朝田詩乃に家事全部して貰ってるクール系お姉さん   作:オズ

12 / 17

※今回は少し視点を離れ、明日奈と木綿季のお話。詩乃たち三人はお休みです。


Case11 ICE CANTICLE

 

 

2026.1.29

横浜港北総合病院

 

 前日の夜、ALOにログインしていた明日奈に木綿季から届いたメッセージは、たった一行だけだった。

 

 『明日、病院に来られる?』

 

 普段の木綿季であれば、ALOへ誘うだけでもこちらの都合を尋ねる一通目に続いて、返事を待たないうちから集合場所や時間について二通目、三通目と送ってきてもおかしくない。何か面白いことを見つけた時などはなおさらで、文章だけでも本人が喋っている時と大して変わらない勢いが伝わってくる。それだけに、余計な言葉の何一つ付いていない短いメッセージは、内容そのものよりも、その後に何も続かなかったことの方が明日奈には気になった。

 

 『行けるよ』と返すと、『よかった。じゃあ待ってるね』という返事だけが届いた。

 

 翌日の放課後、明日奈は学校から直接横浜港北総合病院へ向かった。

 この場所を初めて訪れた頃には、ユウキという仮想世界の名前と、メディキュボイドという聞き慣れない医療機器についての僅かな手掛かりしか持っていなかったが、今では面会受付で事情を一から説明する必要もなくなっている。本人の希望によって面会者として登録され、感染管理上必要な手続きを済ませれば、無菌室の外側に設けられた面会区画までは入れるようになっていた。

 

 もっとも、そこから先へ進めるわけではない。

 厚いガラスの向こうには、何度見ても一般的な病室とは呼び難い空間が広がっており、その中央には大きな箱型のメディキュボイドがベッドと一体になるように据え付けられていた。周囲には点滴や生体情報を監視する機器が並び、そこから延びる幾つもの線に囲まれるようにして、木綿季の現実の身体が横たわっている。

 

 ALOで見るユウキは小柄ではあっても、誰よりも軽快に飛び、剣を握れば大柄な男たちを相手にしても一歩も退かない。だからこそ、現実側にある細い腕や、少し落ち込んだ頬、長く寝た姿勢のままほとんど動くことのない身体を見るたび、明日奈はいまだに同じ一人の少女として重ね合わせるまでに少し時間が必要だった。

 

 今日は体調が優れないのだろう。

 明日奈がガラスの前まで来てもユウキはすぐには気づかなかったのか、しばらくしてからスピーカーから声が聞こえてくる。

 

『明日奈……来てくれたんだ』

 

 スピーカーを通して届いた声には、やや張りがなかった。それでも明日奈が想像していたよりはしっかりしており、言葉も明瞭だった。

 

「来るに決まってるでしょ。あんなメッセージだけ送られたら、気になるじゃない」

 

『ごめん。なんて書いたらいいか、ちょっと分かんなくてさ』

 

 木綿季は困ったように笑う。

 昨日までと比べて急激に状態が悪化したのだろうか。あるいは今後について、これまで以上に厳しい話をされたのかもしれない。そんな予想が先に浮かんだのは、木綿季を取り巻いている現実を知っている以上、仕方のないことだった。

 けれど、少し間を置いて木綿季が口にしたのは、明日奈が想像していたどちらとも違う話だった。

 

『実はボク、転院することになったんだ』

 

「……転院?」

 

 思わず聞き返すと、木綿季は明日奈の表情を見て、何を考えたのかすぐに察したらしい。

 

『あ、もっと悪くなったからじゃないよ。そうじゃなくてね』

 

 木綿季は聞いたばかりの話を自分でも整理するようにしてから続ける。

 

『治療するためなんだって』

 

 明日奈はすぐには言葉を返せなかった。

 もちろん木綿季はこれまでもずっと治療を受けている。抗HIV薬も、繰り返す感染症への治療も、全身状態を維持するための処置も止まったことなどない。けれど木綿季の言い方から、それまでの治療を別の病院へ移して続けるという意味ではないことは分かった。

 

「今までと違う治療ってこと?」

 

『うん。全然違うやつ』

 

 木綿季は僅かに頷いた。

 

『海外に、ボクとすごく条件の合うドナーさんが見つかったんだって。その人から血を作る元になる細胞をもらって、移植するんだって』

 

「海外から……?」

 

『ボクも昨日初めて聞いたんだよ。先生も急に話が来たって』

 

 それだけでも十分に驚く話だったが、木綿季はさらに続けた。

 

『しかも、その人の細胞はHIVに感染しにくい特徴があるんだって。それなら、今まで出来なかった治療が出来るかもしれないって』

 

 明日奈はガラスの向こうの木綿季を見つめたまま、頭の中で聞いた言葉を何度か繰り返した。

 これまで倉橋医師から聞いていた木綿季の病状は、長い治療歴によって使用できる薬剤は限られ、免疫機能は著しく低下し、何度も日和見感染を経験しているというものだった。そのため、今後について話す時にも、病気そのものを治す方法より、残された時間をどう過ごすかという話の方が次第に多くなっていた。

 それが僅かな期間で、転院して受けるほど大きな治療の話へ変わった。

 

「そんな人が……急に見つかるものなの?」

 

『分かんない。でも、すごく珍しいって言ってた』

 

 木綿季自身にも、それ以上の経緯は伝えられていないらしい。

 

『国内の別の病院で受けられるんだって。海外の先生たちとも一緒にやるみたい』

 

 木綿季はそこまで話したところで一度黙った。

 明るい話だけなら、わざわざ今日を呼び出してまで伝えようとした理由にはならないのではないか。そのことに明日奈が気づいたのとほとんど同時に、木綿季の声が僅かに小さくなる。

 

『でもね、アスナ』

 

「うん」

 

『すごく危ないんだって』

 

 明日奈は黙って続きを待った。

 

『新しい細胞を入れる前に、今のボクの身体で血とか免疫とかを作ってるところを、すごく弱くしないといけないんだって。その間に感染症になったり、新しい細胞がうまく働かなかったり、身体の別のところまで悪くなったりすることがあるって』

 

 説明の細部までは覚え切れなかったのだろう。木綿季自身の言葉へ置き換えながら、それでも医師から伝えられた中で最も重要だったことだけは、曖昧にしなかった。

 

『治療そのもので、死ぬこともあるって』

 

 ガラス越しに聞くには、あまりにも重い言葉だった。

 

 治るかもしれない。

 

 そこだけを聞けば迷う必要などないように思えるのに、現実には木綿季は今も生きていて、今日こうして話をすることができる。体調が許せばメディキュボイドから仮想世界へ入り、剣を振り、友人たちと笑う時間も残されている。その限られた時間を自分から危険に晒し、成功する保証のない治療へ進むかどうかを、外側にいる人間が簡単に決められるはずもなかった。

 

 木綿季は暫く明日奈の顔を見ていた。

 そして、今までなら自分で決めてから報告してしまいそうな少女が、珍しく答えを求めるように尋ねた。

 

『ねえ、アスナなら……どうする?』

 

 明日奈は唇を結んだ。

 自分ならどうするか──その問いに置き換えること自体が、どこか間違っているような気がした。

 

 明日奈には家族がいて、和人がいて、学校があり、明日の予定を当然のように立てられる身体がある。

 生まれた時から病気と共に暮らし、同じ病気で家族を失い、自分自身も十五年にわたって治療を受け続けてきた木綿季と、同じ場所から選択肢を見ることなどできない。

 

 だから、少なくとも自分の望みと、木綿季が選ぶべき答えだけは分けることにした。

 

「私は……ユウキに生きててほしい」

 

 声に出した瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。それでも明日奈は目を逸らさなかった。

 

「治療がうまくいって、病院から出られて、またALOで一緒に遊べたらって思ってる。現実でも一緒にどこかへ行きたいし、今まで出来なかったことだっていっぱいしてほしい。そんな未来があるなら、私は絶対そっちがいい」

 

 木綿季は黙って聞いていた。

 

「でも、それは私が望んでる未来だから。治療を受けるのはユウキだし、怖い思いをするのも、危険を引き受けるのもユウキでしょ。だから……私が代わりに決めちゃ駄目だと思う」

 

『そっか』

 

「ごめん。役に立たない答えかもしれないけど」

 

『ううん、明日奈らしいや』

 

 木綿季はしばらく何も言わなかった。

 明日奈も急かさずに待った。規則正しく続く医療機器の電子音と、ガラス越しでは聞き取れない空調の音だけが流れる時間の中で、自分には木綿季の代わりに恐怖を引き受けることも、身体を貸すことも出来ないという当たり前の事実だけが、いつもより鮮明に感じられた。

 やがて、スピーカーから木綿季の声が届いた。

 

『ボク、怖いよ』

 

 その一言は、ALOで《絶剣》と呼ばれ、誰よりも楽しそうに強敵へ斬りかかっていく少女からは想像しにくいほど素直だった。

 

『始めたら、途中でやっぱりやめるって出来ないんだって。先生たちも、絶対大丈夫だなんて一回も言わなかった。でも、このまま何もしないのも……やっぱり怖いんだ』

 

 言葉がそこで途切れた。

 治療を受ければ危険がある。しかし受けなければ、これまで倉橋から聞かされてきた病状の先にあるものが変わるわけでもない。どちらか一方が安全なら、そもそも木綿季がここまで迷う必要などなかったのだろう。

 

 明日奈には、木綿季がどちらの恐怖をより大きく感じているのかは分からなかった。ただ、今の声を聞いていると、彼女が怖くなくなったから治療を選ぼうとしているのではないことだけは、はっきりと分かった。

 そして、少し長い沈黙の後に続いた声には、それまでとは僅かに違う響きが混じっていた。

 

『ボク、まだやりたいこといっぱいあるしね』

 

 怖さについて話していた時よりも、少しだけ声が明るくなる。

 

『学校にもまた行きたいし、みんなとも遊びたい。アスナともまだいっぱい遊びたいし……そうだ、リオの新しい技もまだ見てないや』

 

 あまりにも木綿季らしい理由が混じったことで、張り詰めていた明日奈の胸の奥がほんの少しだけ緩んだ。ALOで別れる時に交わした何気ない約束も、木綿季にとっては治療の向こう側へ残してきた予定の一つなのだろう。

 その予定は、まだそれだけではなかった。

 

『それに、リアルでも遊ぶって言ったんだ』

 

 今度は、声の端に微かな笑いが混じっていた。

 メディキュボイドの中で横たわる身体は少しも動かない。それでも明日奈には、その言葉を口にした時だけ、ALOで見慣れたユウキの笑顔が声の向こうへ重なったように思えた。

 

『だから……ボク、受けてみるよ』

 

 大きな決意を宣言するような声ではなかった。

 怖さがなくなったわけでもなく、成功する未来だけを信じ込んだわけでもない。それでも木綿季は、自分の前に初めて現れた二つの道を見比べた上で、まだ自分が行ったことのない方へ手を伸ばした。

 

十十十十十十十十十十

 

2026.1.29

横浜港北総合病院・面談室

 

 木綿季との面会を終えた後、明日奈は倉橋医師から改めて話を聞くことになった。

 

 木綿季本人が、明日奈には治療についてある程度まで伝えて構わないと希望しているらしい。ただし、明日奈は家族でも治療の同意を行う立場でもないため、説明されるのはあくまで概要に限られる。それでも、つい先ほどまで木綿季自身の言葉で聞いていた話には、本人も十分に理解しきれていない部分が少なくなかったし、何より「治るかもしれない」という言葉だけを抱えたまま帰ることの方が、かえって危ういと倉橋医師は考えたのだろう。

 

 案内された小さな面談室には、四人掛けの机と椅子、それから壁際に書類棚があるだけだった。倉橋医師は明日奈の向かいへ腰を下ろすと、手元に持ってきた薄いファイルを開きながら、まず木綿季からどこまで聞いたのかを確かめるように尋ねた。

 

「木綿季さんから、移植のことは聞きましたか?」

 

「はい。海外で、ユウキとすごく条件の合うドナーが見つかったって。それから、その人の細胞はHIVに感染しにくいって……」

 

「そこまで聞いているなら、大事なところは伝わっていますね」

 

 倉橋医師は小さく頷いた。すぐに詳しい医学用語を並べ始めるのではなく、明日奈がどこまで知っているのかを確かめてから、その先だけを補おうとしているらしい。

 

「では、あまり細かい話まではしません。木綿季さん本人には、治療を選ぶために必要な説明をもっと詳しくしていますが、明日奈さんが今知っておいた方がいいのは、この治療がどういうものなのか、それから、どれくらい危険を伴うのか。その二つです」

 

「はい」

 

 明日奈が頷くのを待ってから、倉橋医師はファイルの中にある一枚へ目を落とした。

 

「今回、海外の移植医療機関を通して、木綿季さんと非常に高い組織適合性を持つ造血幹細胞のドナー候補が見つかりました。適合性が高いだけでもとても稀ですが、その方にはもう一つ、HIVが免疫細胞へ感染するときに利用する仕組みの一部が働きにくい、特殊な遺伝的特徴があります」

 

「それがユウキの言ってた、HIVに感染しにくいっていう……」

 

「ええ。移植がうまくいけば、そのドナー由来の造血幹細胞から新しい血液細胞や免疫細胞が作られるようになります。そして、その新しい免疫細胞は、木綿季さんが今持っているものよりHIVの感染を受けにくいと考えられます」

 

 言葉を選びながら説明する倉橋医師の声には、これまで木綿季の病状について聞かされた時と変わらない落ち着きがあった。良い知らせだからといって必要以上に明るく語るわけでもなく、逆に危険だからと希望を打ち消そうとするわけでもない。聞いている明日奈がどちらか一方へ傾き過ぎないよう、一つずつ事実を並べているように思えた。

 

「実際に、HIVへ感染している患者さんが別の血液疾患の治療として造血幹細胞移植を受け、その後、長い期間にわたってウイルスの再増殖が確認されなくなった例はあります。ですから、今回の考え方そのものがまったく根拠のないものというわけではありません」

 

「じゃあ……本当に、治る可能性があるんですね」

 

 思わず身を乗り出しかけた明日奈に対して、倉橋医師は否定こそしなかったものの、すぐには頷きもしなかった。

 

「可能性はあります。ただし、そこだけを切り取って考えないでください」

 

 穏やかな声のまま、言葉だけが少し慎重になる。

 

「造血幹細胞移植は、HIVのために普通に行う治療ではありません。木綿季さん自身の造血機能と免疫機能を強く抑えた上で、ドナーの細胞が新しい造血を担える状態を作らなければならない。その過程では、重い感染症、出血、臓器障害、移植した細胞が定着しないこと、あるいは新しい免疫系が木綿季さん自身の身体を攻撃することもあります。最悪の場合には、治療そのものが命に関わります」

 

 つい先ほど、ガラスの向こうから木綿季自身の声で聞いた言葉が蘇った。

 

 治療を始めれば途中では戻れない。絶対に大丈夫だとは、誰も言ってくれなかった。

 

 それでも受けると木綿季は決めた。

 明日奈は膝の上で組んでいた指へ僅かに力を込めながら、倉橋医師の続きを待った。

 

「今回の治療計画については、こちらでも木綿季さんのこれまでの経過と照らし合わせて確認しました。長年の治療歴、現在の免疫状態、これまでに起きた感染症、今後同じ治療を続けた場合に考えられる経過。それらと、移植を受けた場合の危険を比べています」

 

 倉橋医師はそこで一度ファイルを閉じた。

 

「その上で、危険だからと最初から除外するのではなく、木綿季さん自身へ選択肢として提示する意味があると判断しました」

 

 明日奈には、その言葉が妙に重く感じられた。

 

 これまで木綿季の病気について話す時、倉橋医師が安易に希望を口にしたことは一度もなかった。それは諦めていたからではなく、目の前にいる十五歳の少女へ、医師として保証できない未来を約束しなかったからなのだろう。

 

 だからこそ、そんな彼が今、「選択肢として提示する意味がある」と言っていること自体が、明日奈にとっては十分に大きな変化だった。

 

「転院先では、もう準備が始まってるんですか?」

 

「ええ。受け入れ先は都内の大学附属病院です。まず詳しい検査を行って、木綿季さんが実際に治療へ進める状態か、改めて確認します。移植だけでなく、感染症や集中治療など複数の分野の医師が参加しますし、海外から来る医療スタッフも一部加わる予定だと聞いています」

 

「海外からも……」

 

 ドナーが海外にいるというだけでも驚いていた明日奈にとって、治療を行う人間まで国外から集まるという話は、どこか現実離れして聞こえた。

 

 ほんの数日前まで、木綿季はこの病院で、それまでと変わらない治療を続けていたはずなのだ。それが突然、国外にいる極めて条件の合うドナーが見つかり、受け入れる大学病院が決まり、海外の医療者まで参加する治療計画が動き始めている。

 

 そのあまりの速さに、明日奈の中へ自然と疑問が浮かんだ。

 

「でも……そんなに条件の合う人が、本当に急に見つかるものなんですか?」

 

 倉橋医師は、その問いを不自然なものとは受け取らなかったらしい。少しだけ考えるように視線を落としてから、率直に答えた。

 

「簡単には見つかりません。ですから、私も最初に連絡を受けた時は驚きました」

 

 それから机の上のファイルを指先で軽く押さえる。

 

「ただ、候補がいるという連絡だけで治療を決めたわけではありません。組織適合性は改めて確認されていますし、ドナー本人の提供意思、採取を担当する医療機関、採取した細胞を日本へ運ぶための手順も整えられています。少なくとも、治療を検討する前提になる部分については確認が済んでいます」

 

「どうやって、その人がユウキと合うって分かったのかは……?」

 

「最初の照合までの経緯については、受け入れ先と海外側の機関が中心になって調整しています。私が把握しているのは、木綿季さんの主治医として確認する必要がある部分までですね」

 

 隠しているような言い方ではなかった。

 ただ、現在の倉橋医師に必要なのは、ドナーがどのような経路で見つかったのかを追うことではなく、その情報が本当に治療へ使えるものなのかを確かめ、木綿季を安全に次の病院へ送り出すことなのだろう。

 

「……奇跡みたいですね」

 

 明日奈が思わず呟くと、倉橋医師は僅かに目元を和らげた。

 

「医者としては、あまり簡単に使いたくない言葉です」

 

 そこで否定するのかと思ったが、少し間を置いてから続ける。

 

「ただ、これだけ珍しい条件が一度に揃った患者さんの立場からすれば、そう感じるのも無理はないでしょう」

 

 その言葉に、明日奈も小さく頷いた。

 奇跡だから必ず助かるわけではない。むしろ、その奇跡のように現れた道の先には、これまでより危険な時間が待っている。

 そのことを忘れないようにするかのように、倉橋医師は木綿季が既に受けた説明について静かに付け加えた。

 

「木綿季さんには、良い可能性だけではなく、治療によって起こり得ることをかなり時間をかけて話しました。途中から元の状態へ戻せないことも、命を失う可能性があることも、治療後の身体に長く残る影響についても含めてです。その上で、本人から治療を受けたいという意思を確認しています」

 

「さっき、私にも言ってました」

 

「そうですか」

 

 倉橋医師はそれだけ答えると、ほんの短い間だけ視線を伏せた。

 十五歳の患者が、自分の命を左右する治療を受けると決めたことを、医師だからといって何の感情もなく聞けるわけではないのだろう。しかし次に顔を上げた時には、いつも木綿季を診ている主治医の穏やかな表情へ戻っていた。

 

「でしたら、こちらで出来る準備を最後まで済ませます。今までの治療記録も、感染症の経過も、使用してきた薬剤についても、向こうへ必要なものは全て渡します。転院したからといって、ここまでの十五年間が途切れるわけではありませんから」

 

 その言葉に、明日奈は初めて、木綿季がこの病院を離れるということの意味を少しだけ実感した。

 倉橋医師にとって木綿季は、今回初めて検査結果を見た患者ではない。長い時間をかけて病状の変化を見続け、出来る治療を一つずつ選びながら今日まで繋いできた患者なのだ。

 

 新しい治療法が現れたから、それまでの医療が間違っていたことになるわけではない。

 ここまで木綿季の命を繋いできた時間があったからこそ、今日になって現れた道を選ぶことができる。明日奈はそのことを考えながら、ずっと聞きたかった問いをようやく口にした。

 

「倉橋先生」

 

「はい」

 

「ユウキ……治ると思いますか?」

 

 今度だけは、倉橋医師もすぐには答えなかった。

 目の前の十五歳の友人へ安心するための言葉を渡すことは、きっと難しくない。それでもこの人は、木綿季に対してそうしてこなかったのと同じように、明日奈に対しても出来ない約束だけはしないのだろう。

 しばらくして、倉橋医師は静かに口を開いた。

 

「治る可能性はあります」

 

 明日奈は顔を上げた。

 

「ただ、今の段階で私から『治ります』とは言えません。移植が成功するかどうかも、その後HIVが再び増えない状態を維持できるかどうかも、これから一つずつ確かめていかなければならないことです」

 

 そこまでは、これまで何度も聞いてきた医師らしい慎重な答えだった。けれど倉橋医師は、それだけでは終わらなかった。

 

「それでも──」

 

 僅かな間を置いてから、言葉を続ける。

 

「これまで木綿季さんに、病気そのものの先を変えられるかもしれない治療について、こうして本人と話す機会はありませんでした。今は、その話ができています」

 

 治るとは言わない、助かるとも約束しない。

 それでも明日奈には、その言葉が安易な励ましより遥かに強く聞こえた。

 

「ですから今は、それで十分だと私は思っています」

 

 倉橋医師は穏やかにそう結んだ。

 

十十十十十十十十十十

 

2026.2.3

東京都内・大学附属病院

 

 木綿季の転院先となった大学附属病院は、都心から少し離れた場所に広い敷地を持つ、大規模な医療施設だった。

 

 外来棟と入院棟だけでなく、複数の研究施設や教育棟まで一つの敷地内に連なり、正面玄関には朝から絶え間なく患者や家族が出入りしている。白衣姿の医師や看護師が行き交う光景も、救急車が救急入口へ入っていく様子も、大学附属病院という言葉から明日奈が想像していたものと大きくは違わなかった。

 

 木綿季は午前中に搬送を終えている。

 

 メディキュボイドは臨床試験機であり、横浜の病院からそのまま一緒に転院させられるようなものではないため、こちらでは通常の無菌管理病室へ入ると聞いていた。治療が始まれば、体調だけでなく処置の都合からもフルダイブ出来ない期間が生じるらしく、木綿季がその点をかなり残念がっていたことも倉橋医師から聞いている。

 

 明日奈は面会受付を済ませ、案内された病棟へ向かった。

 

 初めて訪れる場所なので普段との違いを知ることは出来なかったが、入院棟へ入るにつれて、病院全体の規模とは別の種類の整然さが目につくようになった。

 一部のエレベーターは時間を区切って医療搬送専用に切り替えられ、一般の通行とは別に職員用の導線が確保されている。いつもこうなのか、木綿季の搬送に関係するものなのかは分からないものの、職員たちが慌ただしく走り回っている様子はないのに、人と物だけが不思議なほど滞りなく流れていた。

 

 面会予定の病棟へ向かう途中で一度道を間違えたのは、そのことに少し気を取られていたせいかもしれない。

 

 案内表示を一つ見落としたらしく、いつの間にか先ほどまでとは雰囲気の違う廊下へ入り込んでいた。壁に掛けられている表示は職員向けのものばかりになり、行き交う人も白衣や看護師姿がほとんどで、面会者らしい姿が見当たらない。

 どうやら道を間違えたらしいと気づいて来た道を振り返ったところで、廊下の窓際にいた二人の女性が目に入った。

 

 一人は、白に近い淡い灰色の髪を長く伸ばした若い女性だった。年齢は二十代半ばほどだろうか。左右で色の異なる瞳も目を引いたが、それ以上に印象的だったのは、彼女が腰掛けている車椅子だった。

 

 病院で見慣れた介助用のものとは形がまるで違う。車体は白一色で、座面は低く身体へぴったり沿うように作られ、その両側にある大きな車輪は上から下へ向かうにつれて外側へ開いていた。競技用の車椅子を思わせる幅広い姿勢でありながら駆動は電動らしく、右手を添えた小さな操作装置へ指先を動かすだけで、車体はほとんど音を立てずに滑るように動く。誰かに押してもらうことを前提にした道具ではなく、失われた歩行機能を補い、本人が誰かの手を借りずに移動するために作られたものなのだろう。

 

 その隣には、腰の辺りまである銀白色の髪を低い位置でまとめた女性が立っていた。こちらは一つか二つ若く見え、窓枠へ身体を預けながら携帯端末を眺めている。何か仕事をしているようには見えず、画面を指先で弄りながら時折外へ視線を投げ、挙げ句には小さく欠伸までしているものだから、灰髪の女性の静かな佇まいとは随分と対照的だった。

 

 明日奈が声を掛けるべきか迷っているうちに、銀髪の女性が端末をポケットへしまい、窓際に置いてあった紙カップを一つ取り上げた。

 

「はい。冷める前に飲みなよ」

 

 差し出されたカップへ、灰髪の女性は一度だけ視線を落とした。断るのかと思ったが、そうはせず、「ありがとう」と静かに答えて手を伸ばす。その指先へカップを渡そうとした銀髪の女性の手が触れた瞬間、彼女は僅かに肩を震わせた。

 

「……冷たっ」

 

 思わず漏れたらしい声に、灰髪の女性は少しだけ眉を上げた。

 

「今さら驚くことか?」

 

「毎回思うんだよ。分かってても冷たいものは冷たいって」

 

 銀髪の女性は相手の手を離したものの、今度はその白い指が紙カップをきちんと包んだことを確かめるように眺めていた。からかうような口調とは違って、その視線には僅かな気遣いが見えた気がした。

 灰髪の女性の方も、その意味には気づいているらしい。カップから立つ湯気を見ながら少し口元を緩めると、両手でそれを包み込んだ。

 

「私は慣れている。お前まで慣れる必要はないさ」

 

「そういう話じゃないんだけどねぇ〜」

 

「分かっている」

 

 淡々とした声だったが、先ほどより幾分柔らかかった。それ以上は説明する必要がないというように温かい飲み物へ口をつける女性を見て、銀髪の方も追及するのをやめたらしく、自分の分のカップを手に取った。

 

 長く付き合っている二人なのだろう、と明日奈は何となく思った。世話を焼く側と焼かれる側がはっきり決まっているように見えて、実際には互いに相手の扱い方をよく知っている。少なくとも、初対面の人間同士が交わす遠慮のある会話ではなかった。

 

「それにしてもさぁ……」

 

 銀髪の女性はコーヒーを一口飲むと、廊下の奥を眺めながら退屈そうに息を吐いた。

 

「病院って、どこの国でも暇だよね。待つ、待つ、また待つ。今日の用事だって、次に呼ばれるまでしばらく何もないし」

 

「暇なら休んでいればいいだろう」

 

「休むのにも飽きた」

 

 あまりにも堂々とした返事だったため、灰髪の女性は怒るどころか小さく笑った。

 

「贅沢な悩みだな」

 

「でしょ?だから昨日、暇つぶしに建物の中を見て回ってたんだよ。売店も食堂も見つけたし、外に出るなら東側の玄関の方が駅には近い。あっちの中庭も案外悪くなかったよ」

 

「暇つぶしに、随分歩いたんだな」

 

「知らない場所って面白いじゃん。どこがどこに繋がってるか分かるようになると、急に狭く感じるし」

 

 何でもないことのように言いながら、銀髪の女性は視線だけで廊下の左右をなぞった。

 病院を観光するような性格なのかと思ったが、その目の動きは景色を楽しんでいるというより、人の出入りや扉の位置まで一緒に捉えているようにも見える。もっとも、明日奈には彼女が単に好奇心旺盛なだけなのか、それともそういうものを見る癖があるのかまでは分からなかった。

 

「それなら、帰りは迷わずに済みそうだな」

 

 灰髪の女性が穏やかに言うと、銀髪の女性は露骨に心外そうな顔をした。

 

「私、道に迷ったことなんてほとんどないよ」

 

「そうだったか?」

 

「そうだよ。迷う前に覚えるから」

 

 妙に自信のある答えだったが、灰髪の女性は否定せず、少し考えるような間を置いてから頷いた。

 

「……確かに、そういうところだけは信用できるな」

 

「『だけ』はいらないでしょ」

 

「褒めたんだが」

 

「褒め方が下手なんだよな〜」

 

 不満そうな声音とは裏腹に、銀髪の女性は少し嬉しそうだった。

 そのやり取りを聞いているうちに、明日奈もここで道を尋ねてしまった方が早いだろうと思い、二人へ近づいた。

 

「あの、すみません」

 

 二人が同時にこちらを見る。

 間近で見ると、灰髪の女性の右目は冬空を思わせるほど淡い青で、反対側はそれと対照的な琥珀色をしていた。

 

「移植病棟の面会受付へ行きたいんですけど……この道で合ってますか?」

 

「ああ、それなら逆だよ」

 

 先に答えたのは銀髪の女性だった。

 明日奈が少し困った顔をしたからか、彼女は笑いながら明日奈が来た方向を指す。

 

「難しくないから大丈夫。今来た廊下をそのまま戻って、青い案内板がある角を右に曲がる。そのまま真っ直ぐ行けば、突き当たりに面会受付があるよ。もう曲がらなくていいから」

 

 一度で頭に入る、簡単な道順だった。

 

「あ、ありがとうございます。途中で曲がるところを間違えたみたいで……」

 

「たぶんあそこだね。案内板が柱の陰に少し隠れてるところ。こっちへ来た時、私も『これ初めて来た人は見落とすだろうな』って思ったから」

 

 銀髪の女性がもう一度道順を説明しようとしたところで、灰髪の女性が明日奈の首から下がった面会証へ目を向け、それから壁に掛けられた時計を確認した。

 

「面会なら、まだ少し待つだろう」

 

「そうなんですか?」

 

「ああ。今は病室側の準備中だ。受付へ行けば座って待てるから、急がなくていい」

 

 説明する声は低く落ち着いていた。無愛想に聞こえるほど飾りのない話し方ではあったが、急ぐ必要がないと教えるためにわざわざ時間まで確認したことを思えば、冷たい人という印象にはならなかった。

 それどころか、明日奈が少し肩を強張らせていることに気づいたらしく、灰髪の女性はほんの少しだけ表情を和らげた。

 

「落ち着かないか?だが、準備に時間が掛かっているからといって、それだけで何か悪いことが起きたという意味じゃない。待てと言われたなら、今は待っていればいいさ」

 

「……はい」

 

 自分がそんなに不安そうな顔をしていたのだろうかと思いながらも、不思議とその言葉は素直に胸へ入った。

 銀髪の女性も、先ほどまでの気怠そうな様子を少しだけ引っ込めて明日奈を見ると、紙カップを持っていない方の手を軽く振った。

 

「大丈夫。道は今ので合ってるから。今度こそ受付まで一直線だよ」

 

 その口調があまりに気楽だったため、明日奈もつられて僅かに笑った。

 

「ありがとうございます。助かりました」

 

「どういたしまして」

 

 銀髪の女性が笑って答え、灰髪の女性も小さく頷く。

 

 明日奈は二人へ頭を下げ、教えられた通り来た道を戻り始めた。

 少し歩いてから振り返ると、二人はもうこちらを見ておらず、先ほどまでと同じように窓際で話している。灰髪の女性の両手にはまだ温かい紙カップが収まり、その白い指先を温めるように湯気が細く立ち上っていた。

 

「ねえ」

 

 離れ始めた明日奈の耳へ、銀髪の女性の声が僅かに届いた。

 

「これが終わったら、ちょっと外行かない?」

 

 今度は先ほどのような仕事を抜け出したいという調子ではなく、本当にただ誘っているだけらしい。灰髪の女性はすぐには答えず、窓の向こうへ目を向けていた。

 

「日本まで来たんだしさ。ずっと病院とホテルじゃ、さすがにつまらないでしょ」

 

「私を連れていくのか?」

 

「嫌ならいいけど」

 

 銀髪の女性がそう言うと、少しの間だけ返事が途切れた。

 明日奈がちょうど角へ差しかかる頃、静かな声が聞こえる。

 

「……嫌とは言っていない。仕事が終わってからにしろ」

 

「へぇ。じゃ、決まりね」

 

「勝手に決めるな」

 

 そう返しながらも、声には本気で断る気配がなかった。

 

 明日奈はそこで廊下を曲がり、二人の姿は見えなくなった。

 名前も聞かなかったし、何のためにこの病院へ来ている人たちなのかも分からない。医療関係者にしては二人とも白衣を着ておらず、見舞客にしては病院の中の事情に随分詳しいようにも思えたが、わざわざ戻って確かめるほどのことでもなかった。

 

 ただ、触れた相手が思わず声を上げるほど冷たい手を持ちながら、見ず知らずの自分には妙に温かな言葉をくれた白い車椅子の女性と、暇そうに欠伸をしながら一度歩いた病院の道筋をすっかり覚えている銀髪の女性という、どこかちぐはぐで不思議な二人組の姿だけは、少しの間、明日奈の記憶に残った。

 

 やがて教えられた青い案内板が見え、そこで右へ曲がると、今度は迷う余地もない一本道の先に《面会受付》の表示が見えてきた。

 明日奈は歩調を少し緩め、先ほど言われた通り急ぐことをやめて、その先で待っている木綿季のもとへ向かった。

 

十十十十十十十十十十

 

2026.2.3

大学附属病院・移植病棟

 

 病棟へ到着してから二十分ほど経った頃、待合室で座っていた明日奈の名前が呼ばれた。

 

「結城明日奈さんですね。お待たせしました」

 

 声の方へ振り向くと、白衣を着た若い女性が立っていた。

 

 二十代後半ほどに見える。長い焦げ茶色の髪は診療の邪魔にならないよう後ろでまとめられ、耳の少し上には白い花を模した小さな髪留めが付いている。白衣の下は淡い色のシャツと黒いパンツという飾り気のない服装で、黄色味を帯びた茶色の瞳や、外国人らしい白い肌には目を引かれるものがあったものの、姿勢や歩き方には若い医師らしい慣れがあり、少なくとも初対面の明日奈には、それ以上の印象を抱かせるようなところはなかった。

 

 胸元の名札には、《Цербера》という見慣れない文字があり、その下に日本語で《ツェルベラ》と読み仮名が添えられていた。

 

「今回、木綿季さんの治療チームに入っているツェルベラです。ロシア出身ですが、日本語で構いません。分からないことがあれば、その場で聞いてください」

 

 そこまで言ってから、女性は少しだけ眉を上げた。

 

「分からないまま頷いて、あとから一人で悪い方へ考えるのが一番困りますから。聞かれたことに答えられる範囲なら、ちゃんと答えます」

 

「……はい。よろしくお願いします」

 

「ええ、よろしくお願いします」

 

 丁寧ではあるものの、曖昧な返事を許すつもりはあまりないらしい。

 

 ツェルベラはそのまま明日奈を待合室から近くの面談室へ案内した。四人ほどが座れる小さな部屋で、壁には移植治療について説明する図が貼られ、机の端には消毒液と使い捨てのマスクが置かれている。扉を閉めると、彼女は明日奈の向かいへ腰を下ろし、手にしていたタブレットを机へ置いた。

 

「まず、木綿季さんについてですが、搬送後に予定していた検査は一通り終わっています。今のところ、転院前と比べて急激に悪くなったところはありません」

 

 その言葉を聞いた瞬間、無意識に力が入っていた明日奈の肩が僅かに緩んだ。

 けれどツェルベラは、それを「大丈夫」という言葉に置き換えなかった。

 

「ただし、もともとの全身状態が良いわけではありません。そこは分けて考えてくださいね。状態が変わっていないというのは、元気になったという意味ではありません。今日は搬送と検査だけでもかなり負担が掛かっていますから、面会も長くはしません」

 

「分かりました」

 

「それなら結構です」

 

 ツェルベラは明日奈の返事を確認すると、今度は話題を治療へ移した。

 

「倉橋先生から、移植についてはどこまで聞いていますか?」

 

「海外にすごく条件の合うドナーがいて、その人の免疫細胞はHIVに感染しにくいこと。それから、ユウキ自身の造血や免疫をかなり抑えてから、その人の造血幹細胞を移植するって聞きました」

 

「十分ですね。それなら、同じ説明を最初から繰り返す必要はありません」

 

 少しだけ頷いた後、ツェルベラはタブレットを開くことなく、明日奈へ向き直った。

 

「木綿季さん本人から、結城さんには治療についてある程度共有して構わないと確認しています。ただし、あなたはご家族でも治療同意者でもありませんから、治療手順を全て説明するわけではありません。友人として知っておいた方がいい範囲だけです。いいですね?」

 

「はい」

 

「では、一番大事なところだけ話します」

 

 そこでツェルベラは、わずかに身を乗り出した。

 

「これは、危険なために通常は行わない治療です。そこは間違えないでくださいね」

 

 言葉遣いそのものは穏やかだったが、聞き流してほしくない部分なのだということは明らかだった。

 

「造血幹細胞移植は、それ自体が身体へ大きな負担を掛けます。治療を始めれば、木綿季さんの免疫機能は今よりさらに弱くなる時期がありますし、感染症、出血、臓器障害、移植した細胞が定着しないこと、それから新しい免疫細胞が木綿季さん自身の身体を攻撃することもあります。場合によっては、治療そのものが命を奪うこともあります」

 

 そこまでは倉橋から聞いていた。

 それでも、実際にその治療を担当する医師から改めて聞くと、同じ内容でも響き方が違った。ここではもう、遠くにあるかもしれない選択肢について話しているのではない。数日後には木綿季の身体で始められる処置について話している。

 ツェルベラは、明日奈の表情を確かめるように少し間を置いてから続けた。

 

「ただ、今回は何もしなかった場合の危険も非常に大きい。ですから、治療する危険と、現在の治療を続けた場合に予測される危険を両方比較した上で、実施する価値があると判断しています。『治る可能性があるならやればいい』ではありませんよ。そんな判断なら私だって止めます」

 

 最後の一言には、これまでよりはっきりとした強さがあった。

 

「木綿季さん本人にも、そこは何度も確認しています。怖いことも含めて説明した上で、それでも治療を受けると本人が決めました。だから今は、私たちがその選択を成功させるために準備しています。法的な同意手続きについても、木綿季さんの未成年後見人と進めています。ただ、それとは別に、本人が受けたくない治療をこちらから押しつけるつもりはありません」

 

「……成功する可能性は、本当にあるんですよね」

 

「あります」

 

 ツェルベラは、そこだけは迷わずに答えた。

 その後で、期待だけが先に走らないようにするかのように、少し声を落とす。

 

「ただし、移植が成功したことと、HIVが治ったと言えることは同じではありません。まず移植した細胞がきちんと生着すること。造血機能が戻ること。重大な感染症や臓器障害を越えること。それから、新しく出来た免疫系の中でHIVがどうなるのかを長い時間をかけて見ていく必要があります」

 

 そこで初めてツェルベラはタブレットを開き、簡略化された治療日程を明日奈からも見える向きへ置いた。

 

「今はまだ治療そのものを始める前です。数日掛けて感染症や臓器機能などをもう一度詳しく調べます。その結果を見て問題がなければ、移植へ向けた前処置へ入ります。そこからしばらくが一番危険な時期になります」

 

「どれくらい……?」

 

「何日で終わる、と考えない方がいいですね」

 

 ツェルベラは率直に答えた。

 

「移植そのものは一つの処置ですが、その後に新しい造血が始まるまで待たなければいけません。そこから状態が安定するまでにも時間が掛かります。順調でも、しばらくは体力はかなり落ちて感染を避けながら経過を見ることになりますし、退院出来たから以前と同じ生活にすぐ戻れるわけでもありません。本人には、これ以外にももっと細かい長期的な影響まで説明しています。ただ、そこには本人の将来や身体に関するかなり個人的な内容も含まれますから、私から明日奈さんへ全て話すことはしません」

 

 明日奈は小さく頷いた。

 横浜の病院で木綿季が口にしていた、「学校へ行きたい」「みんなと遊びたい」という言葉が頭に浮かぶ。

 そこへ辿り着くまでには、思っていたよりずっと長い距離があった。

 

「もしかして、フルダイブも……ですか?」

 

「ええ」

 

 ツェルベラの返答は即座だった。

 

「少なくとも治療中は、基本的に許可しません」

 

 その言い方には例外を期待させる余地がほとんどなかった。

 

「フルダイブ機器は身体から入ってくる感覚を大きく遮断して、五感のほとんどを仮想空間へ置き換える機械でしょう。治療中はこちらが木綿季さんの身体の変化を細かく見なければいけませんし、本人にも痛みや息苦しさ、吐き気、違和感のような変化を出来るだけ早く伝えてもらう必要があります。神経学的な状態や意識も確認します。そんな時期に長時間、身体の感覚を切って仮想世界へ入ってもらうわけにはいきません」

 

「じゃあ、しばらくALO──仮想世界には……」

 

「行けません」

 

 はっきりと言い切った後、ツェルベラは少しだけ表情を和らげた。

 

「木綿季さんにとってフルダイブがどれだけ大切かは聞いています。だから軽く扱っているわけではありませんよ。ただ、今は一度ここを越えないと、その先の話が出来ないんです」

 

 それは慰めるというより、今の優先順位をそのまま伝える言葉だった。

 

「いつからなら出来るかは、今決めません。移植後の状態を見て、感染の危険が下がって、身体もある程度安定して、それから考えます。本人には不満でしょうけどね」

 

「……かなり不満だと思います」

 

「もう言われました」

 

 ツェルベラは溜息を吐くでもなく、ほんの少しだけ眉を寄せた。

 

「『少しなら駄目?』と聞かれました。駄目です、と答えました。そうしたら『少しが何分なら駄目なの?』と聞かれました」

 

 その光景が容易に想像できて、明日奈は僅かに口元を緩めた。

 

「ユウキらしいです」

 

「ええ。諦めが悪いのは悪いことではありません」

 

 意外にも、ツェルベラはそこを否定しなかった。

 

「治療を受ける人が先の予定を持っているのは大事です。ただ、その予定のために今日の身体を削るのは違います。木綿季さんにはそこだけ守ってもらいます」

 

 厳しいのだろう。

 けれど、木綿季がやりたいことを取り上げようとしているのではなく、それを再び出来る場所まで連れていくために今だけ止めようとしているのだと、明日奈には分かった。

 

「ドナーの方について、一つ聞いてもいいですか?」

 

「個人情報以外なら」

 

「本当に、ユウキとそんなに条件が合っているんですか?」

 

「本当です」

 

 ツェルベラはあっさり答えた。

 

「適合性はこちらでも確認しています。提供意思も確認済みです。採取を担当する施設とも連絡が取れていますし、採取した細胞をこちらへ運ぶ手順も決まっています。そこは心配しなくて大丈夫ですよ」

 

「倉橋先生も、最初に聞いた時は驚いたって言ってました」

 

「私も条件を見た時は驚きました」

 

 ごく普通にそう認めてから、ツェルベラは肩の力を僅かに抜いた。

 

「でも、驚くのは確認する前までです。条件が本物かを調べて、問題がなければ、その条件を使ってどう治療するかを考える。それがこちらの仕事です」

 

「どうやって、その人が見つかったのかは……?」

 

「そこは私も詳しく知りません。海外側から候補情報が届いて、治療に必要な資料はこちらへ渡されています」

 

 答えは簡潔だったが、先ほどまでのような拒絶する響きはなかった。

 

「気になるのは分かります。あまりに条件が良すぎますからね。ただ、私たちが今確認しなければいけないのは、その人が本当に提供出来るのか、その細胞を安全に木綿季さんへ使えるのかです。そこは何度も確認しています」

 

「……はい」

 

「大丈夫です」

 

 その一言だけ、ツェルベラの声が少し柔らかくなった。

 

「プレッシャーなら私たちが受けます。木綿季さんは治療に専念すればいいし、明日奈さんは友人でいてあげてください。治療の判断まで背負う必要はありません」

 

 明日奈は少しだけ目を見開いた。

 自分ではそんなつもりはなかったのに、どこかで木綿季の選択まで一緒に背負わなければならないような気持ちになっていたことを見透かされた気がした。

 

「……分かりました」

 

「それなら結構です」

 

 ツェルベラは時計を確認すると、タブレットを閉じた。

 

「そろそろ面会出来ます。今日は十分程度にしますから、それ以上は話さないでください」

 

「十分……」

 

「短いと思いますか?」

 

「少しだけ」

 

「でしょうね」

 

 責めるような言い方ではなかった。

 

「でも今日は朝から移動して、こちらへ着いてから検査もしています。本人は話している間は平気だと言うと思います。でも、話せることと疲れていないことは別です。明日まで疲れを残させたくないので、今日はここまでにします」

 

 明日奈が頷くと、ツェルベラもそれ以上念を押すことはせず、椅子から立ち上がった。

 

「では行きましょう。直接病室には入れませんから、ガラス越しでお願いします」

 

十十十十十十十十十十

 

2026.2.3

大学附属病院・無菌管理病室

 

 転院後の木綿季を初めて見た時、明日奈は病室そのものが以前より広くなったように感じた。

 

 実際の床面積が大きく違うわけではないのだろう。横浜の病院では、長年にわたって木綿季の生活そのものを支えてきたメディキュボイドが無菌室の中央で大きな場所を占めていた。それがなくなり、代わりに一般的な医療用ベッドが置かれているだけで、同じように点滴台や生体情報を表示するモニターが周囲を囲んでいても、中央に横たわる少女の身体だけが以前よりずっと小さく見えた。

 

 搬送と、その後に続いた検査の疲労もあるのだろう。木綿季の頬には血の気が乏しく、長い入院生活によって細くなった腕には点滴の管が繋がっている。長い入院生活によって細くなった腕が掛け布団の上へ出ており、ALOで長剣を片手に飛び回り、《絶剣》という名前そのままに誰よりも激しく戦っていた少女の身体が、本当はこれほど軽く、脆いものなのだという事実を改めて突きつけられる。

 

 それでも、ガラスの向こうへ明日奈が立つと、木綿季はすぐにこちらへ気づいた。

 ゆっくりと片手が持ち上がる。大きく振るほどの力はないらしく、手首を僅かに動かしただけだったが、それでも何をしようとしているのかは十分に伝わった。明日奈も同じように手を上げて応え、ガラス脇に備え付けられた通話用の受話器を取った。

 

「ユウキ」

 

『明日奈……来てくれたんだ』

 

 届いた声は、横浜で最後に聞いた時よりさらに小さかった。メディキュボイドを介した声ではなく、病室に設置されたマイクが拾った現実の木綿季自身の声であることもあって、僅かな息の弱さまで伝わってくる。

 

「来るって言ったでしょ」

 

『うん』

 

 木綿季はそれだけ答えると、少し呼吸を整えるように間を置いた。

 明日奈は、途切れた会話を埋めようとはしなかった。先ほどツェルベラから受けた説明が、既に目の前で形になっている。

 やがて木綿季が再び口を開いた。

 

『なんか……変な感じだよ』

 

「何が?」

 

『普通のベッドにいるの』

 

 その言葉に、明日奈も改めて病室を見回した。

 

『ずっとメディキュボイドだったからさ。こっちが普通のはずなのに、ボクにはこっちの方が変なんだ』

 

「三年も使ってたんだもんね」

 

『うん』

 

 短い返事の後、木綿季は天井へ少しだけ視線を向けた。

 

『それに……しばらくダイブ出来ないって』

 

「聞いたよ」

 

『かなり長いって言われた』

 

 声に落胆が混じった。

 それまでの木綿季にとって、フルダイブは単なる娯楽ではなかった。身体を自由に動かし、友人と会い、学校へ通い、戦い、笑うための場所だった。その世界を長い間取り上げられるという話を、「ゲームが出来なくなる」程度のこととして明日奈には扱えなかった。

 

「……辛いよね」

 

 だから、軽く励ます代わりにそう答えた。

 木綿季は少し黙ってから、小さく息を吐いた。

 

『……うん。でも、仕方ないって』

 

「先生に?」

 

『今は身体の変化をちゃんと分からないと駄目だからって。ダイブしてたら、痛いとか苦しいとかも分からなくなるでしょって』

 

 無理に明るく言ったわけではなかった。

 木綿季自身も、本当は納得したくないのだろう。それでも治療を受けると決めた時から、その中にはこうした不自由まで含まれていることを受け入れようとしている。

 明日奈はガラスへ手を添える代わりに、受話器を少し強く握った。

 

「ALOは逃げないよ」

 

『……うん』

 

「みんなもいるし、ユウキが戻ってくる場所もずっと残ってる」

 

 しばらく返事はなかった。

 やがて、木綿季の声にほんの少しだけ力が戻る。

 

『絶剣の名前も?』

 

「それは……もし取られたら、決闘で取り返せばいいんじゃないかな」

 

 明日奈がそう言うと、木綿季は一瞬だけ呆れたような顔をした後、弱々しくも確かな笑みを浮かべた。

 

『明日奈、時々すごいこと簡単に言うよね』

 

「でもユウキなら、そうするでしょ?」

 

 その問いには、今度はそれほど間を置かなかった。

 

『……まあね』

 

 声に僅かな得意げさが戻ったことに、明日奈の胸の奥も少しだけ軽くなる。

 

「それに、戻ってきたら絶剣の名前だけ気にしてる暇もないんじゃない?」

 

『なんで?』

 

「リオの新しいソードスキル、まだ見てないんでしょ」

 

 木綿季の瞳が僅かに明るくなった。

 

『あ……そうだった』

 

「たぶん今頃も作ってると思う」

 

『あの子なら作ってるよ。絶対』

 

 その言い方には妙な確信があった。

 明日奈にも否定する理由はない。獅織なら、木綿季から受けた刺激をそのまま放置するようなことはせず、自分が納得するまで何度でも試しているだろう。

 

『完成したら、見せてもらわないと』

 

「うん」

 

『それに……リアルでも遊ぶって言ったんだ』

 

 その言葉が出た時だけ、明日奈は返事をするまで僅かに時間が掛かった。

 つい少し前までなら、木綿季が退院後の予定を口にするたび、それを否定したくないと思う一方で、実現する未来を自然に想像することも出来なかった。希望を持ってほしいと願う気持ちと、長くは残されていないという現実を知っている気持ちが、いつも同じ場所でぶつかっていた。

 

 今も、未来が約束されたわけではない。

 むしろ木綿季はこれから、一度現在より危険な状態へ自分から踏み込むことになる。

 けれど、それでも以前とは違う。

 

「じゃあ、治療が終わった後に行く場所も考えないとね」

 

『うん』

 

「リオの技を見て、ALOにも戻って、それから現実でも遊んで、次の日には学校にも行って」

 

『……忙しいなぁ』

 

 木綿季の声に、僅かな笑いが混じった。

 

「今より忙しくなるかもね」

 

 明日奈は、言ってから僅かに目を見開いた。

 ほんの少し前までなら、こんな言葉を何の迷いもなく口にすることは出来なかったはずだった。木綿季は少しだけ目を見開き、その言葉をゆっくり噛み締めるように間を置いてから、ほんの僅かに笑った。

 

『そっか』

 

「うん」

 

『じゃあ……ちゃんと戻らないとね』

 

 大げさな決意ではなかった。

 ただ、自分がまだ生きている先へ予定を一つ置くような、静かな言葉だった。

 明日奈も、それ以上何かを付け加えようとはしなかった。その直後、受話器の向こうからツェルベラの声が入った。

 

『明日奈さん、そろそろ終わりにしてください』

 

 木綿季の目が僅かに動き、声のした方向へ向けられる。

 

『もう?』

 

『ええ。今日はもう十分です』

 

『まだ話せるよ』

 

 返ってきた声は、先ほど面談室で明日奈へ説明していた時と変わらず落ち着いていた。

 

『話せることは分かっています。でも、話せるから疲れていないとは限りません。今日は朝から移動して、その後も検査が続いています。今無理をして、夜に熱を出したり明日まで疲労を残したりする方が困ります』

 

 叱りつけるような調子ではなかった。

 ただ、ここだけは患者の希望より医師の判断を優先するということが、言葉の端々から明確に伝わってくる。

 木綿季もそれを理解しているらしく、少し不満そうに沈黙したものの、それ以上押し通そうとはしなかった。

 

『……分かった』

 

『ありがとうございます。今日は休んでください。また体調を見て、話せる時間は作りますから』

 

 それを聞いて、木綿季の表情から僅かに力が抜けた。

 単に「駄目だ」と止めるのではなく、次がないわけではないと伝えるところに、明日奈は面談室で感じたのと同じ印象を受けた。厳しいのではなく、患者が先へ進むために必要なところでは譲らない人なのだろう。

 明日奈は受話器を握り直した。

 

「じゃあ、今日は休んで」

 

『明日奈まで先生の味方するんだ』

 

「味方とかじゃないよ。また来るから」

 

 木綿季はその言葉を聞いて暫く明日奈を見つめ、それから小さく頷いた。

 

『うん。またね、明日奈』

 

「またね、ユウキ」

 

 木綿季はもう一度だけ細い腕を持ち上げた。

 

 明日奈も手を振り返してから受話器を戻したが、それでもすぐにはガラスの前を離れなかった。病室では看護師が木綿季のもとへ近づき、点滴の流量とモニターの表示を一つずつ確認している。木綿季も先ほどまで明日奈と話していた時より明らかに疲れた様子で目を閉じ、そのまま身体の力を抜いていった。

 

 ここから先、明日奈に出来ることはほとんどない。

 治療を代わることも、危険を半分だけ引き受けることも出来ない。剣を持って隣へ立てる世界とは違い、この場所では専門家たちが行う治療の外側から待つことしか出来ない。

 

 それでも、以前とは一つだけ違っていた。

 

 これまで木綿季の未来を思い描こうとすれば、その先にある時間そのものがあまりにも短く、どれだけ明るい予定を口にしても、明日奈の胸のどこかには必ず終わりが浮かんでいた。

 

 今、その終わりの手前に一本だけ別の道が伸びている。

 細く、危うく、途中で途切れてしまう可能性もある道だった。けれど、木綿季自身が怖いと認めた上で、その道を選んだ。

 

 ならば明日奈が今するべきなのは、その選択を代わりに背負おうとすることではなく、木綿季が帰ってきた時に続きを始められる場所を残しておくことなのだろう。

 

 ALOも、仲間たちも、まだ見ていない獅織のソードスキルも、現実で交わした遊びに行く約束も。

 

 どれも今すぐ叶える必要はない。

 木綿季が戻ってくるまで、そこに残っていればいいのだから。

 

十十十十十十十十十十

 

2026.2.3

大学附属病院・正面玄関前

 

 病院を出た頃には、午後から傾き始めていた冬の陽がさらに低くなり、建物の長い影が敷地の端まで伸びていた。

 

 温度と湿度を一定に保たれた病棟の中から外へ出た直後には、二月の冷たい空気が一層鋭く感じられる。明日奈はコートの前を閉じながら正面玄関から少し離れ、そこで一度だけ振り返った。

 

 大きな大学附属病院の建物には、今も多くの患者と医療者が出入りしている。

 

 ほんの数週間前まで、木綿季は横浜の病院で、それまでと同じ治療を受けていた。

 

 倉橋医師たちは出来る限りのことを続けていたが、選択肢そのものが少しずつ減り、今後について語られる時間は次第に短くなっていた。その流れが間違っていたわけではない。今日聞いた話でも、病気の状態が突然良くなったわけではなく、これまで存在しなかった条件が外側から一つ加わっただけだった。

 

 海外で、木綿季と非常に高い適合性を持つドナーが見つかった。その人にはHIV感染に対する特殊な性質があった。国内では治療を受け入れる大学病院が決まり、必要な医療者が集められ、僅かな期間で転院まで終わった。

 

 一つずつ取り出せば、どれも現実に起こり得る出来事なのだろう。

 

 海外のドナーから造血幹細胞の提供を受ける患者はいるらしいし、難しい症例が大学附属病院へ送られることも、複数の専門分野から医師が集まって治療チームを組むことも、これほど大きな病院なら珍しいことではないのかもしれない。

 

 ただ、それら全てが木綿季一人の前で、あまりにも都合よく重なった。

 明日奈には、その理由を説明することが出来なかった。だからといって、不自然だと疑う気持ちの方が強かったわけでもない。

 

 倉橋医師は、治療の危険を知った上で送り出した。

 ツェルベラ先生も、成功する可能性だけを強調するような話し方は一度もしなかった。

 

 そして何より、木綿季自身が怖さを理解した上で進むことを選んだ。

 

 それで今は十分なのだと思った。

 明日奈はそれ以上考えるのをやめ、病院へ背を向けた。今は木綿季がもう一度あのガラスの向こうから出てくる未来の方を考えたかった。

 

 もう一度ALOで剣を振り、《絶剣》の名を誰にも渡すものかと笑うユウキ。

 

 獅織が完成させた新しいソードスキルを見て、今度は自分も負けないものを作ろうと張り合うユウキ。

 

 現実の街へ出て、どこへ行くのか、何を食べるのか、そんな当たり前のことで迷えるようになったユウキ。

 

 今までなら想像した先で止めなければならなかった光景を、今日は少しだけ長く思い描くことが出来た。

 

 奇跡という言葉を、明日奈はそれほど簡単に信じているわけではない。けれど、数え切れないほど低い確率の中から一つの条件が見つかり、多くの人間の手を経て、それまで存在しなかった選択肢が一人の少女の前へ届けられることを奇跡と呼ぶのなら、今起きていることはそれにかなり近いのかもしれなかった。

 

 少なくとも、木綿季の物語はまだ終わっていない。それだけは、昨日までより少しだけ信じられた。

 

 明日奈は冷たい冬の空気の中を駅へ向かって歩き始め、その背後では、夕暮れに沈み始めた大学附属病院の窓へ一つずつ明かりが灯っていった。

 




脈打つ血潮に命を揺らし、巡る細胞に未来を融かす。
白衣の声は迷妄を奪う。恐れは消えない。
聞け。それでも生きたいと願う魂の声に従え。
古い殻は脱ぎ捨て、明日の果てへ歩いていく。
より広く、白い世界を見に行こう。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。