『蒼』は荒野を駆ける   作:ぶっぱなす

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第六話 トンビは隼になる(中編2)

夜、俺は広間の隅でベネットたちに向けた手順書を書いた。

紙が足りなかったので、ベネットには宿帳の白紙の頁を破らせた。

彼は流石に少し嫌な顔をしたが、仕方がないと破いた。

 

一枚目に、湧き水を止めること。

明日から湧き水そのものは一滴も使わない、飲ませない、多分煮ても駄目だと考えた。

現状は海水を炊いて蒸留することが必要だろう、その手順を図で描いた。

 

二枚目に、ガロの世話の順番を書いた。

半刻ごとに向きを変えること、唾液を吸い取ること、そして口から何も入れないこと。

胸が止まりかけたらどうするかも書いた。

 

三枚目に、残り二十四人の状態の見分け方を書いた。

どの症状が出たら順番と重要度を繰り上げるべきか。

俺がこのままいなくなった時には、誰を呼ぶべきか。

 

書きながら、渡された薬に書かれたロールの字を思い出していた。

あの人は俺に、使う順番と量の目安を書いて寄越した。

 

今、俺は同じことをしている。

 

自分がここにいない時間があることを前提にして、物を書いている。

三年間、デルタリオでは俺はそれを一度もやらなかった。

自分がその場にいればいいと思っていたからだ、でもそれではいけないのだ。

 

書き終えて帳面を返そうとした時、開いた頁が目に入った。

到着日の欄ではない。

ベネットが後から書き足した日の欄だった。

 

一番下の二行。

 

俺が窪地で一発撃ってしまった翌日と、その次の日だ。

名前がさらに二つ、並んでいた。

 

「……」

 

俺は黙って帳面を閉じた。

俺の射撃の冴えを証明した、それだけのための紙がそのまま請求書になっていた。

 

 

 

翌朝になって、俺は海の家の水を止めさせることにした。

樋を外して、湧き水を建物の手前で地面に逃がすようにし、台所の甕を全部空にさせて、洗い場の水も抜いた。

ベネットは黙って見ていたが、最後の甕を倒す時だけ目を逸らした。

 

三十年の間、一日も止めたことのないと誇るだけのことはある、きれいな水だった。

 

続けて、午前中は工具を握って過ごした。

厨房の一番大きな鍋に、船の部品だった銅の管を継いだ。

継ぎ目は鉛と布で巻いて、外から水をかけて冷やす。

海水を炊いて、上がった湯気を管の中で戻す。

 

原理は前世の小学生でも知っているほど単純なものだった。

けれども、問題は実際に使う道具だ。

学校の実験機材のように整っているわけではない、一から作る必要がある。

ここで、オルガに二年半の間仕込まれた指が勝手に動いた。

 

昼過ぎに蒸留器の一台目が動いた。

 

「これで、一日にどれくらい取れる」

「だいたい二人分になりますね」

 

ベネットの顔が歪んだ。

 

「おい、二十五人いるんだぞ」

「だから三台作ります。それでも六人分だ」

「全然足りんじゃないか」

「はい、足りません。だから早急に原因を特定します」

 

俺は鍋の底を押さえながら答えた。

 

「ベネットさん。元から貯めてあった問題ない時の分と酒、あとは魚から絞れるだけ絞ったとして、それで何日保ちますか?」

「……四日だ。それ以上は死人が出る」

「わかりました、四日ですね」

 

原因である水を止めた瞬間から、別の時計が動き始めたのが分かった。

それまでは毎日一人ずつ倒れる時計だった。

今度は、四日で全員が渇いて死ぬ、そういう時計だ。

 

「先生。俺は船を出す。西の入り江まで行けば水がある」

「そこまでいくのに何日かかりますか?」

「往復で六日ほど……いや、二日足りんか」

 

ベネットはそこで言葉を切って、それから自分で首を横に振った。

彼は前掛けで手を拭いた。

 

「それに、あの舟は今出せん。船着きの手前に岩が出た。去年はなかったやつだ」

「岩、ですか?」

「潮で砂が動いたんだろう。この辺りはよくある事だ」

 

俺はその言葉を聞き流した。

聞き流したことをで何が起きるか、夕方に思い知ることになる。

 

 

 

フェイと共に水の道を辿ったのは、その日の午後になってからだった。

崖の腹を斜めに登っていく。

高さは百歩ぶんもないが、それでも足場は悪い。

 

「先に行くぞ」

 

言いながらフェイは俺を追い越して、岩の割れ目に手をかけた。

そこから先の登り方が、素人目にも違った。

三点で身体を支えて、次の手を出す前に必ず足の位置を決める。

一切の迷いがない。

八年、岩の上を仕事場にしてきた男の登り方だった。

 

「フェイさん。速いですね」

「……岩は俺の場所だからな」

「はい、知ってます」

 

彼は答えずに、ただ上から手を伸ばした。

俺はその手を取った。

三日ぶりに、この人が俺に触れたとその時に気づいた。

 

登りきったところに、湧き口があった。

 

岩の割れ目から水が滲み出して、掘られた溝を通って落ちている。

湧き出る量は多くない。

だがこれが三十年分の暮らしを支えてきた水なのだ。

 

割れ目の奥は、ほんのり薄暗かった。

俺は割れ目に警戒しながら顔を近づけた。

 

「フェイさん」

「なんだ」

「奥が、中空だ……空間が空いてます」

 

そして俺は、匂いに気づいた。

潮ではない、魚でもない、そして腐った肉とも違う。

生ぐさく、鼻の奥を刺す匂いだった。

 

割れ目の奥の洞窟は思ったより広かった。

 

入り口だけが狭かったようだ。

四つん這いで五歩ほど進むと、いきなり天井が上がって立てるようになった。

ベネットに借りたランプを掲げると、奥に水たまりがあった。

 

これが湧き水の元だ。

岩の底から染み出して、浅く溜まって、割れ目へ流れていく。

その水面に、白いものが浮いていた。

 

「これは、魚か」

 

フェイが言った。

 

指の長さもない小魚が、腹を上にして何匹も浮いている。

どれも身体が白く抜けていた。

色素が抜けたのではなく、身が煮えたような白さだった。

俺はランプを下ろして、水たまりの縁にしゃがんだ。

 

そして、発見する。

 

「そこの岩だ……岩じゃない」

 

ランプをさらに近づけた。

 

最初は確かに岩に見えた。

灰色で、表面がざらついていて、苔のような染みさえもある。

けれども俺は手を伸ばして、それに触れた。

 

軽かった。

 

指で押すと、乾いた音を立ててわずかに動いた。

中が空だった。

 

「フェイさん、こっちを持ってください」

 

フェイと二人がかりでその岩を起こした。

殻だった。

 

節が四つ。

その先に、鋏の抜け殻もふたつ。

片方は俺の胴くらいある巨大なものだった。

そして上のほうに、細い管が二本突き出している。

先端が丸く膨らんでいた。

 

これは眼だ。

 

柄の先についた眼の、抜け殻だった。

 

「……甲殻類ですね、間違いない」

 

俺は自分の声が乾いているのに気づいた。

 

殻を裏返した。

背中側の縁が、ぐるりと一周裂けている。

内側から押し開いた形だった。

 

「脱皮です。ここで脱いでる」

「ああ、デカいな」

「いえ。これは脱ぐ前の殻です」

 

俺は殻の縁を指でなぞった。

 

「脱いだ後のほうが、必ず大きくなる」

 

フェイが黙って頷いた。

俺は立ち上がって、水たまりの方へ戻った。

そして、右手の人差し指を水につけ一滴だけ指の腹に乗せて、舌の先に当てた。

三つ数えるより早かった。

 

舌先が消えた。

痺れではない。

そこに舌があるという感覚だけが、ぽろりと落ちた。

即座に俺は口を開けて、唾液を全部吐き出した。

 

「お前!」

 

肩を掴まれた。

引き起こされて身体ごと回される、背中が岩に当たった。

フェイが俺の襟を掴んでいた。

 

「今、何をした!」

「確かめました」

「何を飲んだんだ」

「飲んでません。舌に当てただけです」

 

彼の顔が、初めて崩れていた。

四日間ずっと石みたいだった男が、目を見開いて俺を睨んでいる。

息が上がっている。

 

「お前、医者だろうが」

「医者だからこそ、舐めたんです」

 

俺は彼の手首に自分の手を添えた。

 

「あの広間の二十五人が、最初に何を失ったか知ってますか。舌です。全員、口の周りと舌からきてる」

 

フェイの手の力が、少しだけ緩んだ。

 

「同じものが同じ順番で起きるなら、水で間違いない……一滴なら、四半刻で戻ります。二十五人分の答えがそれで買える」

「もしお前が倒れたらどうするんだ」

「その時は、これが原因だという証明になります」

 

そこまで聞いてようやく、彼は俺を離した。

そして俺の胸を、指の背で一度だけ叩いた。

 

「気に入らんな」

「ええ……よく言われます」

 

四半刻後、舌は戻った。

戻るまでの間、フェイは一度も俺から目を離さなかった。

俺はそのことを、後になってから思い出すことになる。

この人がこの旅で最初に声を荒らげたのは、獲物のことでも金のことでもなく、俺の身体のことだった。

 

 

 

水の湧き場から殻を片付けて浜に降り、俺は蟹を割った。

拳ほどの、どこにでもいる蟹だ。

同行していたベネットに頼んで五匹ほど取ってもらった。

 

俺は板の上でそれを開いた。

 

甲を外して、鰓を左右に振り分ける。

その内側の、中央よりやや後ろ。

灰色の小さな袋が拍動している。

 

心臓だ。

 

「先生。何を見てるんだ」

「作りです」

 

俺は指先で位置を示し、洞窟から持って降りた抜け殻の破片を板の横に並べた。

 

「この蟹の甲と、あの殻の節の並びが同じです。倍率が違うだけだ」

 

俺は板に炭で線を引いた。

蟹の形。

その横に、抜け殻の形。

同じ場所に印をつける。

 

「甲と身体の継ぎ目は、普段は閉じてます。畳んでるから」

 

俺は蟹を持ち上げて、鋏を上げる形にしてみせた。

前が持ち上がる。

甲の縁と、その下の柔らかい膜の間が開く。

 

「鋏を振り上げると、ここが開く」

 

俺は開いた隙間を指で示した。

 

「掌ぐらいだと思います。正面の、下から見上げた角度でしか見えない」

 

フェイは板を覗き込んでいた。

 

腕を組んで、炭の線を目で追っている。

射手の目だった。

 

「時間は」

「一秒あるかどうかです」

「上からは」

「見えません。上からは背中しかない」

 

彼は顔を上げた。

 

「同じ作りだって保証はあるのか」

「ありません」

 

俺は正直に答えた。

 

「蟹五匹と、抜け殻一つです。それと貰い物の知識だけで喋ってます」

 

フェイは笑わなかった。

けれども怒りもしなかった。

ただ、板の上の線をもう一度見る。

 

そうしている様を見ているうちに俺は思い出した。

デルタ・リオの支所の壁だ。

俺は三年間、あそこへ行くたびに壁の手配書を端から全部読んでいた。

賞金を稼ぐためではない。

どこで何が死んでいるかを知るためだった。

 

確か一番上の段の、右から三枚目にあった。

紙が古くて、角が丸くなっていたやつ。

 

絵が下手だった。

描いた人間が実物を見ていないのが分かる絵だ。

背中に、四角い箱のようなものを背負った蟹の絵。

 

「フェイさん」

 

俺は板の間で顔を上げた。

 

「支所の壁の、一番上の段に」

「ヤドヌシだ」

 

彼は即答した。

火を見たまま、こちらを見もしなかった。

 

「西の海岸線だ。五年前から出てる。一万二千G」

「一万二千」

「討伐困難の判が押してある」

 

彼は膝の上のライフルを、指の腹で撫でた。

 

「あれに手を出した奴を三人知ってる。二人は帰ってきた」

「その二人は、どうやって撃ったんですか」

「上からだ」

 

火が爆ぜた。

 

「岩に登って、背中を撃った。……全員だ」

 

俺は、その言葉の意味が全身に降りてくるのを待った。

五年間、誰も獲れなかった賞金首。

理由は簡単だった。

腕のいい奴ほど、いい場所へ登ったからだ。

そこからでは、クルマなしでこの殻は破れない。

 

 

 

翌日の夕方、俺たちは船着きの北の端にいた。

 

「あそこです」

 

ベネットの甥であるラスが示した。

十七か十八で俺より上、背だけ伸びて肩がまだ追いついていない。

海の家で一番元気に動けるのがこいつだというのが、この場所の今の状況を全部説明していた。

 

船着きの北の端に、岩肌が海へ落ちている。

その根元に、黒い口が開いていた。

 

「潮が引いてる時だけ入れます。中は上まで繋がってるはずです」

「上って、崖の水の湧き口ですか」

「たぶん。子供の頃、蟹取りで奥まで行ったことがある」

 

俺は高さを目で測った、大人が屈めば入れるだろう。

だが、あの抜け殻はここを通らない。

 

「ラスさん。ここより大きい口はありませんか」

「ない、と思います」

 

俺は砂に膝をついて、口の縁を見た。

岩が新しく欠けている箇所があった、それも上下ではなく左右に広く。

何かが無理やり通った跡だった。

 

「フェイさん!」

 

俺は振り返った。

彼は撃つための場所を既に選び終えていた。

 

船着きの手前、波打ち際から二十歩ほどのところに、岩がひとつ突き出している。

腰の高さの倍はある。

洞窟の口を、真横から見下ろせる位置だ。

 

「ああ、あそこに上がる」

「射線は」

「口の正面から左に四十度。出てきたところを頭から取れる筈だ」

 

彼はライフルを担ぎ直して、歩き出した。

俺とラスは、そこから二十歩ほど下がった流木の陰に伏せた。

 

日が落ちかけていた。

 

海の色が鈍くなって、砂がまだ昼の熱を持っている。

潮は引いている、風は海から陸へ吹き付けている。

 

俺は待った、今度こそ待った。

指が動きそうになるたびに、あの窪地の朝を思い出した。

肘が伸びきっていた感触も、黒い塊が横に倒れた時の音も、全部憶えている。

 

半刻。

 

一刻。

 

何も出てこない。

 

「先生」

 

ラスが小さい声で俺に言った。

 

「奥にいるんでしょうか」

「ああ、たぶん」

「じゃあ、出てくるまで待つんですね」

「そうです、ここで仕留める」

 

自分の言葉に、俺は少しだけ安心した。

大丈夫、俺は待てている。

 

その時、風向きが変わった。

 

海からの風が止んで、陸のほうから戻ってきた。

ぬるい空気が背中を撫でて、砂の熱を巻き上げた。

 

嫌な匂いがした。

生ぐさくて、鼻の奥を刺す匂いだ。

 

俺は顔を上げた。

 

洞窟の口は、風下にある。

そこから匂いが来るはずがない。

 

俺はゆっくりと首を回した。

匂いは、右から来ていた。

 

フェイの上がっている岩の方からだった。

 

「……あ」

 

声が出た。

 

そこからの数秒を、俺は何度も反芻することになる。

俺の目は、勝手に仕事を始めていた。

 

その岩には、帯がない。

 

海際の岩には必ず、潮の引いた高さに貝と海藻の帯ができる。

船着きの他の岩には全部それがある。

黒緑の線が、判で押したように同じ高さに並んでいる。

 

あの岩にだけ、それがなかった。

根元の砂が、環になって乱れている。

満ち潮なら均される乱れ方だ。

均されていないということは、前の満ち潮より後についた跡だということになる。

 

とすると、半日以内だ。

 

そして、岩と砂の間に影がなかった。

つまり、その岩は置かれているのではない。

埋まっているのだ。

 

ベネットは言っていたじゃないか。

 

船着きの手前に岩が出た、と。

去年はなかったやつだ、と。

潮で砂が動いたんだろう、と。

 

俺はそれを聞き流した、水とは関係ないだろうと聞き逃してしまった。

 

「フェイさん」

 

俺は流木の陰から半身を起こした。

 

「そこから降りてください」

 

岩の上の影が動いた。

 

「……何だと?」

「降りてください。一刻も早く」

「断るぞ」

 

その返事は、あまりにも速かった。

 

「俺は岩の上から降りない。言ったはずだ」

「違うんです、フェイさん」

 

俺は立ち上がった。

 

「その岩、生きてます。多分ヤドヌシだ」

 

砂が動いた。

その時音はしなかった。

 

最初に起きたのは、俺の足の裏の感覚だった。

三十歩離れた場所の砂が、こちらへ向かって一度だけ膨らんだ。

 

それから、岩が持ち上がった。

 

砂が滝みたいに落ちた。

落ちた下から出てきたのは、灰色の岩ではなかった。

 

鉄だった。

 

四角い。

継ぎ目に鋲が打ってある。

角の落ち方が、風で削れたものではない。

 

これは戦車の残骸だ。

 

戦車の車体だったものが、丸ごと背中に乗っていた。

その下から節が現れて、その節から脚が生えて、脚が砂を掴んだ。

 

前が持ち上がる。

 

鋏が、二本。

 

片方は俺の背丈より長かった。

 

そして、その上に。

 

細い管が二本、突き出していた。

先端が丸く膨らんでいる。

 

眼だ。

 

殻の中で見たあの抜け殻の、中身の入っている方だった。

フェイは背中の上にいた。

彼が身体を捻るのが見えた。

ライフルを放さないまま、膝を折って、鉄の縁を蹴った。

 

跳んだ。

 

砂の上に落ちて、肩から二回転がって、それから止まった。

 

降りたのではない。

落とされたのだ。

 

「マズい。ラスさんは下がって!」

 

俺は叫んだ。

けれども、叫んだのが間違いだった。

ヤドヌシの前半身が、こちらへ回った。

 

眼ではない。

眼はまだ砂を向いていた。

 

身体だけがこちらを向いた。

 

「ダメだ、走るな!」

 

フェイの怒鳴り声が飛んだ。

遅かった。

ラスが立ち上がって、走り始めた。

 

十七の脚が砂を蹴る音は、軽い音だった。

それがあいつに一番よく届く音だということを、俺たちはまだ知らなかった。

 

灰色の塊が、直線で来た。

思ったよりもはるかに速い。

 

脚が八本、同じ速さで砂を掻いて、鉄の背中が水平のまま滑ってくる。

 

俺はラスの背中を追った。

追いついた。

腕を掴んで、横へ引き倒した。

 

その上に、影が来た。

 

鋏が上がった。

俺は仰向けのまま、それを見上げた。

前脚が持ち上がって、身体の前半分が起き上がる。

鉄の甲の縁が、下の柔らかいものから離れる。

 

前触れた通り、甲が開いた。

 

甲と身体の継ぎ目。

灰白色の膜が、掌ふたつぶんほど。

 

先ほど板の上に炭で描いた線と、寸分違わない場所だった。

俺の位置からは、真下から見上げる格好になっている。

 

見えている。

見えているのに、俺の手には護身用の拳銃しかない。

 

三十歩先ならともかく、この距離でこの角度から、ヤドヌシの掌の的に六発全部を叩き込んでも、あの厚さの膜の奥までは届かない。

 

と、銃声が鳴った。

俺の銃ではない。

 

鋏が横へ流れた。

砂が跳ねて、俺とラスの上に降ってきた。

 

フェイが撃っていた。

肩を庇いながら、片膝をついて、それでも構えていた。

 

一発。

二発。

 

火花が散った。

 

鉄の背中で、弾が横へ滑る。

鈍い音がして、削れた鉄粉が夕日の中を流れた。

 

三発。

四発。

 

俺はラスを引きずって後退しながら、数えていた。

数えている自分が嫌になったが、指は勝手に数えていた。

 

五発。

六発。

 

そのうち二発は、継ぎ目のあたりに入った。

入ったが、角度が悪かった。

横から当たった弾は、膜ではなく甲の縁を叩いて逸れた。

 

七発目で、彼は薬室を空にした。

 

そして装填し直して、狙いを変えた。

八発目が、眼を撃ち抜いた。

 

柄の先の丸い膨らみが、弾けて消えた。

 

三十歩以上ある。

細くて、揺れていて、直径は俺の親指ほどしかない。

デルタ・リオの支所で、あれを撃てる人間は他に一人もいないだろう。

 

しかし、何も起こらなかった。

ヤドヌシは止まらなかった。

向きも変えなかった。

片方の眼を失ったことに、気づいた様子すらなかった。

 

「フェイさん、目じゃない!」

 

俺は叫んだ。

 

「そいつは、目で見てない!」

 

灰色の塊が、また俺の方に回った。

と、ラスの脚が砂を蹴った。

 

もがいたのだ。

恐怖で足が勝手に動いた、それだけだった。

だが、この状況では致命的だ。

 

前脚が落ちてくる、このままでは間に合わない。

俺もラスもやられる。

と、首の後ろを掴まれて、そのまま砂へ押し倒された。

 

フェイだった。

 

彼は俺の首を押さえたまま、自分も伏せた。

反対の手でラスの襟を掴んで、こちらへ寄せている。

 

「動くな」

 

囁きだった。

 

「息もするな」

 

灰色が、来た。

脚が砂を掻く音が、右から左へ抜けていく。

 

三歩。

 

鉄の縁が、俺たちの真上を通った。

夕日が遮られて、砂が暗くなった。

 

俺の心臓が、耳の中で殴られているみたいに鳴った。

指が震える。

その震えを、フェイの手が首の後ろから押さえつけていた。

 

止まった。

 

ヤドヌシは、俺たちから五歩のところで止まった。

 

眼は片方残っている。

それはこちらを向いていなかった。

 

節が動いた。

脚が、砂の上で一度だけ、探るように踏み替えられた。

 

そして。

 

向きを変えて、洞窟の口の方へ歩いていった。

音が遠ざかりきってから、フェイの手が離れた。

俺は砂に額をつけたまま、しばらく動けなかった。

 

「……先生」

 

隣で、掠れた声がした。

ラスだった、恐怖で体が震えていた。

 

「フェイさん」

「なんだ?」

「単車を取ってきます」

 

俺は立ち上がった。

命の危険に膝が笑っていたが、立てた。

 

「二百歩は歩いてから走ってください」

 

フェイはそれには答えなかった。

代わりに、砂の上に落ちた空の薬莢を、一つずつ拾い集めていた。

数えているのだと分かった。

 

俺と同じことを、この人もやっていた。

 

八発だ。

八発撃って、八発当てて、あの化け物は歩いて帰った。

 

 

 

単車の灯りは片方しか点かない。

 

俺はその一つだけの光で、夜の砂浜を走った。

 

サイドカーにはラスが乗っている。

フェイが後ろから抱えて、上半身が折れないように支えていた。

自分の左肩が上がらなくなっているのはわかった。

けど、彼はそれを一度も言わなかった。

 

「先生、すいません」

「喋らないでください」

「俺が……走ったせいで、俺が……」

「喋らないでください」

 

俺は速度を落とさなかった。

 

三年前、街の門の前で父が言った言葉を、なぜか思い出していた。

あの半日で寿命が二年縮んだ、と。

今の俺は、その父より年下の顔で、他人の甥を積んで夜を走っている。

 

海の家の灯りが見えた。

戸口が開いて、人影が飛び出してきた。

ベネットだった。

 

「先生! ガロが――」

 

俺は単車を止めた。

建物の中に、息が止まりかけている男がいる。

ラスもヤドヌシの戦闘に巻き込まれて負傷した、フェイもだ。

 

三年間、俺はこの状況を「起きないもの」として扱ってきた。

デルタ・リオでは、俺が診療所にいれば全部そこへ運ばれてきたからだ。

運ばれてくる限り、場所はいつも一つだった。

 

「フェイさん、ラスさんを板の間へ。仰向けで、膝を立てて」

「お前は」

「広間です」

 

俺は走った。

広間の一番奥に、人が二人しゃがんでいた。

厨房の女だ、その名前をまだ聞いていなかった。

 

彼女はガロの身体を横向きにして、頭を少し下げて、口の中に布を差し入れていた。

布を替えては、また入れる。

もう一人が、その背中を支えている。

 

膝の横に、俺が破らせた宿帳の紙が置いてあった。

 

二枚目だ。

 

「半刻ごとに向きを変える」の行に、爪で線が引いてある。

 

「先生、これでいいですか」

「ありがとうございます……それでいいです」

 

俺は膝をついてガロの胸に耳を当てた。

 

浅い。

だが、入っている。

右の下の方に、湿った音が混じっている。

少し入った。

だが肺が水浸しになってはいない。

 

「息が止まりかけたのは」

「二度です。紙の一番下に、胸を押し上げろと書いてあったので」

「やりましたか」

「やりました。戻りました」

 

俺は顔を上げた。

 

女の袖が濡れていた。

肘まで濡れていた。

四刻ぶん、この人はここに座り続けていたのだ。

 

「よくやりました、あなたのおかげでガロさんは助かりました」

 

そう言うのが精一杯だった。

俺はここにいなかった。

いなかったのに、この人は死んでいない。

 

それは俺の手柄ではない。

三日前の夜、板の間の隅で紙を三枚破って書いた、あの一時間の手柄だ。

 

「ここからは俺がやります」

 

 

 

外に出たのは、日が完全に昇ってからだった。

 

湧き水では手が洗えない、腕に乾いた血がこびりついている。

けれども、今桶にあるのは海水だけだ。

俺は肘まで海水に浸けて、砂で擦った。

 

それはもう盛大に沁みた。

けれども沁みるのが、少しだけありがたかった。

 

背後で足音がした。

フェイが立っていた。

 

左腕を身体につけたまま、右手だけでライフルを提げている。

彼はそれを、俺の前に差し出した。

俺は濡れた手のまま、それを見た。

 

「床尾板」

 

彼はこちらを見ていなかった。

 

「……直せ」

 

俺は口を開いて、何も言わずに閉じた。

言うことは山ほどあったと思う、けれども今はどれを言っても余計だと分かった。

 

「工具を取ってきます」

 

俺はそう言って、単車の方へ歩いていった。

 

作業そのものは三十分で終わった。

床尾板を外して、痩せた木の面に薄い革を一枚噛ませて、螺子を締め直した。

締めすぎないように、トルクを指の感触で調整して締めた。

そんな事さえも分かるこの身体が今はありがたかった。

 

ライフル肩に当てて、担ぎ直してみる。

今度は沈まなかった。

 

「フェイさん。もういいです」

 

彼は受け取って、右手だけで肩に担いだ。

一度、二度。

そして三度目で、彼は動きを止めた。

 

「……妙な気分だ」

「痛みますか」

「いや」

 

彼は銃床を見下ろした。

 

「八年、こいつは俺の身体の一部だった。それが今、一枚厚くなった」

 

俺は何も言わなかった。

 

「他人が触ったものが、自分の一部になるってのは、妙な気分だな」

 

朝の光が海から来ていた。

俺はその光の中で、この人が三日前に言った言葉を思い出していた。

 

俺の銃でお前の手が勝手に動かれちゃ困る。

 

そう言われた俺の手が寝込んだ多くの人を処置するのを、この人は傍でずっと見ていた。

 

「フェイさん」

「……なんだ」

「あいつ、目で見てません」

 

俺は砂の上にしゃがんで、指で線を引いた。

 

「昨日の夕方、あなたが眼を撃ち抜いた。打ち抜いたのに何も起きなかった」

「ああ、そうだな」

「ラスさんが立って走った時、あいつはすぐ向きを変えた。俺が叫んだ時もです……でも、俺たちが伏せて動かなくなった時、五歩の距離で見失った」

 

俺は線の上に、点を三つ置いた。

 

「音か、地面の揺れです……たぶん揺れの方だ。砂の中に埋まって寝てるやつだから、目じゃなくて足で聞いてるんだと思います」

 

フェイはしゃがんで、俺の引いた線を見た。

 

「動く奴から順に来るってことか」

「そうです」

「じゃあ、あの窪地の犬より質が悪いな」

 

俺は思わず彼の顔を見た。

彼は俺を見なかった。

 

「あの朝、お前が動かなけりゃ七頭は死んでたな。けれども今度は逆だな。動かなけりゃ、あいつは来ない」

 

彼は立ち上がった。

 

「動かなけりゃ、誰も獲れない」

 

ただ事実として、荷物を数えるみたいに言っただけだった。

三年前にロールが、腹を開いた男の横で俺に言ったのと、同じ調子だった。

 

 

 

その日は、二十五人の世話で暮れた。

 

蒸留は三台が回っていた。

一日で六人分。

足りない分は、俺が順番を決めた。

 

意識のある者から、水を飲めない者へ。

喋れる者から、喋れなくなった者へ。

 

俺は紙にその順番を書いて、壁に貼った。

書きながら、自分がひどく落ち着いていることに気づいた。

三年前の俺なら、全員に等しく配ろうとして、そして誰かを死なせただろう。

 

日が落ちた。

 

ガロの呼吸は、まだ入っていた。

俺は広間の隅に座って、上着の内側から折り畳んだ紙を出した。

ロールの字だ。

 

『あんたが使うんじゃないよ』

 

その隣に、乾いた果実の砂糖漬けが一つ入っている。

 

『かえってきて、たべて』

 

レナの言葉だ。

俺はそれを、また戻した。

 

その時、床が震えた。

 

一度。

それから、また一度。

 

灯りの油が、皿の中で細かい輪を描いた。

広間の二十五人にはハンターもいたが、戦えるものは誰も動けない。

 

「なら……俺がやるしかない」

 

そう立ち上がって見ると、戸口の柱にフェイが背中を預けていた。

彼はもう、ライフルを右手に握っていた。

 

「違うぞ、『俺たち』だ」




次回フェイ編おわり予定
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