禪院の式神姫 作:いかいしんしょうまこーら
血に濡れた指先が、胸元で二つの輪を結んだ。
「領域、展開ッ──
その内側から溢れた影が、落ちることなく空中に留まった。
細い黒線が輪を描き、その輪から伸びた影が別の輪へと繋がっていく。地面のない空を縫い、呪霊の領域を侵食する。
必中術式が乱れる。
多面体の頭が、興味深そうに煌めいた。
「其処ニ至ルカ」
「いうて、不完全やけどな……ッ!」
返す声と同時に、足もとに影が走った。黒い面が何もない空へせり出し、左脚の断面から落ちた血でびちゃりと赤く滲む。反射的に両脚へ重さを預けた途端、断面を貫く激痛に顔を顰めた。右脚へ体重を逃がして踏み直す。影は揺らがず、正常な足裏を確かに受け止めていた。
その隙を見逃さず、呪霊が腕を薙ぐ。
ウチはそれに合わせて目の前に輪を開いた。呪霊の腕が呑み込まれ、ウチの背後に浮かんだ輪から、肘のところまで飛び出した。
「不用意すぎやろ……!」
「ッ──!?」
閉じる。呪霊が二度目の驚愕を露わにした。
閉じた縁が呪霊に食い込み、腕をそのまま半ばから断ち切った。肘から先だけがウチの背後に取り残され、切断面から青白く煌めく結晶の粒が噴き出した。
その隙に、一本の黒線を胸のひびへ走らせる。
黒い輪が、砕けかけた胸板へ重なった。
「ウチの影にはぎょうさん重しがはいっとる……! ほんで浮かべた輪は全部、ウチの影で繋がっとる! どこから呑んで、どこから吐くかもウチ次第や……! どこに荷重をかけるかも、もちろんお手のもんや!!」
「術式ノ開示カッ!?」
残った手がウチへ向く。親指と小指。二本の指先が別々の方角を示してから、ウチの首と肩とに呪力が這う。
力が食いつく。指先が示した方へ千切られかけ──
「もうそれは効かへんで……!」
それより先にそれぞれ呪力で叩きだした。二つの力が弾け、痺れだけが皮膚を走る。それでも、呪霊の胸へ重ねた輪は揺らがない。
暗がりの奥から、鉄塊の角が覗いた。
呪霊の指がすぐさまそちらへ向く。押し返すような力が鉄塊を捉え、黒い輪が大きく歪む。それでも排出は止まらない。続いて本体が、呪霊の胸の中に押し出されていく。
「貴様ッ、コレハ……!?」
「重いやろ! 呪力たっぷりウチ謹製や! まだまだあるで……!」
胸のひびが左右へ広がった。
呪霊は鉄塊へ向けた指を動かさないまま、別の二本を開いた。両膝が、それぞれの指先へ向かって跳ねる。足首から先を失った左脚から血が散り、腰から下が引き裂かれそうになる。
両脚へ食いついた力に、即座に呪力を叩き返す。二つの力が弾けた。
胸元で指を組み替え、二つの輪を噛み合わせた。
影を巡る呪力を、わざと乱す。
途端、押し潰すような荷重が、ウチの全身と、鉄塊を噛ませた呪霊の胸へ同時に通った。右脚が軋み、左脚の断面が影へ押しつけられて血が溢れる。
青白い胸も鉄塊ごと沈む。押し返す力が鈍り、角がひびの奥に食い込んだ。
「ぅぎぃっ──出ろやぁッ!!」
「グゥッ──!!??」
鉄塊が一気にせり出した。
青白い胸が内側から割れる。多面体の頭まで伸びていたひびが開き、上半身が大きく裂けた。
敵の領域が揺らぐ。
胸元で、貫牛の印を結んだ。
「遠雷ッ!」
ウチが貫牛に与えた名は、《遠雷》。
名で形と役割を縛ったぶん、百鬼夜行時の通常顕現より注ぎ込める出力は跳ね上がる。
影の奥で、蹄が鳴った。
現実の走路は必要ない。幼少期からの鍛錬で、ウチの影は無尽に等しい。影の中で駆けた距離も、そのまま《遠雷》の力になる。
「何ヲシタッ……!」
走らせ続けていた音が急速に間を詰め、一打ごとの響きを重くして迫っている。
鉄塊を吐く黒い輪の奥で、鈍い衝突音が弾けた。《遠雷》の額が鉄塊の背を捉え、そのまま押し出す。
「ぶち抜けッ!! これがウチの最大火力やァッ──!!!!」
「ヌゥォォオオッ──!!??」
抗う力ごとねじ伏せ、鉄塊が呪霊の胸へさらにめり込む。裂け目が大きく広がり、その後ろから、加速しきった《遠雷》が黒い輪を抜けて飛び出した。
百鬼夜行の夜に大通りを駆けた頃より、肩はひと回り高く、首から前脚にかけての肉付きも厚い。額から伸びた二本角は長く、根元から前へせり出すように太くなっていた。
二本角が、鉄塊に割られた胸の奥へ突き立った。
「これで仕舞いやッ!!」
乾いた亀裂音が弾け、衝撃が呪霊の首を抜けて多面体の頭を内側から砕いた。
勢いを残した《遠雷》の進路へ、もう一つ輪を開く。巨体は頭から暗がりへ呑まれ、そのまま影の奥へ消えていった。
細長い身体が黒ずみ、鉄塊の周りから崩れていく。欠片は空へ散った端から消え、何一つ残らなかった。
敵の領域が閉じ始める。
「……やったったで、ボケナスが……!」
鉄塊を影へ引き戻した。最後の角が黒い輪へ沈んだところで、連なっていた線と輪が途切れる。足もとの影も消えた。
青一色だった空が割れる。見慣れた樹冠が、遥か下に広がっていた。
腹の底が、重力に引かれた。
「……あかん」
落ちる。
印を結ぼうとした指に、呪力がついてこない。影へ意識を向けても、鵺の気配は沈んだまま動かなかった。
術式が焼き切れている。
「この高さで、それは反則やろ……!」
返事をする相手はもういない。
呪力で頭部と背骨を固め、顎を引く。肩と腰、内臓の多い腹へ残りを回し、両脚を身体へ引き寄せ抱え込んだ。
樹冠へ突っ込む。
太い枝が背中へ当たり、折れた。続けて肩、腰、腕へ枝がぶつかる。左脚を庇いながら、葉と木片を撒き散らして枝葉を突き破り、
「カハッ……!?」
最後に地面へ叩きつけられた。
肺から息が抜けた。
指一本動かせない。左肩と左脚の断面から流れた血が土へ染み込み、耳の奥では甲高い音が鳴り続けていた。
しばらく空だけを見上げる。
見慣れた空には、雲があった。
「……勝ったんやから、もうちょい優しく落とせや」
地面に手をつき、上体を起こす。脇腹が痛み、すぐに肘が折れた。左脚は足首から先を失い、土の上に投げ出されていた。
円鹿を呼ぼうとして、やめる。今の影は何も返してこない。
千切れた左脚の断面を押さえ、これまで円鹿から浴びてきた呪力を思い出す。傷を押し固める呪力とは、流れ方からして違っていた。
腹の底で、呪力をぶつける。
何も起きない。
もう一度。吐き気が込み上げ、鼻から新しい血が落ちた。
三度目で、指先にわずかな熱が生まれた。
その熱を左脚の断面へ押し込む。失った足を生やすどころか、傷口を塞ぐにも足りない。それでも、溢れていた血は少しだけ鈍った。
そこで、呪力が散った。
治ったとは到底言えない。それでも、死ぬまでの猶予は伸びた。
折れた幹へ背を預け、影が戻るのを待った。
◆
どれほど経ったか。いつの間にか帳は上がっていた。足もとの葉の下で、影の縁がわずかに揺れた。
胸の前で印を結ぶ。
「円鹿」
白い巨体が影から立ち上がった。
正の呪力が傷へ流れ込む。ウチが絞り出したものは傷口の手前で散ったが、円鹿の呪力は裂けた肉の奥まで迷わず通っていく。
千切れた左脚の先から骨が伸び、肉がその周りを覆っていく。足首が形を取り、爪先まで熱が通った。左肩の傷も塞がり脇腹の痛みが薄れたが、耳鳴りまでは消えない。右腕もまだ痺れていたが、立って歩く程度なら問題なかった。
円鹿を影へ戻し、木の幹に手をついて立ち上がった。
Tips:オリジナル領域展開『連環曼荼羅阿頼耶識《れんかんまんだらあらやしき》』その①。朔弥の領域展開。掌印は転法輪印(秤の領域展開の掌印に似ている)。穹蒼の領域を足がかりに展開しており、現時点では不完全。擬似ワープゲートのような扱いもできる。ワープゲート通過中に影を閉じることで切断も可能。本来であれば物理的な距離が必要な貫牛も、影の中を走らせることでお手軽に最大火力を出すことができるブッ壊れ(なお、幼少期から身を削るような鍛錬が必要な模様)。
Tips:オリジナル設定『十種影法術の式神への名付け』。名を与えることで形を定め、役割を縛り、出力をブーストする。朔弥による術式の解釈の一側面。
玉犬:? 鵺:? 脱兎:? 満象:? 大蛇:? 蝦蟇:? 貫牛:遠雷 円鹿:? 虎葬:? 魔虚羅:未調伏