朝田詩乃に家事全部して貰ってるクール系お姉さん   作:オズ

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Case08 HUMAN ALIGNMENT

 

 

2025.12.24

東京都内・総合病院

 

 12月24日の東京は朝からよく晴れており、病室の大きな窓から見える空には、冬らしく薄く澄んだ青がどこまでも広がっていた。街へ目を向ければ、駅前の商業施設や道路沿いの街路樹にはクリスマス・イヴに合わせた飾り付けが並び、夜になればそれらが一斉に灯り始めるのだろうが、厚い窓ガラスによって外気から切り離された病棟では季節の変化も随分と遠く、廊下の突き当たりへ置かれた小さなクリスマスツリーと、ナースステーションの壁に貼られた紙飾りくらいしか今日が特別な日であることを教えてくれなかった。

 

 12月14日の夜、九重零奈がこの病院へ救急搬送されてから10日が経過している。

 

 上腹部から胸腹境界へ達していたナイフでの刺し傷については、搬送直後に緊急手術が行われた。刃は肺の一部にも達しており、損傷部の処置と胸腔ドレナージを要したほか、決して少なくない量の血液も失っていた。現在では胸腔ドレーンも抜去され、再出血や重篤な術後合併症を最も強く警戒する急性期は抜けていた。左目の下から頬へ横に走っていた裂創も縫合を終え、抜糸後の皮膚にはまだ赤みを帯びた細長い傷は残っているものの眼球などへの障害はなく、身体の各所へ残っていた打撲痕も10日前に比べれば随分と薄くなっている。

 身体を大きく捻ったり腹部へ不用意に力を入れたりすれば傷の奥に鋭い痛みが走るため、本人が望むほど自由に動ける状態ではなかったが、短時間であれば自力で立ち上がり、病棟内を短距離歩くことも既に許可されていた。

 

 患者本人は、それを単に順調な術後経過として受け止めているらしい。

 

 午後になったばかりの病室で、零奈は電動ベッドの背を起こし、膝の上へ載せたタブレットに目を落としていた。患者衣の腹部にはまだ保護帯の膨らみがあるが、それ以外の姿は入院患者というより、いつものように研究資料を読み込んでいる時と大して変わらない。

 

 窓際には、同じ病院へ入院する羽目になったもう一人の患者がいた。

 

 九重獅織は車椅子の上で窓枠へ肘を置き、固定された右脚を前方の足台へ載せながら、何度目になるか分からないほど外の景色を眺めていた。あの夜、施錠された詩乃の部屋へ入るため玄関扉を何度も蹴り、最後には錠を支えていた枠ごと破壊した際に右の脛を強く打ちつけていたらしく、救急隊が到着する頃には患部が大きく腫れ、検査によって脛骨の骨折が判明した。

 

 本来であれば固定後に退院して外来で経過を見ることも可能な骨折だったが、獅織の場合は強い筋力によって固定部に不用意な負荷を掛ける危険があり、さらに同居する零奈自身も入院中であることから、当面は院内で経過を見ることになっていた。

 

 幸い神経や血管への大きな損傷はなく、骨折そのものも複雑な手術を要するものではなかったが、当然ながら当面は右脚へ体重を掛けることを禁じられている。本人は痛みが落ち着いた翌日から「もう歩ける」と何度も訴えていたものの、そのたびに医師や看護師から止められ、現在では病棟内の移動も車椅子を使用するよう厳しく言い渡されていた。

 

「暇だあぁぁ……」

 

 窓の外を眺めたまま、獅織が心底うんざりした声を漏らしたが、零奈はタブレットから目を上げることなく答える。

 

「昨日も同じことを聞いた。入院中に何も起きないというのは、少なくとも治療経過としては望ましい状態だ。君の退屈を解消するために検査項目や処置を増やす理由はないのだから。したがって、現状に変化がないことを理由に不満を訴えても、病院側が提供できる選択肢は増えないと思った方がいいな」

 

 ただ我慢しろと言えば済む話を、零奈はわざわざ逃げ道がなくなるところまで説明してから返してくる。獅織は車椅子を半回転させ、不満そうに頬を膨らませた。

 

「姉ちゃんはいいだろ。本読んでれば一日中じっとしてられるんだから。アタシは無理!」

 

「なら、読書以外の静的な活動を選べばいい。映像を見る、音楽を聴く、誰かと話す、学習する。現在の患肢へ影響を与えずに実行できる行動はいくらでも残されている。それらをすべて拒否した上で暇だと言うのであれば、少なくとも私には解決できない」

 

「最後の学習するはやだ!!」

 

 獅織が声を上げたところで、病室の扉が二度軽く叩かれた。

 

「廊下まで聞こえてるわよ」

 

 呆れを含んだ声とともに扉が開き、制服姿の朝田詩乃が病室へ入ってきた。

 

 片手には学校鞄を持ち、もう片方には駅前の洋菓子店のものらしい白い箱を提げている。今日は二学期の終業式だったため午後の早い時間には学校を出られたらしく、コートの下にはまだ制服が見えていた。12月も下旬まで来れば外気はかなり冷たく、病院へ着くまで風に晒されていた頬には僅かな赤みが残っている。

 

 事件以降、詩乃はほとんど毎日のようにこの病院へ顔を出していた。

 

 最初の数日は警察による聞き取りや自身の診察も重なっていたものの、それらが一段落してからも学校が終われば病院へ寄り、零奈と獅織の様子を確認してから自宅へ戻る生活が続いている。

 零奈は何度か、現在の二人の容体から考えれば毎日訪れる医学的必要性はないと説明したが、それによって訪問回数が減ることはなく、三度目に同じことを言った時には、逆に詩乃から「私が来たいから来てるだけ」と返され、それ以降は特に止めなくなった。

 

 詩乃は室内へ入ると、最初に零奈がベッドの上へいることを確かめ、その次に獅織の固定された右脚へ視線を移した。

 

「今日は勝手に立ってないでしょうね」

 

 その質問に、獅織は妙に堂々と胸を張った。

 

「今日は立ってない!」

 

 強調された一語を聞いた詩乃の眉が僅かに上がった。

 

「今日は、って何よ」

 

 自分から余計なことを言ったと気づいたらしく、獅織の視線が横へ逃げる。

 

「……昨日は、あの後ちょっとだけ」

 

「また目を盗んで歩き回ったの?」

 

 詩乃の声が低くなったため、獅織は助けを求めるように零奈へ顔を向けたものの、零奈は特に庇う様子を見せなかった。

 

「昨日、ベッドから車椅子へ移る際に看護師を呼ばず、自力で片脚立ちをしようとしていた。患肢そのものへ荷重は掛けていないようだが、現在の問題は右脛骨だけではない。片脚立ちでバランスを崩せば転倒し、手の関節や頭部を新たに損傷する可能性がある。今ここで別の部位を負傷すれば入院期間が延び、その結果として君が最も不満を訴えている自由時間まで増える。そこまで説明した以上、同じ行為を繰り返す合理的な理由はもう残っていないはずだ」

 

「姉ちゃん、詩乃に説明しながらアタシにも二回目の説教してるだろ!」

 

「同じ問題が再発する可能性を下げているだけだ」

 

 詩乃は大きく息を吐いてから、今度はベッドへ視線を移した。

 

「そっちは?」

 

 零奈は質問の意図を測るように僅かに首を傾けた。

 

「何がだ」

 

「勝手に歩いてない?」

 

「主治医から短距離の自力歩行は許可されている」

 

 返答を聞いた瞬間、詩乃の目が少し細くなった。

 

「歩いたのね」

 

「許可された範囲でな。廊下を往復しただけだ。歩行時の疼痛は許容範囲で、ふらつき、息切れ、創部からの出血もなかった。術後10日目という時期を考えれば、離床を不必要に遅らせる方が別の問題を生じる可能性がある。したがって──」

 

「患者本人から回診みたいな説明を聞きたいわけじゃないんだけど」

 

 途中で止められ、零奈は口を閉じた。

 その横で獅織が笑ったため、今度は零奈の視線がそちらへ向く。

 

「何だ」

 

「姉ちゃん怒られてるー」

 

「君も同じ側だろう」

 

 指摘されると、獅織はすぐに顔を逸らした。

 

 詩乃はそんな二人を見ながらコートを脱ぎ、学校鞄と白い箱を椅子の横へ置いた。

 

 事件から10日が経ち、表面的には3人とも随分と元の生活へ近づいている。それでも、以前とまったく同じ状態へ戻ったわけではなかった。

 

 特に詩乃は、零奈が自分の視界から外れた状態を以前より嫌うようになっていた。電話を掛ければ応答があるまで以前より長く待つようになり、病室へ来ても零奈が検査などで不在なら、戻る予定時刻を確認してからでなければ帰ろうとしない。本人はそれについて何も説明しなかったし、零奈も必要以上に指摘することは避けていたが、12月14日の夜、隣室で何が起きているのか分からないまま零奈へ電話を掛け続け、その後に血まみれになった身体を腕の中で抱え続けた記憶が無関係だとは考えにくかった。

 

 獅織にも似た変化があった。零奈が眠っている時、用もないのに何度か顔を覗き込むようになり、会話の途中で零奈が傷の痛みにほんの僅かでも表情を歪めれば、それまで何を話していてもすぐに気づく。夜中に目を覚ました際、車椅子で零奈の病室へ行こうとして看護師に止められたことまで一度あり、本人は「たまたま起きてたから見に行こうとしただけ」と主張しているものの、それを言葉通りに受け取る者はいなかった。

 

 零奈自身にとって、自分の負傷も既に治療対象になっていた。どの部位が損傷し、どの処置が行われ、現在どの程度まで回復しているのかを把握できれば、それ以上の不確定要素は大きくないのだ。

 しかし詩乃と獅織にとって、あの夜に起きたことは検査や負傷の状態だけで整理できるものではなく、その認識の差については、零奈も入院してから少しずつ理解し始めていた。

 

 詩乃は零奈の膝の上に置かれたタブレットへ目を向けた。

 

「何見てたの?」

 

「事件に関する整理だ。警察から確認を受けた内容と、キリトを介して菊岡から共有された情報、それから私たちがGGO内で推測した内容を照合していた。いくつか不明な点は残っているが、少なくとも我々が把握しておくべき部分については、概ね結論が出ている」

 

 詩乃は少しだけ表情を引き締め、椅子へ腰を下ろした。

 

「何か違ってた?」

 

「大きくは違っていない。まず、現時点で確認された事実から整理しよう」

 

 零奈はタブレットを持ち直した。

 

「これまで死銃によるものと考えられていた死亡事例では、GGO内で標的へ《黒星・54式》を撃つ人間と、現実世界で同時刻に標的の身体へ接触する人間が別々に存在していた。イベント参加時などに入力された個人情報から住所と氏名を把握し、標的がフルダイブによって現実側で無防備になる時間帯を調べた上で、仮想世界の銃撃と現実側の殺害を同期させる」

 

 詩乃も獅織も、黙って続きを聞いていた。

 

「現実側で使用されていた器具についても、高圧式の無針注射器が複数押収されている。残留していた薬剤の一部からはサクシニルコリンが確認された。したがって、死銃の黒星そのものに未知の殺傷機能が存在していたわけではなく、現実側の実行役が薬剤を投与することで死亡させていたということだ。

 

 獅織は自分の腕を擦るようにしながら、以前GGO内で同じ薬剤について説明を聞いた時と似た嫌そうな顔をした。

 

「やっぱ、あれだったのか……」

 

「確認された範囲ではな。重要なのは、今後同じ現象が起きたとしても、それをすべて仮想世界から現実へ直接作用する未知の攻撃と考える必要がなくなったということだ」

 

 零奈はそこで一度言葉を切り、二人の反応を確認してから続けた。

 

「次に、第3回BoB当日の状況についてだ。結果から言えば、12月14日に死銃によって新たに死亡した参加者は一人もいない。本戦へ進出した30人は、通常のゲーム内死亡で敗退した者も含めて全員が現実世界へ帰還している──ただし、これで死銃事件そのものが完全に終了したと考えるのは早い」

 

 零奈はそこで一度画面を切り替えた。

 

「現実側で犯行へ関与していた新川兄弟については、既に身柄を確保されている。だが、もう一人いる。SAO時代にラフィン・コフィンへ所属し、ジョニー・ブラックを名乗っていた金本敦だ。菊岡から共有された範囲では、今回の一連の犯行へ関与した共犯者の一人と見られているが、現在も所在を確認できていない」

 

 詩乃の表情が僅かに強張った。

 

「……まだ捕まってないの?」

 

「ああ。警察も行方を追っているが、少なくとも私が最後に確認した時点では身柄の確保には至っていない。犯行手段が判明し、これまでの殺人に関与した人間の大部分が特定されたことと、脅威そのものが完全に消失したことは同義ではない。君も当面はその点を忘れない方がいい」

 

 獅織が眉を寄せた。

 

「じゃあ、まだ死銃がいるってことか?」

 

「死銃という現象を再現できるか、という意味なら条件はかなり失われている。黒星によるゲーム側の演出、現実側の実行役、標的の個人情報、そのすべてを同期させる必要があるからな。だが、金本敦という一個人が未確保である事実は変わらない。死銃としての犯行能力と、単純に人間として危険かどうかは分けて考えるべきだろう」

 

 つまり、事件の仕組みは暴かれた。

 けれど事件に関わった全員が檻の中へ入ったわけではない。その僅かな違いを、零奈は曖昧な安心へ変えるつもりはないらしかった。

 エレーナはタブレットをスワイプする。

 

「……話を戻すが、押収された端末や記録には、第3回BoBの参加者について事前に調べた形跡が複数残っていたらしい。完全な殺害予定表と呼べるほど整理されたものではないようだが、少なくとも私以外にも対象として検討されていたと見られるプレイヤーがいた。その中には、《Pale Rider》の名前も含まれている」

 

 聞き覚えのある名前に、詩乃がすぐ反応した。

 

「……あの《Pale Rider》?」

 

「そうだ。本戦開始前、過去のBoB参加履歴を確認できなかったことで、《Sterben》《銃士X》と併せて警戒していたプレイヤーだ。名前の印象も判断へ影響しただろうが、少なくとも当時の私たちには、三人のうち誰が死銃なのかを区別する材料がなかった」

 

 獅織が意外そうに目を丸くした。

 

「じゃあソイツ、殺す方じゃなくて殺される方だったのか?」

 

「可能性が高い、という話だ」

 

 零奈はそこから、あの日の流れを一つずつ並べ始めた。

 

「第1回のサテライト・スキャンで《Sterben》が私の近くに表示されたため、私は本人を確認する目的で鉄橋方面へ向かった。ところが次のスキャンで名前が消えた。私は既に別のプレイヤーに倒された可能性を考えたが、実際には地形を利用してスキャンを回避し、私を待ち伏せしていた。その後、私は麻痺させられ、黒星を向けられた」

 

 獅織の顔から先ほどまでの軽さが消え、詩乃も黙って零奈を見る。

 

「だが、あの男の目的は私を排除することだけではなかった。キリトが到着するまで私を生かしたまま待ち、彼の目の前で殺すことによって、SAO時代に自分たちと戦った時と同じ怒りや殺意を引き出そうとしていた。つまり、少なくともあの時点で《Sterben》は、当初予定していた可能性のある複数の犯行より、キリト個人への執着を優先している」

 

 零奈の説明は淡々としていたが、詩乃にはあの時の光景が鮮明に浮かんでいた。

 

 地面へ倒れた零奈へ向けられた黒い拳銃と、それを見た瞬間に身体の奥から湧き上がった恐怖、それでも引き金へ指を掛けた時の感覚まで、まだ10日前の出来事として残っている。

 

「もし他の標的を予定通り殺害するのであれば、《Sterben》は決められた時間帯に対象を発見し、現実側の実行役が接触できる状態へ合わせて黒星を撃つ必要がある。現実側だけが先に殺しても、死銃の能力によって死亡したようには見えない。逆にゲーム側だけで撃っても、当然ながら現実の身体は死なない。二つの行動が同期して初めて成立する手口だ」

 

 零奈は詩乃へ一度視線を向け、それから続けた。

 

「ところが、私への処刑はシノンの介入によって失敗した。その後は獅織も合流し、《Sterben》から見れば、私をキリトの目の前で殺すという第一目標が遠かったことになる。だが、4人で逃走と迎撃を繰り返したために、奴としても想定していた以上の時間を消費した。あの時点で既に《Sterben》は、別の標的へ犯行を移す余裕を失い、私たちを追うことに拘束されていたと考えるのが妥当だろう」

 

 獅織は途中から何度も頷いていたが、最後まで聞いてからようやく口を開いた。

 

「じゃあ結局、アイツが姉ちゃんとキリトに構ってる間に、他の奴を殺す時間がなくなったんだろ?」

 

 零奈はすぐには肯定しなかった。

 

「結果だけを見れば、その理解で大きく外れてはいない。ただし、私たちは《Pale Rider》を救うために行動したわけではないし、そもそも誰が標的なのか知らなかった。したがって、私たちが彼らを意図的に救助したと表現するのは正確ではない」

 

 獅織は少し不満そうに眉を寄せた。

 

「でも助かったんだろ?」

 

「それは事実だ」

 

 零奈はそこで初めて短く認めた。

 

「私が鉄橋で殺されていた場合、あるいはシノンがあの時に黒星を止められなかった場合、その後に別の標的へ犯行が移った可能性は十分にある。だから、第3回BoBで新たな被害者が生まれなかったという結果に、我々の行動が寄与したことまで否定する必要はない」

 

 零奈がそこまで話したところで、詩乃が静かに口を開いた。

 

「だったら、それでいいんじゃない」

 

 二人の視線が詩乃へ向く。詩乃は窓の向こうへ目を向けたまま続けた。

 

「誰が狙われてたのか、その人が自分で知ってるのかも分からないけど、普通にログアウトして、今も普通に生活してるなら……それでいいでしょ。別に、私たちが助けたって言って回る必要もないし」

 

 あの夜、自分たちが北部砂漠で戦っている間にも、本来ならどこか別の部屋で命を奪われていたかもしれない人間がいて、その者たちは何も知らないまま大会を終え、現実へ戻ることができた。

 

 感謝される必要はなく、救ったと胸を張る必要もない。知らない誰かが死なずに済んだという事実だけで、詩乃には十分だった。

 

 零奈はしばらく何も言わずに詩乃の横顔を見ていた。

 

「そう考えられるなら、君は以前より一つ判断材料を増やせたことになる」

 

 返ってきた言葉は、素直な肯定とは少し違っていた。

 

 詩乃が零奈を見る。

 

「何それ」

 

「君はこれまで、自分が引き金を引いた結果として誰かが死んだ事実ばかりを、自分の行動を評価する材料にしてきた。だが行動の結果は、一方向にだけ生じるとは限らない。あの日の君が黒星を止めた結果、私は生き残り、《Sterben》は予定を崩し、別の参加者が殺される機会も失われた。それらを自分の功績として数える必要はないが、最初から存在しなかったことにする必要もない」

 

 詩乃は返事をしなかった。それでも、零奈が何を言いたいのかは分かった。少ししてから、詩乃は膝の上で指を組み直した。

 

「私も、この前……人に会ってきた」

 

 零奈は続きを急かさず、そのまま待った。

 

「昔の郵便局の時に、そこにいた人。私が……あの男を撃った時に、一緒にいた人なんだけど」

 

 詩乃が11歳の時、母親を守るため強盗犯の拳銃を奪い、その男を射殺した事件。その場には妊娠中だった女性職員がいて、詩乃が引き金を引かなければ母親だけでなく、その女性までどうなっていたか分からなかったのだと。

 

「……キリトが探してくれてたみたい。今は子供も無事に生まれてた。女の子だった」

 

 詩乃は少しだけ視線を伏せる。

 

「その人に謝られた。今まで何も言えなくてごめんなさいって。それから……ありがとうって言われた。娘にも会った。その子からも、助けてくれてありがとうって」

 

 何年もの間、詩乃の中であの日は、人を殺した日としてしか存在していなかった。拳銃を握った感触も、何度も引いた引き金も、床へ倒れた男の姿も、自分へ向けられた周囲の目も、すべてが一つの結論へ繋がっていた。

 

 自分は人を殺した。

 その一文だけが、長い間あの日のすべてだった。けれど今は、その記憶の中へ別の人間の姿が加わっている。小さな手で自分の手を握り、助けてくれてありがとう、と言った少女の姿が。

 

 零奈は少しの間詩乃の顔を見た後、静かに尋ねた。

 

「会う前と比べて、あの日を思い出した時に最初に浮かぶものは変わったか?」

 

 詩乃は質問の意味を考えた。

 

「……分からない。まだ、あの男の顔も出てくると思う。拳銃だって本物を見たらやっぱり怖いだろうし、あの日のことを思い出したら気分悪くなるかもしれない」

 

「それは問題ではない」

 

 零奈はすぐに答えた。

 

「強い恐怖と結びついた記憶が、10年以上経過した後に一度の対話だけで消失する方が不自然だ。重要なのは恐怖反応が残っているかどうかではなく、その反応をどう解釈するかだ。以前の君は、拳銃を見て恐怖を感じた時点で、自分は弱い、何も克服できていないという結論へ直結していた。今も同じか?」

 

 詩乃は少し考え込んだ。

 

「……前よりは、違うかも」

 

「なら、それでいい」

 

 零奈は短く答えたものの、そこで話を終わらせることはなかった。

 

「恐怖記憶そのものを削除する必要はないし、一つの出来事に与えられる意味が一つでなければならない理由もない。君にとってあの日が、人を殺した日であることは変わらない。だが同時に、母親と、そこにいた女性と、生まれる前だった子供を救った日でもある。後者を認識することは前者から逃避する行為ではない。むしろ、起きたことの一部だけを選んで自分を罰し続ける方が、事実の扱いとしては偏っている」

 

 詩乃は黙って聞いていた。

 

「以前にも話したが、今日できたことが明日できなくなる場合もあるし、一度弱くなった症状が再び強くなることもある。改善は一直線には進まない。だから次に拳銃を見て吐き気がしたとしても、今日まで積み上げたものがすべて失われたとは考えるな。君が恐怖を感じながらでも、自分で次の行動を選べるようになったのであれば、以前とは既に条件が違う」

 

 そこまで言われると、詩乃は少しだけ視線を逸らした。

 

「……零奈にそう言われると、悔しいけどちょっと安心する」

 

「悔しがる理由は分からないが、安心できる材料が増えたのであれば、それを利用すればいい」

 

「そういうところなのよ」

 

 零奈には結局何が問題なのか分からなかったらしく、僅かに眉を寄せた。

 

 そこで一度話が途切れたものの、詩乃はすぐには机の上のケーキへ手を伸ばさなかった。膝の上で組んでいた指を一度解き、何かを言うべきか迷うように視線を落としてから、もう一度零奈の方を見る。

 

「……あと、新川のことなんだけど」

 

 その名前が出た途端、それまで黙って二人の話を聞いていた獅織の表情が露骨に変わった。

 

「アイツがどうしたんだよ」

 

「面会できるようになったら、一度だけ会おうと思ってる」

 

「なんで!?」

 

 獅織が反射的に声を上げた。

 

「オマエ殺そうとしたんだぞ!姉ちゃんだって、あんな──」

 

「分かってる」

 

 詩乃は獅織の言葉を遮ったものの、その声には恭二を庇う響きはなかった。

 

「だから会うの」

 

 獅織には余計に意味が分からなくなったらしく、眉間へ深く皺を寄せる。

 詩乃は少しの間、自分の中にあるものをどこから言葉へすればいいのか考えていた。

 

「許すつもりはない。私にしたことも、零奈にしたことも。事情を聞けば仕方なかったって思えるとも思ってない。前だったら……もしかしたら、恭二も私と同じように何かを間違えただけなんじゃないか、とか、自分と似たところがあるんじゃないか、とか考えたかもしれない。でも、今はそういう理由で会いたいわけじゃない」

 

 零奈は何も口を挟まなかった。

 詩乃が自分で考え、自分の言葉として口にしている以上、途中で結論を与える必要はないと判断したらしい。

 

「ただ、あの夜を最後にして、このまま二度と会わなかったら……私の中で新川恭二って人間が、ずっとあの時のまま残る気がするの」

 

 詩乃の指が膝の上でもう一度組まれた。

 

「私の上に乗って注射器を持ってた顔と、零奈を刺した人間として。それしか残らない気がする」

 

 獅織はまだ納得していない様子だったが、先ほどのようにすぐ反論することはしなかった。

 

「それが嫌なのよ」

 

 詩乃は静かに続けた。

 

「だから一回だけ会う。何を言われるかは分からないし、向こうが何も話さないかもしれない。謝られるかもしれないし、逆に何も変わってないかもしれない。でも、それを自分で見ておきたい。あの夜の記憶の中にいる恭二じゃなくて、今、現実にいる新川恭二を一度見て、それで私の中では終わりにしたい」

 

 そこまで聞いた零奈が、ようやく口を開いた。

 

「なら、私は反対しない」

 

 獅織が驚いたように零奈へ振り向いた。

 

「姉ちゃん!?」

 

「ただし、いくつか区別して考える必要はある」

 

 零奈は獅織ではなく詩乃へ視線を向けた。

 

「君が彼と会うこと、彼の言葉を聞くこと、彼がなぜその行動へ至ったのかを理解すること、そして彼を赦すことは、それぞれ独立した行為だ。面会するという選択をしたからといって最後まで話を聞く義務はないし、謝罪されたとしても受け入れる必要はない。事情を理解できたとしても、それを理由に行為そのものを正当化する必要もない」

 

 詩乃は黙って零奈を見る。

 

「彼がどのような背景を語ったとしても、君が襲われた事実は変わらないし、私へ刃物を向けた事実も変わらない。その評価と、彼という人間を理解しようとすることは両立する。どちらか一方を選ばなければならない理由はないさ」

 

 零奈はそこで僅かに言葉を区切った。

 

「警察と医療側が面会可能と判断し、第三者が同席するなり、君が望めばすぐに中断できるなり、必要な安全条件が整った上で、それでも君自身が会う必要があると判断するのであれば、私が止める理由はない。少なくとも今の説明を聞く限り、君は彼を救済する責任が自分にあると思って会おうとしているわけではないのだろう?」

 

「うん」

 

 詩乃は迷わず頷いた。

 

「そこまでは背負わない。彼がこれからどうするのかは、本人の問題だから」

 

「なら、それでいい」

 

 零奈は静かに答えた。

 

「君自身の中で事件の位置を決めるために必要だと思うなら、会えばいい。ただし、実際にその時になって会いたくないと思ったなら、その判断を変更しても構わない。一度決めたことを実行しなければならない理由もないからな」

 

「……分かった」

 

 二人の間ではそれで一応の結論が出たものの、獅織だけは明らかに納得していなかった。

 

「アタシは嫌だ」

 

 零奈が獅織を見る。

 

「君が会う必要はない」

 

「そうじゃない!」

 

 獅織はすぐに声を上げた。

 

「詩乃が会うのが嫌なんだ!アイツ、オマエを殺そうとしたんだぞ!姉ちゃんだって刺した!そんな奴のところに、なんでまたオマエから行かなきゃいけないんだよ!」

 

 普段であれば勢い任せに怒鳴って終わるところを、今回は最後まで言葉を途切れさせなかった。

 あの夜、扉を蹴破って最初に詩乃のもとへ辿り着いた獅織にとって、新川恭二は事情を考慮する対象ではないのだろう。自分の目の前で詩乃へ覆い被さり、さらにその直前には零奈を血まみれにした人間であり、それ以上でも以下でもない。

 

 詩乃はしばらく獅織を見ていた。

 反論する代わりに、少し身体を寄せて、その頭へ手を置く。

 

「一人では合わないから」

 

 獅織の猫のように尖っていた気配が、ほんの少しだけ弱くなる。

 

「……絶対だぞ」

 

「うん。誰にも言わずに勝手に会いに行ったりしない」

 

「途中で嫌になったら帰るんだぞ」

 

「分かってる」

 

「アイツが変なこと言ったら聞かなくていいからな」

 

「それも今、零奈に言われた」

 

「でもアタシからも言う!」

 

 獅織の表情は完全には戻らなかったが、それ以上面会そのものを止めようとはしなかった。

 祥恵と瑞恵に会ったことも、新川恭二にもう一度会おうとしていることも、詩乃にとっては過去へ戻るための行動ではなかった。

 

 片方からは、自分があの日に奪った命だけではなく、同時に守ったものがあったことを教えられた。

 もう片方とは、まだ何も終わっていない。

 

 だが、どちらについても、他人から与えられた結論をそのまま受け取るのではなく、自分で見て、自分がどう受け止めるのかを決めようとしている。

 

 以前の詩乃なら、それをする前に自分自身を責めることを選んでいたかもしれない。

 

 今は少なくとも、それ以外の選択肢があることを知っていた。

 

 そこまで重い話題が続き、とうとう我慢の限界に達したらしい獅織が、空気を切り替えるように机の上の白い箱を指差した。

 

「……なあ!そろそろ、その箱開けよう!」

 

 突然話題を変えられ、詩乃は机へ置いた白い箱を見た。

 

「まだ3時前なんだけど」

 

「誕生日にケーキ食べる時間なんか決まってないだろ!」

 

 今日、12月24日は九重獅織の誕生日だった。13歳だった少女は、この日を迎えて14歳になっている。

 

 詩乃は箱へ手を伸ばしかけたところで、ふと思い出したように言った。

 

「そういえば私、明日からしばらく実家に帰るから」

 

 ケーキへ完全に向いていた獅織の意識が戻ってくる。

 

「明日から?寂しいな……」

 

「冬休みなんだから仕方ないでしょ。向こうにも顔出さないといけないし、年末までずっと東京に残ってたら、それこそ何かあったのかって心配されるから」

 

 詩乃は高校へ通うため東京で生活しているものの、長期休暇には祖父母のもとへ顔を出すつもりでいた。事件の直後で落ち着かないということもあり、本音を言えば今年くらいは東京へ残りたい気持ちもあったが、零奈も獅織も容体が安定し、少なくとも生命の危険を心配し続ける状態からは抜けている。

 

 それなら、自分までここへ居続ける必要はない。そう考えられるようになったこと自体が、10日前からすれば大きな変化だった。

 

 獅織は少しだけ残念そうな顔をしたものの、帰るなとは言わなかった。その横で、零奈だけが何か重要な問題へ気づいたような真面目な顔をしている。

 詩乃がその視線に気づいた。

 

「何?」

 

 零奈はほんの僅かに間を置いた。

 

「以前から、長期休暇に入って君が帰省した場合、私と獅織の食生活が急速に悪化し、最終的には餓死へ至る可能性を懸念していた」

 

 あまりにも真顔だったため、詩乃は一瞬だけ意味を理解できなかった。

 

「……は?」

 

 獅織まで零奈を見る。零奈は何事もなかったように続けた。

 

「実際には食料の入手手段そのものが失われるわけではない以上、文字通り餓死する可能性は低い。だが、私が研究中に食事の時間を失念する場合があり、獅織は空腹を自覚しても栄養構成より即時に摂取できるものを優先する。君が普段補っている部分が同時に失われるなら、少なくとも食生活の質が低下することは予測できる」

 

 詩乃の目がどんどん細くなっていく。

 

「ただし今回は二人とも入院しており、食事内容と提供時刻は病院側が管理している。したがって君が帰省したことによって栄養状態が悪化する余地はほとんどない。こちらを理由に予定を変更する必要はないだろう」

 

 そこまで本気らしい説明をした後、零奈は少しだけ間を置いた。

 

「……冗談だ」

 

 詩乃は数秒ほど無言で零奈を見つめた。

 

「今の説明のどこからどこまでが冗談なのよ」

 

「餓死という結果だ。そこへ至る前提には一定の根拠がある」

 

「ほとんど本気じゃない」

 

 横で獅織が堪え切れず笑い始めたため、詩乃は今度はそちらへ目を向けた。

 

「獅織も笑ってる場合じゃないからね。零奈よりあんたの方が危ないんだから」

 

「アタシは腹減ったらちゃんとお菓子食うぞ!」

 

「お菓子を食事に数えないで」

 

 そこを指摘されると、獅織は視線を逸らした。詩乃は呆れながらも、零奈が遠回しに何を言おうとしていたのかくらいは分かっていた。

 

 こちらのことは心配しなくていい。

 

 ただそれだけを言うために、相変わらず随分と回りくどい。

 

「電話には出てよ」

 

 詩乃が念を押すと、零奈はすぐに頷くことはせず、条件を整理するように答えた。

 

「検査、処置、睡眠中など即座に応答できない状況は存在する。そこまで含めて常時応答を要求するのは現実的ではないが、事前に予定が分かっているものについては君へ伝える。少なくとも、連絡が取れないという事実だけで緊急事態を想定しなければならない状態は避けられるだろう」

 

 詩乃は少しだけ迷った後、それで納得した。

 

「それでいいわ」

 

 帰省中も連絡を取ることや、零奈が検査などで電話へ出られない時間が分かっているなら先に知らせること、獅織は夜中に勝手に車椅子で零奈の病室まで来ないことまで一通り確認し終えたところで、詩乃は何かを思い出したように学校鞄へ手を伸ばした。

 

「そういえば、うちの玄関。やっと本格的に直すことになったから」

 

 その言葉を聞いた途端、獅織が分かりやすく反応した。

 

 12月14日の夜、詩乃の部屋へ入るために何度も蹴りつけた玄関扉のことである。警察による現場確認が終わるまでは大きく手を加えることができず、その後もしばらく応急的な処置だけで凌いでいたが、電子錠や補助錠だけではなく、それらを支えていた枠の一部まで損傷していたため、管理会社との確認を経てようやく交換や補修の範囲が決まったらしい。

 

「直るのか?」

 

「直るわよ。いつまでもあのままにしておけないでしょ」

 

 詩乃はそう答えながら、鞄から管理会社の名前が印刷された封筒を取り出した。中には修繕箇所や交換部品の一覧、それに概算費用を記載した見積書が入っている。

 

 それを見つけた獅織は、すぐに興味を示した。

 

「それ、いくら掛かるんだ?」

 

「結構するみたいだけど」

 

「見せて!」

 

 詩乃は一瞬だけ迷ったものの、隠すようなものでもないと思い、封筒から数枚の紙を抜いて獅織へ渡した。

 

 受け取った獅織は、最初こそ何が書かれているのかよく分からない様子で上から順番に視線を動かしていたが、やがて最下部近くに記された金額へ辿り着くと、それまでの勢いが嘘のように止まった。

 

「……これ、数字多くない?」

 

 詩乃はその反応がおかしかったのか、僅かに口元を緩めた。

 

「扉だけじゃないから。枠も電子錠も補助錠の周りも直すみたい」

 

 獅織はもう一度金額を見てから、自分の固定された右脚へ視線を落とし、それから恐る恐る詩乃を見た。

 

「……これ、アタシが払うのか?」

 

「何でそうなるのよ」

 

 あまりにも予想外のことを言われたらしく、詩乃は呆れた顔になった。

 

「修理にいくら掛かるのか聞いたの、あんたでしょ。請求書渡してるわけじゃないわよ」

 

「で、でも、壊したのアタシだぞ」

 

「だからって、私を助けるために壊したドアの修理代を14歳に請求するほど恩知らずじゃないわよ」

 

 即座に否定されたことで、獅織の顔から少しだけ緊張が抜けたものの、それでも完全には納得していないらしく、見積書と詩乃を交互に見ている。

 

「でも管理会社とかに、払えって言われないのか?」

 

 その問いに答えたのは零奈だった。詩乃から見積書を受け取ると、記載内容を一度上から下まで確認し、それから獅織へ視線を戻す。

 

「まず、この金額は玄関を復旧するために必要と見積もられた総額であって、君に対する請求額ではない。侵入時には既に電子錠と補助錠へ損傷が加えられていたし、その後に君が破壊した部分についても、室内で詩乃の生命身体へ危険が及んでいる状況から救出するために生じたものだ。現在は管理会社、保険側、事件被害として扱われる範囲を含めて処理が進められている以上、この紙に書かれた数字を見て、君が同額の債務を負ったと判断する根拠はない」

 

 そこまで説明されて、獅織はようやく見積書を見る目を変えた。

 

「じゃあ、アタシは気にしなくていいのか?」

 

「費用についてはな」

 

 零奈はそこで僅かに言葉を区切った。

 

「ただし、君が扉を破壊した事実まで気にしなくていいという意味ではない。今回は結果として詩乃の救助に必要な行動だったため、私はその判断自体を否定しない。問題は、君がその過程で自分の脛骨まで損傷したことだ。扉は金銭と部品があれば交換できるが、君の身体は同じようには扱えない。次に似た状況へ遭遇した際、同じ結果へ到達しながら自分の損傷を減らす方法があるなら、そちらを選べるようになっておいた方がいい」

 

 獅織は固定された右脚へ視線を落とした。

 

「……分かった」

 

 珍しく素直な返事だった。

 

 詩乃は零奈から見積書を返してもらい、封筒へ戻しながら獅織の脛を一度見た。

 

「まあ、次に家のドア蹴破らなきゃいけない状況なんて来ないのが一番だけどね」

 

「それはアタシだってそう思うぞ……」

 

 獅織は少し気まずそうに固定具の上から自分の脛を撫で、それから小さく頷いた。

 

 詩乃が見積書を見せたのは、修繕費を払わせるためでも、壊したことを責めるためでもない。ただ事件以来そのままになっていた玄関がようやく元へ戻るという、今ではもう後始末の一つに過ぎない話をしただけだった。

 それでも、数字として並んだ修繕箇所の多さを見れば、あの夜に獅織がどれほど無茶をして部屋へ入ってきたのかはよく分かる。壊れた錠も枠も新しいものへ交換できる一方で、その代わりに獅織の脛へ残った傷だけは、部品のように取り替えることはできない──詩乃にとって気になっていたのは、最初からそちらの方だった。

 

 次に詩乃は書類を学校鞄へ戻すと、ようやく机の中央へ白い箱を置いた。

 

「で、こっちが今日の本題」

 

 箱を開けると、中には三人分に分けられた小さなショートケーキが入っていた。零奈はまだ食事内容へ多少の制限が残っているため、事前に病棟へ確認した上で食べられる大きさを選んできたらしい。その一方で、骨折以外には特に食事制限のない獅織の分だけは、明らかに他の二人より大きかった。

 

「獅織のはそれ」

 

 先ほどまで修繕費を見て沈んでいたことなど一瞬で忘れたように、獅織の顔が明るくなった。

 

「うまそう!」

 

 零奈はケーキではなく獅織へ目を向けた。

 

「14歳だな」

 

 確認するような口調だったため、獅織がすぐに不満そうな顔をする。

 

「何だよ、その言い方」

 

「12月24日を迎えた以上、年齢が増えたことは事実だろう」

 

「そうじゃなくて!お祝いならもっとあるだろ!」

 

 獅織が何を要求しているのか理解したらしく、零奈は僅かに目を細めた。

 

「14歳の誕生日おめでとう、獅織。13歳の一年間に君が経験したものは、必ずしも年齢相応の範囲に収まるものではなかったし、今後もそうなる保証はない。だが、その経験を理由に14歳である時間まで急いで通り過ぎる必要はない。少なくとも、自分がまだ知らないものを知る機会くらいは残しておくといい」

 

 獅織は予想していた単純な祝いより遥かに長い言葉を受け、しばらくぽかんと零奈を見ていた。

 

「……姉ちゃん、おめでとうだけでよかったぞ」

 

 詩乃が思わず笑った。

 

「自分からもっと言えって言ったんでしょ」

 

「こんなに来ると思わないだろ!」

 

 獅織が騒いでいる間、零奈はベッド脇の引き出しをゆっくりと開いた。腹部へ負担を掛けないよう身体を捻らず、中から小さな包みを取り出す。

 

「これは私からだ」

 

 獅織が目を丸くした。

 

「え、何だ!?開けていいのか!?」

 

「君への物を私が開けても意味がない。好きにすればいい」

 

 受け取った獅織は包装を破りそうな勢いで手を掛け、途中で詩乃にもう少し丁寧に開けるよう止められながら、中身を取り出した。

 

 入っていたのは、派手な装飾のないややゴツめの小さな腕時計だった。

 

「時計?」

 

「君は時間を確認する習慣が希薄だ。携帯端末を持っていても、見ること自体を忘れる場面が多い。一方で、腕へ常時装着する物なら視界へ入る頻度が増える。耐衝撃性と防水性も日常使用には十分で、君が多少乱暴に扱っても簡単には壊れないものを選んだ」

 

 詩乃は呆れたように笑った。

 

「プレゼントの理由まで零奈らしいわね」

 

「使われない物を渡すよりはいいだろう」

 

 獅織は時計を何度か裏返して眺めてから、自分の左手首へ当てた。

 

「……でも、これカッコいいな」

 

 零奈の目元がほんの僅かに緩んだ。

 

「気に入ったなら使えばいい」

 

「使う!」

 

 獅織が早速腕へ着けようとしたところで、詩乃はベッド脇の棚へ、零奈の物とは別に二つの小さな包みが置かれていることに気づいた。

 

 どちらにも特別目立つ送り主の記載はなく、一つは淡い銀色の包装紙へ白い細紐が掛けられ、もう一つは深い青色の箱へ簡素なリボンが巻かれているだけだった。病室へ届いた他の荷物と同じように置かれていたため、詩乃も最初からそれほど気に留めていたわけではなかった。

 

「それも獅織の?」

 

 詩乃が尋ねると、零奈は何でもないことのように頷いた。

 

「ああ。私と同じ所属の人間から届いたものだ。以前から獅織とも面識がある」

 

「同じ所属?」

 

「学部や研究分野が同じ人間、と考えれば分かりやすいだろう。厳密には少し違うが、君が理解する上で重要な差ではない。プライベートでもいくらか付き合いがある」

 

 獅織は銀色の包みから先に手を伸ばし、中に入っていた小さな折り畳み鏡を取り出した。

 掌へ収まる程度の大きさで、銀色の外装には雪の結晶を思わせる細かな模様が刻まれ、その間を薄い霜が伸びているような線が走っている。光を当てる角度によって模様だけが白く浮かび上がる作りになっており、内側を開けば余計な装飾のない鏡面が現れた。

 

「おお……!」

 

 獅織は鏡を開き、自分の顔を映してから何度か角度を変えた。

 

「雪みたいだ!」

 

 詩乃も横から覗き込み、外装の模様へ目を向けた。

 

「外国のお土産みたいな見た目ね。でも綺麗」

 

 獅織は満足そうに何度も開閉した後、今度は青い箱を取った。

 

 こちらへ入っていたのは、透明感のある琥珀色の石を水滴の形へ磨き、細い銀色の金具で囲んだ小さな飾りだった。光へ翳すと内部へ閉じ込められた細かな模様が淡い金色に揺れ、金属部分にはビル群のような建物を簡略化したような長方形の意匠が幾つも刻まれている。首飾りにするほど大きくはなく、鞄や鍵へ付けて使うことを想定しているらしい。

 

「こっちは水滴みたいだな!」

 

 獅織は窓から差し込む冬の日差しへ飾りを翳し、掌へ落ちる鮮やかな影を楽しそうに眺めた。

 

「獅織、随分可愛がられてるのね」

 

 詩乃が何気なく言うと、獅織は少し得意そうに胸を張った。

 

「アタシだからな!」

 

 零奈はそんな獅織を見ながら、僅かに首を傾けた。

 

「君の場合、本人が望んでいるかどうかに関係なく相手との距離を縮める傾向がある。結果として関係が続いているなら、それ自体は悪いことではないだろう」

 

「何だよその言い方、もっと普通に褒めろ!」

 

「今のは褒めたつもりだが」

 

「なんか絶対違う!」

 

 病室の中へ、また詩乃の笑い声が広がった。

 

 事件から10日しか経っていないことを思えば、こうして三人が病室で誕生日を祝い、贈り物の中身について騒いでいること自体が不思議なくらいだった。零奈はまだ腹部を縫合した傷を抱え、獅織は右脚を固定され、詩乃の身体にも襲われた際にできた痣が僅かに残っている。それでも今日は誰も血を流しておらず、聞こえてくるのも怒鳴り声や衝撃音ではなく、鏡をどこへ入れるか、飾りを何へ付けるかという他愛のない話だった。

 

 ケーキを食べ終え、詩乃が空になった箱を片づけようとした時、机の隅へ置かれている見慣れた機器に気づいた。

 

「……何でアミュスフィアがあるの?」

 

 零奈は特に隠していた様子もなく、そちらへ視線を向けた。

 

「使用許可が下りたからだ」

 

 詩乃はすぐに眉を寄せた。

 

「許可が下りたの?」

 

「主治医と病棟責任者だ。現在の私については循環動態が安定し、緊急の処置を必要とする可能性も低下している。一方でフルダイブ中は外部からの呼びかけへ通常通り応答できず、自覚症状の変化も即座には伝えられない。その問題を考慮して、一回60分以内、生体モニタリングを継続し、鎮静性の強い薬剤を使用した直後は避け、異常が確認された場合には即座に中止するという条件が設定された」

 

 詩乃は何とも言えない顔で零奈を見た後、ふと病室のテーブルへ置かれていたゲームパッケージに視線を移した。ALO──アルヴヘイム・オンラインと記されている。

 

「……まさか、もう買ったの?」

 

 詩乃の視線が何を指しているのか理解した零奈は、隠す必要もないと判断したらしい。

 

「数日前にな。正確には、君がALOの話をした翌日だ」

 

 獅織がすぐに身を乗り出した。

 

「だって詩乃、空飛べるって言っただろ!そんなの聞いたらやりたくなるだろ!」

 

 事件が一段落してから、詩乃はアスナたちに誘われる形でALOを始めていた。まだプレイを始めて一週間ほどしか経っておらず、本人も決して熟練者というわけではなかった。毎日GGOばかりだった獅織にとっては、剣と魔法の世界そのものよりも自由に空を飛べる、という一点が随分と魅力的に聞こえたらしい。病室でその話を聞いたその日のうちに獅織が欲しいと騒ぎ始め、翌日にはALOを購入していた。

 

 ただし、購入しただけだった。

 

「アタシ、ずっとやりたかったのに、姉ちゃんが駄目って言ったんだぞ!」

 

 不満そうに訴える獅織へ、零奈は落ち着いて視線を向けた。

 

「私が禁止したわけではない。入院中の患者が、主治医の確認も取らずにフルダイブ機器を使用することを認めなかっただけだ。購入やデータの導入までは止めていないし、使用可能と判断されれば起動して構わないとも言ったはずだ」

 

 詩乃は二人のやり取りを聞きながら、今度は零奈を見た。

 

「獅織が買ったのは分かったけど……零奈も?」

 

「ああ」

 

「何で?」

 

 問われた零奈は、しばらく考える必要もなく答えた。

 

「獅織だけを一人で未経験のVRMMOへ入れるより、同じ環境へ入れる者がいた方が状況を把握しやすい。加えて、ALOそのものには以前から多少興味があった。GGOとは世界設計の思想が大きく異なるし、随意飛行を含めて、現実に存在しない身体感覚をどう構成しているのかは一度確認しておく価値がある」

 

 詩乃は何とも言えない顔になった。

 

「なんか、ゲームを買った理由まで研究対象みたいなのね」

 

「ゲームとして楽しむことを否定しているわけではない。だが、それだけを理由にする必要もないだろう」

 

 零奈も数日前にALOを購入し、ソフトウェアの導入と接続確認までは済ませていたものの、実際にALOのワールドへ入ったことは一度もない。

 

 獅織も同じだった。二人にとって、今日が本当の初プレイになる。

 

「姉ちゃんだって結構乗り気だったぞ!」

 

「使用前の確認をしていただけだ」

 

「昨日ずっとALOの説明読んでただろ!」

 

「何も知らずに入る方が非効率だ」

 

 詩乃は二人を交互に見てから、もう止めても無駄だと悟ったように息を吐いた。

 

「じゃあ、私が家帰ってからにして」

 

 零奈が詩乃を見る。

 

「ふむ、時刻を合わせるということか?」

 

「そう。私はここじゃダイブできないんだから、一回帰る。今日の夜は新生アインクラッドのアップデートもあるし、アスナたちが第21層の攻略に行くって言ってたから、その前なら一時間くらい付き合える」

 

 獅織の顔が一瞬で明るくなった。

 

「ボス!?アタシも行く!」

 

 詩乃は間を置くことなく否定した。

 

「行かない」

 

「なんで!」

 

「今日初めてALOに入る人を、解放されたばかりのフロア攻略へ連れていくわけないでしょ。それにアスナたちとは前から約束してるの」

 

「アタシ、GGOなら強いぞ!」

 

「ALOの話してるの」

 

 詩乃は呆れながら言ったが、獅織はまだ納得していないらしく口を尖らせている。

 

 GGOでどれだけ身体操作に優れていても、ALOでは別のスキル体系と装備、魔法、そして飛行という独自の要素がある。そもそも獅織はキャラクターすらまだ作成しておらず、今日が初回ログインなのだから、攻略へ連れていく以前の問題だった。

 

 詩乃は今度は零奈へ視線を向けた。

 

「零奈も来ないでしょ?」

 

「ALOの世界そのものを見ることには興味があるが、攻略へ参加する理由はない。私はスキルを育てていないどころか、現時点ではキャラクターさえ存在しない。新規キャラクターで未確認のフロアボスへ挑むのは、戦力としても合理的ではないだろう」

 

「そこまで真面目に答えなくてもいいけど」

 

 詩乃は小さく笑った。

 二人にとってALOは、まず新しい世界を歩き、現実ではできない飛行を試す場所という意味合いの方が強かった。

 

「分かった。帰宅したら連絡してくれ。こちらはその時刻に合わせる」

 

 零奈が答えると、詩乃も頷いた。

 

十十十十十十十十十十

 

2025.12.24

東京都文京区湯島・朝田詩乃の部屋

 

 病院を出てから一時間ほど後、詩乃は自宅へ戻っていた。

 

 10日前の事件で破壊された玄関周辺にはまだ修繕途中の箇所が残っており、以前とは違う新しい部品が取り付けられている場所もある。部屋の中そのものは既に片付けられていたが、帰宅するたびにあの夜のことを完全に思い出さずに済むわけではなく、玄関扉を閉めて施錠を確認するという、それまで何気なく行っていた動作にさえ以前より少し時間を掛けるようになっていた。

 

 それでも、ここは自分の家だった。ずっと避け続けるつもりはない。

 

 詩乃は制服から部屋着へ着替え、簡単に夕食の準備を済ませてから時計を確認した。

 

 零奈と獅織へ約束した時間までは、あと数分ある。ベッドの上でアミュスフィアを用意し、携帯端末から二人へ短い連絡を送る。

 

『準備できた。予定通りでいい?』

 

 先に返事を寄越したのは獅織だった。

 

『いつでもいける!』

 

 その少し後、零奈からも返ってくる。

 

『こちらも問題ない。予定時刻に接続する』

 

 相変わらず妙に業務連絡じみた文面だった。

 

 詩乃は小さく笑ってからアミュスフィアを頭へ被り、二人より一足先にALOへログインした。

 

十十十十十十十十十十

 

2025.12.24

ALO内・ケットシー領首都フリーリア

 

 零奈と獅織にとっては、キャラクター作成から始まる初めてのALOだった。

 

 詩乃から事前に、同じ種族を選んでおけば初期位置も同じ領地になると聞かされていたため、二人とも迷うことなく《ケットシー》を選択した。

 

 九つ存在する妖精族の一つで、猫の耳と尾を持ち、優れた視力と敏捷性を特徴とする種族である。詩乃自身がケットシーを選んでいたことが最大の理由だったが、獅織にとっては「猫っぽくて速そう」というだけでも十分だったらしい。

 

 初期設定を終え、約束した時刻になって、三人はそれぞれ別々の現実から同じ仮想世界へ接続した。

 

 詩乃は湯島の自宅から、零奈と獅織はそれぞれ病院の自室からフルダイブしている。

 零奈の病室では、心拍数や血中酸素濃度を確認するためのモニターが通常通り接続され、看護師による確認を終えた後でアミュスフィアを装着していた。

 

 次に目を開いた時、頭上には病室の白い天井ではなく、暖色の屋根が幾重にも重なった城塞都市と、その向こうへ広がる青空があった。

 

 ケットシー領の首都《フリーリア》。

 

 石造りの街路の左右には木材と石を組み合わせた建物が建ち並び、尖った屋根の向こうには城壁や塔が見える。通りを歩いているプレイヤーは頭に猫耳を持ち、腰の辺りから伸びた尾を揺らしており、広場の上空では半透明の翅を展開した妖精たちが地上を行き交う人間とは別の流れを作るように飛び交っていた。

 

 GGOで見慣れていた、砂と金属と戦争の残骸ばかりが広がる景色とはまるで違う。

 

 零奈──エレーナは転移広場からすぐには動かず、まず自分の身体へ意識を向けた。

 

 肩まで伸びた白い髪の間から、同じく白い一対の猫耳が覗いている。振り返れば腰の後ろには白い尾まで伸びており、意識を向ければ耳も尾も、現実の腕や脚ほど明瞭ではないにせよ、自分の身体として感覚が返ってきた。

 

 それ以上にエレーナの注意を引いたのは、腹部だった。

 

 現実では身体を起こすだけでも傷を意識しなければならず、立ち上がれば姿勢によって鈍い痛みが生じる。それが今は完全に消え、深く息を吸っても、上半身を捻っても、傷の存在を感じることすらない。

 

 腹部へ手を当て、腰を左右へゆっくり回し、さらに数歩歩く。

 

「……興味深いな」

 

 すぐ横から、呆れた声が返ってきた。

 

「ログインして最初の感想がそれ?」

 

 振り向くと、先に到着していた詩乃──シノンがこちらを見ていた。

 

 GGOで見慣れたシノンのアバターとも現実の朝田詩乃とも違い、青みを帯びた髪の上にはケットシー特有の猫耳が立ち、腰からは同色の尾が伸びている。背には弓を携えており、プレイを始めてから一週間ほどしか経っていないとはいえ、少なくとも二人よりはこの世界へ馴染んでいるため、立ち方やメニュー操作にもほとんど戸惑いはない。

 

 エレーナはもう一度身体を捻ってみせた。

 

「現実ではこの角度まで体幹を回旋させれば創部周辺に痛みが出るが、こちらではまったく感じない。刺激そのものが現実側から消失したわけではない以上、アミュスフィアによって構成された仮想側の身体感覚が優先されていると考えるべきだろう。少なくとも現在の疼痛程度では、安全機構が現実側の感覚を割り込ませる必要がないと判断しているらしい」

 

 シノンは額へ手を当てた。

 

「初ログインして最初にすることが自分で人体実験することなの?」

 

「動作を確認しているだけだ。実際に何ができるのか分からないまま行動する方が危険だろう」

 

「はいはい」

 

 シノンが半ば諦めたところで、少し離れた転移地点へ光が集まり、その中からもう一人のケットシーが姿を現した。

 

 腰まで伸びた長い白髪。その髪の中には白い猫耳が立ち、腰の後ろでは同じ色の尾が大きく揺れている。

 九重獅織──リオは自分の姿を確認するより先に足元を見た。

 

「……動く」

 

 右脚を曲げる、伸ばす──もう一度曲げてから、今度は両脚で地面を踏む。現実では固定され、体重を掛けることさえ禁じられている右脚が、何の抵抗も痛みもなく動いた。

 次の瞬間、リオの顔が一気に明るくなった。

 

「うおおおおっ!動く!脚動くぞ!」

 

「ちょっと、ここ街中──」

 

 シノンが止めるより先に、リオは石畳の上を数歩走り出した。とはいえ、流石に人通りのある首都の真ん中で全力疾走させるわけにはいかず、シノンはすぐにその襟を掴んで止めた。

 

「走るなら外出てから」

 

「あぅ……でも全然痛くないぞ!」

 

「それは分かったから」

 

 シノンはリオの襟首から手を離す。エレーナはリオの歩き方を観察しながら、淡々と付け加えた。

 

「少なくとも現実の患肢へ荷重が掛かっているわけではない。仮想側で走ったことによって脛骨の骨折が悪化することはないだろう」

 

 シノンはすぐに零奈を見る。

 

「やめてよ。エレーナがそうやって擁護すると、あの子余計止まらなくなるから」

 

「擁護ではない。危険性を評価しただけだ」

 

 その言葉を聞いたリオは、もう街の外へ出る気満々らしく無意識なのか尻尾まで大きく左右へ振っていた。

 

「早く行こう!飛ぶんだろ!」

 

「まず歩いて街を出るわよ」

 

 三人はフリーリアの街を抜け、城門からケットシー領の平原へ出た。

 

 首都周辺には緩やかな起伏を描く草原が広がり、所々に森や小さな水辺が点在している。背後を振り返ればフリーリアの城壁と塔が見え、さらに高い空では他のケットシーたちが何の苦もなく翅を操り、地上の道など無視して自由な方向へ飛んでいた。

 

 リオは街の外へ出た途端、我慢していたものを一気に解放するように走り始めた。

 

「すげえ!全然痛くないぞ!」

 

 草原を一直線に駆け抜け、途中で何度も跳び上がってから方向を変え、また戻ってくる。

 シノンはその姿を見ながら、予想通りすぎて止める気力も失ったように肩を落とした。

 

「絶対こうなると思った」

 

 戻ってきたリオは、そのまま勢いよく地面を蹴った。

 

「姉ちゃん!見ろ!アタシ跳べるぞ!」

 

 大きく跳び上がったところで、背中──つまり翅に本人の意識が中途半端に入ったらしく、突然リオの背中に翅が生えたかと思うと、身体が予想とは違う方向へふわりと流れた。

 

「あれ?」

 

 そのまま前方へ傾き、草原へ顔から突っ込みそうになる。シノンはすぐに地面を蹴って飛び上がり、リオの襟元を掴むと、転倒する寸前で身体を引き起こした。

 

「もう、勝手に飛ぼうとしないで」

 

 降ろされたリオは少しだけ不満そうだった。

 

「あぅ……でも今、ちょっと浮いたぞ」

 

「落ちかけたの」

 

「同じようなもんだろ!」

 

「全然違う」

 

 シノンはリオをその場へ立たせると、自分の翅を出して広げた。

 

「ALOには補助コントローラーを使う飛び方もあるけど、せっかくだから最初から《随意飛行》覚えた方がいいと思う。慣れれば手も塞がらないし」

 

 リオは分かりやすく目を輝かせた。

 

「なんかカッコいい名前だな!どうやるんだ?」

 

「翅そのものを動かそうとすると分かりにくいの。肩甲骨の少し上くらいに、現実にはないもう一組の骨と筋肉があるって想像して。その筋肉を動かす感じ」

 

「無い筋肉を動かすのか?」

 

「そう。変だけど、一回感覚掴めば分かるから」

 

 詩乃は言葉だけでは分かりにくいと考えたのか、翅を小さく震わせてから身体をゆっくり地面から浮かせてみせた。

 

「こう」

 

 リオはシノンの背中と翅を交互に見た後、目を閉じて肩甲骨の辺りへ意識を集中させた。

 最初は尻尾だけがぴくりと動き、次に猫耳が小さく震えたため、シノンは思わず笑いそうになったものの、本人は至って真剣だった。

 やがて背中の翅が僅かに震え始める。

 

「お……?」

 

 身体が数センチ浮いた。

 

「浮いた!」

 

「あ、まだそこで止まって」

 

「もっと行けそうだぞ!!」

 

 獅織は最初こそ左右へ大きくふらついていたものの、何度か地面へ降りてやり直すうちに急速に感覚を掴み始めた。

 

 数分前まで安定して浮くことさえできなかった身体が、少しずつ真っ直ぐ上昇できるようになり、その後は前後へ移動し、一度空中で停止してから方向を変える。

 

「おお……出来た!」

 

 リオが嬉しそうに声を上げた。

 シノンはその吸収速度に少し驚いた。

 

「早いわね」

 

 リオは空中で得意そうに胸を張った。

 

「流石アタシだな!」

 

 シノンは少し考えた後、リプレイで見たBoBでリオがキリトの動きを見た直後に模倣していたことを思い出した。

 

「……まあ、そういうの得意だったわね」

 

 リオ本人は何のことを指しているのか分かっていないようだったが、気にせずもう一度高度を上げた。

 シノンは今度はエレーナへ向き直った。

 

「エレーナもやってみて」

 

「了解した」

 

 エレーナは詩乃の説明をそのまま再現するように、肩甲骨の上へ現実には存在しない新しい骨格と筋肉があると仮定し、そこへ意識を集中させた。猫耳や尾もそうだが、翅は普段の人体には特に存在しない器官である。だがフルダイブ環境そのものには十分慣れているため、何度か翅を小さく動かした後には、身体が地面からゆっくり浮き始めた。

 

「なるほど、現実の身体を実際に回旋させているわけではない以上、こちらで体幹を捻っても創部そのものには負荷が掛からない。安静時の疼痛も現在の鎮痛管理下では軽度だから、仮想側の身体感覚の中ではほとんど意識に上らないらしい。アミュスフィアは現実側の感覚を完全に遮断する装置ではない以上、傷そのものが消えているわけではないが……興味深いな」

 

「普通は空飛べたら、もうちょっと喜ぶと思う」

 

 エレーナは自分が地面から数メートル浮いている状態を確認した。

 

「……悪くない」

 

 それを聞いたシノンは少し笑った。

 

「零奈の『悪くない』って、多分普通の人の『すごい』くらいよね」

 

 エレーナは否定も肯定もしなかった。

 その横では、獅織が既に少し高い場所まで上がり始めている。

 

「シノーン!もっと上行こう!」

 

「まだ慣れたばっかりでしょ」

 

「もう大丈夫だって!」

 

 先ほどまで地面へ突っ込みかけていた人間の発言としては信用しにくかったものの、実際に飛行そのものはかなり安定し始めていた。

 シノンはしばらくその様子を見た後、近くの丘までなら問題ないと判断したらしい。

 

「じゃあ、ちょっとだけ遠くに行く?」

 

 リオがすぐに食いつく。

 

「どこ!?」

 

「この先に高い丘があるの。ここからそんなに遠くないし、景色も結構いいから」

 

 エレーナは周囲へ視線を向けた。

 

「敵性モンスターの類いは?」

 

「いるけど、この辺ならこっちから近づかなきゃ大丈夫。今日は別に戦わなくてもいいでしょ」

 

 リオは少し残念そうにした。

 

「むー……そういえばここ銃ないのか?」

 

「ファンタジー系なんだから普通の銃なんてないわよ」

 

「なら、やっぱ戦うならGGOの方がいいな……」

 

「さっきまでこっちの方がすごい、って騒いでたじゃない」

 

「飛ぶならこっち。戦うなら銃の方がいい」

 

 リオの中ではまったく別の評価らしい。エレーナは合理的な代替案を考えるように言った。

 

「遠距離攻撃なら君もシノンのように弓を使えばいいのではないか」

 

 リオはすぐに首を振った。

 

「弓は一発撃つたびに引かないと駄目だろ。銃なら引き金だけだぞ」

 

「現実の操作効率だけを比較するならその通りだが、ALOはレベル制ではなくスキル制だろう。使用する武器のスキル熟練、装備、攻撃位置、それにプレイヤー自身の操作精度によって実際の戦闘能力は変化する。発射機構が簡単という一点だけで弓が銃より劣ると──」

 

「そういう問題じゃない!」

 

 何が問題なのかエレーナには分からなかったが、シノンにはリオの銃器に対する拘りが多少理解できるらしく笑っていた。

 

 三人はそのまま空へ上がった。

 シノンが先頭を飛び、その少し後ろをリオが続き、最後にエレーナが周囲の景色を確かめながら飛んでいく。

 

 高度を上げるほど、地上の草原は急速に小さくなっていった。フリーリアの城壁と尖塔も徐々に一つのまとまりへ変わり、森の木々は一つ一つの枝葉を失って緑の絨毯のように繋がっていく。遠くに見えていた湖は空の色を反射して銀色に輝き、そのさらに向こうではケットシー領と中央部を隔てる山々が薄い霞へ溶け込んでいた。

 

 GGOにも広大なフィールドは存在する。

 しかし荒廃した地球を舞台にしたあちらでは、視界へ入るものの多くが砂漠や廃墟、錆びた機械や旧時代の戦争の残骸だった。ALOの世界はそれとはまるで正反対で、森も湖も空も、最初から人間が異世界へ憧れることを前提に構築されているように見える。

 

 エレーナはスキルを鍛えるでも、新しい装備を探すでもなく、ただ飛びながら周囲を眺めていた。

 

 再現された風が白い髪と猫耳を揺らし、身体を大きく動かしても腹部は痛まない。現実側では病院のベッドへ横たわり、腹部にはまだ治り切っていない傷があり、左頬には傷跡まで残っている。それなのに主観的には空を飛び、何の制約もなく身体を動かしている。

 

 前方を飛んでいたシノンが、少し速度を落としてエレーナの横へ並んだ。

 

「ねえ」

 

「何だ?」

 

「こういうのって、もっと病院で使わないの?」

 

 零奈が僅かに顔を向ける。

 

「こういうの、とは?」

 

「身体動かせない人とか。ずっとベッドから出られない人でも、こっちなら動けるんでしょ」

 

 エレーナは質問の意味を理解すると、前方を飛ぶリオに一度視線を向けた。

 

「既に、その用途を前提にした装置は存在する。開発コードネームは《メディキュボイド》。ナーヴギア系のフルダイブ技術を医療用へ転用して開発された装置だ」

 

「メディキュボイド?」

 

「アミュスフィアのように頭部へ被る形ではない。患者用ベッドと一体化した大型の箱型装置で、電磁パルス発生素子の密度もナーヴギアより数倍規模で、体性感覚をより完全に遮断することを目的としている」

 

 シノンの表情が少し変わった。

 

「それ、大丈夫なの?安全性とか……」

 

「使用条件だけを比較すれば、アミュスフィアとはほぼ逆だ」

 

 エレーナは一瞬だけ眼下の景色を眺めてからそう答えた。

 

「SAO事件の後、一般向けのフルダイブ機器には当然ながら安全性が最優先されるようになった。約一年前に登場したアミュスフィアも、出力と介入範囲を抑え、利用者へ危険を与えないことを前提に設計されている。一方でメディキュボイドは、医療施設の管理下で使用し、患者の状態を常時監視できることを前提としている。そのため出力を抑えるのではなく、必要ならば感覚情報をより強く遮断できる方向へ設計されている」

 

 シノンは少し考えながら、エレーナの説明を聞いていた。

 

「開発そのものは三年ほど前から進んでいて、既に臨床試験も行われている。時期を考えれば、SAO事件が発生してフルダイブ技術そのものへの批判が最も強かった頃と重なるな。それでも医療分野では、この技術を捨てる理由がなかったということだろう」

 

「ゲームじゃなくて、治療に使えるから?」

 

「正確には、治療そのものより治療を可能にする環境を作れるからだ」

 

 エレーナは言葉を訂正した。

 

「例えば、通常なら麻酔や鎮痛薬を必要とするほど強い痛みがあっても、感覚を十分に遮断できれば患者本人がそれを感じない状態を作ることができる。施術中の痛覚を遮断する用途も考えられるし、重度の視覚障害や聴覚障害、あるいは身体を動かせない患者に対して、VRやARを介して外界と意思疎通する経路を作ることもできる」

 

 詩乃は少し驚いたように聞き返した。

 

「ARも使えるの?」

 

「処理能力そのものは高いようだな。CPUを含めた基本性能だけを見れば、VRだけでなくARへ対応できる余裕がある。もちろんゲーム機として作られた装置ではないが、仮にゲーム用途の性能だけを比較するなら、ナーヴギアやアミュスフィアの上位互換に近い。もっとも、そのためにかなりの大きさと医療施設による管理を必要としている以上、一般家庭へ置くようなものではないが」

 

 エレーナは少し前を飛ぶリオに視線を向けた。現実では骨折した右脚へ体重を掛けることさえできない少女が、今は白い髪と尻尾を風へ流しながら、何の不自由もなく空を飛び回っている。

 

「長期間ベッドから出られない患者にとっては、単に身体を自由に動かせるだけでも意味がある。病室から出られなくても、仮想空間なら外部の人間と会話し、同じ景色を見て、歩いたり走ったりできる。感染症への曝露を避けなければならない患者なら、無菌管理された病室から出ずに他者と交流できること自体が利点になる」

 

 シノンはしばらく前を見たまま飛んでいた。

 

「……すごい機械なのね」

 

「有用ではある」

 

 エレーナはそう答えた後、少し間を置いた。

 

「ただし、そこを誤解すると危険だ。メディキュボイドそのものには病気を治す機能はない」

 

 シノンが顔を向ける。

 

「感覚を遮断して痛みを感じなくすることはできても、感染症を消すことはできない。仮想世界で身体を動かせても、現実側の筋萎縮や臓器障害が治るわけでもない。既に体内へ存在する細菌やウイルスの増殖を止めることもできないし、薬剤投与、手術、感染管理といった従来の医療が不要になるわけではない」

 

 エレーナの声は、そこまで来ると医療技術の説明をしている時のものへ完全に変わっていた。

 

「だから私は、あれが最も価値を持つのは、治療によって病態そのものを十分に改善できない患者だと思っている」

 

 シノンの目が僅かに細くなった。

 

「それってつまり……その、治らない患者さん?」

 

「ああ。例えば、終末期の患者だ。根治が望めず、現実側の身体機能が不可逆的に失われていく段階では、医療側に残される選択肢は次第に減る。病気を治せない以上、残された時間の苦痛を減らし、本人ができることを可能な限り維持する方へ目的を移す必要がある。その時、痛覚を遮断し、身体を自由に動かせる環境を与えられる機器は非常に有効だろう」

 

 あまりにも淡々とした言い方に、シノンは少しだけ眉を寄せた。

 

「……なんか、冷たい言い方ね」

 

「事実を言っているだけだ」

 

 エレーナはシノンの微妙な反応を否定せずに続けた。

 

「治らないものを治ると言う方が残酷だろう。治療可能性が残っているなら、当然そのために手を尽くすべきだ。だが、医学的に根治が困難で、残された時間そのものが限られているなら、患者をベッドへ縛りつけたまま『治療している』という形だけを維持することが常に正しいとは限らない」

 

 シノンは前を行くリオの姿を追いかけながら、黙って聞いていた。

 

「終末期医療は、治療を諦めることではない。何を治療対象とするかを変えることだ。病気そのものを消せないなら、痛み、孤独、身体的制約、残された時間の使い方へ介入する。本人が現実では立てなくても、仮想世界で歩ける。病室から出られなくても、家族や友人と同じ場所へ行ける。それで生命が延びるわけではないが、残された時間の内容は変えられる」

 

 エレーナは少しだけ視線を遠くへ向けた。

 

「そういう患者にとっては、数か月長く生きることと、その数か月をどう生きるかを分離して考えるべきではない。メディキュボイドは後者へ介入できる。私はそこに最も大きな価値があると思っている」

 

 エレーナは前を飛ぶリオを再度眺めた。

 現実では車椅子へ座り、右脚を動かすことさえ止められている少女が、今は何度も空を旋回している。

 

「じゃあ……寝たきりの人でも、こっちなら普通に暮らせるの?」

 

「何をもって普通と定義するかによる」

 

 いつもの返答が来たものの、零奈はそこで終わらせなかった。

 

「だが、現実側の身体的制約によって失われるはずだった経験の一部を補うことはできる。病室から出られない人間が海を見ることもできるし、脚を動かせない人間が走ることもできる。身体へ触れること自体が強い苦痛へ繋がる患者でも、仮想世界なら誰かと手を繋ぐことができる。身体機能が制限されたからといって、その人間が経験できるものまで同時に失わせる必要はない」

 

 シノンは少し前までの自分を思い出した。

 以前は、シノンという存在を現実の朝田詩乃とは違うものとして考えていた。

 

 拳銃を怖がる現実の自分を捨て、GGOで強くなれば何かが変わり、その強さを現実へ持ち帰ることができると思っていた。けれど、死銃へ向かって引き金を引いたのも、現実へ戻って恐怖の中で抵抗したのも、結局は同じ自分だった。

 

「……どっちも、自分がいる場所ってことか」

 

 シノンが小さく呟く。

 エレーナは少し考えるような間を置いた。

 

「少なくとも、どちらか一方だけを本人の人生として扱う理由はない。現実世界で起きたことが仮想世界の経験を無意味にするわけでもないし、その逆も同じだ。人間が経験として保持している以上、どちらも本人を構成する要素になる」

 

 シノンは僅かに笑った。

 

「エレーナがそういうこと言うと、何か変な感じ」

 

「何がだ?」

 

「別に、なんとなく」

 

 結局説明しないまま、シノンは少し速度を上げて前へ出た。案内された場所は、平原の先から少し高く突き出した丘だった。飛行できる世界では斜面や崖の存在そのものが大した障害にならないらしく、頂上には腰を下ろせる岩や低い木々が点在しているだけで、他のプレイヤーの姿は見当たらなかった。

 

 三人が空中でシノンから着陸の方法を教わって降り立った頃には、ALOの空も少しずつ夕方へ近づいていた。

 

 空の端には橙色が混じり始め、雲の下へ差し込んだ光が遠くの湖面を細長く照らしている。

 

 リオは地面へ降りるなり、現実ではできないことを取り戻すように何度か走り回った後、草の上へ大の字に寝転がった。

 

「うわー……脚痛くないっていいな」

 

 何気なく漏れた言葉に、シノンが少しだけ表情を変えた。

 

「現実に戻ったらちゃんと覚えておきなさいよ。こっちで動けるからって、病院でも動ける気にならないで」

 

 リオは寝転がったまま片手を上げた。

 

「分かってるって」

 

 シノンは念を押すように獅織を見る。

 

「本当に?」

 

「……た、多分!」

 

 返答を聞いた瞬間、シノンの目が細くなった。

 

「多分じゃ駄目」

 

 リオが笑いながら草の上を転がっている横で、エレーナも近くの岩へ腰を下ろした。

 

 こちらでは座る際に腹部を庇う必要すらない。少し遅れてシノンが隣へ座り、その動きを見て呟いた。

 

「なんか変な感じね。現実じゃ二人ともまともに動けないのに、こっちだと普通だから」

 

 エレーナは反射的に訂正しようとした。

 

「リオはともかく、私は既に──」

 

「細かい訂正いらないから」

 

 先回りして止められ、エレーナはそこで言葉を切った。しばらく三人とも何も話さず、遠くの景色を眺めた。

 

 数日前までなら、このように何も起きていない時間を過ごすことに、シノンはどこか落ち着かなさを感じていたかもしれない。壁の向こうで何か音がすれば耳を澄ませ、エレーナからの返信が少し遅れただけでも携帯電話を確認し、病室へ来れば顔色や身体の動きを無意識に見ていた。

 

 今もその感覚が完全になくなったわけではない。それでも目の前でエレーナが普通に座り、少し離れた場所でリオが草の上を転がっている光景を見ているうちに、10日前から身体のどこかへ残っていた力が、ほんの少しずつ抜けていくような気がした。

 

「ねえ、エレーナ」

 

 呼ばれ、エレーナがシノンを見る。

 

「何だ?」

 

「こっちにいる間って、本当に傷のこと分からないの?」

 

「現在の状態なら、ほとんど分からない。現実側で強い疼痛や循環・呼吸状態の変化が生じれば、アミュスフィア側の安全機構か外部モニタリングによって中断される可能性はあるが、現在の安静時の痛みはほとんど意識に上らない」

 

 シノンは少しだけ考えた。

 

「じゃあ今だけは、普通なんだ」

 

 エレーナはいつものように「普通」の定義から話し始めようとして、シノンの顔を見たところで止めた。

 

「……そうだな」

 

 予想していた訂正が返ってこなかったため、今度はシノンの方が少し驚いた顔をした。エレーナはその反応を気にせず、夕暮れの空へ視線を向ける。

 

 病院のベッドへ寝ている間、早く元通りに動きたいと思ったことはあっても、それを特別な苦痛として扱ったことはなかった。治療が必要なら治療し、回復に時間が必要なら待てばいい。それだけの問題だった。

 

 しかし、現実では身体を動かせないリオが嬉しそうに走り回り、シノンがそれを見て少し安心した顔をしているのを見ると、この60分が二人にとって持つ意味は、自分が考えていたより大きいのかもしれない。

 

 その時、シノンの視界の端へメッセージの受信を知らせる表示が浮かんだ。

 

 シノンはメニューを開き、差出人を確認する。内容を読み始めたところで、僅かに表情が柔らかくなった。リオは草の上から身体を起こし、すぐに興味を示した。

 

「んんー誰からだ?」

 

 覗き込もうとした顔を、シノンが片手で押し返す。

 

「ちょっと、近いって。アスナよ」

 

 リオは聞き覚えが薄いらしく首を傾げた。

 

「誰?」

 

「この前、GGOの件が終わった後に知り合った子。キリトの友達」

 

 エレーナにはその名前に覚えがあったらしく、少し考えてから確認した。

 

「アスナ……あの閃光のアスナか?SAO生還者の?」

 

「そう。SAOでは《閃光》って呼ばれてた子。今はALOやってる」

 

 シノンは届いたメッセージを確認しながら、画面へ短い返事を入力した。

 

「19時に新生アインクラッドの第21層が開くから、アスナたちとそこで合流することになってるの。そのままフロアボスまで攻略する予定」

 

 リオの猫耳がぴんと立った。

 

「だからアタシも──」

 

「駄目」

 

 今度は最後まで言わせてもらえなかった。

 リオは納得できないように身体を起こした。

 

「まだ何も言ってないだろ!」

 

「絶対ボス行きたいって言うつもりだったでしょ」

 

「……言おうとはした」

 

 シノンはリオの背中にまだ不安定さの残る翅をちらりと見た。

 

「今日キャラ作って、一時間前に初めて飛んだ人を解放直後のフロア攻略に連れていくわけないでしょ。戦闘スキルだって何も育ってないんだから」

 

「アタシ、動くのは上手いぞ!」

 

「ALOは動けるだけで全部どうにかなるゲームじゃないの」

 

 リオは悔しそうに口を尖らせた。

 エレーナはそんな二人の横で、詩乃の言った解放直後という部分へ少し興味を示した。

 

「事前情報の存在しない階層へ、公開と同時に進入するということか?」

 

「そう」

 

「敵性オブジェクトの配置、ダンジョン構造、ボスの攻撃手段もほとんど不明な状態になるはずだが」

 

「だから楽しいのよ」

 

 シノンは即答した。

 エレーナは数秒だけ黙った。

 

「なるほど。私にはあまり理解できない価値観だが……君がそれを楽しんでいること自体は理解した」

 

「それがいいの」

 

 三人の中で最もゲームをゲームとして楽しんでいるのは、やはりシノンだった。ALOへ入ってからまだ一週間ほどしか経っていない。それでも、新しいエリアが開けば真っ先に見に行きたくなり、未知のボスがいると聞けば、倒し方も分からない状態で挑むこと自体を楽しめる程度には既にこの世界へ馴染んでいる。

 

 対して、エレーナは世界そのものを見ることに興味を持ち、リオは自由に走り回ったり飛んだりすることを楽しんではいるものの、スキル熟練や装備構成へ自然に興味が向くところまでは行っていないようだった。

 

「そろそろ戻らないと」

 

 シノンが時刻を確認した。

 

「一回ログアウトして、夕飯と明日の支度済ませたいし。アスナたちとの集合にも遅れたくないから」

 

 リオはまだ名残惜しそうに草の上へ寝転がっている。

 

「ちぇー、もう終わりかー」

 

「最初から一時間って言ったでしょ」

 

「短い!」

 

「病院で許可されてるだけありがたいと思いなさい」

 

 リオが不満そうにしている横で、エレーナは岩から立ち上がった。

 

 現実なら腹部を庇い、身体を前へ傾け過ぎないよう注意しなければならない動作を、こちらでは何の痛みもなく終えることができる。

 シノンも自然とその隣へ立った。

 

「帰る前に一回だけ飛ぶ?」

 

 その言葉へ真っ先に反応したのはリオだった。

 

「飛ぶ!」

 

 返事と同時に崖の端まで走り出し、そのまま躊躇なく空へ飛び出した。

 

 今度は最初のように姿勢を崩すこともなく、白い髪と尾を風へなびかせ、背中の翅を広げながら夕焼けへ向かって飛んでいく。

 

 シノンは慌てて追うこともせず、その姿をしばらく眺めてからエレーナへ視線を向けた。

 

「じゃあ、行こっか」

 

「ああ」

 

 シノンは背中の翅を広げながら、念を押すように言った。

 

「無茶しないでよ」

 

 エレーナは少しだけ意外そうな顔をした。

 

「仮想世界でも言うのか?」

 

「二人には場所関係なく言うことにしたから」

 

 その返答を聞き、エレーナはほんの僅かに目を細めた。

 

「現在の私に対して必要以上の警戒を続けることが、君自身の負担になる可能性についてはいずれ考える必要がある。だが、それを今ここで無理に止めたところで、君が安心できるわけでもないだろう。なら、少なくとも私が不用意な行動を増やさないことで、君が確認しなければならない危険を減らす方が先か」

 

 シノンは少しだけ言葉の意味を考えた。

 エレーナはそこまで言ってから、夕焼けの向こうを飛ぶ獅織へ視線を移した。

 

「だから、今はそれでいい」

 

 それがエレーナなりの、心配を掛けたことへの返事なのだと分かるまで、シノンには少し時間が必要だった。

 やがて小さく息を吐き、シノンも前を向いた。

 

「……じゃあ、ちゃんと守ってね」

 

 シノンは先に地面を離れ、夕焼けへ向かって飛んでいく獅織を追って高度を上げた。

 少し遅れて、白い髪と尾を風へ流しながらエレーナも翅を広げる。

 

 病室の窓からでは決して見ることのできない高さまで上がると、遠くの山々も湖も、フリーリアの街並みも、その向こうへどこまでも続いている広大な世界も、沈み始めた夕日に照らされながら遥か彼方まで広がっていた。

 

 三人のケットシーは、そのまま高く空へ舞い上がっていった。

 




身体も心も、生まれた国さえ違っても
そこに友情があるならばそれが真実。
秤に掛けても量れない、代えられるものなんて無い。
たとえそれが鏡花水月の如く儚いものでも
手を取ればどこへだって飛んでいけるんだ。
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