禪院の式神姫 作:いかいしんしょうまこーら
※渋谷事変本編は鋭意執筆中。
幕間IF 最高に運の悪い名もなき呪詛師によるプロローグ
電車は地下の緩いカーブを抜け、速度を落とさないまま直線に入った。
暗い窓には、蛍光灯に照らされた最後尾車両が映っていた。座席はすべて埋まり、通路も扉の前も、渋谷へ向かう仮装客で塞がれていた。色鮮やかなカツラや帽子、血糊のついた衣装が、揺れるたびに隣の身体へ押しつけられた。
連結扉のそばでは、女が携帯電話を見たまま車体の揺れに押され、隣の乗客へ肩をぶつけた。
《次は渋谷、渋谷──》
次の降り先を告げる車内放送を、その男は車両の中頃で吊革に掴まりながら聞き流していた。
放送が終わると、車輪の響きに話し声と衣擦れが重なった。
電車がレールの継ぎ目をいくつか越えたところで、前方の連結扉が端から黒く染まった。
扉をすり抜けた黒い膜が、携帯電話を触る女も横切り、他の乗客も座席も吊革も、広告の垂れ下がった天井さえも一息に呑み込んだ。
女の指が画面の上で止まったときには、黒はもう男の目の前まで迫っていた。
視界が塗り潰された。
次の瞬間には、車内の明かりが戻る。振り返ると、黒い膜はすでに乗務員室の仕切り窓の向こうへ遠ざかっていた。
女が携帯電話から顔を上げた。進行方向へ顔を向けていた数人も、首を巡らせて前後を見ている。目を閉じたまま眠る者も、携帯電話を見続ける者もいた。
「今、何か通らなかった?」
「え、何が?」
同じものを見たらしい何人かが、押し合う肩越しに隣の者へ声を潜めた。電車は変わらず走り、照明ひとつ消えていない。
(……帳か)
高専に籍を置いたことはない。それでも、金を取って人を呪い、ときには術師の仕事を横から掠めてきた。呪術を隠すために下ろされる帳の黒さくらいは知っている。
男の身体にも傷はない。冷たさや衝撃もなく、呪力が乱れた感覚も残っていなかった。
男は吊革を握り直した。どこの術師が何を始めたのかは知らない。電車ごと通す帳なら、自分には関係がないのだろうと判断した。
囁きが消えないうちに、前の方でまた誰かが息を呑んだ。
連結扉のガラスの向こうが、再び黒く染まっている。
「何だ、あれ」
近くの乗客が漏らした。男も視線を向けただけで、吊革から手を離さなかった。
一枚目と変わらない。黒い膜は先ほどの女を通り抜け、その後ろに詰まっていた乗客を次々と横切った。誰かが身を竦ませるより早く、車両の中頃にいた男に迫る。
今度も同じだ。
そう考えたところで、黒が顔に触れた。
鼻の奥で骨が鳴った。吊革が手の中から引き抜かれ、床が靴底をさらう。肩を触れ合わせていた乗客も、座席も窓も、まとめて前方へ走り去った。男だけが黒い膜の手前に取り残された。
「な──」
声を出す暇もない。すぐ横に立っていた乗客の胸元へ男の肩が食い込んだ。相手は隣の二人を巻き込み、長椅子に座っていた客の上へ倒れた。反動で男の身体が反対側へ振れ、肘がそちらの立ち客にぶつかった。女の手提げ鞄の持ち手が男の指に絡み、女は隣の乗客ごと通路へ引き倒された。
鞄の持ち手が千切れたときには、男はもう数メートル後ろにいた。
車両の中頃から最後尾まで、両側に詰めていた立ち客が一息に押し退けられた。仕切りの前で通路の左右に立っていた二人も、振り向く前に男の肩と肘にぶつかり、それぞれ座席側へ弾かれた。その身体が床へ崩れるのと同時に、男の背中が乗務員室の仕切りに叩きつけられた。
黒い膜は男を通さない。乗務員室の仕切りは、走る電車とともに前へ進む。間に挟まれた男の胸から空気が押し出され、開いた口から潰れた声が漏れた。
「か、は……っ」
声が途切れても、異変は止まらなかった。
車輪の音も乗客の悲鳴も長く引き延ばされ、一つの低い唸りに変わった。仕切りに叩きつけられた直後のはずなのに、背中から伝わる圧力だけが、ひどくゆっくりと身体へ沈んでくる。
胸の奥で肋骨の一本が撓んだ。戻る前に折れた。その隣が折れ、さらに下の骨が砕ける。肩が内側へ押し込まれ、両腕の付け根が胸へ寄った。息を吸おうとしても、もう肺の膨らむ場所がない。
腹がせり上がり、喉の奥に鉄の味が溢れた。胸が背中へ押し寄せ、自分の身体が前後から薄くなっていくのが分かった。
仕切りの金属板がわずかにたわんだあと、男の身体の方が形を失った。
骨と肉がまとめて潰れ、男の息が止まる。
その途端、それまで男を拒んでいた黒い膜が死体を通り抜けた。
帳が最後尾の窓から遠ざかったあとも、長椅子や床に折り重なった乗客たちの呻き声は続いた。
車両の中頃から仕切りまで、押し退けられた人の間に歪な空白が伸びていた。乗務員室の仕切りには、押し潰された赤い男だけが貼りついていた。
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