北部高原の冷え切った大気が、針葉樹の深い緑を濡らしていた。フリーレン、フェルン、シュタルクの三人がハイネ村を発ってから数時間、魔物の気配すら疎らな鬱蒼とした原生林のただ中に、それは忽然と姿を現した。
苔に覆われ、木漏れ日を微かに弾く白銀の結晶――女神の魔法が込められた石碑。
かつて同じような女神の石碑に触れたことで意識を80年の過去へと飛ばされた経験を持つフリーレンは、その石碑を目にした瞬間、珍しくその足をぴたりと止めていた。薄い翡翠の瞳を細め、杖を握る指先に僅かな警戒を滲ませながら、彼女は平坦な声で忠告する。
「フェルン、シュタルク。石碑には安易に触らないで。……女神様の魔法は理の外にある。何が起きるか分からないよ」
だが、その忠告が二人の耳に届き切るよりも早く、事態は動いた。足場の悪いぬかるみに足を取られたシュタルクが体勢を崩し、それを支えようと咄嗟に伸ばしたフェルンの手が、重なるようにして石碑の冷たい表面に触れてしまったのだ。
直後、耳鳴りのような鋭い音とともに、衝撃波が森を薙ぎ払った。
視界が眩い白光によって激しく明滅する。大気の魔力が乱反射し、天地の境界すら曖昧になるほどの圧倒的な眩暈が二人を襲った。重力も、時間の感覚も、すべてが細切れの光片となって剥がれ落ちていくような浮遊感。
やがて光が急速に収束し、視界が戻ったとき――周囲は不気味なほどの静寂に包まれていた。
目の前にあったはずの女神の石碑は、何百、何千回もの風雨に晒されたかのように音もなくサラサラと崩れ落ち、ただの白っぽい土砂の山と化していた。
「……う……っ」
湿った腐葉土の上に尻餅をついたシュタルクが、荒い息を吐きながら額の冷や汗を拭う。彼の手には相変わらず巨大な斧が握られていたが、その指先は微かに震えていた。
「フェルン……無事か? おい、今の一体なんだったんだよ……急に目の前が真っ白になって……」
「……私は、無事です、シュタルク様」
フェルンは黒いローブの汚れを払うことも忘れ、木製の杖を胸元で握り締めながら立ち上がった。だが、その顔色からは急速に血の気が引いていた。紫色の瞳が、周囲の薄暗い木立を激しく彷徨う。
目の前には、呼吸を荒げるシュタルクがいる。
しかし、ほんの数歩後ろに立っていたはずの、白髪の小柄な師の姿がどこにも見当たらない。
「フリーレン様……?」
フェルンの震える呼び声が、森の奥へと吸い込まれていく。返答はなかった。
魔力探知を広げても、彼女特有の魔力の揺らぎが引っかからない。魔族を欺くため極限まで抑え込まれてはいるが、フェルンにはそれを見つけ出せる自信があった。しかし完全に、気配そのものが消失していた。
それだけではない。
風の運んでくる匂いが違っていた。森を覆う巨木たちの幹は、触れた直前よりも遥かに太くねじ曲がり、生い茂る苔の層は何層にも重なって地表を覆い尽くしている。大気中に漂う魔力の質すら、どこか異質で、酷く研ぎ澄まされたような冷たさを帯びていた。
まるで、世界そのものが途方もない時間の中を通り抜けてしまったかのような、重く静かな違和感が二人を包み込んでいた。
「どこか、違う場所に転移させられたのでしょうか……。シュタルク様、少し景色を確認しましょう」
鬱蒼とした巨木の切れ間を抜け、傾斜のある岩肌を登りきると、不意に視界が開けた。
湿った風が二人の髪を乱暴に撫でていく。フェルンとシュタルクは息を乱しながら、眼下に広がる広大な大地のうねりを見渡した。
「……フェルン、あれ」
シュタルクが指差した先、遠く霞む地平の果てには、冠雪した鋭利な三つの連峰がそびえ立っていた。北部高原特有の、天を突くような峻険な山並み。谷を走る尾根の角度も、空を切り取る岩肌の輪郭も、数刻前にフリーレンと共に眺めた景色と完全に一致している。
「……ええ。山の位置関係に変化はありません。私たちは、あの石碑のあった場所からほとんど移動していないはずです」
フェルンは杖を握り直し、足元の腐葉土をじっと見つめた。女神の魔法によって強制的に別の場所へ転送されたわけではない。自分たちの身体は、確かにさっきまでいたはずの座標の直上に立っている。
「だったら、急いで戻ろうぜ。さっき出たばかりのハイネ村なら、ここから半日も歩けば着く。そこで待っていれば、フリーレンも合流してくれるかもしれないだろ」
「……そうですね。フリーレン様のことですから、案外くだらない魔法素材でも見つけて、どこかで油を売っているだけかもしれません」
フェルンは努めて普段通りの平坦な声を装ったが、その指先はわずかに震え、黒いローブの裾を無意識に強く握り締めていた。二人は来た道を辿るべく、鬱蒼とした森を南へと引き返し始めた。
だが、歩みを進めるほどに、ぬぐい去れない違和感が濃密な霧のように立ち込めていく。
村へと続いていたはずの踏み固められた街道は影も形もなく、路傍に置かれていたはずの小さな石造りの祠も消えていた。代わりに地面を覆っているのは、幾重にも堆積した見たこともない品種のシダ植物と、巨木が倒れて風化した名残ばかりだ。
やがて辿り着いたハイネ村のあったはずの場所には――村などどこにも存在しなかった。
木造の民家も、鍛冶場から立ち上っていた煙も、家畜の鳴き声も、子供たちの笑い声もない。ただ、見渡す限りの見覚えのない野花が咲き乱れる平原が、静まり返った大気の下に広がっているだけだった。
「嘘だろ……? 道を間違えたのか? いや、地形は絶対にここだぞ……」
シュタルクが頭を抱え、呆然とその場に立ち尽くす。
その時、平原の向こう側に敷かれた真新しい石畳の舗装路から、微かな車輪の軋む音が響いてきた。
見れば、奇妙な形をした四輪の荷馬車を引かせ、初老の旅の商人がのんびりとこちらへ向かって街道を進んでくるところだった。彼の纏う外套の仕立てや、荷台に積まれた日用品の形状は、フェルンたちの記憶にある意匠とはまるで異なっていた。
「すみません……! 少しお伺いしてもよろしいでしょうか」
フェルンが小走りに駆け寄り、切迫した調子で声をかけた。商人は驚いたように手綱を引き、二人を上から下へと値踏みするように眺めた。
「おや、若い旅人かい。ずいぶんと古風な格好をしているね。道にでも迷ったのかい?」
「はい。この場所に、ハイネ村という集落があったはずなのですが……ご存知ありませんか」
フェルンの問いに、商人は目を丸くしたあと、どこか可笑しそうに口髭を撫でた。
「ハイネ村? ああ……郷土史の古文書か何かで読んだのかい? そんな村があったのは、もう何百年も大昔の話だよ。魔王が倒された直後あたりには確かにあったらしいがね、とっくの昔に廃村になって、土に還っちまったよ」
「……何百年?」
シュタルクが掠れた声を漏らし、商人に詰め寄った。
「おい、からかわないでくれよ! 俺たちは今朝、その村でパンを買って出発したばかりなんだぞ!?」
「な、なんだい急に……無作法な若者だね。からかってなどいないよ。大体、今は統一暦何年だと思っているんだ」
商人は眉をひそめ、至極当然の事実を口にするように告げた。
「かつて魔王を討ち倒したという伝説の勇者、ヒンメルの死から、とうに千年が過ぎているんだよ」
平原を渡る風の音が、不意に耳元から遠ざかった。
フェルンの紫色の瞳が、信じられないものを見るように見開かれる。喉の奥がカラカラに乾き、息を吸い込むことすら忘れていた。
「おい……、嘘だろ……? 千年って……」
シュタルクの足から力が抜け、巨大な斧を地面に突き刺したまま膝をついた。額から冷や汗が顎を伝って滴り落ちる。
フェルンは何も答えられず、ただ立ち尽くしていた。
一千年という時間の流れに、頭の理解が追いつかない。脳裏によぎるのは、どれほど時間が流れても変わることのない、あの白髪のエルフの横顔だった。
自分たち人間の寿命を遥かに超えた未来に、二人きりで放り出されたという冷徹な現実。そして、その一千年という途方もない歳月の中で、あの師は今どこで、何をしているのか――。
見知らぬ時代の冷たい風が、二人の足元を音もなく吹き抜けていった。
訝しむように歩を再開し始めた商人の荷馬車を見送った後、シュタルクは膝をついたまま、震える手で自らの前髪をぐしゃりと掻きむしった。額の傷痕が、冷や汗に濡れて鈍く光る。
「……千年? 千年ってなんだよ……そんなの……師匠も、リーゲル峡谷の村の皆も……俺たちの知ってる奴ら、みんな……」
声が掠れ、途切れる。
人間にとっての一千年とは、幾度もの世代が生まれ、老い、土に還る時間だ。故郷の景色も、慣れ親しんだ人々の営みも、そのすべてが歴史の頁の片隅に埋もれ、風化して消え去ってしまうほどの絶望的な断絶。
「落ち着いてください、シュタルク様」
フェルンは静かに告げた。その声は普段と変わらず淡々としているように聞こえたが、木製の杖を握る白い指先は、血の気が引くほど強く強張っていた。
「……落ち着いていられるわけねえだろ! 俺たち、とんでもないところに飛ばされたんだぞ!? フリーレンもいねえし、元の時代に帰れるかどうかも……っ」
「取り乱しても事態は好転しません」
フェルンは息を吸い込み、紫色の瞳を細めて周囲の風景――かつてハイネ村があったはずの、見知らぬ野花が揺れる草原を見つめた。
「状況を整理しましょう。あの時、女神様の石碑に触れたのは私とシュタルク様の二人だけでした。フリーレン様は触れていません。つまり、この時代に飛ばされたのは私たち二人だけです」
「……じゃあ、フリーレンはあっちの時代に残されたのか?」
「おそらくは――」
フェルンは言葉を一度切り、遠く南の空を仰ぎ見た。
「――この千年間を、フリーレン様はどこかでずっと歩み続けてこられたはずです。エルフの寿命は、人間とは比べ物にならないほど永いのですから」
その言葉に、シュタルクは息を呑んだ。
エルフにとっての一千年。それは気が遠くなるほどの歳月ではあるが、彼女らにとっては確かに「生きられる時間」なのだ。
しかし、今この瞬間にフリーレンが大陸のどこにいるのか、そもそも本当に生きているのかどうかすら、手がかりは一つもない。彼女は気まぐれに数百年単位で一つの森に引き籠もることもあれば、気ままに旅を続けることもある。当てもなく探し回るのは、砂漠に落とした一粒の豆を探すようなものだった。
「……じゃあ、どうするんだよ。フリーレンを探すっていっても、あいつがどこにいるかなんて皆目見当もつかないぞ」
「フリーレン様を探すのは後回しです。私たちはまず、元の時代へ戻る方法を探す必要があります。そして、この千年という歳月を経てもなお、居場所が変わらず、確実に生きているであろう心当たりがもう一人だけいます」
フェルンの瞳に、理知的な光が宿る。
「……ゼーリエ様です」
「ゼーリエ……。フェルンたちが一級試験で世話になったっていう大陸魔法協会の偉いエルフか」
「はい。神話の時代から生きる大魔法使いであり、人類の魔法の頂点に立つあの方なら、千年が経とうと生き続けているはずです。それに、あの方の拠点である北側諸国のオイサースト――大陸魔法協会北部支部なら、ここから南下すれば辿り着けます」
オイサースト。かつてフェルンが一級魔法使い試験を受け、ゼーリエと対面したあの城塞都市。
女神の魔法は人知を超えた「理の外」にある。だが、人類のほぼすべての魔法を網羅し、神話の時代を生き抜いてきたゼーリエの知識と権能をもってすれば、時間の跳躍という異常事態を解明し、元の時代へ戻る術を見出せるかもしれない。
「オイサーストへ向かいましょう。どれほど時代が変わろうと、あの方ならきっとあそこにいるはずです」
「……そうだな。ここで立ち止まって頭抱えてても、何も始まらねえもんな」
シュタルクは地面に突き刺さっていた大斧を引き抜き、肩に担ぎ直した。その表情にはまだ拭いきれない恐怖と不安が張り付いていたが、それでも戦士としての気概を呼び戻すように、自らの頬を両手で強く叩いた。
二人は踵を返し、南へと続く真新しい石畳の街道へと歩みを進めた。
見上げる空は、一千年前と変わらず高く青く澄み渡っている。だが、街道を吹き抜ける風が運んでくる魔力の匂いは、かつて知る世界のものとは決定的に異なっていた。大気中に漂う魔力はあまりにも洗練され、研ぎ澄まされ、どこか人工的な冷たさを孕んでいる。
かつて歩んだ道のりの名残を僅かに残す、未知の一千年後の大地。
二人は互いの足音を確かめ合うようにしながら、オイサーストを目指して南へと歩き出した。