『蒼』は荒野を駆ける 作:ぶっぱなす
荒野の春は音で分かる。
夜のうちに川筋の氷が緩んで、明け方になると薄い板の割れる音が街まで届いてくる。
デルタ・リオは涸れかけた川が二股に分かれる場所にあるから、その音はいつも二つの方向から重なって聞こえた。
俺は寝床の中でそれを二度聞いてから起き上がった。
十二になった。
背はまた伸びて去年の上着の袖が手首の骨に届かなくなっているし、腕にもようやく荷運びの男を担げる程度の筋肉がついた。
声はまだ変わらないままで、そのことについてはもう文句を言わないことにしている。
土間へ向かうと母が竈の前にいた。
「起きたのかい」
「おはよう、母さん」
「顔を洗っておいで。今日は焼いたのがあるからね」
戦前雑貨の店を開ける前の母は、いつも背中が忙しい。
父はもう出たあとらしく、寝床の脇に畳んだ上着だけが残っていた。
そして、俺の腰の高さで何かが待ち構えていた。
「お兄ちゃん、おはよー!」
「おはよう、レナ」
「きょうはいくの?」
「行かないよ」
「……うそ」
「本当だ」
五つになった妹は、この二ヶ月ですっかり俺の嘘を見抜く技術を身につけていた。
二年前は俺の脚に正面から突っ込んでくるだけの塊だったのに、今は目を見て黙るという恐ろしい手を使ってくる。
「わかったよ……ロールさんのところには行くよ」
「そっちじゃなくてさ」
「門の外には行かない。今日は行かないよ」
「ほんと、本当に?」
「本当だ、今日は診療所だけで終わりだ」
レナは俺の顔を三秒ほど検分してから、ようやく手を離した。
この妹は俺が門を出る日と出ない日を、朝の俺の靴で見分けている。
底の厚いほうを履いた朝は必ず外へ行く日だと、去年の秋あたりに気づいたらしい。
「せんせー、いってらっしゃい」
「兄ちゃんだ」
「おそとではせんせー。おうちではお兄ちゃん」
理屈が通っているのが一番腹立たしかった。
診療所の朝は、昔よりずっと静かになった。
理由は単純で、俺が全部を一人で抱えなくなったからだ。
順番待ちの列は今でも毎朝できるが、そのうちの半分はロールが先に片付けてしまう。
「チビ。三番の腕、あんたが見るかい」
「ロールさんが縫ったんですよね」
「縫った」
「じゃあ見ません」
俺は紙束から顔を上げずにそう答えた。
ロールが煙草をくわえたまま、こちらを見たのが気配で分かった。
「……あんた、二年前ならその寝台に飛んでたよ」
「そうですね、飛んでました」
「今は座って人の字を読んでる」
「読むと分かることが多いので」
彼女は火のついていない煙草を耳へ挟んだ。
この人は診療所の中では絶対に吸わない。
その線引きだけは、俺の知る限り一度も崩れたことがない。
「二年前のあんたはね、患者が入ってきた瞬間にもう手を洗いに行ってた」
「はい」
「今は戸口で一度止まる。歩き方を見て、それから洗いに行く」
「……そうですか」
「そうだよ。誰に教わった」
俺は答えなかった。
答えなかったのに、ロールは鼻から短く息を吐いて笑った。
「顔に一本入ってる人かい」
「あの人は、待ち方しか教えてくれませんでしたよ」
「それだけで足りるんだよ、あんたには」
俺はもう一度紙束に目を落とした。
待ち方だ、とあの人は言った。
お前は絶望的に下手だからな、とも言った。
二年かかって俺が身につけたのは、たぶん本当に些細なことでしかない。
戸口で一拍止まること。
最後の一行まで読んでから手を洗うこと。
そして、自分が先に動かなくても死なない場面と、動かなければ死ぬ場面を、指ではなく頭で分けること。
たったそれだけのことに二年かかった。
フェイの八年ぶんには、まだ遠く及ばない。
俺がデルタ・リオのハンターズオフィス支所に正式にハンターとして登録したのは、去年の春だ。
そこに至るまでの交渉に半年かかった。
寄り合いは三度開かれて、三度とも紛糾した。
自警団の男は最初から最後まで頭を掻いていたし、産婆の婆さんは俺の顔を見るたびに舌打ちをした。
街の連中の言い分はずっと同じで、要するに医者を荒野に出したくないという一点に尽きる。
その時に俺が出したのは、腕でも理屈でもなく紙だった。
「留守にする日の分だけ、先に書いておきます」
俺は寄り合いの真ん中で紙束を広げた。
「この街で今、続けて診ている患者は十九人です。そのうち急に悪くなる可能性があるのは六人。その六人について、何がどうなったらどうするかを全部書きました」
自警団の男が紙を一枚取って、逆さまのまま眺めた。
「……先生。これは、なんの字ですか」
「指示書です。熱が上がったら何を何匙、息が浅くなったらどこを押し上げる。順番と量まで書いてあります」
「ロールさんが読むんですか」
「ロールさんが読みます。俺よりこの人の方が、投薬自体は上手いので」
ロールが煙草を耳に挟んだまま、壁際で肩をすくめた。
海の家の広間で三枚の紙を書いた夜のことを、俺はその時ずっと思い出していた。
あの三枚は、俺が単車で夜の砂浜を走っている間にガロの呼吸を二度戻した。
俺の手ではなく、俺の字が人を生かした。
それが分かってからの俺は、少しだけ図々しくなった。
「俺がここにいる時間しか助からない街は、いつか俺ごと潰れます」
俺はそう言った。
「俺がいない時間でも回るようにしておくのが、たぶん一番安全です」
結局、条件は三つついた。
一つ、一人では門を出ないこと。
二つ、必ず誰かと組むこと、もしくは街が金を出すので護衛をつけること。
三つ、出る前に指示書を診療所へ置いていくこと。
囲い込みであることに変わりはない。
それでも二年前と違うのは、その紐の長さを俺自身が交渉して決めたという一点だった。
支所で帳面に名前を書いた日のことも憶えている。
痩せた受付が、二つ名の欄に炭を近づけて止まった。
「異名は」
「特に要りません」
「要るんだよ。書式でな」
「じゃあ、空欄でお願いします」
「空欄にすると本部が勝手に書いてくる……そうだな、若きゴッドハンドでいいか」
「いえ、それはよくないです」
「よし、書いたぞ」
俺は本気で帳面を取り上げようとして、ロールに襟を掴まれた。
異名は自分でつけるものではない。
三年前にこの人がそう言ったのを、俺はこの日ほど恨んだことがない。
ヤドヌシの時に使った単車を正式に買い取ったのは、その二ヶ月後だ。
オルガの作業場は市場の一番奥にある。
戸を開けると油と鉄粉と、焦げた樹脂の匂いが一緒くたに出てくる。
俺が金を積んだ時、この女は俺の顔と金を三回ずつ見比べた。
「あんた、これは街のもんだよ」
「街から買います。もう寄合で話は通してあります」
「あの鉄屑に、ここまで金を出すのかい」
「鉄屑じゃありませんよ」
苦笑しながら俺は覆いをめくった。
ヤドヌシの時に風防はなくなったままだが、左のサイドカーは足回りを一度全部抜いて組み直してある。
塗装は剥げていて、片方の灯りは相変わらず点かない代物だ。
それでもエンジンは、二年前と同じ素直さで回った。
「軸受けを替えたら、音は消えましたから」
「そりゃそうさ。あたしが替えたんだから当然だ」
「俺も半分やりましたよ」
「半分は余計だよ、シオン」
オルガは布で手を拭いてから、車体の縁を掌で二度叩いた。
「……名前は?」
「つけてません」
「つけたらどうだい? 乗り物ってのは名前をつけた方が長持ちする」
「つけたら、乗り換えられなくなりますよ」
そう言うと、彼女は初めて手を止めて俺を見た。
「乗り換える気があるってのかい?」
「そうですね、いつかは」
「そうか。じゃあやっぱり名前はつけない方がいいね」
彼女はそれ以上何も聞かなかった。
代わりに工具箱の一番下から、俺の掌より少し大きい鉄の板を出して放ってきた。
サイドカーの風防の取り付け金具だった。
新品ではない。
どこかの廃車から抜いて、削り直して、縁を丸めたものだ。
「硝子は自分で探しな」
「……ありがとうございます」
「礼はいい。あんたはどうせまた壊してくる」
その通りになった。
硝子はその年の秋に一度割れて、俺は二度目の金具をこの人から受け取ることになる。
荒野へ出るようになって、まず分かったことがある。
デルタ・リオの周りは、思っていたよりずっと浅い環境だった。
川筋の下流に居着く野犬型のバイオ、砂に潜って足首を狙う小型の甲殻、廃車の陰から石を投げてくる小猿のような手合い。
その全てを、この二年で俺は一人で捌けるようになった。
正確に言えば、捌けるようになったのではなく、捌ける形に持ち込んでから撃つのを憶えた。
去年の秋に北西の洞窟染みた渓谷に居ついた巨大蟻を獲った時が、たぶん一番はっきりしていた。
賞金四千G。
アーリーアントという名がついていて、手下を五匹か六匹連れて回る性質がある。
俺はドグと二人で行った。
一人では門を出ないという約束があるし、そもそももう一人で行く気もなかった。
「坊主。仕掛けはいつだ」
「まだです」
洞窟の口から二十歩の岩陰で、俺はそう答えた。
手下の一匹が、俺たちの十歩先まで来ていた。
触角が岩を叩く音が、はっきり聞こえる距離だ。
「近い」
「近いですけど、まだです」
首の後ろが熱くなっていた。
指が、勝手に動きたがっていた。
二年前の俺なら、この時点でもう撃っていたと思う。
窪地の朝を思い出した。
肘が伸びきっていて、照星が耳の後ろに乗っていて、自分で決めた瞬間がどこにもなかったあの朝だ。
だから俺は、頭の中で自分に言い聞かせた。
切れと言うまで、切るな。
手下が通り過ぎた。
四十を数えたところで、洞窟の奥から本命が出てきた。
胸の節の継ぎ目が、外の光でようやく見えた。
「今です」
ドグの散弾と俺の弾が、ほとんど同時に入った。
終わってから、五十近くの男は長いこと黙っていた。
それから頭を掻いて、こう言った。
「お前……前は、俺が止める側だったよな」
「そうでしたね」
「今日は俺の方が先に撃ちたくなってた」
「言ってくれれば止めましたよ」
「言えるかよ、格好悪い」
俺は笑った。
笑いながら、上着の内側の紙の感触を確かめていた。
診療所に置いてきた指示書の写しだ。
出るたびに一枚書いて、一枚は診療所へ、一枚は自分の懐に入れる。
そうしておくと、荒野にいる間も街の中の六人が数字として見える。
見えていれば、焦らずに済む。
待ち方というのは結局そういうことなのだと、俺は解釈していた。
もちろん、フェイがそう言ったわけではない。
だがやってみて、俺が自分で掴んで身についたのはその形だった。
「シオンの坊主。そろそろクルマの話をしないか」
ドグにそう言われたのは、蟻を獲った帰り、ドグのクルマの荷台の上だった。
この荒野でハンターを続けていれば、遅かれ早かれ必ずこの話になる。
生身で獲れる賞金首には限りがあって、その線から先はクルマが、正確には大砲がないと話にならない。
俺は生身で戦車とやれるソルジャーやレスラーではないので、その話が出るのは必然だ。
「金はもう十分に貯まってるだろう」
「そうですね、大分貯まってます」
「なら買え。中古でいい。デルタ・リオじゃ扱ってないが、東へ行けばイスラポルトに売ってるところはある」
「ええ……でも、もう少し先にします」
俺がそう答えると、ドグは太い首を捻った。
実を言えば、当てなら一つある。
デルタ・リオから北へ数日、ノボトケの村に野バスが走り回っている。
大破壊の頃に統制を失ったものが元気に走っている。
それでもCユニットに手を入れれば、オルガと俺なら人の意思で走るところまで持っていくだろうと俺の指は言っていた。
けれども、俺はそれに触らずに帰ってきた。
理由は自分でもかなり間抜けな話だと思っている。
そう、あれはたぶん、俺の妹のクルマだ。
俺の頭の中に入っている「物語」の中で、あの子が手に入れる乗り物の一つがそれに当たる。
砂を掻き出して、直して、名前をつけて、荒野へ出ていく一台だ。
俺が先にそれを掘り出してしまったら、その一台は俺のものになる。
妹が自分の手で砂を掻く朝は、二度と来ない。
守りたいと思っているくせに、俺は妹から荒野を取り上げようとしていない。
随分と矛盾しているのは分かっていた。
それでも、三年前の冬の終わりに俺の指を握って笑ったあの塊に、俺は幸せな未来を贈ると決めた。
贈るというのは、渡すということだ。
渡すつもりのものを、先に自分で使ってはいけない。
「先約があるんですよ」
俺はドグにそう答えた。
「先約?」
「はい。まだ本人は知らないんですけどね」
「? 何言ってんだシオン、お前は」
「自分でもそう思いますよ。まあ気にしないでください」
ドグは荷台の上で肩をすくめたが、それ以降はクルマの話をしなくなった。
シェーナが来たのは、去年の秋だった。
トニーが付き添いだった、ジャックは南の仕事で指名されていて来られなかったという。
幌をくぐってきた彼女を見て、俺は最初の一言を間違えたらしい。
「背、また随分伸びたな」
「……そこじゃない」
「爪の付け根も平らなままだ。血色も――」
「そこでもない!」
俺は脛を蹴られた。
二年経っても蹴られる場所は変わらないらしい。
十三になったシェーナは、髪を後ろで高くまとめていた。
上着の肩の縫い目が広くて、袖口が絞ってある。
腕を上げても布が突っ張らない形の服だ。
「踊るんだったな」
「……気づくのそこなの?」
「服が動くように作ってある。稽古着だろ」
「まあ、うん。合ってるけど」
彼女はしばらく口を尖らせたけれども、それでも少し嬉しそうに袖を引っ張った。
イスラポルトでアーチストの親方の下についたと、手紙には書いてあった。
歌と踊りで場の空気そのものを掴む職で、荒野では戦いの最中に相手の呼吸を狂わせる役をやる連中がいる。
十まで生きないと言われた娘が、今は息を止めずに歌う練習をしている。
それを人に説明するたびに、俺はいつも少しだけ喉が変になる。
「シオン。あれはまだ持ってるの?」
「あれ?」
「街の単車」
「ああ、買いとったからな、持ってるよ」
「うん、じゃあ乗せてよ」
俺は診療所の裏へ回って、覆いを外した。
彼女はサイドカーの縁に手をかけて、そこで一度止まった。
「ここ、フェイさんの席だったんでしょ」
「今は空いてる。誰のものでもない」
「……ふうん、よし!」
彼女はそれ以上何も言わずに乗り込んだ。
でも、街の外は駄目だった。
条件の一つ目に引っかかるからだ。
だから俺は壁の内側を、市場の裏から北の門まで、ただ二周した。
それだけのことで、シェーナは声を上げて笑った。
風が上着の襟を叩いて、まとめた髪の先が跳ねて、彼女は片手で押さえながらもう片方の手を外に出していた。
二年前の彼女なら、この程度の風でも唇の色が変わっていたはずだ。
俺は速度を落として、彼女の頬の色を横目で確かめた。
赤い。
青くはない。
それを確かめている自分に気づいて、少しおかしくなった。
どうやら俺は、この娘を診ようとするのをまだやめられないらしい。
単車を止めた後、彼女はサイドカーの縁に肘を乗せたまま動かなかった。
「ねえ、シオン!」
「なんだ?」
「わたし、もう大分走れるようになったでしょ」
「なった。十歩負けたからな」
「ふふ。一生言わせてもらうからね、それ」
「ああ、知ってる」
彼女は風防のない縁を指でなぞった。
「でもね。走れるだけじゃ今のわたしは足りないんだ」
俺は返事をしなかった。
なんと言えばいいのか分からなかったからだ。
「シオンは、走ってる人しか乗せないでしょ」
彼女は前を向いたままそう言った。
「だから、隣に座れるようになりたいの」
俺はその時、彼女の脈が速いことに気づいていた。
流石に気づいていたが、走った後だから当然だと処理した。
シェーナが小さくため息をついて、それから俺の脛をもう一度蹴った。
「痛いんだが」
「知ってるわよ!」
トニーが工場の壁のところで帽子のつばを押し上げていたのを、俺は後から思い出した。
そして、春先の朝に門番が診療所へ駆け込んできた。
「先生。客だ、客が来ているぞ」
「客ですか? なら、順番に並んでもらってください」
「いや、そういうんじゃなくてね」
自警団の男は、なぜか一度言葉を切った。
「顔に線の入った人が来てる」
俺は紙束を置いた。
あれから、俺はフェイと何度か組んでいる。
川筋の上流の群れ、東の廃工場の機械、街道の護衛が二度。
どれも街が納得する形の仕事を、俺の方から探して作った。
作っとけ、とあの人は言った。
だから作った。
それでも向こうから診療所に来たのは、これが初めてだった。
門の内側の日陰に、灰色の上着の背中が立っていた。
背が高くて、痩せていて、担いだライフルの床尾が肩に沈まない。
右の眉の上に、白く細い線が一本走っている。
「フェイさん」
「よう」
彼は視線を一度だけ横へ逸らしてから、俺に戻した。
この癖はずっと変わらない。
「顔つきが変わったな」
「そうですか」
「戸口で一度止まるようになった。門番と喋る時もだ」
この人はいつも、俺が意識していないところだけを正確に拾う。
「フェイさん。仕事ですか」
「まあな、仕事もある……が、先にこっちだ」
彼は肩越しに親指を後ろへ向けた。
その背中の陰から、もう一つの影が出てきた。
長い金髪だった。
整うように切ってあって、耳の下で毛先が跳ねている。
背は俺とほとんど変わらない。
肩に、身の丈に合っていない黒い弓を斜めに担いでいる。
そして、目が異様に大きかった。
正確には目が大きいのではなく、瞬きの間隔が短いのだ。
一つの場所を長く見ていられない目だった。
じっとしているのが死ぬほど嫌いなんだ。
俺と正反対でな。
二年前、砂の上でこの人が言った言葉が、そのまま形になって立っていた。
「妹だ」
フェイが短く言った。
「ミシカだ」
彼女は俺の前まで三歩で来た。
遠慮というものが完全に欠けている歩き方だった。
「あんたがシオン?」
「はい、そうです」
「……ふうん」
彼女は俺の頭のてっぺんから靴の先まで一往復させて、それから鼻を鳴らした。
「思ったよりちっちゃいね」
俺は何と答えるべきか迷った。
迷っている間に、彼女は続けた。
「あと、思ったより弱そう」
フェイが上を向いて、それから額を掌で押さえた。
「おい、ミシカ」
「なに」
「せめて自分のことを名乗れ」
「あー、はい。ミシカよ。よろしく」
よろしくと告げてはいたが、その音の中によろしくする気配が一切感じられなかった。
「あのー、フェイさん?」
「わかってはいるが、なんだ?」
「これは、どういう事ですか」
「……話は中でする」
彼はライフルを担ぎ直して、診療所の幌の方へ歩き出した。
俺の横を通り過ぎる時に、低い声で一言だけ落としていった。
「悪いな……こいつ、お前のことが気に入らんそうだ」
診療所の奥の板の間で、フェイは椅子を勧められる前に座った。
ミシカは座らなかった。
壁際に立ったまま、弓を担ぎ直したり下ろしたりを三回繰り返している。
この娘は静止という状態を五秒も続けられないらしい。
「まだ早いとは思っていたんだが、マドには置いておけなくなった」
フェイが先に言った。
「マドで何かあったんですか?」
「こいつが三度目に宿から逃げ出した時、宿の女将さんに匙を投げられた」
「三度も」
「ああ、三度だ」
壁際で舌打ちが聞こえた。
「先月、こいつは一人で砂漠へ出た」
フェイは自分の膝を見ながら続けた。
「スナザメだ。賞金二千G。砂の中を背鰭だけ出して泳ぐやつでな。生身で獲ろうとする奴は普通いない」
「……それで」
「腕を裂かれて帰ってきた。三日は熱が出た」
俺は壁際へ目を向けた。
そこで初めて気づいた。
彼女が弓を担ぎ直すたびに、左の肘から先の動きが妙に硬い。
上腕から肩にかけては動いているのに、前腕だけは板みたいに一枚で動いている。
「ミシカさん」
「さん付け、はやめて。気持ち悪い」
「じゃあミシカ。左の袖、捲れますか」
「は?」
俺の口が勝手に動いていた。
気づいた時にはもう遅い。
「捲らなくてもいいです。担ぎ直す時に前腕が回っていません。橈骨と尺骨が擦れ違う動きが死んでる。塞がった傷が下の筋肉まで巻き込んでる時にそうなります」
板の間が静かになった。
「今は肩と背中で無理やり引いてるはずだから引き尺が浅くなる。このままだと二年もたずに肩の後ろに炎症が起こります」
言い終わってから、俺は自分が何をやったのかを理解した。
三年前の広場と同じだった。
担ぎ直す動作ひとつで床尾板の緩みを言い当てて、目の前の男を真っ二つに割った、あの日と同じことを、俺はその妹に対してやっていた。
ミシカの顔から表情が消えた。
それから、一気に赤くなった。
「……何それ?」
「すみませんね」
「なんなのよ、あんた!」
彼女は弓を床へ叩きつけるように置いた。
「今日初めて会った奴が、あたしの腕の中まで見えるわけ?」
「見えます」
「見えますって言うな!」
彼女は一歩踏み込んできた。
背は俺とほとんど変わらない。
だから目の高さがそのまま合った。
「あんた、なんなのよ! 医者なんでしょ。医者が銃撃つの? 医者が単車乗るの? 医者が賞金首獲るの?」
「ええ、獲ります」
「ずるいでしょ、そんなの!」
これは正しい。
正しいので、俺は反論しなかった。
「あたしね、九年待ったんだよ」
そこで彼女の声が変わった。
「父さんが死んだ時、あたしはまだ四つだった。兄ちゃんは十五で銃担いで出てって、あたしは宿に置かれた。会えるのは年に二回。金だけ置いて、二日くらい居て、また出てく」
フェイは何も言わなかった。
床の一点を見たまま、まったく動かなかった。
「九年だよ。九年間、あたしはずっとあの宿の二階で待ってた」
彼女は俺の胸を指で突いてきた。
「そしたら二年前から、兄ちゃんが変な顔で帰ってくるようになった。喋らない人がさ、勝手に喋るんだよ。デルタ・リオの坊主が、って」
指がもう一度突いてきた。
「兄ちゃんが人を褒めたの、あたし、生まれて初めて聞いたんだからね」
俺は何も言えなかった。
「あたしには一度も言わなかったのに」
彼女は最後にそう言って、それから自分でその言葉に驚いたような顔をした。
「……来いって、一度も言わなかったのに」
風が幌を鳴らした。
ロールが土間の向こうで煙草を耳に挟んだのが、視界の端に映った。
この人はこういう時、絶対に口を出さない。
俺は少しの間、自分の靴の先を見ていた。
言うべきことを探していたのではない。
言えることが一つしかないと分かっていて、それを口に出す踏ん切りをつけていた。
「ミシカ」
「なに」
「俺も待てませんよ」
彼女の眉が寄った。
「……は?」
「二年前に、俺はあなたの兄さんの前で全部やらかしました」
俺は板の間に腰を下ろした。
その方が話しやすい気がした。
「待ち伏せの最中に薬箱を襲われて、俺は待てずに撃ちました。当たったけど、それは囮でした。群れが七頭いて、六頭に逃げられた」
ミシカは黙っていた。
「そのせいで到着が一日半遅れて、その一日半で寝込んだ人が二人増えました。俺が撃たなければ二人少なかった。それだけの話です」
俺は自分の右手を持ち上げた。
「引き金を引いたのは俺です。でも、決めたのが俺だったかどうか、今でも分かりません」
彼女の瞬きが、少しだけゆっくりになった。
「フェイさんに言われました。お前は速い、速い奴は待てないって。だから待ち方を教えてくださいと頼みました」
俺は指を折った。
「二年経ちました。戸口で一拍止まれるようになりました。それだけです」
「それだけじゃない」
そこで、初めてフェイが口を開いた。
「去年の秋、こいつは洞窟の口で四十数えた。手下が十歩まで来ても撃たなかった」
彼はこちらを見なかった。
「二年前のこいつなら、三つ数える前に撃ってる」
ミシカが兄の方を振り返った。
そのさみしそうな横顔を見て、俺はようやく分かった。
この娘が本当に腹を立てているのは、俺が何でもできることにではない。
自分の兄が、自分の見ていない場所で誰かを認めたということにだ。
九年ぶんの二階の窓から、その光景だけが見えていたのだ。
「……ずるい」
彼女はそう呟いた。
「うん」
俺は頷いた。
「ずるいと思います」
「そこは否定しなさいよ!」
「否定できないので」
彼女は変な顔をした。
怒っているのに笑いかけている、器用な顔だった。
「フェイさん」
俺は立ち上がって、そちらを向いた。
「仕事の話をしていいですか」
「ああ」
「フェイさんの、一つ目の依頼はたぶんこれですよね」
俺はミシカの左腕を指した。
フェイの肩が、わずかに動いた。
「……気づいたか」
「そりゃあ気づきます。マドからここまで、荒野を渡って連れてきたんですから」
ミシカが二人の顔を往復した。
「え、なに」
「切って、寄せ直せば戻ります」
俺は彼女に向き直った。
「今の傷は、塞がる時に下の膜と一緒にくっついています。それを剥がして、皮膚の張り方を変えて縫い直す。腕は三十日ほど使えません。でもその後は、前と同じ角度まで同じように回ります」
「……前と同じように?」
「同じです。同じように弓は引けます」
彼女は自分の左腕を見下ろした。
それから、俺の顔を見た。
「なんで」
小さい声だった。
「なんで直すのさ? あたし、あんたに散々失礼なこと言ったよ」
「ええ、言われましたね」
「じゃあなんで」
「言われたとしてもいても、あなたの腕が治らない理由が、治さない理由がどこにもないからです」
その言い方が気に入らなかったらしく、彼女はまた眉を寄せた。
だが、その時にはもう俺の方を見ていなかった。
彼女は兄を見ていた。
「兄ちゃん」
フェイは答えなかった。
「あたしを連れてきたの、それが理由?」
フェイは膝の上でライフルの位置を直した。
それから、いつもの癖で一度だけ視線を横へ逸らして、戻した。
「ああ……荒野で腕の効かん奴はいずれ死ぬ」
それだけだった。
この人はいつもそうだ。
一番大事なことを、一番どうでもいいような言い方で置いていく。
ミシカは何も言い返さなかった。
言い返さずに、鼻の頭を手の甲で強く擦った。
手術は三日後にやった。
前腕の内側を開いて、筋の癒着を剥がして、皮膚の張る向きを変えて閉じた。
時間にして二時間半。
ロールが機器を出して、フェイは診療所の外の壁に背中を預けて最後まで動かなかった。
麻酔はしたけれども、ミシカは終わるまで一度も呻かなかった。
ただ、俺が縫い終わって顔を上げた時、目の縁が濡れていた。
強情なところは兄妹でよく似ていた。
その翌週、俺は診療所の裏の覆いを外した。
「乗りますか?」
「え」
「腕は吊ったままでいいです。ここに座って、右手だけで縁を掴んでください」
ミシカはサイドカーの縁に手をかけて、そこで一度止まった。
「これ、兄ちゃんの席でしょ?」
「今日は空いてますよ」
彼女は座った。
門の外へは出られない。
だから俺は防壁の内側の外周を、市場の裏から北の門まで、ただ三周した。
一周目で彼女は黙っていた。
二周目で吊った腕を庇うのをやめた。
三周目で、声を上げて笑った。
風が金髪を後ろへ全部持っていって、彼女は右手一本で縁を掴んだまま、身体を外へ乗り出していた。
「危ないですよ」
「うるさい! もっと速度を出して!」
「出しません。あなた今、患者なので」
「けちー!」
止めた後、彼女はしばらく息を整えていた。
それからサイドカーの縁を指で二度叩いてこう言った。
「ねえ。ここが兄ちゃんの席だって言うんならさ」
俺は振り返った。
「あたしの席は、どこ?」
俺はその質問に、すぐには答えられなかった。
この単車にサイドカーは一つしかない。
左に一つだけだ。
右側には、ただ空気があるだけだった。
「……作りますよ」
俺は自分でも意外なほど自然にそう言っていた。
「いつか」
「いつか、っていつさー」
「分かりません。でも作ります」
彼女は疑わしそうな目で俺を見た。
それから、鼻を鳴らして前を向いた。
「その言葉、憶えとくからね」
その言葉を、俺は何年も後になって本当に思い出すことになる。
両脇に席を抱えた重たい乗り物の上で、右側から身を乗り出す金髪を横目で見ながらだ。
ミシカは結局、腕が治るまでの三十日をデルタ・リオで過ごした。
母は初日で彼女を気に入って、晩飯の皿を一品増やした。
父は何も言わずに、ミシカの弓の弦を張り替える台を工房の隅に作った。
一番早く懐いたのはレナだった。
「おねえちゃん、かみのけきれい」
「でしょー! 分かってるじゃん、この子!」
「きんぱつ、さわっていい?」
「いいよ。ほら」
五つと十三が土間に並んで座っている光景を、俺は台所の入口から眺めていた。
ミシカは妹の髪を編んでやっていた。
右手一本で、器用に。
九年ぶん誰かの世話を焼く相手がいなかった人間の手つきだ、と俺は思った。
「シオンせんせー」
「兄ちゃんだ」
「おそとではせんせー」
「今は家の中だろ」
「……にいちゃ」
「よし」
ミシカが噴き出した。
「あんた、妹に負けてるじゃん」
「毎日負けてます」
「ふうん」
彼女は編んだ髪の先を指で押さえながら、こちらを見ずに言った。
「……悪くないね、ここ」
フェイはその三十日のうち、二十日は街にいなかった。
街道の護衛で東へ行って、帰ってきて、また出ていった。
帰るたびに彼は診療所の外の壁に背中を預けて、中の様子を確かめてから何も言わずに宿へ行く。
一度だけ、俺はその背中に声をかけた。
「フェイさん。連れてくるのに二年かかりましたね」
「ああ、かかったな」
「なんでですか?」
「金の話じゃないんだ」
彼は空を見ていた。
「連れ出す先が要る。宿から出したはいいが、どこにも置けんのじゃ意味がない」
そこで彼は、初めてこちらを向いた。
「置ける場所が、二年でようやく一つできた」
俺はその言葉の意味を、たっぷり三秒かけて理解した。
「……フェイさん」
「言うな」
「まだ何も言ってませんが」
「……言うな、言わないでくれ」
彼は壁から背を離して歩いていった。
その耳の縁が少し赤かったのを、俺は黙っていることにした。
穏やかな日々だった。
朝に診療所を開けて、昼に人を縫って、五日に一度は指示書を書いて門を出るような日々。
帰れば母が皿を増やして、妹が靴を検分して、金髪の患者が土間で騒いでいる。
俺の頭の中には相変わらず、これから起こることの目次が入ったままだ。
赤いモヒカンの男も、両親の死も、すべての順番は消えてはいない。
それでもこの三十日のことを、俺はよく思い出す。
何ひとつ悪いことは起こらなかったからだ。
十二の、春だった。