『蒼』は荒野を駆ける 作:ぶっぱなす
シェーナの胸を開けた日のことを、俺はあまり詳しく話したくない。
理由はふたつあって、ひとつは思い出すたびに今でも指の先が冷たくなるからだ。
もうひとつは、いくら言葉を尽くしたところであの十四時間は誰にも伝わらないと知っているからだった。
そう、十四時間かかった。
その間に、あの子の心臓は二度止まりかけている。
どちらも俺の手が遅れたせいではなかったと言い切れる自信は、いまだに持てていない。
鍛冶屋に打たせた三本の器具のうち二本は途中で使い物にならなくなった。
最後の一本が終わりまで保ってくれたことを、俺は今でも腕ではなく運と呼ぶことにしている。
ロールはずっと俺の向かいに立っていた。
彼女は一度も俺の手元を疑わず、一度も余計な口を利かず、糸と鉗子と麻酔の深さだけを寸分違わず差し出し続けた。
あの日の彼女がいなければ、俺はたぶん三時間目あたりで指が止まっていた。
とにかく、その子は生きて診察台から下りた。
話としてはそれで足りるはずだ。
問題はその後だった。
「三十日だ」
俺は誰にともなくそう言った。
胸を開けた人間は、開けた後の三十日で死ぬ。
熱が出て膿が湧いて傷が開いて、それで死ぬ。
この荒野では切ることより繋ぐことより、その三十日を渡り切ることの方がよほど難しい。
俺はその三十日を薬で押し通すつもりでいた。
だが棚を全部ひっくり返しても、手持ちの薬では二十日分にしかならなかった。
「トニーさん。頼みたいものがあります」
「伺いましょう」
「無理を言います。たぶん、値段を聞いたら帰りたくなる」
そう言った俺に、あの男は帽子のつばを指で押し上げただけだった。
「坊ちゃん。私はもう十一回、値段を聞いてから帰らずに済んだ人間ですよ」
トニーが街から消えたのは手術の三日後だった。
戻ってきたのはそれから十一日後の、風の強い夕方だ。
彼は木箱をひとつ抱えていて、その蓋を開ける前から俺は中身の見当がついていた。
「回復カプセルに回復ドリンク、エナジーカプセルもあります。これで、足りますか」
「足ります。足りますけど」
俺は言葉に詰まった。
横で薬瓶を拭いていたロールが、布を握ったまま固まっている。
「あんた。これ、幾らすると思ってんだい」
「聞かないでください」
「聞くよ。あたしは十年この商売やってて、この箱を丸ごと見たのは二度目なんだ」
「では二度目のご報告ということで」
トニーは肩をすくめて、それきり金額の話をしなかった。
代わりに彼は診療所の外に顎をしゃくった。
戸口の向こうで、壁みたいな影が井戸の水を頭から被っている。
「ジャックさんが南で仕事をしてきましてね。賞金首を三つほど」
「三つ?」
「素手で、です。私は運転をしていただけですよ」
回復カプセルなどの回復剤というのは、はっきり言って反則みたいな代物だ。
熱も傷も一度で持っていく、瞬時にHPが回復するのは伊達ではない。
だが万能ではない。
あれは開いた穴を塞ぐ道具であって、間違って組まれた心臓を組み直す道具ではないのだ。
だから青の病はこれでは治らないし、十二人の医者はこの箱を積まれても手が出せなかっただろう。
逆に言えば、俺が組み直した後の傷を閉じる用途にはこれ以上ないほど向いている。
戦車を持ったハンターの道具が、七歳の女の子の胸に使われた。
この荒野で、たぶん一番贅沢な使い方だったと思う。
十日目にシェーナは自分で身体を起こした。
二十日目には俺の手を借りて診療所の中を一周した。
三十日目、俺は彼女の唇を光の下で見て、そこに青みを探して見つけられなかった。
その日は珍しく風のない冬の午後だった。
診療所の前の道は乾いていて、遠くの防壁まで人影ひとつ挟まっていない。
シェーナは上着の袖を握ったまま、その道の先をずっと見ていた。
「ねえシオン。走ってみてもいい?」
「まだ早い」
「もう五十日だよ」
「五十二日だ」
彼女はむっとした顔をした、その頬には血の色がある。
一月前まで蝋みたいだった頬に、当たり前の子供の赤みが差している。
「ロールさん」
「好きにさせな」
ロールはそう言って、煙草を口の端で転がしながら壁に寄りかかった。
「言っとくけどね、チビ。あんたが止めても走るよ、あの子は。だったら大人が見てる前で走らせな」
シェーナが俺を見上げてくる。
許可を待つ目ではなかった。
もう走ると決めた人間が、それでも一応こちらを見てくる時の目だ。
「二十歩だけだぞ」
「三十歩」
「だめ、二十歩。転んだら次はない」
「わかった!」
彼女は駆け出した。
最初の五歩はよろけた。
筋肉が痩せきっているせいで膝がまともに上がらず、砂を蹴る音が左右で揃っていない。
それでも十歩を過ぎたあたりで、その音が急に子供らしい軽さを帯び始めた。
十五歩。
上着の裾がめくれて、痩せた背中が跳ねた。
二十歩目で彼女は見事に転んだ。
砂に手をついて、そのまま前のめりに一回転する。
俺は駆け寄った。
たぶん人生でいちばん速く走った。
「シェーナ!」
「へへ」
仰向けになった彼女が笑っていた。
息が上がっている。
肩が上下している。
「唇を見せろ」
「見て」
俺は彼女の顎を持ち上げて、冬の白い光に晒した。
赤かった。
息を切らした子供の唇の色をしていた。
爪の付け根まで確かめて、それでもまだ信じきれなくて、俺は手首の脈を取った。
速い。
だが乱れていない。
走った子供の心臓が、走った分だけ正直に打っている。
「……ああ」
それしか言えなかった。
背後で、砂を踏む重い音がした。
振り返るまでもなく分かる。
ジャックが道の真ん中で膝をついていた。
あの日のように吼えはしなかった。
声も出さず、ただ両手で顔を覆って、大きすぎる背中を丸めているだけだった。
その肩が震えるたびに地面が鳴りそうで、けれど実際には何の音もしなかった。
「ジャックさん」
「……見た」
「はい」
「見た。走ったな。あいつ、走ったな」
トニーは何も言わずに帽子を胸に当てていた。
彼はこういう時に必ず皮肉を用意してくる男だ。
その男が、この時ばかりは口の端すら動かさなかった。
「坊ちゃん」
しばらくして、彼はようやく口を開いた。
「貸しの話ですが。私はもう、全部返してもらいました」
シェーナが起き上がって砂を払った。
擦りむいた掌を舐めて、それからこちらを覗き込んでくる。
「ねえ。三年って言ったよね」
「言ったな」
「もっと早くない?」
「……早いな。二年でいい」
「じゃあ二年後に競争ね。負けても泣かないでよ」
俺は笑ってしまった。
負けるのは確定なのかと聞き返す気にもならなかった。
その頃には母の腹は、もう抱えて歩くような大きさになっていた。
冬の風はデルタ・リオの防壁を素通りして家の壁を叩く。
父は仕事を早く切り上げて帰るようになり、玄関の段差に打ちつけた板を三日に一度は確かめ直していた。
「ティアド。それ、もう十回は釘を打ってるわよ」
「十二回だ」
「数えてたの」
「数えるさ」
母が笑って、それから腹を押さえて息を吐いた。
その音の長さに、俺は椀を置いて立ち上がっていた。
「母さん」
「大丈夫。蹴っただけよ」
「診る」
「もう。あなたって本当に」
俺は母の手首を取って脈を数え、足首を押して指の跡が残る深さを見た。
瞼の裏を覗いて、腹に手を当てて胎児の背中の向きを探る。
その一連の手つきを、俺の指はやはり誰にも教わらないまま知っていた。
浮腫みは許容の範囲だった。
胎児の頭は下を向いていて、心音も速さと強さの両方が揃っている。
「順調だ」
「ほらね」
「うん。順調だよ」
順調という言葉を、俺はこの時ほど信用できなかったことがない。
この荒野には産婦人科医というものがいない。
正確に言えば、医者そのものが足りていない。
ロールのようなナースが街にひとりいれば上等で、それすらいない集落の方がずっと多い。
子を取り上げるのはその街の産婆の仕事で、デルタ・リオでは市場の裏に住む年寄りの婆さんがそれをやっていた。
婆さんは腕のいい人だった。
六十年で何百人も取り上げてきたと言っていたし、その手つきに嘘はなかった。
だが逆子になったら。
臍の緒が首に巻いたら。
胎盤が先に剥がれたら。
そこから先は、この街では祈りの領分になる。
去年この街で生まれた子は十一人だった。
そのうち母親が死んだのは二人だ。
十一人産んで、二人。
その数字を薬棚の裏の帳面で見つけた夜、俺は自分の指を長いこと眺めていた。
俺の指は、たぶんその先を知っている。
腹の上から胎児の向きを直す手つきも、切る位置も、剥がれた胎盤を掻き出す順番も、糸をかける深さも。
一度も試したことはないのに、頭より先に手順の形だけが浮かんでくる。
前の持ち主が誰から何を教わったのかは知らない。
知らないが、この手にできることは、今この街の誰にもできないことだ。
なら俺がやるべきだろう。
そう結論が出るまでに、三十秒もかからなかった。
翌朝、俺は診療所の裏で薪を割っているロールに切り出した。
「ロールさん。母の話です」
「聞かないよ」
斧を振り下ろす手が止まらなかった。
薪が二つに割れて、片方が俺の足元まで転がってくる。
「まだ何も言ってません」
「言わなくても分かる。あんた、自分で取り上げる気だろう」
「……はい」
「駄目だ」
風の音が急に大きくなった気がした。
「理由を聞かせてください」
「駄目だってのが理由だよ」
「それは理由じゃありません」
俺は転がってきた薪を拾って、割り台の横に積んだ。
声が高くなりそうになるのを、喉の途中で押さえつけた。
「産婆さんは腕がいい。それは認めます。でもあの人は逆子を戻せないし、胎盤が先に剥がれたら手も足も出ない。去年この街で二人死んでます。帳面を見ました」
「見たのかい」
「見ました。……俺ならできる。少なくとも、あの二人のどっちかは助けられた」
ロールは斧を割り台に立てて、ようやくこちらを向いた。
そして、俺が思っていたのとまるで違う言葉を返してきた。
「できるだろうね。あたしもそう思うよ」
拍子抜けした。
反論を三つ用意してきたのに、その全部が行き場をなくして宙に浮いた。
「なら」
「それでも駄目だ」
「なんでですか」
彼女はエプロンで手を拭いて、それから初めて少しだけ困ったような顔をした。
この人がこんな顔をするのを、俺はほとんど見たことがなかった。
「あんた、まだ一度も自分の身内を切ったことがないだろう」
「関係ありません」
即答した。
そう言えることが、その時の俺には自分の強さの証明のように思えていた。
「……ああ、そうかい」
ロールが短く息を吐いた。
呆れた時の吐き方ではなかった。
もっと重たくて、諦めに近い吐き方だった。
「そう言えてるうちは駄目なんだよ、チビ」
「意味が分かりません」
「分からないだろうね。あたしが十で説明しても、あんたは九まで理解して残りの一で失敗する」
彼女は斧を担ぎ直して、俺の横を通り過ぎざまに言った。
「当日、あんたは表にいな。中には入れない」
「納得できません」
「納得しなくていい。あたしが力ずくで締め出す」
「ロールさん」
「理由なら、あんたが自分で分かる日が来るよ……嫌になるくらい、すぐにね」
腹が立った。
本気で腹が立った。
腕の話をしているのに、この人は腕以外の話をしている。
俺の手はミオの顔から瘢痕を消して、シェーナの心臓を組み直したのだ。
その手を信用しないのなら、いったい何を信用するというのか。
俺は薪を積み終えるまで一言も口を利かなかった。
その日の抜糸も投薬も、たぶん普段の倍は無愛想にこなしたと思う。
その言葉の意味を俺が理解するまでに、あと十九日かかった。
十九日後のその日は、なんでもない日として始まった。
朝のうちに隊商の護衛が指の裂傷を持ち込んできて、俺はそれを八針で閉じた。
昼前に子供の腹痛がひとつ来て、腹を触って熱を測って、食べすぎだと言って帰した。
ロールは薬を量り、俺は瓶を並べ直す。
その順番はここ一年、一度も変わったことがない。
俺はまだあの朝のことを根に持っていた。
だからその日も必要以上の口を利かず、必要以上に丁寧に器具を煮沸していた。
後から思えば子供じみた抵抗だったと思う。
外で誰かが叫んだのは、ちょうどその湯から鉗子を引き上げた時だった。
「ロール! ロールさんっ!」
父の、ディアドの声だった。
一年半この家で暮らして、俺はこの人が声を張り上げるのを一度も聞いたことがなかった。
戸口の幌が引き千切られるように捲れると、父が母を背負って立っていた。
母の腕が父の首に回されていて、その指が服を掴み損ねて滑っている。
額に汗が張りついていて、髪が頬に貼りついていて、唇の端が噛みしめられて白い。
ズボンの裾から下が濡れていた。
「破れた。……途中で、破れちまった」
父の声が掠れていた。
背中の母が息を吐いた。
長くて、途中で二度折れる吐き方だった。
俺は動いた。
少なくとも自分では動いたつもりだった。
実際に俺がやったのは、器具の乗った盆に手を伸ばして、それを床にぶちまけただけだ。
金属の跳ねる音が診療所じゅうに散らばった。
鉗子が転がって、俺の足の先で止まった。
それを見下ろしながら、俺は自分がたった今何を落としたのかも思い出せずにいた。
「シオン」
母が俺を呼んだ。
背負われたまま、こちらへ首を巡らせて、この期に及んで無理に笑おうとする顔だった。
「大丈夫よ。……ちょっと、早いだけだから」
その声で、俺の中の何かが完全に外れた。
寝台へ移す。
その指示すら口から出てこなかった。
父が母を下ろすのを、俺は突っ立ったまま眺めていた。
脈を取ろうとして手首を掴んだ。
数え始めた。
そして自分が今いくつ数えたのかが、途中で分からなくなった。
呼吸を見ろ。
浮腫を見ろ。
出血の色を見ろ。
時間を測れ。
頭の中では全部の手順が正しい順番で並んでいる。
なのに目に映るのは、汗で貼りついた髪と、噛みしめられて白くなった唇と、俺の名前を呼んだ口の形だけだった。
母の顔しか見えなかった。
「……ああ」
そこで俺は理解した。
腕の話ではなかったのだ。
あの人は最初から、俺の手ではなく俺の目のことを言っていた。
医者の目というのは、目の前の人間を部位と数字に分解して見る目のことだ。
唇の色は所見で、脈は数字で、痛みは強さと部位に翻訳される。
そうやって一度ばらばらにしてからでないと、人間の中身になど手は入れられない。
俺は母をばらばらにできない。
九ヶ月前に妹の名前を知って、この人の腹に触れて笑った。
段差に板を打つ父を見て笑った。
その相手を、今この場で所見の集合に組み替えろというのが、どだい無理な話だったのだ。
九まで理解して、残りの一で失敗する。
その一が、たった今、床に散らばった鉗子の形をしていた。
「――どきな」
背中を突き飛ばされた。
ロールだった。
彼女はもう袖を肘まで捲り上げていて、その手には俺が煮沸したばかりの器具が握られている。
落ちた鉗子を蹴って隅へ寄せ、寝台の脇に膝をつく速度は、俺が知っているどの動きよりも速かった。
「ティアド。奥から布を全部持ってきな。それと湯だ」
「ああ」
「セイナさん。息を止めないで。まだ止める時じゃないよ」
そこからの十秒で、彼女は俺が三分かけてできなかったことを全部済ませていた。
腹の張りを測り、下を見て、時計を見て、産婆の家へ走らせる相手を決めていた。
そして立ち上がりざまに、俺の襟を掴んだ。
「表へ出な」
「ロールさん」
「出な」
引きずられた。
七歳の身体はまるで抵抗にならず、俺は診療所の外の砂の上に放り出された。
「頼みます」
俺は起き上がって頭を下げた。
自分でも情けないくらい掠れた声が出た。
「手は出しません。指示も出しません。壁際で座ってます。だから中に」
「駄目だ」
「なんで!」
「あんたが役に立たないからじゃない」
ロールが幌の縁を掴んだまま振り返った。
「今日のあんたはただのガキだ。あの人の息子だよ。……そういう奴が中にいると、産む方が気を遣うんだ」
言葉が出なかった。
「あんたが五十日かけて縫った子はね、ちゃんと走ったよ」
「……それが今と何の関係が」
「あんたが揃えた器具はここにある。あんたが取り寄せた薬もここにある。あんたの手はもう十分この中に入ってるんだよ」
彼女は幌を下ろす直前に、一度だけ声を落とした。
「だから表で待ってな。それがあんたの仕事だ」
幌が閉じた。
冬の風は日が傾くにつれて骨に刺さるようになった。
父は診療所の壁に背を預けて、そのまま砂の上に座り込んでいた。
膝の上で両手を組んで、指の関節が白くなるほど握り込んでいる。
その姿勢のまま、一時間近く一言も喋らなかった。
俺は隣に座った。
中からは時々、母の呻き声と、ロールの短い指示だけが漏れてくる。
「シオン」
「……うん」
「怖いか」
俺は返事に詰まった。
嘘をつく理由が思いつかなかった。
「怖い」
「そうか」
父はそれ以上何も言わなかった。
少し経ってから、組んでいた手をほどいて自分の膝を撫でた。
「俺は待つのが下手だ」
その声が、いつもより少しだけ速かった。
「お前が三日寝込んだ時もそうだった。水を汲んで、布を替えて、それで一日が終わる。何度も表に出て、何度も戻って、そのたびにセイナに怒られた」
「……父さん」
「情けない話だろう」
「思わないよ」
「思っていい。俺は思ってた」
砂を踏む音が近づいてきた。
顔を上げると、壁みたいな影が二つぶんの距離を空けて立っていた。
その後ろからトニーが、両手に湯気の立つ椀を三つ器用に抱えて歩いてくる。
「隣、いいか」
気づけばジャックが低く言った。
父が黙って場所を詰めた。
巨体が壁際に沈んで、それだけで一瞬だけ風が遮られた。
「待つのは得意だ」
ジャックが自分の膝を見たまま言った。
「七年やった。……この待ち方は、終わりのある方だ。楽な方だよ」
トニーが椀を配って歩いた。
父に一つ、ジャックに一つ、最後の一つを俺の手に押しつけてくる。
中身は熱を通しただけの薄い茶だった。
「坊ちゃん。手が冷えると碌なことになりませんよ」
「……手は使いません、今日は」
「それでも、です」
椀は熱かった。
掌の中でその熱を持て余しているうちに、袖を引かれた。
見ると、シェーナが俺の隣にしゃがみ込んでいた。
上着の前を握って、風を避けるように背中を丸めている。
「シオン。手、貸してあげる」
「いらない」
「わたしの時、握っててくれたでしょ」
「あれは指を診てただけだ」
「うそだ」
彼女は俺の手を取って、勝手に自分の両手で包み込んだ。
七歳の手はやっぱり小さくて、そして今度はちゃんと温かかった。
日が落ちた。
ランタンに火が入って、幌の内側だけが赤く滲んだ。
母の声の間隔が短くなって、そのたびに父の肩が跳ねた。
俺は何度も立ち上がりかけて、そのたびに座り直した。
中で今どういう段階が進んでいるのか、俺の頭は聞こえる音だけで正確に組み立ててしまう。
それが分かってしまうのが、この夜で一番きつかった。
そんな中、声が途切れた。
風の音だけが残って、その空白が異様に長く感じられた。
父が立ち上がりかけた。
その時、細い音が幌の向こうで上がった。
震えていて、掠れていて、途中で一度詰まって、それからもう一度、今度ははっきりと。
赤ん坊の泣き声だった。
俺はその音を、たぶん一生忘れない。
今まで聞いたどんな音とも似ていなかった。
機械の音でも獣の声でも人の言葉でもない、ただ「ここにいる」とだけ言っている音だった。
父が立てなかった。
壁に手をついて、腰を浮かせたまま、そこから先へ進めずにいる。
俺はその腕を掴んで引っ張った。
七歳の力ではまるで足りなかったが、それでも父はそれで立ち上がった。
幌が捲れた。
ロールが出てきた。
額に汗を貼りつけて、腕まで濡らして、それでもいつもの顔で煙草を探すみたいに口元を動かした。
「女だ」
父の喉が鳴った。
「二人とも無事だよ。……早かったけど、しっかりしてる。よく泣いてる」
その場で父の膝が折れた。
今度は俺にも支えきれなかった。
診療所の中は湯気で白かった。
母は寝台の上で、髪も顔も汗まみれのまま、それでもこちらを見て笑った。
一年半見てきた中で、いちばん疲れていて、いちばん綺麗な笑い方だった。
「ティアド……見て」
「ああ」
「ちゃんと、いるでしょう」
その腕の中に、布に包まれた小さな塊があった。
俺は寝台の脇まで歩いた。
足がうまく前に出なかった。
赤ん坊は、はっきり言ってお世辞にも綺麗なものではなかった。
顔が赤黒く腫れていて、髪が濡れて頭に貼りついている。
瞼はほとんど開いておらず、皮膚は皺だらけで、指先までしわくちゃだ。
生まれたばかりの人間というのは、要するに水から上げたばかりの何かでしかない。
それでも俺の目が、ようやく仕事に戻り始めた。
呼吸の間隔を数えた。
胸の上がり方が均等で、鎖骨の上が引き込まれていない。
唇の色を見た。
青くない。
指を数えた。
五本と五本。
爪の付け根まで平らで、あの日のシェーナのような膨らみはどこにもない。
「……健康だ」
自分の声を聞くと、医者の声ではなかった。
ただ安心した子供の声だった。
「シオン」
母が呼んだ。
「触ってみて」
俺は指を一本だけ差し出した。
握力を見て、把握反射を確かめるためだ。
そういう手つきのつもりだった。
その指が、握られた。
小さい、と思った。
一年半前に自分の手を見て小さいと思ったことがあるが、そんなものは比較にもならなかった。
俺の人差し指一本に、その子の五本の指がぐるりと巻きついて、それでもまだ余っている。
力は弱かった。
弱いのに、離れなかった。
そして、その子が笑った。
医学的には笑いではない。
生後間もない乳児の口角が上がるのは、意味を持たない生理的な現象だ。
そんなことはこの指がとっくに知っている。
だから俺は、その知識を頭の隅に押しやった。
今この瞬間だけは、俺は医者でいる必要がない。
レナ。
俺はこの名前を、九ヶ月前から知っていた。
知っているつもりでいた。
俺が知っていたのは、荒野を走る女ハンターの名前だ。
戦車に乗って賞金首を撃ち抜いて、最後には世界の一番深いところに潜っていく人間の名前だった。
彼女の物語は師であるマリアの死から始まって、そこから先の順番まで、俺は全部そらで言える。
それくらい好きな作品だった。
その名前を持つ何かが、いずれこの家に生まれてくる。
そう思って俺はこの一年半を走ってきた。
銃を習って、工具を握って、人の心臓を組み直して、天秤を持ち上げた自分の手のことを一晩じゅう呪った。
全部この日のためだった。
なのに今、俺の指を握っているものの中に、そんなものは一つも入っていなかった。
主人公はいない。
物語もない。
目次も、予定表も、赤いモヒカンの男も、ここには一行だって書かれていない。
ここにいるのは、しわくちゃで、赤黒くて、握力が弱いくせに離さない、俺の妹だ。
それだけだった。
それだけのことが、どうしてこんなに膝に来るのか分からなかった。
「守るよ」
九ヶ月前、俺は母にそう言った。
あれは半分が見栄で、もう半分は宣戦布告だった。
物語に向かって、お前の書いた通りにはさせないと言っただけの言葉だ。
そこにこの子はいなかった。
今は違う。
俺はこの子に、幸せな未来を贈りたい。
守るのではなく、渡したい。
血の匂いのしない朝と、腹の減らない夜と、誰も撃たなくていい昼を、この手で選んで包んで、この小さな掌の上に置いてやりたい。
そのために俺が何を切って何を縫って何を諦めることになろうと、それは全部こっち側の話でいい。
「シオン。抱いてみる?」
母がそう言った。
俺は首を横に振ろうとした。
もし、落としたらと思ったからだ。
「大丈夫」
「無理だよ。俺の手じゃ」
「あなたの手でしょう」
母が笑った。
「その手でしょう、シオン」
俺は腕を出した。
湯気の中で、布ごと重さが移ってきた。
重かった。
三キロもないはずのものが、俺がこれまで持ち上げたどんなものより重かった。
腕の中で、レナがもう一度だけ小さく口を動かした。
指はまだ俺の人差し指を握ったままだった。
窓のない診療所の中は、乾いた湯気と血の匂いと薬の匂いで満ちていて、外では相変わらず冬の風がトタンを鳴らしていた。
その音を聞きながら、俺は自分の腕の中を見下ろしていた。
八つになる年の、冬の終わりだった。