禪院の式神姫   作:いかいしんしょうまこーら

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続・幼少期。


第二話 十種影法術

 

 柄を握ったところで、庭の向こうから声が飛んだ。

 

「またお前か。触るな言うたやろ」

 

 昨日、木刀を取り上げた男だった。今朝も男の子のそばに立ち、腕の振り方を教えていた。

 ウチは木刀を持ち上げた。昨日より重い。両手で引いても、切っ先は土を離れなかった。

 

「返せ」

 

 男が庭を横切ってくる。返すつもりはなかった。昨日は落ちていたから拾っただけだった。今日は自分で取りに来た。

 柄を胸まで引き上げようとすると、足もとの影が揺れた。

 風はない。ウチの着物の裾も、庭木の葉も動いていない。それなのに影だけが水みたいに波打ち、黒と白に分かれて足首へまとわりついた。

 男の手が肩へ届くより先に、影が盛り上がった。

 黒い鼻先が出た。次に耳、前脚、背中。反対側からは白い獣が這い上がる。どちらも犬に似ていたが、近所で見る犬より大きく、爪が土へ食い込んでいた。

 白い方がウチと男のあいだへ入り、低く唸った。

 男の足が止まる。

 

「なんや、それ」

 

 答えられない。黒い方はウチの膝へ鼻を寄せた。毛に触れると温かく、指の下で息をしている。

 木刀が手から滑った。土へ落ちる前に、白い方が口で受け止めた。

 男の子が稽古用の木刀を放り出し、男の背へ隠れた。その音で白い獣が顔を向ける。男は男の子を抱えるようにして後ろへ下がった。

 

「人呼べ。早う!」

「ウチ、何もしてへん」

「動くな。そこから動くなよ」

 

 昨日は勝手に構えるなと言った声が、今日はひっくり返っていた。

 何人も庭へ駆け込んできた。最初に来た女が、白と黒の獣を見て息を呑む。その後ろから来た老人は、ウチではなく足もとを見たまま近づいた。

 

「手で犬の形を作ってみい」

「犬?」

「こうや」

 

 老人が両手を組み、指で獣の頭を作った。真似をすると、二頭が同時にこちらを見上げた。

 老人の喉が鳴る。

 

「玉犬や。十種影法術が出よった」

 

 誰かが走り去った。さっきまでウチを叱っていた男は、もう何も言わない。

 

「解いてみい。影へ戻すつもりで手をほどけ」

 

 組んだ指を離す。黒い獣の脚から形が崩れ、足もとの影へ沈んだ。白い方も木刀を置くと、その隣へ消えていく。影はまた、朝の光を背にしたウチ一人の形へ戻った。

 庭に残ったのは、歯形のついた木刀だけだった。

 

「朔弥」

 

 名前を呼ばれて顔を上げる。老人は一度口を閉じてから、言い直した。

 

「朔弥様。こちらへ」

 

 母さま以外にはろくに呼ばれなかった名前に、昨日までなかったものがついていた。

 

 ◆

 

 連れていかれた部屋には、朝餉と湯が用意されていた。粥から湯気が上がり、魚までついている。母さまと分けていた膳より大きかった。

 箸を持つ前に、知らない男が薬箱を抱えて入ってきた。手首を取り、脈を測り、喉を見せろと言う。

 

「どこか痛むところはありますか」

「ない」

「気分が悪い、息が苦しいということは」

「ウチやなくて、母さまを診て」

 

 男の指が止まった。部屋の隅にいた女が目を伏せる。昨日、母屋の裏口で、あとで人をやると言った女だった。

 

「お母上は、もう……」

「昨日は来えへんかったやろ」

「私は今朝、こちらから急ぎの使いを受けまして」

「今日は頼んだら、すぐ来たん?」

 

 男は答えず、女を見た。女も何も言わなかった。

 手を引くと、男は止めなかった。

 

「もうええ」

「しかし、念のため──」

「痛いとこない。母さまのときに診てほしかった」

 

 ◆

 

 粥は冷めるまで、そのまま置かれていた。

 食べろと言われたから、半分だけ口へ入れた。魚には箸をつけなかった。母さまが寝込んでから、魚は一度も膳に上がらなかった。味がしても、飲み込むと胸の奥で固まった。

 医者が帰ると、別の女が着物を何枚も運び込んできた。どれがよいかと訊かれたが、どれも母さまが縫ったものではない。

 

「昨日までの着物でええ」

「これからは、そういうわけにはいきません」

「なんで」

「朔弥様は、大事なお方になられましたから」

「昨日は大事やなかったん?」

 

 女は帯を広げたまま黙った。

 

「母さまの針と、縫いかけの布、どこやったん」

「あれはもう、片づけを」

「持ってきて」

 

 返事がないので、もう一度言った。

 

「持ってきて」

「……承知しました」

 

 女は頭を下げた。

 昨日、声が枯れるまで人を呼んでも、誰も来なかった。今日は声を荒らげなくても、一度言い直せば人が動いた。

 変わったのはウチではない。朝になっても背は伸びていないし、急に木刀が軽くなったわけでもない。足もとの影に、犬が二頭増えただけだった。

 

 ◆

 

 昼を過ぎる前に、当主がいるという母屋へ連れていかれた。

 昨日は裏口までしか入れなかった建物だった。今日は正面から上がり、廊下を進むたび、すれ違う人が道を空けた。

 広い座敷の奥に、男が座っていた。庭にいた老人や、見たことのない男たちが両脇へ並んでいる。どれもウチの顔より先に、足もとの影を見た。

 

「出してみろ」

 

 奥の男に言われ、教わったばかりの形に手を組む。

 影から白と黒の獣が現れた。白い方はウチの隣へ座り、黒い方は座敷の匂いを嗅いでから伏せる。

 並んでいた男たちの息が動いた。

 

「間違いないな」

「十種影法術です」

「分家の、それも娘に出るとはな」

 

 最後に言った男は、口元を歪めていた。笑ったのか、嫌がったのかは分からない。

 当主は二頭をしばらく眺めてから、ウチへ目を移した。

 

「今日から術式の手ほどきを受けてもらう。体術も呪具も、必要なものは用意させる」

「木刀も?」

「木刀でも真剣でも、持てるようになればな」

「昨日は、女には要らんって言われた」

 

 座敷の端で、男の肩が揺れた。いつの間に呼ばれたのか、後ろの方で頭を下げていた。

 

「それは術式が分かる前の話で」

「術式なかったら、今も要らんかったん?」

「朔弥様」

 

 老人が低い声を出した。当主は手を上げて止める。

 

「そうだ。術式も力もない者に、かける手間は限られる」

「あの男の子も、術式まだ分からんのやろ」

「男は家を継ぐ。女とは違う」

 

 昨日と同じ答えだった。

 白い獣の耳が、後ろへ倒れる。ウチの手に力が入ったからかもしれない。

 

「ほな、なんでウチには教えるん」

「ソレを持っているからだ。禪院家の相伝の中でも、別格の術式だ。使いこなせば、家の頂に立つこともできる」

「家の頂って、当主?」

「そうだ」

「当主が医者を呼べ言うたら、みんな聞く?」

 

 並んだ男の一人が眉を寄せた。当主だけは、表情を変えなかった。

 

「分家の者を一人診せるくらいなら、誰も逆らいはしない」

「女の子が木刀持っても、取り上げられへん?」

「当主が許せばな」

「病気の人に、仕事せんでええって言える?」

「それも当主の差配だ」

 

 母さまは家の人の言うことを、ちゃんと聞いていた。頼まれたものを直し、具合が悪くても謝った。それでも医者は来なかった。

 今、ウチが手を組んだだけで、知らない医者が走ってきた。

 黒い獣が顔を上げる。白い方も、ウチの返事を待つように見ていた。

 

「なら、ウチが当主になる」

 

 座敷のどこかで、短く息を漏らす音がした。

 

「術式が出たばかりで、よく言う」

「なれるんやろ?」

「十種影法術を持って生まれただけでは足りん。式神を従え、術式を磨き、家の者に力を認めさせなければならない」

「全部できたら、なれる?」

 

 当主はすぐには答えなかった。両脇の男たちを見る。誰もウチと目を合わせなかった。

 

「そこまでできたなら、誰もお前を無視はできないだろうな」

「分かった」

 

 組んだ手をほどく。二頭の獣は影へ戻り、座敷から消えた。

 

「何が分かった」

「誰にも無視できんくらい、強うなったらええんやろ」

 

 当主が初めて笑った。

 

「まずは、その生意気な口に見合うだけの力をつけてみろ」

 

 ◆

 

 座敷を出て廊下を進んでいると、後ろから「朔弥様」と呼び止められた。振り返ると、男が木刀を手に追いついてきた。昨日、ウチの手から奪ったものだった。白い獣の歯形が、柄の近くに残っている。

 男はウチの前まで来ると、両手で木刀を差し出し、頭を下げた。

 

「本日から、私が稽古をつけさせていただきます」

「昨日、お前には要らんって言うたやん」

「十種影法術をお持ちとは知らず、失礼を」

 

 やはり、ウチに謝っているのではなかった。

 木刀を受け取る。重さは朝と変わらない。男が手を添えようとしたので、自分で持つと言って退かせた。

 庭へ下り、昨日の男の子がしていたように両足を開く。両手で柄を握り、胸元へ引き寄せようと力を込めた。腕が震え、切っ先は土を擦ったままだった。

 男は笑わなかった。

 

「腰を落として。腕だけで持とうとなさらず」

 

 言われたとおり膝を曲げ、もう一度、柄を引いた。今度も持ち上がらない。手のひらの棘を抜いたところが赤くなった。

 それでもやめなかった。腕が上がらなくなると休めと言われ、少し動くようになれば、また柄を握った。

 日が傾く前、女が包みを抱えて庭へ来た。中には、母さまの針と縫いかけの布が入っていた。声を上げなくても、頼んだものが戻ってきた。

 木刀を持つことも、医者を呼ぶことも、誰かが決めている。その誰かが間違えても、下にいる者は頭を下げるしかない。

 なら、一番上まで行く。

 男に言われる前に腰を落とし、柄を引いた。切っ先が、ほんの少しだけ土を離れた。




Tips:朔弥の母親。禪院家に嫁入り後、家に馴染めず気を病み、病に倒れる。朔弥の父親は殉職のため不在。
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