2025.12.14
GGO内・SBCグロッケン・総督府地下
本戦出場者としての登録を終え、4人それぞれの前に浮かんでいたエントリーフォームが閉じると、シノンを先頭にして総督府のさらに地下へ向かった。
昨日の予選で使用した待機区画とは別に、本戦へ進出した30人を収容するための大広間が用意されており、金属製の壁や無骨な配管に囲まれた造りは軍事施設のようでありながら、その中央には円形や六角形のテーブルがいくつも並び、壁際にはバーカウンターまで設けられているため、実際の印象は宇宙船の乗組員が集まる巨大な酒場に近かった。注文用パネルへ触れればテーブル中央の円筒が低い作動音を立てながらせり上がり、その中から飲み物の入ったグラスが現れるという妙に未来的な仕掛けまで備えられているが、今この場所に集まったプレイヤーたちの関心は酒よりも、あと20分ほどで始まる第3回バレット・オブ・バレッツ本戦へ向いているらしい。
本戦の日は、普段のGGOとは空気そのものが違っていた。ゲーム内で最強のガンナーを決める大会であることに加え、GGOではクレジットを現実の電子マネーへ還元できるため、BoBともなれば誰が優勝するかという非公式の賭けまであちこちで盛んに行われる。広間正面の巨大モニターにも、30人の本戦進出者の名前、過去の戦績、使用武器、優勝予想の順位などが絶えず切り替わりながら表示され、テーブルを囲む者たちはそれを肴に好き勝手な予想を飛ばしていた。予選とは違って30人全員が同一フィールドへ放り込まれる本戦では、有力選手同士が早々に潰し合うこともあれば、無名のプレイヤーが最後まで生き残ることもあるだけに、昨日までの実績だけで勝者を決めつけられないことも祭りを盛り上げているのだろう。
その中に4人が揃って入れば、当然ながら相応の視線が集まった。
シノンは以前から名の知られた狙撃手であり、今回はそれまでの《FR-F2》から《ヘカートⅡ》に主武装を更新しているため、遠距離から一発で試合をひっくり返しかねない優勝候補として名前を挙げられている。エレーナもまた、《FR-X》という高出力光学狙撃砲と、短銃身化した《MGL-140》を使い分ける戦い方がGGOの一般的なビルドからあまりにも外れているせいで、短期間のうちに相当目立つ存在となっていた。リオに至っては、銃弾の飛び交う中へ真正面から突っ込み、《クリス・ヴェクター》や《P226》を使いながら最終的には1.5メートルもの紫色の《ツバキJ3》を振り回すため、戦ったことのある者を中心に「ミサイル女」という本人が聞けば間違いなく喜ぶ異名まで広まりつつある。
そして昨日の予選だけで、その3人と同じくらい奇妙な注目を集めてしまったのがキリトだった。GGOへ降り立ったその日にBoBへ出場しただけでも相当珍しいのに、ほとんど誰も主武装にしない《カゲミツG4》を握り、左手の《FNファイブセブン》で牽制しながら銃弾の中を走り抜け、相手の懐へ飛び込んでは光剣で斬り倒している。しかも外見だけなら華奢な黒髪の少女にしか見えないため、事情を知らない者からは「銃の大会へ好き好んで剣を持ち込み、正面から人を追い回して斬る危ない女」という何とも不本意な認識までされているらしく、正面から歩いてきた大柄なプレイヤーがキリトの顔を見るなり、露骨に半歩横へ避けて道を譲った。
「……何か、俺だけ妙に避けられてない?」
「昨日の戦い方を見たら、私だって初対面なら避けるわよ」
隣を歩いていたシノンは、その大男の背中へ一度だけ目を向けてから、特に同情する様子もなく答えた。
「普通は銃を向けられたら相手から離れるか身を隠すの。あなたみたいに、赤いラインの中に自分から突っ込んでいったりしない」
「……し、シノンさん?まだ怒ってる?」
「誰のせいだと思ってるのよ」
昨日の控室で性別を明かした一件について、さすがに一晩経って本気で怒り続けているわけではないらしいが、簡単に水へ流してやる気もないらしい。
一方、その横を歩いていたリオは、巨大モニターの中へ自分の名前を見つけた瞬間、「私は今不機嫌です」という顔を作っているシノンの肩を無遠慮にバシバシと叩いた。
「おお!シノン!見ろ、アタシいるぞ!」
「本戦に残ったんだから当たり前でしょう」
「違う、こっちだ!優勝すると思うやつ!」
リオはシノンの袖を掴むと、ほとんど引きずるようにしてモニター前に連れていった。そこには真面目な戦力評価だけでなく、観戦者から寄せられたらしい短いコメントまで表示されており、《SINON》《ELENA》《RIO》《KIRITO》の4つの名前の横にも、GGOプレイヤーの悪ふざけとしか思えない内容が次々に右から左へと流れていた。
『SINONちゃんなら頭撃ち抜かれてもいい』
『ELENAさんの光線に焼かれてみたい』
『RIOさんに後ろから斬られてみたいなあ』
『KIRITOちゃんに光剣持って追い回されたい』
シノンの眉間に見る見る皺が寄っていった。
「……はぁ、馬ッ鹿じゃないの」
「見ろシノン!アタシ大人気だぞ!」
「そこ、喜ぶとこなの?」
「だって斬られたいって書いてある!」
「それを馬鹿って言ってるのよ」
「見ろ!シノンも組み伏──」
「いちいち読まなくていい!!」
リオはそれでも面白がって表示を追い続け、そのうち近くのテーブルにいた見知らぬプレイヤーへまで「オマエは誰が勝つと思う!?」と話しかけ始めたため、シノンも放置できずにそのままモニター前へ残ることになった。
もともと感情が表へ出やすく、興味を持ったものに一直線に飛びつくリオだけに、その騒ぎ方自体はまるで不自然ではない。
「…………」
ただし、少し離れた場所からその様子を見ていたエレーナだけは、リオが普段より僅かに大袈裟に騒いでいる理由を知っていた。
元々、菊岡から相談を受けた時点で、エレーナはリオに《死銃》について必要な範囲の事情を伝えている。加えて、昨日の間にキリトがボロマントの男から《ラフィン・コフィン》の標章を見せられたこと、その声がネット上に残っている《死銃》の音声と一致したことを含め、この本戦が単なる大会だけでは済まない可能性があることも説明していた。
そのため、今のリオはシノンを意図的にモニター前に引き留め、キリトとエレーナが人目を避けて話せる時間を作っているのである。
そんな裏事情をキリトは知らないが、偶然だろうと必然だろうと2人で話せる機会が生まれたことに違いはないため、チャンスだと思ったキリトはこっそりとエレーナに話しかける。
「……今、話せる?」
「ああ。こちらへ」
エレーナは酒場の奥に視線を向け、巨大な支柱の陰になった小さなテーブルへ移動した。
完全に周囲から遮断されているわけではないが、モニター前の歓声からは十分に離れており、普通の声量ならシノンのところまで会話が届くことはない。2人が向かい合って座ると、テーブル中央の注文パネルが客を認識して淡く光ったものの、どちらも飲み物を頼もうとはしなかった。
昨日の予選前までとは違って、キリトはエレーナの正面へ座ることにほんの僅かな抵抗を感じていた。
彼女がSAOで人を殺したことを全く後悔していないと知ってから、どうしても以前と同じ目では見られない。必要なら再び殺す、同じ状況なら同じ判断をする、人数が増えたところで原則は変わらない──そう言い切った時の、何の迷いも浮かばなかった冷徹な表情がまだ記憶に残っている。
それでも今は、《死銃》という同じ問題を追っている協力者であることも事実であり、流石に個人的な好き嫌いを持ち込むほどキリトも子供ではなかった。
「あの後……何か、分かったことは?」
「確定情報ではないが、本戦出場者について調べてみた。過去のBoB本戦の参加履歴と照合したところ、今回の30人の中でこれまで本戦出場者として確認できなかった名前が3つある」
エレーナは小さなウィンドウを開き、キリトからだけ見える角度へ傾けた。そこには余計な情報を排した3つのプレイヤーネームだけが並んでいる。
《Sterben》、《Pale Rider》、《銃士X》
キリトは順番に目を走らせ、最初の名前で眉を寄せた。
「スティーブン……?」
「違う。《ステルベン》だ」
読み間違いが口から出た瞬間、エレーナはほとんど間を置かず訂正した。
「英語の《Steven》ではない。綴りが違う。ドイツ語の《sterben》なら『死ぬ』『死亡する』という意味になるし、日本の医療現場でもドイツ語由来の語として《ステルベン》という表現が使われることがある」
「……死ぬ」
「名前としては随分と直接的だな。ただ、それだけで《死銃》と断定する理由にはならない。《Pale Rider》も死を連想させる名前だ。《銃士X》には今のところ直接的な関連を見出せないが……そもそも、昨日君に接触した男が今回初めてBoBに出た人間だという保証はない。過去のBoBに出場はしていても、犯行を行わなかっただけという可能性もある。だから3名は容疑者ではなく、現時点で注意しておく価値のある未確認プレイヤーとして扱うべきだろう」
キリトは《Sterben》という文字を改めて見つめた。死亡を意味する名前。偶然にしては出来すぎているようにも思えるが、《死銃》などという名を平然と名乗る人間なら、逆にあまりにも安直すぎるようにも思える。
何より、昨日見たボロマントの男のプレイヤーネームを確認できていない以上、名前だけを追っても答えへ辿り着けるとは限らなかった。
「3人に絞れた、ってわけじゃないんだな」
「そうだ。そこを誤認すると、別の名前で出場していた場合に見落とす。昨日確認できた情報の方が重要だ。相手はSAO時代の君を知っている。ラフィン・コフィンの標章を持っていた。そしてネット上に残された死銃の音声と、声や発話の特徴が一致した。この3点から、本戦参加者の中に死銃本人がいる可能性は高い。だが、誰なのかはまだ分からない」
キリトはしばらくウィンドウを睨んでいたが、やがて視線を上げ、モニター前でリオと言い合っているシノンへ目を向けた。
「……やっぱり、2人にも話した方がいいんじゃないか」
エレーナは答えず、続きを待った。
「昨日までは、俺に接触してきた奴が何者なのかも分からなかった。でも今は少なくともラフィン・コフィンの生き残りで、死銃本人らしいってところまでは分かってる。それに、本戦は全員同じフィールドなんだろ。誰を狙ってるかも分からないんだから、俺たちだけ事情を知ってる状態でシノンとリオを入れるのは……」
そこでキリトは少し言葉を探した。
「危ないと思う」
「私もそう考えている」
予想していなかった返答だったのか、キリトが目を上げた。
「じゃあ、話す?」
「ああ。2人には伝えるべきだろう。特にシノンは、君や私やリオより名の知られたトッププレイヤーだからな」
エレーナは淡々と答えながら、表示していた3名の名前を閉じた。
「……いや、前提を1つ修正しておこう。シノンが狙われていると仮定する理由はまだない」
「……そうだな」
「君も私もリオも同じだ。昨日の予選で目立ったという意味なら、4人とも本戦出場者の中ではかなり顔を知られている。過去の被害者を含め、死銃が何を基準に対象を選んでいるのかが分からない。仮に知名度や強さを基準にしているなら、我々4人全員が候補になり得る。あるいは、全く別の参加者を狙っている可能性もある」
そこは重要だった。
キリトは昨日、死銃から直接接触を受けているため、自分が強い関心を持たれていることだけは確かだろう。しかし、それが次の殺害対象を意味するとは限らない。シノンは有名な狙撃手であり、エレーナもリオも既にこのゲームでは目立つ存在になっている。だからといって4人全員を狙うはずだと考えるのも、それはそれで根拠のない思い込みになる。
「なら、いっそ序盤から4人で固まる?」
「それも勧めない」
「どうして?」
「本戦の開始位置はランダムだ。30人は互いに最低1キロ程度離れた状態から始まり、最初の《サテライト・スキャン》が行われるまで15分ある。そもそも最初から集合する方法はない。それに4人が1ヶ所へ集まれば、通常のBoB参加者から見ても極めて目立つ。別のプレイヤーから狙われる危険まで増やしてしまうだろう」
エレーナは本戦フィールドの簡略図を開いた。直径10キロほどの円形マップには中央の廃墟都市を中心に、砂漠、森林、山岳、草原といった主要な地形が大まかに示されている。
「だから、誰か1人を守るという形にはしない。誰が標的か分からない以上、4人全員を同じ条件で扱うべきだ」
「具体的にはどうするんだ?」
「まず、我々4人は死銃の問題が解決するまで互いを攻撃対象から外す」
キリトが僅かに目を見開いた。
「一時休戦?」
「ああ。本来のBoBとしては不自然だが、人命に関わる可能性がある以上、大会の順位を優先する理由はない。偶然出会った場合は撃ち合わず、その時点までに得た情報を共有する。誰かが異常な接触を受けていれば、そこで初めて直接行動を合わせる」
「シノンさん、納得するかな……」
「そこは本人に決めてもらう。それから開始直後の15分は、死銃を探して無理に移動しない。通常の対戦相手と遭遇した場合まで逃げ続けろとは言わないが、撃破数を稼ぐためだけに敵を探し回る必要はない。まず生存し、周囲を観察し、最初のサテライト・スキャンまで待つ」
本戦で配布されるサテライト・スキャン端末は15分に一度、上空を通過する監視衛星から送られる情報を受信し、その時点でフィールド上にいるプレイヤーの位置を表示する。
光点に触れればプレイヤーネームも確認できるため、30人が散らばる広大なマップの中で、誰がどの地域にいるのかを把握するためのほぼ唯一の共通情報となる。
「1回目のスキャンで確認するのは6人だ」
「6人?」
「《Sterben》《Pale Rider》《銃士X》の3名と、我々4人──と言いたいところだが、自分の位置は分かっている。つまり残る3人の位置だ」
「ああ、なるほどな」
「誰か1人だけではなく、4人全体の配置を見る。例えば3名の未確認プレイヤーのうち1人が、我々の誰かへ明らかに近い位置にいるなら、その人物の動きを優先して注意する。逆に候補者同士が遠く離れていれば、最寄りの者がそれぞれ観察できる。全員が一つの地点へ殺到する必要はない」
「でも、スキャンは15分に一回だろ?見た後に動かれたら分からないんじゃないか?」
「その通りだ。だから追跡装置だとは考えず、15分ごとの静止画に近い情報だと捉えるべきだ。そこから未来の位置まで確定したように扱えば判断を誤る」
エレーナは地図上に指を滑らせ、4人が別々の場所にいる場合を仮定するように数ヶ所を示した。
「決めるのは行動の優先順位だけでいい。第一に、自分が昨日のボロマントに相当する人物を見つけた場合、無理に正体を問い詰めようとせず、名前、武器、声、外見を確認する。第二に、その人物が他のプレイヤーに不自然な行動を取った場合は、大会の勝敗より介入を優先する。第三に、我々4人の誰かがその人物と交戦している場面に遭遇したなら、普段のBoBとして横から漁夫の利を狙うのではなく、交戦している側を援護する」
「……つまり、誰が狙われるか予想するんじゃなくて、見つけた側が止める」
「そうだ。それが一番確実だ。もっとも、死銃と遭遇できる保証そのものはないが」
キリトは少し考えた後、頷いた。
「3人の候補は?」
「遭遇したなら警戒する。ただし、名前だけで死銃と断定して攻撃を急ぐ必要はない。もっとも、これはBoBだ。通常の対戦相手として倒すこと自体には何の問題もないし、仮に3名を全員大会から退場させられるなら、それはそれで危険候補を減らすことになる」
エレーナの返答はいつも通り淡々としていたが、昨日よりはキリトもそれを受け流せるようになっていた。
「それで……シノンとリオには、どこまで話す?」
「死銃について確認できていることは伝える。現実で二人が死亡していること、昨日君へ接触した人物がラフィン・コフィンの構成員であること、その声がネット上に残されている死銃の音声と一致したこと、そして本戦へ参加している可能性が高いこと。ただし、殺害方法については分からないと明確にする」
エレーナは、リオが既に事情を知っていることを伏せたまま、一瞬も表情を変えなかった。
「じゃあ呼ぼうか」
「ああ」
エレーナがモニター前へ視線を向けると、リオがすぐ気づいた。ほんの一瞬だけ目が合い、次の瞬間には何も知らない顔でシノンの腕を掴む。
「シノン!エレーナが呼んでるぞ!」
「分かったから引っ張らないで」
しばらくして二人がテーブルへやってくると、シノンはエレーナとキリトの妙に真面目な顔を交互に見た。リオも隣へ座ったが、事情を知らないキリトの前では首を傾げ、いかにも今初めて呼び出されたような顔をしている。
「何?」
「大会前に共有しておきたいことがある。少し長くなるが、最後まで聞いてくれ」
エレーナは死銃について、確認できている事実から順番に説明した。
GGO内で《死銃》を名乗るプレイヤーが銃を撃った後、現実世界で2人のプレイヤーが死亡していること。ただしゲーム内の銃撃が直接死因になったと証明されたわけではなく、現時点では殺害方法そのものが分からないこと。昨日、キリトへ接触したボロマントの男がラフィン・コフィンの標章を見せ、SAO時代のキリトを知っていたこと。そして、その声がネット上に残っている死銃の音声と極めてよく似ていたことから、同一人物である可能性が高いことまでを、推測と事実を混ぜないように一つずつ切り分けて話していった。
途中、リオは一応驚いたように目を丸くし、
「えっ、ゲームで撃たれた奴がリアルでも死んだのか!?」
と声を上げたが、事情を知っているエレーナから見れば少々元気が良すぎるくらいだった。
もっとも、シノンは隣で話を聞くことへ集中しており、その不自然さへ気づいた様子はない。
説明が終わるまで、シノンはほとんど口を挟まなかった。
「……本当に?そのボロマントが死銃だっていうのは?」
「確定ではない。ただし可能性はかなり高いと考えている」
「それで……死銃が今日、誰を狙ってるかは?」
「分からない」
エレーナは即答した。
「君が対象だという証拠もない。キリトは昨日直接接触されているが、それが殺害予告なのか単なる確認なのかも不明だ。私やリオも含め、昨日の予選で4人とも相当に目立っている以上、仮にゼクシードや薄塩たらこのように、知名度や実力を理由に標的を選んでいるなら誰が狙われても不思議ではない。そもそも我々4人とは別の参加者が対象である可能性もある」
「……じゃあ、私に大会を降りろって話じゃないのね」
「いや、その選択肢はある」
シノンの目が僅かに細くなった。
「危険が存在する可能性を知った以上、参加を継続するかどうかは君が決めるべきだ。私から棄権を命令するつもりはないし、逆に安全だと保証するつもりもない」
「……エレーナは?」
「出る」
「リオは?」
「出るぞ!」
「キリトは……訊くまでもなさそうね」
「ああ」
シノンは3人を順番に見てから、小さく息を吐いた。
「なら私も出る。今さら、誰を狙ってるかも分からない相手がいるかもしれないってだけでBoBを降りる気はない。それに、本当にゲームの中で人を殺してる奴がいるなら、なおさら放っておきたくないわ」
シノンらしい答えだった。
「ただし、勝手に守られるつもりもないから。何をするつもりなのか全部教えて」
「ああ。そのために呼んだ」
エレーナは先ほどの本戦マップを四人から見えるように広げ、再びシノンに先程と同じ説明をした。
作戦の本質は明確だった。
誰が狙われているのかを勝手に決めつけず、誰か1人を守られる側に固定しない。4人とも自分自身と他の3人を、同じように危険へ晒され得る対象として扱う。
15分ごとのサテライト・スキャンでは初出場のプレイヤー3名と仲間3人の位置を確認し、近くにいる者がそれぞれ観察する。そして死銃と判断できる行動を誰かが確認した時だけ、大会の順位より優先される行動を取る。
少々受け身な作戦ではあるが、現時点で得られている情報から組める策としては、それ以上確実なものを組むことは出来なかった。
「最後に確認する」
エレーナはシノンを見る。
「危険がゼロではないことを理解した上で、それでも参加するか?」
「する」
シノンの返答に迷いはなかった。
「私も確認するけど、エレーナたちだって危ないかもしれないんでしょう?」
「ああ」
「なら、逃げる理由なんてない。誰かが見つけたら、誰かが止める。それでいいわ」
「了解した」
そんなやり取りの向こうで、本戦開始15分前を告げるアナウンスが酒場中へ流れた。
十十十十十十十十十十
本戦開始が近づくにつれ、酒場を満たしていた熱気にも僅かな変化が現れ始めた。
先ほどまで優勝予想や対戦相手の噂で騒いでいた本戦進出者たちが次々と席を立ち、専用通路を通って個別の待機区画へ向かっていく。
4人も流れに混ざって専用通路を進み、本戦参加者用の個別控室が並ぶ場所まで来たところで一度立ち止まった。
ここから先はそれぞれ別々の部屋へ入り、装備を整えた状態で転送開始を待つことになるため、少なくとも本戦が始まるまでは最後に顔を合わせられる場所になる。
「じゃあ、確認ね」
シノンは3人を見回した。
「死銃の件が片づくまでは、私たち4人は撃ち合わない。15分のスキャンでは初出場の3人と、自分以外の3人を確認する。キリトが見たボロマントと同じ奴を見つけた場合、試合よりそっちを止めることを優先」
「そうだ」
「その後は?」
「死銃の危険が排除されたと確認できれば、一時休戦を解除し、通常のBoBへ戻る」
エレーナが答えると、リオがすぐにシノンへ指を向けた。
「じゃあ終わった瞬間オマエを──斬る!!」
「なら、その前に風穴を開けてあげるわ」
「ふん!絶対避けるからな!」
シノンもリオも既に大会に参加するプレイヤー本来の顔へ戻りつつある。
キリトはそのやり取りを見たあと、昨日から色々と気まずいままのシノンへ向き直った。
「……今日はよろしく」
「何よ、その挨拶」
「いや……昨日、色々あったから」
「今日だって色々ありすぎたわよ」
シノンは半眼になったが、それでも昨日のように本気で怒ってはいなかった。
「シノン!」
今度はリオが呼び止める。
「何?」
「──し、死ぬなよ!」
あまりにも真っ直ぐな言い方だったため、シノンは一瞬だけ目を丸くした。
「……ゲームでしょう」
「でも今回は変な奴がいる!だから死ぬな!」
実際には既に事情を知っていたリオが、ここで初めて聞かされた者らしく振る舞う必要はもうなかった。言葉そのものは演技ではなく、本心なのだ。
シノンは少しだけ笑う。
「そっちも、私に撃たれる前に死なないでね」
「上等だ!」
リオは満足そうに胸を張ると、「絶対死ぬなよ!」と念押しするようにもう一度シノンへ指を突きつけ、そのまま自分の控室へ入っていった。少し遅れてシノンも自分の部屋へ消え、2つの扉が閉じると、本戦開始を待つ地下通路にはキリトとエレーナだけが残された。
昨日生まれた距離は、まだ消えていない。
それでもキリトは、自分の控室へ入る前に一度だけ足を止めて口を開いた。
「……昨日、俺が言ったことだけど」
自分の控室へ向きかけていたエレーナは足を止めると、何のことか分からないというより、どの話題を指しているのか特定するために僅かに首を傾けた。
「どの話だ?」
「俺が、あんたのことを怖いって言ったこと」
「ああ」
「……撤回するつもりはない」
言いにくそうではあったものの、キリトはそこだけを曖昧にはしなかった。
昨日はラフィン・コフィン討伐戦で自分が殺した2人を思い出し、その名前すら思い出せないことに動揺していたため、感情的になっていた部分があることは自覚している。それでも、自分なら2人の死を思い出すだけで今なお手が震えるというのに、目の前の女は必要なら何人でも同じ判断をすると答えた。
その差を「強い」という一言で受け入れることは、今のキリトにはできなかった。
エレーナはしばらく彼を見ていたが、怒るでも、訂正を求めるでもなく、聞いた内容をそのまま受け取ったように小さく頷いた。
「……撤回を要求した覚えもない。ただ、その感情を本戦での判断に混ぜることだけは避けてくれ。私も君への好悪ではなく、必要な状況で必要な行動を取れるかによって判断する」
「……そういう返し方が怖いんだよ」
「そうか」
「そこは、もうちょっと何かないのかよ」
「何を求めている?」
「……いや、いい」
キリトは困ったように長い黒髪を掻いた。
やはり話していると妙に噛み合わないが、昨日ほど無意識に距離を取りたいとも思わなくなっている。エレーナの考え方を理解できたわけではないものの、少なくとも彼女が自分へ好かれるために感じてもいない後悔を口にしたり、都合のいい言葉で取り繕ったりする人物ではないことだけは分かり始めていた。
「じゃあ、1つだけ頼んでいいか?」
「内容による」
「俺が昨日みたいになって、あいつを見た途端に頭に血が上がって1人で突っ込みそうになってたら……止めてくれ。正直、もう一度あのマークを見た時、自分がどうなるかまだ分からない」
その言葉だけは冗談ではなかった。
キリトの表情からそれを読み取ったエレーナは、間を置かずに頷いた。
「当然だ。ただし、逆も同様だ。私が得た情報から誤った結論へ進んでいると君が判断したなら、その場で止めてくれ。判断を下せることと、その判断が常に正しいことは同義ではない。材料が不足していれば、私も当然間違える」
「……エレーナが?」
「何だ?」
「いや、なんか……自分が間違うって普通に言うんだなと思って」
「不思議なことではないだろう。人間の認知能力には限界があるし、情報が欠ければ推論にも誤差が出る。自分だけ例外だと考える方が不合理だ」
キリトは数秒だけ彼女を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
昨日から自分の中で出来上がりかけていた「何もかも正確に計算して答えを出す機械」という像とは、ほんの少しだけ違う部分もあるらしい。それでも、その違いをわざわざ口にして2人の関係を修復しようとする気分にはなれず、彼は短く頷くに留めた。
「……分かった。じゃあ本戦で会ったら、予定通り情報交換。死銃を見つけたら試合よりそっちを優先する」
「ああ。昨日あの男は、わざわざ君が黒の剣士本人か確認するために接触してきた。少なくとも我々4人の中で、現時点でもっとも明確に関心を示されているのは君だ。その事実は忘れないでくれ」
「分かってる。でも、自分だけが狙われるとも思うな、だろ?」
「そこまで理解しているなら十分だ」
それ以上は必要なかった。
昨日生まれた亀裂が埋まったわけでも、互いを理解したわけでもないが、少なくともフィールドで相手を見つけた時、背中から撃つ必要がないことは確認できている。
「じゃあ、フィールドで」
「ああ、いたずらに命を捨てるな」
「今回は死んでもいいゲームなのに、その台詞が冗談にならないな」
「だから言っている」
キリトは一瞬だけ苦笑すると、自分の控室へ入っていった。
エレーナも彼を見送ることなく反対側の扉を開き、2人の間に残った問題はひとまず本戦の外へ置いたまま、互いに別々の戦場へ向かう準備へ入った。
個別控室の内部は昨日の予選で使用した部屋より僅かに広く、中央には装備確認用のホログラムと転送開始までのカウントダウン、その横には本戦フィールドの簡略図が浮かんでいた。
エレーナは街中用の外装から戦闘装備へ切り替えると、《FR-X》と《MGL-140》、携行弾薬や補助装備を順番に確かめ、最後に本戦出場者へ自動配布された、サテライト・スキャン端末がストレージへ追加されていることを確認した。
「…………」
装備確認を終えたエレーナは、まだ起きてもいない状況を頭の中だけで作り上げようとして、考えるのをやめた。
死銃が誰なのかも、誰を狙っているのかも分からない。昨日の接触からキリトへ強い関心を持っていることだけは確かだが、その理由も、殺害対象として見ているのかどうかも判明していない以上、開始前に推測だけを積み重ねても誤差が増えるだけだった。今必要なのは先ほど4人で確認した行動原則だけを保持し、フィールドで新しい情報を得るたびに判断を更新することだった。
カウントダウンが一桁へ入ると、エレーナは正面へ向き直った。
壁の向こうではシノンが《ヘカートⅡ》と《H&K MP7》を、リオが《クリス・ヴェクター》、《P226》、《ツバキJ3》を、キリトが《カゲミツG4》と《FNファイブセブン》を、それぞれ確認している頃だろう。自分の《FR-X》と《MGL-140》も問題なく取り回せることを最後に確かめたところで、残り時間がゼロへ到達し、足元から白い光が一気に立ち上った。
十十十十十十十十十十
次に身体の感覚が戻った時、エレーナの周囲から総督府の金属壁も天井も消えていた。
薄く夕暮れの色を帯び始めた空の下には風化した道路と低い丘陵が広がり、その向こうにはフィールド南部を横断する巨大な河川が鈍い光を返している。
河の幅はかなり広く、見える範囲で対岸へ渡れそうな場所は遠くに見える一本の鉄橋しかなく、そのさらに向こうには山岳地帯と廃墟化した人工物が混ざり合っていた。
開始から最初の15分、4人は互いの姿を見ることなく、それぞれ別々の地域を移動した。
シノンとキリトは南部の比較的近い地域へ、リオは中央より北寄りへ、エレーナは大河からやや東側へ配置されていたが、最初のサテライト・スキャンが入るまでは当人たちに互いの位置を知る術はない。事前に決めた通り、死銃を探すためだけにフィールドを走り回ることは避け、通常の参加者から戦闘を仕掛けられた場合だけ応戦しながら、まず最初の15分を生き残ることを優先した。
エレーナも途中で一人の参加者と遭遇したものの、相手が岩陰からこちらへ銃口を向けた時点で《MGL-140》を取り出し、榴弾を落として遮蔽物から追い出したところに二射目を重ね、ほとんど動き回ることなく処理していた。積極的に撃破数を稼ぐ必要はないが、こちらを狙ってくる者を残したまま背中を向ける理由もない。戦闘を終えるとすぐに武器を収め、銃声を聞きつけた第三者が寄ってくる前に場所を変えた。
「そろそろか」
設定された15分が経過すると、サテライト・スキャン端末が短い電子音を鳴らした。
エレーナは近くにあった崩れたコンクリート壁の陰へ入り、周囲から画面を覗かれないよう身を低くしてから端末を開くと、円形のマップへ現在の参加者を示す光点が次々と浮かび上がる。まずシノン、キリト、リオの3人がまだ残っていることを確認し、それぞれの位置を記憶したあと、本戦前に注意対象として挙げた3つの名前を探した。
《Pale Rider》は南部の河川付近、《銃士X》は中央より北側、そして《Sterben》はエレーナの現在地からそう遠くない、大河の鉄橋へ向かう南岸側の地域に表示されていた。名前だけで死銃と判断するつもりはなかったものの、3人の中でも自分から最も近い位置にいる以上、確認する価値はある。
「近いな。なら、私が見るのが合理的か」
誰に聞かせるでもなく呟き、エレーナは端末を閉じた。
同じ頃、シノンとキリトの比較的近いところには《Pale Rider》が、リオの近くには《銃士X》が表示されているため、示し合わせたわけでもないのに、結果として三つの名前を四人が自然に分担するような配置になっていた。しかし、エレーナはそれ自体に特別な意味を見出さなかった。位置が近い者を確認するというだけの話であり、3人のうち誰かが死銃であると決まったわけでもない。
エレーナは《FR-X》を実体化させると、長大な砲身を肩へ預けたまま鉄橋へ向かった。
周囲が開けている河川周辺なら、自分の武器にとっては森林や廃墟より遥かに戦いやすく、もし相手が通常のプレイヤーであっても遠距離から行動を観察できる。むしろ問題は、自分が橋へ近づくほど相手からも見つけやすくなることだったため、地形の高低差と残骸を利用しながら進み、真正面から相手の最後の位置へ接近することは避けた。
それから15分後、2回目の《サテライト・スキャン》が始まった時、エレーナは鉄橋南側のたもと近くまで到達していた。巨大な鉄骨を何本も組み合わせた橋は、旧世界の交通路だったらしく、路面には錆びた車両の残骸や崩れた障害物が点在しているものの、河の上へ出てしまえば身を隠せる場所は少ない。長距離戦には適しているが、同時に対岸や周囲の高所からも狙われやすい地形だった。
エレーナは橋脚近くの残骸へ身を寄せ、二度目の端末を開いた。
シノン、キリト、リオはいずれも生存しており、《Pale Rider》と《銃士X》もまだ表示されている。しかし、15分前まで確かに鉄橋付近に存在していた《Sterben》の名前だけが、どこにも見当たらなかった。
何度も同じ場所を探す必要はなかった。
「……脱落したか」
それが最も自然な判断だった。
本戦ではプレイヤーが倒されれば、以後のサテライト・スキャンで生存者として追う必要はなくなる。15分という時間があれば、自分がここまで移動している間に別の参加者と遭遇して撃破されたとしても何の不思議もない。
エレーナは端末を閉じると、一度だけ周囲を見回した。肝心の相手が既に脱落しているなら、これ以上鉄橋周辺へ固執する意味はなく、次は他の3人の位置か、残る2名の未確認プレイヤーへ意識を移した方がいい。もっとも、既に橋の付近まで来ている以上、河を渡って中央側へ抜けた方が移動経路としても効率が良く、そのまま橋へ足を踏み出した。
夕暮れの河面を渡る風が、鉄骨の間を低く抜けていく。
エレーナは《FR-X》を抱えたまま、道路中央ではなく残骸の多い側へ寄って歩いた。射線を完全に切るほどの遮蔽物はないものの、少なくとも真正面から全身を晒し続けるよりはましであり、視線は対岸だけでなく左右の高所や河岸にも定期的に送っている。
橋の3分の1ほどまで進んだところで、エレーナは一度足を止めた。
何かが見えたわけではない、バレット・ラインも出ていない、銃声もない。
ただ、無意識に後方へ意識が引かれた。
その瞬間だった。
乾いたというより、ひどく抑え込まれた小さな発射音が遠くで鳴り、ほとんど同時にエレーナの右脇腹へ何かが突き刺さった。
「──っ」
通常弾ではなかった。
命中した場所から青白い電光が身体を走り、痛みより先に全身から一斉に力が抜ける。肩に預けていた《FR-X》が金属音を立てて路面へ落ち、右足が体重を支えられなくなったところで膝が崩れ、エレーナは咄嗟に左手をつこうとしたものの、その腕にさえ命令が届かないまま横向きに倒れ込んだ。
視界の端へ《STUN》の状態異常表示が浮かぶ。
「……電磁……スタン、弾か」
辛うじて声は出た。ただ、腕も脚も動かなかった。
エレーナは倒れた姿勢のまま、まず右手の指先を動かそうとした。それが反応しないことを確認すると、次に手首、肘、肩、左脚、右脚と順番に試し、自分の意思とアバターの運動がほぼ完全に遮断されていることを確認していく。《FR-X》は手の届くところに落ちているにもかかわらず、今の彼女にとっては10メートル先へ転がっているのと同じだった。
それでも、思考は乱れていない──まず疑問が浮かぶ。
誰が撃った?どこから狙われた?
それ以上に不可解なのは、通常弾ではなくスタン弾を選んだ理由だった。
BoBで勝つだけなら、こちらを狙撃できた時点で高威力弾を使う方が早い。
身体を麻痺させて生かしたまま動けなくするという選択には、その後で何か別の行動を行う意図があるはずだった。
その答えを探すように、エレーナは動かせる目だけを周囲へ向けた。
そこで初めて、数十メートル離れた橋上の景色に異常を見つけた。
そこだけ、背景が僅かに歪んでいる。
鉄骨の輪郭が不自然に曲がり、向こうに見える夕焼けと河面の色が、水越しに眺めたように揺れている。最初は空気の屈折かと思ったが、歪みは風景に合わせて動かず、1つの人型を形作るようにゆっくりこちらへ近づいてくる。
エレーナはそれを見つめた。
「……なる、ほど」
思い当たるものが1つだけあった。
「……あの子の装備と……同系統、か」
《メタマテリアル光歪曲迷彩》。
リオが使用しているものと全く同じ装備かどうかまでは分からない。ただ、光を歪めて背景へ溶け込む現象そのものは酷似している。
先ほど《Sterben》がスキャンから消えたことも一瞬頭をよぎったが、それだけで目の前の人物を《Sterben》だと断定することはできなかった。迷彩によってサテライト・スキャンまで欺けるのかどうかは、リオ自身の装備ですらまだ検証したことがない以上、現時点で結びつけるのは推測にすぎない。
ただし、目の前の人物が単なるBoB参加者ではない可能性だけは急速に高まった。
歪んでいた人影は、エレーナから十数メートルほどの位置で完全に姿を現した。
最初に見えたのは、身体を覆う襤褸布のようなマントだった。その内側には包帯が巻かれた腕と長い狙撃銃──昨日、キリトが話していた特徴と一致する。
男は何も言わず、スタン状態で倒れているエレーナへ近づいてきた。
走りもせず、周囲を警戒している様子すらなく、こちらが麻痺している時間を正確に把握しているかのような速度で歩いてくる。その動作には、対戦相手を仕留めようとする焦りも、敵意を示す芝居がかった威圧もなかった。
エレーナはただ相手を観察した。
昨日キリトへ接触した人物と、外見的特徴は一致する。ならば、死銃本人である可能性は高い。しかし、何故自分を撃ったのかが分からない。昨日この男が関心を示したのはキリトだった。自分に直接接触したことはなく、ましてSAO時代に会った記憶もない。こちらが追跡していたことへ気づき、単純に排除しようとしているなら理解できるが、それならスタン弾を使って接近する必要がない。
男はエレーナから数歩の位置まで来ると、肩に掛けていた狙撃銃を下げた。
代わりに取り出したのは、一丁の黒い自動拳銃だった。
エレーナの視線がそこで初めて僅かに変わった。直接見たことはなかったが、カウンセリングの過程でその銃について調べて、見覚えがあったものだった。
《黒星・54式》。
詩乃が11歳の時、郵便局強盗から奪い、その男を射殺した拳銃と同型だった。
(……偶然なのか)
エレーナの中に新しい疑問が増えた。
何故、よりにもよって今ここで《黒星》なのか。銃器の種類など無数にあるGGOで、何故よりにもよってこのモデルなのか。
ただし、それ以上を考える材料はない。
ゲーム内でこの拳銃を撃つことと、現実世界で発生した2人の死亡とを結ぶ機序も依然として分かっていない。ゼクシードと薄塩たらこの死亡時刻が死銃によるゲーム内射撃と一致していることは知っているが、アミュスフィアそのものにナーヴギアのような致死出力がない以上、画面の中で撃たれただけで現実の人間が死亡するという説明は成立しない。
だからエレーナは、目の前へ拳銃を向けられてなお、恐怖より疑問の方が先に立っていた。
この男は何をするつもりなのか。
何故、自分なのか。そして何故、即座にHPを削らず、この手順を踏む必要がある。
その答えは、思いもよらない方向から与えられた。男は倒れているエレーナを見下ろしていた視線を、ゆっくりと橋の向こうに動かした。
自分ではない──別の誰かを見ている?
エレーナも視線だけを追ったが、夕日に照らされた長い鉄橋の向こうには、崩れた車両と鉄骨、そのさらに遠くに河岸の斜面があるだけで、人影までは確認できない。
先程のサテライト・スキャンで、その方向に居たのは確か──と、エレーナが思案する中、男は徐に口を開いた。
「キリト、お前が、本物か、偽物か、これで、はっきり、する……」
エレーナは目を細めた。
そうだ。二度目のサテライト・スキャンで、あの方向に表示されていたのはキリトだ。
そして、二度目のスキャンを見たのは自分だけではない。この男も端末を持っている以上、キリトの位置を把握していて当然だ。ならば、自分をこの場所で撃ったのも偶然ではない──キリトから見える位置で狙撃したのだ。
「……あの時、猛り狂ったお前の姿を、覚えているぞ」
言葉の1つ1つを不自然なほど区切りながら、死銃は続けた。声には昨日キリトが語ったものと同じ、掠れた金属質の響きがある。
「この女を、仲間を殺されて、同じように狂えば、お前は本物だ……」
エレーナの中で、状況の意味だけが少しずつ整理されていった。
自分を倒すこと自体が目的ではない。少なくとも第一目的ではない。
自分は、キリトを試すための材料なのだ。
仲間を目の前で失わせれば、キリトは怒り、殺意を露わにし、SAO時代と同じ剣を振るう──死銃はそう考えている。
だが、その推論には大きな穴がある。
(なぜ、私なんだ)
キリトとは昨日初めてまともに協力した程度の関係だ。そもそもキリトは昨日、自分に対して明確に「怖い」とまで言っている。仲間と呼ぶには、随分と距離がある。
死銃がその事情を知らないだけなのか。
あるいは、この男にとって重要なのは実際の親密さではなく、キリトと行動を共にしていた人間が目の前で倒される、という構図に囚われているだけなのか。
「……随分と、雑な……実験だ」
スタンで身体は動かないものの、喉の麻痺は少し薄れてきたのか、エレーナは小さな声だけは出せた。
死銃の視線が初めて彼女へ落ちた。
「……私が死んだところで……君が期待する、反応を……キリトが示す保証は、ない……」
こんな状況でも口から出るのは、やはりその種の指摘だった。
死銃が何か言い返すかと思ったが、男はエレーナとの議論に興味がないらしく、僅かに首を動かしただけで再び遠方へ視線を戻した。
「……キリト、さあ、見せてみろ……お前の怒りを、殺意を、狂気の剣を、もう一度……見せてみろ……」
銃口から出たバレット・ラインがエレーナの胸へ向けられる。
バレット・ラインが見えたところで意味がない。男がこの銃を構え始めた時点でもエレーナは完全なスタン状態にあり、回避行動を取る余地そのものが存在していない。視界の中央に黒い銃口が収まっていく様子を見ながらも、エレーナの思考は相変わらず恐怖より状況の解析へ向いていた。
この拳銃で撃つ必要がある。
少なくとも男自身は、そう考えている。
ただの演出なのか?ゲームシステム上に何らかの未知の処理が存在するのか?
あるいは──ゲーム外の何かと連動しているのか?
エレーナは右手にもう一度動くよう命令を送った。指先は僅かにも動かなかった、スタン解除にはまだ時間がある。
《FR-X》は横倒しになったまま路面へ転がり、《MGL-140》も背中側に落ちている。仮に次の瞬間麻痺が解けたとしても、黒星が発射されるより先に反撃できる保証はない。
死銃はそこで、ゆっくりと十字を切った。
上から下へ。そして左右へ。
あまりにも芝居がかった儀式だったが、エレーナにはそれを嘲笑する余裕がないというより、嘲笑する理由がなかった。
行動には必ず目的があるはずであり、その目的が分からない以上、奇妙だからという理由だけで切り捨てるべきではない。
ただ1つ、不可解だった。
この男は、ここで自分を撃ち──殺せば、キリトが変わると信じている。
しかも、ただ怒る程度ではない。
殺意を、狂気の剣を、もう一度、と言った。
つまり彼は、過去にキリトがそうなった場面を知っている。
昨日のラフィン・コフィンの標章と合わせれば、その意味はほとんど1つしかない。
エレーナは倒れたまま目だけを細めた。
「……君は、あの討伐戦に……いたのか」
死銃は答えなかった。
必要な答えは、その沈黙だけで十分だった。黒星の銃口が胸の中央へ完全に重なり、人差し指がトリガーへ掛かった。
エレーナは動かない。
動けない。
それでも最後まで目を逸らすことはなく、相手の指と銃口、構え、呼吸、視線、その全てを観察し続けていた。
自分がこれからどうなるのかより、この一連の行動から何を得られるかを考えているのは、恐怖が欠けているからというより、まだ何が起きるのか理解できていないからだった。
死銃の指が、ゆっくりと引き金へ力を込めていく。
その瞬間だけ、エレーナの思考から銃の型式も、相手の目的も、これまで積み上げていた推論も消えた。根拠も、説明できる理由もない。
ただ身体のどこか、自分の意思より遥かに古いところから、確信だけが唐突に浮かび上がる。
──これは、本当に死ぬ。
直後、記憶とも呼べないほど短い光景が、脈絡もなく視界の裏側を流れた。
白すぎる天井と、横切っていく知らない顔。
誰かの指に挟まれた紙の端と、まだ自分のものだという感覚すらない4つの文字。小さな掌に残った柔らかな羽毛の感触、金属の上をゆっくり広がっていく赤、何かを確かめようとしていた自分の指先。それから、真正面に立つ大人の影と、意味だけが妙に深く残っている短い声。
どれも最後まで形を結ばず、顔も、場所も、何をしていたのかさえ確定する前に次の像へ押し流され、最後には何も残らなかった。
エレーナ自身、それが何故この瞬間に浮かんだのか考える暇すらないまま、視界を埋める黒星の銃口へ意識を引き戻された。
そして、死銃の指が引き金を絞る。
瞬間、鉄橋全体を叩き割るような銃声が1発だけ轟き、エレーナの視界が眩い白に弾けた。
所詮流星のように消える愛ならば、
最初から無い方がいい。そうして
何もかも手離した時、後に獅織と
呼ばれる少女は無上の安らぎを手に入れた。
深い夢の底、彼女を邪魔する者は誰もいない。
ただ1人のDr.を除いては。