2025.12.14
GGO内・第3回BoB決勝戦会場・ISLラグナロク
死銃の頭上へ赤い《DEAD》の文字が浮かび上がってからも、四人はすぐには武器を下ろさなかった。ほんの少し前まで激しい銃撃と光剣の斬撃が交錯していた北部砂漠には、夜の風だけが何事もなかったように吹き抜けており、《FR-X》の直撃によって焼き抜かれた岩肌も、《ヘカートⅡ》の大口径弾が穿った砂地も、戦闘が終わってしまえばただのフィールドオブジェクトとして静かに残されている。リオによって切断された死銃の右腕も、エストックを握ったまま数メートル向こうへ転がっており、《黒星・54式》だけは耐久値を完全に失ったことで既に光の粒子となって消滅していたが、それでも四人の身体には、黒い外套がもう一度起き上がるのではないかという警戒が抜けきらずに残っていた。
狙撃銃を失えば光歪曲迷彩とエストックへ切り替え、右腕を失ってなお《黒星・54式》を取り出し、最後の瞬間まで目的を諦めなかった相手だった。システム上では既に何もできないことを理解していても、先ほどまで命を狙われていた感覚は簡単には消えてくれず、四人は頭上の《DEAD》表示が揺らぐことなく残っていることをしばらく確認した後になって、ようやく少しずつ銃口や光刃を下げていった。
「……現時点で、ゲーム側の実行役は無力化した」
最初に口を開いたエレーナは、《MGL-140》の銃口を砂地へ向けると、死銃から視線を外して端末を呼び出した。
「だが、洞窟で立てた推測が正しいなら、これで解決したのは全体の半分に過ぎない。死銃がGGO内で標的を撃ち、その時刻に合わせて現実側の共犯者が殺害していたのなら、ここで死銃を倒したことと、現実側の実行役が行動を停止したことの間に因果関係はない。むしろ、向こうがこちらの状況を把握できていない以上、既に予定されていた行動をそのまま続けている可能性も考えるべきだろう」
キリトもすぐに意味を理解したらしく、死銃の黒い外套からエレーナへ視線を移した。
「特に危ないのはエレーナか」
「ああ。少なくとも最後に明確な標的とされていたのは私だ」
「現実の方は大丈夫なのか?」
「それを確認する手段は、今の私にはない」
エレーナの返答には迷いがなかった。
「正常にログアウトでき、室内にも異常がなければ、私から菊岡に連絡して警察を呼ぶ。それが最も単純で早い。ただし、過去の被害者がフルダイブ中に殺害されていたという推測まで含めれば、実行役は対象が目を覚ます前に室内へ侵入することを前提として動いている可能性が高い。つまり私が現実へ戻った時には、既に通報できない状況へ置かれているかもしれない」
シノンの表情が僅かに強張った。
「……目を覚ました時には、もう部屋にいるかもしれないってこと?」
「そう考えておいた方がいい。実際には何も起きていない可能性もあるが、今は楽観することで得られるものがない」
そこでエレーナはキリトへ顔を向けた。
「だから君にも頼みたい。私は正常に戻れた場合、自分で菊岡へ連絡する。君もログアウト後、菊岡へ連絡してくれ。私からの通報がなかったとしても、そちらから警察を動かせる状態にしておきたい」
「分かった。菊岡さんなら事件のことは最初から知ってるし、俺が全部説明するより早い。ただ、警察を向かわせるなら住所がいるぞ」
「当然だな」
エレーナは特に躊躇することもなく、現実の住所を番地から建物名、部屋番号まで伝えた。
「東京都文京区湯島、四丁目──」
「……湯島?」
途中まで聞いていたキリトが、僅かに目を見開いた。
「そうだが」
「驚いたな。俺、今ダイブしてるの御茶ノ水なんだ」
「御茶ノ水?」
シノンも思わずキリトを見る。
「ああ。病院からダイブしてる。そこなら湯島まで大して離れてない」
キリトはエレーナから聞いた住所をもう一度頭の中で確かめるように間を置き、それから少し考えて続けた。
「だったら、菊岡さんに連絡した後、俺もそっちへ行こうか?」
「君が?」
「警察が動いてくれるとしても、到着まで何分かは掛かるだろ。御茶ノ水からなら俺の方が先に着けるかもしれないし、本当に実行役が近くにいるなら一人より──」
「必要ない」
エレーナは最後まで聞く前に静かに断ったため、キリトが僅かに眉を上げた。
「いや、でも一人なんだろ?」
「一人ではない」
「え?」
「シノンが隣の部屋に住んでいる」
何でもないことのように告げられた言葉に、キリトの視線がそのままシノンへ移った。シノンは一瞬だけ居心地が悪そうに目を逸らしたものの、否定する理由もなかった。
「そうよ」
「……あ、まさかリアルでも知り合いなのか?」
「知り合いというか、隣人ね」
「初耳なんだけど……」
「聞かれてないもの」
キリトが何か言おうとしたところで、今度はリオが楽しそうに割り込んできた。
「アタシもいるぞ!」
「いるって?」
「今、エレーナと同じ部屋にいる!」
今度こそキリトは言葉を失い、エレーナ、シノン、リオの三人を順番に見比べた。
「ちょっと待ってくれ。リオはエレーナと同じ部屋からダイブしてて、シノンはその隣?」
「そうだ」
「三人とも現実で知り合い?」
「ああ」
「俺、それ何も知らないまま今まで一緒に戦ってたのか……?」
「何だ、知らなかったのか?」
「いや、分かるわけないだろ……」
「聞けば教えたぞ!」
「普通、VRで会った相手にいきなり住所とか聞かないだろ」
リオが面白そうに笑い、シノンまで僅かに口元を緩めたことで、死銃との戦いから張り詰め続けていた空気がほんの少しだけ和らいだ。しかしエレーナは長く脱線するつもりはないらしく、三人のやり取りが一区切りしたところで話を戻した。
「事情は今説明した通りだ。私が正常に戻れれば、自分で連絡する。リオも同室にいて、隣にはシノンがいる。君がこちらへ向かうより、まず菊岡へ連絡して警察を動かしてくれた方がいい」
「でも、その三人全員が死銃の計画を邪魔したんだぞ。犯人が狙ってるのがエレーナだけだって保証はないだろ」
「その可能性も否定はしない。だからこそ、こちらへ移動する時間を使うより、既に事件を把握している人間へ情報を渡すことを優先してほしい。私が通報できるなら連絡経路は二つになるし、私が通報できないなら君からの連絡が唯一残る。どちらの場合でも、その方が結果は良い」
そこまで説明されれば、キリトにも反論はなかった。
「……分かった。ログアウトしたら、すぐ菊岡さんに連絡する」
「頼む」
「でも本当に、何かおかしかったら無茶するなよ」
「その忠告自体は正しいが、君にだけは言われたくないな」
「何でだよ」
「自覚がないなら説明しても長くなるだけだ」
「……その返しずるくないか?」
キリトが呆れたように息を吐く横で、シノンはエレーナとリオを見た。現実へ戻れば、壁一枚向こうには二人がいる。自分の部屋に何もいなければすぐに隣へ連絡し、二人の無事を確かめればいい。現実側の共犯者という不安そのものは消えなかったが、一人きりで目を覚ますわけではないという事実は、それでも確かな安心材料になっていた。
エレーナも現実側について今できる準備は済んだと判断したらしく、呼び出していた端末へ目を落とした。
「残る問題は大会そのものだな」
死銃を止めることへ意識を奪われていたが、BoBそのものはまだ終わっていない。最後のサテライト・スキャンと、それ以降に確認した脱落者を合わせれば、生存している参加者は恐らくこの四人だけであり、現実へ戻るためには何らかの形で勝敗を確定させなければならなかった。
「で、どうやって終わらせる?」
キリトが尋ねると、リオは少しだけ考えるように首を傾げ、それからエレーナが持っている《MGL-140》へ視線を向けた。
「なら、みんなで吹っ飛べばいいんじゃないか?」
あまりにも単純な提案だったため、キリトが思わずリオを見る。
「四人で集まって、エレーナが足元に一発撃てば終わるだろ。近くで爆発すれば全員死ぬぞ」
「優勝決める大会の最後が四人まとめて自爆って、絵面としてどうなんだ……?」
「早い方がいいんだろ?」
リオの理屈そのものは間違っていなかった。
《MGL-140》の榴弾を四人が密集した状態でまともに受ければ、わざわざ一人ずつ戦うより遥かに早く大会を終わらせられる。現実側へ一刻も早く戻るべきだという先ほどの話とも噛み合っており、実用性だけを考えればかなり合理的な方法だった。
その場合に大会システムがどう処理するかについても、シノンには過去の前例から予想がついていた。
「多分、その場合は同時優勝になるわね」
「同時優勝?」
「前に最後の二人が、お土産グレネードで一緒に死んだことがあるのよ。負ける直前に残した手榴弾に勝った方まで巻き込まれて、ほとんど同じタイミングでHPがなくなった結果、二人とも優勝扱いになったの。だったら四人同時でも、同じ処理になるんじゃない?」
「ほら!」
自分の案がシステム上も成立すると分かったリオが得意そうに胸を張る。
「じゃあそれでいいじゃん!一番早いぞ!」
現実へ戻る速度だけを考えれば、それが最も合理的だった。エレーナも一度は手にした《MGL-140》へ視線を落としたものの、その横でシノンは少し離れた場所に横たわる黒い外套を見つめたまま黙り込み、やがて小さく首を振った。
「……やっぱり、やめない?」
「ん?」
「自爆するの」
リオがすぐに首を傾げる。
「でもオマエ、できるって言っただろ?」
「できるわよ。それが一番早いのも分かってる」
シノンは手の中に残っていた《H&K MP7》へ目を落とした。今日ここへ来た時、自分はただBoBで勝つために戦うつもりだった。けれど途中から、この大会はまったく別のものへ変えられた。
ゲームの中で撃たれることが、現実側で人を殺すための合図にされていた。アバターの頭上へ浮かぶ《DEAD》という、本来ならただ敗北を意味するだけの表示まで、今日は現実の死と結びつけられていた。そして死銃が最後に取り出したものは、何年もの間自分を苦しめ続けてきた黒星そのものだった。本来なら何度撃たれても、何度斬られても、HPがなくなれば負けるだけの世界へ現実の殺人を持ち込み、ゲームの中の「死」にまで本物の死を重ねてしまった。
「私、優勝できなくてもいい」
シノンは黒い外套から目を離した。
「でも最後まで死銃のやり方で終わるのは、なんか嫌なの」
キリトは何も言わずに彼女を見る。
「ここで死ぬのは、本当は何でもないはずでしょ。撃たれても斬られても、HPがなくなって負けるだけ。なのに今日はずっと、ここで死ぬことが現実の死と繋がってた。だったら最後くらい、普通のBoBに戻したい」
四人で自爆したところで、本当に死ぬわけではない。それでも死銃を倒した直後に、最後に残った四人が自分から「死ぬ」ことで大会を終わらせることには、どうしても引っ掛かるものがあった。
「普通に戦って、勝った人が優勝して、それで終わりにしたい。ここは最初からゲームだったんだって、自分たちで戻してから現実に帰りたいの。その方が……必要な気がする」
しばらく黙っていたキリトが、最初に頷いた。
「俺はそれでいい。ただ、現実側で一番危ないのはエレーナだ。最後は本人が決めた方がいいと思う」
エレーナはすぐには答えず、現実へ戻るまでに増える時間と、今シノンがここで求めているものを比較するように考えていたが、やがて《MGL-140》を下げた。
「長引かせないことが条件だ。潜伏や意図的な逃走はなし、二組に分かれて同時に開始し、勝った二人がそのまま最後に戦う。それなら余計に使う時間は数分で済む。シノン、それでいいな?」
「うん」
「ならアタシはキリトだな!」
許可を待っていたかのようにリオが即座にキリトを指差したため、本人は露骨に嫌そうな顔をした。
「何で即決なんだよ」
「オマエが一番強いから!」
「もうちょっと迷うとかないのか?」
「ない!いざ勝負だ!」
リオにとってはそれだけで十分らしく、既に《ツバキJ3》の柄へ手を掛けている。シノンはそんな二人を見た後、《ヘカートⅡ》を実体化させ、自然に残った相手へ視線を向けた。
「じゃあ私はエレーナね」
「ああ」
二組は互いの戦闘が干渉しない程度まで離れ、それでも長距離の追跡戦へ移行しない範囲に位置を取ってから、端末で開始時刻だけを合わせた。表示された数字が一つずつ減っていき、最後の数字が消えた瞬間、東側の砂地ではリオが地面を蹴り、《ツバキJ3》を起動させた紫色の光刃を片手に、遮蔽物へ回り込むこともなく真正面からキリトへ向けて加速した。
「ホント、とんでもないスピードだな!」
キリトは《FNファイブセブン》を抜き、一直線に距離を詰めてくるリオへ数発撃ち込んだ。
バレット・ラインを認識したリオは、一発目には首と上半身を大きく横へ倒し、二発目には走る勢いをほとんど殺さないまま膝を沈め、三発目については完全な回避が間に合わないと判断したのか、左手のカランビットを射線へ差し込んだ。銃弾が湾曲した刃へ当たって火花を散らし、衝撃で左腕が大きく弾かれたものの、その動きすら走る姿勢を立て直す勢いへ変え、リオはほとんど速度を失わないまま間合いを詰めてきた。
「そんなの全然当たらないぞ!」
数十メートルあった距離は急速に消え、キリトは拳銃から《カゲミツG4》へ持ち替えると、起動した紫色の光刃で《ツバキJ3》を受けた。
二本の光剣から大量の光の粒子が弾け、最初の一撃を受けただけで正面から力をぶつけ合えばリオの方が上だと理解したキリトは、そのまま押し返そうとはせず、《カゲミツG4》の角度を僅かに変えて斬撃を外側へ流し、リオの身体が前へ流れるのに合わせて半歩だけ横へずれることで懐へ入り込んだ。
そこから低い位置を通して光刃を振り上げれば、前へ流された《ツバキJ3》を戻して防ぐには間に合わない。ところがリオは剣で受けること自体を選ばず、上半身を大きく後方へ反らして《カゲミツG4》を鼻先すれすれで通過させると、常人なら一度手をつかなければ戻れそうにない角度から腹部の力だけで弾かれるように身体を起こし、その時には既に前へ流れていた《ツバキJ3》まで横薙ぎへ戻していた。
キリトは後方へ跳び、胸元へ迫った紫色の光を紙一重でかわしながら間合いを取り直した。すぐには反撃へ移らず、これまでリオの戦い方を見て感じてきた違和感を確かめるように、その立ち姿を眺める。
「……やっぱり変だ」
「ん?何がだ?」
「前から気になってたんだよ。お前の動き」
「そうだろう!アタシ速いだろ!」
「それもある。でも、それだけじゃない」
キリトが思い出していたのは、身体を折り曲げる角度や重心が崩れた状態から立て直す速さだけではなかった。
一度見た他人の動きとよく似たものが、次にリオが動く時には当然のように混ざっている。死銃の踏み込み、銃撃を避ける際に誰かが使った切り返し、自分がつい先ほど見せた足運びまで、それぞれ別の人間の癖だったはずのものが、リオの中で妙に自然な一続きの動作へ変わっていた。
「お前、ずっと他人の動き真似してるだろ」
「おお!分かったのか!」
リオは秘密を見抜かれたというより、ようやく気づいてもらえたことを喜ぶように目を輝かせた。
「やっぱり意識してやってたのか」
「うん。アタシ、昔から真似するの得意なんだ」
リオは《ツバキJ3》を持ったまま自分の腕を見下ろし、どう説明すればいいのか少し考える。
「アタシさ、普通の人より筋肉が多いんだって。でも身体はすげー柔らかい。だから見た動き、だいたいそのままやれるんだ。全部同じは無理でも、アタシが動きやすいように変えればできるぞ」
「それ、リアルの身体の話なんだな」
「そうだぞ?」
何を当然のことを聞いているのかという顔で返され、キリトは一瞬だけ言葉を失った。
現実の筋力がそのままGGOのSTRへ変換されるわけではないものの、フルダイブ中でも自分の身体をどう動かせると認識しているかという感覚まで消えるわけではない。現実で極端な柔軟性と身体操作を持ち、その動かし方が深く染みついているなら、仮想世界でも普通の人間が思いつかない姿勢や動作を自然に選べるということなのだろう。
「例えば──」
リオが右足を少しだけ引いた。
その足の位置を見た瞬間、キリトの目が細くなる。つい先ほど、自分がリオの斬撃を受け流して懐へ入り込むために使った足運びだった。
リオが楽しそうに笑う。
「こんなふうにな!」
踏み込んだ身体は真正面へ突っ込んでくるように見えたが、接触する直前で軸足を入れ替え、キリト自身が使ったのとほとんど同じ要領で右側へ滑り込んだ。そこから振り上げられた《ツバキJ3》まで、先ほどキリトが見せた逆袈裟を左右反転させたような軌道を描く。
「っ!」
キリトが《カゲミツG4》を差し込み、光刃同士が激しく衝突した。しかしリオはそこで止まらず、死銃がエストックで用いていた深い踏み込みを自分の剣へ合う形へ変えてさらに一歩入り込み、その直後にはキリトが銃撃を避けた際の切り返しまで繋げてくる。単に他人を真似しているのではなく、見た動きの中から使える部分を抜き取り、それぞれを自分の身体に合わせて組み直しているらしい。
「なるほどな……!」
何度目かの斬撃をかわしながら、キリトはようやく違和感の正体を掴んだ。剣を扱った経験そのものなら自分の方が遥かに長く、まして命を懸けた対人戦の数には比べようもないほどの差がある。それでも長く戦えば戦うほど、リオはこちらが見せたものを拾い、その場で自分の手札へ変えていくため、同じ戦い方を続けること自体が彼女を強くすることに繋がってしまう。
「面白いな、お前!」
「ふふん、そうだろ!アタシも楽しい!」
もう一度二本の光刃が激しくぶつかったところで、キリトは戦い方そのものを変えた。一度見せたものを覚えるのであれば、その記憶を逆に利用し、同じ動きが来ると思わせておいて違う結果へ誘導すればいい。
先ほどと同じ方向へ大きく足を出し、同じように軸足を切り替える。リオはその先の斬撃を読んで身体を外側へ動かしたが、キリトはそこで剣を振らず、途中から踏み込みの方向を変えることで、リオ自身が回避のために空けた側へ滑り込んだ。
「あ、あれ?」
初めて僅かな迷いが浮かんだ瞬間、低い位置から《カゲミツG4》が振り上げられた。リオも反応したものの完全には間に合わず、光刃が左脇腹から胸部へ深く走り、大量の赤いダメージエフェクトを噴き上げながら、死銃戦で既に削られていたHPを危険域まで一気に落とす。
それでもリオは退かなかった。今までのようにキリトの動きを模倣して次の攻撃へ繋げるのではなく、自分がそれを利用していることまで読まれたのだと理解した瞬間、傷を受けた身体を後ろへ逃がす代わりに横へ回し、その回転を《ツバキJ3》へ乗せながら、自分が最も深く踏み込める軌道からキリトの首へ斬撃を走らせた。
「そう来るか!」
「今度は騙されないぞ!」
キリトは上半身を大きく倒し、《カゲミツG4》で光刃を僅かに押し上げながら首への一撃をかわした。しかしリオは弾かれた剣を止めず、その勢いを肩から腰へ流し、身体ごと回転することで二撃目を斜め下から返してくる。
狙われたのは胴体だった。キリトは右足を軸に身体を捻り、致命部だけでも射程から逃がそうとしたものの、完全には間に合わず、《ツバキJ3》が右肩を深く通過したことで《カゲミツG4》を握っていた右腕が肩口から切断された。
「っ……!」
突然片側の重量を失ってキリトの身体が大きく傾いたが、リオは腕を落としたことを喜ぶ暇すら作らなかった。最初からキリトのHPを削り切るつもりで攻め続けているため、《ツバキJ3》を振り抜いた勢いのまま身体を深く沈め、立て直そうとするキリトの下半身へ光刃を返す。
キリトは片脚を引いて射程から逃れようとしたものの、右腕を失ったことで崩れた重心を戻すための踏み替えが僅かに遅れ、その瞬間に《ツバキJ3》が左膝の下を通過した。左脚まで失った身体が砂地へ傾き、リオは今度こそ勝負を決めるつもりでさらに踏み込み、倒れていくキリトの胸へ光刃を突き込む。
キリトは倒れながら目だけを動かし、右腕とともに飛ばされた《カゲミツG4》の柄が砂地へ落ちようとしているのを捉えた。残された左手を伸ばして柄を掴み、同時に迫った《ツバキJ3》を、倒れる勢いのまま上半身をさらに低く落とすことで頭上へ通過させると、そのまま身体の回転へ合わせて左手の《カゲミツG4》を横へ振り抜いた。
リオも直前で意図に気づき、咄嗟に身体を引こうとした。しかし勝負を決めるために自分から深く入り込み過ぎており、《カゲミツG4》がリオの腹部から胸元に走る方が早かった。
残っていたHPが消える。
リオの頭上へ赤い《DEAD》が浮かんだ。
「あ、あとちょっとだったのにー!」
悔しそうにそれだけ言い残したところで戦闘不能処理が入り、リオの身体から力が抜ける。キリトも右腕と左脚を失ったまま砂地へ倒れ込み、何度か荒い呼吸を繰り返した後、すぐ近くで動かなくなったリオへ苦笑を向けた。
「本当に、あとちょっとだったな。リアルで身についた身体操作か……やっぱり、なかなか侮れないな」
その頃には、少し離れた場所で行われていたもう一つの戦闘も既に終わっていた。
西側の砂地にはエレーナが《DEAD》表示を浮かべたまま倒れており、その先でシノンが《ヘカートⅡ》を抱えている。エレーナは《MGL-140》で移動方向を限定しながら《FR-X》の一撃へ繋げようとしたものの、死銃戦で既にいくらかHPを削られていた上、《FR-X》を岩へ撃たせた直後の長い充填時間を狙われ、位置を変えたシノンのランニング・スナップショットによって残ったHPを削り切られていた。
最後に残った二人が互いの姿を確認すると、シノンの方から砂地を歩いて距離を詰めた。
片脚を失ったキリトに何十メートルも移動させる必要はなく、最初に長期戦をしないと決めた以上、自分だけ遠距離へ居座るつもりもなかった。
十数メートルほどまで近づいたところで、シノンは足を止めた。
「……随分やられたわね」
「見れば分かるだろ」
「腕だけじゃなくて脚まで持っていかれたのね」
「俺もそこまでは予想してなかったよ。あと一撃入ってたら普通に俺が負けてた」
シノンは一度だけリオの方へ視線を向けた。
「リオが聞いたら喜びそうね」
「起きてから言ってやってくれ」
シノンは《ヘカートⅡ》を構え直し、キリトも残った左手で《カゲミツG4》を握った。両脚が残っていれば、十数メートルという距離はシノンにとって決して安全ではなく、バレット・ラインを見て一度射線から外れれば、キリトなら一気に光剣の間合いへ飛び込める。
「でも、手負いだからって手加減はしないわよ」
「する必要はないさ」
シノンが照準を合わせ、赤いバレット・ラインがキリトへ伸びる。キリトはその瞬間にはもう身体を横へ逃がそうとしていたが、残っているのは右脚だけであり、一度の跳躍で射線から外れることはできても、着地した身体を次の一歩へ繋げることができない。肩から砂地へ転がった直後、その背後を《ヘカートⅡ》の大口径弾が通過した。
キリトは弾道を読めなくなったわけではなかった。どこへ動けばいいのかは分かっているのに、その判断を連続した回避運動へ変えるための脚が足りず、一度跳ぶたびに着地後の立て直しを強制されている。
それでもキリトは止まらなかった。倒れた状態から左腕と残った右脚を使って身体を起こし、再び大きく跳ぶことで少しずつ距離を詰める。シノンも数歩ずつ後退しながら次弾を送り、キリトが着地した後に倒れ込みたくなる側へ弾丸を落とすことで進路を限定していった。
「その身体でまだ来るのね……!」
「近づかないと勝てないからな!」
距離がさらに縮まったところで、シノンは《ヘカートⅡ》を低い砂丘の陰へ置き、《H&K MP7》へ持ち替えた。短い連射がキリトの進路へ走り、キリトは左手の《カゲミツG4》で正面の弾丸をいくつか弾いたものの、片脚では広く射線を変えることができず、避け切れなかった弾丸が腹部と右腿を掠めて残りHPを削っていく。
それでも右脚で地面を蹴り、倒れれば左肘や肩を使って身体を起こし、再び跳躍する。シノンはその動きを見ながら少しずつ射線を寄せ、キリトが進める方向を正面へ限定していった。
残り十メートルほどになったところで、キリトは勝負を賭けた。
「行くぞ、シノン!」
残った右脚へ全体重を乗せ、一気に跳ぶ。
その瞬間、シノンは今まで構えていた《H&K MP7》から手を離した。
キリトの視線が落下する短機関銃へ一瞬だけ引かれ、すぐに罠だと気づいて正面へ戻る。その時には、シノンの身体に隠れて見えていなかった《ヘカートⅡ》が、低い砂丘の陰に二脚を立てた状態で待っていることまで見えていた。
「しまっ──」
シノンは《ヘカートⅡ》の後ろへ滑り込み、巨大な銃身をキリトへ向ける。距離は既に数メートルしかなく、両脚が残っていたなら銃身が向き切るより先にもう一歩を踏み込み、《カゲミツG4》を届かせることができたかもしれない。
しかし、今のキリトにはその最後の一歩が残っていなかった。
それでも空中で上半身を捻り、残った左腕を限界まで伸ばして《カゲミツG4》を振るう。シノンもスコープを覗かず、巨大な銃口の正面へキリトの胸が入った瞬間に引き金を絞った。
至近距離で《ヘカートⅡ》が咆哮する。
大口径弾を胸部へ受けたキリトの身体は後方へ大きく吹き飛び、砂地を何度も転がった末に止まった。頭上へ赤い《DEAD》が浮かび、最後まで伸ばされていた左腕も戦闘不能処理とともに力を失う。
数秒後、夜空へ巨大なシステムメッセージが表示された。
《WINNER : SINON》
シノンは《ヘカートⅡ》から手を離し、しばらくその文字を見上げていた。第3回BoBで最後まで残ったのは自分であり、以前ならこの瞬間に何かが劇的に変わることを期待していたかもしれない。ゲームの中で最強になれば過去にも勝ったことになり、拳銃への恐怖も消え、朝田詩乃という自分までシノンのように強くなれるのではないかと考えていた。
けれど、何も消えてはいなかった。郵便局の記憶も、《黒星・54式》を見た時の恐怖も、身体の震えもすべて残っている。それでも今日の自分は以前とは違っていて、その違いは恐怖がなくなったことではなく、怖いままでも誰かを守るために動けたことにあった。
最後に表示される順位だけが強さなのではないのかもしれない。何を怖がり、その中で何を選び、それでもどこまで前へ進めたのかという、その途中にこそ自分が欲しかったものはあったのだと、勝者を告げる文字が夜空から消えていく間、シノンは静かに考えていた。
十十十十十十十十十十
2025.12.14
東京都文京区湯島・九重零奈の部屋
時間は、BoBの勝者が決まる数分前まで遡る。
シノンとの戦闘でエレーナのHPが尽き、頭上へ赤い《DEAD》の文字が浮かんだ直後、本来であれば零奈の意識は大会終了まで戦闘不能となったアバターの中へ残されるはずだった。
しかし、その待機時間は訪れなかった。
外部からアミュスフィアの接続を強制的に切断されたように視界が突然白飛びし、次の瞬間、九重零奈の意識は現実へ引き戻されていた。
そして最初に認識したものは、自室の天井でもアミュスフィアの重さでもなく、左目の下を横切った鋭い痛みだった。
「っ……!」
意識が現実側へ接続し切るより早く、頬骨の辺りを硬く冷たいものが走り抜けた。反射的に頭を逸らしたことでアミュスフィアが大きくずれ、その直後には裂けた皮膚から温かいものが頬を伝い始める。刃物で切られたのだと理解した時には、すぐ目の前から同じ銀色の刃がもう一度振り下ろされていた。
「くっ……!」
零奈は何が起きているのかを把握する余裕もないまま両腕を顔の前へ上げ、ほとんどベッドから転げ落ちるように身体を逃がした。肩から床へ落ちた衝撃で肺の中の空気が押し出され、外れかけていたアミュスフィアも完全に頭から脱落して床へ転がる。
薄暗い室内には機器が落ちた硬い音と何者かの荒い呼吸が重なり、そのすぐ近くでは、もう一台のベッドに横たわった獅織がアミュスフィアを装着したまま、まだ現実へ戻らず眠っていた。
カーテンの隙間から差し込む街灯の光の中に、一人の少年が立っている。
右手にはナイフが握られ、その足元には見慣れない小型の高圧注射器が転がっていた。玄関の電子錠は施錠していたはずなのに扉そのものに大きな破損はなく、床の近くには病院で非常時の解錠に使う類の器具が無造作に置かれている。机の上では、開いたままの携帯端末にBoBの公式中継映像が映っていた。
その顔に、見覚えがあった。
「……新川、恭二……」
詩乃の知人として、以前見たことのある少年の名を呼ぶと、恭二の顔が目に見えて歪んだ。
「お前が……」
零奈は立ち上がろうとしたものの、長時間フルダイブしていた身体を突然床へ叩き出された直後では思うように力が入らず、片膝をついたところで足元が揺れた。
「お前がいなければ……!」
恭二が距離を詰め、ナイフを振り下ろしてくる。零奈は顔を庇うように腕を上げながら後ろへ逃れたものの、袖が刃に裂かれて前腕へ焼けるような痛みが走った。
「っ、ぁ……!」
零奈は手近にあった椅子を掴み、相手との間へ押し出した。恭二がそれを乱暴に蹴り退けたことで机へぶつかり、積まれていた資料や本が大きな音を立てて床へ崩れ落ちる。
「新川、落ち着け……今の君は正常な判断が──」
「うるさい!」
言葉の途中で椅子ごと押し返され、零奈の肩が壁へぶつかった。
「お前がいなければ、朝田さんはもっと僕を見てた!」
それを聞いた瞬間、零奈は少なくとも目の前の少年が何に怒っているのかだけは理解した。詩乃から何度か聞いたことがある。GGOを教えてもらった知人ではあるが、最近ではほとんど深い交流もなくなっていた相手であり、詩乃自身も彼を特別な存在として語ったことはなかった。
それなのに、恭二の中では違う。
「GGOを教えたのは僕だ!僕が先に朝田さんを知ってた!なのにお前が来てから、朝田さんはずっとお前ばっかりだ!」
「……それは、詩乃が決めることだ。君が──」
「黙れ!」
恭二が再び踏み込む。
零奈は反射的に後ろへ下がろうとしたが、床へ散らばった資料を踵で踏み、足が滑った。
瞬間、腹部に強い衝撃が入った。
「──っ……!!」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
恭二の顔がすぐ目の前にあり、その身体との間にはナイフの柄だけが残っている。刺されたのは上腹部だった。刃は正面からではなく僅かに斜め上へ入り込んでいるらしく、腹の奥へ異物が深く押し込まれている異様な圧迫感に続いて、息を吸うたび胸腹部の内側まで引き裂かれるような痛みが走る。
それを認識した直後、遅れて耐え難い痛みが内側から一気に広がった。
「あ……っ、ぁ……!」
声を抑える余裕などなかった。
息を吸おうとしても腹部が強く引き攣り、喉から途切れた苦鳴しか出てこない。恭二がナイフを引き抜いた瞬間にはさらに鋭い痛みが走り、零奈の膝は完全に支えを失った。
「ぐ……っ……!」
机へ手を掛けようとした指が空を掴み、身体が床へ崩れる。腹部を押さえた手の下からすぐに温かい血が溢れ始め、その量を認識しただけで呼吸がさらに浅くなった。
「っ……は……ぁ……っ……」
零奈は身体を丸めながら傷口を押さえようとしたが、恭二はそこで止まらなかった。倒れた零奈の肩を掴んで仰向けへ乱暴に転がし、その動きで腹部の傷が引き攣ると、零奈の身体が反射的に大きく強張った。
「ぐぁっ……!」
頬へ拳が入る。
頭が勢いよく横に弾かれ、すぐに胸元を掴まれて上半身を引き起こされた。
「何でお前なんだよ!」
背中が床へ叩きつけられる。
「朝田さんは僕を頼ったんだ!僕がGGOを教えた!僕なら朝田さんのこと分かるのに!」
もう一度、後頭部が床へぶつかった。
「っ……ぁ……!」
視界が白く弾ける。
暖房が動いているはずなのに、手足の先から急速に熱が引いていく。腹部を押さえていた手にも思うように力が入らず、血で濡れた指が滑る。
「なのに、お前が……!」
肩を蹴られ、身体が床を滑った。
「っ、ぁあ……!」
傷口が引き攣るたび、零奈の喉から抑え切れない声が漏れる。壁一枚向こうまで届いていても不思議ではないほど大きな音が何度も室内へ響き、蹴られた椅子が転がり、机へ身体をぶつけるたびに床や壁まで震えた。
それでも恭二は止まらない。
「朝田さんは強いんだ!本物の銃で人を殺せるんだぞ!あんなに強い人なのに、お前は朝田さんを弱いみたいに扱って──」
「……違う……」
零奈は壁へ背中を預けたまま、掠れた声を押し出した。
「詩乃は……そんなことを……望んで……」
「お前に何が分かる!」
再び胸元を掴まれて壁へ叩きつけられた。
「っ、ぐ……!」
その衝撃で腹の奥から強い吐き気が込み上げると同時に、胸の奥まで鋭い痛みが走った。零奈は堪え切れず身体を折り、何度か激しく咳き込む。
次の咳とともに喉の奥へ鉄臭いものがせり上がり、赤い血が床へ散った。
「ごほっ……! っ……ぁ……」
自分の口から出た血を見た瞬間だけ、零奈の目が僅かに見開かれた。
呼吸が苦しい、身体が冷たい。視界の端が何度も暗くなる。
それでも、恭二の言葉の中にあった一つの単語だけは聞き逃せなかった。
「……詩乃……」
その名前を口にしたことで、恭二の顔へ再び激しい憎悪が浮かんだ。
「まだ朝田さんのこと言うのかよ!」
零奈の肩を掴んでまた床へ投げ出し、脇腹へ蹴りを入れる。
「ぁぐっ……!」
零奈は身体を丸め、腹部を庇うように腕を寄せた。もう起き上がることもできず、乱れた呼吸の間から苦鳴を漏らすだけになっている。
「っ……は……っ……ぅ……」
ようやく恭二が離れた。
床へ落ちていた小さな高圧注射器を拾い上げる。
零奈の焦点が合わなくなり始めた目が、それだけは追った。
「朝田さんとは一緒に行くから」
耳へ届いた言葉の意味を理解した瞬間、零奈は床へ手をついて身体を起こそうとした。
「……待……て……」
腕が震え、上半身を僅かに浮かせることしかできない。
「新川……それを……詩乃に……」
「お前には関係ない」
「やめ……ろ……」
もう一度起きようとするが、腹部へ力を入れた途端に激痛が走り、零奈はその場へ崩れた。
「ぅ……っ……!」
恭二はそんな零奈を見下ろし、少しだけ口元を歪めると、玄関へ向かった。
「そこで死ねばいいよ」
扉が開き、そのまま閉じる。
零奈は追おうとして指を床へ這わせたものの、身体はほとんど動かなかった。
そのすぐ後、少し離れたベッドの上で獅織の指が動いた。
大会終了に伴ってフルダイブから現実へ戻ると、最初に耳へ入ったのは玄関扉の閉まる音だった。その次に鼻へ届いた濃い血の匂いと、床へ何かが落ちる小さな音へ眉をひそめながらアミュスフィアを外し、身体を起こす。
「……姉ちゃん?」
暗い室内へ目を向けたところで、動きが止まった。
床へ倒れている零奈の姿と、その周囲へ広がった赤い血がすぐには一つの光景として結びつかなかった。左目の下から頬へ走る傷、口元の血、白い服の腹部を元の色が分からないほど染めている赤、それを押さえようとしている手まで血に濡れていることを一つずつ目で追っていくうちに、目の前にいるのが零奈で、その零奈が死にそうなほど傷ついているのだという意味だけが遅れて頭へ届いた。
「……姉ちゃん?」
最初の声は小さかった。
次の瞬間にはアミュスフィアを放り出し、ベッドから飛び降りていた。
「零奈!!」
床へ膝をつき、零奈へ触れようと伸ばした手が途中で止まる。顔にも傷がある。腹部は血で真っ赤になっている。どこへ触れればいいのか分からず、いつもなら考えるより先に身体が動く獅織が、目の前の零奈だけには触れることすら怖くなっていた。
「何だよこれ……オイ!しっかりしろ!」
「……し……おり……」
「零奈!」
返事があっただけで涙が一気に溢れた。
「誰だよ!誰にやられたんだよ!待ってろ、今救急車──」
獅織は震える手で携帯端末を探し出し、緊急通報を開いた。一度画面を押し損ねて舌打ちし、もう一度押し直す。
「出ろ……出ろよ!早く!」
通話が繋がると、相手の問いを待つ余裕もなく声をぶつけた。
「人が刺されてる!お腹!血がいっぱい出てる!早く来て!!」
住所を聞かれ、普段なら何も考えず言えるはずの自宅住所を途中で何度も言い直す。それでも部屋番号までどうにか伝え、救急車が向かっていると言われたところで、零奈の血に濡れた指が僅かに動いて獅織の袖を掴んだ。
「何!?零奈、何だ!?」
「……新川……」
「新川?」
零奈が息を吸おうとして顔を歪める。
「っ……詩乃……の……方へ……」
獅織の顔から血の気が引いた。
「詩乃のとこ行ったのか?」
零奈が僅かに頷く。
獅織は反射的に玄関を見た。
今ここで零奈を置いていけば、その間に死んでしまうかもしれない。けれど行かなければ、次に同じ姿になるのが詩乃かもしれない。
「……無理だよ」
携帯電話を握ったまま首を振る。
「アタシ、置いてけない……」
「……行け……」
「嫌だ!」
即座に返した。
「嫌だ!アタシはオマエのこと置いてかない!詩乃も助けなきゃ駄目なの分かってる!分かってるけど、オマエを置いてどこ行けってんだよ!また置いていかなきゃならないのかよ!!」
零奈の指が獅織の袖へ絡む。普段なら簡単に自分を止められるはずの手が、今は布を掴んでおくことすら難しいほど弱い。
「獅織……」
「やだ……」
「詩乃を……」
「嫌だって言ってるだろ!」
泣きながら怒鳴った獅織へ、零奈は苦しそうに息を継いだ。
「……私より……先に……詩乃を……」
「何でだよ……!」
獅織は零奈の手を両手で握りしめた。
「何でそんなこと決めるんだよ!」
「……頼む……役目を、果たせ……」
その一言で、獅織は何も言えなくなった。
涙を何度も袖で拭い、電話の向こうへ住所が伝わっていることと救急車が既に向かっていることをもう一度確認してから、零奈へ顔を寄せる。
「すぐ戻るからな……!救急車もう来るから、絶対ここにいろよ!」
零奈は答える代わりに僅かに目を閉じかけた。
「寝るな!寝るなよ!絶対だからな!」
獅織は一度立ち上がったものの、その場から離れられず、もう一度膝をついて零奈の髪へ触れた。
「すぐ戻る……絶対戻るから……!」
今度こそ立ち上がると、振り返らずに玄関へ走った。振り返れば、そのまま零奈の傍へ戻ってしまうと分かっていたからだった。
十十十十十十十十十十
2025.12.14
東京都文京区湯島・朝田詩乃の部屋
朝田詩乃が現実へ戻った直後、アミュスフィア越しの視界に見慣れた自室の天井が浮かび上がるのとほとんど同時に、壁一枚を隔てた隣室から玄関扉の閉まる鈍い音が響いた。
反射的にアミュスフィアへ伸ばしていた手を止めて耳を澄ませる。続いて聞こえてきたのは、先ほどのような大きな音ではなかった。何かが床を擦るような弱々しい音と、途中で途切れる咳のような声が、壁越しに僅かに届いてくる。
「……零奈?」
胸の奥が嫌な形に縮んだ。
死銃について自分たちが辿り着いた推測が正しければ、ゲームの中で標的を撃つ者とは別に、現実側で実際に殺人を行う共犯者が存在している。しかも、標的がフルダイブによって無防備になっている時間を利用して住宅へ侵入する手口なのだとすれば、今の音を何かを落としただけだと都合よく考えることはできなかった。
詩乃はアミュスフィアを外しながら身体を起こし、枕元の携帯電話を掴んで零奈へ電話を掛けた。
一度、二度と呼び出し音が鳴る──出ない。
「何してるのよ……」
さらにもう一度鳴った、その時だった。
玄関から短い電子音がした。
詩乃の指が止まった。
自分は何も操作していない。それなのに電子錠は外側から正常な認証を受けた時と同じ音を鳴らし、その数秒後には、内側からしか簡単には扱えないはずの金属製補助錠まで、何らかの器具で操作されているような硬い金属音を立て始めた。
「……誰?」
問いかけても返事はなく、詩乃は携帯電話を胸元へ引き寄せながら数歩後退した。
廊下側から何かを差し込んでいるような細い音が続いた後、電子錠が完全に解除され、さらに補助錠まで外れる音がした。それでも扉は数センチ開いたところで止まり、内側に掛けていたドアチェーンが硬い音を立てて張る。詩乃が息を呑んだ直後、その僅かな隙間から細い器具のようなものが差し込まれ、何度か金属同士の触れ合う音が続き、やがてチェーンまで外れた。
今度こそ、全身へ冷たいものが走った。
「待って……」
思わず漏れた言葉など届かなかったように、玄関扉がゆっくりと開いた。
廊下の暗がりから姿を現したのは、まったく知らない人間ではなかった。
「……恭二?」
新川恭二だった。
名前を呼んだ詩乃へ返事をすることもなく、恭二は室内へ入ると背後の扉を閉め、電子錠を掛け直し、そのまま金属製の補助錠とドアチェーンまで戻し、片手に持っていた小型の解錠器具を無造作にポケットへ入れる一連の動きを見た時点で、知っている相手が来たことへの僅かな安心は完全に消え、代わりに今までとは質の違う恐怖が詩乃の中へ広がった。
「それ……何?」
恭二は答えなかった。
問いを無視されたことよりも、その時ようやく気づいた彼の服の状態の方が、詩乃の意識を強く引きつけた。胸元から腹部へかけて不規則な赤黒い染みが広がり、袖や手の甲にまで細かな飛沫が付着していて、その一部は既に乾き始めて暗い色へ変わっているのに、別の部分にはまだ濡れた赤が残って照明を鈍く反射している。
それが血だと理解した瞬間、詩乃の顔から一気に血の気が引いた。
隣から聞こえた激しい物音と、苦しそうな零奈らしき声。電話を掛けても応答しない零奈と獅織。そして今、外側から鍵を開けて自分の部屋へ入り込んできた恭二の全身へ付着している大量の血。頭の中では認めたくないという感情が必死に否定しようとしているのに、別々だったはずの事実はあまりにも簡単に一つへ繋がってしまった。
「……零奈に」
喉が乾き、声が震えた。
「何したの」
恭二は詩乃が何を恐れているのか理解できないとでもいうように少し首を傾け、それからひどく穏やかな声で答えた。
「殺したよ」
一瞬、意味が分からなかった。
「……え?」
「邪魔だったから」
詩乃は無意識に一歩後ろへ下がり、さらに距離を取ろうともう一歩動いたところで、足へほとんど力が入っていないことに気づいた。
「何……言って……」
「朝田さん、最近ずっとあの人のことばっかりだったから」
机へ手をつかなければ立っていられそうになくなり、詩乃は震える指で縁を掴んだ。隣へ行って自分の目で確かめたわけではないのだから、零奈が本当に死んだと決まったわけではない。恭二がそう思い込んでいるだけかもしれないし、傷を負っていても生きている可能性はある。それでも、彼の服へ付着した血の量と、つい先ほど壁越しに聞いた苦悶の声が、そんな希望へ縋ることさえ難しくしていた。
「嘘……」
「嘘じゃないよ。いっぱい血が出てたから、もう死ぬと思う」
吐き気が込み上げ、詩乃は反射的に口元を押さえた。
「何で……」
「何で?」
恭二が一歩近づいたため、詩乃も同じだけ後ろへ下がる。
「来ないで」
「GGOを教えたの、僕だよ」
「来ないでって言ってるでしょ」
「朝田さんがシノンになれたのも、僕がGGOを教えたからだよね?」
会話が成立していない。
それに気づいた時には、恭二はさらに近づいていた。
「僕が先に朝田さんを知ってた。朝田さんが本当に強い人だって知ってたのも僕だった。本物の銃で人を撃てるくらい強いのに、アイツが来てから朝田さんは僕を全然見なくなった」
「やめて」
「僕がGGOを教えたのに」
「黙って」
「だから邪魔だったんだ」
詩乃は携帯電話を握っていることを思い出し、画面へ指を滑らせた。緊急通報を選択しようとした、その僅かな動きを恭二も見逃さず、一気に距離を詰めて手首を掴んだ。
「離して!」
反射的に腕を振ったことで携帯電話が指から抜け、床へ転がる。すぐに拾おうと身体を屈めるより早く、恭二の両腕が詩乃の身体へ回り込み、抱き締められたと理解した時には、胸が押し潰されそうなほど強く締めつけられていた。
「っ……痛っ……離して!」
「朝田さん」
「離せ!」
「好きだよ」
耳元へ吐息が触れ、その直後に続いた言葉によって、単なる暴力とは違う嫌悪感が全身を駆け抜けた。
「僕のシノン」
「気持ち悪い……!」
詩乃は肩と腰を強く捻り、相手の胸を押しながらどうにか拘束から抜け出した。数歩よろめいて距離を取り、荒くなった呼吸を整えようとする一方で、恭二は怒るどころか、本当に理由が分からないとでも言いたげな顔でこちらを見ていた。
「どうして?朝田さんは優勝したじゃないか。もう充分強くなったよ。だから次に行ける」
「何の話よ……」
「僕、待ってたんだ」
その言葉に詩乃は眉を寄せた。
「何を?」
「朝田さんが強くなるのを」
恭二は、自分と詩乃の間では既に共有されている話を確認しているだけのような口調で続けた。
「ずっと待ってた。GGOで強くなって、過去を乗り越えて、それが終わったら朝田さんは僕のことも分かってくれると思ってた」
詩乃には、そんな話をした記憶がどこにもなかった。
「私、そんなこと言ってない」
「でもそういうことだろ?」
「違う」
「違わないよ」
「違うって言ってるの!」
思わず声を荒らげても、恭二の表情には理解した様子がまったくなく、その反応を見たことで、詩乃はようやく自分たちの間に横たわっているものの大きさを理解した。
二人の間に特別な約束などない。そもそも最近は頻繁に話すほど親しくもなく、GGOを教えてもらったことをきっかけに時折話す程度の知人に過ぎない。それなのに恭二の中では、詩乃の知らないところで二人の関係へ意味が付け加えられ、その延長線上には、自分がいつか彼を選ぶという結末まで作られていた。
「僕は朝田さんのこと、ずっと分かってたよ」
その言葉を聞いた時、詩乃は今までのどの言葉より強い恐怖を感じた。
「本物の拳銃で人を殺したんだよね。すごいと思った。普通の女の子には絶対できない。朝田さんは最初から強かったんだ」
胃の奥が冷たく縮み、詩乃はすぐに首を振った。
「やめて……」
「あの強盗を撃った時だって──」
「やめろ!!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
何年もの間、思い出すだけで身体が震え、消してしまえるなら何でもしたいと願ってきた記憶を、目の前の少年は憧れの対象として語っている。怖くて撃ったことも、殺したくて引き金を引いたわけではないことも、その日から自分が人殺しなのではないかと苦しみ続けてきたことも、恭二にとっては最初から重要ではなかった。
「だからGGOを教えたんだ。朝田さんなら絶対強くなれるって分かってたから」
詩乃は返事をすることができず、ただ相手から目を離さなかった。
恭二はそのまま、自分が死銃の一員だったことを少しずつ話し始めた。《ステルベン》は兄が作ったアバターで、GGO内で標的を撃つ役割と、現実で実際に殺害する役割を複数人で分担していたこと。ゼクシードがAGI型こそ最強だと語った言葉を信じ、自分のキャラクターを育てた結果、それが間違いだったと思い知らされたこと。仮想世界でも現実世界でも、自分だけが思い通りにならないまま取り残されていったように感じたこと。
最初はまだ順序を保っていた話も、続くほど少しずつ形を失い、自分が失敗したのは誰かに騙されたからであり、自分より上手くいっている人間は何かを不当に奪った者であり、そういう相手なら罰を受けても仕方がないという理屈へ変わっていった。
詩乃は聞いているうちに、恭二の中で何が起きているのかを少しずつ理解し始めた。
ゲームの中で憎んだ相手なら現実でも殺して構わず、強いシノンと現実の朝田詩乃を同じ価値観で見て、自分が詩乃を必要としているならいつか詩乃も同じ気持ちになると信じている。現実に起きたことより、自分の中で作り上げた物語の方がずっと優先されているのだ。
だからこそ、詩乃はまだ言葉が届く可能性へ縋ろうとした。
「恭二。もうやめて。今ならまだ警察に──」
「警察?」
恭二は可笑しなことを言われたように笑った。
「何で?」
「何でって……人を、殺したんでしょ」
「九重さんのこと?」
あまりにも平然と名前を出され、詩乃の表情が再び強張る。
「あの人は仕方ないよ。朝田さんを僕から取ったんだから」
「零奈は……!」
反射的に言い返しかけた声が、途中で詰まった。
死んだとは信じたくない。
今すぐ壁一枚向こうへ走り、自分の目で確かめたい。それなのに扉は恭二によって施錠され、床へ落ちた携帯電話へ手を伸ばすことすらできない。
「朝田さんも一緒に行こう」
恭二がまた近づいてきた。
「何言ってるの」
「僕も後から行くから」
ポケットから取り出された小さな器具を見た瞬間、詩乃の呼吸が止まりかけた。
高圧注射器だった。
洞窟で零奈が、死銃の現実側の実行役が使っているのではないかと推測していたものと酷似している。
「……サクシニルコリンだよ」
恭二が口にした薬品名によって、今までどこか現実離れしていた死の可能性が急に輪郭を持ち、詩乃の背中へ冷たい汗が流れた。
「来ないで」
「大丈夫だよ」
「来るな!」
後退した背中が机へ当たったため、手近にあったノートや筆箱を掴んで投げつけたものの、恭二はほとんど気にせず距離を詰め、詩乃の腕を掴んだ。振りほどこうとしても力では敵わず、身体ごと机へ強くぶつけられ、積まれていた物が一斉に床へ落ちる。
「離して!」
詩乃は必死に身体を捻ったが、そのままベッドへ押し倒され、恭二に上から跨がられた。
腕や肩へ手が触れ、体重によって身体を固定された瞬間、抵抗しなければならないと頭では分かっているにもかかわらず、全身から急に力が抜けかけた。次に何をされるか分からない恐怖と、動いた瞬間に首へ高圧注射器を押しつけられるかもしれないという考えが身体を縛り、目の前へ迫ってくる器具を見ながら、呼吸だけが急速に浅くなっていく。
「朝田さん」
「やめて……」
「ずっと一緒にいられるよ」
「嫌……」
高圧注射器が首筋へ少しずつ近づく。
このまま動かなければ、本当に殺される。
その恐怖が限界まで膨らんだところで、詩乃の頭の中へ今日のBoBで見たものが次々と蘇った。過去を忘れたわけでも、死銃を恐れていなかったわけでもないのに、それでも相手へ向かっていったキリト。黒星を向けられながら自分を逃がそうとしていたエレーナ。そして黒星を見た瞬間には身体が震え、吐き気さえ覚えていたのに、それでもエレーナを助けるために銃を構えて引き金を引いた自分自身。
恐怖が消えた後に動いたのではなかった。
怖いまま、それでも動いた。
その事実を思い出した瞬間、詩乃は両手で恭二の手首を掴んだ。
「っ……!」
首筋へ触れる直前まで迫っていた高圧注射器が止まり、恭二の顔へ初めて戸惑いが浮かぶ。
「朝田さん?」
「私は……!」
腕は震え、純粋な力では少しずつ押し負けている。それでも詩乃は手を離さず、器具を首から遠ざけるように両腕へ力を込めた。
「私が強くなりたかったのは……こんなことのためじゃない!」
身体を横へ捻り、片膝を恭二の身体へ差し込むことで重心を僅かに崩し、その瞬間だけ片手を離して掌を顎へ突き上げた。恭二の顔が上がった隙に身体を横へ滑らせ、そのままベッドから床へ転がり落ちる。
肩を強く打った痛みを無視して立ち上がろうとしたものの、すぐに追いついた恭二へ腕を掴まれ、乱暴に振られた身体が今度は机へぶつかった。その衝撃で引き出しが開き、中に入っていた物が床へ散らばる。
その中に、黒い拳銃の形をした物があった。
《プロキオンSL》。
第2回BoBで22位になった際に手に入れたゲーム内の光学拳銃を模したモデルであり、現実で弾丸を撃てるような物ではないことなど詩乃自身が一番よく知っている。それでも黒い銃身を目にした途端、心臓が激しく跳ね、指先から熱が消え、郵便局で見た五四式の姿が目の前へ重なりそうになった。
詩乃はその恐怖から目を逸らさず、震える手を床へ伸ばした。
指が《プロキオンSL》へ触れる。
それを掴んで身体の前へ引き寄せ、再び近づいてくる恭二へ銃口を向けた。
「アサダサン」
恭二が足を止めることなく近づく。
「アサダサン、アサダサン……」
「来ないで」
詩乃の声は自分でも分かるほど震えていたが、銃口だけは逸らさなかった。
「私を強いと思ってるんでしょ。本物の銃で人を撃てる女だって、さっき自分で言ったじゃない」
「朝田さん……?」
「だったら、試してみる?」
モデルであることを知っている自分には、この銃が人を傷つけられないことが分かっている。けれど、GGOのシノンと現実の朝田詩乃を混同し、自分でさえ現実と仮想の境界を曖昧にしている恭二なら、一瞬くらいは迷うかもしれない。
その狙いは完全に外れなかった。
詩乃が引き金へ指を掛けた瞬間、恭二の足がほんの一瞬だけ止まった。
詩乃はその隙を逃さず、玄関へ向けて駆け出した。ところが数歩進んだところで、背後から恭二の声がした。
「……違う」
詩乃は振り返らなかった。
「本物じゃない」
完全に騙し切ることはできなかったらしい。
「朝田さん、僕を騙した?」
追いつかれたと思った時には腕を掴まれ、《プロキオンSL》が床へ落ちた。
「っ!」
そのまま身体を引かれて床へ押し倒され、後頭部を強く打ったことで視界が大きく揺れる。
「痛っ……!」
恭二は再び詩乃の身体へ跨がり、高圧注射器を首へ近づけてきた。
今度は最初のように動けなくなることはなかった。
詩乃はすぐに両手で手首を掴み、全身の力を使って押し返した。怖さがなくなったわけではなく、むしろ一度逃げることに失敗したことで、これを押し返せなければ本当に死ぬのだという恐怖は先ほどより遥かに強くなっていた。それでも、恐怖そのものに身体を明け渡してしまうことだけはしなかった。
高圧注射器は少しずつ首へ近づいてくる。
腕が震え、息が続かない。
さらに近づくなら手首でも頬でも噛みつき、何をしてでも止めるしかないと覚悟した、その時だった。
玄関側から、部屋全体を揺らすほどの激しい衝撃音が響いた。
恭二の身体が止まる。続けて二度目の衝撃が扉へ叩き込まれ、内側から掛け直されていた金属錠の周辺が大きく軋んだ。
「何……」
三度目にはドア枠そのものが目に見えて歪み、四度目の衝撃で錠を固定していた部分が耐え切れず、扉が大きな音を立てて室内側へ開いた。
そこに九重獅織が立っていた。
ここまで走ってきたのか肩で荒く呼吸し、頬には乾き切らない涙の跡が残っている。それなのに、床へ押さえつけられている詩乃、その上へ跨がる恭二、そして詩乃の首元へ向けられている高圧注射器を一度に見た瞬間、普段なら感情がそのまま顔へ出るはずの獅織から、逆に表情が消えた。
恭二は詩乃から身体を離し、立ち上がって獅織へ向き直った。
「……オマエか」
獅織の声は普段より低く、怒鳴っていないにもかかわらず、抑え込んでいる感情の大きさが声の震えから伝わってきた。
「刺したの」
恭二の表情が僅かに動いた。
それだけで獅織には十分だったらしい。
獅織は何も叫ばず、ゆっくりと一歩だけ部屋へ入った。普段なら敵を見つければ考えるより先に一直線へ飛び込んでいく少女が、今は床を踏む感触を確かめるように一歩ずつ距離を詰めており、その身体の内側へ押し込められたものが進むたびに少しずつ増え、あと僅かでも余計な刺激を与えれば一気に限界を越えてしまいそうな危うさがあった。
詩乃には、その姿が鹿威しへ少しずつ水が溜まっていく光景のように見えた。まだ傾かず、まだ音も立てていないのに、既に内部には戻せないほどの量が蓄積していて、ほんの少しの水が加わった瞬間には、それまで保たれていた均衡が一気に崩れることだけが予感できる。
「な、何だよ……」
恭二の方が先に後退した。
獅織は構わずもう一歩進む。
「オマエがやったのか」
「来るな!」
恭二が高圧注射器を獅織へ突き出した。
その瞬間までゆっくり進んでいた獅織は、大きく後ろへ跳ぶことも、相手より速く正面から飛び込むこともしなかった。注射器が身体へ届く直前になって足の位置を僅かに入れ替え、上半身を攻撃の線から外へ滑らせる。
その足運びを見た瞬間、詩乃はほんの少し前までいたGGOの砂漠を思い出した。
キリトが一度使い、それをリオが見た直後にそのまま真似してみせた動きだった。
高圧注射器が空を切る。
獅織はそのまま恭二の手首を掴んだ。
「痛っ……!」
外から見れば、それほど強く握っているようには見えなかった。それでも恭二の指は少しずつ開いていき、握っていた高圧注射器が床へ落ちる。
「離せよ!」
恭二は腕を引こうとしたが、獅織の身体はほとんど動かなかった。
「離せ!」
空いている手で顔を殴ろうとする。
獅織は後ろへ逃げず、僅かに上半身を傾けて拳を頬の横へ通すと、そのまま掴んでいた手首を外側へ動かした。決して大きな動きではないのに、恭二の腕だけでなく身体そのものまで力の方向へ引かれ、姿勢を崩していく。
「何した」
「痛い!離せって!」
「何したって聞いてるんだ!!」
そこで初めて獅織の声が大きくなった。
それでも殴らなかった。手首を掴む腕は小刻みに震えていたが、恭二の抵抗へ耐えるためというより、これ以上力を加えないよう自分自身を止めているように見えた。
恭二が無理やり身体を振って拘束から逃れようとしたため、獅織は手首を離した。
一瞬だけ自由になる。
しかし次の瞬間には胸元の服を片手で掴まれ、恭二の身体はそのまま上へ引かれた。
「な……」
十三歳の少女の片手しか使われていないにもかかわらず、恭二の踵が少しずつ床から浮いていく。
獅織はそこで何秒も動かなかった。
壁へ叩きつけることもできるはずだった。床へ投げ飛ばすこともできる。それでも何もしないまま、歯を食いしばって腕を震わせている。
「アタシ……今、すげー我慢してる」
恭二の顔から完全に余裕が消えた。
「零奈のこと刺して、詩乃も殺そうとして……それでも我慢してる」
服を掴んだ指に少し力が入り、布が軋む。
「だから、動くな」
獅織は恭二を投げることなく、そのまま床へ下ろした。
足が床へ戻った途端、恭二は力を失ったように尻餅をつき、這うように距離を取った。獅織は追撃することなく正面へ立ったまま、その動きを目だけで追っている。
「何なんだよ……お前……」
獅織は答えなかった。
恭二は壁へ手をついて立ち上がると、横へ回り込んで逃げようとしたが、獅織が一歩動いて進路を塞ぐ。反対側へ動こうとしても同じように塞がれ、狭い部屋の中で逃げ道を探すほど、何もしないまま立ち続ける獅織の存在だけが大きくなっていった。
「どけよ!」
耐え切れなくなった恭二が獅織の肩を突き飛ばし、その脇を抜けようとした。
その瞬間、ずっと押さえ込まれていたものが僅かに傾いた。
獅織は大きく振りかぶることも、肩を引いて勢いをつけることもせず、ただ一歩踏み込むと同時に、体重移動へ合わせて短く右拳を前へ出した。
拳が恭二の顎を捉える。
狭い室内へ一度だけ鈍い音が響いた。恭二の身体から一気に力が抜け、膝が折れ、そのまま床へ崩れ落ちる。
獅織は二発目を打たなかった。倒れた恭二を数秒見下ろしながら荒い呼吸を繰り返し、強く握っていた拳を少しずつ開いていったところで、背後から詩乃の乱れた呼吸が聞こえ、そこでようやく恭二から意識を外した。
「詩乃!」
振り向いて駆け寄ろうとした獅織へ、詩乃は自分の状態を確かめるより先に問いかけた。
「零奈は?」
その名前を聞いた瞬間、獅織の顔が一気に崩れた。
「……零奈、刺されてる」
詩乃の顔から、先ほどようやく戻りかけていた血の気が再び失われた。
「……何?」
「腹、刺されて……顔も切られてて……いっぱい血出てる。救急車は呼んだ。でも詩乃んとこ行けって言うから……だからアタシ……」
「生きてるの?」
獅織が言葉に詰まる。
「生きてるの!?」
「生きてる!生きてるけど……!」
最後まで聞くこともできず、詩乃は床へ手をついて身体を起こそうとした。
「行かなきゃ」
「詩乃!」
「零奈のところ行かなきゃ!」
恭二に何度も押さえつけられ、床へ打ちつけられた身体はすぐには言うことを聞かず、一度立ち上がりかけて膝をついたものの、それでも詩乃はもう一度立とうとした。
獅織が支えようと手を伸ばした、その時だった。
開け放たれた玄関の向こうから、何かが廊下の壁へぶつかったような鈍い音が聞こえた。
二人とも同時に顔を上げる。
続いて聞こえてきたのは、普通に歩いている人間の足音とは到底思えないものだった。何か重いものを引きずるような擦過音が少し続いた後、長い間が空き、それからまた壁へ身体を預けるような音がする。誰かが一歩進むだけでも何秒も掛かっているらしく、少しずつ近づいてくるその音を聞くほど、獅織の顔から血の気が失われていった。
「……え?」
やがて玄関の向こうに、血に濡れた手が現れた。
指先は壁紙へ辛うじて引っ掛かり、そのまま力なく滑りながら身体を前へ引こうとしている。少し遅れて、その手に引かれるように人影が姿を現した。
九重零奈だった。
白かったはずの服は腹部を中心に大量の血で染まり、片手で傷の辺りを押さえているものの、指の間からは新しい赤が滲み続けていた。左目の下には頬骨に沿って横一文字の傷が走り、そこから流れた血が頬や首筋へ乾きかけた跡を残している。口元にも血が付着しており、ここまで普通に歩いてきたのではなく、壁や床へ身体を預けながらほとんど這うようにして進んできたらしく、手のひらや膝まで汚れていた。
「な、何で!?」
獅織が悲鳴に近い声を上げて駆け出した。
「何で来たんだよ!動くなって言っただろ!アタシ戻るって言っただろ!」
零奈は返事をするだけの余裕もないようで、荒く途切れる呼吸を繰り返しながら壊れた扉の向こうへ視線を向けた。床へ倒れている恭二を見た後、その傍へいる獅織を確認し、最後に詩乃へ目を向ける。
二人の視線が合った。
それまで痛みに強張っていた零奈の表情が、ほんの僅かだけ緩んだ。
「…………よかった……」
「零奈……?」
詩乃の声が大きく震える。
その直後、零奈は身体を折るように激しく咳き込み、口元から血を吐いた。
「零奈!!」
詩乃はほとんど悲鳴を上げながら走り出した。
零奈の膝から力が抜ける。
獅織も反対側から身体を支えようと腕を伸ばしたものの、詩乃の方が僅かに早く零奈を抱き止め、そのまま支え切れない体重に引かれるように床へ膝をついた。
「零奈!ねえ、零奈!」
呼びかけても返事がない。
抱き止めた腕へ重みだけが残り、零奈の身体から流れた温かい血が詩乃の服へ急速に染み込んでくる。その感触を理解した瞬間、先ほど恭二の服に付着した血を見た時とは比べものにならないほど強い恐怖が押し寄せ、詩乃の呼吸は完全に乱れた。
「救急車……!」
反射的にポケットを探ったものの、携帯電話は先ほど恭二との争いで床へ落としたままだと思い出し、詩乃は零奈の身体を抱いたまま周囲を必死に見回した。
「電話!電話どこ!?」
「呼んだ!アタシ、もう呼んでる!」
「でもまだ来てないじゃない!」
「来る!もう向かってるって言ってた!」
「そんなの分かってる!」
獅織へ怒っているわけではないことくらい、詩乃自身にも分かっていた。それでも感情を抑える余裕など残っておらず、床へ転がっている携帯電話を見つけると、零奈を抱えた姿勢のまま片手を伸ばしてどうにか引き寄せ、震える指で再び119番へ掛けた。
「詩乃、もう呼んだって!」
「いいから!」
通話が繋がると、詩乃は相手の問いかけへほとんど被せるように声を上げた。
「人が刺されてるんです!もう同じ住所から連絡が行ってるはずで……血が、すごく出てて、今、意識がなくて……早く来てください!」
住所を尋ねられた時には、何度も口にしたはずの自宅住所さえ一度言い間違え、途中から言い直さなければならなかった。電話の向こうから落ち着いた声で質問や指示が続いているのに、一つ聞き取るたびにもう一度確認しなければ意味が頭へ入らず、それでも何もしないままでいることだけは耐えられないため、詩乃は必死に言葉へ縋った。
獅織も零奈の傍へ膝をつき、血に濡れることなど気にも留めず、その手を両手で握った。
「アタシ、ちゃんと戻ったぞ!」
零奈の指は動かない。
「詩乃助けた!ちゃんと助けたから!だから起きろよ!」
それでも返事はない。
「なあ、オマエが行けって言ったんだろ!アタシ行ったぞ!ちゃんと言うこと聞いたぞ!だから起きろよ!」
普段なら怒鳴るほど勢いを増す獅織の声が、今は言葉を重ねるほど泣き声へ近づいていった。
詩乃は携帯電話を耳へ当てたまま零奈の腹部へ目を向けた。白かったはずの服はもう広い範囲が赤黒く濡れており、どこが最初の傷なのか一目では分からないほどだったが、救急側から服の上からでも構わないので出血している場所へ布を当てて圧迫するよう指示されると、詩乃は何度も聞き返しながら、近くへ落ちていた清潔そうなタオルを獅織へ取らせた。
「これ……ここでいいの……?」
零奈の腹部へ手を近づけても、詩乃の指は震えてなかなか触れることができなかった。強く押せば傷つけてしまうのではないかという恐怖が先に立ち、それでも押さえなければ血が出続けると電話越しに言われ、ようやく覚悟を決めて折り重ねたタオルを血に濡れた服の上へ当てる。
「零奈……ごめん、ちょっと痛いかもしれないから……」
返事はなかった。
詩乃は両手へ少しずつ力を掛けた。
タオルは触れた瞬間から赤く染まり始めた。最初は表面へ小さく滲んだだけだったものが、圧迫を続ける間にもじわじわと範囲を広げ、やがて詩乃の指先近くまで暗い赤が上がってくる。
一度怖くなって力を緩めかけたものの、電話の向こうから圧迫を続けるよう言われ、唇を噛んで再び両手へ体重を掛けた。
「止まって……」
思わず声が漏れた。
「お願いだから……止まってよ……」
押さえているのに、完全には止まらない。
布の下から僅かずつ滲み出してくる温かさを感じるたび、零奈が少しずつ自分の手の届かないところへ遠ざかっていくような錯覚に襲われた。
「嫌……」
詩乃は首を振った。
「これ以上、出ないで……お願い……」
それでも手だけは離さなかった。
獅織もすぐ横へ膝をつき、タオルがずれないよう端を支えながら零奈の顔を覗き込んでいた。普段なら何が起きても先に身体が動く少女が、今は血へ触れるたびに指を僅かに震わせ、それでも逃げることだけはせず、詩乃と一緒に腹部へ圧を掛け続けている。
「アタシ戻ったぞ……詩乃も助けたぞ……」
獅織の声は掠れていたが、零奈から反応はない。
「だから……聞いてるなら、ちょっとでいいから返事しろよ……」
零奈なら分かるはずだった。
どれくらい押さえればいいのかも、どれくらい血を失えば危険なのかも、今の状態がどれほどまずいのかも、本人ならきっと冷静に説明できたはずだった。
けれど、その零奈は目を閉じたまま何も言わない。
「零奈……」
詩乃は泣きながら名前を呼んだ。
「こういう時、いつもみたいに何か言ってよ……私、何も分かんない……」
獅織も零奈の手を握ったまま顔を伏せた。
「……お願いだから……」
そこで一度言葉を詰まらせたものの、今度は逃げずに最後まで続けた。
「お願いだから……いなくなるなよ……」
詩乃の顔もさらに歪んだ。涙と恐怖で、自分が今どんな顔をしているのか確かめる余裕さえなかった。
「勝手にいなくならないって言ったじゃない……」
洞窟で交わした言葉が鮮明に蘇る。治療が終わったからといって勝手に自分の前から消えないこと、その後も詩乃が望む限り傍にいることを、零奈は確かに受け入れた。
「約束したでしょ……」
手の下へまた僅かな温かさを感じ、詩乃は涙を拭うことすらできないまま首を振った。
「こんなの、約束と違うじゃない……!」
それでも圧迫を続けているうちに、遠くからようやくサイレンの音が聞こえ始めた。
獅織が弾かれたように顔を上げる。
「来た……!」
詩乃も壊れた玄関の向こうへ目を向けた。
まだ遠い、けれど確実に近づいている。
「早く……」
詩乃は零奈の腹部を押さえたまま、サイレンの方へ縋るように視線を向けた。
「お願いだから、早く来て……!」
救急車なのか警察なのか、それとも両方なのかを考える余裕もなかった。詩乃と獅織は零奈の身体からこれ以上何も失わせまいとするように傷を押さえ続け、手の下へ感じる僅かな温かさに怯えながら、近づいてくるサイレンが一秒でも早くこの部屋へ辿り着くことだけを願っていた。
どれほど深い夜にも、ひと筋の希望は
残っているもの。それが月。
月は夜空にだけあるのではない。
命が渇いた時、自身の心に目を凝らせば、
闇を照らす月と牙を持つ獅子が見えるはずだ。