禪院の式神姫 作:いかいしんしょうまこーら
空は、見上げるものでよかった。
人間は地に立ち、手の届かぬ青を仰ぐ。落ちれば砕ける己の脆さを思い、そこにある高さを畏れていればいい。
◆
帳が降りるより先に、私は花御たちとともに高専の敷地へ入った。
花御は地上を選び、森へ降りていく。木々が花御を受け入れるように枝を撓ませ、その足が触れた土の下で根が蠢いた。
真人は呪物の保管場所へ向かった。人間によく似た笑みを浮かべたまま、校舎の方角へ姿を消していく。
あれは人間に近すぎる。姿形の話ではない。戯れに他者へ触れ、内側を覗き、気まぐれに形を変える。その浅ましさが、人間とよく似ていた。
花御の方がまだ理解できる。人間に踏み荒らされる地を憎み、その上に根を張る。私が地上に関心を持たぬのと同じように、花御も空へ踏み込もうとはしなかった。
地上は花御に任せればいい。
私は樹冠の上へ昇り、呪力を空気へ溶かした。人間がどこを走ろうと、その頭上には私がいる。それでよかった。
やがて、眼下で森が盛り上がった。
無数の根が土を割り、絡み合いながら一本の巨木を形作っていく。
そのとき、陽が翳った。頭上では黒い膜が山を包むように広がり、帳が降り始めていた。
巨木の方角へ、翼ある式神が樹冠を抜けてきた。
背には、人間の女が乗っていた。
女は私を見つけると、式神の進路を僅かに変えた。
退くためではない。私との距離を縮めようとしている。
「頭ガ高イ。ココハ、地ヲ這ウ貴様等ニハ、不釣リ合イダ」
女は頭を垂れなかった。
私が横を指せば、式神とともに何もない方角へ落ちた。《下》を組み替え、女だけを引き離し、地上へ続く幹へ叩きつける。
樹皮へ触れた途端、女の身体から術式の効力が外れた。
地へ繋がるものに触れている限り、空の理は及ばない。そこで大人しく地上を這っていればよい。
だが、女は再び私の空へ手を伸ばした。
幹や枝の影から白い兎を溢れさせ、象の鼻から水を吐かせる。異なる《下》へ散る兎と、空域を越えるたびに折れる水筋を見比べていた。
私を攻撃しているのではない。
落ちるものを使い、目に見えない空域の境を描き出している。
層を組み替えて答えを崩しても、女の目は水と兎の軌道を追い続けた。
こちらを見上げていた人間が、傲慢にも私の空そのものを見始めていた。
◆
地に立つ身体へ術式を及ぼすには、多量の呪力を要する。
私はその無駄を承知で女を地上から剥がし、空へ放り出した。
足裏が離れれば、もう地の守りはない。
女の肩を裂き、肋を打ち、幾度も《下》を変えて振り回す。ところが、女は次第に落下に逆らわなくなった。私の指先から次の方角を読み、引かれる力を移動に使い始める。
衣服の裾が翻ったとき、その裏の影から先ほどの式神が現れた。
地上から離れたその僅かな暗がりから巨体を引き出してみせたのだ。
異質ではあった。
それでも私は、その意味を小さく見積もった。
式神を退け、女を胸元へ引き寄せる。地上へ落として膝で迎え撃つはずだった。
その寸前、女の身体へ異様な荷重がかかった。
人間一人の身の内に収まるはずのない重さが術式の効力を彷徨わせ、私の指先を揺らす。軌道がぶれた隙に、拳が胸へめり込んだ。
胸板へ入ったひびを、式神の電光が頭部まで走らせる。
もはや、ただ落とすだけでは足りない。
私は胸の前で両手を組んだ。
「領域展開──十方顛倒界」
私の領域から、地も雲も消えた。
果てのない青の中で、女の身体に幾つもの《下》を書き込む。顎、脇腹、左肩、右肘、腰、両脚。それぞれを異なる方角へ落とせば、肉体は自らの重みによって裂ける。
女は簡易な領域を重ね、守りから零れた箇所へ純粋な呪力を叩きつけて抗った。
それでも、すべては守れない。
鳥が啄むように肉を剥ぎ、足首を捉え、落とした。
肉と骨が千切れ、失われた足先と噴き出した血が別々の方角へ流れていく。
傷が増えるほどに呪力は乱れ、血が流れるほどに衰えていく。人間とはそういうものだ。
だが、女は自らの傷口ではなく、私に刻まれた亀裂を見ていた。女が抗うたび、術式の負荷が私へ返ることを読み取っている。
それでも先に裂けるのは女の方だ。
私が開いた脇腹へ手を伸ばすと、女は血に濡れた両手を胸の前へ上げた。
「おかげで一つ、分かったわ……!」
全身へ食い込ませていた力が、正面から叩き返される。
僅かに緩んだ身体を止め、女が掌印を結んだ。
「領域、展開ッ──連環曼荼羅阿頼耶識──!!」
◆
女の指が作った輪から、影が溢れた。
落ちる先のない黒が空中に留まり、幾つもの輪を描いて私の領域へ広がっていく。
その影は、女の足もとにもせり出した。
失われた左足の断面から血が落ち、黒い面を水っぽく叩く。女は痛みに顔を歪めながら、残った右足をそこへ置いた。
影が足裏を受け止める。
女は地面を探し当てたのではない。
何もない空へ自らの影を張り、それを立つための面にした。
私の空の中へ、自分が立つための地を作り出したのだ。
「其処ニ至ルカ」
「いうて、不完全やけどな……ッ!」
不完全でも、足場は生まれた。
必中を中和された私の攻撃は、指先を介さなければ女へ届かない。方角を示すたびに呪力を叩き返され、伸ばした腕は黒い輪へ呑まれて半ばから断たれた。
女が自らの理を声にした途端、空中の輪を巡る呪力が膨れ上がった。
直後、胸へ重なった輪から鉄塊が現れた。
術式で押し返しても、影の奥から注がれる重さがそれを上回る。鉄塊はひびへ食い込み、胸を内側から押し開いた。
続いて聞こえたのは、蹄の音だった。
地面のない空で、何かが走っている。
女の影は足場であるだけではない。式神を宿し、どこまでも駆けさせる道でもあった。
蹄の響きが一息に近づく。
鉄塊の背後で衝突音が弾け、そのまま私の胸へ押し込まれた。後ろから黒い輪を抜けてきた巨牛の角が、開いた亀裂の奥へ突き立つ。
「これで仕舞いやッ!!」
衝撃が胸から首へ抜け、頭部を内側から砕いた。
視界が幾つにも割れていく。
最後まで残った視界に映った女は、もう私を見上げてはいなかった。
血に濡れた黒い地に足を据え、私と同じ高さから真っ直ぐこちらを睨んでいた。