2025.12.13
GGO内/SBCグロッケン/ガンショップ
第3回《バレット・オブ・バレッツ》予選トーナメント当日の14時前、SBCグロッケン中央区にある大型ガンショップは、普段の休日とは明らかに違う熱気に包まれていた。大会開始までまだ多少の時間があるとはいえ、今日ばかりは最後の装備調整へ駆け込んでくる出場者が多く、店内の壁を埋め尽くす銃器のショーケース、その上を流れる価格や要求ステータスのホログラム、購入候補を比較するために何枚も開かれたウィンドウが、薄暗い店内へ色とりどりの光を落としている。
街中では武器をわざわざ実体化させて持ち歩く者は少なく、シノンも《ヘカートⅡ》を含む装備一式をアイテムストレージへ仕舞っていたため、外見だけなら大会当日の狙撃手というより、私服のような軽装で買い物へ来た1人のプレイヤーにしか見えなかった。
もっとも、ここは武器を買うためのガンショップである。ウィンドウ型のショーケースの商品はプレイヤーが手に取って重量や照準器の見え方を確認できるようになっており、奥には銃器用の試射スペースと光剣などを振るための簡易演習区画も用意されている。街路の真ん中で銃を抜けば無用な騒ぎになるが、店内で試用品を構える者は珍しくもなく、ところどころではアサルトライフルを肩へ当てて構えを確認する者や、巨大な拳銃の重さに顔をしかめている初心者の姿も見えた。
シノンは店の奥にある休憩スペースの壁に背を預け、視界の端に浮かべた時計を確認した。現在は13時55分、間もなく約束の14時だ。
前々から零奈に、紹介したいゲーム仲間がいると聞かされていたものの、名前も詳しい素性もまだ聞いていないため、今日ここに来る目的は自分の買い物というより、その人物にGGOの装備を揃える手伝いをすることに近かった。
ただ、零奈より先に来るだろうと予想していた人物については、案の定というか約束の時刻より早く現れた。
「シノォォォン!」
店の入口付近から、周囲の喧噪にも負けない声が飛んでくる。
振り向けば、人混みの間から白銀の長髪を揺らした長身の女がこちらへ向かって歩いてくるところだった。普段の街中ということもあって《クリス・ヴェクター》と《P226》、2本の紫色の《カランビットナイフ》と光剣《ツバキJ3》もアイテムストレージの中に仕舞っている。
今のリオの外見で戦闘装備らしいものといえば、肩から背中へ落ちる灰白色の薄い外套、《メタマテリアル光歪曲迷彩》くらいだった。
武器を何一つ持っていないぶん、むしろ彼女のアバター本来の外見が目立つ。3人の中で最も背が高く、長い銀髪と大人びた整った顔立ちを持つその姿だけなら、店内の誰より落ち着いた年長者に見えてもおかしくない。
だが、口を開けばその印象は一瞬で崩れる。
「シノン!アタシ、昨日いっぱい必殺技考えてきたぞ!」
「……来て最初に言うことがそれなの?」
「すごいんだぞ!横に斬って、縦に斬って、それから身体を回しながらもう1回斬るやつ! あと飛び上がって回転して、着地した瞬間に突き刺すやつもある!」
リオは興奮を抑えきれない様子で、武器も持っていないのにその場で両手を動かし始めた。もちろん実際に剣を振り回すわけではないため周囲へ危険はないのだが、足の置き方や腰の捻りまで妙に本格的で、ただ動画で格好いい動きを見て真似している子供とは思えないほど身体の使い方が滑らかだった。
「それ、自分で考えたんじゃなくて、また何か見たんでしょう。顔に書いてあるわよ」
「昨日、剣で戦うキャラの動画見たんだ!こう、丸くて黒くて……翼が生えてるやつ!でも、今日からアタシがやるんだから、もうアタシの必殺技でもいいだろ!」
「何そのキャラ?それとどういう理屈?」
「見たら何となく出来たし!」
その一言だけは、誇張ではなかった。
シノンも最近になって何度か目にしているが、リオは他人の動きを見て再現する能力が異様に高い。一度や二度見ただけの足運びでも、実際に自分で試せば早々に身体へ落とし込み、即座に自分の体格や武器の長さへ合わせて勝手に修正してしまう。本人はそれを特別なことだと思っておらず、「見たからやった」で全てを済ませてしまうのだから、説明される方が困る。
「むふー!ツバキ出してやってみたいな!シノンにも見せたい!」
「確かにここなら奥に試用区画はあるけど、大会前に光剣を店内でブンブン振り回して、ショーケースを壊したりしたら笑うわよ」
「こ、壊さない!」
リオが抗議したところで、店の入口付近にもう一つ見慣れた姿が現れた。
銀白色の髪を持つエレーナだった。
こちらも街中なので《FR-X》も《MGL-140》も実体化させてはいない。武装を外していると現実の零奈との差はさらに小さく見え、細身の体格と静かな立ち姿は柳のようにしなやかだ。
ただし今日は、1人ではなかった。
その隣を歩く人物へ目を向けた瞬間、シノンは少しだけ眉を上げた。
黒い戦闘服を着た、細身の少女のようなアバターだった。腰近くまで伸びる黒髪に、華奢に見える身体つきと柔らかな顔立ちをしており、アサルトライフルや機関銃を抱えた男たちが闊歩するGGOでは随分と異質に見える。初期装備に近い黒い戦闘服以外にはまともな装備も見当たらず、少なくとも見た目だけなら、今日が初日だと言われても納得できた。
当人は自分の長髪にも慣れていないのか、頬に垂れてきた髪を何気なく指先で掻き上げた直後、自分がそういう仕草をしたことに気づいたのか、少し嫌そうな顔をしていた。
「待たせたな」
「時間通りよ。それで、その人が昨日も言ってたエレーナのゲーム仲間?」
「ああ」
エレーナは2人のところまで歩いてくると、横の黒髪のプレイヤーを示した。
「キリトだ。他のVRMMOで知り合ったゲーム仲間で、今回はGGOを見てみたいという話になってな。ちょうどBoBも開催されるから、本人も参加することになった」
「き、キリトです。よろしくお願いします」
見た目から想像したより少しだけ低い声だったため、シノンは一瞬違和感を覚えたものの、VRMMOのアバターとリアルでの本人の印象が一致しないことなど珍しくもないため、特に気には留めなかった。
「キリト……女の子にしては珍しい名前ね。私はシノン。それで、こっちがリオ」
「アタシはリオだ!今日はすっごい必殺技をいっぱい持ってきたからな!」
「初対面で最初にそれ説明する必要ある?」
「ひ、必殺技は大事だろ!カッコいいし!」
キリトが思わず笑うと、リオはすぐそちらへ顔を向けた。
「な、何笑ってる!?」
「いや、ごめん──じゃなくて……ごめんなさい。エレーナさんから色々聞いてましたけど、お2人とも仲が良さそうだなって」
「仲がいいからって笑うなー!」
早くも普段と変わらない調子になったリオを横目に、シノンはキリトを改めて観察した。
武装していない街中なので判断できる材料は少ないが、少なくとも立ち方は銃器を前提にしたプレイヤーらしくない。手を身体の前へ置く癖もなければ、腰に存在しないホルスターを意識する様子もなく、むしろ右手を自然に下げた時の位置が、何か別の武器の柄を探しているようにも見えた。
「で、本当に今日GGOを始めたばかりなの?」
「えっと、はい。本当に今日が初めてで……コンバートしたキャラではあるんですが」
「それで今日のBoBに出る?」
「……そんなに、無謀ですか?」
「かなりね」
シノンは即答した。
「他のVRMMOからコンバートしたなら、能力値はある程度引き継げても、装備と所持金は持ってこられないでしょう。普通なら最低限の銃と防具を買って、地下あたりでモンスター倒して稼いで、撃ち方に慣れてから対人戦に行くものよ。今日来て今日BoBに出るなんて人は初めて見たわ」
「それは、エレーナさんにも言われました……」
「私は止めてはいない。ただ、一般的な順序ではないと説明しただけだ」
「まあいいわ。それで、どうしてこんな油と金属と火薬ばっかりのゲーム始めたの?他のゲームやってたんでしょう?」
シノンの問いに、キリトは少しだけ考えた。
「今までがファンタジー系だったので、違うゲームをやってみたかったのと、ちょうど大会があるって聞いたから……せっかくなら、どこまで通じるか試してみたいと思って」
「大会の日に初ログインして言うことじゃないわね」
「そ、そうかな?」
「そうよ」
エレーナは2人の会話を横で聞きながら、店内の時計表示に目を向けた。
「話は装備を選びながら続ければいい。シノン、悪いが銃器の選定を手伝ってくれないか? キリトの能力値は事前に見たが、現在のGGOでどの銃が扱いやすいかについては、私より君の方が経験があるだろう」
「それはいいけど、まずステータス見せてもらっていい?」
「はい、もちろん」
キリトが簡易ステータスの共有を許可すると、シノンの前へ半透明のウィンドウが展開された。そこに並んだ数値を見たシノンは、最初こそ普通に眺めていたものの、途中から僅かに眉を寄せた。
「……結構高いわね」
「そう?」
「コンバートしただけあってSTRもあるし、AGIはかなり高い。これなら選べる銃自体は多いけど……いきなり重いアサルトライフルを持たせても反動制御で困るでしょうし、サブマシンガンなら……でもBoBで距離が開くと……」
シノンは近くの商品棚に視線を移しながら、要求能力値や弾薬、重量、射程等を次々と口にしていく。キリトは途中から明らかに訳が分からなくなった顔をしていた。
「……ごめん、今言ってること半分くらい分からないかな……銃ってこんなに分類あるの?いや、あるんですか?」
「別に、知り合いの知り合いなんだから敬語じゃなくていいわよ。剣だって片手剣とか両手剣とか、あと細剣とかもあるでしょう。それと同じよ」
「そう言われると反論できないな……」
その時、先ほどから店の商品を見回していたリオが不意に光剣の陳列区画を指差した。
「なあ、キリト!オマエ、あれ好きそうだぞ!」
キリトが振り向く。
実銃や光学銃が並ぶ店内の一角に、拳銃のグリップより少し長い程度の円筒形の機械が縦に並べられている。いずれも停止状態では刀身が存在せず、知らなければ武器にすら見えない。
「……えっと、光剣?ビームサーベルみたいなやつかな?」
「おお!なんだ知ってるのか!」
リオの顔が一気に明るくなる。
「アタシも持ってるぞ!《ツバキJ3》!アタシのは1.5メートルくらいあって、紫色ですっごく格好いいんだ。岩もザクザク切れるぞ!」
「もしかして、今も装備してるの?」
「うん!」
キリトが興味を示したことで、リオは待っていましたとばかりにアイテムウィンドウへ手を伸ばしかけたが、その動きをエレーナが止めた。
「自前の装備を出す必要はないだろう。試用品が目の前にある」
「あぅ……ちょっと見せるだけなのに」
「どうしても見せたいなら試用区画へ行ってからにしてくれ」
リオは不満そうだったが、結局自分の《ツバキJ3》を呼び出すのは諦め、代わりに陳列されている試用品を覗き込んだ。
「例えば……これだな!アタシのはこれよりちょっと長いぞ!」
キリトはリオが指を指したショーケースの前に歩み寄り、中に並んだ1本へ視線を止めた。
《カゲミツG4》
外装は光沢を抑えたマットブラックで、全長は20センチにも満たない。重量も800グラムほどしかなく、隣に並ぶ拳銃より少し太い程度のグリップだけを見れば、これが大型の敵を一撃で切り裂ける武器には見えなかった。
「これ、触っていいの?」
「試用品だからな」
エレーナが答える。
キリトが商品へ手を伸ばすと、購入前確認用の表示とともに試用品がショーケースから実体化した。右手へ握った瞬間、キリトは少しだけ表情を変えた。
「……結構軽い。そのわりに、ちゃんと剣の柄みたいに持てるな」
キリトは自然に握りを調整し、手首を返して何度か重心を確かめた。
シノンはその動きを見ながら口を挟む。
「確かに、光剣は威力だけならかなり高いわ。でもGGOじゃほとんど使う人いない。理由は分かるでしょう?」
「射程?」
「そう。相手は普通、何百メートルも先から撃ってくる。近づいて1メートルくらいまで入らないと当たらない武器なんて、そこまで行く途中でフルオート射撃を浴びて終わりよ。そりゃ、まともに当てられればBoBクラスのプレイヤーでも一撃で倒せるくらい強いけど、それ以前が問題」
「でも当たればすっごいぞ!」
「あとこの子は特殊すぎるから参考にしない方がいいわ」
「なんでだ!」
「あなたは敵見つけたら撃たれながら走っていくでしょう」
「ちゃんと全部避けてるぞ!」
「その時点で普通じゃないのよ。あなたGGOの掲示板じゃ、敵を見つけるなり突っ込むトマホークミサイルみたいだって噂されてるのよ」
そんな二人のやり取りを聞きながらも、キリトは《カゲミツG4》から手を離さなかった。
「試しに振ってみてもいいかな?」
「奥の試用区画なら大丈夫だ」
4人は店内奥のフォトンソード用スペースへ移動した。床と壁が耐久オブジェクトで囲われた狭い区画で、そこでなら商品を起動して振っても店内を傷つけることはない。
キリトが《カゲミツG4》上部のスイッチへ指を掛ける。低い作動音とともに、マットブラックのグリップから紫色の光が伸びた。
直径3センチほど、刃渡り1.2メートル。
細長い円筒状の刀身が完全に形成された瞬間、それまでGGOの銃器を眺めていた時とは明らかに違う感情が、キリトの顔へ浮かんだ。
「おお……」
リオまで横から嬉しそうに覗き込む。
「格好いいだろ!」
「これは……軽いけど、確かにいいな」
「だろ!今ならお買い得ってやつだぞ!」
「お買い得って、別にあなたが売ってるわけじゃないでしょ」
シノンが呆れている前で、キリトは1歩だけ試用スペースの中央へ出た。
右手の光剣を軽く下げる。
その途端、先ほどまでどこかぎこちなかった立ち姿が変わった。
足の位置が定まり、肩の力が抜け、光刃の長さを測るように手首が僅かに動く。武器を初めて手にした者が「どう振ろうか」と考えている姿ではなく、慣れ親しんだ種類の道具を渡され、ほんの少し寸法の違いを確認しているような動きだった。
次の瞬間、青紫色の光が走った。
上から縦へ落とした刃がそのまま止まることなく2撃目に繋がり、身体の回転とともに下から切り上げ、さらにもう一度全力で縦に返る。4本の光跡が1つの四角形を描くように連続し、《ブォン、ブォン》というフォトンソード特有の低い音が遅れて重なった。
GGOには剣技を補助するソードスキルのようなシステムは存在しない。したがって、今の連撃は全てキリト自身が行ったものだった。
「へえ……今の、ファンタジーゲームの技?案外侮れないかも」
シノンが思わず軽く拍手しながら聞く。
「いや、それほどでもないよ。身体が覚えてるんだ」
「うぉぉぉ!オマエ、すっごい速いな!よし!アタシもやる!」
リオはキリトやシノン以上に興奮し、ウィンドウを操作しようとする。
「ちょっとリオ、待ちなさい。自分の光剣出そうとしてるでしょう。お店なんだから、せめて試用品を使いなさい」
「むむ……分かった!」
せっかく自分の《ツバキJ3》を見せられると思っていたらしく、リオは多少不満そうに頬を膨らませたものの、ここが戦場でも演習場でもなく商品を扱うガンショップであることくらいは理解している。店内中央に設けられたフォトンソード用の試用区画へ視線を巡らせると、すぐ隣のラックから自分のものに比較的近い長さの試用品を選び、購入前試用を示すウィンドウへ触れて実体化させた。
もっとも、自分が普段使っている《ツバキJ3》とは重さも刀身長も僅かに異なる。試しにスイッチを入れれば、紫色を帯びた光刃ではなく赤い色調の刀身が伸び、リオはそれを何度か左右へ傾けて、重心がどこへ置かれているのか確かめるように手首を動かした。
「やっぱり、アタシの《ツバキ》とちょっと違うな」
答えながら、リオはもう一度キリトを見る。
ほんの少し前、キリトが《カゲミツG4》で見せたのは、かつてアインクラッドで《バーチカル・スクエア》と呼ばれていた片手直剣用の4連撃ソードスキルを、システムアシストなしで身体だけによって再現したものだった。
SAOのソードスキルは本来なら、予備動作を取ることでシステム側が身体を加速させ、正確な軌道へ導いてくれる。
それでも2年間、数え切れないほど同じ技を使った者にとっては、その軌道そのものが単なるゲーム内コマンドではなく、仮想の身体へ染みついた運動記憶になっていた。キリト自身、今の4撃を1つ1つ頭の中で考えて出したわけではない。剣を握った瞬間に身体が昔の感覚を思い出し、気がつけば馴染みのある軌跡を描いていただけだった。
当然、初めて見た人間がすぐ再現できるような動作だとは思っていない──ところがリオは、一度見ただけで構えを取った。
最初の縦斬りは正確だった。そこから切り返した後、身体の回転を使って3撃目を送り、最後の斬り下ろしの4連撃へ繋ぐ。
ただし、試用品の刀身が自分の《ツバキJ3》より短く、逆にグリップ側の重心が少し違っているため、4撃目で肩が先に開き、光刃の軌道が僅かに右へ流れた。
「むむ……」
リオは失敗したこと自体より、なぜ失敗したのかが気になったらしい。すぐにもう一度振るのではなく、足元へ視線を落とした。
左足の位置と腰の向き、右肩と肘の高さ、手にしている試用品の刀身の長さ──それらを数秒だけ見比べた後、左足を半歩だけ後方へずらした。
キリトには、その修正の意味が分かった。
4撃目で身体が回りすぎるなら、最初から回転半径を小さく取ればいい。しかもリオはキリトと同じ体格ではないし、握っている剣も違うのだから、動作そのものをコピーするのではなく、結果として同じ軌道になるよう自分の身体へ変換しなければならない。
二度目。
縦へ走った光がそのまま2撃目に移り、3撃目の斬り上げを経て、最後の一閃が垂直に戻る。4本の光跡が、今度はほとんど歪むことなく空中へ四角形を描いた。
「おお!出来たんじゃないか!?」
リオは自分がたった今どれほどのことをしたのかなど欠片も理解していない様子で、ただ新しい遊びを覚えた子供のように嬉しそうに笑ったが、対してキリトはすぐには笑えなかった。
「……1回見ただけだよな?」
「うん!」
「本当に?」
「そう言ってるだろー!何回か見れば大体出来るぞ!もっと難しいのもある!」
「……何回か、か」
キリトは改めてリオを見る。
先ほどまでなら、単純に運動能力の高いプレイヤーなのだろうと考えていたかもしれない。だが、自分が再現したソードスキル《バーチカル・スクエア》の動きを、一度見ただけでここまで近い形へ持っていくとなれば話は違ってくる。
そして、その疑問はどうしても隣にいるエレーナへ結びついた。
キリトが九重零奈という人間を直接知ったのは、実のところ今日が初めてではなかった。
数日前、現実世界の東京都内にある喫茶店で、菊岡誠二郎からGGOで起きている不可解な事件について説明を受けた際、同席していたもう1人の協力者が零奈だった。
店内の奥、人目につきにくい席で菊岡から聞かされたのは、《死銃》──デス・ガンと名乗るプレイヤーがゲーム内で銃を撃った後、その標的となった人物が現実でも死亡したという、常識だけでは説明のつかない事例だった。
仮想世界から現実の肉体を殺せるのか。
アミュスフィアにナーヴギアのような致死機構は存在しない以上、通常ならあり得ない。それでも死亡者がいるという事実は消えない。
菊岡がSAO生還者でありVRMMOへの適応力を持つキリトへ調査を依頼すること自体はまあ、理解できた。むしろキリトが意外に思ったのは、そこにもう1人呼ばれていた女性だった。
九重零奈。
その名だけなら知らなかった。
だが、彼女がSAOで使っていたプレイヤーネームを聞けば話は別だった。
《エレーナ》。
アインクラッド第一層を主な活動拠点としていた《蒼十字救道団》のリーダー。
キリト自身は攻略組として上層へ進み続ける側だったため、第一層を拠点に救護や救出を中心として動いていた彼女と直接顔を合わせたことはない。それでも、噂まで知らなかったわけではなかった。上層攻略だけがSAO攻略ではない。迷宮区へ踏み込めないプレイヤーを保護し、狩場で事故に遭った者を連れ戻し、死の恐怖から動けなくなった者を見捨てずに支える人間たちがいるという話は、攻略組の耳にも時折入っていた。
逆も同じだったらしく、喫茶店で顔を合わせ、菊岡が簡単な紹介を済ませた後、零奈はキリトを見て特に驚きもせず──
「《黒の剣士》か。名前は知っている」
──と、酷く感情の篭らない声で告げた。
余りにも他人に興味がなさそうな雰囲気だったものだから、キリトは内心でまるで機械のような人だなと思いつつ、
「俺も《蒼十字救道団》の話は聞いたことがあります」
短くそう答えた──それだけだった。
2年間、同じ浮遊城へ閉じ込められていながら、お互いが見ていたアインクラッドは随分違ったのだろう。片方は最前線を追い続ける攻略者。もう片方は第一層を基点として、前へ進めない者たちの側へ留まっていた救助者。
それでも死銃という得体の知れない問題を前にすれば、菊岡にとってはどちらも「SAOというデスゲームを実際に生還したVRMMO経験者」という点で共通していた。そして話し合いの末、キリトと零奈はそれぞれGGOへ入り、死銃と接触する可能性が最も高いBoBへ参加することを了承していた。
その事情はシノンには話していない。
エレーナが彼女へ説明したのは、キリトが「他のゲームで知り合ったゲーム仲間で、BoBへ参加してみたいと言っている」というところまでだった。それ以上を今ここで明かすつもりは、キリトにもエレーナにもない。
(少なくとも大会が始まるまでは、シノンには普通にGGOを楽しんで貰おう)
その点については、喫茶店で2人とも一致していた。
だからこそ、キリトは目の前のリオについても安易に質問することができなかった。
九重零奈の妹だと紹介されている少女。
そして、エレーナとは以前からかなり長く一緒にゲームをしているらしい。
まさか、とキリトは僅かに目を細めた。
──この子も、SAOにいたのか?
言動から考えられる年齢だけをあてにするなら、当時はかなり幼かったはずだ。
しかしSAOには子供もいた。
第一層を主な活動拠点としていた《蒼十字救道団》の近くにいたのなら、キリトが知らないだけでエレーナと行動していた可能性もある。何より、一度見ただけのソードスキル軌道をほとんど完成形まで再現する身体操作は、一般的なVRMMO経験者という説明だけでは少し理解しづらかった。
もっとも、それをその場で問いただすほどキリトも無遠慮ではない。
そもそも自分自身、シノンに対して本来の目的(と性別)を隠している立場なのだから、他人の過去を探るのは少し気が引けた。
「なら、それはちょっと見てみたいな……」
だからキリトは、疑問を胸の中へ収めたまま笑った。
「だろ!あとでアタシが必殺技も教えてやる!昨日、新しいのいーっぱい覚えたからな!」
リオは完全にその気になっている。
隣に立っていたエレーナは、そんな2人の会話に特別な反応を見せることもなく、試用区画の端から静かに眺めていた。キリトが一瞬だけこちらへ向けた視線にも気づいていたのかもしれないが、何も口にはしなかった。
ただ、シノンだけは別の意味で呆れていた。
「あなたたち、BoBって銃の大会なんだけど」
「あ!もちろん、です……」
「アタシも分かってるぞ!」
「今の会話だけ聞いたら、とてもそうは思えないわよ」
シノンが溜息をつく横で、キリトは《カゲミツG4》のスイッチを切った。紫色の刀身が低い作動音とともにグリップへ吸い込まれ、試用品をラックへ戻そうとしたものの、指先が僅かに名残惜しそうに柄を撫でる。銃器ばかり並ぶこの世界へログインしてから、ようやく自分の知っている武器へ触れたような気がしていた。
その様子を見ていたエレーナは、キリトの事情も加味して口を挟んだ。
「本人が最も扱える武器を主兵装にすること自体は合理的だ。GGOの標準的な戦い方からは大きく外れるが、今日初めて触れる銃器だけでBoBに参加するより、既存の身体操作を利用できる武器を中心に据えた方が勝算はあるだろう」
「でも、だからって光剣1本は駄目よ」
シノンがすぐに続けた。
「威力だけ見れば光剣は強いけど、近づくまで何も出来ないもの。そもそも銃を持ってる相手に1メートルまで近づけること自体が普通じゃないんだから、最低でも拳銃くらいは持たないと」
「それについては私も同意する。光剣は接触できた後の火力としては十分だが、そこへ到達するまでの選択肢がない。右手を光剣へ使うなら、左手でも扱いやすい重量の拳銃を選び、牽制と近距離への移行補助に使うのがいいだろう。GGO初めたての君が、射撃で敵を倒すことまで求める必要はない」
「左手か……」
キリトは自分の左手を見た。剣を握るなら右手、それだけは変えたくない。ならば銃は反対側へ持つしかないのだろう。
「じゃあ、その条件だと……そうね」
シノンは試用区画を出ると、今度は拳銃の陳列棚へ向かった。何丁かを価格、重量、装弾数、使用弾薬まで見比べ、途中で一度キリトのSTRとAGIを思い出すように視線を宙へ泳がせた後、最終的に一丁の自動拳銃を選ぶ。
《FNファイブセブン》──黒い樹脂外装に覆われた細身の拳銃で、全長は200mm強あるものの重量は500グラム台と軽く、キリトが右手に光剣を持ちながら左手で扱うには都合が良かった。使用する5.7mm弾も一般的な大口径拳銃弾とは性格が違い、細長い弾頭と高い初速を利用して装甲へ通すことを得意としているため、近接へ入るまでの牽制役として考えるなら悪くない選択だった。
「これ、持ってみて」
シノンが拳銃を試用設定に切り替え、キリトに手渡す。受け取ったキリトは左手で何度か重さを確かめた。
「これも軽いな」
「500グラムちょっと。剣と一緒に使うなら、このくらいの方がいいと思う。装弾数も取れるし、防具相手にも最低限仕事は出来る。あなたの場合、拳銃で撃ち合うのが目的じゃないんだから、変に威力だけ見て大口径を選ぶよりこっち」
「左手で撃つのは問題ない?」
「そりゃ、問題はあるわよ。普通なら利き手じゃない方で撃つのは勧めない。照準も落ちるし、リロードもしづらい。でもあなたは右手を剣に使いたいんでしょう?」
キリトは内心「本当なら両手にもっと重い剣が持ちたいな……」と思ったものの、流石に口に出すことなくシノンの問いに頷いた。
「なら仕方ないじゃない。銃の射撃技術を完成させるなんて1時間じゃ無理なんだから、左手で相手を止める程度に撃って、近づいたら右手の剣を使う方が、今のあなたにはまだ向いてると思う」
「そうだな!アタシも左で撃つぞ!」
話を聞いていたリオが、待ってましたとばかりに胸を張った。
「右はナイフだからな!左で《P226》撃ちながら走って、近くに来たら右でズバッてやる!」
「だからあなたを基準にしたら駄目なのよ……」
「ん?今アタシ褒められたのか?バカにされたんじゃないよな?」
キリトは思わず苦笑した。
先ほどの剣技を見た後では、シノンが彼女を例外扱いする理由も少し分かる気がする。いや、分かるというより、ますます分からなくなったという方が正しいのかもしれない。
九重零奈──《エレーナ》については、少なくともSAO生還者で、他のプレイヤーを助けるということに全力を尽くしていたギルドの団長という背景を知っている。ならば、この《リオ》は何者なのか──その疑問は消えなかったが、今はBoBへの装備選びが先だった。
キリトは《FNファイブセブン》を左手で構え、何もない正面へ照準を向ける真似をした。剣を握った時とは明らかに違い、肩にも手首にも無駄な力が入っているのが何となく分かる。
「……やっぱり、銃はちょっと難しいな」
「まだ時間に余裕はあるし、この後は演習場で試し撃ちしましょう。今のその構えを見る限り、1発目は絶対びっくりするわね」
「じゃあ、とりあえずさっきの光剣とこの拳銃にしますね」
「ええ。ああそれと、ホルスターに予備弾倉、《対光学銃防護フィールド発生器》も買っておいた方がいいと思う」
「光剣の予備エネルギーパックも必要じゃないか?光剣は斬り合うとエネルギーの消費が激しいからなー、アタシも幾つか持ってるぞ!」
「だ・か・ら!BoBは光剣でチャンバラする場所じゃないの!まあ、予備で1つくらいなら持ってても良いかも知れないけど……いや、それならいっそ光剣ごと2本──」
などと、シノンとリオが話し合っている中、試用品を返却し、改めて光剣の価格表示を見てキリトは一瞬だけ黙った。別のVRMMOからコンバートしてきたばかりの彼には、GGO内で使えるまとまった資金がない。
そのことを知っていたエレーナは、シノンが別の弾薬棚に視線を向けた僅かな間にキリトの横へ立つと、他の2人から見えない位置へ小さなトレードウィンドウを開いた。
「これを使ってくれ」
「3000000c……!?こ、こんなにいいのか?」
「BoBに参加するために必要な装備を揃えるだけだ。今から通常の手順で資金を稼いでいれば予選に間に合わない。それと、君が拘っている光剣というものは妙に高いからな……」
「あ、あはは……後で返します……」
「……返す必要はない。だが、君がそうしたいのならすればいい。急ぐ必要はない」
キリトが承認すると、必要なクレジットが移動する。100c=1円のリアルマネー換金が可能なGGOにおいて、3000000cとは日本円にして約3万円に相当する。マネーイズパワーが通用する世界なのだ。
そして、そんな短いやり取りもシノンに聞かせる必要はなかった。
表向きには、今日GGOへ遊びに来たゲーム仲間──それで十分だった。少なくとも、第3回BoBが始まるまでは。
やがて《カゲミツG4》を予備も含めて2本、《FNファイブセブン》が1丁、必要な弾薬とホルスターに加えて、最低限の防具がキリトのアイテムストレージに送られる。店内で購入した武器をわざわざ実体化したまま持ち歩く必要はないため、装備はその場で収納され、キリトの外見もまた黒い戦闘服だけの軽装へ戻った。
「決まったのね」
戻ってきたシノンが確認する。
「うん。剣と拳銃でやってみる」
「本当にその組み合わせでBoBへ出るのね……」
「……駄目かな?」
「まあ、今さら止めても仕方ないわ。次、演習場。少なくとも拳銃くらいは大会前に撃てるようにしておきましょう」
シノンはそう言うと、当然のように4人の先頭へ立って歩き始めた。
十十十十十十十十十十
ガンショップに併設された射撃演習場は、大会当日ということもあってか普段より明らかに混雑していた。買い物客が行き交う店内とは違い、この区画では持ち込み武器の実体化も許可されているため、各射線ではBoBへ出場するらしいプレイヤーたちが自分の銃をアイテムストレージから呼び出し、サイトの微調整や最後の反動確認を行っている。
拳銃と短機関銃の乾いた発砲音が絶え間なく響き、そのさらに奥ではアサルトライフルの連射音が重なっていた。近未来的だが実弾銃を中心とした区画だけあって、硝煙の匂いこそ強烈ではないものの、銃を撃つための場所だという雰囲気だけなら現実の射撃場にも劣らない。
シノンに案内されて空いている短距離射線へ入ると、キリトは購入したばかりの《FNファイブセブン》をアイテムストレージから呼び出した。黒い拳銃が左手の中へ実体化する。この後、BoBで実際に使うことを考えれば、右手で銃を練習してから本番だけ左へ持ち替えるより、最初から本来使う側で慣れた方がいい。
「左手で撃つのね」
「右は剣に空けておきたいので」
「分かった。なら今日は最初からそれでやりましょう。ただし利き手で持つより安定しないし、今まで銃を撃ったことがないなら、最初の一発は想像より跳ねると思っておいて」
「そんなに?」
「撃てば分かるわ」
シノンはそう言いながらキリトの左側へ回り、構えを横から確認した。キリトは剣であれば柄を握った瞬間にほとんど無意識で足幅も腰の位置も決まるというのに、拳銃となると話が違うらしい。左腕を真っ直ぐ前へ伸ばしすぎ、肩まで少し持ち上がっているうえ、添えた右手は強張り、反動が来ることを警戒して指先にも余計な力が入っていた。
「まず、そのまま正面の標的に銃口を向けてみて」
「えっと、こうかな?」
「大体いいわ。あと、視界に緑色の円が出てるでしょう」
「……これが、さっき言ってた?」
「日本語なら《着弾予測円》。プレイヤーは《バレット・サークル》って呼んでるわ。弾は基本、その円の中のどこかに飛ぶ。だから小さい時ほど当たりやすい」
「……ずっと大きさが変わってるけど」
「心拍よ。鼓動した瞬間に広がって、次の鼓動まで少しずつ縮む。距離とか姿勢でも変わるけど、今はそこまで覚えなくていいわ」
「じゃあ、一番縮んだ時に撃てばいい?」
「そう。まずはそれだけ考えて。反動がどんな感じか覚える方が先だから」
「なるほど……じゃあ、緊張すると余計当たらなくなると」
「そういうこと。心拍が上がればサークルが広がるから。短機関銃みたいに弾をばら撒く武器なら多少広くても数で押せるけど、1発を外したら終わりの狙撃じゃそうはいかない」
「分かった」
キリトは左手に右手を添える形で《FNファイブセブン》を構え直した。
サークルが広がり、縮む。もう一度、鼓動に合わせて広がり、その後ゆっくりと細くなる。
キリトは最も小さくなったと思った瞬間に引き金を絞った。
乾いた発砲音が演習場へ弾けた直後、予想していた以上に鋭い反動が左手首から腕全体へ返ってきた。銃口が大きく上へ跳ね、キリト自身も思わず肩を引く。弾丸は標的を大きく外し、横の壁の位置に着弾エフェクトを残した。
「うわっ!」
命中した場所よりも、キリトは自分の左手にある拳銃を驚いたように見た。
「……これ、本当に手に来るんだな」
「だから言ったでしょう。今の《FNファイブセブン》でも拳銃としてはかなり扱いやすい方よ」
「これで?」
「《ヘカートⅡ》撃ったらどうなるかな!」
少し後ろから見ていたリオが、面白そうに口を挟んだ。
「今のキリトなら、そのまま後ろにごろーんって転がって行きそうだぞ!」
「まあ、多分そこまではいかないわよ。要求STRを満たしてれば、ゲーム側が持てないほどの反動をそのまま返してくるわけじゃないし」
「……そこは安心していいのか」
「でも初めて撃ったら絶対驚くと思うぞ!」
「リオ、今日はいつもより楽しそうね……」
シノンは苦笑しながら、再びキリトの姿勢を見る。
「今は反動が来るのを嫌がって、腕だけで全部止めようとしてる。左肩が上がりすぎてるし、肘も伸ばし切ってるから、返ってきた力を逃がせなくて銃口が跳ねてるのよ。少し重心を前へ出して、肩は上げない。そう、そのくらい」
「こう?」
「さっきよりいい。ただし自動拳銃は機構上、反動を逃すのは回転不良──つまり弾詰まりの原因になる。手首だけで押さえ込もうとしなくていいから、身体全体で受けて、その後すぐ銃口を標的へ戻せるようにすることを考えて」
キリトは言われた通り姿勢を変え、もう一度サークルの収縮を待った。2発目は1発目ほど反動に驚かなかったこともあり、銃口の跳ね上がりが明らかに小さくなり、着弾位置も標的に近づいた。
「……悪くない」
少し離れて様子を見ていたエレーナが、静かに口を開く。
「1射目より銃口の上昇が抑えられている。射撃そのものは不向きなようだが、身体の使い方を修正する速度はやはり速いようだな」
「なんかその言い方、褒められてるのか分からないな……」
キリトが微妙な顔をしながら3発目を撃つと、今度は標的の右端に掠るようにして弾丸が入った。
「おお!」
リオが自分のことのように顔を輝かせる。
「当たったぞ!キリト!もっと撃て!10発くらい撃ったらもっと上手くなる!」
「弾代はタダじゃないの知ってるでしょ。ゲーム内とはいえ弾薬は消耗品よ。GGOはクレジットをリアルへ還元できるくらいリアルマネーが絡んでるんだから、撃ち放題にしたら市場が壊れるわ」
「そういうところ妙に現実的なんだな、このゲーム……」
「まあ、慣れればそこも面白いんだけどね」
その後も数発ずつ撃ちながら、キリトは少しずつ左手での反動制御を覚えていった。射撃経験そのものはほとんどないにもかかわらず、身体の重心をどこへ置けば力を受け流せるか、撃った直後にどの筋肉を緩めれば銃口を戻しやすいかといった部分については、明らかに普通の初心者より理解が速い。
長い年月、別のVRMMOで剣を振り続けた経験が直接射撃技術になるわけではないが、仮想世界の身体を自分の身体として扱うことだけなら、キリトにとって今さら覚えるようなものでもなかった。
「へえ、飲み込み早いわね。本当に銃は初めてなの?」
最も近くでキリトの射撃を見ていたシノンが少し感心したように言う。
「こうやってちゃんと撃ったことはないかな」
キリトが少し笑ったところで、視界の端に先ほどとは別の疑問が浮かんだらしく、標的から銃口を外してシノンへ向き直った。
「そういえば、さっきの円は撃つ側に見えるもの……だよな。もしかして、撃たれる方にも何かアシストがあったりするのかな」
「勘がいいわね。《弾道予測線》──《バレット・ライン》って言うのがあるわ」
シノンは「ちょっと失礼」と言って、サブアームの《グロック18C》をストレージから取り出すと、キリトの胸の中心に銃口を向けた。
「バレット・ラインは防御側のシステムアシスト。こうやって敵があなたを狙って銃口を向けてトリガーを指にかけると、撃たれる側の視界に赤い光の線が表示されるの。要するに『この軌道で弾が飛んでくる』っていう予告線ね」
「つまり……撃たれる前に分かる?」
「GGOの銃撃戦をゲームとして成立させてる部分でもあるわ。現実の銃撃戦みたいに、見えないところから一瞬で撃たれて終わりばかりじゃ面白くないでしょう。距離があって、AGIが高くて、反応も速いプレイヤーなら、ラインを見てから身体をずらして避けることも出来る。ただし、万能じゃないわよ。距離が数メートルしかなかったら、ラインが出た時点でほとんど撃たれたのと同じだし、フルオートで複数のラインを重ねられれば、当然避けられる場所そのものを潰される。それと──」
シノンはそこで少しだけ表情を変えた。
「例外もある。誰にも見つかっていない状態からの初弾は、相手にバレット・ラインを出さずに撃てる。私みたいなスナイパー系のビルドなら、いったん身を隠して一定時間捕捉を切れば、またラインなしの狙撃を狙える」
「つまり、見つかってない狙撃手は本当に危険ってことか」
「そういうこと。狙撃に限らず、ラインが出てから避ければいいなんて思ってると、最初の1発で終わるわよ。逆に言えば、仕掛ける側はその1発を外した瞬間に位置を知られて、一気に不利になることもある」
キリトは少し考え込みながら《ファイブセブン》を見る。
「じゃあ、もし俺が相手に銃を向けたら、撃つ前から赤い線が相手に見えるわけか」
「まあ、拳銃は基本至近距離での撃ち合いになるからその認識で良いわ。お互い、バレット・ラインが見えた状態での戦闘になるわね」
「じゃあ、その線を見て避ける……いや、むしろ予測して……」
独り何か考え込み始めたキリトの姿に、シノンは何となく嫌な予感を覚えた。
「……さっきから何考えてるの?」
「いや、撃たれる側にラインが見えるなら、相手がどこを狙ってるか分かるんだよなって」
「まあ、そうだけど?」
「なら、避けるだけじゃなくて──」
後ろで聞いていたリオが、何かに気づいたようにぱっと顔を上げる。
「もしかして、光剣で飛んでくる弾を斬って消すのか!?確かにそれも格好いいな!」
キリトはリオの勢いに苦笑したものの、否定はしなかった。
「ああいや、理屈としてはどうなのかなと思っただけで」
「……光剣はかなり威力が高いから、実弾に正確に当てれば確かに消せるわ。でも、バレット・ラインは飛んでくる弾丸そのものをゆっくり見せてくれる機能じゃないの。射手が引き金を引く直前に、これから弾が通る可能性の高い軌道を教えてくれるだけ。実際に発射された後の弾丸は、当たり前だけど普通の速度で飛んでくるんだから」
少し離れた場所から2人のやり取りを聞いていたエレーナは特に止めようとはしなかった。
無論、実戦で試すことを勧めるつもりはない。だが、実弾を刃で捉えるという行為そのものが絶対に不可能かと問われれば、エレーナ自身にもそう断言することはできなかった。
ほんの数ヶ月前、彼女は《MGL-140》の先端に備えたバヨネットで、正面から飛来した一発を弾道上で捉え、その弾体を切り分けている。ただ、あれも安定して繰り返せる技能ではなく、射手の挙動、銃口の方向、バレット・ラインが示す位置と発射タイミングをまとめて読んだ末に成立した一度きりに近い迎撃だったが、少なくとも「システム上できない」行為ではないことだけは実証済みだった。
ましてキリトのAGIは、今日GGOへ来たばかりの新規プレイヤーとして考えるような値ではない。コンバート元で蓄積された能力に加え、先ほど光剣を握った時に見せた身体操作も考慮すれば、試す価値そのものまで否定する理由はなかった。
「……安全な条件を用意した上でなら、検証してみる価値はあるだろう」
エレーナがそう言うと、シノンがすぐ振り返った。
「もう、零奈まで乗らないで」
「乗ってはいない。可能か不可能かを確認することと、大会本番でいきなり実践することは別の話だ。キリト、少なくとも今日は、弾丸を斬れる前提で戦術を組むべきではない。地道な鍛錬を経て、自分の意思で再現できるところまで落とし込んだ技術でなければ、実戦で常に通用するとは限らない」
「分かってる。最初からそれ一本で行くつもりはないよ」
「本当か?」
「……多分」
「でもエレーナ!キリトなら絶対出来るぞ!」
何故かリオだけは完全に成功する光景が見えているらしく、嬉しそうに割って入った。
「さっきの剣もすっごく上手かったし、赤い線を斬ればいいんだろ?それなら出来る!根拠はアタシの勘だ!」
「この世界で一番信用できない理由ね」
「なんだとー!シノン!!」
リオが頬を膨らませる横で、エレーナは視界の端に表示されていた時刻へ注意を向けた。
ここに来てから思っていたより時間を使っている。BoBの予選そのものが始まるまでにはまだ余裕があるものの、エントリー受付には締切があり、総督府までの移動と登録手続きを済ませ、地下の待機エリアへ向かう時間まで含めれば、あまり長居はできない。
「……その議論は後にしよう。予選トーナメントのエントリー締切まで30分を切った。総督府までの移動と登録の手順を考えれば、今出る方がいい。キリトも射撃を1日で身につけることはできないし、少なくとも最初の一発で反動に驚いて銃口を見失う段階からは抜けた。それで十分だろう」
「随分低い基準じゃないか?」
「今日GGOに来た人間が、その日のうちにBoBへ出ること自体が普通ではない。最初から熟練者と同じ精度を要求する方が不合理だ。君は《FNファイブセブン》で相手を撃ち倒す必要はない。接近するまで相手の行動を制限し、右手の《カゲミツG4》を使える距離へ入るための手段として機能すればいい」
「まあ、それはそうだけど」
キリトは半ば納得のいかない顔で《FNファイブセブン》をストレージに戻した。
ガンショップの射撃区画を出れば再びSBCグロッケンの市街地であるため、武器を実体化したまま歩く必要はない。ただし、防具として常時装備しているリオの《メタマテリアル光歪曲迷彩》だけは、灰白色の薄い外套として肩から背中へ残っていた。
十十十十十十十十十十
ガンショップを出ると、SBCグロッケンの金属質な都市景観が4人の前へ広がった。頭上では、かつて巨大な宇宙船だった頃の名残を思わせる構造材が何層にも交差し、その間をネオン広告や案内用ホログラムが埋めている。都市の基礎そのものが旧時代の宇宙戦闘巡洋艦の船体であるため、一般的な街のように平面的に広がっているというより、細長い船体へ沿って商業区、居住区、行政区が積み重なっているような構造をしており、初めて訪れた者には上と下の感覚さえ分かりにくい。
大会当日ということもあって、街を行くプレイヤーの流れにははっきりとした偏りが生まれていた。普段なら酒場やショップ、地下ダンジョン方面に散っていく者たちの多くが、今日は都市上層に続く大通りへ向かっている。武器をストレージに仕舞っている者もいれば、わざわざ大型火器を実体化して肩へ担ぎ、周囲へ見せつけるように歩いている者も少なくなかった。
「総督府ってどっち?」
歩き出してすぐ、キリトが尋ねた。
「上よ。SBCグロッケンは元々、宇宙戦闘巡洋艦だったっていう設定なの。《SBC》も《Space Battle Cruiser》の略で、今の総督府は昔の艦橋部分をそのまま行政施設として使ってる。BoBの受付もそこ」
「この街、宇宙船だったのか……」
「今日初めてなら知らないでしょうね。迷ってる時間ないから、今日は大人しく付いてきて」
「なあなあ、アタシ先に行っていいか?」
すぐ横でリオが身を乗り出したが、エレーナは歩調すら変えずに答えた。
「駄目だ」
「なんでだ!」
「君1人が先に着いても受付の処理速度は変わらない。それに途中で別のものに興味を持って進路を外す可能性がある」
「……ま、迷子になんてならないぞ!」
「昨日、弾薬を買いに行った時に別のショップへ入り、20分ほど戻ってこなかっただろう」
「あれは面白そうなものが見えたからだ!」
「それを一般には寄り道と呼ぶ」
「むむ……」
リオは言い返せなくなったものの、納得したというより反論材料がなくなっただけらしく、少しだけ先を歩いては振り返り、3人が来ていることを確認してまた進むという落ち着きのない歩き方を始めた。
「いつもこんな感じだから、気にしないで」
シノンが隣を歩くキリトへ言う。
「あの子、なんだか楽しそうだね」
「まあ……居ると退屈はしないわね。大会なんだから、少しくらい緊張感を持って欲しいけど」
「でも、シノンも結構楽しそうに見えるよ」
思いがけないことを言われ、シノンは僅かに歩調を緩めた。
昨夜、零奈と話した内容が頭の片隅へ浮かぶ。
今日のBoBは治療ではない──勝ったから朝田詩乃が治るわけでもなければ、負けたから弱さが証明されるわけでもない。
シノンとして強い相手と戦いたいから参加し、手に入れたばかりの《ヘカートⅡ》が正式な大会でどこまで通用するのか試したい。もしエレーナやリオと当たるなら、普段一緒に戦っているからこそ本気で撃ってみたい。それだけを理由にゲームへ入っていても構わないのだと、今は少しずつ思えるようになっていた。
「……なら、私もそうなのかもね」
シノンはほんの少しだけ口元を緩め、それ以上は何も言わなかった。
十十十十十十十十十十
総督府へ到着した4人を迎えたのは、広大なメモリアル・ホールだった。
SBCグロッケンが宇宙戦闘巡洋艦として運用されていた時代には、司令部などの中枢区画だったという設定らしく、現在も天井は異様なほど高く、柱や床には旧文明を思わせる金属装飾が残されている。その中央付近にはBoBの受付用端末が何十台も並べられ、それぞれの前へ大会参加者が列を作っていた。
4人も空いた端末へ分かれる。
キリトが受付ウィンドウへ触れると、《第3回バレット・オブ・バレッツ 予選エントリー》という表示が展開され、キャラクターネームの下に、現実世界の氏名や住所、電話番号を入力する欄が並んだ。
「……え、住所?」
思わず声が漏れる。隣の端末を操作していたシノンがちらりと振り向いた。
「上位入賞するとリアルに送られてくる賞品があるからよ。嫌なら空欄でも登録できるわ」
「じゃあ、空欄にすると?」
「現物プライズは受け取れない」
「……なるほど」
そこでキリトの指が止まった。
本来なら迷う理由などない。自分は死銃へ接触するためにここへ来たのであって、BoBの賞品を取りに来たわけではない。現実の住所までGGO側へ預ける必要もなければ、余計な個人情報を残す理由もない。
しかし画面の端には、《上位入賞プライズ》という文字があった。
上位入賞プライズ──そういった単語に反応してしまう程度には、キリトもやはり骨の髄までVRMMOプレイヤーだった。
「……」
住所欄のカーソルを選び、そのまま苦悩すること数秒──やがて自分が何をしに来たのかを思い出すように、キリトは小さく息を吐いた。
「やめとこう……」
結局、リアル情報欄はすべて空白のまま登録を進めた。エントリー終了のYの表示を押すと、受付完了を示す表示に続いて、予選トーナメントの所属ブロックが決定される。
《F-37》
「Fか」
少し離れたところでは、リオが自分の結果を見て声を上げていた。
「アタシDだったぞ!シノンは?」
「えっと、私はBブロックね」
シノンが自分のウィンドウを確認する。
「私はEブロックだ」
エレーナはそう言ってウィンドウを閉じた。
結果として4人は綺麗に別のブロックへ分かれた。予選は各ブロックごとの1対1のトーナメントで行われるため、少なくとも序盤から同士討ちになることはない。
「つまらないなー、シノンと戦いたかったのに」
「本戦に来れば戦える可能性もあるでしょう。まずそこまで残りなさい」
「なら残るぞ!それで1位になる!」
「私だってそのつもりよ。手は抜かないから」
それぞれ登録を終えた4人は案内表示に従って巨大な昇降機へ入り、総督府の地下20階に設けられた予選参加者用待機区画へ向かった。
扉が開いた瞬間、キリトは思わず少し目を見張った。そこは控え室というより、巨大な軍用格納庫に近かった。
数百人近い参加者を収容できそうな広間にはベンチやロッカー、装備調整用のスペースが整然と配置され、中央の天井付近には、開始までのカウントダウンを表示する巨大なホロモニターが投影されている。そして、その下を行き来するプレイヤーの大半が、いかにもGGOらしい武装を堂々と実体化させていた。
巨大な重機関銃を肩へ担いだ男、長大なアサルトライフルと何種類もの光学機器を背負う男、左右の腰へ大口径拳銃を吊るした男。中には銃身をわざと人目につく方向へ向け、自分の得物を見せびらかすためだけに歩いているのではないかと思える者までいる。
女性型アバターもゼロではないが、圧倒的に男性が多く、しかも大半が筋骨隆々とした外見を選んでいるため、4人が入った瞬間に周囲からいくつか視線が向いた。
シノンはその光景を一瞥しただけで、露骨に不満そうな顔をした。
「……全く、お調子者ばっかり」
「お、お調子者?」
キリトが訊く。
「試合の30分も前からメインアームを見せびらかすなんて、『私の武器はこれです、対策してください』って言ってるようなもんじゃない。相手の名前がトーナメント表に出てるんだから、武器が分かれば戦い方の予想もつくでしょうに」
そう言うシノン自身もまだ街用の軽装のままだった。
《ヘカートⅡ》もストレージの中にあり、出すのは対戦フィールドへ転送される直前で十分だと考えているらしい。
「敵に情報を与えないことは対人戦の基本だからな。シノンの考え方は妥当だ」
エレーナも同意する。
「武器の種類だけで完全な対策が成立するわけではないが、少なくとも射程、攻撃方法、要求される距離については推測される。開始前に自分から渡す必要のない情報だ」
「そ……そうだな!うぐぐぐぐぐぐぐ………」
「(絶対見せたいのを我慢してる……)」
この世の苦悩を一身に抱えたような表情をして歯を食いしばるリオの姿を見て、キリトはなんとなくリオという人物がどんなものか分かった気がした。
しばらくして、巨大モニターに表示されている予選開始までの残り時間が短くなったところで、シノンはベンチから腰を上げた。
周囲では既に戦闘装備へ切り替え始めている参加者も多く、装備変更用として壁際に区切られた小さな控室へ3人を促すと、慣れた手つきでウィンドウを開いた。GGOのBoB予選では対戦開始前に装備を整える時間も与えられるとはいえ、転送直前になって慌てるより、着用する戦闘服は先に変更しておいた方が楽だった。
「そろそろ着替えとく。もう時間も近いし、戦闘装備にしてから待った方がいいわ。武器だけまだ出さなくていいけど」
「うん」
キリトも深く考えずにその場へ残った。
エレーナは少し離れた壁際で自分の装備プリセットを確認し、リオは隣で、先ほど覚えたばかりの剣技を本番のどこで使うか考えているのか、何も持っていない右手を時折小さく動かしている。4人で一緒に行動してきた流れがあまりにも自然だったため、この時点では誰1人として、それまで放置され続けてきた1つの認識違いが、よりにもよってここで問題になるとは思っていなかった。
シノンは装備ウィンドウから現在の街用装備を解除し、そのまま登録済みの戦闘服へ切り替えようとした。GGOでは防具や衣服の一括変更時には、現在装着している外装を一度解除した後に次の装備を着用する必要があるため、操作を確定した瞬間、上着とズボンが細かな光の粒へ変わって消え、その下に残るのはアバター標準の黒いインナーだけ。シノンにとってはこれまで何度も繰り返してきた、特に意識する必要もない装備変更だった。
だから、横から突然聞こえた妙に切羽詰まった声の意味が分からなかった。
「わっ……!」
キリトはほとんど反射的に身体ごと反対側へ向けていた。頬へかかる長い黒髪まで勢いよく揺れ、視線は壁へ固定されている。露骨な狼狽ぶりで、両手の置き場所すら分からなくなったように身体の脇へぴたりと揃えている。
シノンは最初、その反応が何を意味するのか本当に理解できなかった。
「……え、何?」
「いや、その……それは……」
キリトの返事が途切れた。
別に同性のプレイヤー同士なら、それどころか単なるアバター同士だと割り切っていれば、インナー姿になったところでここまで慌てるような出来事ではない。それなのにキリトは頑としてこちらを向こうとせず、長い黒髪の隙間から見える耳まで赤くなっているように見えた。
「……キリト?」
「ごめん」
「何が?」
「いや、これは、本当に俺が悪い」
「だから、何がよ」
シノンの眉間に皺が寄るほど、キリトはますます言い出しづらそうになった。
だがここまで来れば、もう黙っている方が遥かにまずい。そもそも彼自身、シノンが自分を女性だと誤認していることには街を案内されている途中で気づいており、本来ならその時点で訂正するべきだったものを、単純に言い出す機会を逃した気まずさから、そのまま話を合わせ続けてしまったのである。GGOのシステム上もキリトの性別は男性のままで、女性のように見えるのはあくまでランダム生成されたアバターの容姿に過ぎない。
キリトは観念したようにメニューを開き、自分のプレイヤー情報を表示した。
「俺……男なんだっ!!」
シノンの動きが止まった。まるでシステム処理まで停止してしまったように固まった。
「……は?」
「現実も男で、システム上の性別も男!アバターが、その……こういう外見になっただけで……!」
キリトが表示したプロフィールの中には、キャラクターネーム《Kirito》とともに、性別を示す欄が明確に存在していた。
そこに記されている文字は《Male》。
シノンはしばらくそれを見つめ、次いでキリトの顔を見て、もう一度《Male》へ視線を戻した。華奢な身体、腰近くまで伸びた黒髪、どう見ても少女にしか思えない顔立ちと、無慈悲なくらい簡潔な4文字を頭の中で結びつけようとしているらしいが、処理が追いついていない。
「め……Male……?」
「はい」
「Maleって……男……?あなたが?」
「……はい」
キリトは腰を90度近くまで折った。
「本当に!!ごめんなさい!!」
その謝罪によって、ようやくシノンの思考が動き始めたらしい。だが最初に来たのは怒りではなく、今日ここまで自分が取ってきた行動の記憶だった。
街で声を掛け、初心者だと思って世話を焼き、武器についてあれこれ教え、隣を歩き、女性同士のつもりで何の警戒もせずここまで連れてきて、今しがた目の前で平然と服まで解除した。その一連の光景が頭の中で恐ろしい速度で巻き戻されていくにつれ、シノンの顔へじわじわと赤みが広がっていく。
「……ちょっと待って……私があなたを女だと思ってること……いつから知ってたの?」
「えっと……割と、早い段階から」
「割と早い段階」
「はい」
「じゃあ、私がずっと勘違いしてるって分かってて、黙ってた?」
「……はい」
「あっ……あっ、あなたねえ……!」
声が一段高くなった。
けれど、その怒声には敵へ向けるような鋭さより、どうしようもない羞恥が混ざっている。本人も自分が何に一番腹を立てているのか整理できていないのだ。キリトが黙っていたことには当然腹が立つが、それ以上に自分が全く疑わなかったことまで含めて恥ずかしい。
「……これは、私の落ち度でもあるな」
横から聞こえた声に、シノンの首がゆっくりと動いた。
壁際に立っていたエレーナが、珍しく僅かに視線を伏せている。
今の今まで完全に忘れていたのだ。
当然、彼女はキリトが男性であることを知っている。GGOで初めて出会ったシノンとは違い、エレーナは既に現実世界の都内の喫茶店で九重零奈として桐ヶ谷和人本人と顔を合わせ、菊岡から死銃事件について、一緒に説明を受けているのだから。
それにもかかわらず、シノンが彼を女性だと思い込んでいることは「ゲーム内で一緒に行動するだけなら差し当たって支障はない」と処理した結果、装備変更というあまりにも当たり前の仕様だけを見事に考慮から落としていた。
「……エレーナ、知ってたの?」
ほんの一瞬、本当に一瞬だけ。
普段なら何を問われても相手を正面から見返すエレーナの視線が、シノンの肩越しにある何の変哲もないロッカーへ逃げた。
「……知っていた」
「知ってたの!?何で言わなかったのよ!」
「そこについては説明できる。まず、君が彼を女性だと認識していることに私が気づいたのは──」
「それも気づいてたの!?じゃあもっと……駄目じゃない!」
「その指摘は妥当だ」
いつものエレーナなら、ここから状況を分解して原因と対策を順番に並べるところだった。
実際、本人もそうしようとしたらしい。
「私としては、GGO内で短時間行動するだけなら、アバターの外見と現実の性別との不一致は実質的な問題を生じさせないと判断していた。君にもキリトにも互いの現実情報を開示する義務はない以上、本人が訂正するまで私が介入する必要性は低いと──」
「今まさに問題が起きたんだけど!?」
「……そうだな」
そこでエレーナの口が僅かに閉じる。
普段の彼女なら想定外の事態が起きてもまず原因を整理し、次の案を提示する。しかし今回は原因があまりにも単純だった。
「一括の装備変更時に、君が外装を解除するであろうことを……」
エレーナはそこでほんの僅かに間を置いた。
「……失念していた」
声が普段よりだいぶ小さかった。
「失念って!単に忘れてたってことでしょ!」
「……そうとも言うな」
「そうとしか言わないわよ!」
シノンの羞恥心は、いよいよ行き場を失い始めていた。
キリトへ怒ればいいのか、勘違いした自分へ怒ればいいのか。それとも、全部知っていながら医学や戦術なら恐ろしく細かいことまで覚えているくせに、よりにもよってこの一点だけ綺麗に忘れていたエレーナへ怒ればいいのか。
その3つが頭の中でぐるぐる回っているところへ、最後の一押しをしたのはリオだった。
「え?シノン、知らなかったのか?」
シノンの顔が再び壊れた人形のようにゆっくりとそちらへ向く。
リオは本当に不思議そうだった。
「……リオも?」
「アタシは知ってたぞ。エレーナから聞いた!それに、キリトってどう見ても男だろ?」
「ど、どこが!?このアバターで!?」
思わずシノンの声が裏返った。
リオは突然怒鳴られたことに目を丸くしたものの、自分の判断を説明しろと言われたのだと思ったらしく、律儀にキリトを上から下まで眺め直した。
「だって歩き方とか、立ってる時の重心とか。顔と髪は女みたいだけど、剣持った時の腰の入り方とか、肩の使い方とかは男だった!」
「分かるわけないでしょう!」
「あぅ!?」
リオは肩をすくめ、灰白色のマントを揺らしながら半歩後ろへ退いた。
戦闘時なら銃撃の気配を一瞬で察知するほど鋭いくせに、今のシノンが何を恥ずかしがっているのかについてはほとんど理解できていないらしく、「なんでアタシまで怒られたんだ」とでも言いたげにエレーナを見る。
一方、助けを求めるようなリオの視線を受けたエレーナは何も言わなかった。
いや、言えなかったと言った方が近い。
いつもなら事情を整理する側に回るはずの彼女が、今はシノンとキリトとリオを順番に見たあと、眉間へ皺を寄せたまま立っている。
誰かを庇えば別の誰かの問題が増え、事実関係を正確に説明すればするほど「全部知っていたのに放置した」という自分の立場だけが悪化することに気づいてしまったらしい。
その様子を見ていたシノンは、1つ1つ低い声で確認する。
「……つまり、キリトは、私が勘違いしてるって途中から知ってた」
「はい……」
「リオは最初から男だって知ってた」
「そうだぞ?」
「エレーナはリアルで会ったことまであるから、当然最初から知ってた」
「ああ」
「そのうえ、私が勘違いしてることにも途中で気づいてた」
「……ああ」
「でも、誰も言わなかった?」
キリトとエレーナが同時に黙った。
リオだけが、「アタシはシノンが知らないって知らなかったぞ」とか言おうとして口を開きかけたが、エレーナが僅かに手を上げて制した。
シノンの顔は耳まで真っ赤になっていた。
怒っている、確かに怒ってはいる。
けれど、本気でキリトに悪意を疑っているわけでも、エレーナに失望したわけでもない。さっき見られたのは一応はアバターのインナー姿であり、現実の身体を見られたわけではないと頭では分かっているし、キリトが慌てて顔を逸らしたことからも、最初から覗くつもりだったわけではないことは理解できる。
だからこそ余計に困るのだ。
深刻に怒り続けるほどのことではない。
笑って済ませるには恥ずかしすぎる。
そして目の前には、自分より年上で普段なら何を言っても大抵上から理屈を返してきて、医学でもゲームでも妙に落ち着き払っている女が、今回に限っては完全に反論の材料を失い、視線を僅かに横へ逃がしたまま立っている──それを見た瞬間、シノンの中で次に取るべき行動が決まった。
「エレーナ」
「……んっ、何だ?」
呼ばれたエレーナが、珍しく僅かに警戒するように顔を向けた。
「1つだけ確認するけど。本当に、着替えることを忘れてたの?」
エレーナは一度だけ目を閉じ、それから観念したように答えた。
「……完全に私の失念だ。弁解の余地はない」
「ああそう……」
シノンが笑った。
笑った、といっても目は全く笑っていなかった。
キリトが1歩だけ後ろへ下がる。
リオも何かを察したらしく、灰白色の外套を揺らして同じ方向に1歩退いた。
エレーナだけがその場に残された。
普段なら危険を察した時点で相手との距離を測り、回避経路まで確保する彼女が、今回だけは避けるという選択肢そのものを最初から放棄したらしい。
背筋を伸ばしたままシノンを見ていたものの僅かに肩が下がり、その表情には「これは受けるべきなのだろう」という結論だけが、何とも言えない諦念とともに浮かんでいた。
「このっ──!!」
シノンの右手が上がった。
羞恥と苛立ちと、自分自身への八つ当たりまで全部まとめて押しつけるには、あまりにも都合よく目の前にいた共犯者の頬へ向かって、迷いなく振り抜かれる。
実に小気味よい「ぱぁん!」という音が、狭い控室いっぱいに響き渡った。
「………………痛いな……」
十十十十十十十十十十
そこからの予選は、驚くほど速く進んだ。
シノンはBブロックを、《ヘカートⅡ》の圧倒的な射程と一撃の威力を生かして勝ち上がった。相手が彼女の位置を見つけるより早く射線を作り、最初の一発で仕留められない場合でも、すぐ位置を変えて次の狙撃へ移る。重く扱いづらい銃ではあったが、補って余りある破壊力によって、予選決勝まで大きく崩れることなく進み、そのままブロック1位を確定させた。
Eブロックのエレーナも、結果だけを見れば危なげがなかった。光学砲《FR-X》による長距離射撃を警戒して遮蔽物へ入った相手には曲射を落とし、距離を詰めてくる相手には《MGL-140》の爆撃に切り替える。対戦相手がどの距離を選んでも、エレーナの側には別の回答が用意されているため、試合が進むほど相手の方が先に選択肢を失っていった。
Dブロックのリオは、初戦から観客が頭を抱えそうな戦い方をした。銃撃戦の大会だというのに、相手を見つけるなり一直線に距離を詰め、《ツバキJ3》の間合いまで入り込んで一気に斬る。もちろん《P226》や《クリス・ヴェクター》も使ってはいるのだが、本人は昨日覚えたばかりの剣技を試せることの方が嬉しいらしく、予選決勝を勝った後には「全部は使えなかったぞ!」と不満そうにしていた。とはいえ、一度も《メタマテリアル光歪曲迷彩》を使わなかったのは、彼女なりに本戦に備えた結果なのだろう。
一方、Fブロックのキリトは、別の意味で周囲を驚かせることになった。
バレット・ラインを見て身体をズラすだけでなく、SAO時代から身についた超感覚まで利用して、発射方向そのものを予測しながら距離を詰める。そして完全には避けきれない軌道へ飛んできた弾丸を、本当に《カゲミツG4》で斬り始めたのである。キリトにとって間合いさえ詰めてしまえば、銃しか持たない相手を斬ることなど容易いもので、その奇妙な戦法は予選でも十分に通用し、試合を重ねるごとに動きはGGOに適応していった。
ただし、その予選の途中で、キリトの中から大会の高揚が完全に消え去る出来事があった。
それは1回戦を終えて待機エリアへ戻った直後だった。転送による光が消え、先ほどまで戦っていた荒野とはまるで違う総督府地下の黒い床が足元へ戻ってくる。初めてのGGOでの対人戦を、それも本来なら誰も主武装には選ばない光剣を使って突破した直後だけに、キリトの身体にはまだ戦闘の余韻が残っていた。左手の《FNファイブセブン》で牽制し、バレット・ラインを見ながら射線を外し、最後は銃弾が飛び交う中を強引に詰めて《カゲミツG4》を叩き込む──自分でも無茶な戦い方だとは分かっていたが、この世界のルールが少しだけ見え始めたという手応えもあった──そんな気分が消えたのは、通路の脇に佇んでいた1人のプレイヤーが、こちらへ歩いてきた瞬間だった。
頭から全身を覆う、幽霊じみた襤褸のマント。赤眼の仮面を被った顔の大半は影に沈み、装備もほとんど見えない。ただ、その人物がキリトの前で足を止めた時、周囲の喧騒だけが不自然に遠ざかったように感じられた。
「……本物、か?」
聞き取りづらい、掠れた声だった。背後から声をかけられたキリトは飛び退き、眉を寄せた。
「……何の話だ?」
「試合を見た。剣を使ったな」
男はそれ以上すぐには答えず、黒髪の少女にも見えるキリトの顔を、マントの奥からじっと観察していた。そしてマントから包帯で包まれた腕を出し、キリトの名前が書かれたトーナメント表を表示する。
「その名前……その剣技。お前、本物、か?」
ぞくり、とした。
今日初めてGGOへ来たのだから、少なくともこの世界で、キリトという名前と剣技を結びつけられるはずがない。ならば、この男が尋ねているのはGGOのキリトではない。
もっと以前の自分だ。
「……あんた、誰なんだ」
キリトが問い返すと、男は片腕を下げた。
マントの隙間から覗く腕に巻いた包帯の隙間から、古びたような印が見える。
歪んだ西洋式の棺桶。その蓋へ描かれた、にたにたと笑っているような不気味な顔。
見た瞬間、キリトの喉が凍った。
忘れるはずがなかった。
《ラフィン・コフィン》──アインクラッドで、モンスターではなく人を殺すことそのものを目的として活動していた殺人ギルド。罠を仕掛け、毒を使い、眠っているプレイヤーを襲い、最後には攻略組による大規模な討伐戦にまで発展した集団だった。
その討伐戦に、キリト自身も参加している。
そして、自分の剣で2人を殺した。
腕に刻まれた印を凝視している間にも、記憶の底に沈んでいた光景が勝手に浮上してくる。
赤いカーソル、剣と剣がぶつかる音、怒号、悲鳴、ポリゴン片へ砕けながら消えていく人間の姿。その全てを今も覚えているくせに、自分が直接殺した2人の名前だけがどうしても思い出せないという事実まで、容赦なく一緒に蘇ってきた。
男はキリトの反応を確かめると、腕を再びマントの内側へ戻した。
「でも、名前を騙った偽物か、もしくは本物なら……いつか、殺す」
それだけを残し、男は背を向けた。
キリトは追えなかった。追わなければならないと思ったにもかかわらず、両足が床へ縫いつけられたように動かなかった。しかし、本当に恐ろしいことに気づいたのは男が去った後、何とか近くの椅子に腰掛けた時だった。
遠ざかっていく男の声が、記憶の別の場所に引っかかった。
GGOへ来る前、都内の喫茶店で菊岡から教えられたネットに投稿された音声。
死銃を名乗るプレイヤーがゼクシードを撃った際、その場にいたプレイヤーが保存していた音声記録であり、事件そのものについてはネット上にも噂と断片的な記録が広がっていた。
加工されたような、金属質で耳障りな声。
声色そのものだけなら、今の男と完全に同じとは断定できない。言葉を区切る独特の間に、低く押し殺した話し方や、相手を値踏みするように、一語ずつ吐き出す癖──どれも、事前に聞いた声とよく似ていた。
「……まさか」
キリトの口から、掠れた声が漏れた。
死銃だ。今の男が死銃。そして同時に、ラフィン・コフィンの生き残り──そこまで繋がった瞬間、ただの都市伝説にしか思えなかった事件が、突然現実味を帯びた。
アミュスフィアが拾っている現実の心拍が急激に速くなっていく。呼吸が浅くなり、指先の感覚が薄れ、先ほどまで自分の身体そのものだったアバターが急に遠く感じられた。もし今バレット・サークルを表示すれば、心拍に引きずられて見る影もなく膨張していただろう。
ラフィン・コフィンなら、あの連中なら。
SAOで人を殺す方法ばかり考えていた人間なら、本当にGGOから現実のプレイヤーを殺す方法まで見つけてもおかしくないのではないか。それどころか、自分が殺した2人のうち1人が蘇って自分を殺しに──そんなあり得ない考えまで、頭の中へ入り込んでくる。
それが理屈ではないことくらい、キリト自身にも分かっていた。だが恐怖というものは、理屈で順番に訪れてくれるわけではない。
キリトは震えの残っている指でメニューを開き、連絡先から《ELENA》を選ぶと、何度も打ち間違いをしてメッセージを送信する。
『話がある。すぐ来られる?』
すると、送信して1分も経たないうちにエレーナから返事が来た。
『まず場所を指定してくれ』
自分のいる場所を打ち込んだ数分後、エレーナが現れた。
彼女はキリトを見つけた時、言葉を掛けるより先に、表情と姿勢、呼吸の速さを一度目で確認した。長い黒髪の間から覗く顔は強張り、両腕も身体の脇へ自然に下ろせずにいる。アミュスフィアを通して再現されるアバターに現実の顔色そのものが映るわけではないが、肩が呼吸に合わせて小刻みに上下し、指先が落ち着きなく開閉している以上、少なくとも単なる試合後の興奮ではなかった。
「何があった?」
エレーナは数歩手前で立ち止まり、余計に距離を詰めなかった。
普段ならそれだけでキリトも話を組み立てられただろうが、今は何から説明すればいいのかさえ整理できていないらしい。唇を一度開いて閉じ、呼吸を整えようとして失敗したあと、ようやく短く言葉を絞り出した。
「……いた」
「誰が?」
「死銃だ。たぶん……いや、多分じゃない。あいつだと思う」
エレーナの表情には驚きらしい変化は現れなかった。ただ、それまでキリト自身へ向けていた視線が僅かに鋭くなり、周囲の通路に一度だけ動く。プレイヤーが何人か行き交っているものの、立ち聞きされるほど近い者はいないことを確認したらしい。
「順番に話してくれ。何を見た?」
「1回戦から戻った後……マントを被った奴に声を掛けられた。俺の名前と剣を見て、『お前は本物か?』って」
エレーナは口を挟まず続きを待った。
「そいつが、ラフィン・コフィンの印を見せたんだ。それだけじゃない。声も、事前に聞いた死銃の音声と同じだった。少なくとも俺には、そう聞こえた……」
「つまり、その人物はSAO時代の君を知っている元ラフィン・コフィン構成員で、死銃と同一人物である可能性がある、ということだな」
「……ああ」
「現時点で、本人とみなして行動する価値は十分にある。ただし、ラフィン・コフィンの生存者であることと、現実世界で2人を死亡させた方法が説明されたことは別だ。そこは分けて考えるべきだろう」
「分かってるよ」
返事は早かったが、声には明らかな苛立ちが混ざっていた。
「そんなことは……分かってる」
エレーナはそこで初めて、キリトが死銃の正体を知ったことだけでここまで動揺しているのではないと判断したらしい。
「君は何を思い出した?今の反応は、目の前の死銃だけに向いたものではないように見える」
「医者みたいな言い方するなよ」
「実際にそういう見方をしているからな」
「……」
キリトは唇を噛んだ。言いたくはなかったが、一度開いてしまった記憶の蓋は、もう自分の意思だけでは閉じられそうになかった。
「俺は……殺したんだ」
エレーナは黙って聞いている。
「2人」
その数字を口にした途端、キリトの声が大きく震えた。
「ラフィン・コフィンの討伐戦で、俺は2人殺した。仲間を守るためだった。向こうが止まらなかったから、やるしかなかった。そんなこと、ずっと分かってる。分かってるけど……」
右手が左腕を掴む。
爪が食い込むほど力を入れているのに、震えは止まらなかった。
「俺、名前を思い出せないんだ……殺した2人だけじゃない。捕まった奴らも……生き残った奴らの名前は、当時なら知ってたはずなんだ。討伐隊の中で情報は共有されてた。調べようと思えば、SAOから戻った後だって確認できたはずなんだ。それなのに、俺……何もしなかった」
今度こそ、キリトはエレーナを見た。
目には怒りより恐怖の方が強く出ていた。
「忘れてたんじゃない。忘れようとしてたんだ」
キリトの口から言葉が一気に溢れ始める。
「思い出さなくて済むなら、それでいいってどこかで思ってた。2人殺したのに、その2人が誰だったのかも確認しないで、全部終わったことにして……普通に学校行って、ゲームやって、みんなと笑ってた。今日あの印を見るまで、ずっとだぞ」
「キリト──」
「なのに、向こうは俺を覚えてる!」
声が通路へ響きそうになり、キリト自身が慌てて音量を抑えた。それでも感情そのものは収まらない。
「『本物か』って。俺が誰なのか、あいつは覚えてた。俺は、自分が殺した奴の名前さえ思い出せないのに……!」
そこでようやく、エレーナは彼が抱えている恐怖の輪郭を理解した。
単なる殺害経験の想起ではない。殺したことを恐れている。そして同じくらい、それを忘れようとした自分自身を恐れている。エレーナは数秒考えた後、静かに口を開いた。
「君が当時そうした理由を、今ここで善悪どちらかに固定する必要はない。強い苦痛を伴う記憶を避けようとすること自体は珍しくないし、記憶し続けられる情報にも限界がある。名前を思い出せないという一点だけで、君が彼らの死を軽視していたとは──」
「そういう話をしてるんじゃない!俺が怖いんだよ!」
その勢いに、エレーナは再び黙った。
「人を殺して、それを忘れようとして、そのことまで忘れてた自分が怖い。あんたは……分からないのか?」
「何をだ?」
「人を殺したことだよ!」
キリトは今度こそ真正面から彼女を見た。
「あんたもSAOで人を殺したって言ってたよな」
「ああ」
「……後悔してるのか?」
質問された瞬間、エレーナは考え込まなかった。
「していない」
あまりにも早かった。
「……人を殺したんだろ?」
「ああ。死亡したことは認識しているし、その結果が重大であることも理解している。ただ、自分の選択を誤りだったとは考えていない」
「どうしてだ……」
「殺害そのものを目的としていたわけではないからだ。私が殺した者たちは、その時点で他のプレイヤーへ致命的な攻撃を加えようとしていた。説得や拘束が可能ならそうした。だが、その余地がなかった」
「……だから、殺した?」
「守る対象を死亡させる選択を採らなかった。それだけだ」
キリトはしばらく言葉を失った。
「……同じことが起きたら、また殺すのか」
「必要なら」
「迷わずか?」
「迷う理由がない」
自分自身も討伐戦で、ほとんど同じ理由から2人を斬った。
だからこそ、恐ろしかった。
キリトはあの2人の死を思い返すだけで手が震える。正しかったのか、他の方法はなかったのか、本当にやるしかなかったのかという問いが今でも身体の奥から湧き上がってくる。
目の前の女には、それがない。
「……人を殺すのが、怖くないのか?」
「状況による。私自身が殺される可能性を恐れたことはあるし、周囲の人間を失う危険にも警戒する。だが、殺害という行為を選択したことへの罪悪感を尋ねているなら、ない」
エレーナは一度そこで言葉を切った。
「個人的な話になるが、私が基準にしているのは行為が人道に沿っているかどうかだ。人間そのものへの愛着や好悪を判断の基礎には置いていない。生命を保護することが人道に適うなら保護する。多数を救うために、現在他者を殺害しようとしている者を排除する必要があり、それ以外に現実的な手段がないなら排除する。人数が増えたとしても、原則は変わらない」
キリトは何も言えなくなった。
その言葉には激情がなかったからだ。自分を正当化する熱も、過去を美化する響きもない。
理屈は分かる。キリト自身も、あの時は仲間を守るために剣を振った。だからこそ、怖かった。同じ理由で人を殺したはずなのに、目の前の女には、自分の中にある迷いや恐怖がまるで存在していない。
ほんの数時間前まで、キリトにとってエレーナは少し変わってはいるが、頼りになるSAO生還者だった。だが、今は違った。
「……怖いよ」
キリトの口から、掠れた声が漏れた。
「何が?」
「……あんたが」
エレーナの目が僅かに細くなった。
「あんた、本当に人間なのかって……今、一瞬思った」
そう言った直後、キリトは自身が余りにも酷いことを言ったと気づいた。それでも取り消す気にはなれなかった。
「……俺は2人殺しただけで、今でもこんなになってる。名前を忘れたことまで怖くて仕方ないのに……あんたは、何人殺しても条件が同じなら同じことをするって、普通に言えるのかよ」
「人数は判断基準では──」
「そういうところだよ!俺が怖いって言ったことも、あんたは否定しないのか?」
「……君がそう感じた事実を、私が否定する理由はない」
まただ。
怒らない、傷ついたとも言わない。嫌われることを恐れて言葉を取り繕うこともしない。キリトの目には、ますます彼女から人間らしい温度が失われていくように見えた。
一方でエレーナは、キリトの自分に対する印象が悪化したことより、現在の彼がこのあと予選を続けられる状態かどうかを気にしていた。
「私についての話は後にしよう。君の次戦は?」
「……もうすぐ」
「棄権する選択肢もある」
「は?」
キリトの眉が寄った。
「君は今、平常時と同じ状態ではない。手指の振戦が残っているし、呼吸もまだ浅い。注意も断続的に過去の記憶へ移っている。その状態で対人戦を続ければ判断を誤る可能性がある」
「それも、計算した結果なのか?」
皮肉が混じった。
エレーナは少しだけ間を置いた。
「ああ。だが、君に棄権を命令しているわけではない。選択肢として提示している」
「……出る」
キリトは視線を逸らしたまま答えた。
「ここで降りたら、あいつを追えない。死銃がラフィン・コフィンの生き残りなら、なおさら……俺がやらないと」
今度の声には少しだけ力が戻っていた。
「向こうは、俺が誰か分かってる。なら、俺が大会に残ってれば、また接触してくるかもしれない。それに……」
キリトは一度言葉を飲み込んだ。
「今度は忘れたくない」
エレーナはそれ以上棄権を勧めようとはしなかった。
「了解した。では情報を整理する。ボロマントのプレイヤーはSAO時代の君を識別しており、ラフィン・コフィンの標章を持つ。そしてネット上に記録された死銃の音声と、声質及び発話の特徴が一致したと君は判断している。よって、彼を死銃本人かつ元ラフィン・コフィン構成員である可能性が高い対象として扱う」
キリトは黙って聞く。
「ただし、現実世界での殺害方法は依然として不明だ。アミュスフィアそのものに致死機構はない。SAOで人を殺した経験があるというだけで、彼がGGOから直接人間を殺せる理由にはならない。再接触した場合、可能なら武器、発言内容、SAO時代の呼称、それから君以外との接触を記録してくれ。ただし、追跡を優先して自分の安全を捨てるな。相手の手段が不明な以上、GGO内での死亡が現実に無害だと保証できる段階ではない」
「分かってるよ」
キリトはそう答えたものの、以前のような素直さはなかった。ちょうどその時、視界の端へ次戦の呼び出し表示が浮かんだ。
《Fブロック 第2回戦》
残り時間が秒単位で減り始める。
「……時間だ」
キリトは椅子から身体を離し立ち上がったが、指先には僅かな震えが残っている。
そして歩み出す。別にどこに居ようが時間になればワープさせられて戦闘が始まるのだから歩く必要などないのだが、キリトは今エレーナと同じ場所に居たくなかった。
エレーナはその去っていく後ろ姿を見た。
「キリト」
「なんだよ」
呼び止められ、キリトは振り返った。
「2人の名前を今思い出せないことと、君が彼らの死を軽視していたことは同義ではない。今すぐ自分に判決を下すな」
キリトはしばらく彼女を見た。
それが慰めなのか、医学的な観察なのか、それともまた何かを演算した結果なのか、今の彼には分からなかった。
「……あんたに言われても、あんまり安心できないよ」
「そうか」
エレーナはそれ以上何も言わなかった。
キリトも返事をせず、歩みを早めた。
2人は同じ、死銃を追っている。目的は変わっていない。しかし、都内の喫茶店で菊岡の話を聞いていた時に存在していた、同じSAO生還者同士というだけで成立していた薄い親近感は、もうほとんど残っていなかった。
十十十十十十十十十十
その後の予選も、シノン、エレーナ、リオの3人は変わりなく勝ち進んだ。
一方、Fブロックのキリトにとって、それ以降の試合はそれまでとはまるで違った。
相手の銃口がこちらへ向き、赤いバレット・ラインが走る。その瞬間、別の赤が記憶の中に浮かぶ。レッドを示すカーソル、光になって消える2人。
戦闘中は身体が先に動いてくれた。長年のVRMMO経験によって刻まれた動作は、本人の感情が追いつかなくても機能し、バレット・ラインから身体をずらし、多少被弾しても無理矢理距離を詰めて、《カゲミツG4》の間合いへ入れば一気に勝負を決める。むしろ剣を握っている間だけは余計なことを考えずに済んだ。
問題は試合が終わった後だった。対戦相手が《DEAD》の表示とともに消えるたび、現実には死んでいないと分かっているのに、青いポリゴン片の向こうへ昔の2人が重なった。
名前が出てこない、知っていたはずなのに。
調べられたはずなのに、忘れようとした。
『──迷う理由がない』
キリトには、どうしても理解できなかった。
彼女が人殺しを楽しんでいるのなら、まだ分かりやすかっただろう。ラフィン・コフィンと同じように、決して理解してはいけない敵として切り離せばいい。
しかしエレーナは違う。
人を助け、傷ついた者を治療し、危険にさらされた者を守る。それら全てを実際に行う一方で、同じ規則の延長線上に「必要なら殺す」という判断を何の矛盾もなく置いている。
慈しみが先にあって救うのではない。
憎しみがあって殺すのでもない。
自らの絶対的な基準に沿った結果として、救うか排除するかが決まる。
キリトには、その方がずっと恐ろしかった。
それでも試合は止まらない。
勝ち進むにつれて、《FNファイブセブン》の左手射撃にも少しずつ慣れ、バレット・ラインの使い方も身体へ馴染んでいった。最後の試合では、《カゲミツG4》で飛来する弾丸を弾くことすらせず、そのままただ相手に突っ込むという無茶な戦法で決着をつけた。
予選終了後、総督府地下の待機エリアへ戻った頃には、巨大モニターの各ブロックのトーナメント表もほぼ埋まっていた。
Bブロック1位、《SINON》。
Dブロック1位、《RIO》。
Fブロック1位、《KIRITO》。
Eブロック1位、《ELENA》。
4人とも、本戦出場権を獲得していた。
GGOのBoB予選は1対1のトーナメントで進み、勝者は待機区画へ戻った後、次の相手の試合が既に終わっていれば続けて転送されるため、開始時刻が同じでも終了時刻には多少のずれが生じる。最後に戻ってきたエレーナが結果表示を確認した時には、リオは既にベンチの周りを落ち着きなく歩き回り、シノンはその騒がしさを半分呆れながら眺め、キリトだけが少し離れた壁際へ立っていた。
「エレーナ!見ろ!1位だぞ!」
リオはエレーナの姿を見つけるなり嬉しそうに駆け寄った。
「4回斬るやつも使った!あと1個、昨日見たやつも出来たぞ!胴抜きってやつ!」
「そうか。では戦闘記録を後で確認しよう」
「そこはもっと褒めろ!」
「1位通過という結果は十分評価している」
「そうじゃないー!」
いつもの調子で食い下がるリオの後ろから、シノンが小さく息を吐いた。
「この子、試合が終わってからずっとこれよ」
「アタシは本戦も1位になるからな!」
「はいはい。私もそのつもり」
先程までなら、キリトもその会話へ入っていただろう。しかし今日は少し離れた場所に立ったままだった。
シノンは一度だけ彼へ視線を向け、昼間より明らかに元気がないことには気づいたものの、その原因を性別の件で自分に怒られたせいだと思っているらしい。自分の方もまだ完全に許したわけではないため、わざわざ気遣うのも癪だというように、すぐ視線を戻した。
エレーナだけが事情を知っていた。
ほんの一瞬だけキリトと目が合うが、エレーナは何も言わず、キリトも何も言わなかった。
明日の本戦には、おそらく死銃が出る。今は、それだけ分かっていればよかった。
キリトの方は、彼女を視界へ入れるたびに、まだ胸の奥へ薄い寒気を覚えていた。
自分が怯えている2人の死を、彼女ならどう扱うのだろう。必要だった──それだけで終わるのだろうか。そう考えると、喫茶店で初めて顔を合わせた時には少しだけ頼もしく見えた静かな表情が、今は何を考えているのか分からないものに見えた。
やがて予選終了を告げるアナウンスが総督府地下へ流れ、翌日に行われる本戦への進出者には改めて集合時刻と注意事項が送信された。今日のところはこれ以上ここへ残る理由もなく、4人はそれぞれ装備をストレージへ戻して地上に向かうことになる。
リオは明日こそ新しく覚えた剣技を全部使うと騒ぎ、シノンはそんなことをしている暇があれば弾薬や装備重量を確認しなさいと叱りながら歩いていく。
その少し後ろを、数歩ほどの距離を空けたまま互いに言葉を掛けることもなく、キリトとエレーナは並ばずに歩いた。
ただ、2人とも明日また同じ場所へ戻ってくることだけは分かっていた。
第3回バレット・オブ・バレッツ本戦。
そこには、《死銃》がいる。
零奈が有するもの、それは力、知、美。
他者から見れば全てを持つように見えるが、
それは言葉の枷が彼女を縛るが故のもの。
なればこそ、冷めた胸に愛と虚無を抱え
燃え盛る欲に身を焦がし続けるのだ。