2025.12.12
朝田詩乃の部屋
12月も半ばに差しかかった夜は、窓ガラスの向こうに見える街の光までどこか冷たく感じられた。暖房の効いた室内には時計の秒針と、時折遠くを走っていく車の音くらいしかなく、壁1枚を隔てた隣室では、夕食を終えるなり眠気に負けた獅織が零奈のベッドを占領して、とうに深い眠りへ落ちている。普段であれば寝相の悪さで何かを蹴る音くらい聞こえてきそうなものだが、今夜に限っては珍しく静かなもので、そのおかげもあって詩乃の狭い部屋には、日常の延長にありながら外界から少しだけ切り離されたような穏やかな空気が保たれていた。
詩乃はベッドの上に仰向けになり、枕へ頭を預けている──眠るためではない。零奈とこうして話をする時、最初の頃こそ机を挟んで座っていたものの、長く話しているうちに無意識に肩に力が入り、症状そのものより「正しく答えなければならない」という緊張が強くなることが分かってからは、詩乃が楽な姿勢を選ぶようになった。現在は薄手の部屋着姿で、手は腹の上へ軽く重ねている。
その横には、零奈が自分で持ってきた椅子に腰掛けていた。白衣を着ているわけでもなければ診察器具を並べているわけでもなく、膝の上には小さな端末が1つあるだけで、そこへ時折短い記録を残している。視線も詩乃へ固定することはせず、質問をした後は答えを急かさない。沈黙が数秒続いても、何か言葉を足して埋めようとはしなかった。
「では、今週の反応から確認しよう。銃器に関連するものを意図せず見た場面は何度あった?」
「……3回くらい。駅の広告と……学校で誰かが見てた動画、それから昨日テレビで1回。広告はイラストだったから平気だった。動画は一瞬、本物の拳銃が映って……気持ち悪くなったけど、吐くところまではいかなかったわ」
「その時、視界が狭くなる感覚や、手足が自分のものではないように感じることは?」
「そこまではなかった。心臓が速くなって、手が冷たくなって……その場から離れたくなったくらい。結局、画面から目は逸らしたけど」
「それでいい」
あっさり肯定され、詩乃は天井を見たまま僅かに眉を寄せた。
「いいの?目を逸らしたのよ」
「君の目的は、銃を見たら何があっても凝視し続ける人間になることではない。以前なら意図せず画像を認識した時点で、身体反応が急激に立ち上がり、その後の選択肢そのものが失われていた。今回は不快感がありながらも、自分の意思で視線を外してその場を離れようとしている。その差は小さくない。恐怖が発生しなくなることだけを改善と定義する必要はないんだ。恐怖が起こっても、それに身体と判断を全て奪われないことも同じ程度に重要だからな」
「……零奈って、そういうところだけ妙に細かいわよね」
「症状を雑に扱って良いことはない。『怖かった』か『大丈夫だった』という2分類だけでは、途中で何が起きているのか分からないだろう」
いかにも零奈らしい答えだった。
数ヶ月前の詩乃であれば、そんなふうに症状を分解して説明されること自体を嫌ったかもしれない。恐怖も吐き気も、自分の中では全て1つに繋がったどうしようもない弱さでしかなく、それを知らない人間から心拍だの呼吸だの身体反応だのと分類されれば、分かったようなことを言わないで、と反発したくなっていた。
けれど今は違う。
少なくとも、零奈が分かったふりをしているわけではないことを知っている。
「それと、明日のことを1つ確認しておく」
「BoBのこと?」
「ああ。第3回《バレット・オブ・バレッツ》の予選トーナメントだ。楽しむのも、勝ちに行くのも止めるつもりはない。ただし、明日の結果を回復の成否と結びつけないようにしてくれ。勝てば現実の症状が改善したという意味にはならないし、負けても後退したことにはならない」
詩乃は少しだけ口を尖らせた。
「……分かってるわよ」
「本当に?」
「……前よりは」
「なら十分だ」
零奈は端末に短く何かを入力し、それから詩乃へ視線を戻した。
「GGOを始めた頃の君は、ゲーム内での『強さ』を現実の回復度とほぼ同じものとして扱っていた。強いプレイヤーを倒す、より危険な場所へ行く、銃を恐れず握る、そうした行動を積み重ねれば、いずれ現実の君にも同じ変化が起きると考えていたんだろう?」
「……そうよ。だって、実際にGGOの中では平気だったもの」
詩乃は枕の上で僅かに顔を横へ向けた。
「銃を持っても、撃っても、撃たれても平気だった。最初は本当にびっくりしたわ。現実なら写真1枚で駄目になるのに、シノンなら何時間でも銃を握っていられる。それなら、シノンがもっと強くなれば、そのうち私にも何か戻ってくるんじゃないかって思ったの」
「その発想自体は理解できる。だが、今のところ観察できている事実から考えれば、GGOで発作が起きなかったことは、君が既に銃への恐怖を克服していた証拠ではない。むしろ逆で、発作が起きるために必要な条件が、仮想空間では成立していなかったと考えた方が自然だ」
「条件?」
「アミュスフィアは現実の身体から来る感覚入力を切り離して、仮想身体側の感覚へ置き換える。君はさらに、《シノン》を現実の朝田詩乃とは異なる強い自己認識として扱っていた。視覚的には銃が存在していても、現実で銃を目にした時に伴う身体感覚、場所、自己認識、過去との連続性がかなり違う。つまり暴露の対象になっている刺激が、君の外傷記憶と十分に結びついていなかった可能性が高い」
零奈はそこで一度言葉を止め、詩乃が話について来ていることを確かめてから続けた。
「誤解してほしくないが、GGOで過ごした時間が無意味だったと言っているわけではない。君がどういう条件なら銃器を扱っても発作を起こさないのか、非常に重要な情報を与えてくれた。ただ、それと現実の症状が治癒したことは別だ。アミュスフィアは感覚を切り替えられても、君の記憶や恐怖学習まで別人のものとして切り離せるわけではない。ゲーム内でどれだけ銃を扱えたかということと、現実で外傷記憶を刺激された時、恐怖反応に圧倒されず自分で行動を選べるかということは、同じ尺度ではない」
「……じゃあ、私がずっとやってたことって、最初から間違ってたの?」
「目的に対する手段としては不十分だった、というのが近いな。間違っていたと切り捨てる必要はない。君は当時、自分で使えるものの中から一番ましな方法を選んだ。それに、もしGGOを始めた早い段階で、君の記憶と直接結びつく《黒星》そのものへ遭遇していたなら、その安全な切り分けはもっと早く崩れていた可能性もある。結果として、君がGGOを続けられたのは、そこで扱っていた銃器の多くが、君にとって現実の事件を直接再現する刺激ではなかったことも大きいだろう」
《黒星》という名前を聞いた瞬間、詩乃の腹の奥が僅かに固くなった。
以前なら、その2文字だけでも頭の中へ黒い銃身が浮かび、その先にある記憶を押し戻そうと必死になっていた。
今でも心地よい名前ではない。それでも、零奈が目の前にいるこの部屋であれば、逃げ出さずにその言葉を聞くことくらいはできる。いや、今なら、もしかすると──そう詩乃が思考した瞬間の、その僅かな表情の変化すら零奈は見逃さなかった。
「今日はここまででいい。《黒星》そのものについてこれ以上扱う必要はない」
「……まだ何も言ってないけど」
「だからこそだ。君が我慢できるかどうかを試す時ではない」
詩乃は小さく息を吐いた。
「昔の私なら、そう言われたら腹が立ってたと思う」
「知っている。かなり反抗的だったからな」
「……それ、覚えてるの?」
「当然だろう。君が私に最初に投げた質問は、治療歴でも症状でもなかった」
零奈の口元が、ごく僅かに緩んだ。
「『あなたは人を殺したことがあるの?』だった」
その言葉を聞いた瞬間、詩乃の意識は、数ヶ月前の夜へと引き戻されていった。
十十十十十十十十十十
最初に聞こえたのは、水道の音だった。
夜も遅くなり、零奈が自室で資料を読んでいた時、壁を隔てた隣の部屋から何度も蛇口を開閉するような音が聞こえてきた。普段なら気に留めるほどのものではない。しかし、しばらくすると、それに混じって喉を詰まらせるような咳と、何かを吐き出す音が続いた。
それが数分経っても収まらなかった。
零奈は資料を閉じて部屋を出ると、詩乃の部屋の前まで来て数回ノックする。
「詩乃、起きているか?」
返事はない。もう一度ノックする。
しばらくして、扉の向こうから掠れた声が返ってきた。
「……帰って」
「分かった。だが、吐いているなら水分状態だけ確認したい。扉を開けられるか?」
「平気だから……」
「平気な人間は、平気だと説明するためにここまで声を絞る必要はない」
数十秒ほどの沈黙があった。
やがて電子錠と金属鍵が外れる小さな音がして、扉がほんの少しだけ開いた。
その隙間から見えた詩乃の顔は、ひどく青ざめていた。目の周囲には涙が残り、髪は汗で頬へ張りついている。口元を片手で押さえたまま立っていたが、零奈の顔を見るなり膝から力が抜けたように身体が傾いた。
零奈は咄嗟に肩を支えた。
「立たなくていい。そのまま座るんだ」
「触らないで……」
「分かった。自分で座れるなら手を離す」
支えを弱めると、詩乃は壁へ背を預けながら床へ座り込んだ。
零奈はそれ以上近づかず、少し離れた位置にしゃがんだ。開いた扉の向こうには吐瀉物の跡が残っていたが、血液らしいものは見当たらず、詩乃の意識も明瞭だった。
「吐血は?」
「ない……」
「腹痛は?」
「ない……」
「何か変なものを食べた覚えは?」
「違う……そういうのじゃない」
詩乃はそこで唇を噛んだ。零奈が何も言わず待っていると、やがて床へ落としていた視線の先で、詩乃の手が小さく震え始めた。
「銃を……見ただけ」
「それは現物か?」
「写真。スマホで……たまたま出てきただけ」
零奈は僅かに目を細めた。
「なるほど」
「何が……なるほどなのよ……」
「原因が分かったという意味だ。それ以上でも以下でもない」
その返し方が、詩乃には妙に腹立たしかった。今まで会った医師も、カウンセラーも、最初は同じような顔をしていた。
話を聞く、共感する──辛かったですね、と言う。それから決まったように、少しずつ慣れていきましょう、あなたは悪くありません、安心してください、と続ける。
どの言葉も決して間違ってはいなかったが、それは詩乃には届かなかった。
「……何よ。零奈だって医者でもないくせに」
「確かに医師ではない。医学を学んでいるだけだ。だから正式な診療として君を扱うことはできないし、今ここで治療を始めると言うつもりもない。ただ、少なくとも今の症状について話を聞き、危険な状態ではないか確認し、必要なら受診を勧める程度のことはできる」
詩乃は初めて顔を上げた。
「医学……?」
「ああ」
「じゃあ、あんたも同じなんだ」
「何がだ?」
「分かったようなこと言う人たちと」
その言葉は、零奈に向けたというより、今まで会ってきた全ての医療者に投げつけるためのものだったのかもしれない。詩乃は自分でも、相手がどう答えるか知っていた。
そんな経験はありません。
でも、あなたの苦しみを理解したい。
そのような意味の返事が来る。そして、また同じだと思って会話を終わらせる。
だから、詩乃はわざと刺すように聞いた。今思えば、喧嘩を売るような発言だった。
「あなたは人を殺したことがあるの?」
零奈は黙った。案の定の反応に、詩乃は鼻で笑いそうになった。けれど、次に返ってきた言葉は予想とまるで違った。
「ある」
詩乃は瞬きをした。聞き間違えだと思った。
「何……言ってるの?」
「質問に答えた。私は人を殺したことがある」
零奈は少しだけ間を置いた。
「私はSAO生存者だ」
詩乃の表情が止まった。
「SAO?あの……2年間、ログアウトできなかった……?」
「そうだ」
SAOのことなら詩乃も知っている。
ニュースで何度も見聞きした。仮想世界で死ねば現実でも死ぬ、デスゲーム。多数の犠牲者が出た──それくらいは知っていた。
「でも……人を殺したって、どういうことよ。モンスターじゃなくて?」
「プレイヤーだ。SAOの内部には、他のプレイヤーを好んで襲撃し、殺害する者たちもいた。単独犯もいれば、複数で行動する者もいた。私はそのうち何人かと直接交戦した」
「……そして、殺したの?」
「そう言っただろう」
零奈の声には、誇張も自慢もなかった。だからこそ、詩乃には余計に現実味がなかった。
「怖く……なかったの?」
「戦闘そのものに恐怖がなかったと言えば嘘になる。私も死ねば現実で死亡する以上、自分が殺される可能性については警戒していた。ただし、彼らを殺したことそのものについて恐怖や後悔を感じたことはない」
「……どうして?」
零奈は少し考えるように視線を伏せた。
言葉を選んでいるというより、どこまで説明すれば詩乃が誤解せず受け取れるかを整理しているようだった。
「私にとって重要なのは、行為の名称ではなく目的と状況だ。殺人という行為は、それだけを切り取れば人の生命を奪う。しかし、ある人間が他者を殺そうとしており、それを止める手段が限られ、私が行動しなければ別の人間が死ぬと判断した場合、脅威を排除することは生命を守るための手段になる。私はそれを『人道』に沿った行動だと判断した」
「人道……?」
「人として正しい道、と私は理解している。他者の苦痛を目的にして殺すことと、他者の生命を守るため、差し迫った脅威を止めた結果として相手を死なせることは、同じ結果が生じたとしても同じ行為ではない。少なくとも私はそう考えている」
「でも、人を殺したんでしょう?それなのに……何とも思わないの?」
「何とも思わない、という表現は正確ではないな。死亡した人間がいたという事実は記憶しているし、その状況を軽視しているわけでもない。ただ、私は当時の判断を現在から見直しても変更するべきだったとは考えていない。仮にもう一度同じ条件が与えられ、誰かを生かすために同じ選択が必要なら、私は迷うことなく同じことをするだろう」
そこには迷いがなかった。
普通ならば、少しくらい言葉を濁すところだったのかもしれない。人を殺した記憶に苦しんでいないことを、少なくとも申し訳なさそうに語るところだったのかもしれない。
だが、その毅然とした語り口は、詩乃にとって初めて目の前に自分がずっと求めていた人間が現れたように思えた。
「……どうして」
詩乃は震える手を握った。
「どうして、そんなに強いの?」
「強い?」
「人を殺したのに、壊れてないじゃない!」
それまで抑えていた感情が、一気に表へ出た。
「私は……私は、あの時、他にどうしようもなかったのに……!」
零奈は動かなかった。
詩乃の声が大きくなっても、止めなかった。
「小学5年の時だった!母さんと一緒にいた時に、強盗が入ってきて……銃を持ってた。後で覚醒剤を使ってたって聞いた。おかしくなってたんだと思う。最初に局員の人を撃ったの。あいつは母さんに銃を向けて、それで……私……守らなきゃって……」
そこから先は、長い間誰かへ説明することそのものが苦痛だった記憶だった。けれどこの時だけは、零奈の「人を殺した」という言葉が、詩乃の中にあった堰を壊してしまった。
「……腕に、腕に噛みついたの。銃を取ろうとして。振り払われた時に歯が2本抜けた。痛かったはずなのに、ほとんど覚えてない。銃を掴んで……最初の1発を撃った時は、まだあいつも銃を持ってたから吹っ飛ばなかった。でも手を離した後にもう1回撃ったら、反動で倒れて……肩も、凄く痛かった」
詩乃の呼吸が少し速くなった。
零奈は遮らず、ただ短く確認した。
「……続けられそうか?」
詩乃は頷いた。
「まだ動いたの。だから……ただ、止めなきゃって思った。母さんを守りたかった、だから止めなきゃって。立ち上がって近くまで行って……本当はお腹を狙った。でも、狙いがずれて……頭に当たった。その時の反動で……右肩が外れたみたい」
口に出した途端、右肩の奥に古い痛みが戻ってきたような気がした。
「そのあとは……警察の人に銃を取られるまでずっと握ってたんだって。私、よく覚えてない。母さんと一緒に入院して……それから全部、町中に広まった。学校でも知られて、銃の写真を見るだけで駄目になって……何年も、カウンセリングも薬も、色々やった。でも、何も変わらなかった」
詩乃は床を見つめたまま、唇を噛んだ。そこまで話しただけでも、喉の奥には吐いた直後の酸っぱい感覚がまだ残っていて、胃の中はほとんど空になっているはずなのに、腹の底だけが何か重いもので押し潰されているように気持ち悪かった。
零奈に話している内容は、これまで医師やカウンセラーに何度も説明してきたものと大きく違わないはずなのに、なぜか今夜は1つ言葉にするたび、それまで自分の中でばらばらに閉じ込めてきたものが、勝手に別の記憶まで引きずり出してくる。
「だから……最近、GGOを始めたの。ゲームの中なら、平気だったから。銃を見ても……触っても、撃っても、気持ち悪くならなかった。だったら、ゲームの中の私──シノンがもっと強くなれば……いっぱい敵を倒して、もっと強い相手にも勝てるようになれば、私も……少しくらい、同じようになれるんじゃないかって……」
最後まで言い切る前に息が震え、詩乃は一度唇を閉ざした。自分でも馬鹿なことを言っているような気がしていた。ゲームの中で敵を倒せば現実の自分が変わるなど、他人に説明してしまえば子供じみた願掛けにしか聞こえない。それでも彼女にとっては、それ以外に残された方法がなかった。
「銃を何百回撃っても平気でいられたら……そのうち、現実でも平気になるって。私じゃ駄目でも、シノンなら出来るから……シノンを強くしていけば、いつか私の方にも、その強さが戻ってくるんじゃないかって……そう思ってた」
「そうか」
零奈は短く返した、それだけだった。
否定も肯定もせず、同情するような顔もせず、ただ詩乃がそこまで話したという事実だけを受け取ったように黙っている。詩乃はしばらく次の言葉を待っていたが、零奈が何も続けないため、胸の奥に残っていた苛立ちが少しずつ頭をもたげてきた。
「……何よ」
「何がだ?」
「それだけなの?」
声が思ったより強くなった。詩乃自身、それを抑えようとはしなかった。
「普通は何か言うでしょ。ゲームなんかで治るわけないとか、もっとちゃんと病院へ行けとか……馬鹿なことしてるって言いたいなら、そう言えばいいじゃない」
「君が今話した内容を聞いた直後に、私が勝手に評価を確定する必要はない。GGOを始めた方法が医学的に適切だったかどうかは後で検討できる。それより今は、君が何を恐れていて、なぜそういう方法を選んだのかを理解する方が先だろう」
零奈はそこで僅かに姿勢を変えたが、詩乃との距離を縮めることはしなかった。床へ座り込んでいる詩乃に対して、自分だけが上から見下ろす形にならないよう、先ほどから少し離れた床へ腰を下ろしている。
「少なくとも分かったことが1つある。君は11歳の時、武器を持った人物と至近距離で対峙し、母親がその脅威に晒されていた。そして君は、かなり強く『自分が母親を守らなければならない』と考えていた」
「……守らなきゃ、いけなかったの」
詩乃はほとんど反射的に答えた。
零奈の視線が僅かに鋭くなる。
「その言葉だ」
「……え?」
「君は強盗事件の状況を説明する時、『母親が危険だったから反撃した』ではなく、何度も『自分が母親を守らなければならなかった』という旨の言い方をしている。その表現には、1回きりの危機への反応以上のものが含まれているように聞こえる。君は、11歳の事件よりずっと前から、母親に対して、自分が保護する側でなければならないという役割を課していた。違うか?」
詩乃の表情が止まった。
「……何で」
「強盗事件だけが原因なら、『母が撃たれそうだったから止めた』という説明で成立する。しかし君は、母親について話す時に一貫して『守る』という語を使う。母親と子供という関係よりも、君の方が保護者に近い役割を引き受けているように聞こえるんだ。もちろん、私の推測が違うなら訂正してくれ」
詩乃はすぐには答えなかった。
膝を抱えるようにして腕を回し、薄い部屋着の布を指先で強く掴む。強盗のことなら何度も話したことがある。それなのに、その前のことを医師に詳しく話した記憶はあまりなかった。
「……父さんが、死んだから」
声は、先ほどよりずっと小さかった。
零奈は何も挟まない。
「私が……まだ2歳にもなってない頃。だから私自身は、事故のことなんて何も覚えてない。父さんの声も知らないし……顔も知らない」
その言葉を口にすると、詩乃は自分でも妙な気分になった。
父親がいたことは知っている。父親が自分を可愛がっていたらしいことも、人から聞いたことはある。けれど、それは全て他人から教えられた情報で、自分自身の記憶の中には、その人物が存在していない。
「後から聞いたの。深夜に東京から母さんの実家へ向かってる途中で、カーブを曲がってきたトラックが対向車線にはみ出してきて……私たちの車にぶつかったって。その衝撃でガードレールを突き破って、崖から落ちたの。でも途中の木に引っかかって、下までは落ちなかった。私はほとんど無傷で、母さんも骨折くらいで済んだ。でも父さんは……」
詩乃の声がまた少し詰まった。
「すぐには、死んでなかったらしいの。息はあったって」
そこから先は、自分が見たものではない。
それでも何度も想像してしまった。
夜の山道──崖から落ち、斜めに木へ引っかかった車。
動けない母と、その隣で少しずつ呼吸を失っていく、顔も知らない父親。
「あの道……ほとんど誰も使わない道だったから。通報されたの、朝になってからで……6時間くらい経ってたって。母さんは骨折して動けないまま、その間ずっと父さんのそばにいた。父さんが……だんだん弱くなって、死んでいくところを、ずっと……見てたって」
自分の記憶ではない。なのに、話しているだけで胸が締めつけられる。
「助けが来た時には、もう父さんは死んでた。それから……母さん、変わったらしいの。父さんと出会う前の頃まで戻ったみたいになって、それ以降の記憶とか、父さんとの思い出とか……そういうものを全部、拒絶するようになったって。写真も、物も、ほとんど捨てちゃったから……私、父さんの顔も知らないの」
詩乃は一度だけ鼻を啜った。
「母さんは私の母親なのに……時々、私のことを娘じゃなくて、妹みたいに見てるんじゃないかって思うの。だから余計に、私がちゃんとしなきゃって……私が守らなきゃって、ずっと思ってた。だって父さんはもういないし、母さんを守れる人、私しかいなかったから……」
そこで強盗事件の記憶が再び繋がったのだろう。詩乃の呼吸が僅かに速くなる。
「だから、あの時も……目の前で誰かが死ぬなんて、そんなの……駄目だった。母さんに銃を向けられて……あの人が引き金を引いたら、今度は母さんまでいなくなるって思って……だから、守らなきゃって……」
「だから君は母親──大切な人を失うことを、たった11歳で防ごうとした」
詩乃は答えなかった。
答えようとすれば、泣いてしまいそうだった。
零奈はそれ以上追及せず、しばらく詩乃が呼吸を整える時間を取った。沈黙が長くなっても急かさず、呼吸が少しずつ元へ戻ってから、ようやく静かに口を開く。
「詩乃。倫理的な評価と、外傷反応は分けて考えた方がいい」
「……どういう、こと?」
「君が現在苦しんでいるという事実は、君が当時、間違った行動をした証拠にはならない。そして逆に、君の行動が正しかったなら苦しむはずがない、ということにもならない。私の基準で言えば、11歳の君が取った行動は『人道』に沿っている。君と母親の生命に差し迫った危険があり、それを止めるために行動した。相手を苦しめることや殺すこと自体を目的にしたわけではない。その結果として相手が死亡したからといって、君の行動の目的まで殺人そのものだったことにはならない」
「私は、正しいって言いたいの……?じゃあ……」
詩乃の声が掠れた。今にも消えそうな声を絞り出すようにして、縋るようにして話す。
「じゃあ、どうして……どうして私は、こんなになってるの……?私だって、好きで撃ったわけじゃない。母さんを助けようとしただけなのに……何で、写真を見るだけで吐くの。何で、銃の形を見ただけで……あの時みたいになるの……?」
「人間の神経系は、倫理的な正誤を判定してから外傷記憶を形成するわけではないからだ」
零奈の返答には迷いがなかった。
「11歳の身体で突然生命の危険へ放り込まれ、暴力を受け、歯を失い、銃の反動によって身体を傷め、至近距離で人間が死亡する場面を経験した。そして、その出来事は君にとって長い間『守らなければならない』対象だった母親と直接結びついている。脳がその連続的な刺激を極端な危険として記録したことと、君の行為が倫理的に正当だったかどうかは別の問題だ。身体は、君が正しいことをしたから安全だった、とは判断してくれない」
「でも……」
詩乃は零奈の目を見た。
底が見えないほどに黒かった。
「零奈は、平気なんでしょう?」
「ああ」
「人を殺しても……今みたいに、普通にしていられるんでしょう?」
「そうだ」
「だったら……」
詩乃は膝から身体を起こし、縋るように零奈に近づくと、零奈の服を掴んだ。
「……私も、そうなりたい」
言葉が溢れ始めると止められなかった。
「どうしたら、零奈みたいに強くなれるの?人を殺したことを思い出しても、怖くならないようにするにはどうしたらいいの? SAOで何があったの?どんな人を殺したの?その時、何考えてたの?本当に何も後悔してないの?どうしてそんなふうに──そんなに、平気でいられるの?」
先ほどまで医療そのものへ向けていた反抗心とは、まるで違った。
今は知りたかった。
自分と同じように人を殺したことがありながら、その記憶によって生活を壊されていない人間が目の前にいる。しかもその人物は、自分の行為を誤魔化すことも美化することもなく、必要だったから行った、同じ状況ならもう一度やると断言している。詩乃には、それが恐ろしいほどの強さに見えた。
「SAOの話、もっと聞かせてよ。零奈、あそこでどうやって生きてたの?人を殺すようなプレイヤーがいたなんて私、知らなかったの。そいつらとどうやって戦ったの?怖くなかったの?どうしたら私も──」
「詩乃」
零奈が静かに名前を呼んだ。
声量は変わらない。
それでも詩乃の言葉は止まった。
「私と同じになることを、回復の成否にはしない方がいい」
「……どうして?」
「私の反応が、人間として望ましい標準だという根拠はどこにもないからだ」
「でも、零奈は苦しんでないじゃない」
「それと健全であることは同義ではない」
詩乃は何も言えなかった。
零奈はその反応を見ながら、言葉を続ける。
「恐怖を感じないことと、強いことは同じではない。後悔しないこともそうだ。私は私自身の判断基準に従って生きているだけで、それを君にそのまま移植する必要はない。君が目指すべきなのは、銃を見ても一切感情が動かない人間になることではなく、恐怖や記憶が残っていても、それによって現在の生活の選択権を奪われない状態だと私は考える」
「……でも、それじゃ弱いままじゃない」
「恐怖を抱えたまま自分で行動を選べるなら、それは弱さではない。恐怖が存在しなければ、勇気という概念も成立しないだろう」
詩乃は納得できないような顔をしていた。
零奈はそれ以上説得しようとはしなかった。
「──今日はここまでにしよう。君は既に何度も吐いているし、身体もかなり消耗している。まず口をすすいで、水分を一度に大量に飲まず少しずつ取る。それから休め。今夜のうちに全て整理する必要はない」
「……次も話してくれる?」
「君が望むなら」
「SAOのことも?」
「それはカウンセリングとは別の話だ。だが、望むのなら検討しよう」
それが、最初だった。
十十十十十十十十十十
「──あの時、本当に変な人だと思った」
現在の詩乃はベッドへ横たわったまま、数ヶ月前の自分を思い出して少しだけ笑った。あの夜には苦しくて仕方なかった記憶も、今では零奈の妙に理屈っぽい返答まで含めて1つの思い出として振り返ることができる。
「人を殺したことあるって普通に言うし、しかも後悔してないって断言するし。今考えれば、相当すごいこと言ってるわよね」
「そうかもしれないな」
「否定しないのね」
「事実だからな」
零奈はいつも通りだった。
あの夜から何度も話を重ねてきた。
1回や2回の会話で何かが劇的に消えたわけではないし、翌朝になれば銃器の写真はやはり怖かった。その1週間後にも偶然画像を目にして吐き気を起こし、調子が良い日が3日続いた後、たった1枚の写真で以前に近い発作を起こして「何も変わっていない」と泣きそうになったこともある。
零奈はそのたびに、回復を1本の右肩上がりの線として考えるなと言った。
一度出来たことが次の日に出来なくなることはある。昨日より今日の方が症状が強いこともある。疲労や睡眠不足、予期しない刺激の強さによって反応が戻ることもあり、それだけを見て症状の改善が失敗したと判断するのは早すぎる。重要なのは1日単位の上下ではなく、数ヶ月という長さで見た時、以前なら選べなかった行動を自分の意思で選べる場面が増えているかどうかだ──と。
詩乃も今では、その考え方を少しずつ受け入れられるようになっていた。
「明日のBoBも、前の私なら絶対に『ここで勝ったらもっと強くなれる』って思ってたでしょうね」
「今は?」
「もちろん、勝ちたいのは同じよ。せっかくヘカートⅡも手に入ったんだし、負けるつもりはない。でも……勝ったから現実の私が治るとか、逆に負けたから弱いままだとか、そういうふうには……前ほど思わなくなったかな」
「それでいい」
「逆に負けても?」
「症状の改善とは無関係だ。対戦ゲームの勝敗を症状評価の指標として採用する予定はない。君が1回戦で敗退しようが優勝しようが、こちらで確認する内容は変わらない」
「全く、随分夢のない言い方するわね」
「大会の結果を回復の成績に換算しないというだけだ。私も出場するのだから、勝負そのものには興味がある」
詩乃はそこで少しだけ笑った。
「そうだった。零奈も出るんだったわね」
「ああ。獅織も参加する。あの子の場合、予選という言葉をどこまで理解しているかは若干不安だが……」
「『いっぱい戦える大会』くらいにしか思ってないんじゃない?」
「概ねその理解だろう。先ほども明日の装備を確認すると言いながら、途中で眠くなって私のベッドを占領した」
「……今も寝てるんでしょう?」
「かなり深くな」
壁1枚向こうでは、その当人が何も知らずに眠っている。
明日になれば3人ともGGOへ入り、同じ第3回BoBの予選トーナメントへ参加することになるが、個人戦の大会である以上、普段のように3人でスコードロンを組むわけではない。
「明日、もし当たったら手加減しないわよ」
「当然だ。私もそのつもりはない」
「獅織は……真正面から突っ込んできそう。なんか容易に想像できるわね、あの子は」
詩乃は枕に頭を沈めながら、明日の光景を想像した。予選を勝ち上がることはもちろん楽しみだったが、以前のように「ここで勝たなければ自分は弱い」という切迫感は、少しずつ薄くなっている。
勝ちたいから勝つ。シノンとして強くなりたいから戦う──それだけでもよかった。
「なら明日は普通に楽しめばいいのね」
「もちろんだ。BoBは君が遊ぶために参加するものだろう。課題ではない。勝ちたいなら勝ちに行けばいいし、負ければ悔しがればいい。私や獅織と当たったなら遠慮なく撃てばいい。それ以上の意味を背負わせる必要はない」
零奈は膝の上に置いていた端末を閉じた。
「それと、明日の予定についてもう1つ確認しておく」
「何?」
「予選の前に、君に会わせたい人物がいると言ったのを覚えているか?」
詩乃は少し考え、それから頷いた。
「前に言ってた、ゲーム仲間って人?」
「ああ。私が以前から付き合いのあるゲーム仲間だ。明日は向こうもGGOに来る予定だから、開始前に合流する。紹介しておきたい」
「どういう人なの?」
「会えば分かる」
「それ説明になってないわよ」
「事前情報を与えすぎると、君が余計な先入観を持つかもしれないだろう」
「……それ、絶対何かある人じゃない」
「少なくとも危険人物ではない」
「その言い方も怪しいんだけど」
零奈は答えず、僅かに口元だけを緩めた。
その態度を見て、詩乃は怪しいと思ったものの、今聞いても教えるつもりはないらしい。
「今日はここまでにしよう。明日は予選だけでも長くなる。睡眠時間を削ってまで話す方が、今の君にはよほど良くない」
「もう終わり?」
「予定より十分長い。それに私も明日は出場者だ。君だけ寝不足を避ければいいという話でもない」
「零奈が自分から寝るって言うの珍しいわね」
「君は私を何だと思っている……」
「放っておいたら朝から死にかけてる人」
「……否定はしないが、明日は事情が違う」
その時、壁の向こうから何か柔らかいものが床へ落ちたような鈍い音が響いた。
2人とも同時にそちらを見る。しばらく耳を澄ませても、その後は何も聞こえてこない。
「……獅織、また何か蹴ったんじゃない?」
「可能性は高い。帰る前に確認しておこう」
「ベッドから本人が落ちたとか」
「それも考えられるな」
数ヶ月前の回想によって少し重くなっていた空気が、その程度の会話だけで自然に解けていく。
零奈は椅子から立ち上がり、膝の上に置いていた端末を片手へ持つとベッドから離れ、詩乃の机に置かれた照明だけを残して部屋の明かりを一段落とした。
「おやすみ、詩乃。明日は症状改善のためにGGOへ行くわけではない。君はシノンとしてBoBへ参加して、好きなように戦ってくればいい。私も獅織も同じだ」
「……うん」
「それから、先ほど言った人物との待ち合わせを忘れないように。ログインしたら私たちと合流して、それから紹介する」
「分かってるわよ」
詩乃は目を閉じかけ、それからもう一度だけ開いた。
「ねえ、零奈」
「何だ?」
「私……前よりは、強くなったと思う?」
零奈はすぐには答えなかった。
数ヶ月前ならば、詩乃が「強い」という言葉に求めていたのは、銃を恐れなくなったという証明だった。写真を見ても吐かない、銃口を向けられても震えない、人を撃ったことを思い出しても何も感じない──そうした状態だけを、強さと呼んでいた。
だが、今は少し違う。
「君が言う「強い」の定義そのものが、以前より変わってきている。その意味なら、そうだな。少なくとも今の君は、恐怖を感じることと、恐怖によって自分の意思を奪われることを同じものだとは考えなくなりつつある」
「……また難しい言い方する」
「簡単に言えば、前より良くなっている」
「最初からそう言いなさいよ」
「情報量が減るだろう」
詩乃は呆れたように笑い、今度こそ瞼を閉じた。
明日は第3回BoB──《バレット・オブ・バレッツ》の予選トーナメントが始まる。
シノンとして銃を握り、敵を狙い、撃つ。
そこには零奈もいて、獅織もいる。そして、まだ名前すら知らない、零奈が会わせたいというゲーム仲間も来るらしい。
数ヶ月前の詩乃にとって、GGOは現実の自分を治すための場所だった。
もっと強い敵を倒さなければならない。もっと銃を撃たなければならない。シノンを強くしなければ、自分はいつまでも弱いままだ──そうやって、1つ1つの勝敗を現実の自分まで載せていた。
けれど今は、少しだけ違っている。明日勝ちたいと思うのは、治療のためではない。
ヘカートⅡを撃ちたい。強い相手と戦いたい。零奈や獅織ともし対戦することになれば、負けたくない──それだけで十分なのだと、少なくとも今夜の詩乃は考えられるようになっていた。
ゲームの中で強くなることと、現実の自分が過去を抱えたまま少しずつ生きやすくなることは、同じ道ではない。そして同じ道でないからといって、どちらか一方を捨てる必要などなかったのだ。
詩乃はそんなことをぼんやり考えながら、隣室で眠っている獅織の気配と、部屋を出ようとしている零奈の小さな物音を聞きつつ、ゆっくりと身体の力を抜いていった。
常にクールな零奈は医学の勉強も欠かさない。
大学の教授も目を回すような論文を開き
次から次へと翻訳して頭に叩き込む。
その度に書類の山が生まれて崩れ、
溢したコーヒーの河が流れるのだが、
彼女の知ったことではないようだ。