朝田詩乃に家事全部して貰ってるクール系お姉さん   作:オズ

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Case06 銃

 

 

2025.12.14

GGO内・第3回BoB決勝戦会場・ISLラグナロク

 

 夕暮れの鉄橋を震わせる轟音が響いた瞬間、エレーナは自分が撃たれたのだと思った。

 しかし、待っていたはずの衝撃は胸に届かず、それとほぼ同時に目の前の死銃は何かを察知して上体を捻った。それでも完全には避けられず、《黒星・54式》を支えていた左腕は肩口に近い部分から赤いダメージエフェクトを撒き散らしながら吹き飛び、拳銃もろとも数メートル先の車の陰に転がっていった。

 

 対物狙撃銃の一撃だった。

 あの威力を、エレーナは1つしか知らない。

 

「……シ、ノン……」

 

 名前を呼んだ声は、エレーナ自身驚くほど弱かった。電磁スタン弾によって四肢へ送る運動命令を断ち切られているだけではなく、つい数秒前まで本当に死ぬと思った感覚が、撃たれなかったと理解した後も身体の中に残っていた。

 

 対物狙撃銃の一撃を貰ってもなお、死銃の動きは止まらなかった。

 腕を一本失った直後とは思えない速度で橋面を転がり、右手で《黒星・54式》を拾い上げて腰へ戻すと、そのまま残骸となった大型車両の陰へ身体を滑り込ませた。続けて背負っていた長大な《L115A3》を右腕だけで引き寄せ、銃を路面と車体へ預けるようにして保持する。先ほどまで装填されていた電磁スタン弾のマガジンを外し、別の弾倉へ交換する動作にはさすがに時間を要したが、一本の腕だけで行っているにしては恐ろしく淀みがない。

 ほどなく減音器で抑え込まれた低い発射音が橋上へ響き、その直後、遠方から再び《ヘカートⅡ》の咆哮が返ってきた。

 

 二丁の狙撃銃が、鉄橋を挟んで撃ち合い始めた。

 死銃の《L115A3》から放たれた弾丸が遠方の斜面を抉り、《ヘカートⅡ》の大口径弾が死銃の隠れた車両を貫通して後方の鉄骨へ火花を散らす。元々シノンの一発目は、死銃を胴体ごと吹き飛ばすためのものだったはずであり、それをバレット・ラインすら表示されていない状況から反応して腕一本で済ませた時点で、相手の反射とVR内での身体操作が尋常ではないことは明らかだった。二発目以降は互いの存在を認識した狙撃戦となり、死銃も身体を晒す時間を最小限に抑えながら撃ち返すため、シノンも簡単には決定打を入れられないようだった。

 

 その中心で横たわったまま、エレーナは何度も指を動かそうとしていた。

 近くにはスタン弾を受けた時に取り落とした《MGL-140》が転がっているが、右手へ力を入れても指先は痙攣するように僅かに震えるだけで、腕を持ち上げることさえできない。

 

「っ、動かないか……」

 

 誰に聞かせるでもなく漏れた声の直後、橋の南側から別の銃声が連続して響いた。

 

「エレーナ!!」

 

 車両の残骸を飛び越えて現れたのはキリトだった。左手に握った《FNファイブセブン》を走りながら死銃の潜む方向へ向け、精密射撃で倒そうとするのではなく、遮蔽物から顔を出す暇を与えないよう短い間隔で弾丸を送り込んでいる。5.7ミリ弾では長距離にいる死銃を仕留めることは難しいが、狙撃銃は一瞬でも照準を乱されれば価値が大きく落ちるため、今のキリトが必要としているのは命中することではなく、エレーナへ近づく数秒の猶予だった。

 

「大丈夫か!?」

 

「……スタンだけ、だ。まだ……脚が──」

 

 キリトはそんな彼女を一瞬だけ見て表情を硬くすると、身を隠すことなく連続で死銃に《FNファイブセブン》を撃ち込む。

 

 そこへ再び《ヘカートⅡ》の轟音が響いた。

 今度は遠方の固定射点からではなかった。夕陽を背負って橋に駆け込んできたシノンが、重量級の対物狙撃銃を両腕で抱えたまま、走る勢いの中で銃身を持ち上げ、一瞬だけ足の運びを整えたところで撃っていた。普通ならば立ち止まって姿勢を安定させなければまともな精度など出ない武器を、身体の動きが最も小さくなる一瞬に合わせてランニングスナップショットに近い形で撃ち、死銃が頭を出そうとした車体の上端を丸ごと吹き飛ばす。

 そのまま数十メートルを一気に詰め、キリトが《FNファイブセブン》で相手の顔を上げさせない間にエレーナのいる位置まで到達すると、まず倒れている彼女の顔を見た。

 

「エレーナ!大丈夫!?」

 

「……すまない、助かった……」

 

 その答えを聞いた瞬間、シノンの胸の奥で、それまで無理やり押さえ込んでいたものが一気に緩んだ。

 遠方のスコープ越しに《黒星・54式》がエレーナの胸に向けられ、十字を切った男の指が引き金へ掛かった時、身体は考えるより先に《ヘカートⅡ》を撃っていた。あの黒い拳銃を視界へ入れた瞬間には、現実の郵便局で聞いた銃声も、床へ広がった血も、男の顔も確かに記憶の底から浮かびかけた。それでも今度は、それに呑まれるより先に「エレーナを撃たせてはいけない」という一つの意識が全部を押し退けた。

 

 もし間に合わなかったら、と考えたのは撃った後だった。

 

 エレーナが──九重零奈が消える。

 現実に戻っても、隣の部屋にはもういない。

 夕食を作って持っていっても、研究資料に埋もれた机の前からぼそぼそと返事をする人間はいない。放っておけば食事を忘れ、片づければ勝手に場所を変えるなと言い、結局はシノンが作った料理を黙って食べる、面倒で、不器用で、年上の癖にだらしなく、それでも自分が苦しい時にはいつも隣へ座っていた人間が、明日から突然いなくなる。

 

 友達が死ぬのが嫌なのは当然だ。

 隣人を失いたくないのも当然だ。

 そう考えれば、この胸の奥を掴まれるような恐怖には十分な説明がつくはずだった。

 

 なのに、どうしてもそれだけでは足りない気がした。自分でも名前をつけられない何かが、既に日常の中で随分大きく育っていたことだけを、シノンはこの時初めてぼんやりと感じていた。けれど、それが何なのかを考える余裕など今はなく、とにかく目の前のエレーナをここから連れ出すことしか考えられなかった。

 

「キリト!あと少し抑えて!」

 

「了解!」

 

 シノンは《ヘカートⅡ》をストレージへ収納すると、視線を足元へ走らせ、エレーナが落とした《MGL-140》を拾い上げた。普段からエレーナが使っているところを何度も見てきたため、操作の基本は把握している。シリンダーへ残った弾数を確認し、死銃が潜んでいる残骸へ銃口を向けたものの、直接撃つのではなく橋面にほとんど水平になる浅い角度を取った。

 

「これ、全部榴弾?」

 

 問いかけると、エレーナは静かに頷いた。

 

「ああ……跳弾させるなら、距離を見誤るな……」

 

「分かった」

 

 ぽん、と軽い発射音が響き、最初のグレネード弾は死銃よりかなり手前の路面へ落ちた。

 しかしそれは失敗ではなく、まだ信管が作動する前に橋面へ当たって小さく跳ねると、金属片やアスファルトの凹凸に軌道を乱されながら残骸の奥へ転がっていく。二発目は少し右へ、三発目はさらに奥へ送り込み、死銃が安全に身を出せる場所を1つずつ潰していった。

 

 最初の爆発で廃車の側面が持ち上がり、二発目が橋面を抉って大量の破片を撒き散らし、三発目の爆炎が複数の車両をまとめて包み込んだ。連続する爆発は死銃を倒すためというより、視界と射線を奪うための煙幕に近く、橋上に黒煙と粉塵が一気に広がる。

 

「今よ!」

 

 シノンは空になりかけた《MGL-140》をキリトに投げると、エレーナの身体に両腕を回した。しかし肩を貸して歩かせようとした瞬間、エレーナの膝から力が抜け、危うく2人まとめて倒れかける。

 

「……っ、まだ足が……」

 

「分かった。じゃあこっち」

 

「まてシノン、重量が──」

 

「黙って」

 

 有無を言わせず、シノンは片腕をエレーナの背中へ、もう片方を膝裏へ差し入れ、そのまま身体を持ち上げた。

 普段ならエレーナが何か一言くらい言いそうなものだったが、今はそれさえなかった。身体を持ち上げられた瞬間に僅かに眉を寄せただけで、そのまま片腕がシノンの肩へ弱く触れる。アバターを抱えているため軽いとは言えなかったものの、重い《ヘカートⅡ》を扱うために確保しているSTRによって、移動できないほどの過重にはならない。

 

「……すまないな」

 

 耳元で聞こえた声があまりにも小さく、シノンは一瞬返事を忘れた。

 いつもなら他人の状態を見て、休め、食べろ、無理をするなと理屈を並べる女が、今は自分の腕の中で力なく身体を預けている。浅い呼吸に合わせて胸が僅かに上下し、時折遠くを見るように瞳の焦点がずれる。それを見るだけで、シノンの腕には無意識に力が入った。

 

「謝らなくていいから。絶対落とさない」

 

「……そうか」

 

 返事はそれだけだった。

 キリトはエレーナの《FR-X》を拾って肩へ担ぎ、受け取った《MGL-140》を右脇へ抱え込むと、空いた左手には《FNファイブセブン》を残したまま2人の後方へ回った。これだけの武装を抱えた状態で全力疾走するのは無茶に近いが、コンバートしたSTR高めのアバターであることが功を奏した。

 

 3人が橋の北側へ向かって動き始めた直後、黒煙の奥から《L115A3》が一発だけ火を噴き、キリトのすぐ脇にあった鉄製の欄干が弾け飛んだ。片腕を失ってなお追撃できる死銃の異常な執念に、キリトは歯を食いしばりながら左手の《FNファイブセブン》を煙の中へ撃ち返したが、その時、橋の反対側からさらに別の発砲音が重なった。

 

 乾いた、しかし狙撃銃よりずっと重く短い散弾銃の音だった。

 

 煙が薄くなった隙間を通して、青と白を基調とした軽装の戦闘服に身を包み、黒いフルフェイス型のヘルメットを被った細身のプレイヤーが橋へ飛び込んでくるのが見えた。手にしているのはアルミ材を多用したような銀色の細い銃身を持つ古風なショットガンで、男は片腕を失い、黒煙の中から姿を出したボロマントのプレイヤーを見つけるなり、相手が何者なのかなど確かめもせずに一気に距離を詰め、散弾を浴びせている。

 恐らく爆発と狙撃戦の音を聞いて近づいてきた本戦参加者なのだろうが、今の3人に彼の正体を確認する余裕はなかった。

 

「キリト、行くわよ!」

 

「ああ!」

 

 散弾の乾いた銃声を最後に、3人はその新手へ橋上の戦闘を押しつける形で離脱した。

 

 鉄橋を渡り切ると、それまで四方へ開けていた景色は少しずつ変化していった。

 大河沿いには旧世界の物流施設だったらしい巨大な倉庫が何棟も崩れた姿で並び、その間を縫うようにひび割れた幹線道路が北へ続いている。夕陽は既に山の稜線へ半分ほど沈み、河面へ伸びていた橙色の光も徐々に赤黒く変わり始めていたが、遠く中央に見えていた廃墟都市だけは、薄暗くなった空を背景にするとむしろ巨大さを増したように見えた。

 道路沿いの草地を抜けるにつれて倉庫は低層の住宅跡へ変わり、それもやがて崩れた高架道路や広告塔、高層建築の残骸へ置き換わっていく。都市の外縁へ近づくほど遮蔽物が増え、遠距離から真っ直ぐ狙撃される危険も減っていったため、3人はようやく速度を少し落とすことができた。

 

 それでもシノンはエレーナを下ろさなかった。

 

「……もう、歩けるはずだ……スタンは……解除され始めている」

 

「じゃあ完全に戻ってから」

 

「シノン……」

 

「駄目」

 

 短く言い切ると、それ以上の反論を許さないように前を向いた。

 エレーナも今は長い理屈を返す気力が残っていないらしく、小さく息を吐いて目を閉じた。その頭がほんの僅かにシノンの胸元へ寄り、腕の中へ完全に体重を預けてくる。その瞬間、シノンの胸がまた妙にざわつき、反射的に腕の中の身体を抱き直した。

 

 中央都市に入る頃には空の赤みもほとんど消え、ビルの谷間には早くも夜の色が溜まり始めていた。かつてニューヨークのような巨大都市だったという設定なのか、幅の広いメインストリートには高層ビルが何列も立ち並び、舗装の割れ目から伸びた雑草と、銃撃戦の遮蔽物として意図的に配置された大量の廃車が道路を複雑な迷路へ変えている。

 

 その一角まで入ったところで、エレーナはようやく自分からシノンの腕へ手を置いた。

 

「一度、下ろしてくれ」

 

「本当に立てる?」

 

「ああ……スタンの効果は切れている」

 

 シノンはしばらく迷ったものの、結局は崩れたビルの壁際でゆっくりエレーナを下ろした。

 脚が地面へ着いた瞬間、エレーナの膝は僅かに揺れたものの、壁に肩を預ければ立っていられる程度には回復している。しかし普段のような無表情には程遠く、顔には僅かな疲労が残り、何か話そうとするたびに一度呼吸を挟まなければ言葉が続かなかった。

 

「……助かった。本当に」

 

「何よ、改まって」

 

「礼くらい言わせてくれ。あれは……君がいなければ……」

 

 そこまで言ったところでシノンはエレーナを睨みつけた。その先を言わせたくなかった。

 

「いい。言わなくて」

 

「だが──」

 

「分かってるから」

 

 シノンはそれだけ言うと、エレーナの横へ立ったまま離れなかった。

 

 ちょうどその頃、次のサテライト・スキャンの時刻が訪れ、3人の端末がほぼ同時に反応した。マップ上へ生存者たちの光点が広がる。キリトはまずリオを探し、中央都市内、それも自分たちから数ブロック程度しか離れていない位置へ《RIO》の名を見つけ、その少し先には《銃士X》が表示されていた。

 

「近い」

 

「リオ……まだ追ってるのね」

 

「合流しよう。死銃に追われているかも知れない以上、今は離れるのは危険だ」

 

「じゃあ俺が前を警戒するから、2人はバックアップをよろしく」

 

 キリトが先行して交差点を確認しながら進み、2人は廃車や崩れた店舗の軒先を利用してその後を追う。数ブロック移動したところで、遠くの路地から短機関銃の連射音が聞こえ、その直後、灰白色の外套を翻したリオが建物の二階から道路へ飛び降りてきた。

 

「エレーナ!」

 

 いつもの勢いで駆け寄ろうとしたリオは、数歩進んだところで急に速度を落とした。

 エレーナの脇腹にスタン弾の命中痕が残っていること、何よりやや消耗していることを見ただけで、何かあったと理解したらしい。

 

「……どうした?」

 

「死銃に撃たれた」

 

 キリトが簡潔に答えた。

 

「撃たれた!?」

 

「スタン弾。今はもう動ける。ただ、そのあと……」

 

 シノンは一瞬だけ言葉を選んだものの、隠しても意味はないと判断した。

 

「……黒星を胸に向けられた。私が撃たなかったら、多分そのまま引き金を引かれてた」

 

 リオは動かなくなった。

 数秒、本当に意味を理解できていないような顔でエレーナを見つめ、それから恐る恐る近づくと、相手がちゃんとそこにいることを確かめるように腕へ触れた。

 

「……それって」

 

 声が震えた。

 

「アイツが撃った奴、リアルでも死んだってやつだろ?」

 

「ああ……」

 

 エレーナの返事は弱かった。

 

「じゃあ……エレーナも……」

 

 そこで言葉が切れた。

 次の瞬間、リオの顔がぐしゃりと歪んだ。

 

「やだ……」

 

 ぽろりと涙が落ちた。

 

「アタシ、そんなのやだぁ……」

 

 自分が泣いていることへ本人が気づくより早く、次から次へと涙が溢れ始めた。慌てて袖で拭おうとしても追いつかず、やがて悔しそうに歯を食いしばると、悲しみの行き場がそのまま怒りへ変わったように振り返る。

 

「アイツどこだ!?」

 

「リオ」

 

「アタシが斬る!今すぐ見つけて、ぶっ飛ばして──」

 

「リオ、待て」

 

「待てない!」

 

 剣へ伸ばした手を、エレーナが掴んだ。

 普段なら力で止められるはずもない相手だったが、リオはその手を振り払わなかった。むしろ、エレーナの指に力が入っていないことに気づいてしまい、さらに泣きそうな顔になる。

 

「今、行けば君も危険だ。相手の殺人の方法がまだ分からない」

 

「でも!」

 

「私はここにいる。まずそれを見ろ」

 

 エレーナは視線をリオから外さなかった。

 

「分かってる!」

 

「なら今は、怒りより奴を止める方が先だ」

 

「……うぅ……」

 

 リオは唇を噛み、しばらくエレーナの手を握ったまま俯いていた。それでも最後には剣から手を離し、代わりにエレーナの服の裾を掴んだ。

 

「もう死ぬなよ……!」

 

「分かった……」

 

 珍しく何か言い返すことなく素直に引き下がったエレーナを見て、リオは余計に心配そうな顔をした。それはシノンも同じだったが、今はそれを口にすることはなかった。

 

 4人が揃ってしばらくは、都市中心部を避けながら北側に抜ける経路を選んで移動した。

 エレーナは鉄橋で見た光歪曲迷彩らしき現象についても共有し、何もない空間が歪み、そこからボロマントの人影が現れたことを説明すると、リオが自分の灰白色の外套を摘まんだ。

 

「アタシのこれと似てたのか?」

 

「……見え方はかなり近かったな。同じものとは限らないが」

 

「まさか、それで死銃は衛星から消えたのか?」

 

 キリトが訊くと、エレーナは少し考えてから首を振った。

 

「まだ断定しない方がいい。《Sterben》が消えたことと、あの男が迷彩を使ったことを結ぶ証拠はない」

 

「分かった。可能性だけ覚えておく」

 

「ああ……それでいい」

 

 エレーナの返事が終わった直後だった。

 大通りの向こうから減音された狙撃銃の発射音が響き、4人のすぐ横にあった建物の壁面が大きく砕けた。

 

「──狙撃だ!伏せろ!」

 

 エレーナの短い声とほぼ同時に全員が近くの車の陰に飛び込んだ。シノンは《ヘカートⅡ》をウィンドウから実体化させて持つとビルの角から一瞬だけスコープ越しに撃たれた方向を確認し、すぐに引っ込める。

 

「いる。ボロマント、いや──死銃が」

 

「やっぱり追ってきたか……」

 

 エレーナは思案する。

 数で勝っているとはいえ、死銃の《L115A3》とこの距離でまともに撃ち合えるのは《ヘカートⅡ》を持つシノンと光学砲《FR-X》を持つ自分だけだ。加えて、相手が現実世界で人を殺せる方法を持っている以上、仕組みが分からないまま撃ち合いに持ち込ませるのは危険だ。

 

「……撤退する。今は戦う条件が悪い」

 

「どこへ?」

 

 シノンの問いに、キリトが道路脇に停まっているバイク型のバギーを見つけた。

 

「そうだ、アレを使おう!!」

 

 錆びた外見こそ旧世界の廃車に見えるが、近づけば乗車可能を示す小さなシステム表示が浮かび上がる。キリトが運転席へ滑り込み、助手席と後部座席へエレーナ、シノン、リオが乗り込むと、バギーは三本のタイヤを激しく空転させながら大通りへ飛び出した。

 

 都市部の景色は凄まじい速度で後ろへ流れていった。高層ビルの谷間を抜け、廃車を避けるたびに車体が大きく左右へ振られ、路面へ空いた亀裂を踏み越えるたび4人の身体が座席から跳ね上がる。夜が近づくにつれてビルの窓は暗い板のようになり、青や赤の壊れかけたネオンだけが流線のように視界を横切っていく。やがて高層建築の数が減り、巨大な倉庫や工場跡へ変わり、それも過ぎると視界の先には人工物の少ない荒野が広がり始めた。

 中央都市の外周から北へ進むほど地面は乾燥し、草はまばらになり、赤茶けた岩と砂地の割合が増えていく。遠方には侵食された岩山がいくつも影のように立ち、その間には夜の訪れを待つ砂漠がどこまでも続いていた。

 それでも、後方から聞こえる金属音は離れなかった。

 

「……何だ、あれ!?」

 

 リオが後ろを振り返り、思わず声を上げた。

 都市から伸びる道路の向こうを、一頭の巨大な機械馬が追ってきていた。金属製の四肢が路面を打つたび火花が散り、車両とは異なる上下動を伴いながら、それでもバギーに負けない──いや、バギーよりも速い速度で距離を詰めてくる。その背には一定時間が経過したことで左腕を取り戻した死銃が跨がっていた。

 

「ロボットホース……!?」

 

 シノンが目を見開く。

 

「そんなのがあるのか?」

 

 キリトの問いに、シノンは後ろを見たまま答える。

 

「一応。でも操作が難しすぎるの。乗馬経験と相当な練習とスキルがないと、まともに走れないはず。まして、まだGGOはサービス開始8ヶ月よ?乗馬経験を積むなんて──」

 

「……SAOなら、馬はいた」

 

 キリトが呟いた瞬間、シノンの表情から僅かに残っていた疑問が消えた。

 アインクラッドには馬をはじめとする騎乗可能なモンスターや移動手段が存在しており、二年間をあの世界で生きたプレイヤーなら、少なくともGGOが始まってから8ヶ月しか経っていない現在のプレイヤーより遥かに長い経験を持っていても不思議ではない。

 

 エレーナは助手席から後方を一度だけ確認した。スタンによる痺れは完全に抜けており、先ほどまでシノンに抱き上げられていた時のような弱さは声にも残っていない。それでも脇腹には電磁スタン弾を受けた痕跡があり、身体を捻るたびに薄い違和感が残るため、完全にいつも通りとは言い難かった。

 

「シノン。馬を落とせるか?」

 

「任せて」

 

 返事に迷いはなかった。

 シノンは後部座席で《ヘカートⅡ》の長大な銃身を後方に向けた。リオがすぐに意図を察し、シノンの腰と肩を後ろから支える。4人が乗った三輪バギーは決して安定した射撃台ではなく、前輪が舗装の亀裂を踏むたびに車体全体が跳ね、廃車を避けるたびに銃口が大きく左右へ振られるため、通常の狙撃姿勢からは程遠い。

 

 彼の腰には、あの黒い拳銃が戻っている。

 《黒星・54式》。

 

 視界の隅へその輪郭を認識しただけで、胸の底へ冷たいものが滑り込むような感覚は確かにあった。現実の郵便局で聞いた破裂音、倒れた男、床へ落ちた薬莢、自分の手の中で異様に重かった拳銃──そうしたものが記憶の奥から浮かびかけるたび、以前なら《シノン》という仮想の自分へ逃げ込むことで切り離してきた。

 

 しかし今は、自分がそれをやっていたことを知っている。

 ゲームの中で強くなれば現実の詩乃まで強くなると信じ、いつしか強い《シノン》と弱い《朝田詩乃》を別々のもののように扱ってきた。けれど、先ほどエレーナへ向けられた黒星を見ながら撃ったのも自分であり、今トリガーへ指を掛けているのも同じ自分だった。

 

 怖くなくなるまで待つ必要はない。

 エレーナもそうだった。怖いものや消えない記憶を抱えたまま、それでも今必要なことをする。それなら、今の自分にもできる。

 

「リオ、もう少し強く押さえて」

 

「こうか?」

 

「そう、そのまま」

 

 バレット・サークルが機械馬の胴体を中心に広がっては縮み、バギーの振動を拾うたび再び大きく膨らむ。シノンは焦って収束を待とうとせず、まずキリトの運転そのものを観察した。

 左へ避ける、直進する、右へ切る、また直進する。その周期を二度見ただけで、次に車体の横揺れがもっとも小さくなる瞬間を予測する。

 

「キリト、そのまま三秒真っ直ぐ!」

 

「了解!」

 

 キリトは前方の廃車へ衝突するぎりぎりまでハンドルを固定した。

 

 揺れが消える。

 シノンは一切躊躇せず引き金を引いた。

 

 《ヘカートⅡ》の砲声が夜へ移りかけた大気を殴り、巨大な弾丸が後方へ伸びる道路を一直線に駆け抜ける。次の瞬間、ロボットホースの右前脚が関節部から弾け飛び、金属片と火花を撒き散らしながら道路へ転がった。

 

「当たった!」

 

 リオが歓声を上げたが、シノンは既に次弾を装填している。

 死銃は落馬しなかった。前脚を一本失った機械馬が大きく傾いた瞬間、身体を反対側へ移して無理やり重心を戻し、残る三本の脚だけで走行を継続させる。その操作を見ただけでも、ただ乗れるという程度ではないことが分かる。

 

「まだ!」

 

 即座に二発目。今度は機械馬の胸部へ大口径弾が突き刺さった。

 装甲板が内側から爆ぜ、青白い火花が大量に噴き上がる。ロボットホースは数歩だけ無理やり走ったものの、そのまま前方へ大きく沈み込み、舗装路へ転倒した。

 

 死銃だけは、倒れる直前に飛んでいた。

 黒い外套が横へ投げ出され、道路を何度も転がったあと、廃車の陰へ滑り込むのをシノンはスコープ越しに確認した。

 

「ちっ、本人は無事みたい」

 

「だが十分だ。距離を確保できる」

 

 その声を聞いてキリトはアクセルをさらに開き、4人を乗せたバギーは中央都市を完全に抜け、暗い荒野へ飛び出した。

 

十十十十十十十十十十

 

 舗装道路そのものが途切れ、車輪の下を流れる景色は赤茶色の土から細かな砂へ変わっていく。

 都市の高層建築は振り返らなければ見えないほど遠ざかり、その代わりに行く手には風化した巨大な岩柱や、何層もの地層を剥き出しにした岩山が増えていった。空を覆う厚い雲は完全な星空を許さず、地平の向こうに僅かに残った黄昏と、フィールドの環境光だけが砂丘の稜線を青黒く縁取っている。GGOの荒廃した地球という世界設定をもっとも強く感じさせる地域であり、人間の残した都市から離れるほど、音も色も急速に失われていった。

 

 シノンは後方を警戒し続けながら、やがて右手側へ連なる岩山の1つを指した。

 

「あそこ、奥に洞窟がある。入ったらスキャンを受け取れなくなるけど、その代わりスキャンにも映らなくなるから、奴の追跡を巻けるわ」

 

「同意する。車両は入口から離して捨てよう」

 

 エレーナの指示でキリトは岩山の北側まで回り込み、大きな岩塊の陰にバギーを止めた。タイヤ跡までは消せないが、少なくとも車体そのものを洞窟の前へ置くよりは遥かにましだった。

 

 4人はそこから徒歩で岩山へ入り、細い亀裂のような入口から洞窟内部へ潜り込んだ。

 数十メートルも進むと外の風は完全に遮られ、代わりに足音だけが硬い岩壁へ何度も反響する。さらに奥へ入ったところで端末の受信表示が消え、外からサテライト・スキャンで捉えられなくなる代わりに、自分たちもフィールド上の情報から切り離された。

 

 そこでようやく、4人は足を止めた。

 それぞれが短い休息を取った後、話題は当然《死銃》へ戻った。

 

「まず確認するけど、アミュスフィア自体から人を殺す方法は本当に無いんだよな?」

 

 キリトの問いに、エレーナは岩壁へ背中を預けたまま首を横へ振った。

 

「既知の仕様からは説明できない。ナーヴギアのように高出力の電磁波を発生させる機構もないし、ゲーム内の被弾処理から現実の人体へ致死的な作用を起こす経路も存在しないはずだ」

 

「なら、本当に超能力とか……呪いとかか?」

 

 リオが言うと、エレーナが一度だけ視線を向けた。

 

「……その仮説を採用するのは、既知の可能性を全て排除してからでも遅くない」

 

「つまり、まだ何かあるの?」

 

 シノンが訊いた。

 キリトは顎先を指でなぞりながら、しばらく黙っていた。ゼクシードと薄塩たらこはGGOの中で黒星に撃たれ、そのほぼ同時刻に現実でも死亡している。そのため最初から「仮想世界から現実世界を攻撃する方法」があるものと思い込み、その前提のまま考え続けていた。

 

「……そもそも」

 

 キリトが顔を上げた。

 

「俺たちって、こっちに来てるわけじゃないんだよな」

 

「……何?」

 

「意識が仮想世界へ移動して、身体だけリアルに残ってる……って感覚になるけど、本当は違う。現実の脳がアミュスフィアから送られてくる信号を、この世界の映像とか音とか触覚として受け取ってるだけだ。俺たちの身体も脳も、最初から……ずっとリアル側にある」

 

 シノンの表情が変わった。

 その言葉は《死銃》の謎についてであると同時に、別の何かを自分へ突きつけてくるようにも聞こえた。

 

 《シノン》がここにいて、《詩乃》が現実に残っているわけではない。

 最初から同じ1人の人間だった。

 

「……だったら」

 

 シノンがゆっくり言う。

 

「リアルの身体を、殺せばいい……?」

 

 洞窟の中が静かになった。

 エレーナの目が僅かに細くなる。

 

「なるほど、そうか……」

 

 エレーナは膝の上へ片腕を置きながら、今までの情報を整理するように続けた。

 

「……ゲーム内の実行役が、標的に黒星を撃つ。そして同じ時刻に、現実側の共犯者がダイブ中のプレイヤーに致死的な何かを行う。標的がフルダイブ中であれば、部屋へ侵入されても気づくことはできない」

 

「……でも、住所は?」

 

 シノンが眉を寄せた。

 そこまでの推理がどれほど綺麗に繋がっていても、現実側の実行役が標的の部屋へ侵入するためには、少なくとも標的が現実のどこでダイブしているのかを知っていなければならない。ゼクシードたちが自分から住所を公開していたとは考えにくく、GGOのプレイヤーネームから現実の個人情報を割り出せるのであれば、それは《死銃》の殺害手段とは別に大きな問題になる。

 すると、それまで難しい顔で3人の会話を聞いていたリオが、ふと何か思いついたように顔を上げた。

 

「……なあ、それって」

 

 珍しく遠慮がちな切り出し方だったため、3人の視線が一斉に集まる。リオは自分が何か変なことを言おうとしているのか不安になったらしく、一度頬を掻いてから、それでも思いついたことをそのまま口にした。

 

「住所って、昨日みたいに総督府の端末で入れたんだろ?」

 

「そうね」

 

「じゃあ、そこ見てればいいんじゃないのか?」

 

 シノンが一瞬黙った。

 思考の海に沈みながら話を聞いていたキリトも、顎先へ当てていた指を止める。

 

「……見てるって、どういうことよ?」

 

「いや、だからさ。アイツ、消えるマント持ってるんだろ?エレーナ撃った時も、何もないとこから出てきたんだよな?」

 

「ああ」

 

 エレーナが短く答えると、リオは自分の灰白色の外套を摘まんだ。

 自分の装備と同系統らしいものを死銃が使っていたことは既に聞いているため、その発想自体は彼女にとって単純だった。

 

「だったら、端末の後ろから見てりゃいいんじゃないのか?アタシのこれだって、ちゃんと隠れたら目の前にいても結構分かんないぞ。皆んなが住所とか名前とか入れてる時に、後ろから覗いてたんじゃないのか?」

 

 言い終えた本人だけが、「違ったか?」と首を傾げていた。

 

 しかし、誰もすぐには否定しなかった。

 むしろ洞窟の空気が、それまでとは違う種類の重さを帯びた。

 

 BoB参加登録のために使用した端末は、個人メニューのように本人以外から完全に不可視に出来るものではなく、通常のゲーム内端末として目の前へ情報を表示する。

 短時間の入力を終えるだけなら、周囲の参加者全員を警戒しながら操作する者などほとんどいないし、そもそも「透明になった人間が背後から現実情報を読んでいる」という前提そのものを持っていなければ、対策する理由すらない。

 

 キリトがゆっくり顔を上げた。

 

「……あり得る」

 

「え、ホントか?」

 

 言ったリオ本人が一番驚いたようだった。

 

「というより、今のところかなり筋が通るわね。プレイヤーネームを確認してから、その人間が登録端末を使うところを尾行する。光学迷彩で接近して、住所を覗く……それならゲームの外でハッキングする必要もない」

 

 シノンはそう呟きながら、総督府の端末へ現実情報を入力した時の光景を思い返し、周囲に怪しい人影がいなかったかを記憶から掘り起こそうとする。しかし、見えていなかった相手を思い出せるはずもない。

 

「しかも、死銃がターゲットにしたい奴だけ見ればいいわけだ」

 

 キリトが続ける。

 

「ゼクシードも薄塩たらこも、前から有名なプレイヤーだった。最初から殺す相手を決めてたなら、その2人の入力だけ盗み見れば済む」

 

「……待って」

 

 シノンの声が変わった。

 ほんの少し前まで推理の中にあった冷静さが消え、何か別のことへ気づいたようにエレーナを見た。

 

「登録……エレーナもやったわよね」

 

「ああ」

 

「住所も?」

 

「……入力した」

 

 その返答を聞いた瞬間、シノンの顔から血の気が引いた。

 

 鉄橋で黒星を向けられていたエレーナ。

 もし黒星の発砲と現実側の殺害が同期しており、なおかつ住所を登録端末から盗み見ていたのだとすれば、話は大きく変わる。あの男がエレーナへ拳銃を向けた時点で、現実側でも何らかの準備が整っていた可能性がある。

 

「……じゃあ」

 

 シノンの声が掠れた。

 

「今、零──……エレーナの部屋に」

 

 現実の名前を口にしかけ、ぎりぎりで飲み込む。正確にはエレーナとリオの部屋であるが、そこも口にはしなかった。

 

「共犯者がいるかもしれないってこと……?」

 

 誰もすぐには答えなかった。

 断定する材料はない。けれど、否定する材料もなかった。

 

 エレーナ自身もそこで初めて完全に黙り込み、数秒前まで状況を分析していた視線を岩床へ落とした。何かを思い出すように目を細め、それからほんの僅かに眉間へ皺を寄せる。その変化は小さかったが、シノンには分かった。

 

「エレーナ?」

 

「……油断した」

 

 エレーナの声はとても低いものだった。

 

「え?」

 

「私の部屋は現在、玄関の電子錠以外に追加の防犯措置を取っていない」

 

 衝撃のカミングアウトに、シノンは冷静さを失いそうになりながら問いかける。

 

「ちょ、ちょっと待って。金属錠は?」

 

「忘れたな」

 

「チェーンは?」

 

「使っていない」

 

 聞くたびにシノンの表情が険しくなっていった。

 

「な、何やってんのよ!?」

 

 洞窟の中へ声が響いた。

 リオがびくっと肩を揺らし、キリトまで思わず2人を見る。

 

「前に私へ散々言ったじゃない!玄関は電子錠だけじゃなくて金属錠も使え、ダイブする時はチェーンも掛けろ、って!それで、自分は何もしてないの!?」

 

「……反論できないな」

 

 シノンがここまで激しく怒る理由を、キリトは少し不思議そうに見ていたが、エレーナだけは意味を理解していた。

 以前、現実世界で下校中の詩乃の周囲を不自然について回る人影を見かけたことがあり、それ以来、彼女の住居については防犯を強化するようかなり細かく指示していたのである。

 

 金属錠や電子錠だけに頼らず、就寝時やダイブ時にはチェーンを掛ける。窓やベランダ側も忘れず施錠し、不審な気配があれば1人で確認しに行かない──それらを繰り返し言い聞かせていた張本人が、自分の部屋ではほとんど同じ対策を取っていなかった。

 

「私はやってるわよ?電子錠も金属錠も、チェーンもしてる。窓も閉めた。前にエレーナが、変なのにつけられてるかもしれないって教えたから、それからずっとそうしてる」

 

「それなら君の部屋への侵入難度は比較的高い。少なくとも君が──」

 

「エレーナの部屋は!?」

 

 エレーナは一度口を閉じた。

 

「……低いな」

 

「低いな、じゃないわよ!」

 

 シノンの声は怒っていたが、その根にあるものが恐怖であることは誰にでも分かった。鉄橋で一度失いかけたばかりなのだ。あの時は自分の《ヘカートⅡ》が間に合った。しかし現実世界の部屋に誰かがいるのなら、今度は銃弾を撃って助けることもできない。

 

「どうして自分だけやってないのよ……私にはあれだけ言ったのに」

 

「……そうだな」

 

 シノンも流石に勢いが少しだけ落ちた。

 エレーナも今度は言い訳をしなかった。

 

「明確な失策だ」

 

 そこで一度言葉を切り、珍しく少し長く考えるような間を取った。

 

「今の生活環境を、安全なものとして扱い過ぎていた」

 

 それ以上、自分が何故そうなっていたのかまでは語らなかった。

 

 シノンもそこを追及する余裕はなく、代わりに自分の現実の部屋と、そのすぐ隣にあるエレーナの部屋を頭の中へ思い描いた。薄い壁一枚を隔てた距離しかない。現実でなら数歩歩けば玄関へ着く。それほど近いところにエレーナの身体が横たわっているはずなのに、今のシノンには壁の向こうで何が起きているのか確認する方法がない。

 その事実を意識した途端、鉄橋で《黒星》がエレーナの胸へ向けられた時とはまた別の種類の恐怖が胸の奥へ広がった。

 

 そんなシノンの様子を横目に見ながら、キリトは再び顎先へ指を当てた。住所を盗み見る方法までは、リオの思いつきによって一応の筋道ができた。そうなると次に考えなければならないのは、現実側の共犯者がダイブ中の人間をどうやって殺し、それを単なる突然死に見せかけたのかという部分だった。

 

「でもさ……」

 

 キリトは考えながら、ゆっくりと言葉を選んだ。

 

「部屋へ入れたとしても、銃とか刃物を使ったらすぐ事件だって分かるよな。首を絞めるにしても痕が残るだろうし……だったら、何かの薬を注射したとか?」

 

 それまで岩壁を見つめていたエレーナの目が、そこで止まった。

 シノンにも分かるほど明確な反応だった。

 

「……何?」

 

「いや、適当に言っただけだけど」

 

「待て」

 

 エレーナはキリトを制すると、さっきまで壁へ預けていた背中を起こした。先ほど自分の部屋の防犯がほとんど無いことへ気づいた時とは違い、その表情から今度は徐々に感情が消え、代わりに何かを組み立て始めた時特有の鋭さが戻っていく。

 

「薬剤を使うという仮説は、かなり合理的だ」

 

「そうなの?」

 

「外傷を残したくない場合にはな。前提として、被害者2人はゲーム中に突然意識を失い、その後、現実では急性の循環器系疾患──心不全で発見されたと聞いている。もし現実側の実行役が、ダイブによって完全に無抵抗になっている標的へ薬剤を投与できるなら、銃器や刃物を使うより痕跡を減らせる可能性がある」

 

 そこで一度言葉を切り、エレーナは自分の手首へ視線を落とした。何かの投与方法を頭の中で比較しているらしく、数秒ほど指先だけを僅かに動かしたあと、再び顔を上げる。

 

「しかも、通常の注射器とは限らない」

 

「どういうこと?」

 

 シノンが尋ねる。

 

「針を直接刺す必要のない投与器具もある。高圧で薬液そのものを皮下へ送り込む、いわゆる無針注射器だ。通常の注射針と比べれば目立つ刺入痕を残しにくいし、フルダイブ中の人間なら投与の瞬間に抵抗することもない」

 

「そ、そんなものまであるのか……」

 

 リオが自分の腕をさすりながら少し嫌そうな顔をした。

 

「ある。ただし、それだけでは薬剤が特定できない」

 

 エレーナは淡々と言いながらも、視線は既に別のところへ向いていた。薬剤の候補を頭の中で1つずつ消しているのだろう。

 

「即効性が必要で、外見上の損傷をほとんど残さず、時間が経過すれば検出しにくくなり、しかも病死と誤認されやすいもの……」

 

 シノンが息を呑んだ。

 

「心当たりがあるの?」

 

「1つではない。だが条件を重ねると候補はかなり減る」

 

 エレーナは少しだけ目を細めた。

 

「例えば、《サクシニルコリン》」

 

「な、何だそれ?」

 

 リオが当然のように聞き返す。

 

「短時間作用型の筋弛緩薬だ。医療では麻酔導入などに用いられる。正常な管理下なら有用な薬剤だが、呼吸筋まで麻痺させる作用があるため、適切な呼吸管理がなければ非常に危険になる」

 

 そこでエレーナは、余計な詳細へ踏み込むことなく言葉を止めた。

 

「候補の1つとして考えられる理由は、作用した後の薬物が時間経過によって分解されやすいことだ。死亡から発見まで時間が空けば、通常の検査だけで薬殺を疑うのは難しくなる可能性がある。最初から特定の薬物を疑って詳細に調べなければ、見逃されることもあり得る」

 

「じゃあ、死体をちゃんと解剖すれば分かるんじゃないの?」

 

 シノンが言うと、エレーナはすぐには頷かなかった。

 

「必ずとは言えない。検査は何でも自動的に全項目を調べるわけではない。死因として何を疑うかによって調べる対象も変わるし、遺体の状態や発見までの時間にも影響される。ましてVRゲーム中に突然死亡したという状況なら、最初から薬物による他殺を強く疑わなければ、心疾患やフルダイブ中の急変として扱われる可能性もある」

 

「……確か菊岡さんも、死因は心不全、みたいな断定的な口ぶりだったよな」

 

 徐にキリトが呟いた。

 

「ああ。少なくとも、この仮説との矛盾は少ない」

 

 エレーナはそこで初めて、一つの仮説へかなり強く傾いた。

 

「ゲーム内で黒星が撃たれる。その時刻に現実側の人間が標的へ薬剤を投与する。外から見れば、GGOの中で撃たれた瞬間に現実でも死亡したように見える。しかも実際の殺害手段は仮想世界とは完全に無関係だから、アミュスフィアの仕様をどれだけ調べても原因は出てこない」

 

 洞窟の中が静かになった。

 そこまで説明されれば、リオにも構造が分かったらしい。

 

「じゃあ死銃って、本当に銃で人を殺してるわけじゃないのか」

 

「ああ。少なくとも今の仮説が正しければ、黒星は直接の殺害手段ではない」

 

 鉄橋で見た光景を、エレーナは思い返した。

 死銃はすぐに撃たなかった。スタン状態の自分へ近づき、《L115A3》から《黒星・54式》に持ち替え、キリトへ言葉を投げ、最後にゆっくりと十字を切ってから引き金へ指を掛けた。

 

 映像として見れば、あまりにも芝居がかった儀式だった。しかし、あれが単なる演出でなかったとしたら。

 

「十字を切る動作も、意味が違うかもしれない」

 

 エレーナが呟いた。

 

「どういうこと?」

 

「奴は発砲前に十字を切る手順を踏む。儀式に見せかけて、時刻を確認している可能性がある。ゲーム内の実行役が現実側と秒単位でタイミングを合わせる必要があるなら、発砲直前に時刻を確認する理由がある」

 

 キリトの表情が変わった。

 

「つまり、十字そのものに意味はない?」

 

「その可能性が高い。死銃という演出へ紛れ込ませた確認動作だとすれば、少なくとも一連の行動には説明がつく」

 

 シノンは背筋へ寒気を覚えた。

 今まで超常的にすら見えていた死銃の一連の動作が、意味を分解されるたび、少しずつただの人間による殺人へ変わっていく。けれど、それは安心とは正反対だった。人間がやっているということは、現実側にも実際に誰かがいる。

 

 しかもエレーナを殺すため、今この瞬間にも隣の部屋へ入り込んでいるかもしれない。

 

「うーん、でもさ」

 

 リオが首を傾げた。

 

「そんな薬とか、その……針ないやつとか、普通の人が持ってるもんなのか?」

 

 エレーナの視線が、今度こそ完全に止まった。先ほどまでの推論と、別の記憶が接続されたようだった。

 

「……いや」

 

「違うのか?」

 

「一般家庭に自然に存在する類のものではない」

 

 エレーナの声が少し低くなる。

 

「筋弛緩薬は医療現場で管理される薬剤だ。無針注射器のような器具も、一般人が日常生活で頻繁に扱うものではない。少なくとも、薬剤の性質を知り、死因がどのように見えるかまで考えた上で選んでいるなら、犯人には医学、薬学、あるいは医療機関に近い知識がある可能性が高い」

 

 キリトが眉を寄せた。

 

「病院関係者?」

 

「そこまでは断定できない。医師、看護師、薬剤師、医学生、医療従事者の家族、あるいは単純に知識だけを得た者でも理論上は可能だ。だが、もう1つある」

 

「何?」

 

 シノンが訊いた。エレーナは玄関の電子錠を思い浮かべていた。

 

「侵入方法だ」

 

 今度は3人とも黙って聞いた。

 

「死銃側が標的として選んだ人間全員について、都合よく合鍵を手に入れられるとは考えにくい。なら、複数の住宅へ侵入できる別の手段を持っている可能性がある。近年の電子錠には、火災や急病などの緊急時に救助側が対応するための正規の開錠手段が用意されているものもある。そうした設備や仕組みに接触しやすい職種となれば、候補はさらに偏る」

 

 シノンはゆっくり目を見開いた。

 

「……救急?」

 

「救急、消防、医療機関、設備管理。それだけでは絞れない。ただ、薬剤と投与器具まで含めるなら、医療機関との接点は無視しにくい」

 

 エレーナはそこで言葉を止めた。頭の中には、もう一つ別のものが浮かんでいた。

 本戦前、キリトが読み間違えた名前。

 

「……《Sterben》」

 

 不意に呟いたエレーナへ、キリトが顔を向ける。

 

「何だ?」

 

「昨日、君が《スティーブン》と読んだ名前だ。私は即座に《ステルベン》だと訂正した。医学を学んでいる人間なら、比較的馴染みがある言葉だからだ」

 

 そこで全員が同じ方向へ思考を向けた。

 

「まさか、《Sterben》が死銃……?」

 

「可能性は上がった」

 

 シノンの推理をエレーナは慎重に言い直す。

 

「まだ確定ではない。だが、《死》を意味する医療寄りの語を名前に選んでいることと、現実側で医療用薬剤を殺害へ利用しているという仮説が両方とも正しいなら、偶然として切り捨てるには一致が多い」

 

「病院関係の奴だからこそ、GGOの中で《ステルベン》なんて名前を使ってる……」

 

 キリトは一度小さく息を吐いた。

 

「かなり嫌な一致だな……」

 

 キリトの言葉へ、エレーナはすぐには返事をしなかった。

 それまで彼女の視線には、仮説を組み立てる人間特有の鋭さこそあっても、感情らしいものはほとんど浮かんでいなかった。薬剤の性質、侵入経路、住所の入手方法、《Sterben》という名の意味、それぞれを別の情報として切り分け、矛盾がないかを確認しながら1つずつ接続していただけだったのに、今は何か別のところで思考が止まったように見えた。

 シノンが最初に気づいた。

 

「……エレーナ?」

 

 呼びかけても、すぐには返事がなかった。

 代わりに、エレーナはゆっくりと視線を伏せ、自分の膝の上へ置かれていた手を一度だけ握り込んだ。その動き自体は小さく、声を荒げたわけでも、岩壁を殴ったわけでもない。

 それなのに、次に顔を上げた時、洞窟の空気がほんの僅かに変わったようにシノンには感じられた。

 

 目が、冷たかった。

 普段のエレーナも決して愛想がいい方ではないし、考え事をしている時には他人から見れば無機質に映ることもある。しかし今のそれは違った。何かを観察している目ではなく、既に価値を見定め、その結果として相手を切り捨てる側へ回った人間の目だった。

 

「……趣味が悪いな」

 

 声も低かった。リオが首を傾げる。

 

「何が……?」

 

「全てが」

 

 短く答えてから、エレーナは少しだけ間を置いた。

 

「薬は、人間を殺すためにあるものではない」

 

 エレーナは視線を上げたまま続けた。

 

「筋弛緩薬も、緊急時の開錠手段も、本来は人間を生かすために存在する」

 

 そこで初めて、声の奥へ僅かな棘が混じった。

 

「それを全て、無抵抗な人間を殺すための条件へ反転させている。医療機関なら薬剤へ接触できることも、救急の仕組みなら扉を開けられることも、全て殺す側の都合へ利用している」

 

 エレーナの口元は笑っていなかった。

 まして、怒鳴ってもいない。それでもリオはいつの間にか姿勢を正し、キリトも余計な言葉を挟まなくなっていた。

 

「しかも、十字を切る」

 

 その一言だけで、シノンには鉄橋の光景が蘇った。

 

 黒い拳銃と、エレーナへ向けられた銃口。

 そして胸元でゆっくり描かれた十字。

 

「祈っているつもりか、演出のつもりかは知らないが、時刻の確認を隠しているだけならなお悪いな」

 

 エレーナの瞳が僅かに細くなる。

 

「人が死ぬ直前に、救済を象徴する動作まで道具にする必要がどこにある?」

 

 リオが場の空気に耐え切れずに呟いた。

 

「……エレーナ、怒ってる?」

 

 その質問に、エレーナは少しだけ視線を動かして答えた。

 

「ああ」

 

 否定しなかった。

 その返答があまりにも静かだったので、むしろリオはそれ以上何も言えなくなった。

 

 シノンには、その怒りの理由が少しだけ分かる気がした。

 エレーナは殺すという行為そのものを絶対悪として嫌っているわけではない。だが、人を救うために積み重ねられてきた仕組みを、私欲や見世物のために人を殺す道具へ反転させることだけは、彼女の基準に真っ向から反しているのだろう。

 

「……エレーナ」

 

 シノンが小さく呼ぶと、冷え切った視線が僅かにこちらへ向いた。

 

「何だ?」

 

「怖い顔してる」

 

「そうか」

 

「うん。かなりね」

 

「改善する必要は?」

 

 いつもの調子に近い言い方だったが、シノンは首を横へ振った。

 

「別に」

 

 そして少しだけ間を置いた。

 

「今回は、そのままでいいんじゃない」

 

 エレーナは一瞬だけシノンを見た。

 それから視線を戻す。

 

「……そうか」

 

 声にはまだ冷たさが残っていた。

 けれど、ほんの僅かだけ温度が戻ったようにシノンには聞こえた。

 エレーナは数秒黙り、最後に一度だけ息を吐いた。それだけで表情から怒りが消えたわけではなかったが、少なくとも感情を思考の外側に置き直したらしく、膝の上で握っていた手を開いた。

 

「この件は後で解決する。今は犯行を止める方が先だ」

 

 そこでエレーナは3人を見回し、全員の推理を1つの流れとして整理した。

 

「現時点の仮説をまとめる。犯行グループは複数人で、1人はGGO側、1人は現実側にいる。ゲーム内の実行役は光学迷彩を使い、標的がBoBの登録端末へ入力した現実情報を盗み見る。そこから現実側で侵入しやすい人物を選別する可能性がある。大会や配信中、標的が確実にフルダイブしている時刻に現実側の共犯者が住居へ侵入し、検死で発見されにくい薬剤を使用する。そしてゲーム内では同じ時刻に黒星で撃つことで、あたかも仮想世界から現実世界の人間を殺したように見せる」

 

 今まで超常現象のように見えていた《死銃》が、その説明によって急速に現実的な輪郭を得ていった。

 リオはしばらく黙って聞いていたが、最後に眉間へ深く皺を寄せた。

 

「……なんか、そっちの方が気持ち悪いな」

 

「同感だよ」

 

 キリトがどこか疲れたような声で答える。

 

「呪いとかなら訳が分からないままだけど、これなら全部、人間が考えてやってるってことだからな。しかも、かなり準備してる」

 

「ああ、私を鉄橋で《黒星》による処刑対象に選んだ時点で、現実側でも殺害できる条件が整っていたと考える方が自然だ」

 

 その一言で、先ほど少し落ち着きかけていたシノンの表情が再び硬くなった。

 

「……じゃあ、今すぐログアウトして確かめれば──」

 

「できない」

 

 エレーナが遮った。

 

「BoB本戦中は任意のログアウトが制限されている。少なくとも我々の側から、今ここで現実へ戻ることはできない」

 

 シノンの顔が強張った。

 

「じゃあ……大会が終わるまで何もできないの?」

 

「現実側についてはな。だから今できることをする。死銃を行動不能にし、少なくともゲーム側から黒星による合図を出せない状態にする。本戦終了後、直ちに菊岡に連絡する」

 

「でも、その間ずっと部屋に誰かいるかもしれないのよ?」

 

「可能性はある」

 

「……エレーナは平気なの?」

 

 シノンの問いに、エレーナは少しだけ目を伏せた。

 

「別に、平気ではないさ」

 

 短くそう認めてから、再びシノンを見る。

 

「だが、今できることは分かった。なら、それを実行する方がいい」

 

 その返答を聞いても、シノンの不安が消えたわけではなかった。むしろエレーナ自身の口から「平気ではない」と聞かされたことで、これまで自分の中で無意識に作り上げていた像が少しだけ崩れたような気がしていた。

 この女はいつも落ち着いていて、何が起きても必要な情報だけを拾い、次に何をするべきかを判断し、自分が苦しくなれば当然のように隣へ座っていた。だからどこかで、エレーナだけは自分とは違って、恐怖や不安に振り回されることなどないのだと思い込んでいたのかもしれない。

 しかし鉄橋では身体を動かせなくなり、自分の腕の中へ体重を預け、今も現実の部屋に誰かがいるかもしれないという状況を怖いと認めている。それなのに、やはり最後には自分のことより先に「今できること」を選んでいる。

 

「……ねえ、エレーナ」

 

 シノンが声を掛けると、エレーナは岩壁へ背中を預けたまま顔だけを向けた。

 

「何だ?」

 

「今、平気じゃないって言ったわよね」

 

「ああ」

 

「だったら何で、また1人で平気みたいな顔してるの?」

 

 意外な方向から来た問いだったらしく、エレーナはほんの僅かに眉を動かした。

 

「平気な顔をしているつもりはないが」

 

「してるわよ。前に私が1人で何とかしようとした時、散々言ったじゃない。怖いのを隠すなとか、出来ないことまで1人でやろうとするなとか、調子が悪いならちゃんと言えとか」

 

「言ったな」

 

「だったらエレーナも同じにしなさいよ」

 

「私は君の治療を──」

 

「今、治療の話してない」

 

 いつもなら滅多に遮れないエレーナの言葉を、シノンははっきり途中で止めた。

 

「私がエレーナに頼ってたのは、それが必要だったから。それは分かってる。でも、だからってエレーナが私に何も頼っちゃいけない理由にはならないでしょ」

 

「……私が君に?」

 

「そう。今日だって、ずっと助けてもらうのは私の方だと思ってた。でも鉄橋では逆だった」

 

 そこまで言うと、《黒星・54式》が胸へ向けられていた光景が一瞬だけ脳裏へ戻ってきた。けれど今回は、それに伴って浮かんだ記憶へ意識を持っていかれることはなかった。

 

「私、あの銃を見た」

 

「ああ」

 

「ちゃんと怖かった。昔のことも出てきた。でも撃てた」

 

 シノンはそこで一度言葉を止めた。

 

「エレーナだったから」

 

 洞窟の中へ響いた声は、思っていたより静かだった。

 

「他のこと考えてる余裕がなかった。強くなりたいとか、黒星に勝ちたいとか、自分の過去をどうしたいとか、そういうの全部どうでもよくなった。ただ、あそこでエレーナを撃たせたくなかった。それだけ」

 

 エレーナは何も言わず、ただシノンを見ていた。

 

「だから、私にもやらせて」

 

「何を?」

 

「エレーナを守ること」

 

 即座に答えた。

 

「君がそれを義務として負う必要はない」

 

「だから、義務じゃないって言ってるの」

 

「しかし──」

 

「必要だからやるんじゃない。私がやりたいの」

 

 それには、さすがのエレーナもすぐには返せなかった。

 

「私が怖くなったらエレーナに言う。だからエレーナも怖かったら私に言って。私が危ないことしようとしたら止めていい。その代わりエレーナが自分だけで危ないことしようとしたら、私も止める。今日みたいに動けなくなったら、また私が運ぶ」

 

「最後の項目については可能な限り避けたいが」

 

「私だって毎回お姫様抱っこしたいって言ってるんじゃないわよ。ステータスギリギリだったんだから」

 

「その点は合意できる」

 

「そういう話じゃないんだけど……」

 

 シノンは呆れたように眉を寄せたが、不思議と嫌ではなかった。

 いつも通り話が少しずれているだけで、目の前のエレーナが戻ってきたような安心感がある。

 

「……もし、治ったら?」

 

「何がだ?」

 

「私のこと」

 

 エレーナの目が僅かに細くなる。

 

「症状が十分改善して、私がもう1人でも平気になったら。銃を見ても今よりずっと大丈夫になって、エレーナが毎週みたいに私の話を聞く必要もなくなったら、その後はどうするの?」

 

「治療的な介入の頻度は減らすべきだろう。必要のない医療行為を継続する理由は──」

 

「やっぱりそういう答え方すると思った」

 

 シノンは思わず額へ手を当てた。

 

「私が聞いてるのは、診察が終わった後もエレーナが私のところにいるのかってこと」

 

「現在隣室に居住している以上、物理的にはいると思うが」

 

「そうじゃない!」

 

 洞窟の壁へ声が反響し、少し離れた場所に座っていたキリトが気まずそうに視線を逸らした。

 

 シノンは一度目を閉じ、どう言えば伝わるのか考えた。

 

「……じゃあ言い方変える。私が『もう大丈夫』って言えるようになっても、エレーナから勝手にいなくならないで。治療が終わっても、GGOをやらなくなっても、いつか今の部屋から引っ越しても、それだけで終わりにしないで」

 

 エレーナの表情が、ほんの僅かに変わった。

 

「……どれくらいの期間を想定している?」

 

「何でそこで契約みたいになるのよ」

 

「継続期間の話に聞こえたが」

 

「……一生くらい」

 

 シノンは小さく言った。

 キリトの手が止まった。

 リオの顔が勢いよくこちらへ向いた。

 そして当のエレーナだけが、数秒考えた末に、何かを理解したように僅かに頷いた。

 

「なるほど。それほど長期的に、私がいなくなる可能性そのものへ不安を感じているわけか」

 

「…………」

 

「今回の件で死別の可能性を直接認識した以上、対象の喪失に対する不安が一時的に強くなること自体は──」

 

「もう黙って」

 

「まだ説明の途中だが」

 

「分かってた。絶対そういう解釈すると思った」

 

 シノンは両手で顔を覆いたくなった。

 少し離れた場所では、キリトが完全にこちらを見ないようにしていた。笑ってはいけないのか、助け舟を出すべきなのか、それとも本当に洞窟の入口まで見張りへ行った方がいいのか判断がつかず、非常に居心地が悪そうだった。

 

「では、違うのか?」

 

「……今は、それでいいわ」

 

「それでいいとは?」

 

「その解釈でいいから!……約束して」

 

 シノンは少しだけ身を寄せ、エレーナの袖を掴んだ。橋の上で抱きかかえた時ほど密着しているわけでもなく、ただ指先で布を摘まんでいるだけなのに、それだけで自分が普段ならしないことをしているという自覚が急に強くなる。

 

「私が1人でも平気になったからって、それで役目が終わったみたいに離れないで。勝手にいなくならないで……ずっと傍にいてよ」

 

 最後の部分だけ、少し声が弱くなった。

 エレーナは掴まれている袖に一度視線を落とし、それからシノンの顔へ戻した。

 

「なら問題ない。私は君との関係を治療だけのものとして考えていたつもりはない」

 

「……え?」

 

「治療の必要性がなくなれば診療行為は終わる。当然だ。だが、それは君との関係そのものを終了するという意味ではない。君が食事を持ってくることと、私が君の症状について意見を述べることは、同じ契約の中に含まれているわけではないだろう」

 

「そ、それはそうだけど」

 

「なら、治療が終わったという理由だけで私から離れる必要もない」

 

 あまりにも淡々と告げられたため、シノンはしばらく返事ができなかった。

 

「私の意思だけを理由に、君との関係を一方的に切るつもりはない。少なくとも今のところ、私自身その必要性を感じていないし、君が望んでいるのであれば尚更だ」

 

 シノンの指先へ、思わず力が入った。

 

「……それ、約束?」

 

「ああ」

 

「後で『医学的にはこういう意味だった』とか言わない?」

 

「今の発言に医学的解釈を付加する必要はないと思うが」

 

「じゃあ覚えてて」

 

「記憶しておく」

 

「絶対によ」

 

「……随分念を押すな」

 

「エレーナ相手だからよ」

 

「理由として理解できないが……分かった」

 

 シノンはそれでもよかった。今は、約束してくれたという事実だけで十分だった。

 

 ところが、2人の間で話がまとまりかけたところへ、さっきから異様なほど静かだったリオがとうとう耐えられなくなった。

 

「……ちょっと待て!」

 

 洞窟の中へ大きな声が響いた。

 シノンとエレーナが同時に顔を向けると、リオは《P226》を脇へ置き、どう見ても不満そうに頬を膨らませている。

 

「何だ、リオ?」

 

「何だじゃない!何でシノンだけ一生なんだ!?」

 

「……何でって」

 

 シノンが言葉に詰まる。

 

「アタシだってずっと一緒だぞ!エレーナはアタシの姉ちゃんなんだからな!」

 

 言うなりリオはエレーナの反対側へ移動し、シノンが袖を掴んでいない方の腕へ抱きついた。

 

「君については、そもそも離れるという話をしていないだろう」

 

「でもシノンには約束した!」

 

「必要だと言われたからな」

 

「じゃあアタシにも約束しろ!」

 

「何を?」

 

「ずっと一緒にいるって!」

 

「……構わないが」

 

「軽い!シノンの時はいっぱい喋ってたのに!」

 

「彼女の場合は、要求の意味を理解するのに時間を要しただけだ」

 

「それはそれで酷くない?」

 

 思わずシノンが口を挟むと、エレーナは本気で分からないらしく、左右を交互に見た。

 

「私は今、何か問題のある応答をしているのか?」

 

「してる!」

 

「してるわよ」

 

 2人の声が重なった。

 

「……君たちは妙なところで意見が合うな」

 

「合ってない!」

 

「合ってないわよ!」

 

「そうか……」

 

 少し離れたところでそのやり取りを聞いていたキリトは、何となく洞窟の入口方向へ顔を向けた。

 

「……俺、ちょっと外側の警戒してこようかな」

 

「駄目だ」

 

 エレーナが即座に止めた。

 

「1人で洞窟入口へ近づくな。外で死銃が監視している可能性がある」

 

「あ、はい」

 

「ここにいろ。リスクが高すぎる」

 

 逃げ道まで封じられた。

 キリトは小さく息を吐き、結局その場へ座り直した。

 

「大体、シノンはずるいぞ」

 

 リオはまだ納得していなかった。

 

「何がよ」

 

「さっきもエレーナのこと抱っこしてた!」

 

「動けなかったんだから仕方ないでしょ」

 

「アタシだって運べる!ステータスも高い!」

 

「知ってるわよ。そういう問題じゃないの」

 

「じゃあ今度はアタシが運ぶ!」

 

「次がある前提で話すな。私としては、今後同様の状況が発生しないことを希望する」

 

 間に挟まれたエレーナが淡々と割り込む。

 

「当たり前でしょ!」

 

「当たり前だ!」

 

 また2人の声が揃い、流石にエレーナもしばらく黙った。

 

「……だから、妙なところで意見が合うと言っているのだが」

 

「合ってない!」

 

「合ってないわよ!」

 

 シノンはまだ摘まんだままだったエレーナの袖へ視線を落とした。

 離そうと思えばいつでも離せる程度の弱い力しか込めていないのに、エレーナの方から振りほどこうとはしない。その反対側ではリオが腕へ抱きついたまま頬を膨らませていた。

 

「──君たち」

 

 両側から挟まれたエレーナがようやく口を挟んだ。

 

「私は拘束されているのか?」

 

「違うわよ」

 

「違うぞ」

 

「では、この状態には何か目的があるのか?」

 

「……ある」

 

 先に答えたのはシノンだった。

 リオも負けじと頷く。

 

「アタシもある!」

 

「内容は?」

 

「そこまで説明しなきゃ駄目?」

 

「判断材料が不足しているのだが」

 

「もういいわ、そのままでいて」

 

「先ほどから要求だけが増えているな」

 

 エレーナはそう言ったものの、結局それ以上追及することもなく、シノンの手を振り払おうともしなかった。

 

 その反応を見て、シノンはほんの少しだけ口元を緩めた。今日までなら、自分が誰かへこうして触れたままでいることにきっと落ち着かなさを覚えていただろうし、ましてそれを自分から続けたいと思うなど想像もしなかった。

 それなのに今は、アバターとはいえエレーナが確かにここにいて、自分の指先にその存在が返ってくるというだけで、現実の部屋に誰かが潜んでいるかもしれないという恐怖まで僅かに遠ざかるような気がしていた。

 

「……ほんと、変な人」

 

「何がだ?」

 

「何でもない」

 

 シノンがそう言い切ると、エレーナはまた何か考えた後で、それ以上の追及を諦めたようだった。

 

 少し離れた場所で3人のやり取りを眺めていたキリトだけは、完全に所在をなくしていた。

 

「……そろそろ、その話はまとまった?」

 

 恐る恐る出された問いに、シノンが振り返った。

 

「何よ、その聞き方」

 

「いや、俺もどのタイミングで喋ればいいのか分からなくて……」

 

「普通に喋ればいいだろ」

 

 リオがけろりと言う。

 

「それは分かってるよ。いや、けどさ……」

 

 キリトはそこで言葉を濁し、もう一度シノンとリオに両側を占有されているエレーナを見たものの、何か具体的な感想を口にすれば余計な問題を増やすだけだと判断したらしく、そのまま黙った。

 

 その視線を追ったシノンは、ようやく自分たちがかなり妙な格好で長話をしていたことへ気づき、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。

 それでもすぐに手を離す気にはならず、エレーナの袖を掴んだ指をそのままにして、小さく息を吐く。

 

 エレーナもまた、2人を両側へ置いたまましばらく黙っていたが、思考は今までこの場所に隠れ、話していた時間そのものに向いていた。

 洞窟に入ってから既にかなりの時間が経っているが、その間にも本戦は進み続けている。ここにいる4人だけが時間から切り離されたわけではない以上、いつまでも隠れていることはできない。

 

「……シノン、約束の内容は理解した」

 

「本当に?」

 

「少なくとも、君が私との関係を治療終了と同時に終了させることを望んでいない、という点についてはな」

 

「まあ……それでいいわ」

 

「リオについても同様だ。君は私の妹だろうに」

 

「あ……まあ、当然だな!」

 

「なら、この話は一旦ここまでにしていいか?」

 

 エレーナが左右へ確認するように問いかけると、シノンは少し迷った後でようやく袖から指を離し、リオも数秒遅れて渋々腕から離れた。

 エレーナは自由になった両手を一度だけ開閉し、それから何事もなかったかのようにポケットから端末を取り出したが、そのあまりの切り替えの速さにシノンは呆れながらも、今度は何も言わなかった。

 

 洞窟の中には再び作戦前の緊張が戻り始めていたが、入ってきた直後のそれとは少しだけ違っていた。現実側の危険も、死銃の正体も、依然として完全には分かっていない。

 それでも4人の間で共有されているものは増え、少なくとも誰か1人が恐怖や責任を抱え込んだまま進む状態ではなくなっている。

 

 エレーナはそれを確認するように3人の顔を順番に見た後、声を普段の低く落ち着いた調子へ戻した。

 

「では、作戦を決めよう。我々は既に2回分のスキャンを捨てている。次の通過時刻に外へ出て、残存プレイヤーを確認する──」

 

 エレーナがそう告げると、それまで洞窟の中に滞留していた空気が、ようやく本戦へ戻るためのものへ切り替わった。現実側に共犯者がいるかもしれないという推測も、その人間がエレーナとリオの部屋へ既に侵入している可能性も、何一つ解決したわけではない。

 考えれば考えるほど確かめたい衝動は強くなるばかりだったが、本戦中は任意にログアウトできない以上、今は死銃の側を止めるしかないという認識だけは4人の間で共有されていた。

 

 洞窟へ入ってから既にかなりの時間が経過している。

 その間にもBoBそのものは止まっておらず、自分たちが地下へ潜っていたことで2回分のサテライト・スキャンを受信できなかった以上、残存者の分布も戦況も大きく変化している可能性が高い。4人はそれぞれ武器と装備を整えると、次のスキャンが始まるより少し早く細い岩の亀裂を抜けて洞窟の外へ出た。

 

十十十十十十十十十十

 

 砂漠は、入った時よりさらに深い夜へ沈みつつあった。

 空を覆う厚い雲はほとんど星を見せず、僅かに残った光が風化した岩山と砂丘の稜線だけを青黒く浮かび上がらせている。強くなった風が地表の砂を薄い霧のように巻き上げながら流しているだけだった。

 

 洞窟の中とはまるで違う、開けた場所特有の風音へ耳を慣らしていたところで、4人の端末がほぼ同時にサテライト・スキャンの開始を告げた。淡い光で形作られた《ISLラグナロク》の地図が展開され、その上へ残存プレイヤーを示す光点と、既に脱落した参加者を示す灰色の表示が次々と現れていく。

 

「少ないな、5人……俺たち以外はあと1人か」

 

 最初に呟いたのはキリトだった。

 15分前どころか30分前の情報しか持っていないことを差し引いても、生存者は明らかに大きく減っていた。4人が隠れていた岩山の周囲だけを見ても、少し離れた砂地や岩場に脱落したプレイヤーを示す灰色の光点がいくつも散らばっており、誰かがこの一帯で相当数の参加者を倒したことが分かる。それにもかかわらず、洞窟の奥にいた間に銃撃戦らしい連続音や大規模な爆発を聞いた記憶はほとんどなかった。

 

「銃声は聞こえなかったわよね」

 

 シノンが周囲の地形を確かめるように顔を上げると、キリトも同じ違和感を抱いていたらしく、端末と周辺の岩山を交互に見た。

 

「洞窟の奥じゃ外の音全部までは分からないけど、それにしても脱落者が多いな。こんな近くで何人もやられてるなら、もう少し何か聞こえてもよさそうだ」

 

 エレーナはすぐには答えず、端末の地図を指で拡大しながら残存者の名前を順番に確認していた。目当ては、本戦開始時から注意していた一つの名前だったが、どこまで範囲を広げても見当たらない。

 

「《Sterben》は?」

 

「いない」

 

 キリトが答えると、リオはすぐに眉を寄せた。

 

「やっぱり迷彩でスキャンからも消えてるんじゃないのか?」

 

「可能性はある。だが、まだ結論にはしない方がいい」

 

 エレーナは地図から視線を離さないまま答えた。

 

「《Sterben》がスキャンから消えたことと、我々を襲った死銃が光歪曲迷彩を使用していることは、それぞれ別に確認された事実だ。両者を同一人物と考える材料は増えているが、名前まで確定したわけではない。だが、以後はスキャンに表示されない敵が1人存在するものとして行動する」

 

「分かった。それなら、表示されてる奴だけ見て安心するのはやめた方がいいな」

 

 キリトが小さく頷いたところで、地図の西側から砂漠中央へ向かって移動している一つの光点をシノンが見つけた。

 

 《闇風》。

 

 その名前を認識した瞬間、シノンの表情が僅かに引き締まり、現在位置と進行方向を何度か見比べる。

 

「来るわね、闇風が」

 

「闇風……知ってるの奴なのか?」

 

「有名人よ。《ランガンの鬼》って呼ばれてる。ゼクシードがいなくなった今なら、日本サーバーで最強って言ってもいいくらい。AGIはほとんど限界まで振ってるし、ダッシュ系のスキルもかなり極めてる」

 

「速いのか!?」

 

 リオだけが妙に楽しそうに身を乗り出したため、シノンは思わず呆れた顔を向けた。

 

「何で嬉しそうなのよ」

 

「だって見たいだろ。どのくらい速いんだ?」

 

「今は遊んでいる場合ではない」

 

 エレーナが即座に話を切ったものの、その声音は洞窟で死銃の犯行について語った時のような冷たさではなく、既に普段の戦術判断へ戻っていた。

 

「闇風に我々と共闘する理由はない。こちらが死銃と交戦している最中に接触すれば、事情を知らない彼がそのまま攻撃してくる可能性は高い。何より、闇風もまた死銃のターゲットである可能性がある。こちらで先に排除する方が安全だ」

 

「なら、私がやる」

 

 シノンが迷わず名乗り出ると、エレーナは一度だけ彼女の顔を見て小さく頷いた。

 

「任せる。ただし、闇風だけに集中しすぎるな。死銃は恐らくキリトへ執着している。こちらが残存プレイヤーを処理しようとするなら、その瞬間を利用してくる可能性が高い」

 

 そこから配置を決めるまでには、それほど時間を要しなかった。

 シノンは先ほどまで潜伏していた岩山の頂上へ移動し、暗視スコープに切り替えた《ヘカートⅡ》で西側を監視する。キリトは東側の開けた砂地へ移動して、敢えて自分の姿を隠さない位置を取ることになった。

 

 その役割をキリトに任せる理由は、死銃が4人の中でも特に彼へ執着しているからだけではなかった。

 キリトはBoB登録時、現実の氏名も住所も入力していない。死銃が登録端末から標的の現実情報を盗み見ていたという仮説が正しければ、少なくとも現実側の共犯者がキリトの住居を把握している可能性は、住所を入力したエレーナたちより低い。

 危険がないわけではない。それでも誰かを囮として見える場所へ置くのであれば、現時点ではキリトが最も合理的だった。

 

 エレーナはキリトから南東へ距離を置いた低い岩の陰へ《FR-X》を据え、闇風ではなくキリトを中心とする広い範囲を光学砲の射程範囲に収める。火力だけを考えれば自分が闇風を狙撃しても構わないが、今回の役割はスキャンへ映らない死銃の接近を見逃さないことだった。

 リオも今は自分の光歪曲迷彩は使わず、キリトから30メートルほど離れた岩群の間に身を低くして潜み、遠距離から撃つのではなく、もし狙撃を掻い潜って闇風が接近した場合に一気に飛び出せる位置を選んだ。

 

 4人いるからといって、1ヶ所に固まる必要はない。むしろ死銃が長距離狙撃と迷彩を併用する以上、全員で同じ遮蔽物に入れば一方向から監視されやすくなり、反撃の射線まで互いに塞ぎかねない。キリトを見つけやすい位置へ置きながら、周囲を三方向から覆い、どこから攻撃されても最低1人は敵の動きを拾える状態を作る方が理に適っていた。

 

 準備を終えたシノンは岩山の頂上へ腹這いになり、《ヘカートⅡ》のストックを肩へ押し当てた。暗視スコープを通して見る砂漠はほとんど色彩を失い、濃淡だけで構成された静かな世界へ変わっている。その中を西へ大きく走査していると、やがて1つの人影が異様な速度で視界を横切った。

 

 闇風だった。

 走っているというより、地表すれすれを滑っているように見える。一定方向へ真っ直ぐ駆けるのではなく、数秒ごとに左右へ角度を変え、ときには狙撃手から見れば無意味にしか思えないほど大きく蛇行しながら進んでいるため、照準を追従させるだけでも神経を使う。

 バレット・ラインを確認してから避けるのではなく、そもそも同じ位置へ居続けないことで射撃そのものを成立させにくくする、AGI型の極端な戦い方だった。

 

 シノンはスコープの中心で彼を追いながら、すぐに撃つことを選ばなかった。バレット・サークルの中へ収めることだけならできる。しかし《ヘカートⅡ》ほどの長距離射撃では、トリガーを引いてから弾丸が届くまでにも僅かな時間差があり、その間にあの速度で進行方向を変えられれば、着弾時には既に別の場所へいる。

 

 ならば、止まるのを待てばいい。

 以前なら、こうして敵を照準へ収め、引き金を引けることこそ《シノン》の強さなのだと思っていたかもしれない。GGOの中で多くの敵を倒し、BoBでも上位へ入り、銃を扱うことに長けた強い存在になれば、現実の自分もいつかそれに追いつけるのではないかと信じていた。

 けれど今は、その考えが少し違っていたのだと分かる。

 

 銃を怖がらない別人になる必要などなかった。黒星を見て身体が冷える自分も、何千発もの狙撃を繰り返してきた自分も、鉄橋でエレーナを守るために迷わず引き金を引いた自分も、最初から全部同じ1人の人間だった。

 

 シノンは呼吸を整えながら、闇風の移動を追い続けた。

 

 やがてキリトとの距離が二百メートルほどまで縮まった、その瞬間だった。

 

 シノンの視界には入っていない方角から、一発の狙撃弾が夜の砂漠を走った。それでも、開けた砂地に立っていたキリトは銃声が届くより早く身体を横に投げ出した。

 

 何かが見えたわけではない。どこから撃たれるのかを知っていたはずもない。それでも、誰かに強く狙われているという説明のできない違和感だけを拾い、その感覚へ身体を預けるように動いた直後、先ほどまで頭部があった位置を狙撃弾が通り過ぎた。

 

「……避けた」

 

 シノンは思わず小さく呟いた。

 かわされた弾丸はそのまま砂漠を抜け、闇風のすぐ横へ着弾して大量の砂を跳ね上げた。高速移動を続けていた本人からすれば、自分へ向けられた一発なのか、それとも別の目標を外れた弾なのか判別できなかったのだろう。咄嗟に移動を止め、身体を低くしながら物陰に身を隠し、射撃方向を探ろうとする。

 

 シノンが待っていたのは、その一瞬だった。

 大きく揺れていたバレット・サークルが急速に縮み、停止した闇風の胸部へ重なる。自分の鼓動を1つ聞き流し、次の拍動までの僅かな静止へ照準が収まったところで、シノンは引き金を絞った。

 

 《ヘカートⅡ》の咆哮が岩山全体を震わせ、猛烈な反動が肩から背中へ抜けていく。

 大口径弾は数百メートルの距離を一息に横断し、闇風の胴体中央へ真正面から命中した。速度と軽量化を優先したAGI型のアバターに対物狙撃銃の直撃へ耐えられるほどの余裕など当然なく、身体は大きく後方へ吹き飛ばされ、砂の上を何度か転がったところで動きを止める。その頭上へ赤い《DEAD》の表示が現れた。

 

「ふー……」

 

 撃破を確認しても、シノンは長く余韻へ浸らなかった。

 先ほど闇風の横を通過した一発がどこから来たのか。その方向を記憶の中で逆算し、《ヘカートⅡ》から一度顔を離して右側の砂漠へ視線を走らせる。

 

 何もない、岩と砂しか見えない。それでも、その何もない景色の一部だけが、まるで揺らいでいるように不自然に歪んでいた。

 

「……いた」

 

 シノンは再びスコープへ目を戻した。

 以前なら、死銃の影と《黒星・54式》を結びつけただけで、郵便局の床へ広がった血や、自分が撃ち殺した男の顔を無理に追い払わなければならなかったかもしれない。けれど今は、目の前の相手を過去の亡霊だと思い込まないよう、自分へ言い聞かせる必要すらなかった。

 

 あれは1人の人間だ。

 自分の記憶そのものではない。黒星も、自分を呪い続けている何かではない。今ここにいる1人のプレイヤーが、あの時と同じ型の拳銃を持っている。それ以上でもそれ以下でもない。

 

「見つけた」

 

 シノンが照準を合わせた時には、死銃の側も岩山頂上の自分に気づいたらしい。今度は完全に隠匿された初射ではなく、互いに敵の位置を把握した状態で二丁の狙撃銃が向き合い、《L115A3》から伸びた赤いバレット・ラインがシノンの頭部へ滑り込むのとほぼ同時に、《ヘカートⅡ》の予測線も死銃の胸元へ届いた。

 

 どちらも、相手が撃つことを知っている──だからこそ、躊躇した方が負ける。

 2人のトリガーがほぼ同時に引かれた。

 

 減音器によって抑えられた《L115A3》の低い発射音と、《ヘカートⅡ》の轟音が砂漠の上で重なり、二発の弾丸が夜の空気を互い違いに切り裂く。シノンは自分の弾道を最後まで確認しようとはせず、撃った瞬間に顔を照準器から離し、身体を横へ捻った。

 

 その直後、《L115A3》の弾丸が《ヘカートⅡ》のスコープを吹き飛ばしながらシノンの頭のすぐ横を通過した。

 

 一方、《ヘカートⅡ》の大口径弾は長大な《L115A3》の中央部に食い込み、悉くを砕き貫くと、銃自体が赤いダメージエフェクトとともに砕け散った。

 

「おお!やった!」

 

 離れた岩陰からその様子を見ていたリオの声が上がった。

 けれど、エレーナだけは喜ばなかった。

 

「待て」

 

 それまで周辺へ向けていた《FR-X》の照準を、即座に死銃へ移す。

 狙撃銃を破壊され、シノンとの撃ち合いに負けたことに意識を向けている今なら、相手が次の行動へ移るより早く撃ち抜ける。照準器の中心に死銃の輪郭を収め、光学砲にエネルギーをチャージさせてトリガーに指を掛けた瞬間、男の姿が不自然に揺らいだ。

 

「また迷彩だ!」

 

 リオの声とほぼ同時に、襤褸布の外套も、その下の身体も、周囲の砂と岩の模様へ溶け込むように輪郭を失い始める。

 

 エレーナは完全に消えるまで待たなかった。

 十分な充填を待たず、《FR-X》から高出力の光条を放つ。暗い砂漠を白く切り裂いた光線は死銃が立っていた場所を貫いたものの、その時には既に男は横へ動いていたらしく、焼き抜いたのは背後の岩塊だけだった。充填時間が足りなかったため着弾時の熱量も本来より低く、周囲まで巻き込む爆発的な熱放出には至らない。赤熱した岩片が四方へ飛び散った時には、死銃の姿はどこにも見えなくなっていた。

 

「……充填不足で爆発範囲に巻き込めなかったか。もう移動している。全員、散るな。互いの視界から外れるな」

 

 エレーナの声を聞きながら、キリトは《カゲミツG4》のスイッチを入れて紫色の光刃を振り抜いた。

 

 敵の姿を目で探そうとはしなかった。

 先ほど狙撃を避けた時と同じように、自分の周囲へ意識を広げていく。

 

「……来る」

 

「おい!どこだ!」

 

 リオが立ち上がって周囲を警戒しながらキリトに聞いた。

 

「分からない。でも……近い」

 

「分かんないのに言うなよ!」

 

「いや、本当にいる!」

 

 その言葉が終わるより早く、キリトの左肩から赤いダメージエフェクトが噴き上がった。

 

「っ……!」

 

 砂しかなかったはずの空間から、細い金属の切っ先だけが突然現れている。

 

 エストック。

 キリトが直前に身体を捻ったことで心臓部へ届く軌道だけは外したものの、刺突は肩口を深く抉り、HPバーを大きく減少させた。

 

 さらに厄介なのは、その後だった。

 エストックを引いた直後には死銃の輪郭が再び背景へ溶け、光剣を振り返す頃には相手がどこへ移動したのかさえ分からなくなっている。

 

「速っ……!」

 

 リオは《ツバキJ3》を抜くと、高いAGIを生かして弾丸のような速度で踏み込むと、今反射的に死銃が消えた場所を斬ろうとした。

 

「リオ、追うな!」

 

「でも、今そこにいた!」

 

「見えていない相手を追えば分断される。戻れ」

 

 普段であれば一度走り出したリオを声だけで止めるのは難しいが、今のエレーナの声音には反論を許さないものがあり、リオは歯を食いしばりながら数歩で踏み止まった。

 そこで初めて、4人という人数が常に有利へ働くわけではないことが明確になった。

 

 エレーナの《FR-X》なら、死銃に一度直撃させるだけでも致命傷へ追い込める。しかしキリトやリオが近距離へ入り、さらに岩山から降りてきたシノンまで同じ戦域へ加われば、死銃の近くに味方が入り込む瞬間が増え、広範囲を悉く焼き尽くす光学砲を撃てる瞬間は少なくなる。

 《MGL-140》に至ってはさらに扱いにくく、数メートル単位で味方の間を移動する相手に榴弾を連続して撃ち込めば、味方まで爆風に巻き込む可能性が高い。

 

 死銃も、それを理解した上で距離を詰めたのだろう。4人分の火力を真正面から受け止めようとしているのではない。

 強力な射撃武器を使えば仲間まで傷つける距離へ自ら潜り込み、数の多さそのものを自らを守る盾に変えている。

 

「エレーナ!」

 

 キリトが叫んだ時には、彼女も同じ結論へ達していた。

 

「分かっているさ」

 

 長大な光学砲が粒子となって消え、その代わりにエレーナの両手へ《MGL-140》が実体化する。装填されている榴弾を撃てば、死銃だけを狙うことなど到底できないほど戦場は縮まっていたが、代わりにエレーナは先端から伸びる長いバヨネットを前へ向けた。

 

「そ、それ撃ったらアタシらも吹っ飛ぶぞ!?や、やるのか!?諸共か!?」

 

 キリトから30メートルほど離れた岩場まで戻ってきたリオが叫ぶ。

 死銃がキリトへ肉薄したことで、それまで広く展開していた3人も既に距離を詰め始めており、少なくとも互いの大声が風に掻き消されず届く程度の範囲には集まりつつあった。

 

「撃たない」

 

 エレーナは短く返した。

 

「じゃあ何に使うんだよ!」

 

「今必要なのは火力ではない。彼の剣に触れられる実体武器だ」

 

 それ以上説明するより先に、死銃が動いた。

 先ほどキリトの肩を刺した場所からは既に大きく位置を変えていたらしく、何も存在しない砂地の一部が突然水面のように歪み、その中からエストックの切っ先だけが飛び出した。狙われたのは、キリトへ近づこうとしていたリオの背中だった。

 

「リオ、後ろだ!」

 

 エレーナの警告を聞いた瞬間、リオは振り返って敵を確認するより先に膝を深く曲げた。

 頭上を細い剣先が通過し、白銀の髪が風圧に煽られる。続けざまに《ツバキJ3》を起動させ、身体を回転させる勢いのまま紫色の光刃を背後へ薙いだが、死銃は避けるどころかエストックをその軌道上へ残したままだった。

 

 光刃と金属剣が重なる。

 けれど、実体剣同士のような衝突音は起こらなかった。

 

 死銃のエストックは、旧世代の宇宙戦艦に使われていた装甲板を素材とする、極端に耐熱性の高い特殊な剣だった。通常の金属なら接触した時点で焼き切る《ツバキJ3》の光刃も、その剣身には浅い焼損エフェクトを走らせるだけで、両断することができない。

 そして光刃そのものには実体がない以上、焼き切れない物体の運動を物理的に押し返すこともできなかった。

 

 《ツバキJ3》の刀身はエストックをそのまますり抜け、逆に死銃のエストックだけが何の抵抗も受けないままリオの懐へ残る。

 

 リオが薙ぎ払いを振り切った直後、その戻りが遅れる僅かな時間へ第二の刺突が飛ぶ。

 今度は胸だった。

 

 しかし、剣先が届くより先に横合いから《MGL-140》の黒い銃身が滑り込み、長いバヨネットがエストックを外側へ弾いた。

 甲高い金属音が夜の砂漠へ鋭く響く。

 

 エレーナは細剣を受け止めたまま力比べをしようとはせず、接触した瞬間に銃身を捻って軌道だけを逸らすと、自分の正面からリオを押し出すように位置を入れ替えた。

 

「光剣で受けようとするな。君の右腰に実体のある刃があるだろう」

 

「分かってる!」

 

 リオは《ツバキJ3》を左手へ残したまま、右手を腰へ伸ばした。引き抜かれた紫色の《カランビットナイフ》は大きく湾曲した実体刃であり、攻撃範囲こそ短いものの、少なくともエストックと正面から接触することができる。

 

 リオの身体は既に次へ動いていた。

 しかし死銃も2人へ挟まれることを嫌い、エレーナの銃剣からエストックを引き抜くと同時に数歩後退し、黒い外套もろとも再び砂漠の景色へ溶け込んでいく。

 

 今度はリオも追わなかった。

 エレーナ、キリト、リオの3人は一気に距離を詰めながらも1ヶ所に重なりすぎないよう位置をずらし、それぞれが別方向を監視できる三角形に近い配置を取った。視線を一方向へ集中させれば、その反対側から刺されるだけである以上、必要なのは消えた死銃を無理に探し出すことではなく、誰か一人の死角を残り二人が補うことだった。

 

 一方、岩山の頂上にいたシノンも、既に《ヘカートⅡ》を収納して斜面を下り始めていた。

 

 死銃の《L115A3》を破壊した以上、高所に残って長距離狙撃を続ける利点は薄い。何より、迷彩を使った死銃がキリトたちの至近距離へ入り込んだ時点で、《ヘカートⅡ》を撃てば味方を巻き込む危険の方が大きくなる。

 シノンは急斜面を岩から岩へ飛び移るように降りながら、腰へ携行していた《H&K MP7》を両手へ取り、まだ声の届かない距離から3人の動きだけを追っていた。

 

 その頃、死銃は再び3人の間へ踏み込んでいた。

 迷彩そのものは完全な透明化ではない。静止していれば周囲へ恐ろしいほど綺麗に溶け込むものの、大きく動けば背景の輪郭がほんの僅かに崩れ、風とは違う揺らぎが発生する。エレーナは本人の姿を探すことをやめ、砂丘の線や遠方の岩肌といった動かない景色を視野へ広く収め、その中で一部分だけが不自然に歪む瞬間を待った。

 

 右前方の砂が、僅かに揺れた。

 エレーナはほとんど反射的に《MGL-140》を突き出した。

 何もない空間から金属音が返る。

 

 バヨネットとエストックが噛み合った場所を中心として黒い外套の輪郭が滲み出し、そこにキリトが《カゲミツG4》を横薙ぎに振り込んだ。しかし、死銃はエレーナと武器を接触させたまま身体だけを後方へ捻り、光刃を紙一重でかわすと、その勢いを利用してエストックを引き抜く。

 

「待て!!」

 

 今度はリオが飛び込んだ。

 右手のカランビットがエストックの根元へ引っ掛かり、湾曲した刃で剣身を外側にずらそうとした。単純なSTRであればリオに分があるものの、死銃は力へ力で逆らわず、剣身を刃の曲線に沿わせるように手首を器用に回転させ、完全に捕まる直前にするりと拘束から抜けた。

 

 それだけで終わらない。

 死銃は逃げる動きから一転し、カランビットを振り切ったことで空いたリオの脇腹へエストックを突き込む。リオは咄嗟に身体を捻ったが完全には避けられず、右肩から胸元へかけて赤いダメージエフェクトが走った。

 

「っ……!」

 

「下がれ!」

 

 エレーナが前へ出た時には、死銃はもう姿を消していた。

 

 数では四対一になるはずだった。

 それなのに、状況は簡単には傾かなかった。

 

 死銃は決して一度の攻撃に固執しない。

 誰かを一撃で倒そうとはせず、迷彩の中から最も隙の大きな相手だけを刺し、反撃されるより早く距離を取り、別の方向へ回り込んで次を狙う。光剣ではエストックを受け止められず、エレーナが実体武器で防御できるとはいえ、彼女だけですべての方向を守れるわけでもない。

 

 キリトの右肩が一度抉られ、リオの胸にも傷が増えた。今度はエレーナ自身へ突き込まれた剣を《MGL-140》の銃身で受け流したものの、完全には外し切れず、前腕へ浅い傷が走る。

 

 そこにようやく、砂を蹴る別の足音が近づいた。シノンだった。

 

 斜面を一気に降りきり、3人から20メートルほどの距離まで接近したところで速度を落とす。ここまで来れば互いの声も十分に届く。

 

「ごめん!遅くなった!」

 

「シノン、死銃本人ではなく景色を見ろ!」

 

 エレーナが振り返ることなく指示する。

 

「分かった!」

 

 シノンは《H&K MP7》の銃口を死銃が最後に消えた方向に向けながらも、その一点だけを凝視しなかった。砂の流れ、岩の縁、遠方の暗い地平線をまとめて視界に入れ、そこへ存在するはずのない乱れを探す。

 

 4人が同じ戦場へ揃ったことで、死銃も攻め方を変えた。

 

 ──これ以上、1人ずつ細かく削っていては囲まれる。

 

 そう判断したのか、次に迷彩が解除された時、死銃が選んだのは再びキリトだった。

 黒い外套が夜の景色から剥がれるのと同時に、細い剣先が猛烈な速度で走る。最初の一突きは喉、次は胸、その次は腹部へと、間髪を入れず連続して繋がり、キリトは反撃するどころか身体を僅かにずらし続けるだけで精一杯だった。

 

 《カゲミツG4》を振っても、エストックの刀身を押し返すことはできない。

 大きく斬りかかれば、その予備動作へ刺突を差し込まれる。

 かといって後ろへ退けば、死銃は同じ速度で距離を詰めてくる。

 

 キリト自身がよく知っている戦い方だった。

 相手の大技を封じるために適切な間合いを維持し、反撃へ移る直前を狙って次の攻撃を重ね続ける。それを、死銃はほとんど執念と呼ぶべき精度で実行している。

 

 四撃目がキリトの腿を掠め、五撃目が腹部へ赤い傷を刻む。剣先は止まらず、全部で八度の刺突が1つの流れとして繋がっていた。

 

 《スター・スプラッシュ》。

 SAOに存在した、刺突系上位ソードスキル。

 しかしここはGGOであり、ソードスキルを補助するシステムなど存在しない。それでも死銃の動きには、軌道にも速度にもほとんど乱れがなかった。

 

 キリトは背筋へ冷たいものが走るのを感じた。

 

 繰り返したのだ。

 あの世界から生きて戻った後も、何度も、何度も。システムアシストなしでも同じ軌道を描けるまで、千回、万回という単位で同じ刺突を身体へ刻み込み、指先の角度から踏み込みの長さまで神経へ焼き付けたのだろう。

 この男は、あの時の自分を殺すためだけに剣を磨き続けてきた。

 

「お前は……卑怯者だ」

 

 連撃の合間から、加工された掠れ声が漏れた。

 

「全部、忘れて……何もなかったように……生きていた……お前は、卑怯者だ」

 

 キリトの表情が強張った。

 

「お前は、何も覚えていない……自分が殺した奴も、戦った相手の、名前さえ……そんな、お前が、本物のレッドプレイヤーである俺に……勝てるはずが、ない」

 

 それまで必死に動き続けていたキリトの足が、ほんの一瞬だけ鈍った。

 

 確かに、覚えていなかった。

 自分が殺した二人の名前も。ラフィン・コフィン討伐戦で捕らえた連中の名前も。

 終わった後に調べることさえできたのに、怖くて触れず、いつしか記憶の底へ押し込めた。

 

 死銃の言葉が、昨日エレーナへ自分で告白した弱さを正確に抉ってくる。けれど同時に、その声音と、細い剣と、連続して突き込まれる赤い軌跡が、別の記憶を無理やり引きずり上げていた。

 

 血盟騎士団の本部ではない、攻略会議でもない。《聖竜連合》の本部で開かれた、ラフィン・コフィン討伐作戦の会議。

 

 共有された危険人物の情報。

 細い剣を使う男──そして、仮面の奥から覗いていた異様な赤い眼。

 

「……ザザ……」

 

 自分の口から零れたその名前を、キリト自身が一番信じられないように聞いていた。

 何年間も記憶の奥へ押し込められ、顔も声も、あの夜に誰と剣を交えたのかさえ輪郭を失いかけていたはずなのに、目の前で繰り返される細剣の軌道を見続けているうちに、記憶の中でばらばらになっていた断片がようやく1人の男へ繋がった。

 《聖竜連合》の本部で行われた討伐戦前の会議、共有されたラフィン・コフィン幹部の特徴、細い剣を好んで使うプレイヤー、そして仮面の奥に覗いていた異様に赤い両眼──それらを繋いだ名前が、喉の奥からもう一度、今度は明確な意思を伴って押し出された。

 

「お前……《赤眼のザザ》か!」

 

 その名が夜の砂漠へ響いた瞬間、それまで止まることなくキリトを追い立てていたエストックの切っ先が、ほんの僅かに静止した。

 

 死銃──かつて《赤眼のザザ》と呼ばれていた男は、すぐには返事をしなかった。

 ボロ布のような黒い外套の奥に隠れた顔が僅かに持ち上がり、加工音声に覆われた低い息だけが漏れる。名前を当てられたことへの驚きというより、長い時間を掛けてようやく目的の1つを果たしたような、奇妙な満足がそこには混じっていた。

 

「……そうだ……ようやく、思い出したか……」

 

「……ああ」

 

「遅い……」

 

 掠れた声には怒りよりも、もっと歪んだ種類の執着があった。

 

「昨日……俺を見ても、お前は分からなかった……印を見せても、声を聞いても……俺の名を、呼べなかった……」

 

 キリトは何も言い返さなかった。それは事実だった。予選会場でラフィン・コフィンの棺桶と笑う口を組み合わせた紋章を見せられ、過去から伸びてきた何者かだということまでは理解しながら、その男が誰だったのかを思い出すことができなかった。忘れていたことそのものを否定するつもりはないし、今こうして名前を思い出したからといって、その空白まで無かったことになるわけでもない。

 しかし、死銃が求めていたのは謝罪ではなかったらしい。

 

「だが……あの時のお前は、違った……」

 

 エストックの切っ先がゆっくりと持ち上がる。

 

「仲間を殺され……怒り……殺意のままに、剣を振った……あれがお前だ……俺が知っている、黒の剣士だ……」

 

 鉄橋でエレーナに黒星を向けながら繰り返していた言葉と、キリトの中で意味が繋がった。

 死銃が確かめたかったのは、自分が何人殺したかでも、その罪をどれだけ悔いているかでもない。ラフィン・コフィン討伐戦の最中、仲間を守るためとはいえ我を忘れるほどの怒りと殺意に呑まれ、人間を斬ったあの時のキリトが今も存在しているのか、それだけだったのだろう。そのためにエレーナへ現実の死を突きつけ、自分の目の前で仲間を殺せば、再び同じものを引き出せると考えた。

 

「今のお前は……違う……迷って、怯えて、忘れて……そんなものは、偽物だ……」

 

「……勝手に決めるなよ」

 

 キリトは《カゲミツG4》を握り直した。

 名前を思い出したから怖くなくなったわけではない。自分が殺した2人についても、死銃以外のラフィン・コフィンの生存者についても、記憶にはまだいくつもの空白が残っている。それでも、その空白を埋めることと、目の前の男に自分という人間を決めさせることは全く別の問題だった。

 

「俺はあの日のことを忘れようとしてた。お前の名前も思い出せなかった。確かに、それは変わらない」

 

 キリトは死銃から目を逸らさなかった。

 

「でも、だからってお前が俺を決める理由にはならない。昔みたいに怒り狂わなきゃ本物じゃないって言うなら……俺はお前の言う本物じゃなくていい」

 

 返答を聞いた死銃の肩が僅かに揺れた。

 それが怒りだったのか、期待を裏切られた苛立ちだったのかを確かめる間もなく、男は砂を蹴った。先ほどまで以上に深い踏み込みからエストックが伸び、光剣では受けられない細い切っ先がキリトの胸に一直線に迫る。キリトは身体を捻って急所だけを外したものの、死銃はそこから間合いを切らせるつもりなどなく、外れた剣を引く動作そのものを次の刺突へ繋げて追いすがった。

 

 けれど、今はキリト1人を相手にしているわけではなかった。

 十数メートル離れた位置から2人の攻防を見ていたシノンは、《H&K MP7》のセレクターを切り替え、連射ではなく一発ずつ正確に撃てる状態に移していた。

 キリトに肉薄している死銃本人を狙えば、少しでも照準が逸れた時に味方に当てかねない。それなら身体へ当てる必要はないと判断し、死銃が次に踏み込もうとした右足のさらに外側へ照準を置く。

 

 一発だけ撃った。

 乾いた銃声とともに4.6ミリ弾が死銃の靴先から僅か数十センチ離れた砂を弾き飛ばし、その視界へ砂粒を撒き上げる。死銃の身体が反射的に反対側へ寄ったところへ、今度は移動先を塞ぐようにもう一発が落ちた。

 

 当てるための射撃ではなかった。

 ほんの一瞬でも動ける方向を限定できれば、それだけで十分だった。死銃が選べる進路が絞られたところに、エレーナが踏み込んだ。

 

 《MGL-140》の長いバヨネットを下から差し込み、キリトへ向けられていたエストックを横へ弾く。死銃はすぐに細剣を引き戻そうとしたものの、エレーナも深追いして刺しに行くことはせず、銃身とバヨネットの根元を利用して剣の進行方向だけを潰し続けた。

 

「キリト、離れろ。今なら間合いを切れる」

 

「ああ!」

 

 キリトが大きく後方へ跳び、ようやくエストックの有効距離から抜ける。それを追おうとした死銃だったが、前へ出ればエレーナの銃剣、右へ回ればシノンの射線が待っており、左側には既にリオが回り込んでいた。

 

 3人が同時に攻撃を仕掛けたわけではない。

 1人が移動先を制限し、1人が武器を押さえ、1人が退路を狭める。それだけで、それまで自由にキリトを追い回していた死銃の行動範囲は急激に狭くなっていった。

 

 死銃もそれを察したのだろう。

 エレーナの銃剣へエストックを押しつけた状態から突然力を抜き、武器を滑らせるように拘束を外すと、大きく後退しながら光歪曲迷彩を起動した。黒い外套の輪郭が砂漠の背景へ馴染み、数秒もしないうちに人影そのものが消えていく。

 

「また消えるぞ!」

 

 キリトが叫びながら視線を走らせたが、今度のリオは死銃を追わなかった。代わりに、自分の灰白色の外套の留め具へ手を掛けた。

 

「……だったら、アタシもだ」

 

 光歪曲迷彩を起動する。

 灰白色だった外套が夜の砂漠を映し込み始め、白銀の髪も、細い手足も、その場から削り取られていくように輪郭を失った。完全に透明になったリオはすぐに走り出したものの、足音を立てながら真正面から死銃を追うような真似はせず、大きく外側へ迂回していく。

 

 その移動を完全に把握できている者はいなかった。

 エレーナも、リオが消えた位置を一度確認しただけで呼び戻そうとはしない。ここまで何度も彼女の戦い方を見ている以上、細かな経路まで指示するより、本人へ任せた方が早いことは理解していた。

 

 見えなくなった死銃と、同じく見えなくなったリオ。その二人が砂漠のどこを動いているのかを探す間もなく、キリトの正面で景色が僅かに揺れた。

 

(来た!)

 

 キリトが身体を横へずらした直後、何もない空間からエストックが突き出された。

 

 かわされることまで読んでいた死銃は、そのまま手首だけを返して剣先を横へ滑らせ、キリトの首筋を追う。しかし、そこへエレーナが飛び込むようにして入り、《MGL-140》の銃身をエストックの下側へ当てた。

 

 今度は弾くのではなく、思い切り上に跳ね上げる──細い剣身がキリトの頭上へ逸れ、死銃はすぐに腕を引こうとした。

 

 その時、死銃の背後にあった小さな岩の上で、何も存在しないはずの空間が大きく沈んだ。誰もが透明になったリオが岩を蹴ったのだと理解できたのは、その直後だった。

 

 光歪曲迷彩を維持したまま死銃の死角へ回り込んでいたリオが、岩を踏み台にして高く跳躍する。姿が見えないまま身体を前方へ一回転させ、宙返りの頂点で《ツバキJ3》を両手へ持ち替えると、落下へ移るのと同時に迷彩を解除した。

 

 夜空の中へ、白銀の髪が突然現れた。

 

 外套が開き、その中央で紫色の光刃が頭上から真下へ振り下ろされる。

 

「────っ!!」

 

 死銃が振り返った時には、既に遅かった。

 エレーナによって高く押し上げられていたエストックごと腕を戻そうとした、その右肩へ《ツバキJ3》の縦斬りが直撃する。光刃は肉体も抵抗なく通過し、肩口から深く入り込むと、そのまま右腕を胴体から完全に切断した。

 

 大量の赤いダメージエフェクトが夜の中へ噴き上がり、切り離された右腕はエストックを握ったまま砂地へ落ち、数度跳ねて停止した。

 

 リオは死銃のすぐ背後へ両足から着地し、膝を深く沈めて勢いを殺すと、振り向きざまに間を置かず光剣を構え直した。

 

「取った!!」

 

 それまでキリトを一方的に追い詰めていた実体剣が失われた。

 普通なら、それで戦闘はほとんど決していたはずだった。しかし死銃は、腕を失った直後にも一瞬たりとも立ち尽くさなかった。

 

 右肩から赤いエフェクトを撒き散らしたまま素早くリオから距離を取り、残った左腕を黒い外套の下へ滑り込ませる。

 その動きを見た瞬間、エレーナは《MGL-140》のバヨネットを、キリトは《カゲミツG4》を構えるが、それよりも早くシノンの目が外套から引き抜かれた黒い物体を捉えた。

 

 《黒星・54式》。

 

 鉄橋でエレーナへ向けられた拳銃が、再び夜の中へ現れた。

 

 死銃が何をしようとしているのかは、考えるまでもなかった。

 エストックを失い、自分自身も4人に囲まれ、勝敗がほとんど決まりかけているというのに、それでも男は黒星を捨てようとはしなかった。左手だけで銃を持ち上げ、キリトではなく、そのすぐ横のエレーナへ銃口を向ける。

 

 鉄橋と同じだった。

 もう一度、エレーナを撃つ。キリトの目の前で仲間を殺し、あの夜と同じ怒りを引きずり出す。最後まで、その目的だけは諦めていない。

 

 黒い銃口がエレーナの胸へ重なる。

 その光景を見た瞬間、シノンの胸の奥に冷たい感覚が走った。

 

 郵便局で自分が握ったものと同じ輪郭、同じ黒いスライド、同じ細い銃口。その姿へ視線が触れただけで、床へ倒れた男や、手の中へ返ってきた反動や、肩へ走った痛みは今でも記憶の底から浮かび上がってくる。

 

 怖さが消えたわけではなかった。

 鉄橋で一度撃てたからといって、過去が片づいたわけでもない。

 

 それでも、今度は記憶の方へ身体を引っ張られることはなかった。シノンは手の中の《H&K MP7》を持ち上げた。

 

 相手の身体に連射しても、相手が撃つ前に倒し切ることはできない。であれば、狙うものは最初から1つしかなかった。

 セミオートに切り替えていたままのトリガーへ指を掛け、死銃の左手ではなく、そこに握られている黒星だけを照準へ収める。

 

 シノンは時間がゆっくりになったような感覚の中、静かに息を吐いた。

 郵便局にいた男へ向ける銃ではない。弱い自分を強くするための銃でもない。

 

 今、エレーナを奪おうとしている一丁の拳銃を壊すために撃つ。

 そう思えば、狙点は驚くほど明確だった。

 

「……もう、やらせない」

 

 死銃の人差し指が黒星のトリガーへ掛かった瞬間、シノンは1発目の弾丸を放った。

 

 《H&K MP7》から放たれた4.6ミリ弾が拳銃のスライドに横から直撃し、死銃の左腕ごと大きく弾く。銃口がエレーナの胸から逸れたものの、死銃はそれでも黒星を手放さず、無理やり照準を戻そうとした。

 だから、シノンも止めなかった。

 

 2発目の弾丸を放つ──今度はフレームへ命中し、黒い拳銃の表面へ大きな亀裂が走った。赤い破損エフェクトがそこから細く噴き出し、武器の耐久値が限界近くまで落ちたことを示していたが、死銃はなおも銃を持ち上げる。

 

 そして、3発目──弾丸は最初の二発によって脆くなった中央部へ正確に食い込んだ。

 

 乾いた破砕音が響いた。

 《黒星・54式》のスライドとフレームが死銃の手の中で裂け、黒い星は複数の部品へ分かれて砂の上へ散らばる。完全に耐久値を失った破片は、落下した先から淡い粒子へ変わり、跡形もなく夜の空気へ溶けていった。

 

 シノンは、その消えていく光を最後まで見た。

 

 何かが胸の中から消えていくような劇的な感覚はなかった。

 過去も残っている、怖さも残っている。郵便局で男を撃ち殺した事実も、自分の肩に残った痛みの記憶も、これからずっと自分の中にあるのだろう。けれど、今度は自分が狙い、自分が撃ち、自分の意思で止めた。

 それだけでよかった。

 

「……シノン」

 

 エレーナの声が、砂漠を渡る風の中でもはっきり届いた。シノンは《H&K MP7》を構えたまま一度だけ彼女を見る。

 

「大丈夫」

 

 今度はエレーナが何かを尋ねるより先に、自分から答えた。エレーナは一瞬だけシノンを見返したものの、それ以上確かめることはせず、すぐに死銃へ視線を戻した。

 

「ああ」

 

 その短い返事だけで十分だった。

 右腕とエストックを失い、黒星まで破壊された死銃には、4人を押し返すための武器はもう残っていなかった。それでも死銃は逃げようとせず、残った左手を握り締めながら最後までキリトだけを見ていた。

 

「キリト……」

 

 加工音声が、先ほどまでよりさらに深く歪む。

 

「見せろ……お前が、本物なら……」

 

 なおも求めているものは同じだった。

 恐怖でも謝罪でもない。自分へ向けられる、あの時と同じ殺意だった。

 

 キリトは《カゲミツG4》を構えながら、その言葉を静かに聞いていた。

 

「……悪いけど」

 

 先ほどまでの刺突戦とは違い、もう間合いを支配しているのは死銃ではなかった。

 キリトは光剣を握る手へ力を込めた。

 

「俺は、お前が見たいものを見せるために戦ってるんじゃない」

 

 死銃が左足を踏み込んだ。

 武器を失ってなお、最後までキリトへ掴みかかろうとする。

 

 4人で追い詰めた。

 だからこそ、最後の一撃だけはキリトに任せることができた。

 

 死銃の左手がキリトの喉へ伸びる。

 キリトは半歩だけ身体を横に滑らせると、指先が頬のすぐ横を通り過ぎる。

 

「終わりだ、ザザ」

 

 右手の《カゲミツG4》が低い位置から振り抜かれる。紫色の光刃は死銃の脇腹へ入り、そのまま胸部をすれ違うようにして胴体を薙ぎ払った。赤いダメージエフェクトが夜の砂漠へ大きく散る。

 

 既にリオによる腕の切断とシノンの射撃によって削られていた死銃のHPがキリトの一撃で完全に消失したらしく、死銃は勢いのまま二歩ほどよろめき、それでも最後までキリトへ顔を向けようとしたところで、戦闘不能処理によって膝から力が抜ける。

 

 頭上へ赤い《DEAD》の文字が浮かんだ。

 黒い外套を纏った身体は、その表示を残したままゆっくり砂の上へ崩れていった。

 

「……あの人が……」

 

 倒れかけた死銃の喉から、加工によってひどく掠れた声が漏れた。

 

「……お前を……」

 

 それ以上の言葉は続かなかった。

 戦闘不能となったアバターには意識こそ残されているものの、本戦終了までは身体を動かすことも、言葉を発することも許されない。

 《DEAD》の表示だけを残して横たわる黒い影を前に、4人の誰もすぐには武器を収めなかった。鉄橋からここまで何度も追い回され、狙撃銃を破壊された後でさえ光歪曲迷彩とエストックを組み合わせて4人を追い詰めた相手だけに、《DEAD》の表示を確認しても、戦闘が終わったという実感が身体へ追いつくまでには僅かな時間が必要だった。

 

 エレーナは《MGL-140》の銃剣を下げながらも、倒れた死銃ではなく周囲の砂漠へ視線を走らせていた。

 リオも《ツバキJ3》を起動したまま、先ほど自分が切り飛ばした右腕と、その傍らへ落ちたエストックが動かないことを確かめている。

 キリトもまた、《赤眼のザザ》というようやく取り戻した名前と、最後に残された「あの人が……」という言葉を胸の中で反芻しながら、しばらくその場から動かなかった。

 

 シノンだけは、死銃本人とは別の場所を見ていた。

 

 少し離れた砂地──そこにはもう、《黒星・54式》は存在しない。

 三発の銃弾によって砕かれた破片まで、既に粒子となって消えていた。

 

 シノンはそれを数秒見つめた後、今度はエレーナへ視線を移した。

 

「……終わったのか?」

 

 長い沈黙のあと、リオがいつもより少し抑えた声で尋ねた。エレーナはようやく死銃の《DEAD》表示へ視線を戻し、続いて周囲に新たな敵影がないことを確かめてから答える。

 

「ゲーム内の実行役については、少なくとも行動不能になった」

 

 勝利を喜ぶというより、危険要因の1つを排除したことだけを確認する声音だった。

 

「だが、洞窟で立てた仮説が正しければ、事件そのものは終わっていない。現実側の共犯者が存在し、既に標的の住居へ侵入している可能性も残っている。黒星を破壊したことで少なくともゲーム側から同じ手順を実行することは難しくなったが、それを安全の根拠にはするな」

 

 その言葉を聞いたシノンの視線は、自然にエレーナへ向かった。

 鉄橋で動けなくなっていた時とは違い、今のエレーナはしっかりと自分の足で立ち、《MGL-140》を保持する腕にも不安定さはない。エストックによって浅く裂かれた前腕には赤いダメージ痕が残っているものの、全体的には大したダメージではなかった。

 

 それでもシノンは、もうその姿を見て単純に「エレーナなら大丈夫だ」とは考えなかった。

 

 この人も怖がるし、傷つく。

 1人ではどうにもならない時もある──だから、守られるだけでなく、守ってもいい。

 

 洞窟で口にした「一生くらい」という言葉を思い出すと、今さら顔が熱くなった。

 それでも撤回したいとは思わなかった。

 

 シノンは少し長い間、エレーナの横顔を見ていた。

 当の本人はそんな視線にも気づかず、既に周辺の地形と端末へ注意を移し、次に何をするべきかを考えているらしい。洞窟であれだけ言ったにもかかわらず、恐らく彼女の中では今でも「治療終了後も関係を継続したいと求められた」という程度に整理されているのだろう。

 

 その鈍さには少し腹が立つ。

 けれど、そのどうしようもないところまで含めて、確かにいつものエレーナだった。

 

「エレーナ」

 

 考えるより先に名前を呼んでいた。

 十メートルも離れていなかったエレーナは、すぐに振り返った。

 

「何だ?」

 

 ただ、それだけだった。

 こちらが呼べば、ちゃんと返事が返ってくる。その事実を確かめた途端、シノンは言おうとしていたことを飲み込み、小さく首を横へ振った。

 

「……何でもない」

 

「そうか」

 

 エレーナはそれ以上追及しなかった。

 死銃を倒したことよりも、黒星を壊したことよりも、名前を呼んだ相手がまだそこにいて、こちらを向いてくれることの方が、シノンにはずっと大きかった。

 




星空に紛れ、美しき獅子が踊る時、
知らず息を潜め、荒野を見つめるだろう。
張り詰めた月光が砂も吐息も白く染めあげる。
獅子が消えし時、帳の如き外套が燐光を残し、
大地は白銀の痕跡を刻む。
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