『蒼』は荒野を駆ける   作:ぶっぱなす

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第七話 トンビは隼になる(後編)

俺たちはまず、海の家のすべての灯りを消させた。

 

ランプが十二、竈の残り火、そして軒先の吊り灯。

 

俺は広間にあるものを、片端から消していった。

ベネットも反対側から同じことをやっていった。

最後の一つを吹き消した時には、床がまた震えた。

 

まずい、さっきより強い。

 

「みんな聞いてください」

 

俺は暗闇の中で言った。

声は張らない、張っても意味がないと分かっていたからだ。

 

「今から、誰も動かないでください」

 

誰かが何か聞き返そうとしたが、中断する余裕はない。

 

「理由は後で説明します。喋らないで。寝返りも打たないでください」

 

板の間の方から、フェイの声が短く飛んだ。

 

「さすがに息はしていい」

 

それで空気が少しだけ緩んだ。

この人はこういう時に嘘をつかない、だからその一言に人がついてくる。

 

俺は戸口の隙間からちらりと外を見やった。

月は細い明りを照らし出して、砂浜が薄く白んでいた。

そして、その白さの一部が動いていた。

 

距離にして四十歩分。

 

鉄の背中が、波打ち際に沿って左へ滑っていく。

動く脚の音は、砂に吸われてほとんど聞こえない。

 

止まって、ゆっくりとこちらを向いた。

眼はフェイさんが片方を打ち抜いた、もう片方しかない。

でもその眼はこちらを見ておらず、代わりに前の二本の脚が砂を軽く叩いた。

 

一度。

二度。

 

振動を聞いている。

 

俺は息を止めた。

大丈夫——動かなければ、来ない。

 

そのはずだった。

 

「先生――」

 

背後で、女の声がする。

ガロを任せていた厨房の女の人だ。

広間の一番奥から、押し殺した声で呼んでいる。

 

「ガロさんが」

 

俺はゆっくりと目を閉じた。

ああ、確かに紙に書いたのは俺だ。

 

半刻ごとに向きを変えること。

唾液を吸い取ること。

胸が止まりかけたら押し上げること。

 

そうしなければ、この人は死ぬ。

けれども、それをやれば、木製の床が鳴る。

そう、鳴ってしまう――振動を立ててはならない、この状況においても

 

「すいません……名前を、聞いていませんでしたね」

 

俺は暗闇の中でそう言った。

疑問に思ったのか、女の人は一瞬黙った。

 

「あ、はい。ネルです」

「ネルさん、あなたはあの人を動かしてください。今まで通りに」

「でも……外に」

「動かしてください。外の奴は俺が何とかします」

 

覚悟を決めて、俺は戸口から離れた。

 

「フェイさん」

「やめろ」

 

暗がりから、答えが先に来た。

 

「何を言うつもりか分かる。やめろ」

「じゃあ、他の案を出してください」

 

沈黙があった。

 

「二十五人います。半刻ごとに一人は必ず動かさなきゃならない。それが朝までに八回。八回とも見逃してくれる保証がありますか」

「……ない」

「単車のエンジンは大きい音を出します。地面も揺れる」

 

俺は上着の前を締めた。

 

「引き離してきます」

「戻れる保証は?」

「もちろんありません」

 

俺は一度言葉を切り、けれどもはっきりと言った。

 

「でも今度は、決めてから動きます」

 

暗闇の中で、フェイが息を吐いた。

その息の吐き方に、いろいろなものが混ざっているのが分かった。

 

「……単車の灯りは、片方だ」

「知ってます」

「砂に取られたら終わりだぞ」

「取られませんよ」

 

俺は戸口の閂に手をかけた。

 

 

 

裏の壁沿いに、足音を立てずに単車まで進んだ。

それだけのことに、時間にして四分かかった。

跨がった時に掌が汗で滑った。

 

「大丈夫……いける」

 

俺は前輪の向きを確かめて、逃げる道筋を頭の中でもう一度並べた。

砂浜を北へ向かう。

船着きを越えて、岩場の手前で左。

そこから内陸の平らな砂地へ抜ける。

 

海の家から引き離せるだけ引き離したい。

そう考えながら鍵を回した。

 

始動の一発目で、荒野が変わった。

 

エンジンの音が夜の砂を叩いて、それが波の音を押しのけた。

片方だけの灯りが、まっすぐ前へ伸びた。

 

四十歩先の白い巨塊が、こちらを向いた。

 

来る。

いや、『来てくれる』。

 

確信して俺はアクセルを開けた。

砂が後ろへ飛ぶ、サイドカーが軽いだけ跳ねる。

荷を全部下ろしてあるから、車体はここに来る行程より素直だった。

 

と、背後から音が来た。

砂を掻く音が、八本分。

 

速い。

想像していたより、ずっと速い。

 

俺は一度振り返った。

灯りの届かない暗がりの中で、鉄の四角い塊が水平のまま滑ってくる。

脚は見えないまま、背中だけが浮いて追ってくる。

 

差は、詰まっていない。

だが、開いてもいない。

 

「――砂だ」

 

俺の車輪は砂に沈む。

あいつの脚は砂を掻く。

平らな荒野なら余裕で振り切れるはずだ。

けれどもこの砂浜では、ほとんど互角だった。

 

なんとか船着きを越えた。

 

岩場の手前で、俺は左へ倒した。

 

車体を寝かせて、リアを滑らせて、砂を撒きながら向きを変える。

オルガと直した五年物のサスペンションが、悲鳴みたいな音を立てるが直したときの感触で行けると分かる。

曲がりきってから、俺は後ろを見た。

 

「なるほど」

 

あいつの、ヤドヌシの特徴を一つ憶えた。

 

そう、あいつは曲がれない。

 

正確には、曲がるのが遅い。

身体が長くて脚が多い分、向きを変えるのに前半分と後ろ半分で時間差が出る。

砂を大きく掘り返しながら、弧を描いて回り込んでくる。

 

俺が一呼吸で曲がれる角を、あいつは三呼吸も使った。

それだけの差が開いた。

 

ならば——円だ。

 

円を描けば、あいつは置き去りにできる。

 

俺は速度を落として、大きく右へ回った。

もちろんわざとやった、あいつとの差を確かめるためだ。

回りきったところで、あいつはまだ曲がる弧の途中にいた。

 

いける。

 

俺は内陸の砂地へ抜けて、そこで一度エンジンを切った。

周囲から音が消えた。

心臓の音だけが残った。

 

そして三十歩先で、灰色の巨塊が止まった。

 

脚が砂を叩く。

一度。

二度。

三度。

 

獲物を探している。

 

それから向きを変えると、海の家とはまったく見当違いの方角へゆっくりと歩き出した。

——止まれば、見失う。

 

あいつの、二つ目の特性だ。

 

ここまでは全部いい。

あいつから逃げるための答えは、もう揃っている。

 

問題は、そこから先なのだ。

俺たちはただ逃げたいんじゃない、あいつを獲りたいんだ。

水源の汚染を消すために、25人の明日のために鋏を上げさせなければならない。

 

あの継ぎ目が開いて銃で倒せるようになるのは、あいつが前脚を持ち上げて上から叩き潰そうとする時だけだ。

昨日の夕方に一度だけ見た瞬間、ラスと俺がすぐ下にいた時だ。

 

俺は目を閉じて、あの一秒を思い出した。

そう——追いつかれた時にしか、あの継ぎ目は開かない。

 

これが、あいつの三つ目の特性だった。

 

逃げ切ればあいつを撃っても倒せない。

撃つには、追いつかれるしかない。

 

俺は暗い砂の上で思考し、そして覚悟を決めた。

 

 

 

海の家に戻ったのは、それから一刻半後だった。

大きく迂回して、南の砂丘の陰から、エンジンを切って押して戻った。

最後の二百歩は本当に押した。

 

戸口の閂が内側から外れ出てきたのは、フェイだった。

俺が何か言うより先に、彼は俺の襟を掴んで、建物の中へ引きずり込んだ。

そして、俺は板の間の柱に背中から押しつけられた。

 

「一人でやるな」

 

暗闇の中で、声が震えていた。

怒鳴ってはいない。

怒鳴れば音が出るからだ。

それを分かっている上で、この人は怒っていた。

 

「俺以外にやれる人がいませんでした」

「そういう意味じゃない」

 

彼の手に力が入った。

 

「荒野で一番先に死ぬのはな、坊主。弱い奴じゃない」

 

俺の背骨が、そこで一度冷たくなった。

 

「一人の奴だ」

 

同じ言葉を、俺はひと月足らず前に聞いている。

デルタ・リオの診療所の裏で、井戸の縁と壁際と、煙草の煙の向こうで。

二メートル近い大男が、右肘をゆっくり曲げ伸ばししながら、まったく同じことを言った。

彼らは会ったこともない。

 

「フェイさん」

 

俺は、自分でも意外なほど落ち着いた声を出した。

 

「ええ。だからあなたが乗ってください」

 

俺を押し付ける手の力が抜けた。

 

「明日の朝、俺はもう一度あいつを引きつけます。今度は逃げるためじゃない、倒すためです」

 

俺は暗闇の中で、彼の顔があるはずの高さを見上げた。

 

「鋏が上がるのは、追いつかれた時だけです。だから俺は追いつかれます。あなたには、その一秒で撃ってほしい」

「……サイドカーからか」

「はい、サイドカーからです」

 

沈黙が長かった。

波の音が、板の壁の向こうで八回鳴っていた。

 

「俺は岩の上から降りないぞ」

 

その返事は、初めて聞いた時とまったく同じ言葉だった。

同じ言葉なのに、声の音色が全然違っていた。

 

初めての時は、突き放す声だった。

けれども今のはしがみつくような口調だった。

 

「フェイさん」

「聞け」

 

彼は俺の襟から手を離した。

 

そして、暗い板の間に腰を下ろした。

背中を柱に預けて、右手でライフルを立てて、その銃身に額をつけた。

 

「……俺には妹がいる。ミシカっていう妹だ」

 

暗い板の間で、フェイはライフルの銃身に額をつけたまま喋った。

 

「十二だ」

 

俺は何も言わなかった。

 

「……お前と、一つしか違わん」

 

波の音が、壁の向こうで規則正しく鳴っていた。

広間の方から、ネルがガロの身体を動かす気配が伝わってくる。

床がわずかに鳴って、そのたびに俺の背中が冷えた。

 

「親父が死んだのは、俺が十五の時だ」

 

彼は続けた。

 

「猟の帰りに、崖の縁が抜けた。それだけだ。獣にやられたわけでもない」

 

俺は柱に背中を預けて、座った。

 

「その時あいつは四つだった。母親はいない。金もない。家には親父の銃が一丁あった」

 

彼はその銃を、掌で一度撫でた。

 

「仕方がなく銃を担いだ。他に担ぐものがなかったからだ」

 

八年と、支所の広場で聞いていた。

十五から八年間。

その八年の中身を、俺は今まで一度も具体的に想像していなかった。

 

「今はマドの村に預けてある。宿の女将に金を渡して置いてもらってるんだ」

 

マド。

 

俺は暗闇の中で、その名前を反芻した。

いつか、この人が用心棒として立つことになる場所だ。

俺が知っている「物語」の中では、そういうことになっている。

 

でもその理由を、俺は今、初めて知った。

 

「年に二度、金を持っていく。会うのはその時だけだ」

「……二度ですか」

「二度だ」

 

彼は顔を上げた。

 

暗くて表情は見えない。

声の方向だけが分かる。

 

「坊主。俺はな、八年で一度も獲物を外していない」

 

俺は頷いた。

見えていないと分かっていて、頷いた。

 

「岩の上から撃つ。危ないところには降りない。仲間が下で転がってても降りない……そう決めた」

 

彼は乾いた声を出した。

笑ったのだと、少し遅れて分かった。

 

「臆病だと言われた。トンビだと言われた。仕留めそこねた獲物を持っていく鳥だとな」

「言い返さなかったんですか?」

「言い返せば、言い訳になる」

 

それだけだった。

八年、この人はそれだけの理由で黙っていた。

 

「外さないってのは、死なないってことだ」

 

彼は言った。

 

「俺が死ぬと、あいつの飯がなくなる。それだけの話だ」

 

俺は口を開いた。

開いたが、言葉が出てこなかった。

出てこなかったのは、この人の言い分に穴がなかったからだ。

八年ぶんの計算が、一度も間違っていなかったからだ。

 

だから、次に彼が言ったことのほうが、よほど残酷だった。

 

「……最初の二年はそうだった。そのつもりだった」

 

声が低くなった。

 

「今はもう、それが理由なのかどうか、自分でも分からなくなった」

 

俺は息を吸った。

 

「岩の上は安全だ。安全な場所ってのはな、坊主。長くいると部屋になる」

 

彼は銃を立て直した。

 

「俺は妹を理由にして、部屋に住んでるまま生きている」

 

俺はしばらく何も言わなかった。

言うべきことは、たぶん二つあった。

 

一つは、そんなことはない、という言葉だ。

それは嘘になる。

この人が自分で言ったことを、俺が上から否定していい道理がない。

 

もう一つは、妹のために降りろ、という言葉だ。

それは、もっとひどい。

 

俺は自分のことを振り返って考えてみた。

ああ、俺も守りたいものがある。

父と、母と、三歳の妹がいる。

その三人のために、強くなるために俺は街を出た。

もし、誰かに「その三人を理由にして安全な場所にいるな」と言われたら俺も怒る。

だから、言わない。

 

代わりに、俺は自分の得意なことをすることにした。

 

「フェイさん」

「なんだ?」

「じゃあ、外さない場所を作ります」

 

彼が動く気配がした。

 

「俺が」

 

俺は膝を抱えて、暗闇の中で数字を並べ始めた。

 

「水は、あと二日です。蒸留は三台で一日六人分。二十五人には全然足りない。ベネットさんが貯めていた分は明日の夜で尽きます」

「……ああ」

「ラスさんは動かせません。荷車に乗せて荒野へ出したら、二日で死にます」

「ガロは」

「もっと悪い。あの人は自分では呼吸を保てない」

 

俺は指を折った。

 

「二十五人のうち、自分の足で歩けるのは三人です。担架を作っても、一晩で運べるのは六人が限界だ」

 

床が、また鳴った。

ネルがガロの向きを変えているのがわかる。

 

「そして、あれは毎晩来ます」

 

俺はそちらを見ないようにした。

 

「今夜は俺が引きました。明日の夜も引けるでしょう。でも三日目に俺が寝落ちしたら、その夜に二十五人が死にます」

 

俺は言葉を切った。

 

「だから、明日の朝に獲るしかない。逃げ切る方法は、もうありません」

 

長い沈黙があった。

その沈黙の途中で、フェイが低く息を吐いて言った。

 

「お前が撃てばいいだろう」

 

来たな、と思った。

 

「何でもできるんだろうが。医者で、機械屋で、あの単車を乗り回して、俺の銃の中身まで見える」

 

声に棘があった。

初めて会った日、支所の広場で空き缶を三つ落とした時と、同じ棘だった。

この人はこれを、たぶん自分の意思では引っ込められない。

 

「十五歩の空き缶を三つ落とした腕なら、掌の大きさの的くらい――」

「撃てません」

 

俺はその言葉を遮った。

暗闇が、少し静かになった。

 

「フェイさん。俺は撃てません」

 

俺は自分の右手を、見えないまま持ち上げた。

 

「拳銃なら当てます。十五歩でも二十歩でも当てます。それは、形さえ憶えれば身体がやってくれるからです」

 

指を、一本ずつ握った。

 

「でも明日撃つのは、そういう射撃じゃない」

 

俺は数え上げた。

 

走っている車体の上からだ、掌ふたつぶんの的に。

そして向こうも動いている。

砂で車体も跳ねる、開いている時間は一秒あるかどうか。

 

「俺がライフルを撃った回数は、たぶん百回です。ボーグさんに教わって、的を並べて、止まっているものを撃った百回だ」

 

俺はそこで、初めて言葉に詰まった。

言うのが、思っていたより難しかった。

 

「あなたは、八年です」

 

俺は膝の上で手を組んだ。

 

「毎日撃って、外さなかった八年だ。…そこには、俺の百回で行ける場所がない」

 

板の間は静かだった。

 

「俺は今まで、教わったものは全部できるようになりました。銃も、工具も、体術も、医術もです。気味が悪いくらい、全部できた」

 

それは、俺が三年間ずっと黙っていたことだった。

ロールにも、ドグにも、父にも言っていない。

 

「でも明日の一秒は、今の俺には無理です」

 

俺は暗闇に向かって、はっきり言った。

風が板の隙間から入り、塩の匂いがした。

 

フェイは何も言わなかった。

 

長かった、本当に長かった。

そして、やがて彼が動いた。

床が軋んで、彼が立ち上がったのが分かった。

そして、彼は俺に聞いた。

 

「……何歩分まで寄せる」

 

それが、答えだった。

俺は立ち上がった。

 

「二十歩です」

 

 

 

それから夜明けまで、俺たちは板の間で図を引いた。

 

炭と、ベネットに破らせた宿帳の最後の白紙。

念のためランプは点けられないので、戸口の隙間から入る細い月明かりの下でやった。

 

「場所は、船着きの南です」

 

俺は線を引いた。

 

「潮が引いた後の、締まった砂。あそこなら車輪が沈まない」

「あいつの脚も沈まんぞ」

「沈まなくていいんです。速さで勝つ勝負じゃない」

 

俺は線の上に、丸を三つ描いた。

 

「日が出る方角は、こっちです。俺は北から南へ走ります。そうすると、朝日は左の肩から入る」

「……的が明るくなるな」

「あなたが向く方向には、太陽が入りません。入らないようにします」

 

フェイが炭を取って、俺の描いた丸の横に短い線を足した。

 

「風は?」

「朝は陸から海です。横風になります」

「どれくらいだ」

「昨日と同じなら、弱いはずです」

 

彼は頷いた。

 

そして、初めて自分から線を引いた。

 

「ここで撃つ」

 

彼が指したのは、俺が描いた三つ目の丸の手前だった。

 

「なぜそこですか」

「その先は行き止まりだ。撃って外したら、俺たちは岩場に突っ込む」

 

俺はその線を見た、正しかった。

 

「じゃあ、そこまでに終わらせます」

 

俺は手順を書き出した。

 

一、エンジンで引く。

二、大きく円を描いて、向かい合う位置を作る。

三、正面から突っ込む。

四、鋏が上がるまで、絶対にハンドルを切らない。

五、その一秒で撃つ。

六、外したら円を描いて、もう一度。

 

四番のところで、フェイの炭が止まった。

 

「絶対に、か」

「はい、絶対にです」

 

俺は自分の書いた字を見た。

 

「早く切って逃げ切れば、あいつは追うだけです。鋏は上げさせるには、俺たちを『もう捕まえた』と思わせるところまで行かないといけない」

 

俺は顔を上げた。

 

「たぶん、身体は勝手に逃げようとします」

 

窪地の朝を思い出していた。

 

肘が伸びきっていた。

照星が耳の後ろに乗っていた。

決めた瞬間が、どこにもなかった。

 

「俺の手は、勝手に動きます。あなたが一番よく知ってる」

 

フェイは炭を置いた。

そして、俺の書いた四番の行を、指で二度叩いた。

 

「なら、俺が言う」

 

俺は彼を見た。

 

「切れと言うまで、切るな。俺が言う」

 

その一言で、俺の中の何かが、静かに座り直した。

三年間、俺は自分の手を自分で押さえようとしてきた。

外から押さえてもらうという方法があることを、俺は今まで一度も考えたことがなかった。

 

「……はい」

「返事は短くていい」

「はい」

 

彼は最後に、弾を数えた。

薬莢を並べて、指で一つずつ寄せる。

 

「十四発だ」

「足りますか」

「一発でいい」

 

彼はそれを箱に戻した。

 

「二発目からは、恐らくあいつが学習する」

 

 

 

夜明け前の海の家は、静かだった。

俺はネルに三枚目の紙を渡した。

 

「日が昇ってから半刻の間、外で音がします」

「先生が行くんですか?」

「そうです。あなたたちはその間も普通に世話をしてください」

「動いていいんですか?」

「今日はいいです。あいつは、俺たちの方を見てますから、そちらに目は向けさせない」

 

ネルは紙を受け取って、それを胸に押し当てた。

 

ラスは眠っていた。

熱は昨夜より下がっている。

ネツサガールは残り九本。

 

ガロの呼吸は、まだ入っていた。

ベネットが戸口までついてきた。

 

「先生」

「なんでしょう」

「戻って来いよ」

 

俺は少し考えてから答えた。

 

「戻ります」

 

嘘をつく理由がなかった。

戻らなければ、伏せている二十五人が全員死ぬ。

だから戻る以外の選択肢が、そもそも存在していない。

 

外へ出る前に、俺は上着の内側に手を入れた。

折り畳んだ紙と、乾いた果実の砂糖漬けが一つ。

三歳の握り拳が突き出してきたものだ。

 

かえってきて、たべて。

 

俺はそれを、また戻した。

シェーナが門の外で叫んだ声も、まだ耳の奥に残っている。

 

死んだら許さないから。

絶対、帰ってきて。

 

「行きましょう、フェイさん」

 

単車のところで、フェイは最後の点検をしていた。

 

遊底を抜いて、油を一滴だけ差して、戻す。

弾を十四発、上着の左の袋に移す。

それから、床尾板を掌で二度押した。

 

ライフルは沈まなかった。

彼はサイドカーの縁に手をかけて、そこで一度止まった。

この単車のサイドカーは、左についている。

 

「フェイさん」

「なんだ」

「そっちが、一番危ない席です。いいですか?」

 

彼は俺を見た。

夜が明けかけていて、初めてその顔がはっきり見えた。

痩せていて、頬がこけていて、目元にはまだ何もない。

 

「知ってる」

 

彼は乗り込んだ。

 

「岩の上より低くて、逃げ場がなくて、あいつの鋏が最初に届く」

 

彼はライフルを縁に載せて、頬を寄せた。

 

「この八年間俺が絶対に座らなかった場所だ、それでもいい」

 

俺は鍵を回した。

 

 

 

エンジンの音が、夜明けの浜を叩いた。

 

灰色の塊は手前にいた。

砂に半分埋まっていたそれが、起き上がった。

昨日の夕方と同じ、滝みたいな砂の落ち方だった。

 

来る。

 

俺は北へ走った。

締まった砂の上で、車輪がよく噛んだ。

昨夜の柔らかい砂とは別の乗り物みたいに、単車が素直に伸びる。

 

背後から、八本分の音が来た。

 

「距離」

「四十歩」

 

フェイが後ろを見ずに言った。

音だけで測っている。

 

俺は船着きを越えて、大きく右へ回った。

 

大きく円を描く。

 

砂を撒きながら、車体を寝かせて、弧を作る。

あいつは弧の途中で遅れる。

昨夜、それを確かめてある。

 

回りきったところで、俺は南を向いていた。

朝日が、左の肩から入ってきた。

 

正面。

二百歩先に、灰色。

こちらを向いている。

 

「フェイさん」

「見えてる」

「行きます」

 

俺はアクセルを開けた。

真正面。

灰色が、まっすぐ来た。

 

砂が両側へ飛ぶ。

鉄の背中が水平のまま、朝日の中を滑ってくる。

 

百五十歩。

 

俺の指が、動きたがった。

 

百歩。

 

逃げたい。

右でも左でもいい。

このまま行けば正面衝突だ。

 

八十歩。

 

「切るな」

 

フェイの声が、風の中で通った。

 

「まだだ」

 

俺は歯を食いしばった。

 

六十歩。

 

灰色が大きくなる。

鉄の継ぎ目の鋲の数が見えるくらいまで、大きくなる。

 

四十歩。

 

「切るな」

 

三十歩。

 

俺の手首が、勝手に内側へ捻れかけた。

 

「切るな!」

 

二十歩。

 

灰色の前半分が、持ち上がった。

鋏が上がる。

甲の縁が、下の柔らかいものから離れる。

 

開いた。

 

朝日の中に、灰白色の膜が晒された。

 

「今――」

 

銃声。

俺が言い終わる前に、フェイは撃っていた。

同時に、車体が跳ねた。

砂の畝を拾ったのだ。

昨夜の潮が作った、指一本ぶんの高さの畝だった。

前輪が浮いて、サイドカーが十センチだけ上がって、落ちた。

 

弾は、入った。

入ったが、上へ逸れた。

膜を破って、そのまま甲の内側に潜って、そこで止まった。

心臓には届かなかった。

 

「切れ!」

 

俺は右へ倒した。

鋏が落ちてきた。

風圧が横から来て、次の瞬間、左で何かが砕けた。

 

サイドカーの風防だ。

砕けた硝子と、砂と、鉄錆の欠片が、朝日の中を飛んだ。

フェイは腕を上げなかった。

 

俺は見ていた。

 

砕けたものが顔へ向かって飛んでくる半瞬の間に、この人は右手で遊底を引いていた。

腕を上げれば防げた。

でも、上げれば、次の弾が遅れる。

 

彼は上げなかった。

赤い線が、右の眉の上に走った。

 

「フェイさん!」

「走れ」

 

血が、上から下へ落ちた。

右の目が、赤く潰れた。

 

海の家から一番遠い岩場の陰で、俺は単車を止めた。

 

「見せてください」

「後だ」

「今です。血が固まると余計に――」

「後だ」

 

彼は自分の袖を千切って、額に押し当てた。

俺は代わりに車体を見た。

サイドカーの風防が全部なくなっている。

前の縁が持っていかれて、鉄の骨が曲がっている。

 

そして。

左の足回りが、鳴っていた。

 

車輪が真っ直ぐ回っていない。

軸受けが歪んで、一回転ごとにわずかに擦れる音を出す。

 

「左の足が鳴ってる」

 

フェイが言った。

血を押さえたまま、こちらを見もせずに言った。

 

「さっきの一撃だ。……お前、聞こえてるか」

「ええ、聞こえてます」

 

俺は膝をついて、軸受けを掌で押した。

 

「走れるか」

 

俺は聞いた。

 

「二十歩くらいなら、今もまだ持ちます……フェイさん、目は」

「見えん」

 

彼は袖を額から離した。

血がまた流れて、右の目に入った。

 

「輪郭までは分かる。継ぎ目がどこだかは分からん」

 

俺は自分の心臓の音を聞いた。

そして、決めた。

 

「じゃあ、俺が見ます」

 

彼が顔を上げた。

左目だけが、こちらを向いた。

 

「あなたは、俺の声だけで撃ってください」

 

沈黙は、一呼吸ぶんだった。

 

「ああ……言え、俺が撃つ。撃って、今度こそ仕留める」

 

 

 

二度目の突入で、俺はエンジンを切った。

理由はフェイに走りながら説明した。

 

「あいつは学習します。同じことをすれば、鋏は上げない。追うだけです」

「じゃあどうする」

「止まります」

 

風の音の中で、彼が一瞬黙った。

 

「あいつが鋏を上げるのは、捕まえたと思った時だけです。走ってる限り、捕まえたことにならない」

「エンジンを切って、惰性で入るのか」

「そうです。音が消えれば、あいつは一度見失います。見失ったやつは、地面を叩いて探す」

 

俺は前を見た。

 

「探すために、前脚を上げます」

 

朝日が高くなっていた。

灰色が、また正面にいた。

 

百歩。

 

俺は円を描き終えて、まっすぐに向き直った。

 

八十歩。

 

ここだ。

砂の締まり方と、車体の重さと、今の速度。

惰性で進む距離を、俺は逆算していた。

 

俺はアクセルを戻して、エンジンを切った。

 

音が、消えた。

世界から音が抜けた。

 

残ったのは、車輪が砂を潰す音と、歪んだ軸受けの擦れる音と、風だけだった。

 

正面で、灰色が止まった。

前脚が、砂を軽く叩く。

 

一度。

二度。

 

探している。

 

単車は、静かに滑っていった。

 

七十歩。

六十歩。

 

「フェイさん。地面を言います」

 

俺は前を見たまま喋った。

 

「中くらいの、大きいの、小さいの。この順で起伏が来ます」

 

五十歩。

 

「一つ目、中くらいの」

 

車体が、軽く撓んだ。

 

「二つ目のが大きいの」

 

前輪が上下して、サイドカーが遅れて揺れた。

 

四十歩。

 

灰色の前脚が、また砂を叩いた。

そして、こちらへ向いた。

見つかった。

 

三十歩。

 

灰色が、動いた。

近い。

前半分が、持ち上がり始める。

 

「小さいのが来ます」

 

俺は砂の畝を見た。

朝日が斜めから当たって、その稜線が銀色に光っている。

 

「頂上で、車体が平らになります」

 

前輪が、畝に乗った。

車体が持ち上がり、そして上がりきった。

 

その一瞬だけ砂の抵抗が抜けて、単車は空中にいるみたいに静かになった。

 

正面で、鋏が上がりきった。

朝日が、甲の縁の下へ差し込んだ。

灰白色の膜が、掌ふたつぶん見える。

 

「今です!」

 

銃声が、一発。

 

俺の左耳のすぐ横で鳴った。

 

灰色が、止まった。

鋏が上がったまま、そこで固まった。

 

一秒。

二秒。

 

砂の上に、巨塊の影が伸びていた。

それから鋏が落ちた。

 

先ほどのように叩きつけるのではない。

支えを失って、ただ落ちた。

 

前半分が沈み、鉄の背中が傾いた。

 

「シオン、右だ!」

 

俺は身体ごと車体を投げた。

戦車の残骸が、砂の上に倒れ込んだ。

 

俺たちは砂に投げ出された。

砂の上を二回転して、俺は仰向けで止まった。

 

青い空が見えた。

これでもかというくらい気分のいい、朝だった。

 

 

 

念のため砂の上で、俺は三十まで数えてから起き上がった。

 

どこも折れてはいない。

左の掌の皮が剥けていて、そこに砂が入っている。

それだけだった。

 

「フェイさん」

 

十歩離れたところで、灰色の上着が動いた。

彼は膝をついて、ライフルを砂から拾い上げるところだった。

自分の身体より先に、銃を拾った。

 

「シオン、生きてるか」

「ええ、生きてます」

「……そうか」

 

彼は銃身についた砂を、袖で拭った。

その袖は、もう血で真っ黒だった。

 

俺たちは、崩れた山の方を見た。

 

戦車の残骸が、砂の上に横倒しになっている。

その下から出た節と脚は、もう一本もピクリとも動いていなかった。

 

俺は近づいて、鋏の下を覗き込んだ。

 

甲と身体の継ぎ目に、穴が一つ。

指を入れて、方向を確かめた。

 

まっすぐ奥へ入って、上へ抜けている。

板の上に炭で描いた線と、寸分違わない場所だった。

 

「フェイさん」

「なんだ」

「心臓です」

 

彼は返事をしなかった。

砂の上に座り込んで、額を押さえたまま、海の方を見ていた。

その朝日は、水平線から完全に離れていた。

 

識別核を掘り出したのは、その日の昼過ぎだ。

大型のバイオ系は体内に核を持つ。

ベネットの包丁を借りて、軟体部を三十分ほど探して拳より少し大きい結晶を取り出した。

 

血で汚れたそれを海水で洗って、布に包んだ。

 

これで一万二千G。

 

五年間、誰も持って帰らなかった数字だった。

 

「先生」

 

ベネットが後ろに立っていた。

前掛けが、また魚の鱗で汚れている。

つまり、この人は今朝から仕事に戻ったということだ。

 

「水は」

「今から掻き出します」

 

俺は立ち上がった。

 

「あの水たまりに溜まってる分を全部出して、湧き口の砂を替えます。二日か三日で薄くなるはずです」

「保つのか」

「作った蒸留器を止めなければ、ぎりぎり保ちます」

 

崖の上へ登ったのは、その日の午後だった。

 

洞窟の水たまりを、桶で三十回汲み出した。

白くなった小魚を、全部拾って外へ捨てた。

湧き口の溝の砂を掘って、上流の綺麗なものと入れ替えた。

 

夜には樋から出る水の匂いが変わった。

 

俺は椀に一杯受けて、それを持ち上げた。

その手首を、横から掴まれた。

 

フェイだった。

 

額に俺が縫った糸が入っている。

右の目は開いているが、白目がまだ赤い。

 

「よこせ」

「フェイさん」

「よこせ」

 

彼は椀を取り上げて、自分で一口飲んだ。

俺は止められなかった。

彼は口の中で転がして、飲み込んで、それからしばらく黙っていた。

 

四半刻。

 

俺は彼の顔から目を離さなかった。

この人が二日前、俺に対してやったのと、同じことをした。

 

「ふふ、何ともないな」

「気に入りませんね」

 

俺は言った。

 

「よく言われる」

 

彼はそう返した。

そう言って、椀を返してきた。

 

 

 

海の家には、着いた日から数えて十日いた。

 

ラスが自分の足で厠まで歩いたのは、七日目だ。

まだ引き攣れていて、途中で二度休んだ。

ベネットが泣きそうな顔をして、そのまま厨房へ逃げていった。

 

ネツサガールは、四本残った。

 

ガロが喋ったのは、その翌日だった。

最初に出た音は、言葉になっていなかった。

舌がまだ半分しか戻っていない。

それでも、三週間ぶりに、この人は自分の意思で音を出した。

 

十日目の朝、俺たちはやることは済んだと荷を積んだ。

 

左の足回りの音は、結局最後まで消えなかった。

見送りは、広間の外まで出られるようになった者が全員だった。

 

その一番前に、ガロが座っていた。

板の椅子に座らされて、両脇から支えられて、それでも自分の首で頭を持ち上げている。

彼は俺たちが通るのを、片方ずつ目で追った。

そして、フェイのところで止まった。

 

「あん、た」

 

呂律が回っていない。

フェイが足を止めた。

 

「トンビ、だと」

 

砂の上の全員が、そちらを見た。

ガロは息を継いだ。

一言喋るのに、健康な人間の十倍の力がいる。

 

「冗談、だろ」

 

彼はもう一度、息を継いだ。

 

「あれは」

 

俺は、その先を待った。

 

「……隼だ」

 

風が吹いた。

フェイは何も言わなかった。

 

彼は一度だけ、視線を横へ逸らした。

人を見る時の癖だ。

そしてすぐに戻して、ガロの顔をまっすぐ見た。

 

それから、頭を下げた。

 

短かった。

だが、確かに下げた。

 

 

 

帰り道で、俺は彼の額を診た。

 

三日目の夜営でのことだ。

 

糸を抜いて、傷の縁を指で確かめた。

きれいに寄っている。

化膿もしていない。

 

「フェイさん。これ、今なら跡を残さずに閉じられます」

 

俺は言った。

 

「縁をもう一度削って、細い糸で寄せ直します。四十日かかりますけど、消えます」

「消えるのか」

「消えます。俺は前に一度やってます」

 

彼は火を見ていた。

 

「残しといてくれ」

 

俺は指を止めた。

 

「……どうしてですか」

「消えたら、俺がいつ岩から降りたか、分からなくなるだろうが」

 

俺は何も言えなかった。

 

三年前、ロールが言った。

異名ってのは自分でつけるもんじゃない。

人につけられて、それを剥がせなかった奴が背負うんだ、と。

 

この人は、八年かけて剥がせなかった札を、あの朝に剥がした。

そして、剥がした場所に、自分で新しい印をつけて残せと言っている。

 

「一生ものになりますよ」

「知ってる」

 

彼は火に枝を一本くべた。

 

「坊主……いや、シオン」

「はい」

「一つだけ教えてやる」

 

俺は顔を上げた。

 

「待ち方だ」

 

彼は俺を見なかった。

 

「お前、待つのは絶望的に下手だからな」

 

俺は少し笑った。

笑ってから、喉の奥が詰まった。

同じことを、俺は前にも聞いている。

 

デルタ・リオの診療所の裏で、油の匂いのする手を見下ろしながら、父が言った。

だが俺は待つのが下手なだけだ、と。

もっと前には、大男が言った。

待つのは得意だ、七年やった、と。

この荒野で俺が信用している人間は、全員、待つことについて何か言う。

 

「お願いします、教えてください」

 

俺はそう答えた。

 

「八年ぶんですよ」

「八年かける気か」

「かけます」

 

フェイは、鼻から短く息を吐いた。

たぶん、笑ったのだと思う。

 

 

 

デルタ・リオの門が見えたのは、十九日目の昼だった。

二十日の約束だったから、一日残した計算になる。

門番は俺の顔を見て、それから一度、単車の後ろを見た。

 

「……先生。それ」

「壊れました。オルガさんに謝ります」

「いや、そうじゃなくて」

 

彼は俺の隣を見ていた。

サイドカーの縁に肘を乗せて、額に赤い線を引いた男が、風を見ている。

 

「そっちの人、行きに来た人と同じですかね」

「同じです」

 

門が開いた。

支所へ寄ったのは、その足でだ。

痩せた受付が、帳面をめくる手を止めた。

俺が布の包みをカウンターに置いて、それを開いた時、この男の顔から表情が抜けた。

 

「……本物か?」

「本物です」

「どこに居たんだ」

「ベネットの海の家の、船着きの南です」

 

受付は結晶を灯りに透かした。

それから、壁の一番上の段へ視線を投げた。

右から三枚目。

角の丸くなった、絵の下手な手配書だ。

 

「五年間だぞ?」

「知ってます」

「何人で行ったんだ」

「二人です」

 

受付は俺の後ろを見た。

そして、金庫の鍵を回す前に、帳面を引き寄せた。

彼は頁を繰って、ある行で指を止めた。

 

俺はそれが何の頁か知っている。

ひと月足らず前、この人が「トンビのフェイ」と読み上げた頁だ。

 

彼は炭を取った。

そして、二つ名の欄に一本、線を引いた。

その横に、書いた。

短い言葉だった。

俺の位置からは逆さまだったが、読めた。

 

隼、と。

 

「文句があるなら本部に言え」

 

受付はそう言って、帳面を閉じた。

フェイは何も言わなかった。

ただ、書き終わるまで、一度も目を逸らさずにそれを見ていた。

一万二千Gから、証明料と手数料で千二百引かれた。

 

一万八百。

 

折半して、五千四百ずつ。

フェイは自分の分を数え直しもせずに、上着の内側へ入れた。

 

「マドですか」

 

俺は聞いた。

 

「ああ」

 

彼は少し黙った。

 

「……これで、迎えに行ける」

 

俺は顔を上げた。

 

「連れてくるんですか」

「いつかな」

 

彼は帳面の閉じた表紙を見ていた。

 

「あいつは、じっとしてるのが死ぬほど嫌いなんだ。俺と正反対でな」

 

俺はその言葉を、後で何度も思い出すことになる。

何年か先に、俺の隣で座席の縁に片膝を立てて身を乗り出す金髪を見ることになるからだ。

 

 

 

診療所には、紙が積んであった。

ロールが十九日ぶんの申し送りを、全部書き留めていた。

汚い字だった。

 

「泣くだろ」

「泣きませんよ」

「泣くね」

 

俺は一枚目を読んで、二枚目でため息をついて、三枚目で本当に少し泣きそうになった。

 

「……ロールさん。この『腹の右、たぶん虫垂、様子見』ってやつは」

「治った」

「治ったんですか」

「あたしが十日面倒を見た。あんたの手じゃなくても治るもんは治るんだよ」

 

彼女は火をつけていない煙草を口の端で転がして、それから俺の顔をまじまじと見た。

 

「痩せたね」

「五キロ落ちました」

「二十五人だって?」

「二十五人です」

「……よくやったよ、シオン」

 

そう言ってから、彼女は俺の後ろに立っている男を顎で示した。

 

「で。そっちが、あんたの言ってた岩の上の人かい」

「フェイさんです」

「顔に一本入ってるね」

「入りました」

 

ロールは煙草を耳に挟んだ。

 

「異名は」

 

フェイが答えなかったので、俺が答えた。

 

「……変わりました」

「へえ」

 

彼女は、それ以上何も聞かなかった。

 

家に帰ったのは、日が落ちてからだった。

母が俺の顔を見て、それから何も言わずに台所へ行って、晩飯の皿を二品増やした。

父は俺の頭に手を乗せた。

砂と油の匂いのする手だった。

 

「にいちゃ!」

 

小さいのが、俺の脚に正面から突っ込んできた。

 

「痛い」

「いたい?」

「痛い」

 

俺は上着の内側に手を入れた。

十九日、そこに入れっぱなしだった包みを出す。

乾いた果実の砂糖漬けが一つ。

少し形が崩れている。

 

「レナ、食べていいか?」

「うん! たべて」

 

俺はそれを口に入れた。

甘かった。

それだけの話だった。

 

あとジャックたちは、俺が出た六日後にはイスラポルトへ帰っていた。

ロールが言伝を預かっていた。

 

「シェーナからだよ」

「なんですか」

「『次は連れていけ』だってさ」

 

俺はしばらく黙ってから、聞き返した。

 

「それだけですか」

「それだけだよ……あんた、本当に何も分かってないんだね」

 

分からなかった。

 

 

 

門の外まで、俺はフェイを見送った。

彼は徒歩でマドへ向かうという、かなりの道のりだ。

 

「フェイさん、ありがとうございました」

「金はもらったぞ」

「それでも言います、いえ、言わせてください」

 

彼はライフルを担ぎ直した。

その肩はもう沈まない。

 

「シオン」

「はい」

「次はいつになる?」

 

俺は、答えられなかった。

 

門の内側には、二十五人ではなく、この街の全員がいる。

明日の朝にはまた十人が診療所の前に並ぶだろう。

自警団の男は、俺が街の門を出るたびに困った顔をする。

 

俺は荒野へ出る理由を、結局あの一回きりの往診でしか作れなかった。

 

「それは……分かりません」

「そうか」

 

フェイは、それ以上聞かなかった。

彼は背を向けて、二歩あるいて、それから止まった。

そして、振り返らずに言った。

 

「なんとか機会を作っておけ、シオン。お前の依頼ならいつでも受ける」

 

それだけ言って、彼は歩いていった。

俺は、その背中が荒野の色に溶けるまで見ていた。

額に一本、赤い線を入れた男だ。

 

その二つ名は、もう鳥の中で一番みっともないものではなくなっていた。

 

十一の、夏の盛りだった。

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