「──まず確認しておきたいが、君が今ここで感じている恐怖と、3日前に圏外で遭遇した危険は同一のものではない。身体がそう区別してくれるとは限らないが、少なくとも我々は分ける必要があると考えている。あの時の君は逃げ場のない場所でHPを赤まで削られた。今の君は安全圏内にいて、扉の外には仲間がいて、敵もいない。その事実を理解した上でなお怖いのなら、それは意志が弱いからではなく、恐怖に対する身体の反応がまだ過去の出来事を現在として扱っているからだろう。そこを責めたところで症状が良くなるとは思えない」
浮遊城アインクラッド第一層、《はじまりの街》の大通りから少し外れた静かな区画に、《蒼十字救道団》の拠点があった。もとはNPCが営んでいた2階建ての宿屋で、入口の軒下には蒼い炎を背負うように白い翼を広げ、その中心には銀色の十字を重ねた紋章が掲げられている。同じ意匠を小さくした徽章は団員たちの胸や肩にも留められており、攻略を目的としたギルドでも、商業を目的としたギルドでもない彼らが何者なのかを、言葉より先に示していた。
最初は単に《蒼十字》というギルド名だった。そこへ《救道団》という名を付け加えたのが団長のエレーナだった。
人を助ける集団なら救護団でいいのではないか、という意見もあった。しかし、エレーナは負傷者の傷を塞ぐだけではなく、戦えなくなった者、死を目の前にして立ち止まった者、仲間を失ってこの世界でどう生きればいいのか分からなくなった者が次の日まで辿り着けるような、人として正しい道を切り開くことも自分たちの仕事なのだ、と説明した。
少々大げさだと思った者もいたが、その名称は結局そのまま定着した。
その2階にある小さな個室で、エレーナは一人の少年と向かい合っていた。
彼女は戦闘用の重装備を身につけていない。紺色の衣服の上から白い長衣を羽織り、腰には剣の代わりに細身のナイフを何本も収めた革製のホルダーを巻いている。刃の形は一般的な短剣よりも細長く、白衣も相まってどこか外科用のメスを思わせた。短い黒髪と整った顔立ちにはほとんど表情の変化がないが、冷たいというよりも、相手が話し終えるまで余計な判断を挟まず観察しているような目だった。
向かいの少年は両手を膝の上で強く握っている。年は15、6歳ほどだろうか。
「でも、外に出られないんです。門の近くまで行くと、まだあいつがいる気がして……仲間はもう大丈夫だって言ってくれるんですけど、僕だけ怖がってるのが、なんか……」
「仲間の言葉自体は善意だろう。ただ、『大丈夫』という言葉は便利すぎる。何が大丈夫なのか定義しないまま使うと、受け取る側は自分だけが大丈夫ではないように感じることがある。君の仲間が間違っているわけではないが、今の君に必要なのは、恐怖を感じなくなることではなく、恐怖を感じても安全だと確認できる経験を少しずつ重ねることだ」
エレーナは手元の羊皮紙へ何かを書き加え、それから少年の顔を改めて見た。
「今日は安全圏外へ出なくていい。明日も無理なら出なくていい。ただし、部屋へ閉じこもったままにするつもりもない。明日は門の手前まで一緒に行ってみよう。そこで症状が出るなら引き返す。問題がなければ門の外に少しの間だけ出る。それでも大丈夫なら次を考える。攻略へ戻るかどうかは、その後で君自身が決めればいい」
「っ……エレーナさんが、決めてくれるんじゃないんですか」
「君の身体について意見は言えるが、君の人生について決定権を持った覚えはない。戦わないと決めるなら、それも選択だ。鍛冶師でも料理人でも、この世界で必要とされる仕事はいくらでもある。攻略へ行かなければ価値がないという考え方に賛成はできない」
少年はしばらく黙っていたが、やがて少しだけ肩から力を抜いた。
「じゃあ……今日は休みます」
「ああ。それがいい。昨夜は2時間程度しか眠れていないと聞いた。夕方以降は外出を避けて、食事を取って横になるといい。眠れないようなら当直へ声をかけてくれ。私でなければ話せないことがあるなら、その時は私を呼んで構わない」
「えっ……でも、エレーナさんも寝てるかもしれないですよね」
「当然だ。私も人間だからな」
「僕が眠れないからって、エレーナさんを起こすのは……」
「私の睡眠状況を君の診察へ組み込む必要はないだろう」
「でも僕に寝ろって言ってるのに、その」
「知識を有していることと、常に自分へ適用できていることは同義ではない。医療従事者が全員理想的な生活習慣を維持できているなら、世の中はもう少し簡単だろう」
エレーナは手元の記録を書き加え、最後に次回の予定だけを確認する。
「今日はここまででいい。急いで元に戻る必要はない。恐怖というものは、存在しないことにするより扱い方を覚えた方が長く付き合える。何か変化があればまた話してくれ」
「ありがとうございます……ドクター」
「その呼び方も訂正したはずだが」
「でも、皆んな呼んでますよ?」
「多数決で日本の医師免許は発行されない」
少年は少しだけ笑みを溢しそうになりながら、礼をして部屋を出ていった。
閉じた扉をしばらく見つめてから、エレーナは小さく息を吐き、記録を束ねて立ち上がった。その瞬間、階下から慌ただしい足音が聞こえ、若い女性の団員が少年と入れ違いで部屋の中に駆けてくる。
「団長、⬛︎⬛︎階層の班から救援です。5人のうち1人が負傷、植物系のモンスターが10体、負傷者を連れたままでの撤退が困難とのことです」
「負傷者の状態は?」
「HPは赤色、左足切断による移動速度低下等のデバフが入っています」
「分かった。私以外の救護班を2名、前衛を4名連れていく。残りは拠点へ残してくれ。全員を出す必要はないし、戻った後の受け入れ側まで空にする理由もない。足の切断による移動低下があるなら、討伐より先に退路を作る」
返事を待つより早く、エレーナは腰の装備を確認しながら歩き始めていた──瞬間、景色が白飛びして森に辿り着く。
森へ到着した時、前方には人の背丈を優に越える植物型モンスターが10体、太い蔓を振るいながら迫っている。岩壁に追いやられた1人のプレイヤーはやはり左足が切断されており、仲間に肩を貸されて立っている状態だった。
エレーナは周囲を見渡し、まず戦闘そのものより先に逃げ道を確認した。
「まずは負傷者をこちらへ。歩かせる必要はない、2人で支えて移動してくれ。前衛は右側だけ抑えていればいい。全て倒そうとするな、追跡範囲から離れれば済む」
エレーナは地を蹴って植物型モンスターに接近すると、腰から2本の細い刃を抜いて1本目を投擲した。
銀色の軌跡が1体の植物型モンスターの根元へ突き刺さるが、動きは止まらない。2本目を少し角度を変えて投げると、今度は敵の身体を黄色の光が走り、蔓が途中で力を失ったように垂れ下がった。
「1体の麻痺を確認した。残りも私と前衛が相手をする。救護班は負傷者とその仲間たちを連れて下がれ」
「団長、麻痺で止まってる今なら倒せます!!」
「倒せることと倒す必要があることは別だ。負傷者の回収が目的だったはずだろう。経験値が欲しいなら状態を整えてから改めて来ればいい」
前衛の女は一瞬だけ動けないモンスターを見たものの、直ぐに視線を他のモンスターに向けた。
「了解しました、撤退します」
「それでいい。最後尾は私が見る。想定時間よりも早く麻痺が解けた場合は追加で知らせる。その場合はパーティの指揮権限を一時的に君に移管し、私が状況を解決する」
全員が追跡範囲を抜けるまでに数分もかからなかった。討伐表示も報酬もなかったが、出ていった者が全員戻る。それ以上を求める理由を、エレーナは持っていなかった。
拠点へ帰れば、負傷者はすぐ担当者に引き渡された。誰かがポーションによる治療を始め、別の者が使用アイテムを記録し、さらに別の者が救出者から遭遇地点を聞き取って地図へ印を付けていく。エレーナは必要な報告だけを受け、それぞれの判断に問題がないことを確認すると、口を挟まず任せた。
《蒼十字救道団》はエレーナ1人で動くギルドではない。
人を救う救わないに関わらず、組織が1人の不在だけで機能停止するようなら、それ自体が大きな欠陥だと彼女は考えていた。
「団長、もうこっちはいいから食堂へ行ってください」
またいつの間にか時間が飛んで夜になり、記録担当の女性からそう言われたエレーナはまだ手元に残っていた用紙を見た。
「これを処理してから行く」
「また明日やればいいですよ。ずっと食べてないんですから、お腹空いてるんでしょう?」
「それはこの世界では擬似的な生理現象であって、緊急性を意味するものではない」
「もう、いいから食べてください。皆んな、団長のこと待ってますよ」
「……分かった」
エレーナは記録を置いた。
翌日の昼には、ギルドの施設の近くの路地裏で1人の少女が泣いていた。
また夜になれば、眠れないという少年の傍らに椅子を持っていった。
誰かが戦えるようになった。
誰かは戦わないことを選んだ。
誰かが帰ってきた。
誰かは帰ってこなかった。
蒼い炎に白い翼と銀の十字を描いた旗が、風のない仮想世界で揺れていた。
「エレーナ、北側の救護所から報告だ。ちょっとばかし手が足りないらしい。それから──」
「団長、今回も全員戻りましたよ。団長の作戦のおかげで──」
「この前は仲間がお世話になりました。貴女のことは、まるで戦場の天使みたいだって──」
「ドクター、今日もALFから会合の相談が──」
いくつもの声が重なり、遠ざかり、また近づいた。白い外套が見えたと思えば、次には森の中で銀色の刃が飛び、その向こうでは食堂の机に頬杖をついている自分がいる。誰かから皿を押しつけられて食べろと言われ、別の誰かから眠れと言われ、また別の誰かから自分のことも少しは気にしろと言われる。
エレーナは、そのたびに同じような顔で返していた。
「私のことなら過度に心配する必要はない。組織というものは、誰か1人の状態へ依存するように作るべきではないからだ。それより、明日の作戦について──」
そこまで言ったところで、腹部に強い圧迫感が加わった。
何かがおかしい。
アインクラッドの感覚としては妙に重く、しかも断続的に上下している。視界のどこにもモンスターはいないが、それなのに何故から腹部が強く押し潰される。
「……何だ?」
問いかけた声に返事はなかった。代わりに、腹の上へさらに重量が加わった。
「ぐ……」
今度は明確に苦しい。
エレーナは眉を寄せ、原因を確認しようとしたが、視界の輪郭が急速に崩れていく。石造りの壁も、蒼い炎と白い翼と銀の十字も、食堂の長机も、水面に沈むインクのように歪んでいった。
「──ろ!起きろ!」
聞き慣れた、しかしアインクラッドには存在しない声が耳元で響いた。
「──零奈、起きろ!朝だぞ!」
そこで、エレーナ──九重零奈は目を開けた。
最初に見えたものは天井ではなく、こちらを真上から覗き込んでいる少女の顔だった。
彼女の少し癖のある茶色の長髪が零奈の頬へ落ち、目を吊り上げ、どう見ても機嫌が悪い。しかも顔が異様に近い。
零奈は数秒かけて状況を認識しようとした。
身体は仰向け、床の上、後頭部には枕ではなく、分厚い神経科学の専門書、身体の下には印刷した論文の束、左手にはいつ握ったのか分からない赤ペン。
そして腹部の上には、妹──九重獅織が膝を揃えて完全に乗っている。
「……獅織」
「やっと起きたか!」
「……まず、そこから降りてくれないか。呼吸が少し難しい」
「起きないオマエが悪い!アタシ、何回も呼んだぞ!」
「それについては謝罪する。ただし、女性を覚醒させる手段として腹部へ全体重を加えることの安全性については、かなり疑問が──ぐっ」
獅織が少し姿勢を変えただけで、零奈の言葉が途中で詰まった。
「あ、あれ……?どうした?」
「……今、さらに荷重が増えた。獅音、確か最近体重が──」
「あ、アタシはそんなに重くないぞ!」
「……いや、体重をそのものを問題にしているわけではない。現在同じ場所に数10キログラムの負荷が集中しているという話を──」
「む、難しいこと言って誤魔化すな!」
「分かった。私が悪かった。だから降りてくれ。話し合いはその後にしよう」
そこでようやく獅織が腹から退いた。
零奈は肺へ空気が戻る感覚を味わいながら、しばらく床に寝たまま天井を眺めた。
「……助かった」
「大げさだな」
「感想としては妥当だと思うが」
零奈が横たわっているのは寝室ではない。
そもそも、どこからどこまでを寝室と呼ぶべきなのかが怪しかった。
2025年7月、あのSAO事件を経て大学院へ通うために4月から借り始めたアパートの部屋は3ヶ月という時間を経て、妹との2人暮らし開始直後より明確に悪化していた。
壁際には、4月から1回も開封されていない段ボール箱がいくつも積み上がっている。「冬物」「書籍」「食器」「雑貨」と本人の字で書かれているが、零奈は中身を完全には覚えていない。「食器」と書かれた箱に至っては、開ける必要そのものがなくなっていた。生活を始めて早々、隣室から食事を分けてもらうようになり、その後は向こうの食器を使うことの方が多くなったからである。
テーブルの上にはデスクトップPCと専門書が積まれ、食卓として利用できる面積は残っていない。椅子は脱いだ衣類の保管場所となっているが、その「保管」がいつから始まったのかについては本人にも分からなかった。
床にはさらに深刻な地層が形成されている。
神経科学、認知科学、リハビリテーション医学、外科学、感染症学、そして近年少しずつ研究対象を広げている仮想現実の医療応用に関する論文が、分類されることなく広がっていた。ある論文の上には別の論文、その上にはメモ、その横には開いたままの専門書が置かれ、資料同士の隙間を埋めるように空のペットボトル、コーヒーの容器、クッキーの袋、丸めたティッシュが存在している。
研究資料なのかゴミなのか、初見では判別しにくいものまであった。
零奈自身は、一応どこに何があるのか把握しているつもりだった。少なくとも昨夜までは。
「……獅織、すまないが私が昨日読んでいた資料を知らないか?」
「むむ……どれだ?」
「VR環境における運動錯覚と大脳皮質活動の関連についてまとめられたものだ。青い付箋を3枚──」
「分かるか!こんなの全部同じに見えるぞ!」
「ふむ、それは困ったな」
「アタシの方が困ってるぞ……というかなんでまた増えてるんだ?昨日、詩乃がここ片付けてたじゃないか」
零奈は上半身をのそのそと起こし、自分の周囲を見渡した。
確かに昨日より散らかっている。かなり。
「……昨夜、少し調べ物をした。関連資料を確認しているうちに、参照すべき論文が増えた。研究では珍しいことではない」
「それで、ゴミまで増えるのか?」
零奈は視線を逸らした。
獅織がジッと睨んでいるからだ。自分より15も幼いにも関わらず、名前通りライオンに睨まれているかのような凄みがある。
「……研究には飲水も必要だ」
「ペットボトルを捨てろって言ってるんだ」
獅織はそう言いながら、零奈の足元に転がっていた空の容器を2本拾った。口では不満そうにしているものの、手を動かすこと自体は嫌いではないらしく、そのまま2本とも遠くのゴミ箱に放り込むと、今度は床に落ちていた論文を踏まないよう大股で跨ぎながら窓へ向かった。
「昨日はもう少し歩ける場所があったのにな。詩乃が片付けても、オマエが一晩で戻してたら意味ないだろ」
「……戻してはいない。昨夜確認する必要が生じた資料を展開した結果、使用可能な床面積が……減少しただけだ」
「それを散らかしたって言うんじゃないのか?」
「一般的にはそう表現されるかもしれないな」
「だったら最初からそう言え!」
カーテンが開かれると、7月の朝の日差しが部屋へ流れ込んだ。夜の間は薄暗さに紛れていた資料や段ボールの輪郭まで鮮明になり、零奈は眩しさに目を細めながら、ようやく全身を起こした。
足の踏み場がまったくないほどではない。
流石に生活できないほど散らかれば自分でも物を寄せるくらいはするし、獅織も毎日この部屋を使っている。ただ、零奈には「使い終わったものを元の場所へ戻す」という作業を、その都度行う習慣が極端に乏しかった。昨夜のように研究に没頭すればなおさらで、机に収まりきらなくなった資料が椅子へ、椅子から床へと少しずつ領土を広げ、空になった飲み物の容器までその途中へ取り残されていく。
零奈自身も、それが良い生活習慣だと思っているわけではなかった。
ただ、改善しようと思いながら研究を始めると、改善すること自体を忘れるだけだった。
「……詩乃にまた言われるな」
「アタシは昨日ちゃんと片付けたぞ。散らかしたのは零奈だからな」
「……責任を転嫁するつもりはない。ただ、君の上着も椅子に残っている」
「あっ」
獅織は勢いよく椅子を見ると、自分の薄手のパーカーを見つけて素早く回収した。
「こ、これは昨日脱いだだけだからいいんだ!」
「私の衣類との差がよく分からないが」
「アタシのは1枚だけだ!」
まだ眠気の抜けきらない零奈の顔を獅織は再び覗き込む。
「昨日、何時まで起きてたんだ?」
「……正確な時刻は分からない。最後に時計を確認したのは3時前だったと思うが、その後も少し読んでいた」
「少しってどれくらいだ?」
「それが分かれば正確な就寝時刻も分かるだろう」
「むぅ……」
獅織は納得していない顔をしたが、それ以上問い詰めることはせず、代わりに零奈の背中を両手で押した。
「とにかく顔洗ってこい。今日は大学あるんだろ?」
「……ああ。分かっているから押さなくていい、自分で歩ける」
「遅いから押してるんだ!」
「起床直後の人間へ要求する速度としては少々──」
「いいから行け!」
背中を押されながら洗面所へ向かう零奈の耳に、ちょうど玄関の向こうから2度、軽いノックが響いた。
「獅織、零奈、起きてる?」
「起きてるぞ!今、零奈も起こした!」
「そう。じゃあ朝ごはん出来てるから、支度したら来て。急がなくてもいいけど、焼き鮭が冷める前には来てね」
隣部屋の朝田詩乃の声だった。
「焼き鮭か!あの柔らかくて美味いやつだな!」
獅織の声が明らかに弾んだ。
「でも、今日は味噌汁もちゃんと飲んで」
途端に勢いが弱まった。
「……あぅ」
「昨日も残したでしょ」
「だって、野菜がいっぱい入ってる……」
萎んでいく声を聞きながら、零奈は洗面台で水を出した。冷たい水で顔を洗うと、ようやく頭の奥に残っていた眠気が少し引いていく。
「零奈もちゃんと来てね」
「ああ。身支度が終わり次第向かう」
「分かった。待ってる」
足音が隣の部屋へ戻っていく。
零奈は濡れた顔をタオルで拭きながら鏡を見た。本の表紙の跡が頬に残り、短い黒髪が派手に跳ねている。アインクラッドで何人もの生活状態を確認していた人間が、自分自身については論文の束の上で眠って妹に起こされているという現状は、改めて考えると多少問題があるような気がした。
「……生活習慣の修正は必要だな」
「前も言ってたぞ」
後ろから獅織の声がした。零奈は鏡越しに妹を見やる。
「……私もそう記憶している。そして記憶しているなら、今度は改善できる可能性もある」
「そうだといいな!」
獅織のそれは全く信じていない顔だった。
十十十十十十十十十十
10分あまり後、3人は詩乃の部屋にある小さな食卓を囲んでいた。
朝食は白米と少し大きめの焼き鮭、それから豆腐と根菜を入れた味噌汁に、少量の漬物にお茶という簡単なものだったが、朝から自炊する習慣のなかった零奈にとってはむしろ豪華すぎる内容だった。
「いただきます!」
獅織は3人の中で最も元気よく手を合わせると、真っ先に焼き鮭へ箸を伸ばした。皮の近くまで綺麗に身を取って口へ運び、満足そうに頬を緩める一方で、その隣に置かれた味噌汁については露骨に視線を合わせようとしない。
零奈はまだ完全には覚醒していないらしく、椀を両手で持って湯気を眺めていた。見かねた詩乃が食事の手を止めて声をかける。
「まだ眠い?今日は何時から大学なの?」
「……午前は10時からだ。研究室に行く必要はあるが……講義ではないから多少前後しても問題はない」
「じゃあ、ちゃんと食べてから行ってね。昨日の夜も遅かったんでしょ」
「……そうだな」
零奈は素直に鮭を少し食べた。寝起きだけは普段の硬質な印象がかなり薄れ、返事にもどこか鈍さが残る。
一方で、獅織は横目でそれを確かめながら、自分の味噌汁へ箸を入れた。
大根、人参、ごぼう──獅織の眉間に僅かに皺が寄る。ある意味では子供らしく野菜が大の苦手な獅織にとって、野菜が多い味噌汁というのはやはり箸が止まってしまう。
少し考えたあと、獅織は零奈がぼんやり鮭を食べているのを見て、味噌汁から人参を一つ摘まみ上げた。そして、詩乃が視線を逸らした隙を突いて、自然な動きで零奈の味噌汁の中に野菜を加える。
さらに大根も1つ。
卓越した死角を読む技術と手捌きに、零奈も詩乃もしばらく気づかなかった。気づかなかったので、獅織は少し大胆になった。
ごぼうの束まで箸で摘んで投入する。
「獅織」
零奈は皿を見たまま言った。
獅織の箸が止まる。
「……先ほどから私の味噌汁の野菜が増えているようだが、何か説明はあるか?私は最初からここにあったものではないと思う。私の味噌汁には同じ具材が残っているし、君の椀からは不自然なほど根菜だけが減っている」
「あっ、いや……零奈、野菜好きだろ?」
「嫌いではない。ただし、君の分まで摂取する合理的な理由はないな」
「ね、寝不足なんだから食べた方がいいぞ!」
「その主張自体は理解できるが、寝不足と君が人参を食べなくていいことに因果関係はない」
「うぅ……」
獅織は助けを求めるように詩乃を見た。
詩乃は笑うでも叱るでもなく、自分のご飯を食べながら静かに言った。
「苦手なのは分かってるわ。でも、半分くらいは食べて。全部じゃなくてもいいから」
「は、半分……?」
「ええ、残りは零奈にあげてもいいから」
「私の同意を取る工程が抜けているようだが……?」
獅織は零奈の問いかけを無視しつつ、先ほど零奈へ移した野菜を少しだけ自分の椀へ戻した。決して野菜そのものが食べられないわけではない。ただ、柔らかく煮込まれた大量の肉類が出れば目を輝かせ、野菜の多い──特に野菜の入った汁物が出れば途端に箸が遅くなるという、年相応と言えば年相応の偏食だった。
そんな2人を見ながら、詩乃は味噌汁を僅かに飲んだ。
3人でこうして朝食を取るようになってから、およそ3ヶ月が経っている。
始まりはもっと単純だった。
4月、上京して来た朝田詩乃は同じアパートへ越してきた九重姉妹と知り合った。その直後、ろくに食事も取らないまま研究に没頭していた零奈が体調を崩し、詩乃が救急車を呼んだのがことの始まりだ。
その後も様子を見に行けば、退院したばかりだというのに零奈は食事より論文を優先し、獅織は姉の体調を心配していたものの、料理についての知識が足りなかった。
それで最初は、1回だけ夕食を分けた。
次は2人分多めに作った。
そんなことが続いたものだから、遂には零奈の方から食材代を出すと言い出した。
詩乃にとっても、それは悪い話ではなかった。
1人分の食事を作るより、3人分をまとめて作る方が食材を無駄にしにくい。米や調味料、肉や魚をある程度まとめて買えば単価も抑えられるし、その費用の大半を零奈が負担するなら、生活費を切り詰めていた苦学生の詩乃にとって食費の負担はかなり軽くなる。
零奈もまた、毎日の食事を考える必要がなくなった。
獅織は単純に、美味しいものを食べられる日が増えた。
やがて夕食だけだったものが朝食にも広がり、買い物へ行く時には欲しいものを3人で相談するようになった。詩乃が料理をしている間には、獅織が食卓を整えたりする。零奈は料理には口を出さない代わりに、日用品や食材に必要なお金を多めに負担していた。
掃除や洗濯についても、いつの間にか似たような分担になっている。
零奈の部屋が目に余れば詩乃が片付けを手伝い、獅織も横で物を運ぶ。洗濯物をまとめて回した方が楽な時は一緒に済ませる。
逆に詩乃が忙しい日には、零奈が近所の商店街で出来合いのものを買ってきたり、外で食べる費用を出したりすることもある。
部屋は別々だった。
夜はそれぞれの部屋へ戻る。
それでも朝と夕方には顔を合わせることが多く、片方の部屋にもう片方の日用品が置かれていても誰も不思議に思わなくなっていた。
半同棲と呼ぶなら、おそらくそれに近いのだろう。
「……詩乃」
不意に零奈に名前を呼ばれて、詩乃は顔を上げた。
「何?」
「今月の食費だが、先月と同程度で足りているか?物価も変動するし、獅織の食事量も少し増えているように見える。足りなければ遠慮せず言ってくれ。君が調理を担当している以上、金銭面まで負担させるつもりはない」
「今のところ大丈夫。むしろ前より食費減ってるくらいだから」
「ならいい」
零奈は軽く頷くと、それ以上は口を出さず味噌汁へ戻った。
生活能力については頼りないところが多いくせに、こうしたところだけは妙に細かい。
詩乃も、もうそれには慣れていた。
「なあ詩乃」
今度は獅織がまだ少し残っている味噌汁を見つめながら言った。
「今日の夜は肉あるのか?」
「あるわよ。そうね……今のところ、鶏肉と大根を煮ようと思ってるけど」
「おお!あの茶色くて柔らかいやつか!」
それを聞いた獅織は先ほどまで味噌汁の野菜を零奈の皿に逃がしていたことなどすっかり忘れたように目を輝かせている。
「そう、それ。前に作ったのと同じような感じ」
「やった!アタシ、あれ好きだぞ。箸で触っただけで崩れるくらい柔らかいやつ!」
「じゃあ、その前に今のお味噌汁もちゃんと飲んで。夜ご飯を楽しみにしてくれるのは作ってる身として嬉しいけど、朝ご飯を残していい理由にはならないからね」
「うむむ……分かった。夜の肉のためならこれくらい……!」
いかにも大仕事へ挑むような顔をして獅織が椀を持ち上げると、詩乃は呆れたように少しだけ笑った。
その横で、零奈は残っていた焼き鮭を口へ運びながら、朝食を終えた後の予定を頭の中で確認していた。大学へ向かう前に研究室へ送る資料をまとめ、その後は夕方まで戻らない。夜になれば3人で食事を取り、時間が合えばまた《GGO》へ入ることになるだろう。
今攻略しているのは《GGG》内の設定において、最終戦争で崩壊した巨大都市の跡地──をそのまま利用したダンジョンで、朽ちた高層建築の谷間を暴走した自動戦闘機械が徘徊し、地下施設には遺伝子改造された生体兵器まで棲みついている。
昨日は随分と奥まで進んだものの、結局ボスのいる区画へ辿り着く前に夜が更けたため、撤退することになった。
「今日は絶対、あのダンジョンの先まで行くぞ!昨日は途中で戻ったけど、今度こそボスを倒してやる!」
味噌汁を飲み干した勢いのまま獅織が宣言すると、詩乃は「はいはい」と慣れた調子で返しながら食器を重ねた。
学校から帰れば、彼女はおそらく今日も真っ先に《GGO》へログインするのだろう。銃を手にすることを恐れていた少女が、自分から銃のある世界へ入り続けている──その理由について、零奈は既に本人の口から聞いていたし、急いで答えを出そうとはしていなかった。恐怖を消すことと、恐怖を抱えたまま前へ進めることは同じではない。今の詩乃が望んでいるのは前者ではないのだと、零奈は理解していた。
「私も夕方には戻れると思う。詩乃も、それで問題ないか?」
「もちろん。昨日あそこまで行ったんだもの、今度こそ先を見たいし」
「よし!じゃあ決まりだな!」
朝から元気よく拳を握る獅織を横目に、零奈は残っていたお茶を含んだ。大学、高校、中学校、それぞれの1日が終われば、夜にはまた3人で《GGO》の荒廃した世界を旅する。
それがいつの間にか、この家のありふれた日常の1つになっていた。
刃が奪う命あれば、手で繋がる命もある。
命の1つ1つは背負うことで脆くなれど、
導くことでより強固なものとなる。
全ては、人としてただしい道を歩むため。
決意を胸に、Dr.は白衣を纏った。