
海へ流れなければ、化け物の背中の上に村はできない。
——あの島に、ジャックはいなくなる。
そして俺は知っている。
妹はいずれ荒野を走る。
走る先に何があるかを、俺は目次の形で知っている。
その目次の中には、レナがあの島にとらわれる筋書きが確かにあった。
一つではない。
たどり着き方が幾通りもあって、場合によってはろくな結末に繋がっていない。
もしその日が来た時。
あの島に「住民に慕われた大男」がいるかどうかは、たぶん生き死にを分ける。
「……最低だな、おれ」
自分に言った。
声に出しても、頭の中の計算は止まらなかった。
俺は今、七歳の女の子の命を天秤に載せている。
反対側に載っているのは、まだ生まれてもいない妹の、起こるかどうかも分からない未来だ。
しかもその天秤の目盛りを読んでいるのは、この世界の誰でもない。
前世でテレビの前に座っていただけの、部外者の記憶だ。
「登場人物」
その単語を口の中で転がして、俺は自分の膝に額を押しつけた。
俺はさっき、確かにそう思った。
ジャックもまた登場人物だった、と。
人を数えたのだ。
今日一日、俺の隣で娘の歩幅に合わせて歩いていたあの男を、駒として数え直したのだ。
未来を変えると啖呵を切ったくせに。
その実、俺は都合のいい不幸だけはそのまま残しておきたいと思っている。
両親は死なせない。
フェイもマリアも死なせない。
だが知らない誰かの娘は、妹のために死んだままでいてくれ。
そんな話が通ると、本気で考えたのか。
風が吹いた。
砂が首筋に入って、そのざらつきだけが妙に現実的だった。
答えは出なかった。
出ないまま空が白んで、俺は一睡もしないまま立ち上がった。
七歳の膝が、笑ってしまうくらい上手く伸びなかった。
診療所の前には、もう三人が立っていた。
ジャックが壁際に座り込んで膝の上で手を組んでいる。
その隣でシェーナが眠そうに目を擦っていて、トニーは煙草も吸わずに道の先を見ていた。
たぶん夜明け前から待っていたのだろう。
そんなことをしても診察の順番が早くなるわけでもないのに。
俺の足音に、トニーが最初に気づいた。
「……坊ちゃん」
そこで彼の言葉が止まった。
視線が俺の顔の上を一往復して、それから逸れた。
それだけの動きだったが、それだけで十分だったらしい。
ジャックがゆっくりと顔を上げた。
俺は自分がどんな顔をしているのか分かっていなかった。
一睡もせず、砂まみれで、腹の中に反吐みたいなものを抱えたまま歩いてきた七歳の顔だ。
その顔は、たぶんこの世で一番わかりやすい答えに見えた。
「……そうか」
ジャックがそう言った。
大男の背中が、音もなく丸まっていった。
組んでいた指が解けて、両手が力なく砂の上へ落ちる。
「いや。すまん。……夜中まで、考えさせちまったんだな」
「ジャック」
「いいんだ、トニー。ここまで来ただけでも十分だ。……十二人目だ。よくやった方だろう」
その声が、あまりにも静かだった。
壊れそうなものを扱う時の声のままで、この男は自分の希望を畳んでいた。
シェーナが父親の袖を引いた。
「おとうさん」
「うん」
「なかないで。わたし、平気だよ」
俺の中で何かが切れる音がした。
それは決意でも覚悟でもない。
もっと情けない、ただ耐えられなくなっただけの音だった。
「治せます」
自分の口から出た声だと気づくのに、一拍かかった。
ジャックの動きが止まった。
トニーが弾かれたようにこちらを見た。
「今……なんて言った」
「治せます。その子の病気は、俺の手で治せる」
朝の風が、幌をばたばたと鳴らした。
「一度では終わりません。道具を三つ打たせます。薬も要る。時間もかかるし、途中で一度は必ず肝が冷える。それでも治ります」
「……本当か」
「言ったことは守ります。俺はまだ一度も、治すと言って治さなかったことがない」
沈黙が長かった。
先に動いたのはトニーだった。
彼は帽子を脱いで、それを顔に押し当てて空を仰いだ。
何も言わなかったが、その肩が上下しているのが横から見えた。
ジャックは膝をついた。
二メートル近い巨体が砂の上で崩れて、額が地面につきそうなほど下がった。
その背中が震え始めて、それから、獣が呻くみたいな声が漏れた。
耳の潰れた大男が声を上げて泣くのを、俺はその時初めて見た。
「シオン」
袖を引かれた。
見下ろすと、シェーナが俺の顔を覗き込んでいた。
昨日と同じ、怯えのない目だった。
「治るの?」
「治る」
「走れる?」
「走れる。三年もすれば、たぶん俺より速い」
彼女はしばらく黙って俺を見ていた。
それから、青い唇のまま笑った。
歯の抜けた、どこにでもいる七つの子供の笑い方だった。
その日の午前中は仕事にならなかった。
ロールが出てきて、泣いている大男を見て、それから俺を見て、盛大に舌打ちをした。
それでも彼女は何も聞かずに湯を沸かしに戻った。
俺は井戸の縁に腰かけて、ようやく息を吐いた。
一晩かけて、俺は何も選べなかった。
天秤は最後まで釣り合ったままで、俺はただ目の前の泣き声に耐えられずに口を開いただけだ。
選択などしていない。
逃げただけだ。
けれども。
診療所の前では、トニーがシェーナを肩車して振り回していた。
ジャックが慌てて止めに入って、二人まとめて砂に転がっている。
シェーナの笑い声が、街の外壁に跳ね返って戻ってきた。
あの音がある未来と、ない未来。
その二つを並べて、どちらがいいかを俺は考えた。
考えるまでもなかった。
俺は間違えていない。
少なくとも今日、この選択だけは間違えていない。
妹のために誰かの娘を諦めるような兄になったら、その妹を守る資格なんて最初からありはしないのだ。
——けれども。
昨日の夜、確かに天秤を持ち上げた自分の手のことを。
俺はたぶん、この先ずっと忘れないだろう。
井戸の水は冷たかった。
顔を洗って空を見上げると、その日の荒野はやたらと青く晴れていた。
七歳の秋だった。