南へと続く街道の周囲には、かつて見たこともない異様な光景が広がっていた。
原生林を覆う木々は青白く発光する微細な胞子を霧のように撒き散らし、道端の茂みからは、甲殻を結晶のように硬化させた見慣れぬ小型の魔獣が二人の足音に反応して蠢いていた。一千年という歳月は、生態系そのものを塗り替えるには十分すぎる時間だった。
「うわっ……! な、なんだあれ!? フェルン、あのトカゲ、背中から変な色の結晶生えてるぞ! 絶対ヤバい毒とか持ってるって!」
シュタルクが大斧を両手で構え、腰を落としながら情けない悲鳴を上げた。足元の影に潜む奇妙な生物から、必死に距離を取ろうと後ずさりする。
「……静かにしてください、シュタルク様。刺激しなければ襲ってくる気配はありません。ただの小動物にいちいち怯えないでください」
フェルンは木製の杖を抱え、冷ややかな視線をシュタルクへ向けながら淡々と歩みを進めた。むう、と小さく頬を膨らませるものの、その紫色の瞳は周囲の木立を油断なく観察している。大気中に漂う魔力はあまりにも濃密で、そして見知らぬ法則によって洗練されていた。
数日間の強行軍の末、かつて一級魔法使い試験の舞台となった城塞都市――オイサーストが視界に飛び込んできた。
外壁はかつてよりも遥かに高く堅牢に聳え立ち、白銀の輝きを放つ未知の防護結界が幾重にも空を覆っている。街並みは大幅に拡張され、魔力光を灯す近代的な尖塔が林立していたが、その基部の石組みや街の骨格には、確かに千年前のオイサーストの面影が色濃く残されていた。
街へ踏み入ると、人々はみな洗練された意匠の衣服を纏い、手元には見たこともない形状の魔導具を携えている。二人の古風な旅装束は明らかな異彩を放っていたが、せわしなく行き交う人々の関心は別のものに向けられているようだった。
中央広場へと続く大通りに足を踏み入れた瞬間、シュタルクが息を呑んで立ち止まった。
「……おい、フェルン。あれ……見ろよ」
広場の中央、噴水の前に巨大な白い石像が天を突くようにそびえ立っていた。そこに刻まれていたのは、あまりにも見覚えがあり、そして決定的に異なる二人の姿だった。
一人は、豊かな長髪を優雅に束ね、気品と威厳に満ちた眼差しで前方を指し示す大人の女性――『大魔法使いフェルン』。
もう一人は、体格が一回りも二回りも逞しくなり、無数の歴戦の傷を誇らしげに刻みながら大斧を背負う、堂々たる体躯の壮年戦士――『偉大なる戦士シュタルク』。
そこにあるのは、現世の自分たちよりも数十年後の、過酷な旅路を乗り越えて円熟の極みに達した二人の英雄の姿だった。台座には、かつて北部高原を脅かした魔族の軍勢を打ち倒し、人々に平穏をもたらした二人の偉業が古風な文字で刻まれている。
だが――その隣のどこを見渡しても、あの小柄な白髪のエルフの姿はなかった。
「……これ、俺たちなのか……? すげえ強そうだけど……なんでだよ。なんでフリーレンがいないんだ……?」
シュタルクは背負った斧を握りしめ、呆然と石像を見上げた。額の傷痕を撫でる指先が微かに震えている。
「魔王を討伐した勇者ヒンメル様の隣には、いつだってフリーレン様がいたはずです。なのに、どうして……」
フェルンは杖を胸元で抱きしめ、石像の足元に刻まれた銘文をじっと見つめた。
自分たちが歴史に名を残すほどの魔法使いと戦士になり、そして寿命の尽きるその時まで生き抜いたのだという厳然たる証拠。しかし、何百年も変わらず生き続けるはずの師の存在だけが、この歴史のモニュメントから不自然なほど綺麗に抜け落ちていた。
まるで、最初から存在しなかったかのように、あるいは――自ら歴史の表舞台から身を隠したかのように。
石像の立つ中央広場を後にしたフェルンとシュタルクは、かつて大陸魔法協会北部支部が置かれていた区画へと足を向けた。
だが、記憶の中にある厳めしい石造りの要塞のような佇まいは、そこにはなかった。
白銀の滑らかな鉱石で組み上げられた幾何学的な高層建築が天を衝き、その周囲には微細な魔力光を放つ帯が幾重にも螺旋を描いて漂っている。かつての守衛が立っていた重厚な鉄扉の代わりに、青白い光の幕が揺らめく開口部が、音もなく人々を迎え入れていた。
「……おいフェルン、ここ本当にあの魔法協会なのか? なんか……全体的にピカピカしてて、別の施設みたいだぞ」
シュタルクが背中の大斧の位置を直しながら、周囲の白銀の壁を恐る恐る指先で突いた。金属のようでありながら石のように冷たく、かすかに脈打つような魔力の振動が伝わってくる。
「外観は変わっていても、座標と敷地の規模は合致しています。何百年もの間に建て替えられたのでしょう」
フェルンは杖を握り直し、躊躇うことなく光の幕をくぐった。
広大なエントランスホールには、幾重にも張り巡らされた半透明の術式盤が空中に浮かび、奇妙な意匠のローブを纏ったこの時代の魔法使いたちが、手元の小型魔導具を操作しながら行き交っていた。かつてのような羊皮紙の束や分厚い魔導書を抱えた魔法使いの姿はどこにもない。
フェルンは中央に設けられた受付のカウンターへと歩み寄った。そこには、魔力で編まれた繊細な眼鏡をかけた若い女性職員が、淡々と空中の方陣に指を滑らせていた。
「失礼いたします」
「はい、どのようなご用件でしょうか。術式ライセンスの更新でしたら、端末に魔力波長を同調させてください」
職員は手元から視線を上げずに流れるように応じた。その手慣れた、どこか機械的な応対に、フェルンは懐から一つの金属片を取り出した。
鳥を象った意匠に、精緻な魔導術式が刻まれた銀色のメダル、一級魔法使いの証。
「ゼーリエ様にお取次ぎをお願いしたく存じます。私は、一級魔法使いのフェルンと申します」
静かな、しかし凛とした声がホールに響いた。
その言葉に、職員の手がようやく止まった。怪訝そうに顔を上げた彼女の視線が、フェルンの差し出した銀のメダルへと落とされる。
「……一級、魔法使い……?」
職員は眉をひそめ、人差し指で眼鏡のブリッジを押し上げた。そして、まるで古代の遺跡から発掘された錆びた貨幣でも見るような目で、そのメダルをじっと見つめた。
「お客様、失礼ですが……それは何かの古い記念章でしょうか? あるいは、郷土の骨董品か何かですか?」
「……骨董品、ですか?」
フェルンは微かに眉を寄せ、わずかに頬を膨らませた。
「これは大陸魔法協会が発行した、正真正銘の一級魔法使いの証です」
「あの……お客様。大変申し上げにくいのですが」
職員は困惑を隠せない様子で、空中に浮かぶ術式盤を軽く弾いた。淡い青光が広がり、複雑な幾何学模様が展開される。
「『一級』や『二級』といった階級による魔法使いの管理区分は、およそ七百年ほど前の制度改革によって完全に廃止されております。現在の人類の魔法管理体系は、個人の魔力波長と固有術式の特性値に基づいた『適性識別コード』によって一括登録・管理されておりまして……そのような物理的なメダルによる等級制度は、現在の法体系では一切の効力を持ちません」
「な……っ!?」
横で聞いていたシュタルクが目を丸くし、思わず身を乗り出した。
「効力がないって……それ、めちゃくちゃ取るの難しかったやつなんだぞ!? 命がけの試験受けて手に入れたのに、ただのゴミ扱いかよ!?」
「ゴミとは申しておりません。歴史的価値のある遺物としては評価されるかもしれませんが……現在の当機構における身分証明としては受理いたしかねます」
職員の事務的で冷淡な返答に、フェルンは手元のメダルを見つめたまま、言葉を失って立ち尽くした。
――ふと、記憶の片隅から、あの小柄な師の平坦な声が蘇る。
いつかの旅の道中、焚き火の爆ぜる音を聞きながら、フリーレンは膝を抱えて退屈そうに言っていた。
『魔法を管理する組織なんて、あっという間に変わっちゃうよ。この聖杖の証も、もうなんの役にも立たないみたいだし。……人間は寿命が短いからね。数十年、数百年も経てば理念も変わるし、ルールも組織の形もすぐ別のものになっちゃう』
『……ですがフリーレン様、大陸魔法協会はゼーリエ様が作られた組織です。創始者がエルフである以上、そう簡単に形骸化するものではないのでは?』
当時のフェルンの問いに、フリーレンはどこか呆れたようにアホ毛を揺らし、薄い翡翠の瞳を細めていた。
『ゼーリエは組織そのものには執着しないよ。あいつが求めているのはいつだって“その時代の優秀な魔法使い”だけだからね。人間が自分たちの都合で看板を掛け替えても、害が無いならそのまま放っておくだけだよ』
あの時の言葉が、冷徹な事実となってフェルンの胸を打った。
人間にとっての一千年は、国家を幾度も滅亡させ、言語や制度を塗り替えるには余りある時間だ。かつて命を削って手に入れた一級魔法使いの栄誉すら、今や歴史の教科書にすら載っていない化石のようなものに過ぎない。
フェルンはメダルを握り締め、静かに息を吐き出した。
「……分かりました。制度の件は承知いたしました。では、創始者である大魔法使いゼーリエ様は、今どちらにいらっしゃいますか」
その問いを発した瞬間、職員の表情から困惑が消え、代わりに底知れない警戒の色が浮かび上がった。
受付の女性職員が冷淡に眉をひそめ、空中に展開された術式盤の光をさらに強めた。その瞳には、怪しげな不審者を排除するための警戒が露骨に浮かんでいる。
「……お客様。創始者様の名を軽々しく口にされるのはお控えください。現行の身分登録をお持ちでない以上、これ以上の立ち入りは警備術式の対象となります。速やかに退館を――」
「おいおい、待ってくれよ! 俺たちは怪しい奴らじゃなくてさ、本当にゼーリエに用があって――」
シュタルクが慌てて両手を振って弁明しようとしたその時、背後から硬質な金属が床を打つ、規則正しい足音が響いた。
カツン、カツン、と大理石の床に反響するその音は、騒がしいロビーのざわめきを切り裂くように静かでありながら、重く研ぎ澄まされていた。
「騒がしいな。何事だ」
低くかすれた、しかし芯の通った老人の声だった。
現れたのは、幾何学的な刺繍が施された濃紺のローブを纏い、先端に結晶を嵌め込んだ黒鉄の杖を携えた老魔導士だった。白銀の髭を長く蓄え、その深く刻まれた皺の奥にある双眸は、大気中の魔力の流れを完全に掌握しているかのように鋭く光っている。
「こ、コーネル導師……! 申し訳ありません。こちらの者たちが、七百年以上前の無効化された身分標識を掲げ、創始者様への謁見を要求しておりまして……」
受付職員が慌てて頭を下げる。
コーネルと呼ばれた老魔導士は、職員の言葉にわずかに片眉を上げると、視線をゆっくりとフェルンたちへと巡らせた。
その視線がフェルンの手元にある銀色のメダル――鳥を象った『一級魔法使いの証』に留まった瞬間、老人の細い瞳が微かに見開かれた。
「……ほう。見せてみなさい」
コーネルが手を差し出す。フェルンは疑念を抱きながらも、その老魔法使いが纏う魔力の圧倒的な洗練度を感じ取り、無言でメダルを手渡した。
老魔導士は節くれだった指先でメダルの縁をなぞり、そこへ微かな魔力を通した。メダルの内部に眠っていた千年前の封印術式が、淡い銀の燐光を放って共鳴する。模造品では決してあり得ない、大陸魔法協会の創始者ゼーリエが直接施した、偽造防止の刻印そのものだった。
「……精緻な術式だ。博物館に収められている国宝級の原典と寸分違わぬ魔力組成……いや、それだけではないな」
コーネルはメダルから顔を上げ、フェルンの顔をじっと見据えた。
その視線は、フェルンの紫色の瞳、黒いローブの着こなし、そして彼女が極限まで自然に、空気のように抑え込んでいる魔力の揺らぎを、一切の妥協なく検分していた。
さらには、彼女の隣で巨大な斧を背負い、緊張で全身の筋肉を強張らせている赤髪の青年――シュタルクの額の傷痕、その独特の重心の置き方へと視線が移る。
老人の息が、わずかに止まった。
「……まさか、な。中央広場に立つ石像。あの二人の英雄の若かりし頃の肖像画が、古文書に残されていたが……」
コーネルの呟きに、シュタルクが息を呑む。
老魔導士は杖を握り直し、フェルンの魔力の波長をもう一度深く探るように目を細めた。現代の魔法使いのように洗練された多重構造ではなく、あまりにも純粋で、恐ろしいほどに研ぎ澄まされた「魔力の速射」に特化した原初の軌跡。
一千年の時を隔てた歴史の教科書から、生きた伝説がそのまま抜け出してきたかのような錯覚に、老魔導士の背筋を冷たい戦慄が駆け抜けた。
「……何が起きたのかは問うまい。ただ、この魔法使いの証と、君たちが放つ尋常ならざる気配は本物に違いない」
コーネルは銀のメダルをフェルンに返却すると、受付の術式盤へ目を向けて自身の杖の石突をトンと打ち鳴らした。
空中に浮かぶ半透明の方陣が青から金へと一瞬で変色し、最高等級の通行許可を示す幾何学紋様が展開される。
「ど、導師……!? しかし、規定の手続きが……」
「控えよ。規定などというものは、神話の生き証人の前ではただの文字にすぎん。有事の責任なら私が取る」
コーネルは職員を一喝して沈黙させると、再びフェルンとシュタルクに向き直り、厳かに言った。
「最上階、『天蓋の謁見の間』への通行を許可する。君たちが求めるものが何であれ……あのお方ならば、すべてを看破されるはずだ」
老魔導士の合図とともに、ロビーの奥にある巨大な白銀の扉が、重々しい魔力光を放ちながらゆっくりと左右に開き始めた。