禪院の式神姫 作:いかいしんしょうまこーら
柄を握ったところで、庭の向こうから声が飛んだ。
「またお前か。触るな言うたやろ」
昨日、木刀を取り上げた男だった。今朝も男の子のそばに立ち、腕の振り方を教えていた。
ウチは木刀を持ち上げた。昨日より重い。両手で引いても、切っ先は土を離れなかった。
「返せ」
男が庭を横切ってくる。返すつもりはなかった。昨日は落ちていたから拾っただけだった。今日は自分で取りに来た。
柄を胸まで引き上げようとすると、足もとの影が揺れた。
風はない。ウチの着物の裾も、庭木の葉も動いていない。それなのに影だけが水みたいに波打ち、黒と白に分かれて足首へまとわりついた。
男の手が肩へ届くより先に、影が盛り上がった。
黒い鼻先が出た。次に耳、前脚、背中。反対側からは白い獣が這い上がる。どちらも犬に似ていたが、近所で見る犬より大きく、爪が土へ食い込んでいた。
白い方がウチと男のあいだへ入り、低く唸った。
男の足が止まる。
「なんや、それ」
答えられない。黒い方はウチの膝へ鼻を寄せた。毛に触れると温かく、指の下で息をしている。
木刀が手から滑った。土へ落ちる前に、白い方が口で受け止めた。
男の子が稽古用の木刀を放り出し、男の背へ隠れた。その音で白い獣が顔を向ける。男は男の子を抱えるようにして後ろへ下がった。
「人呼べ。早う!」
「ウチ、何もしてへん」
「動くな。そこから動くなよ」
昨日は勝手に構えるなと言った声が、今日はひっくり返っていた。
何人も庭へ駆け込んできた。最初に来た女が、白と黒の獣を見て息を呑む。その後ろから来た老人は、ウチではなく足もとを見たまま近づいた。
「手で犬の形を作ってみい」
「犬?」
「こうや」
老人が両手を組み、指で獣の頭を作った。真似をすると、二頭が同時にこちらを見上げた。
老人の喉が鳴る。
「玉犬や。十種影法術が出よった」
誰かが走り去った。さっきまでウチを叱っていた男は、もう何も言わない。
「解いてみい。影へ戻すつもりで手をほどけ」
組んだ指を離す。黒い獣の脚から形が崩れ、足もとの影へ沈んだ。白い方も木刀を置くと、その隣へ消えていく。影はまた、朝の光を背にしたウチ一人の形へ戻った。
庭に残ったのは、歯形のついた木刀だけだった。
「朔弥」
名前を呼ばれて顔を上げる。老人は一度口を閉じてから、言い直した。
「朔弥様。こちらへ」
母さま以外にはろくに呼ばれなかった名前に、昨日までなかったものがついていた。
◆
連れていかれた部屋には、朝餉と湯が用意されていた。粥から湯気が上がり、魚までついている。母さまと分けていた膳より大きかった。
箸を持つ前に、知らない男が薬箱を抱えて入ってきた。手首を取り、脈を測り、喉を見せろと言う。
「どこか痛むところはありますか」
「ない」
「気分が悪い、息が苦しいということは」
「ウチやなくて、母さまを診て」
男の指が止まった。部屋の隅にいた女が目を伏せる。昨日、母屋の裏口で、あとで人をやると言った女だった。
「お母上は、もう……」
「昨日は来えへんかったやろ」
「私は今朝、こちらから急ぎの使いを受けまして」
「今日は頼んだら、すぐ来たん?」
男は答えず、女を見た。女も何も言わなかった。
手を引くと、男は止めなかった。
「もうええ」
「しかし、念のため──」
「痛いとこない。母さまのときに診てほしかった」
◆
粥は冷めるまで、そのまま置かれていた。
食べろと言われたから、半分だけ口へ入れた。魚には箸をつけなかった。母さまが寝込んでから、魚は一度も膳に上がらなかった。味がしても、飲み込むと胸の奥で固まった。
医者が帰ると、別の女が着物を何枚も運び込んできた。どれがよいかと訊かれたが、どれも母さまが縫ったものではない。
「昨日までの着物でええ」
「これからは、そういうわけにはいきません」
「なんで」
「朔弥様は、大事なお方になられましたから」
「昨日は大事やなかったん?」
女は帯を広げたまま黙った。
「母さまの針と、縫いかけの布、どこやったん」
「あれはもう、片づけを」
「持ってきて」
返事がないので、もう一度言った。
「持ってきて」
「……承知しました」
女は頭を下げた。
昨日、声が枯れるまで人を呼んでも、誰も来なかった。今日は声を荒らげなくても、一度言い直せば人が動いた。
変わったのはウチではない。朝になっても背は伸びていないし、急に木刀が軽くなったわけでもない。足もとの影に、犬が二頭増えただけだった。
◆
昼を過ぎる前に、当主がいるという母屋へ連れていかれた。
昨日は裏口までしか入れなかった建物だった。今日は正面から上がり、廊下を進むたび、すれ違う人が道を空けた。
広い座敷の奥に、男が座っていた。庭にいた老人や、見たことのない男たちが両脇へ並んでいる。どれもウチの顔より先に、足もとの影を見た。
「出してみろ」
奥の男に言われ、教わったばかりの形に手を組む。
影から白と黒の獣が現れた。白い方はウチの隣へ座り、黒い方は座敷の匂いを嗅いでから伏せる。
並んでいた男たちの息が動いた。
「間違いないな」
「十種影法術です」
「分家の、それも娘に出るとはな」
最後に言った男は、口元を歪めていた。笑ったのか、嫌がったのかは分からない。
当主は二頭をしばらく眺めてから、ウチへ目を移した。
「今日から術式の手ほどきを受けてもらう。体術も呪具も、必要なものは用意させる」
「木刀も?」
「木刀でも真剣でも、持てるようになればな」
「昨日は、女には要らんって言われた」
座敷の端で、男の肩が揺れた。いつの間に呼ばれたのか、後ろの方で頭を下げていた。
「それは術式が分かる前の話で」
「術式なかったら、今も要らんかったん?」
「朔弥様」
老人が低い声を出した。当主は手を上げて止める。
「そうだ。術式も力もない者に、かける手間は限られる」
「あの男の子も、術式まだ分からんのやろ」
「男は家を継ぐ。女とは違う」
昨日と同じ答えだった。
白い獣の耳が、後ろへ倒れる。ウチの手に力が入ったからかもしれない。
「ほな、なんでウチには教えるん」
「ソレを持っているからだ。禪院家の相伝の中でも、別格の術式だ。使いこなせば、家の頂に立つこともできる」
「家の頂って、当主?」
「そうだ」
「当主が医者を呼べ言うたら、みんな聞く?」
並んだ男の一人が眉を寄せた。当主だけは、表情を変えなかった。
「分家の者を一人診せるくらいなら、誰も逆らいはしない」
「女の子が木刀持っても、取り上げられへん?」
「当主が許せばな」
「病気の人に、仕事せんでええって言える?」
「それも当主の差配だ」
母さまは家の人の言うことを、ちゃんと聞いていた。頼まれたものを直し、具合が悪くても謝った。それでも医者は来なかった。
今、ウチが手を組んだだけで、知らない医者が走ってきた。
黒い獣が顔を上げる。白い方も、ウチの返事を待つように見ていた。
「なら、ウチが当主になる」
座敷のどこかで、短く息を漏らす音がした。
「術式が出たばかりで、よく言う」
「なれるんやろ?」
「十種影法術を持って生まれただけでは足りん。式神を従え、術式を磨き、家の者に力を認めさせなければならない」
「全部できたら、なれる?」
当主はすぐには答えなかった。両脇の男たちを見る。誰もウチと目を合わせなかった。
「そこまでできたなら、誰もお前を無視はできないだろうな」
「分かった」
組んだ手をほどく。二頭の獣は影へ戻り、座敷から消えた。
「何が分かった」
「誰にも無視できんくらい、強うなったらええんやろ」
当主が初めて笑った。
「まずは、その生意気な口に見合うだけの力をつけてみろ」
◆
座敷を出て廊下を進んでいると、後ろから「朔弥様」と呼び止められた。振り返ると、男が木刀を手に追いついてきた。昨日、ウチの手から奪ったものだった。白い獣の歯形が、柄の近くに残っている。
男はウチの前まで来ると、両手で木刀を差し出し、頭を下げた。
「本日から、私が稽古をつけさせていただきます」
「昨日、お前には要らんって言うたやん」
「十種影法術をお持ちとは知らず、失礼を」
やはり、ウチに謝っているのではなかった。
木刀を受け取る。重さは朝と変わらない。男が手を添えようとしたので、自分で持つと言って退かせた。
庭へ下り、昨日の男の子がしていたように両足を開く。両手で柄を握り、胸元へ引き寄せようと力を込めた。腕が震え、切っ先は土を擦ったままだった。
男は笑わなかった。
「腰を落として。腕だけで持とうとなさらず」
言われたとおり膝を曲げ、もう一度、柄を引いた。今度も持ち上がらない。手のひらの棘を抜いたところが赤くなった。
それでもやめなかった。腕が上がらなくなると休めと言われ、少し動くようになれば、また柄を握った。
日が傾く前、女が包みを抱えて庭へ来た。中には、母さまの針と縫いかけの布が入っていた。声を上げなくても、頼んだものが戻ってきた。
木刀を持つことも、医者を呼ぶことも、誰かが決めている。その誰かが間違えても、下にいる者は頭を下げるしかない。
なら、一番上まで行く。
男に言われる前に腰を落とし、柄を引いた。切っ先が、ほんの少しだけ土を離れた。
Tips:朔弥の母親。禪院家に嫁入り後、家に馴染めず気を病み、病に倒れる。朔弥の父親は殉職のため不在。