『蒼』は荒野を駆ける 作:ぶっぱなす
三年というのは、荒野では長い時間だ。
そう言ったのはロールだった。
彼女は火をつけていない煙草を口の端で転がして俺の頭のてっぺんを顎で示した。
「三年前のあんたは、そこの寝台に座ると足が浮いてたよ」
「今も少し浮いてます」
「爪先が着くだけ上等さ」
俺は十一になった。
背は伸びたが声はまだ変わっていない。
腕も相変わらず細くて、荷運びの男を一人で担ぐことは今でもできない。
それでも三年前と決定的に違うのは、この診療所で判断を下す側に俺が回ったことだった。
ロールはもう俺の手元を覗きに来なくなった。
薬の匙加減と看護についてだけは今でも彼女の方が上で、そこは俺も素直に頭を下げている。
「シオンせんせーっ!」
と、戸口の幌が下の方から捲れ上がった。
腰の高さにも届かない何かが土間へ転がり込んできて、そのまま俺の脚に正面から突っ込んでくる。
衝撃そのものは大したことがない。
ただ三歳児の頭というのは硬さの割にろくでもない場所へ当たる。
「痛い」
「いたい?」
「痛い」
「なおして、せんせー!」
「あのな、お前がやったんだよ、レナ」
妹は俺の膝に張りついたままけらけらと笑った。
三年前に俺の人差し指を握って離さなかった小さな塊は、今では自分の脚で家から診療所まで歩いてくる。
髪は母に似て柔らかく、目の色は父に似て濃い。
喋りたい言葉の数に舌の動きが追いつかないものだから、興奮すると全部の音が途中で潰れて出てくる。
「先生じゃない。兄ちゃんだ」
「せんせー」
「兄ちゃん」
「シオンせんせー」
三歳の語彙は市場で拾ってくる。
この街の連中が俺をそう呼ぶものだから、妹の口にもそのまま移った。
何度直させても翌日には元へ戻っているので、俺はもう半分諦めている。
「その呼び方はな、レナ。兄ちゃんはあんまり好きじゃないんだ」
「なんで?」
「恥ずかしいから」
「なんで?」
三歳児の「なんで」に理屈で応じてはいけない。
これは一年かけて学んだことだった。
「ロールさん。連れ戻してもらえますか」
「あたしは看護婦だ。子守じゃない」
「レナ。あっちの棚の一番下、開けていいぞ」
「おい、あんた、それは卑怯だろう」
俺が指した棚には乾かした果実の砂糖漬けが入っている。
妹は俺の脚を蹴って離れると、猛烈な勢いでそちらへ突進していった。
ロールが呆れた顔で煙草を耳に挟んだ。
「三年で丸くなったねえ、チビ」
「丸くなってません」
「妹相手に手品を使う医者は丸いんだよ」
俺は答えずに次の患者の名を呼んだ。
丸くなったつもりはなかった。
むしろこの三年で、俺の中の焦りは面白くもないほど順調に育っていた。
出来るだけ早急にデルタ・リオを出たい。
三年間ずっとそう思っていた。
理由ははっきりしている。
この街の中でいくら人を縫っていても、あの日を迎える準備にはならないからだ。
俺は知っている。
いつか武装した連中がこの家の戸を蹴破る日が来る。
その日までに俺は撃てるようにならなければならないし、走れるようにならなければならないし、何より一人ではどうにもならないことを承知した上で頼れる誰かを見つけなければならない。
そのためにはこの防壁の外へ出る必要がある。
荒野は診療所の中には入ってこない。
なのに俺は、三年かけてもこの街の門ひとつ満足に越えられずにいた。
「シオン先生! シオン先生はいるかい!」
その朝も戸口が塞がった。
隣の集落から歩いてきたという男が、幌の向こうで肩を上下させている。
「うちの婆さんが三日前から水も飲まなくてね。誰も診てくれる者がいなくて」
「順番待ちが四人います。二時間ほど待てますか」
「待つ。何時間でも待つよ。ここまで来られただけで御の字だ」
その言葉に嘘はない。
だから俺は何も言えなくなる。
三年前には俺の名は既にこの辺りへ広がっていたが、あの頃はまだ「腕のいいガキがいる」程度の話だった。
それがシェーナの一件を境に変わった。
青の病を治した。
その一行がこの荒野を勝手に走り回って、勝手に尾ひれをつけて、勝手に俺を化け物に仕立て上げた。
デルタ・リオの診療所には毎朝知らない顔が並ぶようになり、その中の何割かは三日も四日も歩いてきた連中だった。
そんな中去年の秋に一度だけ、俺は本気で街を出ようとしたことがある。
ハンターズオフィスの壁で一番安い手配書を選んだ。
賞金五百Gの野犬型のバイオで、群れからはぐれた個体が川筋の下流に居着いているという話だった。
ドグに引率を頼んで、朝に出て昼過ぎには片をつけて、日が暮れる前に戻ってきた。
そう、半日だ。
たった半日、俺はこの街を空けた。
でも戻ってきたら診療所の前に十九人並んでいた。
そのうちの一人が寝台の上で腹を開かれていて、ロールが両腕を血まみれにしてそこに屈み込んでいた。
運び込まれたのは俺が門を出た二時間後だったという。
腸間膜の動脈が裂けていて、彼女の手はどうにか出血を止めたところで止まっていた。
俺は手を洗って交代した。
仕事そのものは一時間で終わった。
男は死ななかった。
死ななかったが、目を覚ますまでに二日かかった。
「あんたがいれば二時間短く済んだ」
全部終わってからロールはそう言った。
責めている口調ではなかった。
ただ事実として、荷物を数えるみたいに言っただけだった。
「……はい」
「言っとくけどね、これはあんたのせいじゃないよ」
「分かってます」
「分かってない顔をしてるよ」
その通りだった。
問題は俺の心持ちなどではなかった。
翌朝から街の連中の目が変わったのだ。
市場を歩けば肩を叩かれた。
どこへ行っていたのかと聞かれた。
悪気のない口調で、まるで天気の話をするみたいに聞かれた。
そして三日後には、門番が俺の顔を見て困った顔をするようになった。
「先生。今日はどちらへ」
「川筋の下です。半日で戻ります」
「……あー、その」
自警団の男は頭を掻いてから、それでも道を塞ぐ形で立った。
「昨日、寄り合いで話が出ましてね。先生を外へ出すなと」
「出すな」
「流石に言い方が悪いか、守れという話です。うちの街には先生一人しかいないもんで」
俺は男の顔を見上げた。
もちろん悪人ではない。
去年、この男の息子の折れた鎖骨を俺が繋いだのだ。
その結果、彼にとって俺は、街の水源や食糧庫と同じ種類の「街のもの」になっていた。
「……分かりました」
俺はそう言って引き返した。
言い返す言葉が一つも見つからなかったからだ。
その夜、俺は寝床の中で長いこと天井を睨んでいた。
三年前に俺が背負ったつもりでいたのは物語だった。
けれども実際に俺の足首を掴んで離さなかったのは、俺が治した人間の数だった。
ジャックたちが顔を見せたのは、それから一月ほど経った頃だった。
「坊ちゃん。また背が伸びましたね」
戸口で最初に口を開いたのはトニーだった。
三年前と同じ帽子を同じ角度でかぶって、腰の後ろに同じ短い散弾銃を吊っている。
「トニーさんは変わりませんね」
「変わってますよ。皺が三本増えました」
「気づきませんでした」
「いえ、そういうものは気づかない方が礼儀ですよ」
その後ろから壁が入ってきた。
ジャックは相変わらず戸口の幅にぎりぎり収まっていなかった。
ただ入り方は前より慎重で、右肩を先に入れて身体を捻る癖がついている。
俺はその動きを見て眉を寄せた。
「ジャックさん。右、庇ってますね」
「……気づくのか」
「気づきますよ。だって俺が繋いだ関節だから」
一昨年の夏の話だ。
イスラポルトから連絡船と車を乗り継いで、この男は自分の右腕を固定したままデルタ・リオまできた。
北の賞金首と組み合って肘を逆に極められたのだという。
関節の中が砕けていて、三つの町の医者に順番に「二度と上がらない」と言われた腕だった。
俺はそれを七時間かけて組み直した。
半年の間、この街に置いて動かし方を仕込んだ。
去年の暮れに彼が右手で椀を持ち上げた時、トニーが黙って帽子を胸に当てていたのを俺は憶えている。
「痛みますか」
「いや、もう痛まんさ。雨の前に鈍くなるだけだ」
「流石にそれは一生ものです。諦めてください」
「ああ、シオンがそういうなら諦める」
ジャックは真面目な顔でそう言った。
この男は俺の言うことを一度も値切ったことがない。
「シオン!」
三人目が二人の間をすり抜けて飛び込んできた。
十一になったシェーナは背が伸びていた。
というより、俺と並んでも遜色ない程度には伸びてしまっている。
上着の袖から出た腕には日に灼けた色がついていて、爪の付け根はどこまでも平らだ。
「顔が近い」
「三年ぶりだもん」
「一年ぶりだよ。去年の春に来ただろ」
「一年ぶりだもん」
彼女は言い直してから、いきなり俺の脛を蹴った。
「痛い」
「そっちが先に負けたんだからいいでしょ」
「まだ言うのか、それ」
「一生言う」
そこで彼女は一歩だけ下がって、上着の襟のあたりを両手で撫でつけた。
それから顎を引いて、少しだけ俺を見上げるような角度になった。
「……ねえ。なんか、気づかない?」
「顔色は悪くない。脈も落ち着いてる」
「そういうのじゃなくて」
「爪の付け根も平らだ。ばち指は完全に――」
「もういい!」
トニーが咳払いをひとつして、視線を天井の梁へ逃がした。
ジャックは何も言わなかった。
ただ、その巨体が居心地の悪そうな顔で半歩だけ後ろへ下がった。
俺には二人が何をしているのか分からなかった。
シェーナを診たのはその日の夕方だった。
順番待ちの六人を片付けてからだったので、幌の隙間から入る光はもう赤くなっていた。
「上、脱いで」
「……ここで?」
「診察台の上でだ。他にどこがある」
「……うん」
聴診器の膜を胸骨の左縁に当てた。
三年前、この娘の胸の中で鳴っていた雑音を俺は一生忘れない。
収縮期の頭から尻まで途切れずに続く粗い音で、その一番強い場所に掌を置くと皮膚の下で細かい震えが返ってきた。
今そこにあるのは、十一の心臓が正直に打っている音だけだ。
そのはずだった。
「速いな」
「……走ってきたから」
「診療所の中は走ってないだろ」
「走ってた」
「息は上がってない」
「上がってる」
俺は聴診器を外して、彼女の手首を取って脈を数え直した。
速い。
乱れてはいない。
熱もないし呼吸も浅くない。
つまり所見としては何も起きていないことになる。
なのにこの脈が速い理由を、俺の指は最後まで説明してくれなかった。
「シェーナ。どこか苦しくないか」
「……ううん、苦しくない」
「本当か? 脈が速いだけど」
「シオンって、そういうところ本当に馬鹿だと思う」
俺は聴診器を膝に置いた。
なぜここで馬鹿と言われたのかが分からなかった。
「服、着ていいぞ」
「うん」
彼女は襟を直しながら幌の外を覗いた。
それから振り返った時には、その顔から遊びの色が消えていた。
「……ねえ。外にいる人、あれ全部シオンの患者なの?」
「そうだよ」
「毎日?」
「毎日だ」
彼女はしばらく黙ってから、俺の袖を摘まんだ。
握るのではなく、指二本で摘まむ掴み方だった。
「シオンは、走れてる?」
俺は返事をしなかった。
十一の娘の質問というのは時々ひどく的が正確で、そういう時に限って言い逃れの言葉が出てこない。
「わたしね、走れるようになったよ」
「知ってる。十歩負けた」
「うん。だから」
そこで彼女の言葉が切れた。
続きを待ったが出てこなかった。
彼女は自分の指を俺の袖から離して、それを上着の裾で拭くみたいな仕草をした。
「……ううん。なんでもない」
背後でジャックが低く息を吐いたのが聞こえた。
その夜、俺は診療所の裏で薪を割っていた。
八つの頃はこの斧を持ち上げるだけで一日が終わった。
今は五十本を一時間で片付けられる。
それが自分の成長の証だと思うと、ひどく間の抜けた話だと思った。
「坊ちゃん。手を止めていただけますか」
トニーが井戸の縁に腰を下ろしていた。
いつからそこにいたのかは分からない。
この男は音を立てずに移動する癖がある。
「危ないですよ」
「危ないのはあなたの顔です。薪を敵か何かだと思っているでしょう」
俺は斧を割り台に立てた。
ジャックが壁際に座っていた。
その隣にロールが椅子を出して煙草を吸っていて、少し離れた場所で父が煙を避けるように立っている。
待ち伏せだった。
「……全員で来るのは卑怯だと思います」
「あんたが一人ずつ相手にすると全員言いくるめるからね」
ロールが煙を細く吐いた。
「言いな、チビ。街を出たいんだろう」
俺は返事をしなかった。
返事の代わりに割り台の上へ薪を一本置いて、それをまた下ろした。
言うつもりはあった。
ただ、言った後で自分がどんな顔をすればいいのか分からなかった。
「ハンターになりたいんです」
言葉にすると、思っていたより子供っぽい響きがした。
「腕試しがしたいわけじゃありません。銃も工具も体術も、教われるものは全部教わりました。それでも俺は荒野を一度も走ったことがない」
「走ってどうする」
「強くなります」
ジャックが低い声で聞いてきたので、俺はそう答えた。
そして、その答えでは足りないことを自分でも分かっていた。
「守りたいものがあるんです。それも、たぶん近いうちに」
「そうか」
「はい」
「シオンがそう言うなら止めん」
あっさりしすぎていて、俺は逆に言葉を失った。
「ジャックさん」
「俺は何も言えん。お前は俺の腕を繋いだ。娘の胸も開けた。そのお前に患者を捨てろとは言えんし、患者のために止まれとも言えん」
大男は自分の右肘をゆっくり曲げて伸ばした。
雨の前にだけ鈍くなるという関節だ。
「言えんから、代わりに一つだけ聞くぞ……シオン。お前、一人で行く気だろう」
俺の指が止まった。
図星だった。
というより、それ以外の方法を俺は一度も検討していなかった。
「それだけは駄目だ」
ジャックの声が初めて低くなった。
「シオン。荒野で一番先に死ぬのは弱い奴じゃない。一人の奴だ」
「……分かってます。分かっているつもりです」
「いや、分かっていない」
そんな中、父が横から口を開いた。
「シオン」
一年に何度も聞かない、低くてゆっくりした声だった。
「お前がそう言うなら、行ってこい」
俺は父の顔を見た。
三年前、母を背負って診療所へ駆け込んだ時のこの人の声を俺はまだ憶えている。
あれから父は一度も声を張り上げていない。
今の言い方も、朝に水を汲んでくると言う時とほとんど同じ調子だった。
「父さん……いいのか?」
「いいわけがないだろう」
父は自分の手を見下ろした。
爪の間に油の黒が残っている、三年前と同じ手だった。
「お前が門を出た日、俺は日が暮れるまで表に立っていた。あの半日で寿命が二年縮んだ」
「父さん」
「だが俺は待つのが下手なだけだ。下手なのは俺の話で、お前が行かない理由にはならん」
その言い方があまりにも父らしくて、俺は少しだけ笑ってしまった。
「ただし条件がある」
「なんだ」
「一人はいかん。ジャックさんの言う通りだ」
ロールが煙草を靴の裏で消した。
「話は決まりだね。あとは口実だ」
「口実?」
「街の連中が納得する理由だよ。あんたが遊びに行くって話じゃ、あの門は開かない」
その口実は、三日後に向こうから歩いてきた。
その男は昼過ぎに診療所の幌をくぐった。
日に焼けているが荒野焼けではない。
潮に灼けた焼け方だ。
上着に塩が吹いていて、靴の縫い目に細かい砂が噛んでいた。
「デルタ・リオの幼きゴッドハンドってのはあんたか」
「その呼び名は勘弁してください」
「じゃあ先生でいいか。俺はベネットの海の家から来た」
ベネット。
その名前は聞いたことがあった。
南西の海沿いで宿と飯屋と湯を一緒くたに出している男だ。
荒野を越えて海まで下りてくる連中が最初に足を止める場所で、あそこで出す魚は荒野三日分の値打ちがあるという話をハンターから何度か聞いていた。
「客が十四人寝込んでる」
「症状は」
「吐く。手足が痺れる。目が霞むってのもいる。最初の一人が三週間前で、そこから毎日一人ずつ増えた」
「死人は」
「まだ出てない。だがな先生、一人は水も飲めなくなっている、危険だ」
俺は男から目を離さずに手を洗い始めた。
指が勝手に動いていた。
そういう時の俺はもう半分だけ荒野ではなく他人の身体の中に立っている。
「毎日一人ずつというのが妙です。伝染るものなら増え方が違う」
「それは俺に言われても分からん」
「分からなくていいです……水は同じ井戸ですか」
「うちは湧き水を引いてる。三十年同じだ」
三十年同じというなら井戸は薄い。
食い物か。
あるいは器か。
「わかりました、行きます」
俺がそう言うと、男の肩から力が抜けた。
そこで初めて、この男が三日間ろくに眠らずに荒野を突っ切ってきたことに気がついた。
「金は出す。言い値でいい」
「まずは寝てください。話はその後です」
「先生」
「倒れられると患者が十五人になります」
男は素直に頷いて、そのまま壁にもたれて眠った。
その日の夕方、俺は生まれて初めてデルタ・リオの寄り合いに呼ばれた。
市場の裏の広場に十人ばかりの大人が集まっていて、その真ん中に俺が立たされる格好になった。
自警団の男がいて、産婆の婆さんがいて、鍛冶屋がいた。
どの顔にも見覚えがある。
全員、どこかしらを俺が縫った連中だった。
「往診だ」
ロールが先に言った。
「海の家から正式に呼ばれてる。十四人だ。断る理屈があるなら言ってごらん」
理屈は誰も持っていなかった。
医者を独り占めしたい人間の集まりであっても、遠くで人が死にかけていると言われて胸を張れる連中ではない。
そういう街だから俺はここで三年やってこられた。
「往復と滞在で留守にします、短くて十日、長くて二十日」
俺が言うと、広場の空気が目に見えて重くなった。
「その間の診療所は先生がひとりで――」
「そこはあたしが引き受けるよ。三年前まではあたし一人でやってたんだ」
ロールが割って入った。
彼女は俺の方を見もしなかった。
「手に負えないのは全部書き留めておく。帰ってきたチビが泣きながら片付けるさ」
「泣きませんよ」
「泣くね。あたしの字は汚い」
小さな笑いが起きて、それで場がひとつ緩んだ。
一度方針が決まってたしまえば、そこからが早かった。
ただ自警団の男が最後に一つだけ条件をつけた。
「護衛をつけてください。街から金を出します」
「……街から?」
「先生は街の宝ですから」
その言い方に、俺はもう腹を立てなかった。
三年かけてようやく分かったのだ。
この街の連中が俺を囲い込んでいるのは、俺を持ち物だと思っているからではない。
そうしないと自分たちが、自分たちの子供が助からないと知っているからだ。
囲われているのではなく、預けられている。
でもその重さの方が、よほどたちが悪かった。
翌朝、俺はハンターズオフィスへ行った。
デルタ・リオの支所は小さい。
壁一面の手配書と、腕を組んだ男が二人と、奥のカウンターで書類をめくる痩せた受付。
その構図だけはどこの町へ行っても同じ形をしている。
「護衛を一人雇いたいんです、最大二十日」
「シオンの坊主、金は」
「街が出します」
受付が顔を上げた。
それから、面倒くさそうに帳面を三冊引っ張り出してくる。
「条件を言え」
「長物が使えること、最大二十日空けられること。足が速いこと……それと、たぶん安いこと」
「最後のが一番きついぞ」
男は帳面を指で辿った。
爪の先が黄色い。
「腕のいい連中は皆この時期、ノボトケの方面で隊商の護衛に入ってる。残ってるのは飲んだくれか、駆け出ししかいないぞ」
「駆け出しでもいいです。腕さえあれば」
「腕があって残ってる奴は、大抵理由があって残ってるんだよ」
そこで受付の指が止まった。
「……一人いるな」
「誰ですか」
「今この街にいる。昨日、賞金首の証明を持ってきた奴だ。単独でな」
俺は身を乗り出した。
「単独で?」
「ああ、ライフル一丁で仕留めたそうだ、腕は本物だな。若いが、たぶんこの支所に登録してる中じゃ一番当てる」
そんな人間が余っているはずがない。
俺がそう言おうとした時、壁際の男の一人が鼻で笑った。
「やめとけよ坊主。あいつは降りてこねえぞ」
「どういう意味ですか」
「そのまんまの意味だ。岩の上から撃つだけで、危ねえところには絶対に降りてこねえ。仲間が食われかけてても岩の上だ」
受付が帳面を閉じた。
「まあ、ここじゃそういう評判なんだ。だから誰とも組めてない」
俺は嫌な予感がした。
それは荒野で何度か経験したことのある種類の予感だった。
頭より先に背骨のあたりが答えを知っていて、それが喉まで上がってくるのを俺が必死に押し返している時の感覚だ。
「名前は」
受付が、帳面の背に指を置いたまま言った。
「トンビのフェイ」
トンビ。
その言葉が耳の奥で二回ほど跳ね返った。
フェイという名前の男を、俺は知っている。
マドの街の用心棒で、ライフルの名手で、赤いモヒカンの男に殺される男の名前だ。
その男の二つ名は隼だった。
トンビではない。
俺はオフィスの外へ出て、日の当たる壁に背中を預けた。
心臓が診察の時と同じ速さで打っていて、それが不愉快だった。
異名というのは自分でつけるものではない。
三年前にロールがそう言った。
人につけられて、それを剥がせなかった奴が背負うのだと。
つまり異名は肩書きではなく、周りの人間が張った札だ。
札なら剥がせる。
剥がせるということは、変わるということでもある。
だが同姓同名という可能性も同じだけ残っている。
この荒野に何十万人いるのか知らないが、フェイという名前が一人きりだと考える理由はどこにもない。
「……確かめるしかないか」
俺は壁から背を離した。
その男は広場の隅にいた。
石積みの縁に腰かけて、膝の上に布を広げて、その上でライフルを分解している。
遊底を抜いて、通し棒に布を巻いて、銃身の中を覗いて、また通す。
足元には手をつけていないパンが袋のまま置かれていた。
俺は五歩ほど手前で足を止めた。
食う前に銃の面倒を見る男だった。
その一点だけで、俺の腹の底が妙な冷え方をした。
似ているとかそういう話ではない。
三年後にキャンプの焚き火の向こうで同じことをしている男を、俺は前世の記憶ではなく自分の目で見ることになる。
そのはずだった。
「フェイさんですか」
男が顔を上げた。
若い。
二十三か四といったところで、俺より一回り上の年齢だ。
痩せていて背が高く、日に灼けた顔の頬がこけている。
目元に傷はなかった。
そこに古い傷跡があるはずだと俺は思っていて、実際にはつるりとした皮膚があるだけだった。
その事実が、俺の確信を最後の一歩手前で押し戻した。
「ああ、そうだ」
「シオンといいます。護衛の依頼を」
「もう聞いてるよ」
男は視線を一度だけ横へ逸らしてから、また俺に戻した。
人を見る時に必ず一拍そうする癖があるらしい。
「ただの子守だろ」
「いえ、往診の護衛です」
「同じ意味だ」
俺は言い返さなかった。
言い返す価値のある嫌味とそうでない嫌味の区別くらいはつく。
「詳しい条件は聞いてますか」
「最大二十日で相場の倍。前金は街が出すんだったな」
「はい、受けてもらえますか」
「断る理由はないな」
そこで男はライフルの遊底を戻して、乾いた金属音を鳴らした。
「でも、断る理由はないと言ったが受けるとも言ってない」
面倒な男だった。
「理由を聞かせてください」
「俺は自分の足で走れない荷物は運ばない」
「走れます」
「十一だろ」
「十一でも走れますよ」
男が初めて俺の顔をまともに見た。
「そこまでの往復で八日だ。荒野を八日、俺の背中で寝るのか? それとも岩に隠れて震えてるのか」
「いえ、どちらもしません」
「威勢がいいな」
俺はその時、たぶん少しばかり子供じみた選択をした。
腰の後ろから回転式の拳銃を抜いて、弾を五つ込めて、それから広場の隅に転がっていた空き缶を三つ拾って石積みの上に並べた。
距離は十五歩ほど。
十一の腕で撃つには十分すぎるほど近い。
「三つとも落としたら、話を聞いてもらえますか」
男は何も言わなかった。
ただパンの袋を膝から下ろした。
俺は撃った。
一つ。
二つ。
三つ。
三つ目が跳ねて石積みの向こうへ落ちる音を、俺は最後まで聞かなかった。
ボーグに教わった通りだ。
当てにいくのではなく、形を決めてから引く。
薬莢を抜きながら振り返ると、男の表情が変わっていた。
驚きではなかった。
もっと粘っこくて、内側に沈んでいく種類の顔だった。
「……誰に習った」
「ボーグさんという人です。元は正規のソルジャーだったと」
「知ってる。三年前にはこの辺りにいたな」
「じゃあ話が早いですね」
「早くないぞ」
男は立ち上がった。
背が高いので、そうされると俺は完全に見上げる格好になる。
「お前は、医者だろう?」
「医者です」
「医者が撃つんじゃない」
言いながら、フェイはライフルを肩に担ぎ直した。
その動作を、俺の目が勝手に追った。
そして勝手に、余計なことを見つけてしまった。
「フェイさん」
「なんだ」
「その銃、床尾板の左の螺子が緩んでますよ」
「は?」
「担ぎ直す時に肩の当たりが一度沈んだ。木が痩せてるんだと思います。締め直すだけじゃ止まりません。噛ませものが要る」
そこまで言い終わってから、俺は自分が何をやったのかに気づいた。
広場が静かになった。
正確には、静かになったのは目の前の男の周りだけだった。
「……お前」
声が低くなった。
「今、それを目で見て言ったのか」
「はい」
「一度担ぎ直しただけでか」
「はい」
男はライフルを下ろして、床尾を掌で押した。
指先が板の縁を撫でて、そこで止まった。
止まった指が、白くなるほど強く食い込んだ。
「いくつだと言った」
「十一です」
「十一」
「はい」
彼はしばらく黙っていた。
その沈黙の間に、彼の呼吸だけが少しずつ速くなっていくのが分かった。
「十一で人の心臓を組み直して、十一で街が金を積んで、十一で俺の銃の不具合を当てるのか」
「フェイさん」
「俺は八年やってる」
その声が急に大きくなった。
「八年だ。十五で親父の銃を担いで、八年、毎日撃ってきた。当てる腕だけなら誰にも負けん。この支所の帳面を見りゃ分かる」
「知ってます。受付の人も」
「それでついた名前がトンビだ」
彼は自分の胸を指で二度叩いた。
「岩の上から見てるだけの鳥だとよ。降りてこねえ、危ねえ所には来ねえ、他人が仕留めそこねた獲物を持っていく。……そういう札を八年かけて背負った」
俺は何も言えなかった。
「なあ坊主。お前は今日、俺の顔を見て何日目だ」
「一日目です」
「一日目で俺の銃の中身まで見えるのか」
彼はそこで一度言葉を切って、それから吐き出すように言った。
「お前は最初から上手いんだろう。何をやっても」
広場の砂が風で流れた。
「そういう奴に、俺が何を教えればいい」
俺は答えられなかった。
答えを持っていないからではない。
持っている答えが、この人に言えるものではなかったからだ。
俺の手が最初から上手いのは、俺が磨いたからではない。
気がついたら指が全部憶えていたからだ。
その気味の悪さを俺は三年間ずっと持て余していて、それをまともに説明できたためしがない。
だから俺は、一番みっともない言い方を選んだ。
「俺の手は、俺が磨いたものじゃありません」
彼の眉が動いた。
「どういう意味だ」
「そのままの意味です……もらい物なんですよ、これ。誰にもらったのかも分からない」
「それは慰めのつもりか」
「いいえ」
「なら余計にたちが悪い」
確かにその通りだった。
だから俺はそれ以上何も言わなかった。
結局、彼は依頼を受けた。
昼が過ぎて日が傾く頃に、彼の方からオフィスへ来た。
帳面に署名する手つきは丁寧で、字は思っていたよりずっと整っていた。
「条件がある」
書き終えてから、彼は俺を見ずに言った。
「俺は岩の上から降りない」
「はい」
「そういう男だ。八年そうやってきた。土壇場でお前が下で転がっていても、俺は撃つのに一番いい場所から動かん。それでいいなら受ける」
嘘だと思った。
八年ずっとそうしてきた男は、こんなことをわざわざ先に言わない。
言うということは、そこに引っかかっている何かがあるということだ。
だから俺は本当のことだけを返した。
「構いません。降りてこなくていいように走ります」
「走る?」
「あなたが撃つ時間は、俺が作ります」
彼は初めて、俺の顔から視線を逸らさなかった。
「……ガキの言うことだな」
「はい」
「気に入らん、賢しすぎだろ」
「よく言われます」
彼は帳面を受付へ滑らせて、それから背中越しに一言だけ落とした。
「金は要る。送る先があるんでな」
その言葉に俺が反応する前に、彼はもう戸口を出ていた。
出発は翌朝の早い時間だった。
街が出した乗り物は、鍛冶屋の裏で五年錆びていたサイドカー付きの単車だった。
オルガと二晩かけて動くようにした代物で、塗装は剥げているし片方の灯りは点かない。
それでもエンジンは素直に回った。
俺が跨がると、フェイが露骨に嫌な顔をした。
「乗れるのか」
「乗れます」
「誰に習った」
「……天からの授かり物ということになってます」
「ふざけてるのか」
「半分は」
門の前に人が出ていた。
ロールが薬箱を三つ荷台に括りつけて、最後にひとつ余計な包みを押し込んできた。
「ネツサガールだ。二十本入ってる」
「多すぎませんか」
「あんたが使うんじゃないよ。向こうで足りなくなった時のためだ」
母が俺の襟を直した。
その手が少し震えていて、それでも最後まで泣かなかった。
父は何も言わずに俺の頭に手を乗せた。
砂と油の匂いのする手だ。
三年前も、四年前も、俺が目を覚ました日も、この人の手はずっとこの匂いをしていた。
「にいちゃ」
母の脚の陰から、小さいのが顔を出した。
「せんせーじゃないの?」
「今日は兄ちゃんでいい」
「にいちゃ」
「そうだ」
レナは満足そうに頷いて、それから自分の握り拳を俺の方へ突き出してきた。
中身は乾いた果実の砂糖漬けだった。
昨日、俺が棚から出してやったやつだ。
「もってって」
「……ああ」
「かえってきて、たべて」
俺はそれを受け取って上着の内側へ入れた。
けれども、シェーナはその人だかりにはいなかった。
いや正確には、少し離れた荷車の陰に立っていた。
こちらを見ているのに近づいてこない。
声をかけようとして俺が手を上げると、露骨に横を向かれた。
「昨日から不機嫌でしてね」
トニーが帽子のつばを押し上げて言った。
「理由を聞いても?」
「聞かない方がよろしいかと……坊ちゃん、そこは私の口から言うことではありませんので」
意味が分からなかった。
分からないまま俺はエンジンを回した。
門が開いた。
排気の音が外壁に反響して、荷車の陰から足音がひとつ飛び出してきた。
「シオン!」
俺は振り返った。
シェーナが道の真ん中に立っていた。
両手を握りしめて、息を吸って、それから思いきり叫んだ。
「死んだら許さないから! 絶対……絶対、帰ってきて!」
言い終わると同時に、彼女は真っ赤な顔のまま踵を返して走っていった。
その走り方には、もうどこにも危なっかしいところがなかった。
俺はしばらく門の外を見られずにいた。
「おい」
サイドカーの中でフェイが呆れた声を出した。
「行くのか行かないのか」
「行きますよ」
「おい、お前……あれを見ても何とも思わんのか」
「何をですか」
「……いや、いい。忘れろ」
彼は背もたれに肘を乗せて荒野の方を見た。
その横顔にはまだ傷がない。
そして、その二つ名はまだ鳥の中で一番みっともないものだ。
俺は一年ぶりに、この街の外の風の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
十一の、夏の初めだった。