禪院の式神姫 作:いかいしんしょうまこーら
京都校の車が見えなくなっても、しばらくその場に残っていた。
別に見送る必要があったわけじゃない。
交流会は終わった。向こうは京都へ帰り、俺たちは普段の生活へ戻る。それだけだ。
なのに、頭の中にはまだ昨日の戦いが残っていた。
「恵」
横から声がした。見なくても分かる。
五条先生がいつの間にか隣に立っていた。
「何ですか」
「禪院の姫と戦ってみて、どうだった?」
禪院の姫。
一瞬、誰のことか考えてから、朔弥さんだと分かった。
昨日の戦いを思い返す。答え自体は決まっていた。
「強かったです」
返事がない。
横を見ると、五条先生の口元が妙に楽しそうに歪んでいた。
「へえ」
「何ですか」
「いやぁ、恵がそんな素直に他人を褒めるんだなって」
「事実を言っただけです」
強かった。そこを否定しても意味はない。
「ただ、どこまで強いのかは分かりませんでした」
「なんで?」
「俺が使った式神しか使わないって、最初に言われてたんで」
朔弥さんが見せたのは、俺が先に見せたものだけだ。
それ以上を調伏しているのか。しているなら何を持っているのか。
結局、何も分からないまま終わった。
「なるほどねぇ。じゃあ恵だけ手の内見せちゃったんだ」
「……そういう言い方するなら、もう話しません」
「拗ねない拗ねない」
「拗ねてません」
五条先生を無視する。
思い返してみても、やっぱり気に食わない。
玉犬を出せば玉犬。鵺を出せば鵺。満象を出せば満象。不知井底を使えば、朔弥さんも同じものを返してきた。
俺が思いつかなかったような、奇抜な使い方を見せられたわけじゃない。むしろ逆だった。同じものを正面から出されたから、誤魔化しが利かなかった。
式神そのものの出力。制御。切り替え。術者本人が動きながら、どこまで式神へ意識を回せるか。条件を揃えられた上で比較された。
俺が一体見せるたび、向こうは同じ式神を調伏済みだと示した。でも、朔弥さんから先に手札を切ることはない。俺が何を調伏しているのか。どこまで使えるのか。どう動かすのか。たぶん、知りたかったのはそれだけだ。
何かを教えられたわけじゃない。新しい術式運用を見せつけられたわけでもない。ただ、同じ十種影法術を持つ術師に、今の自分がどの程度なのかを一方的に測られた。
それが一番腹立たしかった。
「恵?」
「まだいたんですか」
「ひどくない?」
「もういいです」
「感想会終わり?」
「終わりです」
五条先生は不満そうだったが、それ以上は聞いてこなかった。
玉犬のことも話さなかった。戦っている最中、一度だけ聞いた言葉がある。
『クロ、ハク一旦戻り』
朔弥さんが二頭の玉犬を影へ戻したときの呼びかけだ。
そのときは気にも留めなかった。
でも、あとになって妙に耳に残った。
クロ。ハク。
黒と白を区別するためだけの呼び方じゃない。二頭には、それぞれ名前がついている。
「じゃ、僕も戻ろっかな」
「どうぞ」
「恵もいつまでも突っ立ってないで帰りなよ」
「分かってます」
五条先生が離れていく。
足音が遠ざかってから、ふと足元の影へ目を落とした。
俺は、玉犬に名前をつけたことがない。玉犬に限らずそうだ。
昔、五条先生から、式神には名前をつけない方がいいと言われたことがある。十種影法術の式神は、完全に破壊されれば二度と戻らない。任務で使い続ける以上、失う可能性は避けられない。名前を与えて一体の個体として意識すれば、その分だけ思い入れも強くなる。失ったときに引きずる。
合理的だと思った。だから玉犬は玉犬だった。白と黒を区別する必要はあっても、それ以上の名前をつけようとは思わなかった。
実際に白を失ったとき、名前がなくても何も感じなかったわけじゃない。
影に意識を落としても、もう二度と出てこない。残った黒へ力が受け継がれたところで、白が戻ってきたわけでもない。
もし、名前までつけていたら、たぶんもっと引きずっていた。
だから、五条先生の助言が間違っていたとは思わないし、今から名前をつけようとも思わない。
ただ、朔弥さんも十種影法術の術師だ。式神が完全に破壊されたらどうなるか、知らないはずがない。それでも、玉犬に名前をつけた。
戦いの最初、俺が黒い玉犬を出したとき、朔弥さんは影からもう一頭が出てこないことに気づいた。
──白い方は?
──……破壊されました
──さよか
それだけだった。
そのあと、俺は渾を出した。白を失った黒が、その術と力を継いだ姿だ。
朔弥さんは渾を見て、何が起きたのかすぐに理解したのだろう。
十種影法術の式神が破壊されればどうなるかも、残された力がどう継がれるかも知っている。つまり、名前をつけることも、何も知らずにやっているわけじゃない。
慰められもしなかった。気の毒そうな顔をされたわけでもない。その場では、必要な情報を得たから話を切り上げただけだと思っていた。今でも、それが一番ありそうな気はする。
けど、自分の玉犬に名前をつけている人なら、式神を失うことが、単に使える戦力が一つ減るだけじゃないことくらい分かっていたのかもしれない。同じ術式を持っているからといって、分かったように慰めなかった。
そう考えれば、あの短い返事も少し違って聞こえる。
考えすぎかもしれない。朔弥さんがそこまで考えて「さよか」と言ったのかなんて、俺には分からない。勝手に好意的に解釈するつもりもないし、逆に、冷たい人だったと決めつける理由もなかった。
相手の手札を一方的に見せさせて、正面から力量を測ってくる。傲慢で、強い術師。そこは変わらない。
ただ、それだけでもないらしい。失えば余計に重くなることを知った上で、自分の式神に名前を与えている。
俺には合理的な選択には思えない。でも、何も考えずにつけた名前でもないんだろう。
朔弥さんが自分で選んだ、式神との距離だ。
俺とは違う。
◆
周囲に誰もいないことを確かめて、手を組む。
足元の影が揺れ、黒い巨体がせり上がった。
玉犬・渾が俺の傍らへ現れ、そのまま腰を下ろす。
白の力を継いでいる。爪も牙も、以前の黒よりずっと強い。でも、白が戻ってきたわけじゃない。黒は黒のまま、いなくなった白の力を抱えている。
新しい名前をつけようとは思わなかった。これからも、たぶんつけない。それはこいつを軽く見ているからじゃない。失う可能性のある式神を、それでも戦わせ続けるために俺が選んだ距離だ。
朔弥さんとは、その距離の取り方が違うだけだった。
渾の頭へ一度だけ手を置く。
耳がわずかに動いた。
次に朔弥さんと戦うときも、同じ使い方をするつもりはない。式神に名前をつけるつもりもない。でも、一方的に手札を見せさせられて、力量を測られただけで終わる気もなかった。
手を離し、渾を影へ戻す。
黒い巨体が足元へ沈み、気配が消えた。
同じ術式を持っているだけで、同じ術師になるわけではない。
次は、見極められる側では終わらない。