禪院の式神姫 作:いかいしんしょうまこーら
第一話 分家の娘
庭に落ちていた木刀を拾うと、さっきまでそれを振っていた男の子が、慌てて駆け寄ってきた。
「それ僕のや!」
言われなくても分かっている。返そうと男の子へ向き直ったが、両手で持っても切っ先が土を擦る。持ち上げようと柄を握り直したところで、後ろから手首をつかまれた。
「誰が触ってええ言うた」
稽古を見ていた男が、ウチの手から木刀を奪った。
「落ちてたから、拾うただけや」
「なら立てかけとけ。勝手に構えるな」
木刀は男の子へ返された。落としたのはあの子なのに、叱られたのはウチだけだった。
「ウチもやってみたい」
そう言うと、男はウチを上から下まで眺めた。何かを確かめるような目だったが、ウチの手も足も見ていなかった。
「お前には要らん」
「なんでや」
「女やからや。朔弥なんぞいう名前もろても、女は女や」
縁側で針を動かしていた母さまの手が止まった。
母さまはすぐに立ち上がろうとして、柱へ手をついた。二度、細く咳をしてから庭へ下り、ウチの隣で頭を下げた。
「すみません。よう言うて聞かせます」
「名前だけ勇ましゅうしても、仕方ないやろにな」
男の子は木刀を取り戻すと、すぐにまた振り始めた。切っ先がふらつくたび、男は危ないと言いながら笑った。
母さまに手を引かれて、庭を出た。廊下の角を曲がるまで黙っていたのは、ウチが何か言えば、母さまがまた頭を下げると分かっていたからだ。
部屋へ戻ると、母さまはウチの手を開かせた。木刀の柄で擦れたところに、小さな棘が刺さっていた。
「痛かったやろ」
「これくらい、どうもない」
「そういうこと言うて、残ったら困るんは朔弥やで」
母さまは針の先で棘を抜いた。指先は器用なのに、息を吐くたび肩が小さく揺れていた。
◆
その晩、布団に入ってから訊いた。
「なあ、母さま。なんでウチ『朔弥』なん?」
行灯のそばで縫い物をしていた母さまが顔を上げた。
「嫌になった?」
「嫌やない。でも、男の名前やって言われた」
母さまは縫いかけの布を膝へ置いた。すぐには答えず、針へ糸を巻きつけてからようやく口を開いた。
「名前を先に聞いたら、男の子やと思う人もおるやろ? そしたら、顔を見るまでは話くらい聞いてくれるかもしれへん」
「顔見たら、すぐ分かるやん」
「せやなあ」
母さまは笑った。笑ったあとで咳き込み、口元を袖で押さえた。
「それでも、母さまにできること、何か一つくらい渡しときたかったんよ」
「今日の人、話聞かへんかったで」
「うん」
「名前、効いてへん」
「うん。ごめんな」
謝ってほしかったわけではなかった。布団から這い出して、母さまの膝へ額を押しつける。
「でも、ウチの名前やから。嫌やない」
頭に手が載った。いつもより熱かった。
「よかった」
母さまの手は、しばらく髪を撫でていた。
◆
母さまが朝になっても布団を畳まない日が増えた。
起きられる日は、縁側で針を持った。起きられない日にも、直し物は戸口へ置かれた。母さまが横になっているのを見ても、持ってきた女は包みを引っ込めなかった。
「今日の分や。夕方までに頼むで」
「母さま、熱ある」
「あんたに言うてへん」
「できひん」
女はウチを見下ろし、面倒そうに眉を寄せた。
「寝てばっかりやから治らんのや。分家の嫁が、いつまで世話かけるつもりなん」
母さまが布団の中で身を起こした。
「すみません。やりますから」
「やらんでええ」
ウチが包みを抱えて廊下へ押し戻すと、女は舌打ちした。腕をつかまれたが、離さなかった。
「朔弥」
母さまに呼ばれて、力が抜けた。その隙に包みを取り上げられる。
「子どもをちゃんと躾け。術式もまだ分からんのに、口ばっかり達者になって」
足音が遠ざかると、母さまは布団を抜け出した。膝が畳についたまま、立てない。ウチが肩を押しても、前よりずっと軽くなっているのに、起こせなかった。
「母さま、医者に診てもらおう」
「大丈夫。寝たら治るから」
その言葉を信じるふりをした。母さまが、ウチを安心させたいときの言い方だと知っていた。
◆
母屋の裏口まで行って、母さまが熱を出していると伝えた。そこにいた女は、あとで人をやると言った。昼を過ぎても誰も来ない。もう一度行くと、今は手が離せないと言われた。夕方には、何度も騒ぐなと追い返された。
そのあいだにも、庭では木刀の音がしていた。
夜、母さまの額へ載せた布は、すぐにぬるくなった。水を替えるために立つと、袖をつかまれた。
「もうええよ。朔弥も寝え」
「もう一回、呼んでくる」
「行かんでええ。また叱られる」
「叱られてもええ」
母さまの指には、引き止めるほどの力がなかった。それでも振りほどけなかった。
「朔弥。家の人の言うこと、ちゃんと聞くんよ?」
「母さまは聞いてたやん」
返事はなかった。
「ずっと聞いてた。頼まれたこともやった。謝ってた。せやのに、誰も来ぇへん」
母さまの喉がかすかに鳴った。息を吸うだけで苦しそうだった。
「母さまが悪いんちゃうやろ」
「……朔弥」
「うん」
「ええ名前やからね」
「分かってる。ウチの名前や」
今度は手が頭まで上がらなかった。布団の上を探った指を握ると、母さまは目を閉じた。
◆
夜中に目を覚ますと、部屋が静かだった。
咳が聞こえない。
母さまの手を握ったまま眠ったはずなのに、いつの間にか指先が冷えていた。何度呼んでも、目を開けない。肩を揺らしても、息をしなかった。
廊下へ飛び出し、声が枯れるまで人を呼んだ。
熱を出しているあいだは来なかった人たちが、今度は次々と部屋へ入ってきた。ウチを廊下へ出そうとする手に噛みついて、母さまの袖を離さなかった。
「医者は」
「もうええ。間に合わん」
「まだ呼んでへんやろ!」
誰かがウチの指を一本ずつ剥がした。母さまの袖が手の中から抜けていく。
「この子、どうする」
「分家で面倒見るしかないやろ。術式も出てへん娘や」
母さまを運び出す相談と、残されたウチをどこへ置くかという相談が、同じ声で続いていた。
◆
朝になる前に、母さまの布団も縫いかけの布も部屋からなくなった。畳には、寝床の形だけ色が薄く残っている。
障子が白み始めると、庭から木刀の音がした。
昨日と同じ調子だった。
ウチは部屋を出た。庭の端には、あの木刀が立てかけてある。今日は落ちていなかった。
それでも、ウチは手を伸ばした。