『蒼』は荒野を駆ける   作:ぶっぱなす

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第五話 トンビは隼になる(中編1)

門が閉まる音は、思っていたよりずっと小さかった。

 

背後で一度軋んでそれきりだった、振り返らなかったのは別に意地ではない。

排気音が防壁に跳ね返らなくなった瞬間から、耳に入ってくる音の種類が全部入れ替わっていて、そちらに気を取られていただけだ。

 

風と、砂が車体を叩く音。

そして、自分の心臓の鼓動。

 

実に一年ぶりの、門の外だった。

 

俺は左のグリップを少しだけ開けると、街が用意した単車は素直に加速した。

オルガと二晩かけて仕込んだエンジンは、鍛冶屋の裏で五年錆びていたとは思えないほど正直に回る。

 

サイドカーのフェイは特に何も言わなかった。

 

膝の上に布を敷いて、その上にライフルを横たえて、片手を銃身に置いたまま前を見ている。

出発してから一言も喋っていない。

俺は三十分ほど我慢して、それから諦めて自分から口を開いた。

 

「フェイさん」

「……」

「フェイさん?」

「ああ、聞こえてる」

「返事をしてください」

「すまんが話すことがない」

 

思わず苦笑してしまう、風の音の方がまだ愛想があったくらいだ。

 

街を朝に出て正午を過ぎた頃、涸れた川筋を渡った。

俺は迷わず西寄りの浅いところを選んで、そのまま速度を落とさずに突っ切った。

車輪が石を弾く。

サイドカーの尻が一度跳ねて、すぐに落ち着いた。

 

「止まれ」

 

フェイが、街を出てから初めてまともに喋った。

 

「どうしました?」

「今の渡り方を、誰に教わった」

「教わってません。あそこが一番浅かったので」

「見て分かったのか」

「水が引いた跡の色が違いましたから」

 

フェイは俺の顔を見なかった。

視線を横へ一度だけ逸らして、それから川筋の方へ戻した。

人を見る時に必ず一拍そうする癖は、初対面の時と変わっていない。

 

「速度を落とせ。ここから南西は俺が言う通りに走れ」

「道が悪いんですか」

「道はいい。だからこそ寄ってくるんだ」

 

フェイの言っている意味は半分も分からなかった。

それでも俺は素直に速度を落とした。

八年荒野を歩いた人間が言う「寄ってくる」を、十一の俺が否定する、そんな理由はどこにもないからだ。

 

 

 

一日目の夜営は、風下の岩陰だった。

 

場所を決めたのはフェイだ。

俺には全部同じ岩に見えたが、彼は三つ目の岩陰の前で足を止めて「ここだ」と言った。

理由は聞かなかった。

聞いても「そういうもんだ」で終わる気がしたからだ。

 

火を熾して、夕食として干し肉を炙った。

 

フェイは軽く口にしただけだった。

それよりも布を広げ、遊底を抜いて、通し棒に布を巻き、銃身の中を覗いた。

俺はその手つきを見ながら、喉の奥で言葉を一度潰した。

 

床尾板の左の螺子はまだ緩んでいる、担ぎ直す時の肩の沈み方で分かる。

噛ませものを一枚入れて、木の痩せた分を埋めてやれば三十分で終わる仕事だ。

 

けれども言えば、たぶんまた同じことになる。

俺は干し肉を噛んで、余計なことを飲み込んだ。

 

「坊主」

「はい?」

「明日から一つだけ守れ、動くな」

 

彼は組み上げ直したライフルの遊底を鳴らした。

乾いた金属音が岩陰に短く反響した。

 

「俺が撃つまで、絶対に動くな。それだけだ」

「理由を聞いても、いいですか」

「聞くな」

「理由が分からないと、守れません」

「守れないなら、お前は連れて歩けん」

 

俺は黙ることにした、言い返す材料がなかったわけではない。

この人が理由を言わないのは意地悪だからではなく、説明する言葉を持っていないからなのだと、なんとなく分かってしまった。

 

「フェイさん、一つだけ聞いていいですか」

「内容による」

「八年、どうして一人だったんですか」

 

焚火が爆ぜる。

火に照り返された彼は答えなかった。

布を畳んで、ライフルを膝に抱えて、それから改めて干し肉に手を伸ばした。

 

「金が要る」

 

それだけ言って、彼は食い始めた。

俺はそれ以上聞かないことにした。

ハンターオフィスの支所の広場で同じ台詞を聞いた時から、その一行の裏側には人がいるのだろうと思っていた。

それでも十一の子供が、遠慮なしに踏み込んでいい場所ではないことくらいは分かる。

 

 

 

二日目の夕方、向かう途中でフェイが単車を止めさせた。

 

「まずいな、降りろ」

 

彼はサイドカーから出て、砂の上に膝をついた。

そこには何もなかった。

少なくとも俺には何も見えなかった。

 

「何かありますか?」

「ああ、七頭だ」

「……七頭?」

「昨日の夜、ここを通ってるやつらだ」

 

俺はしゃがんで同じ場所を見た。

言われてみれば、砂の表面がわずかに違う。

確かに風で均された面の上に、均される前の窪みが薄く残っていた。

だが、その数までは俺には読めなかった。

 

「どうして七だと分かるんですか」

「爪の食い込み方が二種類ある。前の三頭は落ち着いて歩いてる。後ろの四頭は詰めてる。詰めてる方が若い」

 

彼は立ち上がって、砂を払った。

 

「野犬型のバイオだ。この辺りに二年前からいる奴らだ」

「まずいですね、避けられませんか?」

「避けられはする。だがこちらが人だと分かれば夜に寄ってくる」

 

彼は南西の方角を指した。

 

「だから明日の朝、あの窪地で狩るぞ」

 

段取りの説明は短かった。

 

窪地の縁の一番高い岩にフェイが上がる。

俺は下の窪みで単車と荷の手前に伏せる。

そして、七頭全部が窪地に降りきるまで待つ。

 

「全部降りたら、向こう側から順に落とす。手前のやつは、どこから撃たれてるか分からんまま死ぬだろう」

「途中では撃たないんですね」

「撃ったら残りが散ってしまう」

「散ったら、どうなるんですか?」

「二度と固まらん……それだけだ、余計厄介になる」

「俺は何をすればいいですか」

 

彼は俺を見た。

今度は視線を逸らさなかった。

 

「何もするな」

「何も、ですか?」

「ああ、動くな。俺が撃つまで、絶対に動くなよ」

 

昨夜と同じ台詞だった。

違ったのは、今度は理由がついていたことだ。

 

 

 

三日目の夜明け前から、俺たちは伏せていた。

 

窪地は思ったより浅かった。

すり鉢の底に岩がいくつか転がっていて、その向こうに枯れた低木が固まっている。

俺の位置からは底が全部見える。

背後の少し離れた岩の裏に、単車と荷を寝かせてある。

 

最初の一頭が降りてきたのは、空が白み始めてすぐだった。

 

毛が半分抜け落ちていて、下の皮膚が黒く光っている。

顎だけが不釣り合いに発達していて、歩くたびに肩の骨が皮の下で回った。

噂に聞いていたより、ずっと大きい。

 

二頭目。

三頭目。

 

そこから、時間が止まった。

四頭目が降りてくるまでに、たっぷり一時間かかった。

太陽が縁から顔を出して、俺の背中を直接焼き始めた。

汗が眉から目に落ちる。

拭えない。

 

五頭目。

 

あと二頭もいる。

 

肘の下の砂が体温で温まって、その熱がそのまま腹に回ってくる。

指が痺れている。

呼吸を浅くしているせいだと分かっていても、深く吸う勇気が出ない。

 

上の岩を一度だけ盗み見ることにした。

 

フェイは動いていなかった。

本当に、一ミリたりとも動いていなかった。

頬付けの位置も、肘の角度も、伏せた時から何ひとつ変わっていない。

 

——この人は、こうやって八年やってきたのか。

 

そう思った瞬間、六頭目が縁のところで足を止めた。

そして向きを変えた。

窪地ではなく、俺の背後の岩の方へと。

 

単車の方へ。

 

まずい。

 

俺の心臓が、一度だけ大きく打った。

荷はサイドカーの後ろに括りつけたままなのだ。

その一番外側には薬箱が三つ。

帆布をかけて縄で締めてある状態だ。

 

その一番上の箱の中身を、俺は知っている。

 

ネツサガールが二十本。

ロールが最後に押し込んできた包みだ。

あの人は俺の方を見もせずに、あんたが使うんじゃないよ、と言った。

向こうで足りなくなった時のためだ、と。

 

六頭目の顎が帆布にかかった。

布が裂ける音がして、反射的に俺は引き金を引いた。

気がついた時には拳銃はもう腰から出ていて、肘は伸びきっていて、昇順は獣の耳の後ろに乗っていた。

考えるより先に形が決まっていた。

ボーグに教わった通りの、一番正しい形だった。

 

一発。

 

黒い塊が横に倒れた。

一度も跳ねなかった。

きれいに入った証拠だ。

 

けれども、窪地の底から、音が消えて五頭が、同時に散った。

二秒もかからなかった。

枯れ木の間へ、岩の陰へ、縁の向こうへ。

黒い背中が視界から抜けていく速さは、生き物というより水のようだった。

 

銃声は、一発も追いかけてこなかった。

俺は上を見た。

 

フェイは動いていなかった。

撃つ姿勢のまま、頬をつけたまま、まだ窪地の底を見ていた。

そこにはもう何もいなかった。

 

それから彼はゆっくりと頬を離して、安全装置を戻した。

岩を降りてくるまでに、たっぷり一分かかった。

 

「何発撃った」

 

最初の言葉がそれだった。

声は静かだった。

 

「一発です」

「当たったか」

「はい……当たりました」

「そうだろうな。お前は外さん」

 

彼は俺の横を通り過ぎて、倒れた六頭目のところへ行った。

しゃがんで、耳の後ろの穴を指で確かめて、それから立ち上がった。

 

「あれが何をしてたか、分かるか」

「薬箱を、噛んでました」

「囮だ」

 

俺は、その言葉の意味をすぐには飲み込めなかった。

 

「群れで狩る獣はな。一頭だけ先に出して、こっちが動くかどうかを見る」

 

彼は砂を払った。

 

「動いたら、残りは全部逃げる。動かなかったら、全部降りてくる。……八年で二十回は見た」

「じゃあ、あの箱は」

「囮に食わせるための箱だ。あんなもん、帆布が裂けるだけだ」

 

俺は自分の手の中の拳銃を見た。

まだ熱い。

 

「お前の師匠は、銃を何だと言った」

 

フェイの声が、そこで初めて低くなった。

 

「……的に当てる道具じゃない、と」

「続きは」

「相手より先に、決められた形になる道具だと」

「今のは、どっちだ」

 

答えられなかった。

 

俺は的に当てた。

それだけをやった。

一発で、正確に、教わった通りの形で。

 

そして、七頭のうち六頭を取り逃がした。

 

「あいつらは付いてくるぞ」

 

彼はライフルを担ぎ直した。

肩の当たりが一度沈むのを、俺の目はまた勝手に見つけてしまった。

 

「二日は付いてくる。二度と固まらん、夜も寄ってくる……そうなると、俺はもう撃てん」

「すみません、早計でした」

「謝るな」

 

フェイは俺を見なかった。

そこから二日、この人は俺と口をきかなかった。

 

その夜は、火を焚かなかった。

 

正確には、俺が焚こうとしてフェイに止められた。

彼は無言で首を横に振って、それから岩の隙間を指した。

そこに寝ろという意味だった。

 

俺は毛布にくるまって岩に背中を預けたが、流石に眠れるはずがなかった。

 

暗くなって半刻もしないうちに、最初の目が見えた。

低木の向こうで、二つ並んで浮いている。

瞬きをしない、少し右へ移動してまた止まる。

 

フェイは撃たなかった。

 

俺は上を見た。

彼は昼と同じ岩の上で、昼と同じ姿勢のまま、銃口だけを目の方へ向けている。

撃てる距離だった。

少なくとも、この人なら撃てる距離だった。

 

やがて目が消えた。

 

一刻ほどして、今度は逆側に三つ現れた。

 

それも消えた。

 

一晩でそれが六回あった。

 

翌朝、俺は結局一睡もできなかった。

走り出してから気づいたが、握力が半分も出ていない。

それでも単車は走った。

 

その日に進めた距離は、予定の半分だった。

 

痕跡は昼のうちも見えた。

今度は俺にも分かるほど堂々と、進路の左右に爪痕が並んでいた。

向こうは隠す気がない。

 

「フェイさん」

 

俺は昼の休憩で一度だけフェイに声をかけた。

 

「一頭ずつなら、撃てるんじゃないですか」

 

彼は水袋の口を閉じて、それを荷に戻した。

そして何も言わずにサイドカーへ戻った。

 

答えは夜になって分かった。

 

撃てば音が出る。

音が出れば、こちらの位置が確定する。

奴らは一頭ずつ試しに来て、こちらが撃つかどうかを見ている。

初日と同じことを、今度は夜通しやっているのだ。

 

一頭撃てば、その一頭は死ぬ。

そして残りの五頭が、俺たちの居場所を正確に憶える。

 

だから彼は撃たない。

 

俺が二日かけてようやく理解したその理屈を、フェイは初日の朝に、俺の背中を見ながら分かっていた。

 

 

 

二晩目に、荷がやられた。

 

来たのは三頭だった。

正面から一頭、そして背後の岩を回って二頭。

初めて同時に襲撃された。

 

フェイのライフルが鳴ったのは、俺が身を起こすより早かった。

 

正面の一頭が横に倒れた。

音が岩に跳ね返って、荒野の広さがそこで一度だけ形になった。

 

だが背後の二頭は止まらなかった。

 

単車の後ろで縄が鳴った。

帆布が引き裂かれる音がして、木の箱が地面に落ちる音が続いた。

二頭目のライフルが鳴った時には、黒い背中はもう低木の向こうへ抜けていた。

 

静かになった。

 

俺は火のない暗がりで、四つん這いになって砂を探った。

薬箱は三つとも倒れていた。

一番上に括ってあったやつは、蓋が外れて中身が半分こぼれている。

 

指先に、丸いものが当たった。

拾い上げる。

ネツサガールの瓶だ。

 

その隣に、ガラス片があった。

俺は暗いまま、砂の上を掌で撫でていった。

医者の指というのは便利にできていて、見えなくても割れたものと割れていないものを取り違えない。

 

無事な瓶を一本ずつ毛布の上に並べた。

 

十一本、逆に言えば九本が割れていた。

 

箱の底に、折り畳んだ紙が敷いてあった。

俺はそれを開いて、夜目に透かした。

字は読めなかった。

だが誰の字かは分かった。

 

ロールだ。

 

翌朝に明るいところで読んだら、そこには使う順番と、俺が忘れそうな量の目安が書いてあった。

最後の行だけ、他より大きく書いてあった。

 

『あんたが使うんじゃないよ』

 

俺はそれを畳んで、上着の内側に入れた。

レナの砂糖漬けの隣だった。

 

初日にあの一発を撃たなければ、七頭は窪地で死んでいた。

七頭が死んでいれば、二晩目の襲撃はそもそも存在しなかった。

存在しなければ、この九本は割れていない。

 

理屈としては、それだけの話だ。

俺は割れたガラスを一箇所に集めて、砂をかけた。

 

そうして群れが離れたのは、その二日後の昼過ぎだった。

 

理由は分からない。

フェイは「縄張りの端だろう」と一言だけ言った。

それから彼はまた黙った。

 

俺は速度を上げた。

上げられるだけ上げた。

サイドカーの尻が二度浮いて、そのたびにフェイが手すりを掴んだが、何も言わなかった。

 

それでも足りない。

俺は走りながら指を折った。

 

使いの男が海の家を出た日に、十四人患者がいた。

あの人がデルタ・リオまで急いで三日かかった。

街で二日経過し、本来なら、ここまで四日だ。

でも俺たちは、一日遅れている。

十四人に、十日を足す。

俺の読み通り一日一人ずつなら、二十四人か、二十五人になっているだろう。

 

でも俺が遅れなければ、その数字は小さくなっていた筈なのだ。

 

 

 

潮の匂いに気づいたのは、日が傾き始めた頃だった。

 

鉄錆と砂しか知らない鼻には、最初それが匂いだと分からなかった。

空気が湿っていて、少し重い。

呼吸をするたびに舌の奥に薄く塩が残る。

 

丘をひとつ越えたところで、いきなり視界が開けた。

 

海だった。

前世で何度も見たはずのものが、そこにあった。

灰色でも青でもない、鈍く光る面がどこまでも続いていて、その手前に建物がひとつ張りついている。

流木と板と、たぶん船だったものを継ぎ合わせた平屋だ。

でも今は煙突から煙が上がっていない。

軒先に干してある魚が、干したまま忘れられている。

 

「シオン……先生か」

 

戸口に男が立っていた。

 

六十近い。

でも腕は海の男らしく丸太のように太くて、前掛けに魚の鱗が乾いてこびりついていた。

声は大きいが、その大きさに中身がついてきていない。

 

「ベネットだ」

「シオンです。遅れました」

「来たならいい。いや、来ただけでいい」

 

彼は俺の背丈を見て、それから何も言わなかった。

十一の子供が単車から降りてきたことについて、この人は一度も文句を言わなかった。

いや、たぶんもう文句を言う気力が残っていないのだろう。

 

「使いの男は」

「デルタ・リオに置いてきました。三日間眠っていなかったので」

 

俺は荷から薬箱を下ろした、一つは犬の襲撃で蓋が割れたままだ。

 

「ベネットさん。患者は何人ですか」

 

彼は答えるまでに、少し間を置いた。

 

「二十五人だ」

 

俺は箱を持ったまま動かなかった。

俺の予想と数字が合ってしまった。

合ってしまうということは、この三週間、何ひとつ事態は変わっていないということだ。

そして、そのうちの二人がどの二日に倒れたのかも、俺には分かっている。

 

サイドカーからフェイが降りてきて、二日ぶりに口を開いた。

 

「坊主」

「ええ」

 

俺は振り返った。

 

「お前の仕事の番だ」

「わかっています、ここからは俺の領分だ」

 

 

 

湯屋の広間に、二十五人が寝かされていた。

 

宿の部屋は六つしかない。

足りなくなった分を板の間へ運んで、そこも埋まって、最後は洗い場の手前まで筵を敷いたのだという。

天井が高いおかげで匂いだけは籠もっていなかった。

 

俺は戸口で一度立ち止まって、全体を見た。

三年ぶりの門の外で、俺が最初にやったのは、二十五人を数えることだった。

 

「先生、誰から診てくれるんだ」

「奥からにする予定です」

「奥は重い症状の奴だぞ」

「だからこそ、奥からやります」

 

ベネットが道を開けるので、俺は上着を脱いで袖をまくり上げた。

肘まで、ロールと同じやり方だった。

 

一人目は四十くらいの女だった。

目を開けている。

 

「すいません、聞こえますか?」

「……はい」

「よかった。喋れますね」

「でも先生。手が、ないんです」

 

俺は彼女の右手を取って、指を一本ずつ曲げた。

関節は固着しておらず動く、筋も切れていない。

けれども、

 

「触っているのは、分かりますか」

「分かりません」

「痛いのは」

「痛くありません」

 

これは痺れではない。

感触が患者から消えている。

 

俺は彼女の爪を強く押した。

それでようやく眉が動いた。

身体の深いところの感覚だけが残っているようだ。

 

二人目。

三人目。

 

四人目で、俺は自分の口の中が乾いていることに気づいた。

全員、同じ順番で身体が壊れていた。

 

最初に口の周りと舌の違和感。

次に指先のしびれ。

それから手足へと。

遅れて目が霞み、物が二重に見えるようになる。

 

――そして。

 

「熱はありますか?」

 

俺は顔を上げてベネットに聞いた。

 

「熱?」

「一人でも熱を出した人はいますか」

「……いや、いない」

「本当ですか、ただの一人もですか」

「ああ、一人もだ。それが気味悪くてな」

 

俺は薬箱の方を見た。

 

蓋の割れた箱の中には、ネツサガールが十一本入っている。

砂の上で九本割った、二日かけて悔やんだ薬だ。

 

でもここでは、一本も要らないものだった。

俺が守ろうとして群れを散らしたあの箱は、この広間では最初から何の役にも立たない箱でしかなかった。

胸の中の重さが、軽くなるのではなく、種類を変えて沈んだ。

 

「先生」

「なんでしょうか」

「これは、治るのか?」

 

俺は答えなかった。

 

答えなかったのは、まだ答えを持っていなかったからだ。

だが、持っていない理由の半分は、もう分かっていた。

 

これは切れない類のものだ。

 

俺の手はよく動く。

腹を開けて、裂けた血管を縛って、組み間違えた心臓を組み直すことまでできる。

でもその手は、この広間では一つも使えない。

 

刃を入れる場所がどこにもない病気だった。

 

 

 

一番奥の筵に、その男はいた。

 

「ガロだ」

 

ベネットが低い声で言った。

 

「ハンターだ。ひと月の間ここにいる。この辺を巡る連絡船とは別の船を待ってた」

「彼が最初に倒れた人ですね」

「そうだ。三週間前になる」

 

俺は膝をついた。

男は目を開けていた。

 

口の端から唾液が糸を引いて、筵に落ちている。

喉が動いていない。

胸の上がり方が浅くて、腹がほとんど動いていない。

 

「ガロさん。俺の指、見えますか」

 

眼球がゆっくり動いた。

動いたが、瞼は落ちたままだ。

 

「分かるなら、瞬きを一度してください」

 

瞬きが返ってきた。

俺はそこで一度、目を閉じた。

 

分かる。

全部分かっている。

この人は、自分の身体が指の先から順番に自分のものでなくなっていくのを、三週間、一度も意識を失わないまま見ている。

 

「ベネットさん。この人は水を飲めていないんじゃない」

「? 同じことじゃないか」

「違います。彼は飲み込めないんです」

 

俺は男の顎の下に指を当てた。

嚥下の動きが起きていない。

 

「今、水を口に入れると、胃じゃなくて肺に入りかねない状態です。飲ませていたなら、今後は一番危ない行為になる」

「……すまん、飲ませてた」

「でしたら、今日からはやめさせてください」

 

俺は立ち上がって、広間全体を見渡した。

 

「フェイさん」

 

戸口の柱にもたれていた男が、顔を上げた。

 

「この人の上半身を起こします。手を貸してください」

「俺は看護婦じゃないぞ」

「知ってます。でも人手がないんです」

 

フェイは二秒ほど黙っていたが、それから歩くと彼は膝をついて、ガロの背中に腕を回した。

ライフルを扱う時と同じ手つきだった。

無駄がなくて、丁寧で、必要以上に触らない。

 

「もう少し右。頭を反らせないでください」

「これでいいか」

「ええ、大丈夫です」

 

俺は丸めた毛布を背中に噛ませた。

八年、危ない場所に降りてこなかった男が、他人の唾液で袖を濡らしていた。

でも本人はそのことに気づいていないようだった。

 

 

 

日が落ちてから、俺はベネットに帳面を出させた。

 

「宿帳はありますか?」

「ある。だがそれが何になるんだ」

「全部です。この三週間じゃなくて、二ヶ月分ほど」

 

彼は奥から分厚い綴じ帳を持ってきた。

 

開いて驚いた。

几帳面な字だった。

名前、人数、到着した日、発った日。

支払いの内訳まで欄が分かれている。

 

この人は三十年、毎日これをつけてきたのだ。

 

「ベネットさん。これは伝染じゃありません」

「なぜ言い切れるんだ?」

「患者の増え方です」

 

俺は指で欄を追いながら喋った。

 

「人から人へうつるものは、一人が二人になって、二人が四人になります。三週間で二十五なら、途中でもっと跳ねているはずだ。それが毎日きっちり一人ずつというのは、うつり方の形をしていない」

「じゃあ何だ」

「……毒です。それも少しずつ溜まるやつだ」

 

俺は帳面を裏返して、白い頁を出した。

 

「溜まるものなら、量の多い順に倒れます。つまり、ここに来て長く居た人ほど多くなる」

「もし俺の想定通りなら、倒れた順番は、この宿に着いた順番と同じはずです」

 

ベネットの手が止まった。

 

「それを……確かめられるのか?」

「あなたが三十年つけてきたもので確かめられます」

 

俺たちは広間の名前を一つずつ読み上げて、帳面の到着日を照らしていった。

フェイが名前を呼んで、俺が頁を繰って、ベネットが倒れた日を思い出す。

患者の容態もあり、確認するのに一時間かかった。

 

二十五人。

 

一人の例外もなく、到着した順に倒れていた。

 

そして、ガロが一番古い客だった。

ひと月前だ。

 

俺は帳面から手を離した。

 

「これで、水か、食い物か、器のどれかに絞れます」

「おい、うちの飯は――」

「まだ言わないでください。もう一つ確かめます」

 

俺はベネットの手を取った。

彼が反射的に引こうとしたので、俺は強く握った。

 

「俺が握った手、痺れませんか?」

「ちがう……ただの夏バテだ」

「口の周りは?」

「いや、それは――」

「ベネットさん」

 

確認が必要だ、俺は彼の指先を順番に押した。

親指の先の感覚が明らかに落ちていた。

薄いが、確実に落ちてきている。

 

「あなたにも入っています」

 

彼の顔から色が抜けていくのが分かった。

 

「厨房の人は。何人いますか」

「二人だ」

「全員呼んでください」

 

二人とも症状は軽かった。

軽かったが、二人ともだった。

一人は自分で「二週間前から箸を落とすようになった」と言った。

 

「どうして俺たちだけ軽いんだ?」

「量です」

 

俺は板の間に腰を下ろした。

 

「荒野を四日越えてきた人間は、着いた日に水を大量に飲みます。喉が渇いてるからだけじゃなくて、身体が枯れてるからです。うまい水ならなおさらだ、それを毎日続ける。あなた方は必要最小限しか飲まない」

 

ベネットが、ゆっくりと首を横に振った。

 

「そんな、水じゃない」

「どうして、なぜそうと言い切れますか」

「うちは井戸を使ってない。湧き水を引いてるんだ」

 

彼は壁の向こう、崖の上を指した。

 

「三十年、同じ水だぞ。俺の親父の代からずっと同じだ。三十年の間、誰も倒れなかったものが、なんで今更」

 

俺はその言葉を、四日前に一度聞いていた。

 

デルタ・リオの診療所で、この人の使いがまったく同じことを言った。

俺はあの時それを聞いて、井戸は薄いだろうと一度は判断した。

そして食い物か器なのだろうと考えたが、どうやら俺は間違えていたらしい。

 

「ベネットさん」

「なんだ」

「三十年同じなのは、水の通る道ですよ」

 

驚きに満ちて彼が俺を見た。

 

「湧き出る水そのものが三十年同じだと言える人は、この世に一人もいません」

 

この解決には、水源を調べる必要があるようだった。




長くなりすぎたので分割
後編の終わりまで、残り2話くらいの予定
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