禪院の式神姫 作:いかいしんしょうまこーら
東京校の生徒との合流を急ぐ伏黒と別れ、ウチは鵺の背に乗り樹冠を抜けた。巨大な根の広がりを上から辿れば、そこにいる敵も見つけやすい。そう考えてのことだった。
上空から見ても、会場の中央に生えたものは『異様』の一言に尽きた。無数の根が絡み合い、森から一本の巨大な樹木が突き出しているように見える。
根の集まる先へ鵺を向ける。翼が風を掴み、巨大樹へ向かって進路を変えた。
前方を確かめようと顔を上げたところで、視線が止まった。
「何や……?」
鵺よりさらに上、何もない空に人影が立っていた。
二メートルはあろうか。青白い身体は細く、手足だけが不自然に長い。頭部はプリズムを思わせる多面体の水晶質で、青白い光を鈍く屈折させている。目と思しきものはどこにもない。地上へ傾けていた頭部を持ち上げ、空中で静止していた。そこに翼はなく、身体の周りには雲を裂いたような白い帯が漂っているだけだった。
これだけ近くにいるのに、呪力の輪郭は妙に掴みにくい。まるで、空そのものに溶け込んでいるみたいだ。だからといって、目の前の異物を放置して背を向ける気にはなれなかった。
鵺の進路をわずかに変える。
「頭ガ高イ。ココハ、地ヲ這ウ貴様等ニハ、不釣リ合イダ」
一瞬、言葉の意味を拾うのが遅れた。
喋り方は明らかに片言だ。それなのに、言葉の選び方も文の組み方も妙にこなれている。
(なんやコイツ……、人語を解すどころやないで……!)
ウチは鵺の首を叩いた。翼が大きく羽ばたき、呪霊との距離が縮まる。
呪霊の片腕が上がった。黒い指先が、ウチらの横を指す。
次の瞬間、内臓を脇へ引かれた。横殴りの風にさらわれたのかと思ったが、鵺が翼を打っても軌道が戻らない。眼下にあった樹冠が、真下ではなく横へ流れていく。
鵺がさらに羽ばたく。身体は煽られず、翼も風に押し畳まれてはいない。それでも、横へ引かれる勢いだけが増していった。
風に流されているのとは違う。身体の重みごと横へ引かれる。まるで、真横へ落ちているみたいな感覚。
呪霊の指先が持ち上がる。
「うわっ……!?」
鵺が翼を傾けて抗った途端、今度は斜め上へ身体が引かれた。それまでの勢いは消えず、横に流れながら別の方向へ加速する。軌道が大きく湾曲し、樹冠と空が目まぐるしく入れ替わった。
鵺の背から身体が浮き、掴んでいた羽毛が指の間を滑る。
黒い指が、今度は樹冠へ下がった。
鵺はなお斜め上へ持っていかれ、ウチだけが樹冠へ向けて引かれた。羽毛が指の間を抜ける。鵺は空へ遠ざかり、ウチは枝葉へ落ちていく。
鵺を影に戻す暇がない。樹冠へ突っ込む直前、呪霊の指が横へ動いた。身体の重みごと真横へ引かれ、枝葉の間を突っ切った先に太い幹が迫る。
身体を捻り、足を前へ出す。
靴底が幹へ食い込んだ。樹皮が弾け、太い幹が大きく軋む。膝を畳んで衝撃を殺し、そのまま右手で枝を掴んだ。
「おしっ──うおっとぉ!?」
止まった。だが、さっきまで身体を横へ引いていた力が、幹へ触れた瞬間に慣れ親しんだ下方向へ戻っている。危うく落ちかけるが、何とか踏みとどまった。
顔を上げる。枝葉の向こう、さらに高い空で呪霊がこちらを見下ろしていた。あの高さまで戻るには、少々骨が折れそうだ。
鵺を崩して幹を蹴り、右手を離す。
中空へ戻った瞬間、呪霊の指先がこちらを向いた。
「あかーんっ──ふべっ!?」
腹の底が、蹴って離れた幹の方へ沈んだ。
背中から叩きつけられる寸前に身を捻り、両手を幹へつく。触れた途端に横向きの力が消え、体勢を立て直す間もなく、あるべき形に戻った重力に引かれた。幹を滑り、潰れた蛙のように地面へ落ちる。
地面へ続くものに触れている間は、この力が直接働かない。中空へ出れば、また作用する。あの呪霊の能力は、そんなところか。
鼻をさすりながら立ち上がる。
見上げれば、枝葉の向こうで呪霊がウチへ指を向けていた。
足元の影を幹へ這わせ、枝葉の陰まで伸ばす。印を結んだ。
「脱兎」
幹や枝の影から溢れた白い兎が、足場を蹴って次々と空へ飛び出した。
同じ枝から跳んだ兎は、まとまって横へ落ちていく。離れた枝から跳んだ一群は、何もない場所で軌道を変えた。それぞれ別の方向へ引かれ、枝葉の間へ散っていく。
呪霊の長い指が空を払う。その動きに合わせ、白い群れの進む先がさらに変わった。
個別に動かしているわけではない。同じ場所にいるものは、同じ方向へ落ちている。向きが変わるのは、ある境目を越えたものだけだ。
なら、その境界を見える形にすればいい。
「満象」
足元の影から満象の鼻先だけを引き出した。細く絞った水を、兎の群れを横切るように空へ吐かせる。
水の軌道は、脱兎が散った辺りで幾度もずれた。風なら滑らかに流れるはずの水が、ある場所を越えるたび、別の方向へ引かれている。脱兎が向きを変えた位置とも重なっていた。
水の軌道と兎の動きを重ねることで、空中にある境目が見えてくる。
見えない境界でいくつもの層に分けられ、それぞれが別の《下》を持っていた。
◆
満象の水から目を離さない。
呪霊の指先がゆっくりと横へ払われた。
枝葉の間へ吸い込まれた流れが、先ほどとは違うところで横へ逸れる。空中へ跳ねた脱兎もそちらへ流された。その後ろから跳び上がった一匹だけは、見えたはずの境界へ届く前に別の方角へさらわれる。
解りかけた規則性が、目の前で崩される。次に足を離したとき、どこへ持っていかれるかも分からない。
呪霊の手が、明確にウチへ向いた。
「ふんがっ!?」
およそ女子らしからぬ息が漏れる。
頭上の枝がまとめてへし折れた。満象、一部の脱兎が影に還る。葉を押し潰した空気が肩へ叩きつけられ、両脚を張って受け止めた。いつもどれほどの荷重を抱えていると思っているのか。これくらいなら屁でもない、とは言わないが耐えられる。
「うわっぷ……!?」
そう思ったのも束の間、呪霊の指先が上を向いた。足元の土と枯葉が噴き上がり、靴底の下から身体を持ち上げる。
足が地面から離れた途端、腹の底まで空に引かれ始めた。折れた枝の間を突き抜け、葉を撒き散らしながら樹冠の上へ放り出される。
それでも上向きの力は止まらない。眼下の樹冠がみるみる遠ざかっていった。
流されるウチを追い、呪霊が空中に立った格好のまま滑ってきた。長い腕が振り抜かれ、黒い拳が顔面へ迫る。
顎を引いて身体を捻り、拳をかわす。かわされた拳が開き、人差し指が横を示した。
腹の底が横へ沈む。
さらわれた先で、呪霊がもう一方の手を突き出した。開いた黒い指が左肩へ食い込み、布ごと皮膚を裂いた。肩が嫌な音を立てる。
「ッ、クソが……!」
容易くウチの呪力の防壁を上回ってくる。流された先には、すでに呪霊の長い脚が回り込んでいた。
肩を裂いた手が離れ、黒い指先が別の方角を向く。
「また変え──ぐっ!」
身体を引かれる向きが切り替わり、避け切れなかった脛が左脇へ食い込んだ。奥で鈍い音がして、息が止まる。さらに身体を引かれ、頭から振り回された。鼻から溢れた血が頬へ流れる。片耳も水へ沈めたように何も聞こえない。こめかみを伝うぬるさで、耳からも血が出ていると分かった。
黒い指が、回る視界の端からもう一度伸びてくる。
「未ダ、下ヲ見ヌカ」
「そっちが変えとんのに、当てにできるかい!」
どちらへ引かれようが構わない。呪霊の指先から目を離さず、全身の力を抜いた。
指先が額へ届く寸前、引かれるまま背を反らす。そのまま呪霊の脇を抜け、胸の前で印を結んだ。
翻った制服の裾、その裏の影から滑り出した鵺が、ウチの下を抜けて呪霊の背へ爪を振り下ろす。呪霊は身体ごと上へ滑って爪を逃れ、そのまま長い腕を鵺の首へ叩きつけた。
鵺が身を翻し、もう一度爪を立てる。その片翼だけが不意に上へさらわれた。巨体が傾いたところへ、呪霊の踵が翼の付け根へ落ちる。鵺の鳴き声が木々を震わせ、高度が大きく落ちた。
「鵺!」
呪霊は鵺を追わない。黒い指先が、もうウチへ向けられている。
水滴と脱兎が次々に樹冠へ落ちていく。空中に残った呪力の気配が減ると、脱兎へ向けられていた力までウチに揃うような気がした。
身体が横へ引かれる。流された先へ呪霊が回り込み、長い腕を薙いだ。
腕をくぐる。薙いだ手が開き、その指先が呪霊自身の胸元へ向いた。
「来イ」
身体が胸元へ引き寄せられ、間合いが一息に潰れる。ここまで近づけば、たとえ引かれる向きを変えられようと、いやでも届く。
呪霊はウチを引き寄せるのと同時に、長い脚を跳ね上げた。青白い胸が目前まで迫り、その下から膝が腹へ突き上がってくる。
ウチは右腕を畳み、拳を引く。
胸元を指していた手が、ウチをその膝へ叩きつけるように地上を差した。
「落チロ」
腹の底が重力に引かれ始めた。
同時に、振り抜いた。
「シャオラッ!!」
身体は地面へ引かれかけている。それでも、呪霊へ向かっていた慣性までは消えていない。
意図的に呪力操作を乱す。影の中に沈めたあらゆる重さが、全身を巡る。背骨が軋み、腕の関節がネジ切れそうになる。
突然増した荷重に、地上へ向けられていた呪霊の指先が小刻みに揺れた。体勢も大きく崩し、ウチを引いていた力が一瞬だけぶれる。
「ナニ……!?──グゥッ!?」
膝が腹を捉えるより早く、拳が胸へめり込んだ。
身の丈から想像し得ない過剰な重さと、ありったけの呪力を込めた拳骨。硬質なものを殴ったように、甲高い音が鼓膜を打つ。呪霊の胸にひびが走った。
手の中で骨がずれ、手首から肘まで一息に痺れた。けれど、拳は引かない。押し込んだまま、呪霊の上半身が大きく仰け反った。
ウチを引いていた力が、途切れた。
「来い! 鵺!」
傷めた片翼を引きずりながら、鵺が背後から舞い戻る。
残った翼が大きく開いた。
青白い電光が呪霊を呑み込む。胸に入ったひびが、多面体の頭まで走った。それでも、呪霊は崩れなかった。
黒く焦げた両手が、胸の前で組まれた。ないはずの瞳が、一斉にこちらを見下ろした気がした。
「ッ──!?」
背筋が粟立つ。何をするのか考えるより先に、鵺を崩した。
そして。
「領域展開──
果てなき空が、縦横無尽に広がった。
◆
ウチの顎が跳ね上がった。
同時に肋が軋み、両脚が互い違いに引かれる。左肩の傷が開き、右肘の奥で骨が鳴った。
「がっ──ぁあッ!?」
噛み締めた歯の間から声が漏れる。引かれるままに身体を捻り、少しでも衝撃を逃がそうとした。だが、捻った先から別の力が肩と腰へ食い込んでくる。
逃がす先がない。
四方へ引かれる身体を力づくで丸め、居合の構えを取った。
(簡易領域……!)
呪力を周囲へ押し広げる。薄い膜が全身を包み、出鱈目に肉体を引いていた力から解放された。
視界を埋めるのは、どこまでも同じ青だった。太陽も雲もない。地平線さえ見当たらず、どちらが上かも分からない。
離れたところで、呪霊が空中に立っている。胸から多面体の頭までひびが走り、全身を黒く焦がしていた。けれど、痛みに堪えるような身じろぎひとつ見せていない。
「小賢シイ手ヲ」
「チッ……!」
長い脚が視界の端から迫った。
膝を引き上げ、脛で受ける。衝撃で身体が回転し、簡易領域の端が崩れていく。
次の瞬間、脚だけが身体から引き離されるようにさらわれた。引かれる方向へ腰を回しながら、簡易領域を張り直す。
「幾重ニ重ネヨウト、無駄ナ事ヲ」
呪霊の長い腕が突き出される。足場のない空中では、身を捻るくらいでしか避けようがない。黒い指が頬を掠め、耳から流れていた血を鋭く散らした。
張り直した簡易領域も、先ほどより早く削られる。
今度は右肘だった。
守りが剥がれたところから、力が身体へ入り込んでくる。腕が跳ね上がるより先に、もう一度簡易領域を押し広げた。
呪霊は間合いを離さない。簡易領域を張り直すたび、拳や蹴りを差し込んでくる。受ければ傷が増え、避けようにも蹴る地面がない。領域が削られれば、身体の一部を掴んだ力がウチを好き勝手に振り回す。
次の簡易領域は、閉じ切る前に端から崩された。
型の要となる右手首の皮膚が粟立つ。
(来る……!)
ウチは呪力をかき集めた。入り込んでくる力に対抗すべく、正面から純粋な呪力を放出した。
奇しくもそれは、後に知る御三家に伝わる対領域術『落花の情』──その真似事だった。
「ふんッ……!」
「ナニ?」
手首を引こうとした力が弾けた。痺れは残ったが、腕は持っていかれていない。その時にはもう、首筋と左膝へ別々の力が食い込んでいた。
首だけは呪力を回して守る。左脚が横へさらわれ、腰の奥から鈍い音が響いた。噛み締めた口の中に、血の味が滲む。
呪霊が腕を振り下ろす。回転する身体を丸め、肩越しにかわした。黒い指が制服の脇腹を裂く。
その間にも、別々の場所に力が食らいついていた。肩は守る。足首は捨てた。
「ッ──!!??」
声にならない悲鳴を押し殺す。
ぶちぶちと音を立てて引き千切られる。急速に足首から熱を引き抜かれる感覚。あるべきところに何もなく、爪先に力を込めても空を切る。
簡易領域が剥がれるたび、守りきれない肉が啄まれる。皮膚の下を激痛が駆け巡り、虫を嬲るように力が喰む。
防いでいるだけでは、いずれ内臓に指がかかる。そうなればもう、打つ手がない。
「次ハ、何処ヲ捨テル」
呪霊が距離を詰めてきた。多面体の頭に入ったひびが、先ほどより深くなっている。ウチの身体を動かすたび、呪霊側にも少なからず負担がかかるのか。いくらでも力を好き勝手出せるわけではないらしい。
それでも、先に尽きるのはウチの方だ。
呪霊の手が、開いた脇腹を狙って伸びる。
腕を払う余裕はない。
影はどこにも落ちていなかった。地面がないのだから当然か。
それでも、鉄塊と庭石の重さは身体に残っている。崩した鵺も、玉犬も脱兎も満象も、影の中から消えたわけではない。
そして、影を足元に縛る道理もない。
「おかげで一つ、分かったわ……!」
血に濡れた両手を胸の前へ上げる。
呪霊の指が脇腹へ届く。皮膚を裂かれる寸前、全身に食い込んでいた力へ、残った呪力をまとめて叩き返した。
身体を引いていた力が、わずかに緩む。
「ナニヲ──」
ウチは掌印を組んで、迷わず吠えた。
「領域、展開ッ──!!」
Tips:オリジナル特級呪霊『穹蒼《きゅうそう》』。空、高所、墜落への畏怖から生まれた特級呪霊。大地への畏怖から生まれた花御などと同じく、一般的な呪霊よりも精霊に近い災害呪霊の一体(呪力を感知しづらい)。古くは崖や建造物から落ちることへの恐怖を糧としていたが、高層建築や航空機の普及とともに急速に力を増した。
本人の思想は至って単純。空は、人が立つ場所ではない。見上げ、畏れるものである。なので、飛行機も高層ビルも基本的に嫌い。鳥に乗って堂々と空へ上がってくる術師など、穹蒼にとっては許しがたい存在である。
Tips:オリジナル術式『天羅《テンラ》』。穹蒼の生得術式で、空中にあるものにとっての《下》を変更する術式。重力そのものを操る術式ではない。重力っぽい描写もあるが、あれは空気を下に落とした結果であって、重力ではない。基本的に、地面や、地面に接続するものなどに触れている間は、作用しない(指向性を持って操る場合はその限りではないが)。一般運用では、《下》を指定した層を周囲に幾重にも張り巡らせており、普通の術師であるなら《層》を落ち続けて平衡感覚を喪失し、呪力制御が困難となることで加速の負荷に負け、死ぬ。
Tips:オリジナル領域展開『十方顛倒界《じっぽうてんどうかい》』。穹蒼の領域展開。結界閉鎖型の必中必殺の領域。領域内部に広がるのは、地面も地平線も存在しない果てのない空。細分化された《下》が敵対者を襲う。『天羅』と違い、落下するように徐々に加速するのではなく、《下》を指定された瞬間に0-100で千切り取られる。モツが見えない状態で直接モツ抜きできるわけではないが、腹を抉られモツが晒される状態となれば、直接引きずり出すことも不可能ではない。
Tips:オリジナル設定『なんちゃって落花の情』。朔弥渾身の偶然の産物。御三家相伝の対領域術『落花の情』であるが、女という理由で教えられていない。なお、簡易領域も東堂や三輪の見様見真似である。