禪院の式神姫 作:いかいしんしょうまこーら
影から吐き出した庭石が、路面を這う呪霊の胴を横合いから押し潰した。
石が舗装を削り、火花を散らして止まる。平たい胴から突き出していた腕の何本かが、石の下でなお蠢いていた。
足もとの影を伸ばす。玉犬の顎だけが浮かび、石からはみ出した頭へ食らいついた。噛み砕く音のあと、腕から力が抜ける。黒ずんだ肉が崩れ、焼けた油に似た臭いを残して消えた。
庭石を影へ沈め直す。ひとつ出し入れした程度では、身体にかかる荷重はほとんど変わらない。影の中には、庭石も鉄塊も呪具も、それ以外もまだ大半が沈んでいる。その重みを路面へ漏らすようなヘマはしない。足裏から新たな亀裂が走ることもなかった。
閉じた店の硝子戸に、ウチのほかに動く人影は映っていなかった。
帳が下りる前に、この一帯の避難は終わっている。車道に残された車も、停留所へ寄せきれなかった路線バスも空だった。
「禪院さん!」
一つ後ろの交差点で、補助監督が片腕を上げた。そこから先は帳の外へ続く。黒い布の向こうには警察車両の赤い灯が滲んでいた。
術師と補助監督だけで、これだけの範囲に規制線を張り、人を遠ざけ続けるのは不可能だ。そこを補う形で帳の外では警察が道路を塞いでいた。
「一級相当が二体! 一体は建物の上、もう一体は地下へ分かれました!」
「ほな、近いやつから」
見上げる。
雑居ビルの外壁に、脚の長い呪霊が張りついていた。腹に並んだ目が、無人の通りを見下ろしている。
影から鵺を放ち、その上空へ回す。
腹が縮んだ。長い脚が壁を蹴る。
飛び移るより先に、鵺の電撃が真上から身体を貫いた。腹の目が白く弾け、勢いを失った呪霊が車道へ落ちてくる。路面の影から黒い爪を伸ばし、頭から舗装へ叩きつけた。
それだけで、気配が絶えた。黒ずんだ身体が端から崩れ始めたときには、玉犬の片割れ──クロが地下道の入口へ鼻を向けていた。
「もう一体はあっちやな」
「地下の見取り図を──」
「いらん。手に合わんやつだけ教えェ」
鵺を通りの上空に残し、クロを先へ走らせた。
階段を下りるにつれ、地上の警報音が遠のいた。照明の半分が消えた通路の奥から、濡れた布を引きずるような音が返ってくる。
暗がりでクロが唸った。直後、平たい腕が闇から滑り出す。その一本に食らいつき、根元にある黒い塊を照明の下まで引きずり出した。人の上半身ほどの胴から、節のない腕が何本も床へ張りついていた。
クロに食らいつかれた腕が跳ね上がる。玉犬が壁へ叩きつけられる寸前、牙が影へ消える。腕だけが湿った音を立てて壁を打ち、間を置かず別の一本が階段を薙いだ。
それをハク共々影へ沈んでやり過ごし、呪霊の脇へ出る。
今度は、足もとの影からハクの顎が立ち上がった。胴へ食らいつき、そのまま持ち上げる。床へ張りついていた腕が次々に剥がれ、胴の内に口のような裂け目が覗いた。
その腹へ、呪力で固めた拳を突き上げる。
接触の一瞬、影に抱えた重さを拳へ通した。
踵の下で石床が砕け、黒い胴が水風船のように膨れて弾け飛ぶ。平たい腕がまとめて床へ落ち、黒い飛沫は頬へ届く前に消えた。
消えかけた飛沫の下を、クロが通路の奥へ駆け抜ける。鼻を床へ寄せて暗がりを探り、やがて戻ってきた。
「もうおらん?」
クロは一度だけ鼻を鳴らした。
階段を上がる。入口で待っていた補助監督は、ウチの姿を見ると持っていた端末から顔を上げた。
「このあたりの呪霊は粗方祓い終わりました」
「ほな、お疲れさん。次どこ?」
「次は──」
そのとき、遠くで桁の違う呪力が膨れ上がった。
交差点の向こうへ目をやる。ビルの上に白い頭が見えた。
五条悟は、群がる呪霊を前にしても、身構える様子すらない。何をしたのかまでは、ここからでは見えなかった。ただ、次の瞬間には、その周囲だけ呪霊の気配がまとめて消えた。
五条から目を離す。
直毘人から受けた命令は、新宿の増援だけではなかった。
◆
出立前、座敷で任務票を受け取ったときのことが蘇る。
「東京は人手が少ないようだ」
「ほんでウチ?」
「そう睨むな。適材適所というやつだ」
理屈は合っている。
京都側に置けば、禪院家の術師にウチが指示を出す場面も増える。それを嫌がる者がいるのも知っていた。新宿に一人で回せば、家の者をウチの下につけずに済む。それでいて、ウチが上げた戦果は禪院家の手柄として数えられる。
勝手な都合だとは思う。それでも、新宿へウチを回す判断そのものは間違っていないのだろう。なら、断る理由もなかった。
任務票を畳んだとき、直毘人は酒器へ手を伸ばした。
「五条も新宿だ。見ておけ」
「特級の? 監視でもやらすん?」
「できるものならな」
直毘人は酒を一口含んだ。
「もう一つ。伏黒恵という小僧が五条のところにいる」
「誰それ」
「甚爾の息子だ」
「いや、誰それ」
「知らんか。元は禪院だ。お前が生まれる前に家を出た。その息子に十種が出たらしい」
「ほんまなん?」
「さあな。十種を使う小僧がいたら見ておけ」
◆
ハクが低く唸った。
場所を変えた先。空の路線バスが一台停まっていた。そのバスの屋根越しに現れた大きな手が、車体の横腹を掴む。窓が砕け、指が食い込んだ。
バスが持ち上がる。
その向こうにいた呪霊は、肩から伸びた一本だけが不釣り合いに太かった。目も鼻もない黒い頭。腹にかけて縦に裂けた口からは、細い腕が何本も垂れている。その下で、二本の脚が路面を踏みしめた。
車体を掴んだ腕が、大きく後ろへ引かれる。巨体ごと捻り、太い腕を振り抜いた。
「うわっ、わやするやん」
足もとの影へ二頭ごと沈む。鉄の塊が影越しに頭上を過ぎ、耳障りな音を立てて背後へ落ちた。舗装を削る振動が影の内まで響く。周囲は、燃えるバスによって俄かに明るくなっていた。
投げ切った腕の下を影で詰める。体勢を戻そうと踏み出した足の下から鉄塊を吐き、舗装を割って突き上がった鉄塊に、巨体の軸が少なからず跳ねた。
隙だらけのそこにハクとクロの顎が立ち上がる。牙が噛み合う。膝裏へ食い込む牙は、そのまま抵抗なく呪霊の両膝を食い千切った。
脚をなくし、堪らず巨体が前へ崩れた。口から垂れていた腕が一斉に伸ばされ、何本もの細腕が路面を叩く。腹が落ちる寸前で、つっかえ棒のように自重を支えた。
「殴りやすなったなァ」
頭を垂れた呪霊に、先の拳打。太い腕が邪魔するよりも先に、影の重量を思い出した拳が顔面を捉えた。路面がひび割れ、呪霊はまた水風船のように弾け消えた。
鉄塊を沈め直す。慣れた荷重が影に戻り、クロが影から這い出てくる。
「次」
脇道へ鼻を向ける。ワンと一度小さく吠えると、子どもの泣き声が混じった。
クロを先へ走らせ、細い通りへ入った。
閉じた店のシャッターの隙間。停車した車の下。割れた戸口の奥。そこかしこから、小柄な呪霊が這い出してくる。頭だけが膨らんだもの。腕で歩くもの。腹を擦りつけるもの。形は違うのに、どの口からも同じ泣き声が漏れていた。
一体ずつは弱く、しかし建物の中まで一軒ずつ追うのは手間だった。
両手を組む。
「脱兎」
玉犬が溶け、足もとの影から白い兎が溢れ出した。
通りを埋め、車の下をくぐり、店の奥へ飛び込んでいく。ひとつの泣き声が白い背を追い、二つ、三つと重なった。隠れていた呪霊まで次々に這い出し、兎の流れに呑まれていく。
ウチ自身も脱兎に運ばせ、呪霊諸共広い交差点の中央へ集めさせた。追いすがった呪霊が、白い背を奪い合うようにぶつかり、折り重なった。
頭上で、鵺の羽音が一度重く鳴る。白い群れが影に溶けた空白へ、青白い雷が落ちた。
交差点が光に裏返る。黒く焼けた肉が煤へ変わり、重なっていた泣き声が一息で途切れた。
「なんやぁ?」
それでも、祓っただけの軽さがない。ここ一帯に張りつく呪力が、ほとんど薄れていなかった。
鵺を上空で旋回させたまま、玉犬を通りの左右へ放つ。ハクが向かいの店先で止まり、クロは停車した車の下へ鼻を差し入れた。
どちらも低く唸る。
軒下に、一体いた。先ほど焼いたものとよく似た小さな呪霊が、シャッターの隙間から半身を出している。二階の割れた窓にもいた。車の下。看板の陰。さっき通った路地の奥。
一体ずつなら、電撃を逃れただけに見える。
軒下の呪霊が、こちらへ首を傾けた。窓のものも、車の下のものも、看板の陰のものも、同じ瞬間に動いた。向いていた方も、ウチまでの距離も違う。それなのに、首が止まった角度まで揃っている。
別々の喉が、一度に息を吸った。
ハクとクロの毛が逆立つ。
「……ただの群れやないな」
通りのあちこちに散った口が、同じ形に歪んだ。
一体の呪霊が、いくつもの身体で笑っていた。
◆
笑い声が、交差点の四方から寸分違わず重なった。
軒下、割れた窓、停車した車の下。外周に散っていた呪霊が、一斉に車道へ這い出してくる。近いものから襲いかかってくるのではない。すべての身体が同じ瞬間に動き、交差点の中央へ距離を詰め始めた。
ハクを軒下の一体へ走らせる。牙が届くより先に、別の個体が歩道から飛び出して進路を塞いだ。同時に、反対側から近づいていたものがこちらへ向きを変える。
ハクが狙ったものも、それを見ていないはずのものも、次に何が起きるか知っていた。
中央まで入ってきた一体が跳ぶ。首へ伸びてきた手首を掴み、路面へ叩きつけた。頭が潰れた横を他のものがすり抜けようとする。クロが横から突っ込み、まとめて噛み砕いた。
ハクは進路を塞いだ個体を弾き飛ばし、軒下へ迫る。狙われた個体は、牙が閉じる前にシャッターの奥へ引っ込んだ。
「ほんま、全部見えとるんやな」
二頭を影へ引き戻す。
頭上で鵺が翼を打った。青白い電撃が交差点の外周を薙ぎ、中央へ寄ってきた呪霊を次々に灼く。焼けた身体が路面へ崩れ、黒い煤となって消えた。
それでも、辺りに染みついた呪力はほとんど薄れない。店の奥や路地の先から、新しい泣き声が幾重にも湧いた。
数えるだけ無駄だ。
両手を組む。
「脱兎」
白い兎を四方へ散らした。車道を駆けるもの、割れた戸口へ飛び込むもの、路地の角を曲がるもの。小型の呪霊は、こちらへ寄るのをやめ、それぞれ近くを通った兎を追い始める。
店へ飛び込んだ一羽だけを、陳列台の上へ跳ね上がらせ、そのまま奥へ走らせた。交差点からは戸口越しに見える。別の路地にいる個体からは、壁に遮られて見えないはずだった。
それでも、壁の向こうにいる個体が、兎の動きに合わせて進路を変えた。
いくつ目があっても、見ているものは一つらしい。
白い群れを走らせたまま、ハクとクロを放ち、上空では鵺が形を崩す。二頭は別々の道へ分かれ、ほとんど同時に鼻先を上げた。向いた先は、歩道脇の郵便受けに隠れた一体だった。
ほかより呪力が濃い。
クロが地を蹴る。小さかった頭が、その接近に合わせて膨らんだ。禿げ上がった額のような丸みがせり出し、肩が老人のように窄まっていく。
牙が閉じる寸前、その姿が萎んだ。
クロが噛み砕いたのは、元の小さな身体だけだった。少し離れた看板の陰で、別の頭が膨れ上がる。ハクがすぐにそちらへ向き直った。
一体分だけ濃かった呪力が、別の身体へ移っている。
「お前やな」
玉犬が崩れ、入れ替わりに足もとの影から現れた鵺の背へ足を掛ける。
鵺はその場で大きく翼を打つ。車道へ伸びてきた何本もの腕が鵺の鉤爪を掠め、交差点が一息に遠ざかった。
地上に残したのは、脱兎だけ。
路地や建物の中へ散らしていた白い群れを、交差点の中央へ走らせる。車の下から、店の奥から、白い背が次々に集まり、路面を覆っていく。
呪霊の群れもついてきた。上空のウチを見上げていたものまで首を戻し、近くを駆ける兎へ追い縋る。先頭が白い群れへ飛び込み、後ろから来たものに踏まれた。その上へ次が乗り、腕も頭も見分けがつかないほど折り重なる。
路地の奥に残っていた個体も、一つ、また一つと交差点へ出てきた。
老人めいた頭が、群れの端に浮かぶ。
逃げ先を探すように頭が萎み、次に膨らんだのは中央へ向かう身体だった。白い背を追う群れへ紛れ、さらに内側へ潜っていく。
鵺が上空で翼を広げた。
脱兎を崩す。
白い群れが一斉に影へ溶けた。空いた路面へ呪霊の身体が雪崩れ込み、押し合うように中央へ固まる。
そこへ、鵺の電撃を落とした。
青白い光が折り重なった身体を貫き、路面から跳ね返った。いくつもの小さな口から上がった声が一つに潰れ、交差点が揺れる。
焼けた身体が崩れ落ちた。上にいたものから煤へ変わり、腕も頭も黒い山へ埋もれていく。
通りの奥まで張りついていた圧が引いた。
代わりに、交差点の中央にだけ、異様な雰囲気が渦巻いている。
鵺が旋回する。
残骸の底で、黒く焼けた頭が持ち上がった。禿げ上がったように膨らんだ額。その下の口が大きく開き、周りの煤を吸い込んだ。
消えかけていた肉が止まる。
焼けた腕が隣の胴へ潜り、潰れた頭が肩の中へ沈んだ。折り重なった山が内側へ潰れていく。小さくなるほど、その中の呪力だけが濃くなった。
最後の身体が呑み込まれる。
黒い肉の塊から細い腕が伸び、路面へ手をついた。続いて肩が起き上がる。痩せ細った胴の上には、群れを渡っていたものと同じ、老人めいた頭が乗っていた。
さっきまで通り中に散っていた気配が、その一体から噴き上がる。
老人めいた頭が持ち上がり、上空のウチへ顔を向けた。
◆
老人めいた呪霊が、片足を引いた。
遅れて、交差点の中央が陥没した。痩せた身体が真上へ跳ね、鵺の腹へ腕を伸ばした。
ウチは鵺の背で身を伏せる。
鵺が翼をすぼめ、伸びてきた腕を軸にするように身を横へ倒した。街の灯が視界を一周する。巨体は螺旋を描いて腕の外へ抜け、黒い指が腹を掠めて羽根を何枚か攫っていった。
すれ違った呪霊が跳躍の頂点を迎える。鵺は一回転の終わりに翼を開き、落ち始めた呪霊の頭上へ回り込んだ。
影から吐き出した庭石が、呪霊に向けて落ちる。
呪霊は空中で身体を捻り、細い腕を振り上げた。庭石が真ん中から砕け散り、破片が痩せた身体とともに降り注ぐ。石片が喧しく路面を叩き、着地した呪霊の足もとから亀裂が四方へ大きく走った。
さっきまでの小さい身体とは、力の桁が違う。
鵺に高度を戻させる。ポケットの中でスマホが震えた。補助監督からだった。
「どしたん、手短に頼むわ」
『あ、禪院さん! 五条さんからです! 敵首魁の本命は東京校! 加勢してほしいとのことです!』
「かまへんけど、今ちょぉっとめんどそうなん相手にしてん」
『あ、手が空き次第で良いようです! ただ、急いで欲しいとも』
「いや、どっちやねん……。まあ、ええわ。了解」
通話を切り、スマホをポケットへ押し込む。
敵の親玉の欲しがるものが、東京校にある。そこを手薄にしたいがために、五条悟を新宿へ縫い止めるための今回の呪術テロ、というなら筋は通る。だから、手薄な東京校へすぐ向かうべき、というのも分かる。
「けどなぁ……」
眼下の呪霊が、二度目の跳躍に入った。
鵺の翼を傾け、伸びてきた爪を外す。
あれを残して背を向ければ、次に狙われるのは新宿に残る術師だ。
今いる面子だけに任せるには、少し荷が重い。
鵺を交差点の上へ返す。街灯に引き延ばされたウチの影から庭石を吐き出し、車道へ落とした。続けて鉄塊。その間を埋めるように、さらに二つ、三つと、ありったけの重しを降らせる。
庭石が舗装へ半ば埋まり、鉄塊が車線を塞ぐ。交差点の内も外も、黒い塊と石の出っ張りで埋まっていった。
呪霊が石を蹴って跳び上がる。鵺を切り返して躱し、空いた路面へ次の鉄塊を落とす。
最後の重しが交差点の中央へ落ちた。腹の底まで揺さぶる音に、身のうちに蟠っていた重さが消える。身体を支えていた呪力が、そのまま全身へ漲った。
鵺の影が解けるのと入れ替わりに、呪霊の頭上に巨大な影を開いた。
「満象」
象の巨体が落ちた。
呪霊の姿が腹の下へ消え、交差点が大きく沈む。周りの庭石が跳ね、鉄塊まで舗装の上を滑った。
満象の腹の下から細い腕が突き出した。路面へ手をつき、巨体を持ち上げようと黒い背が膨らむ。
持ち上がりかけた頭へ、満象の鼻先が向く。至近から水流が叩きつけられ、痩せた身体が腹の下から押し出された。激流に飲まれて車道を転がり、水が砕けた舗装の窪みを満たして石と鉄塊の間を抜けていった。
ウチは無事な鉄塊の上に降り立ち、巨体を影へ戻して鵺を放つ。青白い電撃が水面を走り、起き上がった呪霊を包み込んだ。膨らんだ頭に光が集まり、胸、腹、両脚へ散って足もとの水へ抜ける。
黒い肉は焼けていない。
鉄塊を蹴る。
起き上がった呪霊の懐に一息で潜り込むと、路面を踏むのと同時に胸へ拳を叩き込んだ。
肉が深く窪んだ。けれど、拳の形をした窪みは胸に残らず、肩から背へ滑って見えなくなった。
(手応えあんねんけど──)
衝撃まで皮膚の下を逃げていく。
「鵺は一旦バイバイや。大蛇、蝦蟇」
反撃の腕を屈んで外し、足もとの影から大蛇を伸ばす。太い胴が腰へ巻きつくのと同時に、蝦蟇の舌で片足を引いた。傾いた胸へ、もう一度拳を打ち込む。
(──効いてへんな!)
窪みは脇腹を回り、背中を滑って元へ戻った。
核と身体の間で、呪力も衝撃も回している。
拘束された身体が震えた。大蛇の胴が引き伸ばされ、蝦蟇の舌が張り詰める。千切られる前に二体を崩したが、空いた腕がこちらへ振り抜かれていた。
外周へ退き、鉄塊の陰へ滑り込む。
追ってきた拳が黒い鉄へめり込んだ。
押し込まれた鉄塊がシャッターへ届くより早く、その脇を抜ける。呪霊が腕を引き戻したところへ、足もとの影からハクとクロの顎だけを続けて立ち上げた。踏み潰される前に影へ戻し、別の場所からまた出し直す。
歩みが止まる。
衝撃を流して防ぐなら、流れを止めたところに一番重い一撃をぶつければいい。
「最大火力でブチ抜いたる……!」
大通りの遥か後方、ばら撒いた庭石の向こうへ影を伸ばす。
「貫牛」
石の隙間から、角のある頭が持ち上がった。
前脚が舗装を掻く。頭を下げた貫牛は、大通りを真っ直ぐ走り始めた。
最初の蹄の音は遠い。
大通りの奥で、庭石が砕けた。破片がシャッターを叩き、間を置かずにもう一つが弾ける。
呪霊が音の方へ膨らんだ頭を向けた。
横へ逃れようと踏み出した先は、庭石と鉄塊で塞いである。庭石を砕こうと腕を振り上げた呪霊──そのがら空きになった脇腹へ踏み込み、拳を叩き込んだ。
肉が深く窪み、拳に押し込まれた胴が横へ撓んだ。持ち上がっていた側の肩が落ち、振り下ろしかけた腕がぎこちなく止まる。窪みが体の表面を滑って胴を戻すより早く、その脇腹へ影を這わせた。
「虎葬」
黒い縞の入った前肢がせり上がり、爪を立てた。爪と肉の間に薄い膜が広がる。
皮膚の下を巡っていた呪力が、触れたところから乱れた。そこへ一発。
「ふんっ!」
「グ、ギッ……!?」
初めて呪霊が呻きを上げた。
虎葬の爪を覆う領域展延が、脇腹で術式を中和した。胸へ打ち込んだ拳の衝撃は、もう皮膚の下を逃げていかない。痩せた胴に大穴が開き、身体が初めて大きく傾いた。
呪霊がやぶれかぶれに腕を振り、虎葬の前肢を薙いだ。打たれた前腕は影へ溶けたが、爪だけは脇腹に食い込んだままだ。
呪霊が爪を引きずったまま、走路の外へ逃れようとする。逃げる先へ回り込み、横合いから掌底をぶつけて貫牛の進路へ押し戻した。そのまま傾いた身体の脇を抜け、呪霊を挟んで貫牛と一直線になる。
呪霊の背後で最後の鉄塊が弾けた。
音へ振り向いた先で、飛び散る金属片の向こうから貫牛が迫る。
痩せた背へ拳を突き込んだ。
同時に、貫牛の角が胸を捉えた。
衝突音が腹の底を打つ。痩せた身体はどちらへも弾かれず、角と拳の間で大きく撓んだ。循環を止められた肉は衝撃を逃がせず、胸から背までまとめて裂けた。
「仕舞いや」
開いた胸の奥に、黒く縮んだ核が見えた。その露出した本体へ拳を突き込んだ。
確かな手応えが、拳から肘まで返ってくる。
痩せた身体が水風船のように膨れ、拳の先から弾け飛んだ。
飛び散った黒い肉は路面へ落ちる前に煤となり、夜風に流され消える。交差点に残っていた気配がなくなった。
「ほんなら、行くか」
粗方の重しを一息に回収し、鵺の背に足を掛ける。
翼が大きく空気を打った。帳の黒い膜が眼下へ流れ、新宿の灯が一息に遠ざかる。
鵺の嘴を東京校の方角へ向け、そのまま夜空へ飛び出した。
◆
東京校の山が見えるより先に、ばらけていた呪力が動いた。
尾根の向こう、林の中、校舎のある方角。別々に濁っていた気配が、一点へ引かれていく。
鵺の背で身を低くした。影へ回収した鉄塊と庭石の重みは、もう身体に戻っている。腹の底まで軽かったさっきとは違う。鵺の首へ片手を置き、引かれていく気配の先へ高度を落とさせた。
木々の切れ間から、東京校の屋根が見えた。
境内の一角で、いくつもの顔と手足が黒い塊へ巻き込まれている。離れていた気配が重なるたび、輪郭は見えなくなり、呪力だけが一つに圧し固められていく。その先に立つ首魁──夏油傑が、片腕を前へ伸ばしていた。
向かいには、白い制服の少年と、その背後を覆う巨大な呪いがいる。二つの呪力が縒り合わさり、夏油へ向けて膨れ上がっていた。
鵺が、戦場となった境内のほど近くまで迫る。
その時にはもう、双方の攻撃が放たれていた。
黒い塊が夏油の前を離れ、紫の奔流が正面から押し寄せる。間へ差し込める余地はない。鵺の電撃を無理に射線へ乗せても、さしたる援護にはならないだろう。
黒と紫が正面から噛み合った。
境内の空気が一度内側へ吸われ、遅れて弾けた。夜空が紫に染まり、押し出された風が木々の梢をまとめて伏せる。
「うおっ!?」
鵺の翼が煽られた。大きく傾いた背から身体が浮きかけ、慌てて首元にしがみつく。片方の翼を開かせるが、それでも姿勢は戻りきらない。
このまま上空で粘るより、降りた方が早い。
鵺を境内へ続く通路へ滑り込ませ、そのまま脚をつかせた。
「おぉ……、底見えへんやん」
衝突した場所は大きく抉れていた。
黒い塊は消え、夏油の姿もない。白い制服の少年は地面に倒れていた。さっきまでその背後を覆っていた巨大な呪いも、今は姿を消している。
「おぅ、生きとるか」
呼びかけても、少年は動かなかった。
しゃがみ込み、鼻先へ指を寄せた。浅い呼気が触れる。息はある。ならば、気を割く必要はないだろう。
立ち上がり、足もとの影から玉犬を放つ。
「ほな、夏油追ってや」
二頭が抉れた地面の縁を回る。
複数の残穢が濃く重なっている。夏油がいた側には少なくない血が落ちていた。
ハクは境内から延びる通路の入口で鼻を上げ、その先へ向いた。クロも落ちた血を辿って同じ方向を見ていた。
◆
通路が折れた先に、夏油がいた。
塀を背にして座り込み、右袖は肩から先の形を失っている。血を吸った布が身体へ張りついていた。
その夏油の前に、五条悟が立っていた。
五条が夏油へ何かを話している。声は届いても、言葉までは拾えない。夏油が何事かを返すと、五条は黙った。
ハクとクロが低く唸った。その音に、五条がこちらを見る。
「ああ、禪院家の。わざわざ来てくれたんだ、ありがとう」
初対面のはずなのに、旧知にでも向けるような声音だった。
「かまへん。んで、お初お目にかかるわ、五条家当主サマ。顎で使うてくれてほんまおおきに」
五条が肩をすくめる。
「なんか棘があるじゃん……」
「こんなん挨拶みたいなもんや。──で、そいつとドンパチしよった白い子、無事やで」
「白い子……、憂太のことかな? そっか、無事か。ありがとう」
五条の肩から、わずかに力が抜ける。
「ウチは何もしてへん。着いたらほぼ終盤。無駄足やでホンマ」
五条の足元へ視線を移す。夏油は口を挟まず、壁にもたれたままウチを見ていた。
「……それよか、ちょっとその男に用があんねん」
「引導を渡すなら、俺の役目だ」
「勘違いしやんで? 聞きたいことがあんねん。──最後の黒い渦、あれ何? 死ぬ前に教えてや」
夏油の口元が、わずかに上がった。
「最期に術式の講義か。君も随分、呪術師らしいね」
「死んだら使えへんねんから、教えてくれてもええやろ」
返事を待つ間に、右肩から落ちた血が石畳へ新しい染みを作った。夏油は塀に背を預けたまま、一度息を吐く。
「極ノ番『うずまき』。取り込んだ呪霊を一つに束ね、超高密度の呪力として放つ。さっき見たとおりだよ」
「呪霊なら何でも?」
夏油がわずかに顎を引いた。
「私の術式で取り込んだものならね」
「そっか。ならええわ」
五条へ視線を移す。
「聞きたいんはそれだけや。邪魔したな」
「うん」
五条と夏油を残し、東京校を後にした。
◆
禪院家へ戻ると、ウチは座敷で直毘人と向かい合っていた。
「夏油な、たぶん死んだわ」
端的に切り出す。
「たぶん?」
「東京校で返り討ちや。呪具かなんか狙うてたみたいやけど、最後までは見届けてへん」
「五条がやったか」
「いや、五条が来る前に決着や。白い制服の子と撃ち合うとった。えげつないビームやったで。たぶんあれが乙骨やな」
呵々と笑う。
「乙骨か」
「ウチは顔知らんし。誰かさんのおかげで今年も対抗戦、出てへんからなァ」
直毘人は素知らぬ顔で酒器を傾けた。
「五条に会ったなら、十種の小僧は見たか?」
「見てへんな。十種を使うやつもおらんかった」
「探しもせずに戻ったか」
「言われたんは、『おったら見とけ』やろ。探してこいとは聞いてへんで」
少しばかり直毘人の態度にイラついたが、知ったことではない。
「聞きたいん、それだけ? ほな、もうええやろ」
話は終わったと席を立ち、座敷を出た。
廊下へ落ちた影に意識を向ける。回収した鉄塊と庭石が、体に馴染んだ重さを返している。そのさらに下には、九種の気配がそれぞれ別の形で潜んでいた。
これまで考えてきたのは、式神をどう外へ出し、どの順で継ぎ、敵を崩し制すかだった。
新宿で最後に祓った呪霊は、個で群れをつくり、群れを個とする類。もともと一体だったものが散り、元へ戻っただけだった。
けれど、夏油のアレ──極ノ番は違う。最初から別々だった呪霊を、ひとつにまとめ上げていた。
「……束ねる、か」
九種の気配は、影の底で互いに混じらない。
禪院家に残る記録には、複数の式神の性質を一時的に掛け合わせる拡張術式がある。ただ、組み合わせによっては、同時に出すだけで形が安定せず、拡張術式そのものが成立しないものもある。
破壊された式神の力が別の式神へ引き継がれることも、十種影法術の理の一つだ。
拡張術式は、解けば元へ戻る代わりに出力が落ちる。継承は、式神を失って初めて起こる。どちらも、無事な九種を、そのまま十全な力で一つに束ねる術ではない。
それでも、性質を重ねることも、力を移すこともできる。
なら、式神を失わず、出力を落とさず、それぞれの能力を十全に保ったまま、九種を束ねられるのか。
できるかどうかは、まだ分からない。
だが、ほとんど無駄足だった東京校で、先へ進む糸口だけは見えた気がした。
Tips:オリジナル呪霊『特級呪霊 ぬらりひょん』。本体を核に、自身のコピーを量産する呪霊。その他1級相当を含め、魑魅魍魎を従える能力を持つ。朔弥には単純に相性により撃破される。道中の一級相当の呪霊もぬらりひょんの配下にあったが.あっけなく朔弥に祓われたため、枝葉を断つがごとくぬらりひょん本体にまで呪霊側の異常が伝わらなかった。特級相当の理由は、個で群を生み出せるため。本来であれば配下を含めて集合体(ガリヒョロ老人体)になれるが、朔弥の対外的な呪力量から見誤り、無事死亡。