『蒼』は荒野を駆ける 作:ぶっぱなす
門が閉まる音は、思っていたよりずっと小さかった。
背後で一度軋んでそれきりだった、振り返らなかったのは別に意地ではない。
排気音が防壁に跳ね返らなくなった瞬間から、耳に入ってくる音の種類が全部入れ替わっていて、そちらに気を取られていただけだ。
風と、砂が車体を叩く音。
そして、自分の心臓の鼓動。
実に一年ぶりの、門の外だった。
俺は左のグリップを少しだけ開けると、街が用意した単車は素直に加速した。
オルガと二晩かけて仕込んだエンジンは、鍛冶屋の裏で五年錆びていたとは思えないほど正直に回る。
サイドカーのフェイは特に何も言わなかった。
膝の上に布を敷いて、その上にライフルを横たえて、片手を銃身に置いたまま前を見ている。
出発してから一言も喋っていない。
俺は三十分ほど我慢して、それから諦めて自分から口を開いた。
「フェイさん」
「……」
「フェイさん?」
「ああ、聞こえてる」
「返事をしてください」
「すまんが話すことがない」
思わず苦笑してしまう、風の音の方がまだ愛想があったくらいだ。
街を朝に出て正午を過ぎた頃、涸れた川筋を渡った。
俺は迷わず西寄りの浅いところを選んで、そのまま速度を落とさずに突っ切った。
車輪が石を弾く。
サイドカーの尻が一度跳ねて、すぐに落ち着いた。
「止まれ」
フェイが、街を出てから初めてまともに喋った。
「どうしました?」
「今の渡り方を、誰に教わった」
「教わってません。あそこが一番浅かったので」
「見て分かったのか」
「水が引いた跡の色が違いましたから」
フェイは俺の顔を見なかった。
視線を横へ一度だけ逸らして、それから川筋の方へ戻した。
人を見る時に必ず一拍そうする癖は、初対面の時と変わっていない。
「速度を落とせ。ここから南西は俺が言う通りに走れ」
「道が悪いんですか」
「道はいい。だからこそ寄ってくるんだ」
フェイの言っている意味は半分も分からなかった。
それでも俺は素直に速度を落とした。
八年荒野を歩いた人間が言う「寄ってくる」を、十一の俺が否定する、そんな理由はどこにもないからだ。
一日目の夜営は、風下の岩陰だった。
場所を決めたのはフェイだ。
俺には全部同じ岩に見えたが、彼は三つ目の岩陰の前で足を止めて「ここだ」と言った。
理由は聞かなかった。
聞いても「そういうもんだ」で終わる気がしたからだ。
火を熾して、夕食として干し肉を炙った。
フェイは軽く口にしただけだった。
それよりも布を広げ、遊底を抜いて、通し棒に布を巻き、銃身の中を覗いた。
俺はその手つきを見ながら、喉の奥で言葉を一度潰した。
床尾板の左の螺子はまだ緩んでいる、担ぎ直す時の肩の沈み方で分かる。
噛ませものを一枚入れて、木の痩せた分を埋めてやれば三十分で終わる仕事だ。
けれども言えば、たぶんまた同じことになる。
俺は干し肉を噛んで、余計なことを飲み込んだ。
「坊主」
「はい?」
「明日から一つだけ守れ、動くな」
彼は組み上げ直したライフルの遊底を鳴らした。
乾いた金属音が岩陰に短く反響した。
「俺が撃つまで、絶対に動くな。それだけだ」
「理由を聞いても、いいですか」
「聞くな」
「理由が分からないと、守れません」
「守れないなら、お前は連れて歩けん」
俺は黙ることにした、言い返す材料がなかったわけではない。
この人が理由を言わないのは意地悪だからではなく、説明する言葉を持っていないからなのだと、なんとなく分かってしまった。
「フェイさん、一つだけ聞いていいですか」
「内容による」
「八年、どうして一人だったんですか」
焚火が爆ぜる。
火に照り返された彼は答えなかった。
布を畳んで、ライフルを膝に抱えて、それから改めて干し肉に手を伸ばした。
「金が要る」
それだけ言って、彼は食い始めた。
俺はそれ以上聞かないことにした。
ハンターオフィスの支所の広場で同じ台詞を聞いた時から、その一行の裏側には人がいるのだろうと思っていた。
それでも十一の子供が、遠慮なしに踏み込んでいい場所ではないことくらいは分かる。
二日目の夕方、向かう途中でフェイが単車を止めさせた。
「まずいな、降りろ」
彼はサイドカーから出て、砂の上に膝をついた。
そこには何もなかった。
少なくとも俺には何も見えなかった。
「何かありますか?」
「ああ、七頭だ」
「……七頭?」
「昨日の夜、ここを通ってるやつらだ」
俺はしゃがんで同じ場所を見た。
言われてみれば、砂の表面がわずかに違う。
確かに風で均された面の上に、均される前の窪みが薄く残っていた。
だが、その数までは俺には読めなかった。
「どうして七だと分かるんですか」
「爪の食い込み方が二種類ある。前の三頭は落ち着いて歩いてる。後ろの四頭は詰めてる。詰めてる方が若い」
彼は立ち上がって、砂を払った。
「野犬型のバイオだ。この辺りに二年前からいる奴らだ」
「まずいですね、避けられませんか?」
「避けられはする。だがこちらが人だと分かれば夜に寄ってくる」
彼は南西の方角を指した。
「だから明日の朝、あの窪地で狩るぞ」
段取りの説明は短かった。
窪地の縁の一番高い岩にフェイが上がる。
俺は下の窪みで単車と荷の手前に伏せる。
そして、七頭全部が窪地に降りきるまで待つ。
「全部降りたら、向こう側から順に落とす。手前のやつは、どこから撃たれてるか分からんまま死ぬだろう」
「途中では撃たないんですね」
「撃ったら残りが散ってしまう」
「散ったら、どうなるんですか?」
「二度と固まらん……それだけだ、余計厄介になる」
「俺は何をすればいいですか」
彼は俺を見た。
今度は視線を逸らさなかった。
「何もするな」
「何も、ですか?」
「ああ、動くな。俺が撃つまで、絶対に動くなよ」
昨夜と同じ台詞だった。
違ったのは、今度は理由がついていたことだ。
三日目の夜明け前から、俺たちは伏せていた。
窪地は思ったより浅かった。
すり鉢の底に岩がいくつか転がっていて、その向こうに枯れた低木が固まっている。
俺の位置からは底が全部見える。
背後の少し離れた岩の裏に、単車と荷を寝かせてある。
最初の一頭が降りてきたのは、空が白み始めてすぐだった。
毛が半分抜け落ちていて、下の皮膚が黒く光っている。
顎だけが不釣り合いに発達していて、歩くたびに肩の骨が皮の下で回った。
噂に聞いていたより、ずっと大きい。
二頭目。
三頭目。
そこから、時間が止まった。
四頭目が降りてくるまでに、たっぷり一時間かかった。
太陽が縁から顔を出して、俺の背中を直接焼き始めた。
汗が眉から目に落ちる。
拭えない。
五頭目。
あと二頭もいる。
肘の下の砂が体温で温まって、その熱がそのまま腹に回ってくる。
指が痺れている。
呼吸を浅くしているせいだと分かっていても、深く吸う勇気が出ない。
上の岩を一度だけ盗み見ることにした。
フェイは動いていなかった。
本当に、一ミリたりとも動いていなかった。
頬付けの位置も、肘の角度も、伏せた時から何ひとつ変わっていない。
——この人は、こうやって八年やってきたのか。
そう思った瞬間、六頭目が縁のところで足を止めた。
そして向きを変えた。
窪地ではなく、俺の背後の岩の方へと。
単車の方へ。
まずい。
俺の心臓が、一度だけ大きく打った。
荷はサイドカーの後ろに括りつけたままなのだ。
その一番外側には薬箱が三つ。
帆布をかけて縄で締めてある状態だ。
その一番上の箱の中身を、俺は知っている。
ネツサガールが二十本。
ロールが最後に押し込んできた包みだ。
あの人は俺の方を見もせずに、あんたが使うんじゃないよ、と言った。
向こうで足りなくなった時のためだ、と。
六頭目の顎が帆布にかかった。
布が裂ける音がして、反射的に俺は引き金を引いた。
気がついた時には拳銃はもう腰から出ていて、肘は伸びきっていて、昇順は獣の耳の後ろに乗っていた。
考えるより先に形が決まっていた。
ボーグに教わった通りの、一番正しい形だった。
一発。
黒い塊が横に倒れた。
一度も跳ねなかった。
きれいに入った証拠だ。
けれども、窪地の底から、音が消えて五頭が、同時に散った。
二秒もかからなかった。
枯れ木の間へ、岩の陰へ、縁の向こうへ。
黒い背中が視界から抜けていく速さは、生き物というより水のようだった。
銃声は、一発も追いかけてこなかった。
俺は上を見た。
フェイは動いていなかった。
撃つ姿勢のまま、頬をつけたまま、まだ窪地の底を見ていた。
そこにはもう何もいなかった。
それから彼はゆっくりと頬を離して、安全装置を戻した。
岩を降りてくるまでに、たっぷり一分かかった。
「何発撃った」
最初の言葉がそれだった。
声は静かだった。
「一発です」
「当たったか」
「はい……当たりました」
「そうだろうな。お前は外さん」
彼は俺の横を通り過ぎて、倒れた六頭目のところへ行った。
しゃがんで、耳の後ろの穴を指で確かめて、それから立ち上がった。
「あれが何をしてたか、分かるか」
「薬箱を、噛んでました」
「囮だ」
俺は、その言葉の意味をすぐには飲み込めなかった。
「群れで狩る獣はな。一頭だけ先に出して、こっちが動くかどうかを見る」
彼は砂を払った。
「動いたら、残りは全部逃げる。動かなかったら、全部降りてくる。……八年で二十回は見た」
「じゃあ、あの箱は」
「囮に食わせるための箱だ。あんなもん、帆布が裂けるだけだ」
俺は自分の手の中の拳銃を見た。
まだ熱い。
「お前の師匠は、銃を何だと言った」
フェイの声が、そこで初めて低くなった。
「……的に当てる道具じゃない、と」
「続きは」
「相手より先に、決められた形になる道具だと」
「今のは、どっちだ」
答えられなかった。
俺は的に当てた。
それだけをやった。
一発で、正確に、教わった通りの形で。
そして、七頭のうち六頭を取り逃がした。
「あいつらは付いてくるぞ」
彼はライフルを担ぎ直した。
肩の当たりが一度沈むのを、俺の目はまた勝手に見つけてしまった。
「二日は付いてくる。二度と固まらん、夜も寄ってくる……そうなると、俺はもう撃てん」
「すみません、早計でした」
「謝るな」
フェイは俺を見なかった。
そこから二日、この人は俺と口をきかなかった。
その夜は、火を焚かなかった。
正確には、俺が焚こうとしてフェイに止められた。
彼は無言で首を横に振って、それから岩の隙間を指した。
そこに寝ろという意味だった。
俺は毛布にくるまって岩に背中を預けたが、流石に眠れるはずがなかった。
暗くなって半刻もしないうちに、最初の目が見えた。
低木の向こうで、二つ並んで浮いている。
瞬きをしない、少し右へ移動してまた止まる。
フェイは撃たなかった。
俺は上を見た。
彼は昼と同じ岩の上で、昼と同じ姿勢のまま、銃口だけを目の方へ向けている。
撃てる距離だった。
少なくとも、この人なら撃てる距離だった。
やがて目が消えた。
一刻ほどして、今度は逆側に三つ現れた。
それも消えた。
一晩でそれが六回あった。
翌朝、俺は結局一睡もできなかった。
走り出してから気づいたが、握力が半分も出ていない。
それでも単車は走った。
その日に進めた距離は、予定の半分だった。
痕跡は昼のうちも見えた。
今度は俺にも分かるほど堂々と、進路の左右に爪痕が並んでいた。
向こうは隠す気がない。
「フェイさん」
俺は昼の休憩で一度だけフェイに声をかけた。
「一頭ずつなら、撃てるんじゃないですか」
彼は水袋の口を閉じて、それを荷に戻した。
そして何も言わずにサイドカーへ戻った。
答えは夜になって分かった。
撃てば音が出る。
音が出れば、こちらの位置が確定する。
奴らは一頭ずつ試しに来て、こちらが撃つかどうかを見ている。
初日と同じことを、今度は夜通しやっているのだ。
一頭撃てば、その一頭は死ぬ。
そして残りの五頭が、俺たちの居場所を正確に憶える。
だから彼は撃たない。
俺が二日かけてようやく理解したその理屈を、フェイは初日の朝に、俺の背中を見ながら分かっていた。
二晩目に、荷がやられた。
来たのは三頭だった。
正面から一頭、そして背後の岩を回って二頭。
初めて同時に襲撃された。
フェイのライフルが鳴ったのは、俺が身を起こすより早かった。
正面の一頭が横に倒れた。
音が岩に跳ね返って、荒野の広さがそこで一度だけ形になった。
だが背後の二頭は止まらなかった。
単車の後ろで縄が鳴った。
帆布が引き裂かれる音がして、木の箱が地面に落ちる音が続いた。
二頭目のライフルが鳴った時には、黒い背中はもう低木の向こうへ抜けていた。
静かになった。
俺は火のない暗がりで、四つん這いになって砂を探った。
薬箱は三つとも倒れていた。
一番上に括ってあったやつは、蓋が外れて中身が半分こぼれている。
指先に、丸いものが当たった。
拾い上げる。
ネツサガールの瓶だ。
その隣に、ガラス片があった。
俺は暗いまま、砂の上を掌で撫でていった。
医者の指というのは便利にできていて、見えなくても割れたものと割れていないものを取り違えない。
無事な瓶を一本ずつ毛布の上に並べた。
十一本、逆に言えば九本が割れていた。
箱の底に、折り畳んだ紙が敷いてあった。
俺はそれを開いて、夜目に透かした。
字は読めなかった。
だが誰の字かは分かった。
ロールだ。
翌朝に明るいところで読んだら、そこには使う順番と、俺が忘れそうな量の目安が書いてあった。
最後の行だけ、他より大きく書いてあった。
『あんたが使うんじゃないよ』
俺はそれを畳んで、上着の内側に入れた。
レナの砂糖漬けの隣だった。
初日にあの一発を撃たなければ、七頭は窪地で死んでいた。
七頭が死んでいれば、二晩目の襲撃はそもそも存在しなかった。
存在しなければ、この九本は割れていない。
理屈としては、それだけの話だ。
俺は割れたガラスを一箇所に集めて、砂をかけた。
そうして群れが離れたのは、その二日後の昼過ぎだった。
理由は分からない。
フェイは「縄張りの端だろう」と一言だけ言った。
それから彼はまた黙った。
俺は速度を上げた。
上げられるだけ上げた。
サイドカーの尻が二度浮いて、そのたびにフェイが手すりを掴んだが、何も言わなかった。
それでも足りない。
俺は走りながら指を折った。
使いの男が海の家を出た日に、十四人患者がいた。
あの人がデルタ・リオまで急いで三日かかった。
街で二日経過し、本来なら、ここまで四日だ。
でも俺たちは、一日遅れている。
十四人に、十日を足す。
俺の読み通り一日一人ずつなら、二十四人か、二十五人になっているだろう。
でも俺が遅れなければ、その数字は小さくなっていた筈なのだ。
潮の匂いに気づいたのは、日が傾き始めた頃だった。
鉄錆と砂しか知らない鼻には、最初それが匂いだと分からなかった。
空気が湿っていて、少し重い。
呼吸をするたびに舌の奥に薄く塩が残る。
丘をひとつ越えたところで、いきなり視界が開けた。
海だった。
前世で何度も見たはずのものが、そこにあった。
灰色でも青でもない、鈍く光る面がどこまでも続いていて、その手前に建物がひとつ張りついている。
流木と板と、たぶん船だったものを継ぎ合わせた平屋だ。
でも今は煙突から煙が上がっていない。
軒先に干してある魚が、干したまま忘れられている。
「シオン……先生か」
戸口に男が立っていた。
六十近い。
でも腕は海の男らしく丸太のように太くて、前掛けに魚の鱗が乾いてこびりついていた。
声は大きいが、その大きさに中身がついてきていない。
「ベネットだ」
「シオンです。遅れました」
「来たならいい。いや、来ただけでいい」
彼は俺の背丈を見て、それから何も言わなかった。
十一の子供が単車から降りてきたことについて、この人は一度も文句を言わなかった。
いや、たぶんもう文句を言う気力が残っていないのだろう。
「使いの男は」
「デルタ・リオに置いてきました。三日間眠っていなかったので」
俺は荷から薬箱を下ろした、一つは犬の襲撃で蓋が割れたままだ。
「ベネットさん。患者は何人ですか」
彼は答えるまでに、少し間を置いた。
「二十五人だ」
俺は箱を持ったまま動かなかった。
俺の予想と数字が合ってしまった。
合ってしまうということは、この三週間、何ひとつ事態は変わっていないということだ。
そして、そのうちの二人がどの二日に倒れたのかも、俺には分かっている。
サイドカーからフェイが降りてきて、二日ぶりに口を開いた。
「坊主」
「ええ」
俺は振り返った。
「お前の仕事の番だ」
「わかっています、ここからは俺の領分だ」
湯屋の広間に、二十五人が寝かされていた。
宿の部屋は六つしかない。
足りなくなった分を板の間へ運んで、そこも埋まって、最後は洗い場の手前まで筵を敷いたのだという。
天井が高いおかげで匂いだけは籠もっていなかった。
俺は戸口で一度立ち止まって、全体を見た。
三年ぶりの門の外で、俺が最初にやったのは、二十五人を数えることだった。
「先生、誰から診てくれるんだ」
「奥からにする予定です」
「奥は重い症状の奴だぞ」
「だからこそ、奥からやります」
ベネットが道を開けるので、俺は上着を脱いで袖をまくり上げた。
肘まで、ロールと同じやり方だった。
一人目は四十くらいの女だった。
目を開けている。
「すいません、聞こえますか?」
「……はい」
「よかった。喋れますね」
「でも先生。手が、ないんです」
俺は彼女の右手を取って、指を一本ずつ曲げた。
関節は固着しておらず動く、筋も切れていない。
けれども、
「触っているのは、分かりますか」
「分かりません」
「痛いのは」
「痛くありません」
これは痺れではない。
感触が患者から消えている。
俺は彼女の爪を強く押した。
それでようやく眉が動いた。
身体の深いところの感覚だけが残っているようだ。
二人目。
三人目。
四人目で、俺は自分の口の中が乾いていることに気づいた。
全員、同じ順番で身体が壊れていた。
最初に口の周りと舌の違和感。
次に指先のしびれ。
それから手足へと。
遅れて目が霞み、物が二重に見えるようになる。
――そして。
「熱はありますか?」
俺は顔を上げてベネットに聞いた。
「熱?」
「一人でも熱を出した人はいますか」
「……いや、いない」
「本当ですか、ただの一人もですか」
「ああ、一人もだ。それが気味悪くてな」
俺は薬箱の方を見た。
蓋の割れた箱の中には、ネツサガールが十一本入っている。
砂の上で九本割った、二日かけて悔やんだ薬だ。
でもここでは、一本も要らないものだった。
俺が守ろうとして群れを散らしたあの箱は、この広間では最初から何の役にも立たない箱でしかなかった。
胸の中の重さが、軽くなるのではなく、種類を変えて沈んだ。
「先生」
「なんでしょうか」
「これは、治るのか?」
俺は答えなかった。
答えなかったのは、まだ答えを持っていなかったからだ。
だが、持っていない理由の半分は、もう分かっていた。
これは切れない類のものだ。
俺の手はよく動く。
腹を開けて、裂けた血管を縛って、組み間違えた心臓を組み直すことまでできる。
でもその手は、この広間では一つも使えない。
刃を入れる場所がどこにもない病気だった。
一番奥の筵に、その男はいた。
「ガロだ」
ベネットが低い声で言った。
「ハンターだ。ひと月の間ここにいる。この辺を巡る連絡船とは別の船を待ってた」
「彼が最初に倒れた人ですね」
「そうだ。三週間前になる」
俺は膝をついた。
男は目を開けていた。
口の端から唾液が糸を引いて、筵に落ちている。
喉が動いていない。
胸の上がり方が浅くて、腹がほとんど動いていない。
「ガロさん。俺の指、見えますか」
眼球がゆっくり動いた。
動いたが、瞼は落ちたままだ。
「分かるなら、瞬きを一度してください」
瞬きが返ってきた。
俺はそこで一度、目を閉じた。
分かる。
全部分かっている。
この人は、自分の身体が指の先から順番に自分のものでなくなっていくのを、三週間、一度も意識を失わないまま見ている。
「ベネットさん。この人は水を飲めていないんじゃない」
「? 同じことじゃないか」
「違います。彼は飲み込めないんです」
俺は男の顎の下に指を当てた。
嚥下の動きが起きていない。
「今、水を口に入れると、胃じゃなくて肺に入りかねない状態です。飲ませていたなら、今後は一番危ない行為になる」
「……すまん、飲ませてた」
「でしたら、今日からはやめさせてください」
俺は立ち上がって、広間全体を見渡した。
「フェイさん」
戸口の柱にもたれていた男が、顔を上げた。
「この人の上半身を起こします。手を貸してください」
「俺は看護婦じゃないぞ」
「知ってます。でも人手がないんです」
フェイは二秒ほど黙っていたが、それから歩くと彼は膝をついて、ガロの背中に腕を回した。
ライフルを扱う時と同じ手つきだった。
無駄がなくて、丁寧で、必要以上に触らない。
「もう少し右。頭を反らせないでください」
「これでいいか」
「ええ、大丈夫です」
俺は丸めた毛布を背中に噛ませた。
八年、危ない場所に降りてこなかった男が、他人の唾液で袖を濡らしていた。
でも本人はそのことに気づいていないようだった。
日が落ちてから、俺はベネットに帳面を出させた。
「宿帳はありますか?」
「ある。だがそれが何になるんだ」
「全部です。この三週間じゃなくて、二ヶ月分ほど」
彼は奥から分厚い綴じ帳を持ってきた。
開いて驚いた。
几帳面な字だった。
名前、人数、到着した日、発った日。
支払いの内訳まで欄が分かれている。
この人は三十年、毎日これをつけてきたのだ。
「ベネットさん。これは伝染じゃありません」
「なぜ言い切れるんだ?」
「患者の増え方です」
俺は指で欄を追いながら喋った。
「人から人へうつるものは、一人が二人になって、二人が四人になります。三週間で二十五なら、途中でもっと跳ねているはずだ。それが毎日きっちり一人ずつというのは、うつり方の形をしていない」
「じゃあ何だ」
「……毒です。それも少しずつ溜まるやつだ」
俺は帳面を裏返して、白い頁を出した。
「溜まるものなら、量の多い順に倒れます。つまり、ここに来て長く居た人ほど多くなる」
「もし俺の想定通りなら、倒れた順番は、この宿に着いた順番と同じはずです」
ベネットの手が止まった。
「それを……確かめられるのか?」
「あなたが三十年つけてきたもので確かめられます」
俺たちは広間の名前を一つずつ読み上げて、帳面の到着日を照らしていった。
フェイが名前を呼んで、俺が頁を繰って、ベネットが倒れた日を思い出す。
患者の容態もあり、確認するのに一時間かかった。
二十五人。
一人の例外もなく、到着した順に倒れていた。
そして、ガロが一番古い客だった。
ひと月前だ。
俺は帳面から手を離した。
「これで、水か、食い物か、器のどれかに絞れます」
「おい、うちの飯は――」
「まだ言わないでください。もう一つ確かめます」
俺はベネットの手を取った。
彼が反射的に引こうとしたので、俺は強く握った。
「俺が握った手、痺れませんか?」
「ちがう……ただの夏バテだ」
「口の周りは?」
「いや、それは――」
「ベネットさん」
確認が必要だ、俺は彼の指先を順番に押した。
親指の先の感覚が明らかに落ちていた。
薄いが、確実に落ちてきている。
「あなたにも入っています」
彼の顔から色が抜けていくのが分かった。
「厨房の人は。何人いますか」
「二人だ」
「全員呼んでください」
二人とも症状は軽かった。
軽かったが、二人ともだった。
一人は自分で「二週間前から箸を落とすようになった」と言った。
「どうして俺たちだけ軽いんだ?」
「量です」
俺は板の間に腰を下ろした。
「荒野を四日越えてきた人間は、着いた日に水を大量に飲みます。喉が渇いてるからだけじゃなくて、身体が枯れてるからです。うまい水ならなおさらだ、それを毎日続ける。あなた方は必要最小限しか飲まない」
ベネットが、ゆっくりと首を横に振った。
「そんな、水じゃない」
「どうして、なぜそうと言い切れますか」
「うちは井戸を使ってない。湧き水を引いてるんだ」
彼は壁の向こう、崖の上を指した。
「三十年、同じ水だぞ。俺の親父の代からずっと同じだ。三十年の間、誰も倒れなかったものが、なんで今更」
俺はその言葉を、四日前に一度聞いていた。
デルタ・リオの診療所で、この人の使いがまったく同じことを言った。
俺はあの時それを聞いて、井戸は薄いだろうと一度は判断した。
そして食い物か器なのだろうと考えたが、どうやら俺は間違えていたらしい。
「ベネットさん」
「なんだ」
「三十年同じなのは、水の通る道ですよ」
驚きに満ちて彼が俺を見た。
「湧き出る水そのものが三十年同じだと言える人は、この世に一人もいません」
この解決には、水源を調べる必要があるようだった。
長くなりすぎたので分割
後編の終わりまで、残り2話くらいの予定